萩旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ツアー2日目は、松陰神社参拝からスタートしました。その後、明倫館跡、萩城下町を散策し、青海島、瑠璃光寺を巡りました。本編は、松陰神社にフォーカスしてレポいたします。萩で3箇所を回れるのは、3日間コースの特権ではないかと思います。しかし、それでも回りきれないのが萩の魅力でもありますが…。因みに、以前参加した2日間コースは城下町散策だけでした。<br />郷土が生んだ名士と言えば、武士であり教育者でもあった吉田松陰が筆頭に挙げられます。松陰は、1830(天保元)年に萩藩士の家に生まれ、幼少時から「神童」と呼ばれるほど勉学に通じて才気溢れ、叔父 玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」で学びました。九州遊学の後、江戸で思想家 佐久間象山に師事しました。2人は兵学や西洋の学問に関心が高く、松陰は来航したペリー艦隊に密航を企て、象山もこれに関与したと言われています。松陰はこの一件で萩へ送還され幽閉されますが、出獄後、松下村塾を引き継ぎ、ここで高杉晋作や伊藤博文といった後に幕末維新に活躍する英傑を多く輩出しました。<br />30歳の時、老中 間部詮勝の暗殺を企てた罪により、江戸で刑場の露と消えました。幕府に反旗を翻す過激な思想家と言われ、時にテロリストとも蔑まれた短い生涯でしたが、熱く徹底的に考えて学び、それを行動に移すというその生き様は、今でも多くの人々に影響を与えています。<br />松陰の思想は弟子たちに連綿と受け継がれ、多くの志士を生み、やがて坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結させ、後に幕府を倒す原動力になりました。門下生たちは明治新政府で要職に付き、師であった松陰を祀るために建立したのが「松陰神社」でした。 松下村塾のあった思い出の場所が、そのまま神社になっています。松陰神社エリアは、多くの志士を輩出した幕末にあって特別な位置を占め、ひときわ光彩を放っています。<br /><br />碑像マップを参照すると効率よく回れます。<br />http://hizou.30maps.com/map/102792<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記④松陰神社

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2016/03/03 - 2016/03/05

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

ツアー2日目は、松陰神社参拝からスタートしました。その後、明倫館跡、萩城下町を散策し、青海島、瑠璃光寺を巡りました。本編は、松陰神社にフォーカスしてレポいたします。萩で3箇所を回れるのは、3日間コースの特権ではないかと思います。しかし、それでも回りきれないのが萩の魅力でもありますが…。因みに、以前参加した2日間コースは城下町散策だけでした。
郷土が生んだ名士と言えば、武士であり教育者でもあった吉田松陰が筆頭に挙げられます。松陰は、1830(天保元)年に萩藩士の家に生まれ、幼少時から「神童」と呼ばれるほど勉学に通じて才気溢れ、叔父 玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」で学びました。九州遊学の後、江戸で思想家 佐久間象山に師事しました。2人は兵学や西洋の学問に関心が高く、松陰は来航したペリー艦隊に密航を企て、象山もこれに関与したと言われています。松陰はこの一件で萩へ送還され幽閉されますが、出獄後、松下村塾を引き継ぎ、ここで高杉晋作や伊藤博文といった後に幕末維新に活躍する英傑を多く輩出しました。
30歳の時、老中 間部詮勝の暗殺を企てた罪により、江戸で刑場の露と消えました。幕府に反旗を翻す過激な思想家と言われ、時にテロリストとも蔑まれた短い生涯でしたが、熱く徹底的に考えて学び、それを行動に移すというその生き様は、今でも多くの人々に影響を与えています。
松陰の思想は弟子たちに連綿と受け継がれ、多くの志士を生み、やがて坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結させ、後に幕府を倒す原動力になりました。門下生たちは明治新政府で要職に付き、師であった松陰を祀るために建立したのが「松陰神社」でした。 松下村塾のあった思い出の場所が、そのまま神社になっています。松陰神社エリアは、多くの志士を輩出した幕末にあって特別な位置を占め、ひときわ光彩を放っています。

碑像マップを参照すると効率よく回れます。
http://hizou.30maps.com/map/102792
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  • 松陰神社<br />かつては海岸沿いの城の裾野に武家屋敷が広がり、そこが街の中心でしたが、松下村塾はそこから東にある松本川を渡った少し外れた松本村と呼ばれた地区に佇んでいます。ホテルからバスで5分程で松陰神社駐車場に到着です。<br />幕末志士を祀る神社はいくつもありますが、松陰神社もこうした神社のひとつです。1890年にご祭神として吉田矩方命(のりかたのみこと=松陰)を祀って創建されました。神社のあるこの地は、松陰が吉田家に養子に入る前の実家 杉家のあった場所だけでなく、叔父 玉木文之進が開いた松下村塾があった地でもあります。

    松陰神社
    かつては海岸沿いの城の裾野に武家屋敷が広がり、そこが街の中心でしたが、松下村塾はそこから東にある松本川を渡った少し外れた松本村と呼ばれた地区に佇んでいます。ホテルからバスで5分程で松陰神社駐車場に到着です。
    幕末志士を祀る神社はいくつもありますが、松陰神社もこうした神社のひとつです。1890年にご祭神として吉田矩方命(のりかたのみこと=松陰)を祀って創建されました。神社のあるこの地は、松陰が吉田家に養子に入る前の実家 杉家のあった場所だけでなく、叔父 玉木文之進が開いた松下村塾があった地でもあります。

  • 松浦松洞誕生地の碑<br />松陰神社入口の手前にある駐車場の右端にひっそりと佇むのが松浦松洞誕生地の碑です。<br />魚商人の子に生まれ、後に才覚を認められて長州藩寄組 根来主馬の家臣として仕えました。松浦亀太郎は幼い頃から絵が得意で京都で学び、その後、松下村塾に学びました。往時の画家は漢詩に造詣が深いことが求められたため漢詩を学びたくて松下村塾に入りますが、やがて志士たちに感化されて尊王攘夷運動に加わりました。松陰が江戸に送られる直前に肖像画を描き、その肖像画が松陰神社に保存されています。<br />亀太郎はかつての松陰同様、密航を企てて失敗したという武勇伝の持ち主でもあり、蟄居中の松陰に京の様子を伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松陰はかわいがり、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と高く評価しています。<br />久坂玄瑞らと上洛し、開国派の長州藩士 長井雅楽暗殺を画策したところ、「この計画は無謀だ」と説得されて断念し、自刃して果てました。切腹の目的は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に嵌って尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議の意味で死を以って諌めたと言うのが定説です。<br />因みに、松下村塾の塾生の中では、一番最初に死んでしまった人物です。享年26歳。

    松浦松洞誕生地の碑
    松陰神社入口の手前にある駐車場の右端にひっそりと佇むのが松浦松洞誕生地の碑です。
    魚商人の子に生まれ、後に才覚を認められて長州藩寄組 根来主馬の家臣として仕えました。松浦亀太郎は幼い頃から絵が得意で京都で学び、その後、松下村塾に学びました。往時の画家は漢詩に造詣が深いことが求められたため漢詩を学びたくて松下村塾に入りますが、やがて志士たちに感化されて尊王攘夷運動に加わりました。松陰が江戸に送られる直前に肖像画を描き、その肖像画が松陰神社に保存されています。
    亀太郎はかつての松陰同様、密航を企てて失敗したという武勇伝の持ち主でもあり、蟄居中の松陰に京の様子を伝える情報源でもありました。そんな亀太郎を松陰はかわいがり、「松洞」という号を与え、「才あり、気あり、一奇男子なり」と高く評価しています。
    久坂玄瑞らと上洛し、開国派の長州藩士 長井雅楽暗殺を画策したところ、「この計画は無謀だ」と説得されて断念し、自刃して果てました。切腹の目的は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に嵌って尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議の意味で死を以って諌めたと言うのが定説です。
    因みに、松下村塾の塾生の中では、一番最初に死んでしまった人物です。享年26歳。

  • 松陰神社 薩長土連合密議之處の石碑<br />神社に入ってすぐの左奥にあります。<br />明治100年記念の1968(昭和43)年に建立されたもので、内閣総理大臣 岸信介の揮毫です。<br />1862(文久2)年1月、坂本龍馬が土佐藩士 武市瑞山(半平太)の書簡を持って久坂玄瑞を訪ね、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まりました。たまたま薩摩藩士 田上籐七も樺山三円の書簡を預かって来ており、偶然にも薩長土の3藩士が一堂に会し、後日の薩長同盟の前兆となったことを顕彰しています。<br />久坂は、武市宛の書簡で松陰の言葉を借りて次のように述べています。「諸侯も公卿も恃むに足らず、草莽の志士を糾合し、義拳の外にはとても策無し」。今風に訳せば、「これまでの戦後を担ってきた政治家も財界人も、もはや頼むに足らない」と一蹴しています。松陰の思想の核心『草莽崛起(そうもうくっき)』論に通じる、志を持った在野の人々こそが日本の変革を担う原動力になるということを語り合っていたことが偲ばれます。<br />このままでは日本は外国に滅ぼされる。列強から日本を救うため、志ある者は身を捨てて決起すべきだというこの論を、松陰は自ら先頭に立って行動に移しました。その急進的な思想と行動が、黒船襲来を見て国の将来を憂う若者たちの魂を強く揺さぶったことでしょう。

