津和野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
津和野は、島根県の南西に位置し、周囲に山々が重なる小さな城下町です。青野山を借景に蛇行する津和野川に寄り添うように赤瓦屋根が連なり、その風景は日本人の「心の古里」そのものです。津和野の名は「つわぶきの生い茂る野」が由来と言います。遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目を細め、その清楚で高雅な風情に魅せられ、この里を「つわぶきの野・・・つわの」と呼びました。<br />初めて訪れた街なのに懐かしくもあり、時間の流れが止まったような不思議な街です。70年代には雑誌「anan」や「nonno」を携えたアンノン族が、現在と同じように癒しを求めて訪れました。古い武家屋敷や白壁の土塀沿いの掘割には鯉がたゆたい、「山陰の小京都」とも称されています。<br />津和野の歴史は意外に古く、9000年前の縄文時代に始まります。その後、関ヶ原の戦いで武功のあった坂崎直盛が鎌倉時代に築城された山城に入封し、城を増築し、灌漑用水の建設や鯉の養殖などを行い、今日の津和野の骨格を築きました。俗に言う「千姫事件」で直盛が失脚後、亀井家歴代11藩主によって繁栄を見ますが、石見の小藩に過ぎなかった津和野は情報戦略こそが唯一の生き残りの道でした。それ故、藩校「養老館」はマンパワー育成の礎となり、数多の先哲や学界のパイオニアを輩出しました。文豪・軍医総監の森鴎外をはじめ、「哲学」「心理学」「感覚」などの言葉を創造した明治の先哲 西周、日本地質学の草分けとして活躍した小藤文次郎、脳外科の発展に尽くした中田瑞穂など、全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成した街なのです。<br />こうした歴史に思いを馳せながらそぞろ歩けば、「鯉の泳ぐ城下町」も一味違う情緒を湛えていることに気付かされます。<br /><br />津和野お宝マップです。<br />http://www.tsuwano.ne.jp/otakaraten/<br /><1日目><br />新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)<br />---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空<br /><2日目><br />萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)<br />---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)<br />---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)<br />---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)<br />---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)<br /><3日目><br />湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口<br />---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)<br />---福山駅(新幹線)===新大阪駅

早春賦 西国放浪記②津和野

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2016/03/03 - 2016/03/05

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

津和野は、島根県の南西に位置し、周囲に山々が重なる小さな城下町です。青野山を借景に蛇行する津和野川に寄り添うように赤瓦屋根が連なり、その風景は日本人の「心の古里」そのものです。津和野の名は「つわぶきの生い茂る野」が由来と言います。遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目を細め、その清楚で高雅な風情に魅せられ、この里を「つわぶきの野・・・つわの」と呼びました。
初めて訪れた街なのに懐かしくもあり、時間の流れが止まったような不思議な街です。70年代には雑誌「anan」や「nonno」を携えたアンノン族が、現在と同じように癒しを求めて訪れました。古い武家屋敷や白壁の土塀沿いの掘割には鯉がたゆたい、「山陰の小京都」とも称されています。
津和野の歴史は意外に古く、9000年前の縄文時代に始まります。その後、関ヶ原の戦いで武功のあった坂崎直盛が鎌倉時代に築城された山城に入封し、城を増築し、灌漑用水の建設や鯉の養殖などを行い、今日の津和野の骨格を築きました。俗に言う「千姫事件」で直盛が失脚後、亀井家歴代11藩主によって繁栄を見ますが、石見の小藩に過ぎなかった津和野は情報戦略こそが唯一の生き残りの道でした。それ故、藩校「養老館」はマンパワー育成の礎となり、数多の先哲や学界のパイオニアを輩出しました。文豪・軍医総監の森鴎外をはじめ、「哲学」「心理学」「感覚」などの言葉を創造した明治の先哲 西周、日本地質学の草分けとして活躍した小藤文次郎、脳外科の発展に尽くした中田瑞穂など、全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成した街なのです。
こうした歴史に思いを馳せながらそぞろ歩けば、「鯉の泳ぐ城下町」も一味違う情緒を湛えていることに気付かされます。