    松陰神社 薩長土連合密議之處の石碑
    神社に入ってすぐの左奥にあります。
    明治100年記念の1968(昭和43)年に建立されたもので、内閣総理大臣 岸信介の揮毫です。
    1862(文久2)年1月、坂本龍馬が土佐藩士 武市瑞山(半平太)の書簡を持って久坂玄瑞を訪ね、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まりました。たまたま薩摩藩士 田上籐七も樺山三円の書簡を預かって来ており、偶然にも薩長土の3藩士が一堂に会し、後日の薩長同盟の前兆となったことを顕彰しています。
    久坂は、武市宛の書簡で松陰の言葉を借りて次のように述べています。「諸侯も公卿も恃むに足らず、草莽の志士を糾合し、義拳の外にはとても策無し」。今風に訳せば、「これまでの戦後を担ってきた政治家も財界人も、もはや頼むに足らない」と一蹴しています。松陰の思想の核心『草莽崛起(そうもうくっき)』論に通じる、志を持った在野の人々こそが日本の変革を担う原動力になるということを語り合っていたことが偲ばれます。
    このままでは日本は外国に滅ぼされる。列強から日本を救うため、志ある者は身を捨てて決起すべきだというこの論を、松陰は自ら先頭に立って行動に移しました。その急進的な思想と行動が、黒船襲来を見て国の将来を憂う若者たちの魂を強く揺さぶったことでしょう。

  • 松陰神社 明治維新胎動之地の石碑<br />境内を進んだ左手に「明治維新胎動之地」の石碑が威風堂々と立てられています。1968年に明治維新100周年を記念したものです。<br />揮毫は、山口県出身で当時内閣総理大臣の職にあった佐藤栄作です。多くの志士がここから出発して近代の日本を創り上げていきました。その胎動が伝わってくるような石碑です。

    松陰神社 明治維新胎動之地の石碑
    境内を進んだ左手に「明治維新胎動之地」の石碑が威風堂々と立てられています。1968年に明治維新100周年を記念したものです。
    揮毫は、山口県出身で当時内閣総理大臣の職にあった佐藤栄作です。多くの志士がここから出発して近代の日本を創り上げていきました。その胎動が伝わってくるような石碑です。

  • 松陰神社 <br />松陰は、尊皇攘夷や大日本主義など危険な思想家として評されることも多く、評価も人それぞれです。しかし、教育者として評される方も多いようです。実際、僅か2年半の教鞭を振るっただけで、かくも多くの人々に影響を与えた教育者は稀です。知識や能力だけでなく、社会的使命や理念、哲学、情熱、気概、行動力をバランスよく備え、それらを全身全霊で門下生に注入しました。しかし、決して上から目線ではなく、常に対等であることを心がけました。近年、これを裏付ける絵画が発見され、塾での講義形態は、塾生の中にその一員として入って議論することを重んじたことが判ったそうです。こうした松陰哲学は、極限の状況、すなわち刑死直前まで処刑者に話しかけていたという姿にも投影されています。<br />また、松陰は、飾り気がなく、質実剛健を地で行く人物でした。見栄も虚勢もなく、正直で至誠、弱者への思いやりなど非の打ち所のない人物でした。松陰に影響を及ぼした人物のひとりが佐久間象山ですが、彼は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵も多く、多くの業績を残したにも関わらず低く評価されています。一方、松陰は象山の対極にあり、「憎めない奴」でした。象山の性格を反面教師としたのかも知れません。<br />特筆すべきは、「しなやかさ」と「したたかさ」を併せ持っていたことです。ペリーの船に密航を企てた折、同行した弟子 金子重之輔が初対面の印象を「矯激な行動派ということから想像していた人物像と全く異なり、婦人のような人である」と感じたと松陰に伝えたところ、「人生において大事をなさんとする者は和気がなければなりませぬ。温然たること婦人、好女のごとし」と答え、穏やかな人柄を持ってはじめて気迫を養うことができると説きました。しかし一度国事の話題になると眼光は爛々と輝き、頬は紅潮し、髪は震え、全身より気迫を発したそうです。<br />松陰の代表的な教えのひとつに「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり)」があります。直訳すれば、「至誠をもって対すれば、動かすことができないものはない」となり、行動力を重視していたことが窺えます。彼の破天荒とも思える行動力学の礎がここにあります。

    松陰神社
    松陰は、尊皇攘夷や大日本主義など危険な思想家として評されることも多く、評価も人それぞれです。しかし、教育者として評される方も多いようです。実際、僅か2年半の教鞭を振るっただけで、かくも多くの人々に影響を与えた教育者は稀です。知識や能力だけでなく、社会的使命や理念、哲学、情熱、気概、行動力をバランスよく備え、それらを全身全霊で門下生に注入しました。しかし、決して上から目線ではなく、常に対等であることを心がけました。近年、これを裏付ける絵画が発見され、塾での講義形態は、塾生の中にその一員として入って議論することを重んじたことが判ったそうです。こうした松陰哲学は、極限の状況、すなわち刑死直前まで処刑者に話しかけていたという姿にも投影されています。
    また、松陰は、飾り気がなく、質実剛健を地で行く人物でした。見栄も虚勢もなく、正直で至誠、弱者への思いやりなど非の打ち所のない人物でした。松陰に影響を及ぼした人物のひとりが佐久間象山ですが、彼は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵も多く、多くの業績を残したにも関わらず低く評価されています。一方、松陰は象山の対極にあり、「憎めない奴」でした。象山の性格を反面教師としたのかも知れません。
    特筆すべきは、「しなやかさ」と「したたかさ」を併せ持っていたことです。ペリーの船に密航を企てた折、同行した弟子 金子重之輔が初対面の印象を「矯激な行動派ということから想像していた人物像と全く異なり、婦人のような人である」と感じたと松陰に伝えたところ、「人生において大事をなさんとする者は和気がなければなりませぬ。温然たること婦人、好女のごとし」と答え、穏やかな人柄を持ってはじめて気迫を養うことができると説きました。しかし一度国事の話題になると眼光は爛々と輝き、頬は紅潮し、髪は震え、全身より気迫を発したそうです。
    松陰の代表的な教えのひとつに「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり)」があります。直訳すれば、「至誠をもって対すれば、動かすことができないものはない」となり、行動力を重視していたことが窺えます。彼の破天荒とも思える行動力学の礎がここにあります。

  • 松陰神社 特大絵馬<br />毎年、特大絵馬には干支に因んだ松陰ゆかりの人物が描かれます。<br />今年は1836(天保7)年の申年生まれの境二郎が描かれています。縦2.6m、横3.6mもある特大絵馬は、萩西中学校の美術部員9人が描いたものです。毎年市内の中学校の美術部員が持回りで制作するそうです。<br />申は、果実が成熟して固まっていく状態を表します。申年生まれの守り神は、邪悪なものを断ち切る八千矛神です。悪いことが起こらず、努力が実になる年でありますようにと祈願した絵馬です。<br />境 二郎は、藩士 斎藤家に生まれ、後に境家の養子となりました。15歳で藩校明倫館で教授する山鹿流兵学師範 吉田松陰の門下生となり、22歳で松下村塾に入塾。松陰は、「就中勉強する者二人」として、この境二郎と中谷正亮の勤勉さを称賛しました。1878(明治11)年に島根県令となり、基幹道路の改修問題などに尽力しました。退官後は萩に帰り、品川弥二郎らの賛同を得て松下村塾の保存会を発足させ、塾舎の改修に奔走しました。また、夏みかん畑に松陰神社の前身となる祠を建てています。

    松陰神社 特大絵馬
    毎年、特大絵馬には干支に因んだ松陰ゆかりの人物が描かれます。
    今年は1836(天保7)年の申年生まれの境二郎が描かれています。縦2.6m、横3.6mもある特大絵馬は、萩西中学校の美術部員9人が描いたものです。毎年市内の中学校の美術部員が持回りで制作するそうです。
    申は、果実が成熟して固まっていく状態を表します。申年生まれの守り神は、邪悪なものを断ち切る八千矛神です。悪いことが起こらず、努力が実になる年でありますようにと祈願した絵馬です。
    境 二郎は、藩士 斎藤家に生まれ、後に境家の養子となりました。15歳で藩校明倫館で教授する山鹿流兵学師範 吉田松陰の門下生となり、22歳で松下村塾に入塾。松陰は、「就中勉強する者二人」として、この境二郎と中谷正亮の勤勉さを称賛しました。1878(明治11)年に島根県令となり、基幹道路の改修問題などに尽力しました。退官後は萩に帰り、品川弥二郎らの賛同を得て松下村塾の保存会を発足させ、塾舎の改修に奔走しました。また、夏みかん畑に松陰神社の前身となる祠を建てています。

  • 松陰神社 別れの書簡の碑<br />松下村塾エリアへの入口付近にあります。<br />「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」寅二郎<br />安政の大獄により捕えられた松陰が、1859(安政6)年10月20日、郷里の両親に宛てた別れの書簡「永訣の書」の中で詠んだ辞世の句です。尊皇を唱えたために幕府に捕えられてやがて死を覚悟した時、親に先立つ不幸を詫びた句です。享年30歳、松陰の自筆を模写した石碑です。<br />自分は両親のことを思って心配をしているが、その親を思う心よりも親ははるかに自分のことを思い気にかけていることだろう。その親は、今日私が処刑されたという知らせをどんな思いで聞くのだろうか…。<br />寅二郎とは松陰の通称であり、寅年に生まれたことに由来します。

    松陰神社 別れの書簡の碑
    松下村塾エリアへの入口付近にあります。
    「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」寅二郎
    安政の大獄により捕えられた松陰が、1859(安政6)年10月20日、郷里の両親に宛てた別れの書簡「永訣の書」の中で詠んだ辞世の句です。尊皇を唱えたために幕府に捕えられてやがて死を覚悟した時、親に先立つ不幸を詫びた句です。享年30歳、松陰の自筆を模写した石碑です。
    自分は両親のことを思って心配をしているが、その親を思う心よりも親ははるかに自分のことを思い気にかけていることだろう。その親は、今日私が処刑されたという知らせをどんな思いで聞くのだろうか…。
    寅二郎とは松陰の通称であり、寅年に生まれたことに由来します。

  • 松陰神社 松下村塾(国の史跡)<br />松陰神社のハイライトとなる松下村塾は、50平方m程の平屋建、正面に見える8畳(控えの間)と10畳半(講義室)の2間と1坪の土間の簡素な造りです。<br />松下村塾は松陰が開いた私塾ではなく、設立したのは松陰の叔父 玉木文之進で1842(天保13)年のことでした。松陰自身もそこで学び、その後、私塾を引き継いで教える立場になり、3代目塾頭として高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文など倒幕や明治維新の中心人物や新政府の要職に就いた人材を輩出しました。<br />因みに、文之進は松陰の父 杉百合之助の末弟に当たり、1810(文化7)年に生まれ、後に玉木家を継ぎました。

    松陰神社 松下村塾(国の史跡)
    松陰神社のハイライトとなる松下村塾は、50平方m程の平屋建、正面に見える8畳(控えの間)と10畳半(講義室)の2間と1坪の土間の簡素な造りです。
    松下村塾は松陰が開いた私塾ではなく、設立したのは松陰の叔父 玉木文之進で1842(天保13)年のことでした。松陰自身もそこで学び、その後、私塾を引き継いで教える立場になり、3代目塾頭として高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文など倒幕や明治維新の中心人物や新政府の要職に就いた人材を輩出しました。
    因みに、文之進は松陰の父 杉百合之助の末弟に当たり、1810(文化7)年に生まれ、後に玉木家を継ぎました。

  • 松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)<br />長州藩には藩校「明倫館」があり、松陰もそこで塾頭を務めましたが、そこは士族の身分でないと学べないなど様々な制約がありました。松下村塾では制約はなく、士族の他、医者や魚屋なども通い、「学びたい」という意志があれば誰でも学べ、身分の分け隔てなく塾生を受け入れました。これは、往時としては画期的な教育革命だったようです。<br />また、松陰は、日本の近代化に向けて実技を重視した作業場も付設すべきであると論じるなど、工学教育の必要性を説いた先駆者でした。このことが長州藩が工業化の試行錯誤に取り組むきっかけとなり、やがて明治政府が設立する工業学校へと繋がる一連の軌跡の端緒となったのです。松陰の思いは、十数年後に長州ファイブによって実現されたのです。つまり、松陰こそ明治の産業革命遺産を世界遺産に導いた原動力だったと言っても過言ではありません。

    松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)
    長州藩には藩校「明倫館」があり、松陰もそこで塾頭を務めましたが、そこは士族の身分でないと学べないなど様々な制約がありました。松下村塾では制約はなく、士族の他、医者や魚屋なども通い、「学びたい」という意志があれば誰でも学べ、身分の分け隔てなく塾生を受け入れました。これは、往時としては画期的な教育革命だったようです。
    また、松陰は、日本の近代化に向けて実技を重視した作業場も付設すべきであると論じるなど、工学教育の必要性を説いた先駆者でした。このことが長州藩が工業化の試行錯誤に取り組むきっかけとなり、やがて明治政府が設立する工業学校へと繋がる一連の軌跡の端緒となったのです。松陰の思いは、十数年後に長州ファイブによって実現されたのです。つまり、松陰こそ明治の産業革命遺産を世界遺産に導いた原動力だったと言っても過言ではありません。

  • 松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)<br />門下生たちの写真が飾られた8畳間があります。最初はこの部屋しかなかったそうですが、塾生が大勢集まったことによって10畳半の部屋を増築したそうです。想像以上にこじんまりとした私塾です。<br />久坂玄瑞、高杉晋作などは門下生でしたが、木戸孝允は門下生ではないものの、明倫館時代に松陰から兵学の薫陶を受けた関係です。現在の安倍首相もそうですが、歴代総理大臣出身地は山口県が多く、松下村塾からの流れなのか、その資質はともかくとして風土を感じさせるものがあります。

    松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)
    門下生たちの写真が飾られた8畳間があります。最初はこの部屋しかなかったそうですが、塾生が大勢集まったことによって10畳半の部屋を増築したそうです。想像以上にこじんまりとした私塾です。
    久坂玄瑞、高杉晋作などは門下生でしたが、木戸孝允は門下生ではないものの、明倫館時代に松陰から兵学の薫陶を受けた関係です。現在の安倍首相もそうですが、歴代総理大臣出身地は山口県が多く、松下村塾からの流れなのか、その資質はともかくとして風土を感じさせるものがあります。

  • 松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)<br />安政の大獄で松陰が斬首されると聞かされた時、門下生たちが無念さのあまり柱を切り付けたと言われています。実際に控えの間を支える中央の柱には、その時の刀傷らしきものが遺されています。しかし、この刀傷の由来については確固たる証拠がなく、多くの憶測を呼んでいます。<br />塾生 渡邊蒿蔵は、「柱に刀痕あり、人これを称して、先生の獄に赴かるる時に、諸生憤激するもの一刀に之を切り付けたるなりと言い伝うれども、余の知らぬこと」と否定しています。その裏付けとして、松陰が野山獄から宛てた書簡『諸友宛て』を引用される方もおられます。 「日頃口数が多い人は、いざ現実に出会うと必ず黙り込んでしまい、日頃意気盛んな人は、大事に臨んだ時意気消沈する。(中略)聞けば、佐世八十郎が長崎遊学の門出に、刀を抜いて気勢を上げた者がいたと言う。また、高杉晋作が江戸で、吠えついてきた犬を斬り捨てたという。このような血気にはやる行動は、いざという時の気魄を衰えさせるだけだということを知らなくてはいけない。日頃から言動を慎むことが出来ないようでは、いざという時に大気魄が出ない」と戒めています。<br />しかし、戒めと言うのは、逆説的に考えれば松陰の教えに背く行為があった証拠と言えます。また、門下生の行動を渡邊蒿蔵が四六時中監視するのは不可能ですし、「獄に赴かるる時」ですから、「斬首の時」については否定していません。確固たる証拠がない以上、「刀傷は血気に逸る塾生たちによって付けられたものと思われるが、その時期は特定できない」とすべきかもしれません。<br />しかし諸説あり、古屋の廃材で建てたものゆえに何処で付けられた刀傷なのか不明という「塾生関与否定説」もあります。確かに、この柱に限らず傷だらけで、鴨居にはホゾが切られています。<br />刀傷の由来を説明するのに、ドラマチックかつ説得力と言う点で塾生たちが最も落胆したと思われる処刑の通知やその執行の時とする説が流布されたのは必然かもしれません。