津和野お宝マップです。
http://www.tsuwano.ne.jp/otakaraten/
<1日目>
新大阪駅(新幹線)===福山駅---錦帯橋(昼食+散策)
---津和野(案内人と一緒に散策)---萩グランドホテル天空
<2日目>
萩グランドホテル天空---松陰神社(ボランティアの方と一緒に散策)
---旧萩藩校明倫館(同じ)---萩城下町(同じ)
---蒲鉾店(ショッピング)---海鮮村北長門(昼食)
---青海島(クルーズコース・島上陸コース・金子みすゞ記念館コースから選択)
---秋吉台---瑠璃光寺---湯本観光ホテル西京(オプション:大谷山荘宿泊)
<3日目>
湯本観光ホテル西京---宮島口===宮島(昼食+散策:3時間)===宮島口
---尾道===千光寺公園(ロープウェイ)---千光寺公園(山頂)
---福山駅(新幹線)===新大阪駅

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  • 津和野 太鼓谷稲成の鳥居<br />「ここ何処なの?」と首を傾げられた方も多いと思います。<br />津和野の代名詞と言えば、鯉が泳ぐ掘割水路と海鼠壁の殿町通りや旧い商家が軒を連ねる本町通りの「山陰の小京都」を偲ばせる風景ですが、これらは後のお愉しみにとっておき、まずはかねてより訪ねてみたかった太鼓谷稲成神社へ詣でます。<br />津和野の滞在時間は50分とタイトですので、時間配分に留意しなくてはなりません。このツアーでは、松韻亭の駐車場をお借りする関係でショップの方が殿町を20分程ガイド後、ショップへ戻ってお茶をいただいてからフリータイムになります。ですから、正味20分程しかフリータイムがありません。という訳で、集合場所と時間が判っているので別行動をとることにします。<br />松韻亭は本町と殿町の境界にあるため、脇目も振らずに無心に津和野大橋を目指して歩を進めます。すると、大橋の右手前に太鼓谷稲成の鳥居が見えてきます。

    津和野 太鼓谷稲成の鳥居
    「ここ何処なの?」と首を傾げられた方も多いと思います。
    津和野の代名詞と言えば、鯉が泳ぐ掘割水路と海鼠壁の殿町通りや旧い商家が軒を連ねる本町通りの「山陰の小京都」を偲ばせる風景ですが、これらは後のお愉しみにとっておき、まずはかねてより訪ねてみたかった太鼓谷稲成神社へ詣でます。
    津和野の滞在時間は50分とタイトですので、時間配分に留意しなくてはなりません。このツアーでは、松韻亭の駐車場をお借りする関係でショップの方が殿町を20分程ガイド後、ショップへ戻ってお茶をいただいてからフリータイムになります。ですから、正味20分程しかフリータイムがありません。という訳で、集合場所と時間が判っているので別行動をとることにします。
    松韻亭は本町と殿町の境界にあるため、脇目も振らずに無心に津和野大橋を目指して歩を進めます。すると、大橋の右手前に太鼓谷稲成の鳥居が見えてきます。

  • 津和野 美松食堂<br />鳥居を潜って道なりに歩を進めると、正面に弥栄神社が見えてきます。さらに進むと右手に美松食堂があります。<br />太鼓谷稲成神社の参道前に佇む、昭和の匂いが漂う鄙びた食堂です。そのレトロな居住まいについ足を止めてしまいます。生憎改修中ですが、真紅の暖簾には「いなりずし」の文字が躍っています。<br />今や津和野名物のひとつになったここの「いなりずし」は、1人前6個720円ですが、1個からでもオーダーでき、麺類と合わせた注文もできます。<br />一般的な狐色ではなく、黒光りするほど褐色に煮しめた油揚げの色に吃驚ポンです。代々受け継がれてきた秘伝のタレで2日間じっくり煮込み、さらに1晩寝かせた油揚げにはしっかり味が染みています。しかし、見た目ほど濃い味ではなく、辛すぎず、酢飯はやや酢の効いた程良い甘さなのでご安心ください。サイズはやや小振りです。