    松陰神社 松下村塾(8畳控えの間)
    安政の大獄で松陰が斬首されると聞かされた時、門下生たちが無念さのあまり柱を切り付けたと言われています。実際に控えの間を支える中央の柱には、その時の刀傷らしきものが遺されています。しかし、この刀傷の由来については確固たる証拠がなく、多くの憶測を呼んでいます。
    塾生 渡邊蒿蔵は、「柱に刀痕あり、人これを称して、先生の獄に赴かるる時に、諸生憤激するもの一刀に之を切り付けたるなりと言い伝うれども、余の知らぬこと」と否定しています。その裏付けとして、松陰が野山獄から宛てた書簡『諸友宛て』を引用される方もおられます。 「日頃口数が多い人は、いざ現実に出会うと必ず黙り込んでしまい、日頃意気盛んな人は、大事に臨んだ時意気消沈する。(中略)聞けば、佐世八十郎が長崎遊学の門出に、刀を抜いて気勢を上げた者がいたと言う。また、高杉晋作が江戸で、吠えついてきた犬を斬り捨てたという。このような血気にはやる行動は、いざという時の気魄を衰えさせるだけだということを知らなくてはいけない。日頃から言動を慎むことが出来ないようでは、いざという時に大気魄が出ない」と戒めています。
    しかし、戒めと言うのは、逆説的に考えれば松陰の教えに背く行為があった証拠と言えます。また、門下生の行動を渡邊蒿蔵が四六時中監視するのは不可能ですし、「獄に赴かるる時」ですから、「斬首の時」については否定していません。確固たる証拠がない以上、「刀傷は血気に逸る塾生たちによって付けられたものと思われるが、その時期は特定できない」とすべきかもしれません。
    しかし諸説あり、古屋の廃材で建てたものゆえに何処で付けられた刀傷なのか不明という「塾生関与否定説」もあります。確かに、この柱に限らず傷だらけで、鴨居にはホゾが切られています。
    刀傷の由来を説明するのに、ドラマチックかつ説得力と言う点で塾生たちが最も落胆したと思われる処刑の通知やその執行の時とする説が流布されたのは必然かもしれません。

  • 松陰神社 松下村塾(講義室)<br />松陰は、年若き門人を「あなた」と呼び、自分を「僕」と称しました。「僕」とは本来、奉仕する人を表します。自分を「僕」と称したのは松陰が最初であり、自分は師ではない、一緒に学ぼうと呼びかけました。そうした松陰の人柄に惹かれて近所の子供たちも塾へ通ったそうです。<br />また、松陰は人と言葉を少し交わしただけでその人物の長所や短所、将来どのような方向へ伸びていく可能性があるのかを見抜いてしまう超能力の持ち主だったようです。そして、その長所を「防長随一」とか「天下一」という言葉で褒めちぎり、本人すら気付いていない潜在能力を引き出していきました。これぞ、教育の原点です。

    松陰神社 松下村塾(講義室)
    松陰は、年若き門人を「あなた」と呼び、自分を「僕」と称しました。「僕」とは本来、奉仕する人を表します。自分を「僕」と称したのは松陰が最初であり、自分は師ではない、一緒に学ぼうと呼びかけました。そうした松陰の人柄に惹かれて近所の子供たちも塾へ通ったそうです。
    また、松陰は人と言葉を少し交わしただけでその人物の長所や短所、将来どのような方向へ伸びていく可能性があるのかを見抜いてしまう超能力の持ち主だったようです。そして、その長所を「防長随一」とか「天下一」という言葉で褒めちぎり、本人すら気付いていない潜在能力を引き出していきました。これぞ、教育の原点です。

  • 松陰神社 松下村塾(講義室)<br />松陰の石膏坐像と肖像画が飾られています。<br />この肖像画は、松下村塾で学んだ松浦亀太郎が描いたもののレプリカです。松陰が江戸で処刑される直前に描いたもので、松陰はこの肖像画を気に入っていたそうです。本物そっくりと言われているのですが、とても30歳には見えません。<br />杉家の幽囚室での講義を含め、僅か2年半の期間ながら90余名もの塾生が学んだそうです。この部屋に塾生たちが集い、日本の未来を憂いながら熱く激論を交わしていたかと思うと感慨深いものがこみ上げてきます。激動の日本を牽引した風雲児たちの熱い弁論がどこからか聞こえてきそうな気がします。<br />短期間でしたが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や明治維新で新政府に関わる英傑を多く輩出しました。その後、松下村塾は明治維新後に復活され、1892(明治25)年まで存続したそうです。1922(大正11)年に国の史跡に指定されています。

    松陰神社 松下村塾(講義室)
    松陰の石膏坐像と肖像画が飾られています。
    この肖像画は、松下村塾で学んだ松浦亀太郎が描いたもののレプリカです。松陰が江戸で処刑される直前に描いたもので、松陰はこの肖像画を気に入っていたそうです。本物そっくりと言われているのですが、とても30歳には見えません。
    杉家の幽囚室での講義を含め、僅か2年半の期間ながら90余名もの塾生が学んだそうです。この部屋に塾生たちが集い、日本の未来を憂いながら熱く激論を交わしていたかと思うと感慨深いものがこみ上げてきます。激動の日本を牽引した風雲児たちの熱い弁論がどこからか聞こえてきそうな気がします。
    短期間でしたが、尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や明治維新で新政府に関わる英傑を多く輩出しました。その後、松下村塾は明治維新後に復活され、1892(明治25)年まで存続したそうです。1922(大正11)年に国の史跡に指定されています。

  • 松陰神社 松下村塾<br />松陰は、幕府に反旗を翻す過激な思想家で、時にテロリストとも蔑まれる一面もありました。しかし、単なる危険人物であれば、藩として極刑に処する機会はあったはずです。それを実行しなかったのは、松陰という天才を何とか活用したいという思いがあったと思えます。「親の心子知らず」といったところでしょうか。<br />短い生涯でしたが、熱く徹底的に考えて学び、行動するというその生き様は今でも多くの人々に影響を与えています。その思想は弟子たちに脈々と受け継がれ、多くの志士を生み、彼らによって明治維新がなされたのです。弟子たちは新政府で要職に付き、彼らは師 松陰を祀って「松陰神社」を建立しました。松下村塾のあった場所が、そのまま神社の境内になっています。