    津和野 美松食堂
    鳥居を潜って道なりに歩を進めると、正面に弥栄神社が見えてきます。さらに進むと右手に美松食堂があります。
    太鼓谷稲成神社の参道前に佇む、昭和の匂いが漂う鄙びた食堂です。そのレトロな居住まいについ足を止めてしまいます。生憎改修中ですが、真紅の暖簾には「いなりずし」の文字が躍っています。
    今や津和野名物のひとつになったここの「いなりずし」は、1人前6個720円ですが、1個からでもオーダーでき、麺類と合わせた注文もできます。
    一般的な狐色ではなく、黒光りするほど褐色に煮しめた油揚げの色に吃驚ポンです。代々受け継がれてきた秘伝のタレで2日間じっくり煮込み、さらに1晩寝かせた油揚げにはしっかり味が染みています。しかし、見た目ほど濃い味ではなく、辛すぎず、酢飯はやや酢の効いた程良い甘さなのでご安心ください。サイズはやや小振りです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社<br />美松食堂の並びに赤い鳥居が立てられ、その先にある千本鳥居が境内へとナビゲートしてくれます。右斜め後方には弥栄神社があります。<br />扁額をよく観ると判るように、この神社では「稲荷」と書かずに「稲成」と書きます。「稲成」と書くのは、日本全国に数多ある「おいなりさん」の中でも長門市にある元乃隅稲成神社とここの2社に限られています。敢えて「成」という文字を使うのは、「願望成就・大願成就」の意味が強く込められているからです。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    美松食堂の並びに赤い鳥居が立てられ、その先にある千本鳥居が境内へとナビゲートしてくれます。右斜め後方には弥栄神社があります。
    扁額をよく観ると判るように、この神社では「稲荷」と書かずに「稲成」と書きます。「稲成」と書くのは、日本全国に数多ある「おいなりさん」の中でも長門市にある元乃隅稲成神社とここの2社に限られています。敢えて「成」という文字を使うのは、「願望成就・大願成就」の意味が強く込められているからです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 千本鳥居<br />表参道には263段の石段があり、伏見稲荷風の朱塗りの千本鳥居がぎっしりと並ぶトンネルが圧巻です。急な斜面に参道が設けられているため、トンネルが九十九折になっているのも趣があります。<br />これらの鳥居は、御礼のために奉納されたものが8割、祈願のために奉納されたものが2割だそうです。

    津和野 太鼓谷稲成神社 千本鳥居
    表参道には263段の石段があり、伏見稲荷風の朱塗りの千本鳥居がぎっしりと並ぶトンネルが圧巻です。急な斜面に参道が設けられているため、トンネルが九十九折になっているのも趣があります。
    これらの鳥居は、御礼のために奉納されたものが8割、祈願のために奉納されたものが2割だそうです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 千本鳥居<br />朱色のトンネルを上る途中、一休みできる茶屋があります。ここの軒先に並べられたお供え物は、「油揚げ」です。稲荷神社の神使は狐ですが、狐の好物の油揚げがお供え物という珍しいスタイルです。参拝をする前に油揚げとローソクを供える習慣があるので忘れずに・・・。蝋燭とマッチもセットで売られています。<br />