    松陰神社 松下村塾
    松陰は、幕府に反旗を翻す過激な思想家で、時にテロリストとも蔑まれる一面もありました。しかし、単なる危険人物であれば、藩として極刑に処する機会はあったはずです。それを実行しなかったのは、松陰という天才を何とか活用したいという思いがあったと思えます。「親の心子知らず」といったところでしょうか。
    短い生涯でしたが、熱く徹底的に考えて学び、行動するというその生き様は今でも多くの人々に影響を与えています。その思想は弟子たちに脈々と受け継がれ、多くの志士を生み、彼らによって明治維新がなされたのです。弟子たちは新政府で要職に付き、彼らは師 松陰を祀って「松陰神社」を建立しました。松下村塾のあった場所が、そのまま神社の境内になっています。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅(国指定史跡)<br />松下村塾に隣接する、松陰の実家 杉百合之助宅です。家禄49石余の親族 瀬能家から借り、清水口の団子岩と呼ばれる高台から移り住んだ、かなり広い屋敷です。<br />明治時代に増設された茶室以外は、往時の間取りのままのようです。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅(国指定史跡)
    松下村塾に隣接する、松陰の実家 杉百合之助宅です。家禄49石余の親族 瀬能家から借り、清水口の団子岩と呼ばれる高台から移り住んだ、かなり広い屋敷です。
    明治時代に増設された茶室以外は、往時の間取りのままのようです。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅<br />説明によると、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半、3畳および2畳各1室の11室の他、板の間、物置、土間、台所、別の所に湯殿や便所のあるかなり大きい建物です。<br />菊屋横丁の武家屋敷とまでは行かないまでも、この辺りではかなり大きな屋敷だったことが窺えます。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅
    説明によると、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半、3畳および2畳各1室の11室の他、板の間、物置、土間、台所、別の所に湯殿や便所のあるかなり大きい建物です。
    菊屋横丁の武家屋敷とまでは行かないまでも、この辺りではかなり大きな屋敷だったことが窺えます。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅<br />NHK大河ドラマ『花燃ゆ』のセットが如何に忠実に造られていたかが判り、頭が下がる思いです。<br />百合之助の性格は寡黙で、めったに笑顔を見せない厳格な父親でしたが、子供たちの教育にはとても熱心で、松陰の勤勉さや一途な性格は父から受け継いだと言われています。四女の文が生まれた年には、百人中間頭兼盗賊改方(ひゃくにんちゅうげんがしらけんとうぞくあらためかた)に登用されています。現在の警察署長のような役職だそうです。<br />しかし、松陰が幕府の老中 間部詮勝の暗殺を企てた罪で投獄され、江戸送りが決まると百合之助も連座して免職となっています。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅
    NHK大河ドラマ『花燃ゆ』のセットが如何に忠実に造られていたかが判り、頭が下がる思いです。
    百合之助の性格は寡黙で、めったに笑顔を見せない厳格な父親でしたが、子供たちの教育にはとても熱心で、松陰の勤勉さや一途な性格は父から受け継いだと言われています。四女の文が生まれた年には、百人中間頭兼盗賊改方(ひゃくにんちゅうげんがしらけんとうぞくあらためかた)に登用されています。現在の警察署長のような役職だそうです。
    しかし、松陰が幕府の老中 間部詮勝の暗殺を企てた罪で投獄され、江戸送りが決まると百合之助も連座して免職となっています。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅 幽囚室<br />東側(神社側)にある3畳半の1室が幽囚室で、旧杉家宅のハイライトです。<br />元々は4畳半ありましたが、神棚に1畳提供しています。但し、今あるものは後世に設えられたものだそうです。<br />こんなに広い屋敷なので他にも幽囚できたでしょうに、敢えて罪の重さを知らしめるためにこの狭い部屋を選んだのでしょう。ここで近親の者が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増え、松陰主宰の私塾が産声を上げます。<br />松陰が、幽囚室に掛けていたという木原松桂の書。<br />三余読書(さんよどくしょ):勉強に利用すべき三つの余暇。 冬は年の余り、夜は日の余り、雨の日は時の余り。<br />七生滅賊(しちせいめつぞく):何度もこの世に生まれ変わって外賊を滅ぼすこと。<br />ペリーが日米和親条約締結のために再来航した際、松陰は伊豆下田沖に停泊中の艦船にて密航を企てるも失敗。江戸の牢に捕えられ、次いで萩の野山獄に投獄され、やがて釈放されて父の預かりとなり、幽囚室に謹慎して読書と著述に専念しました。その時、青雲の志を抱く近隣の青年たちに孟子を講じるようになり、その博識が評判となって城下から多数の青年が集ってきました。<br />丁度その頃、大老 井伊直弼は、日米通商条約に調印し、これに反対する人々を投獄して罰しました。松陰も日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生、同志等に時局に対する意見書を送りました。そして直接的な行動として老中 間部詮勝の暗殺を画策します。しかし、弟子たちがこれに同調せず、やむなく自首したところ、安政の大獄で死罪を言い渡され、1859年、享年30歳でその短い生涯を閉じました。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅 幽囚室
    東側(神社側)にある3畳半の1室が幽囚室で、旧杉家宅のハイライトです。
    元々は4畳半ありましたが、神棚に1畳提供しています。但し、今あるものは後世に設えられたものだそうです。
    こんなに広い屋敷なので他にも幽囚できたでしょうに、敢えて罪の重さを知らしめるためにこの狭い部屋を選んだのでしょう。ここで近親の者が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増え、松陰主宰の私塾が産声を上げます。
    松陰が、幽囚室に掛けていたという木原松桂の書。
    三余読書(さんよどくしょ):勉強に利用すべき三つの余暇。 冬は年の余り、夜は日の余り、雨の日は時の余り。
    七生滅賊(しちせいめつぞく):何度もこの世に生まれ変わって外賊を滅ぼすこと。
    ペリーが日米和親条約締結のために再来航した際、松陰は伊豆下田沖に停泊中の艦船にて密航を企てるも失敗。江戸の牢に捕えられ、次いで萩の野山獄に投獄され、やがて釈放されて父の預かりとなり、幽囚室に謹慎して読書と著述に専念しました。その時、青雲の志を抱く近隣の青年たちに孟子を講じるようになり、その博識が評判となって城下から多数の青年が集ってきました。
    丁度その頃、大老 井伊直弼は、日米通商条約に調印し、これに反対する人々を投獄して罰しました。松陰も日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生、同志等に時局に対する意見書を送りました。そして直接的な行動として老中 間部詮勝の暗殺を画策します。しかし、弟子たちがこれに同調せず、やむなく自首したところ、安政の大獄で死罪を言い渡され、1859年、享年30歳でその短い生涯を閉じました。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅<br />2015年、「明治日本の産業革命遺産(製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業)」が世界文化遺産に登録されました。九州地方と山口県を中心にした8県11都市23資産を、シリアル・ノミネーションなる手法を用いて普遍的な価値としてアピールしたのです。その内、萩市には5資産が存在します。いずれも日本が僅か50年ほどの短期間で、急速に近代化・工業化を具現化していった過程を視覚的に物語る貴重なものばかりです。この世界遺産はひとつのストーリーとして構成されていますが、そのプロローグはここ萩から始まります。江戸時代初期に萩城を築いて城下町を整備した毛利氏や幕末に日本を支え近代化の礎を築いた吉田松陰をはじめとする長州藩士たちの激動の歴史とその功績が遺されています。<br />日本を近代化に突き動かす原動力となったのが、毛利家が江戸幕府から受けた虐待に発した反骨精神だったという心象風景も見逃せません。そこには、怨み辛みをバネに何時かは見返してやろうという長州藩の気概や矜持が感じられ、大和魂の礎が宿っています。幕末には、英国を筆頭に欧州の産業革命の荒波が極東の島国 日本にも押し寄せました。その時、長州の先人たちは、幕府に頼ろうせず、自ら率先して学んで外国に負けない大砲や軍艦を造ろうと果敢に挑みました。そして、その過程で日本を工業化へ導く人材を数多く輩出したのが松下村塾でした。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅
    2015年、「明治日本の産業革命遺産(製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業)」が世界文化遺産に登録されました。九州地方と山口県を中心にした8県11都市23資産を、シリアル・ノミネーションなる手法を用いて普遍的な価値としてアピールしたのです。その内、萩市には5資産が存在します。いずれも日本が僅か50年ほどの短期間で、急速に近代化・工業化を具現化していった過程を視覚的に物語る貴重なものばかりです。この世界遺産はひとつのストーリーとして構成されていますが、そのプロローグはここ萩から始まります。江戸時代初期に萩城を築いて城下町を整備した毛利氏や幕末に日本を支え近代化の礎を築いた吉田松陰をはじめとする長州藩士たちの激動の歴史とその功績が遺されています。
    日本を近代化に突き動かす原動力となったのが、毛利家が江戸幕府から受けた虐待に発した反骨精神だったという心象風景も見逃せません。そこには、怨み辛みをバネに何時かは見返してやろうという長州藩の気概や矜持が感じられ、大和魂の礎が宿っています。幕末には、英国を筆頭に欧州の産業革命の荒波が極東の島国 日本にも押し寄せました。その時、長州の先人たちは、幕府に頼ろうせず、自ら率先して学んで外国に負けない大砲や軍艦を造ろうと果敢に挑みました。そして、その過程で日本を工業化へ導く人材を数多く輩出したのが松下村塾でした。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅<br />松陰には国の要人を暗殺して物事を解決しようとするアナーキストとしての一面も見られますが、そうした不都合な真実は一切封印されてきました。そのひとつに、海外進出(侵略)思想や天皇交代論があります。南朝の天皇を擁立して南朝革命を遂げようという破天荒なもので、これは最近まで近代史のタブーとされた秘事でした。また、松陰は、安政の大獄で刑死するまでは長州藩以外ではほとんど知られていない人物だったと言われています。それでは何故、国賊扱いされていた松陰が、死後は一転して神格化され、全国区で知られる偉人に祀り上げられたのでしょうか?<br />一説には、現在の偶像化された松陰像の流布には、弟子 久坂玄瑞の功績が見逃せないと言われています。玄瑞が本領を発揮したのは松陰の死後のことです。妹の文が玄瑞に嫁ぎ、玄瑞は義弟という立場を最大限利用し、松下村塾を拠点に同志の結束を固めつつ、松陰の偉人化を進めたのです。<br />目的は、革命を起こすためのシンボル「錦の御旗」にするためです。そのために罪人として葬られた松陰の復権と改葬許可を幕府に求めたり、藩校「明倫館」の教材に松陰の著作を採用させたり、松陰の著作の出版事業に尽力したり・・・。玄瑞は松陰を悲劇の主人公として尊王攘夷のシンボルに祀り上げたのです。明治維新後は、同様に新政府を組織した長州が松陰を祀り上げました。新政府を正当化すべく長州を正当化し、さらに長州を正当化すべく山縣有朋らが松陰の偉人神話を伝播させたという構図です。<br />一方、松陰が賛美される時代は、幸福な時代ではないとも言われています。昭和初期には学校の教科書にも松陰が登場しました。松陰は、国家にとって都合が良い部分だけ拡大解釈され、「戦争遂行」「尊王愛国」「忠君愛国」のシンボルに悪用された経緯があります。松陰を「錦の御旗」として祀り上げた日本国家がその後どういう運命を辿ったかについては、改めて言うまでもないことです。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅
    松陰には国の要人を暗殺して物事を解決しようとするアナーキストとしての一面も見られますが、そうした不都合な真実は一切封印されてきました。そのひとつに、海外進出(侵略)思想や天皇交代論があります。南朝の天皇を擁立して南朝革命を遂げようという破天荒なもので、これは最近まで近代史のタブーとされた秘事でした。また、松陰は、安政の大獄で刑死するまでは長州藩以外ではほとんど知られていない人物だったと言われています。それでは何故、国賊扱いされていた松陰が、死後は一転して神格化され、全国区で知られる偉人に祀り上げられたのでしょうか?
    一説には、現在の偶像化された松陰像の流布には、弟子 久坂玄瑞の功績が見逃せないと言われています。 玄瑞が本領を発揮したのは松陰の死後のことです。妹の文が玄瑞に嫁ぎ、玄瑞は義弟という立場を最大限利用し、松下村塾を拠点に同志の結束を固めつつ、松陰の偉人化を進めたのです。
    目的は、革命を起こすためのシンボル「錦の御旗」にするためです。そのために罪人として葬られた松陰の復権と改葬許可を幕府に求めたり、藩校「明倫館」の教材に松陰の著作を採用させたり、松陰の著作の出版事業に尽力したり・・・。玄瑞は松陰を悲劇の主人公として尊王攘夷のシンボルに祀り上げたのです。 明治維新後は、同様に新政府を組織した長州が松陰を祀り上げました。新政府を正当化すべく長州を正当化し、さらに長州を正当化すべく山縣有朋らが松陰の偉人神話を伝播させたという構図です。
    一方、松陰が賛美される時代は、幸福な時代ではないとも言われています。昭和初期には学校の教科書にも松陰が登場しました。松陰は、国家にとって都合が良い部分だけ拡大解釈され、「戦争遂行」「尊王愛国」「忠君愛国」のシンボルに悪用された経緯があります。松陰を「錦の御旗」として祀り上げた日本国家がその後どういう運命を辿ったかについては、改めて言うまでもないことです。

  • 松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅 傘みくじ<br />傘を開けば、運がひらく!夢も開く!<br />松陰神社ですので本来は松に結ぶのが縁起がいいのでしょうが…。<br />まあ神社が拝める場所なので、よしとしておきましょう。

    松陰神社 吉田松陰幽囚の旧宅 傘みくじ
    傘を開けば、運がひらく!夢も開く!
    松陰神社ですので本来は松に結ぶのが縁起がいいのでしょうが…。
    まあ神社が拝める場所なので、よしとしておきましょう。

  • 松陰神社<br />松陰神社は、不思議なことに東京都世田谷区と山口県萩市の2ヶ所に存在します。実際にGoogleで松陰神社を検索すると、トップにあるのが東京の松陰神社です。こちらは、安政の大獄により江戸伝馬町の獄舎で処刑された松陰を高杉晋作や伊藤博文らが若林に改葬したのがいわれです。<br />通常、実在の人物を祀る神社は所縁の地に1ヶ所という例が多いのですが、松陰の場合は、生誕の地と墓所の地に神社が建立されています。<br />この理由については、明治維新の精神的支柱となった松陰を慕う人々が多く、また、伊藤博文や山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎ら多くの門下生が明治政府の重職を担ったことも影響していると言われています。

    松陰神社
    松陰神社は、不思議なことに東京都世田谷区と山口県萩市の2ヶ所に存在します。実際にGoogleで松陰神社を検索すると、トップにあるのが東京の松陰神社です。こちらは、安政の大獄により江戸伝馬町の獄舎で処刑された松陰を高杉晋作や伊藤博文らが若林に改葬したのがいわれです。
    通常、実在の人物を祀る神社は所縁の地に1ヶ所という例が多いのですが、松陰の場合は、生誕の地と墓所の地に神社が建立されています。
    この理由については、明治維新の精神的支柱となった松陰を慕う人々が多く、また、伊藤博文や山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎ら多くの門下生が明治政府の重職を担ったことも影響していると言われています。

  • 松陰神社 拝殿<br />気になるのが、提灯等に描かれた卍(まんじ)の文字です。卍は仏教のイメージが強く、神社なのに何故卍なのかと不思議に思います。<br />調べてみると、これは吉田家の家紋「五瓜に卍(ごかにまんじ)」でした。松陰は5歳の時、毛利藩の軍学師範の家柄 吉田家の養子になりました。<br />真ん中の「卍」紋は文字紋のひとつで、左卍と右卍があります。これは左卍で、仏教伝来に伴い日本に入ってきた紋様のひとつとして寺院の紋章にも使われ、幸運福来の意味があるそうです。<br />周囲にある枠のような模様は、「木瓜(もっこう)」と言い、鳥の巣を象ったものです。鳥の巣から発想される、繁殖や子孫繁栄、発展の意味があります。

    松陰神社 拝殿
    気になるのが、提灯等に描かれた卍(まんじ)の文字です。卍は仏教のイメージが強く、神社なのに何故卍なのかと不思議に思います。
    調べてみると、これは吉田家の家紋「五瓜に卍(ごかにまんじ)」でした。松陰は5歳の時、毛利藩の軍学師範の家柄 吉田家の養子になりました。
    真ん中の「卍」紋は文字紋のひとつで、左卍と右卍があります。これは左卍で、仏教伝来に伴い日本に入ってきた紋様のひとつとして寺院の紋章にも使われ、幸運福来の意味があるそうです。
    周囲にある枠のような模様は、「木瓜(もっこう)」と言い、鳥の巣を象ったものです。鳥の巣から発想される、繁殖や子孫繁栄、発展の意味があります。

  • 松陰神社 社殿<br />松陰神社の生い立ちは、杉家の邸内に松陰の実兄 民治が土蔵造りの私祠を建て、松陰の遺言によってご神体として終生愛用した赤間硯と父兄宛の書簡を納めたことが始まりです。その後、松陰50年祭を翌年に控えた1907(明治40)年、伊藤博文と野村靖が中心になって神社への格上げを請願し、土蔵造の本殿の前に萩城内の鎮守 宮崎八幡の拝殿を移築して県社に列格され、それ以降学問の神として篤い信仰を受けるに至っています。萩の人に松陰のことを問えば、老若男女が等しく「松陰先生」と敬愛を込めて返答することに驚かされます。松陰の精神は、今も萩の街に息づいています。

    松陰神社 社殿
    松陰神社の生い立ちは、杉家の邸内に松陰の実兄 民治が土蔵造りの私祠を建て、松陰の遺言によってご神体として終生愛用した赤間硯と父兄宛の書簡を納めたことが始まりです。その後、松陰50年祭を翌年に控えた1907(明治40)年、伊藤博文と野村靖が中心になって神社への格上げを請願し、土蔵造の本殿の前に萩城内の鎮守 宮崎八幡の拝殿を移築して県社に列格され、それ以降学問の神として篤い信仰を受けるに至っています。萩の人に松陰のことを問えば、老若男女が等しく「松陰先生」と敬愛を込めて返答することに驚かされます。松陰の精神は、今も萩の街に息づいています。

  • 松陰神社 拝殿<br />拝殿脇には、「松陰先生教訓入りのおみくじ」の自動販売機があります。この販売機には、面白い文言が記されています。「凶をひかれた方は授与所までお申しつけ下さい。ささやかですがおしるしを用意しております」とあります。<br />これを見て早速おみくじ引いたのですが、残念ながら凶はでませんでした。でもどんなおしるしがもらえるのか、興味深いところです。<br /><br />教訓は、漢詩『志』からの抜粋でした。「この日再びし難く 此の生復(ま)たし難し この事終らざれば この身息(や)まず」。「今日という日は二度と来ない。与えられたこの生命も、再び繰り返すことはない。事を成し遂げるまでは、休むことなく取り組まなければならない」というありがたいお言葉です。

    松陰神社 拝殿
    拝殿脇には、「松陰先生教訓入りのおみくじ」の自動販売機があります。この販売機には、面白い文言が記されています。「凶をひかれた方は授与所までお申しつけ下さい。ささやかですがおしるしを用意しております」とあります。
    これを見て早速おみくじ引いたのですが、残念ながら凶はでませんでした。でもどんなおしるしがもらえるのか、興味深いところです。