    津和野 太鼓谷稲成神社 千本鳥居
    朱色のトンネルを上る途中、一休みできる茶屋があります。ここの軒先に並べられたお供え物は、「油揚げ」です。稲荷神社の神使は狐ですが、狐の好物の油揚げがお供え物という珍しいスタイルです。参拝をする前に油揚げとローソクを供える習慣があるので忘れずに・・・。蝋燭とマッチもセットで売られています。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社<br />参道途中の小さな祠には、稲成神のお使いのかわいい白狐が並べられています。<br />ご利益のひとつに「紛失物の手戻り」があります。それには次のような話が伝えられています。<br />伏見から稲成神社が勧請されて直ぐ、城の蔵番が鍵を失くしました。蔵番が事の次第を藩主に報告すると、藩主は大変立腹し「7日間だけ待つ」と仰せられました。蔵番は懸命に鍵を探しましたが見つからず、思い余って藩主以外は参ってはならない「おいなりさま」に7日間の願をかけ、内緒でお参りを続けました。やがて指定された最後の日の朝、自宅の自在鍵のところでチリンチリンと音がするではありませんか。不思議に思って見ると、なんとあれほど探しても見つからなかった蔵の鍵がそこにあったのです。蔵番は直ちにお城に駆けつけ、厳罰を覚悟で禁断のおいなりさまに参ったことを包み隠さず報告しました。しかし話を聞いた藩主は、その正直さに感心し、蔵番を許したそうです。そして「願望成就の神威が高いお稲成様だ」と言われ、「稲成神社」の表記に改められたそうです。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    参道途中の小さな祠には、稲成神のお使いのかわいい白狐が並べられています。
    ご利益のひとつに「紛失物の手戻り」があります。それには次のような話が伝えられています。
    伏見から稲成神社が勧請されて直ぐ、城の蔵番が鍵を失くしました。蔵番が事の次第を藩主に報告すると、藩主は大変立腹し「7日間だけ待つ」と仰せられました。蔵番は懸命に鍵を探しましたが見つからず、思い余って藩主以外は参ってはならない「おいなりさま」に7日間の願をかけ、内緒でお参りを続けました。やがて指定された最後の日の朝、自宅の自在鍵のところでチリンチリンと音がするではありませんか。不思議に思って見ると、なんとあれほど探しても見つからなかった蔵の鍵がそこにあったのです。蔵番は直ちにお城に駆けつけ、厳罰を覚悟で禁断のおいなりさまに参ったことを包み隠さず報告しました。しかし話を聞いた藩主は、その正直さに感心し、蔵番を許したそうです。そして「願望成就の神威が高いお稲成様だ」と言われ、「稲成神社」の表記に改められたそうです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 神門<br />息を切らせて上り詰めると、目にも鮮やかな朱塗りの神門が出迎えてくれます。

    津和野 太鼓谷稲成神社 神門
    息を切らせて上り詰めると、目にも鮮やかな朱塗りの神門が出迎えてくれます。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿<br />神門の脇を抜けると、高台に聳える豪華絢爛な新社殿の朱色と借景となる山々の緑とのコントラストが見事です。<br />太鼓谷稲成神社は、城下町を見下す高台に商売繁盛の神を祀り、こじんまりとした津和野のイメージとはかけ離れた規模を誇っています。<br />ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま=稲成大神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと=熊野大神)の女神2柱を祀っています。日本5大稲荷(宮城 竹駒稲荷、茨城 笠間稲荷、京都 伏見稲荷、佐賀 祐徳稲荷)のひとつに数えられ、年間の参拝者は100万人を越え、県内神社では出雲大社に次ぐ信仰を集めています。<br />1773(安永2)年、7代藩主 亀井矩貞(のりさだ)が津和野城の鬼門に当たる太皷谷に城の鎮護と領民の安穏を願って伏見稲荷を勧請したのが始まりです。廃藩置県までは亀井家の祈願所として一般参拝は許されず、社殿は城の方角を向いていたそうです。時代が下がり、失せ物探し、開運厄除けの守護神として親しまれている今日では、新社殿は町の方角に向けて建てられています。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿
    神門の脇を抜けると、高台に聳える豪華絢爛な新社殿の朱色と借景となる山々の緑とのコントラストが見事です。
    太鼓谷稲成神社は、城下町を見下す高台に商売繁盛の神を祀り、こじんまりとした津和野のイメージとはかけ離れた規模を誇っています。
    ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま=稲成大神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと=熊野大神)の女神2柱を祀っています。日本5大稲荷(宮城 竹駒稲荷、茨城 笠間稲荷、京都 伏見稲荷、佐賀 祐徳稲荷)のひとつに数えられ、年間の参拝者は100万人を越え、県内神社では出雲大社に次ぐ信仰を集めています。
    1773(安永2)年、7代藩主 亀井矩貞(のりさだ)が津和野城の鬼門に当たる太皷谷に城の鎮護と領民の安穏を願って伏見稲荷を勧請したのが始まりです。廃藩置県までは亀井家の祈願所として一般参拝は許されず、社殿は城の方角を向いていたそうです。時代が下がり、失せ物探し、開運厄除けの守護神として親しまれている今日では、新社殿は町の方角に向けて建てられています。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 元宮<br />振り返れば、新社殿とは対照的に古色蒼然とした元宮が厳かに佇んでいます。<br />参拝者の激増に伴い、境内地西側の山を切り開いて社殿地を造成し、1969年に新社殿が竣工して旧社殿(元宮)から遷宮しています。<br />また、この神社では「四ヶ所参り」と称し、境内にある4ヶ所の参拝所を全てお参りする独特の参拝形式がとられています。<br />元宮→命婦社→新社殿→新社殿裏奉拝所の順に参拝します。しかし、新社殿裏奉拝所の存在はあまり知られておらず、参拝されずに帰られる方も多いようです。