    教訓は、漢詩『志』からの抜粋でした。「この日再びし難く 此の生復(ま)たし難し この事終らざれば この身息(や)まず」。「今日という日は二度と来ない。与えられたこの生命も、再び繰り返すことはない。事を成し遂げるまでは、休むことなく取り組まなければならない」というありがたいお言葉です。

  • 松陰神社 本殿<br />現在の社殿は1955年に完成し、創建当時の土蔵造の旧社殿は高杉晋作など松下村塾門人たちの霊を祀る末社 松門神社になっており、松陰を含めて54柱を祀っています。

    松陰神社 本殿
    現在の社殿は1955年に完成し、創建当時の土蔵造の旧社殿は高杉晋作など松下村塾門人たちの霊を祀る末社 松門神社になっており、松陰を含めて54柱を祀っています。

  • 松門神社<br />松陰神社の左脇にひっそりと佇む、もう一つの社が松門神社です。<br />幕末の思想家・教育者である吉田松陰、およびその高杉晋作や久坂玄瑞といった激動の幕末維新を切り開くために散っていった若き志士達、松下村塾の門下生53柱をご祭神としています。

    松門神社
    松陰神社の左脇にひっそりと佇む、もう一つの社が松門神社です。
    幕末の思想家・教育者である吉田松陰、およびその高杉晋作や久坂玄瑞といった激動の幕末維新を切り開くために散っていった若き志士達、松下村塾の門下生53柱をご祭神としています。

  • 松門神社 拝殿<br />2015年11月吉日、沼崎吉五郎が新たに合祀され祀られている門下生は53柱となっています。<br />吉五郎は、松陰処刑時の江戸伝馬獄の牢名主でした。処刑時に松陰から遺書『留魂録』を託され、三宅島に流刑となるもこれを17年間肌身離さず守り抜き、明治9年に松陰門下の神奈川県令 野村靖に手渡し、今日まで伝存されることになりました。この献身的な努力と功績を称えるために松門神社に合祀されています。

    松門神社 拝殿
    2015年11月吉日、沼崎吉五郎が新たに合祀され祀られている門下生は53柱となっています。
    吉五郎は、松陰処刑時の江戸伝馬獄の牢名主でした。処刑時に松陰から遺書『留魂録』を託され、三宅島に流刑となるもこれを17年間肌身離さず守り抜き、明治9年に松陰門下の神奈川県令 野村靖に手渡し、今日まで伝存されることになりました。この献身的な努力と功績を称えるために松門神社に合祀されています。

  • 松門神社 拝殿<br />簡素さゆえに伝わってくる荘厳さが胸に響きます。<br />遺書『留魂録』の冒頭には、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と記されています。また、「我も齢30、四季すでに備わり、花咲かせ実を結ぶところとなる。(中略)もし我が志を継ぐ者あらば、先々の種子絶えずして、永年にわたり穀物の実り続けるがごとし」とあります。門弟たちのバイブルとなり、行動の原動力となった書簡です。何故、死を目前にして平静でいられるのかを訥々と述べながら弟子たちを励ます言葉は圧倒的な迫力に満ち、心動かされます。<br />実は『留魂録』は2通あり、1通は飯田正伯から高杉晋作らに届けられました。至誠館の「留魂の間」にあるのはもう1通の方で、沼崎吉五郎に託されたものです。死を直前にしながら、それでも確率高く手渡されるように2通用意する冷静さと周到さには脱帽です。『留魂録』は手紙としては長文です。小さな文字で丁寧にびっしりと書かれているのを見ると、松陰の弟子たちへの熱い思いが伝わってきます。

    松門神社 拝殿
    簡素さゆえに伝わってくる荘厳さが胸に響きます。
    遺書『留魂録』の冒頭には、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」と記されています。また、「我も齢30、四季すでに備わり、花咲かせ実を結ぶところとなる。(中略)もし我が志を継ぐ者あらば、先々の種子絶えずして、永年にわたり穀物の実り続けるがごとし」とあります。門弟たちのバイブルとなり、行動の原動力となった書簡です。何故、死を目前にして平静でいられるのかを訥々と述べながら弟子たちを励ます言葉は圧倒的な迫力に満ち、心動かされます。
    実は『留魂録』は2通あり、1通は飯田正伯から高杉晋作らに届けられました。至誠館の「留魂の間」にあるのはもう1通の方で、沼崎吉五郎に託されたものです。死を直前にしながら、それでも確率高く手渡されるように2通用意する冷静さと周到さには脱帽です。『留魂録』は手紙としては長文です。小さな文字で丁寧にびっしりと書かれているのを見ると、松陰の弟子たちへの熱い思いが伝わってきます。

  • 松門神社 萩の變七烈士殉難之地の碑<br />松門神社の境内左手の一画に佇みます。<br />松下村塾出身で前参議 前原一誠らによる「萩の乱」で殉難した志士たちの遺徳を顕彰するための碑です。元々は、萩市恵美須町の刑場跡に立てられていたものだそうです。<br />参議だった一誠は、大村益次郎の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立し、やがて山縣有朋に追われるように萩へ帰郷しました。そんな中、武士の魂である刀を奪って士族と平民を同化する「廃刀令」が決定打になり勃発したのが「萩の乱」でした。不満を募らせた士族からリーダーに担ぎ上げられた一誠は近世まで犯罪人扱いされてきましたが、事変から百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようです。石碑の側面には「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」の名が刻まれています。「萩の乱」の4ヵ月後に勃発したのが、鹿児島に引きこもっていた西郷隆盛が起こした「西南戦争」でした。<br />一誠の辞世の詩は、「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」。その戯句に、「これまではいかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや秋の風 」があります。享年43歳。<br />余談ですが、松陰の叔父に当たる玉木文之進は、萩の乱に松下村塾の門下生が関与した責任をとる形で切腹して果てました。文之進は厳しい教育で知られており、乃木希典も薫陶を受けています。希典の弟の正誼は文之進の養子でしたが、この萩の乱で命を落としたことに対し、責任をとったのかもしれません。

    松門神社 萩の變七烈士殉難之地の碑
    松門神社の境内左手の一画に佇みます。
    松下村塾出身で前参議 前原一誠らによる「萩の乱」で殉難した志士たちの遺徳を顕彰するための碑です。元々は、萩市恵美須町の刑場跡に立てられていたものだそうです。
    参議だった一誠は、大村益次郎の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立し、やがて山縣有朋に追われるように萩へ帰郷しました。そんな中、武士の魂である刀を奪って士族と平民を同化する「廃刀令」が決定打になり勃発したのが「萩の乱」でした。不満を募らせた士族からリーダーに担ぎ上げられた一誠は近世まで犯罪人扱いされてきましたが、事変から百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようです。石碑の側面には「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」の名が刻まれています。「萩の乱」の4ヵ月後に勃発したのが、鹿児島に引きこもっていた西郷隆盛が起こした「西南戦争」でした。
    一誠の辞世の詩は、「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」。その戯句に、「これまではいかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや秋の風 」があります。享年43歳。
    余談ですが、松陰の叔父に当たる玉木文之進は、萩の乱に松下村塾の門下生が関与した責任をとる形で切腹して果てました。文之進は厳しい教育で知られており、乃木希典も薫陶を受けています。希典の弟の正誼は文之進の養子でしたが、この萩の乱で命を落としたことに対し、責任をとったのかもしれません。

  • 松陰神社 茶室「花月楼」(県指定有形文化財)<br />利休の流れを汲む表千家家元7代如心斎の門人 川上不白が献上した「花月楼」の設計図に基づき、三田尻(現防府市)の別邸内に7代藩主 毛利重就が1776(安永5)年に建てた木造桟瓦葺入母屋造の本格的な茶室です。<br />花月楼の名は、茶事七事式の第一に当たる花月式に由来します。重就の没後、その寵愛を受けた御茶堂 竹田休和が9代藩主 斉房から貰い受け、平安古の敷地内に移築しました。その後、松下村塾門下生の品川弥二郎が遺徳を偲んで自邸内に保存していましたが、1959年に現在地に移築しています。

    松陰神社 茶室「花月楼」(県指定有形文化財)
    利休の流れを汲む表千家家元7代如心斎の門人 川上不白が献上した「花月楼」の設計図に基づき、三田尻(現防府市)の別邸内に7代藩主 毛利重就が1776(安永5)年に建てた木造桟瓦葺入母屋造の本格的な茶室です。
    花月楼の名は、茶事七事式の第一に当たる花月式に由来します。重就の没後、その寵愛を受けた御茶堂 竹田休和が9代藩主 斉房から貰い受け、平安古の敷地内に移築しました。その後、松下村塾門下生の品川弥二郎が遺徳を偲んで自邸内に保存していましたが、1959年に現在地に移築しています。