    津和野 太鼓谷稲成神社 元宮
    振り返れば、新社殿とは対照的に古色蒼然とした元宮が厳かに佇んでいます。
    参拝者の激増に伴い、境内地西側の山を切り開いて社殿地を造成し、1969年に新社殿が竣工して旧社殿(元宮)から遷宮しています。
    また、この神社では「四ヶ所参り」と称し、境内にある4ヶ所の参拝所を全てお参りする独特の参拝形式がとられています。
    元宮→命婦社→新社殿→新社殿裏奉拝所の順に参拝します。しかし、新社殿裏奉拝所の存在はあまり知られておらず、参拝されずに帰られる方も多いようです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿<br />新社殿の向かい側、いと高き所に元宮が祀られています。<br />現在の元宮は、1923(大正12)年に再建された流造のもので、御分霊が奉斎してあります。この元宮は、藩主の崇敬神社だったため、三本松城に向けて建てられています。ですから新社殿とは異なる方位を向いていますが、決して仲が悪いわけではありません!<br />出雲大社の注連縄の大きさは屈指ですが、ここも同じ島根県ということもあり張り合っているような気がします。<br />注連縄は、天照大神が天岩戸から出られた時、天太玉命が縄を作り岩戸の前に引き廻し「再び之より入り給うな」と申し上げたのに始まります。神聖な場所と俗界を区別するためのものです。<br />また、注連縄の形は「蛇の交尾」を擬したものだそうです。性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜などが凝集して神与のものとされ、その象徴を「蛇」と捉える考え方です。尚、注連縄の原義は「シメクメ縄」とされています。志摩地方ではトンボの交尾を「シリクミ」と言い、これがシメクメ縄の語源だそうです。故に、シメクメ縄、つまり注連縄はまさに蛇の交尾を象る縄となり、神聖視されたのです。

    津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿
    新社殿の向かい側、いと高き所に元宮が祀られています。
    現在の元宮は、1923(大正12)年に再建された流造のもので、御分霊が奉斎してあります。この元宮は、藩主の崇敬神社だったため、三本松城に向けて建てられています。ですから新社殿とは異なる方位を向いていますが、決して仲が悪いわけではありません!
    出雲大社の注連縄の大きさは屈指ですが、ここも同じ島根県ということもあり張り合っているような気がします。
    注連縄は、天照大神が天岩戸から出られた時、天太玉命が縄を作り岩戸の前に引き廻し「再び之より入り給うな」と申し上げたのに始まります。神聖な場所と俗界を区別するためのものです。
    また、注連縄の形は「蛇の交尾」を擬したものだそうです。性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜などが凝集して神与のものとされ、その象徴を「蛇」と捉える考え方です。尚、注連縄の原義は「シメクメ縄」とされています。志摩地方ではトンボの交尾を「シリクミ」と言い、これがシメクメ縄の語源だそうです。故に、シメクメ縄、つまり注連縄はまさに蛇の交尾を象る縄となり、神聖視されたのです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿<br />龍の彫刻も歴史を感じさせる逸品です。