  • 松陰神社 茶室「花月楼」<br />品川弥二郎は、足軽 八市右衛門の長男に生まれ、松下村塾に学びました。俗に言う「七卿落ち」で七卿を擁して長州へ落ち、禁門の変で敗走するも、その後渡欧し、帰国後は産業組合結成に尽力した人物です。内務大臣に選ばれるも、第2回総選挙で選挙干渉したことを理由に潔く辞職しています。?<br />有名なエピソードには、松下村塾を増築した時の話があります。弥二郎が誤って松陰の顔に壁土を落としてしまい皆がヒヤリとした時、松陰が「弥二、師の顔に泥を塗るとはこのことか」と冗談を言って一同を笑わせたという松陰の人柄や往時の塾の雰囲気を伝えるエピソードです。<br />また、鳥羽伏見の戦いの際、トコトンヤレ節という官軍のテーマソングを作って流行らせた人物でもあります。これが日本初の軍歌であり、流行歌の発祥だと言われています。?<br />松陰からは、「情有る人」「人物を以て勝る」など人格面で高く評価され、可愛がられていたようです。松陰の遺志を継ぎ、幕末に倒れた志士たちを祀って遺品等を展示する尊攘堂(現京都大学構内)を建造し、その後も藩主の茶室を保存・移築するなど、松陰や同志たちの顕彰や藩政時代の建造物の保存に尽力しました。勤王芸者であり祇園一の美貌を誇った中西君尾が惚れ込んだだけあり、気骨ある志士だったようです。

    松陰神社 茶室「花月楼」
    品川弥二郎は、足軽 八市右衛門の長男に生まれ、松下村塾に学びました。俗に言う「七卿落ち」で七卿を擁して長州へ落ち、禁門の変で敗走するも、その後渡欧し、帰国後は産業組合結成に尽力した人物です。内務大臣に選ばれるも、第2回総選挙で選挙干渉したことを理由に潔く辞職しています。?
    有名なエピソードには、松下村塾を増築した時の話があります。弥二郎が誤って松陰の顔に壁土を落としてしまい皆がヒヤリとした時、松陰が「弥二、師の顔に泥を塗るとはこのことか」と冗談を言って一同を笑わせたという松陰の人柄や往時の塾の雰囲気を伝えるエピソードです。
    また、鳥羽伏見の戦いの際、トコトンヤレ節という官軍のテーマソングを作って流行らせた人物でもあります。これが日本初の軍歌であり、流行歌の発祥だと言われています。?
    松陰からは、「情有る人」「人物を以て勝る」など人格面で高く評価され、可愛がられていたようです。松陰の遺志を継ぎ、幕末に倒れた志士たちを祀って遺品等を展示する尊攘堂(現京都大学構内)を建造し、その後も藩主の茶室を保存・移築するなど、松陰や同志たちの顕彰や藩政時代の建造物の保存に尽力しました。勤王芸者であり祇園一の美貌を誇った中西君尾が惚れ込んだだけあり、気骨ある志士だったようです。

  • 松陰神社 茶室「花月楼」<br />さすがに藩主が造った茶室だけのことはあり、花江茶亭のような遊興のための茶室ではなく、正式な座敷構えを呈した格式高い茶室です。<br />江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるように設計された茶室を花月楼形式の茶室と呼び、8畳か8畳以上の間を持ちます。<br />県指定有形文化財にもなっています。

    松陰神社 茶室「花月楼」
    さすがに藩主が造った茶室だけのことはあり、花江茶亭のような遊興のための茶室ではなく、正式な座敷構えを呈した格式高い茶室です。
    江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるように設計された茶室を花月楼形式の茶室と呼び、8畳か8畳以上の間を持ちます。
    県指定有形文化財にもなっています。

  • 松陰神社 孝行竹<br />竹の手前にあるのは、1926(大正15)年5月に時の皇太子、つまり後の昭和天皇が行啓された地であることを記念した石碑です。<br />その後方に植えられた孝行竹は、竹の特徴である横走地下茎が発達せずに「親」竹の周りにだけ「子」竹が育つ品種です。ですから親を守る竹という意味で「孝行竹」と名付けられています。 <br />「松陰先生は親孝行であり、また、竹を愛した記録もあるので、記念として寄贈された」と記されていますが、親より先に他界した松陰に親孝行は結びつかないような気もします。それよりも松下村塾の門下生が書いた『移竹記』には松陰が竹を愛したことが書かれていますので、これが由来ではないでしょうか?<br />この孝行竹は、強い再生力のあることから「達磨竹」や「蓬莱竹」、「観音竹」とも呼ばれ、インドシナ原産の株張り竹の一種です。

    松陰神社 孝行竹
    竹の手前にあるのは、1926(大正15)年5月に時の皇太子、つまり後の昭和天皇が行啓された地であることを記念した石碑です。
    その後方に植えられた孝行竹は、竹の特徴である横走地下茎が発達せずに「親」竹の周りにだけ「子」竹が育つ品種です。ですから親を守る竹という意味で「孝行竹」と名付けられています。
    「松陰先生は親孝行であり、また、竹を愛した記録もあるので、記念として寄贈された」と記されていますが、親より先に他界した松陰に親孝行は結びつかないような気もします。それよりも松下村塾の門下生が書いた『移竹記』には松陰が竹を愛したことが書かれていますので、これが由来ではないでしょうか?
    この孝行竹は、強い再生力のあることから「達磨竹」や「蓬莱竹」、「観音竹」とも呼ばれ、インドシナ原産の株張り竹の一種です。

  • 松陰神社 吉田松陰宝物館<br />境内には、松陰に関わる書簡や本などを展示する「吉田松陰宝物館 至誠館」がありますが、館内は撮影禁止です。<br />因みに、この「至誠館」の文字は、松陰の直筆を写し取ったものです。丁寧で力強く少し右上がりの癖字です。

    松陰神社 吉田松陰宝物館
    境内には、松陰に関わる書簡や本などを展示する「吉田松陰宝物館 至誠館」がありますが、館内は撮影禁止です。
    因みに、この「至誠館」の文字は、松陰の直筆を写し取ったものです。丁寧で力強く少し右上がりの癖字です。

  • 松陰神社 吉田松陰宝物館<br />至誠館前の池には、小石で「浩然」と書かれています。<br />これは、松陰がお手本にした孟子の言葉「浩然之気」から引用されています。<br />「浩然」は広くゆったりとした様を言い、「自分の行動が正しく、天地に恥じることがなければ、何ものにも屈しないおおらかな勇気が満ちてくる」といった解釈になります。<br />深いな〜!

    松陰神社 吉田松陰宝物館
    至誠館前の池には、小石で「浩然」と書かれています。
    これは、松陰がお手本にした孟子の言葉「浩然之気」から引用されています。
    「浩然」は広くゆったりとした様を言い、「自分の行動が正しく、天地に恥じることがなければ、何ものにも屈しないおおらかな勇気が満ちてくる」といった解釈になります。
    深いな〜!

  • 松陰神社 <br />松陰の面影をゆっくりと偲ぶことができました。<br />境内には多彩な梅の花が今を盛りと咲き誇っています。松陰も日本最大の藩校 弘道館を訪ねた際、現在の偕楽園に水戸斉昭が植えさせた梅を愛でたようです。<br />また、松下村塾門下生の高杉晋作も梅を好みました。それは、息子に梅之進という名前を付けたり、福岡に亡命した際には変名を梅之助にしたところからも見て取れます。<br />そんな、維新の志士たちも愛した梅の花が、静かに見送ってくれました。<br /><br />松陰神社を後にしてバスは明倫館跡へと向かいます。<br />この続きは、早春賦 西国放浪記⑤萩 明倫館跡でお届けいたします。

    松陰神社
    松陰の面影をゆっくりと偲ぶことができました。
    境内には多彩な梅の花が今を盛りと咲き誇っています。松陰も日本最大の藩校 弘道館を訪ねた際、現在の偕楽園に水戸斉昭が植えさせた梅を愛でたようです。
    また、松下村塾門下生の高杉晋作も梅を好みました。それは、息子に梅之進という名前を付けたり、福岡に亡命した際には変名を梅之助にしたところからも見て取れます。
    そんな、維新の志士たちも愛した梅の花が、静かに見送ってくれました。

    松陰神社を後にしてバスは明倫館跡へと向かいます。
    この続きは、早春賦 西国放浪記⑤萩 明倫館跡でお届けいたします。

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