    津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿
    龍の彫刻も歴史を感じさせる逸品です。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿<br />拝殿の内部には、漆喰を素材に鏝(こて)で描かれた美しい天女の鏝絵や神の使いの狐の絵などが奉納されています。<br />

    津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 拝殿
    拝殿の内部には、漆喰を素材に鏝(こて)で描かれた美しい天女の鏝絵や神の使いの狐の絵などが奉納されています。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 元宮 <br />拝殿奥の神饌の両脇を随身が守っています。<br />随身門の中ではなく、拝殿内で見かけるのは珍しいものです。<br />

    津和野 太鼓谷稲成神社 元宮
    拝殿奥の神饌の両脇を随身が守っています。
    随身門の中ではなく、拝殿内で見かけるのは珍しいものです。

  • 津和野 太鼓谷稲成 元宮 <br />流造の旧本殿です。<br />元宮社殿の右脇を通って裏にある命婦社へ向かいます。

    津和野 太鼓谷稲成 元宮
    流造の旧本殿です。
    元宮社殿の右脇を通って裏にある命婦社へ向かいます。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社<br />元宮の裏に回り込むと、そこにはひっそりと命婦社が佇んでいます。<br />ご祭神は、稲荷大神の神令使である命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)=白狐神です。<br />本来、命婦とは五位以上に叙せられた女官及び五位以上の官人の妻を指すのですが、稲荷の神使いとされる狐の異称でもあります。稲成大神の眷属(けんぞく=お使い)である狐は、朝廷に出入りできる「命婦」の位を授けられたことから、「命婦神」とも称されます。

    津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社
    元宮の裏に回り込むと、そこにはひっそりと命婦社が佇んでいます。
    ご祭神は、稲荷大神の神令使である命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)=白狐神です。
    本来、命婦とは五位以上に叙せられた女官及び五位以上の官人の妻を指すのですが、稲荷の神使いとされる狐の異称でもあります。稲成大神の眷属(けんぞく=お使い)である狐は、朝廷に出入りできる「命婦」の位を授けられたことから、「命婦神」とも称されます。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社<br />切れ長の瞳が凛々しいです。<br />智恵の象徴とされる巻物をくわえ、険しい表情で鋭い睨みを利かせています。<br />日暮れ時だったらさぞかし怖かっただろうな〜。

    津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社
    切れ長の瞳が凛々しいです。
    智恵の象徴とされる巻物をくわえ、険しい表情で鋭い睨みを利かせています。
    日暮れ時だったらさぞかし怖かっただろうな〜。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社<br />祠には夥しいほどの小さな白狐が祀られています。<br />古来より、この命婦社でのお祈りは京都の伏見稲荷大社に通じるとの伝説があります。<br />御神徳は、神狐守護、良縁成就、夫婦円満、学業成就、五穀豊穣など。

    津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社
    祠には夥しいほどの小さな白狐が祀られています。
    古来より、この命婦社でのお祈りは京都の伏見稲荷大社に通じるとの伝説があります。
    御神徳は、神狐守護、良縁成就、夫婦円満、学業成就、五穀豊穣など。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社<br />祠の向こうには、ひっそりと隠れるように双子狐が見守っています。<br />

    津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社
    祠の向こうには、ひっそりと隠れるように双子狐が見守っています。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社<br />双子狐の視線の先にあるのは、折からの西日を浴びた蜘蛛の巣です。<br />この輝き具合は只者ではありません。

    津和野 太鼓谷稲成神社 命婦社
    双子狐の視線の先にあるのは、折からの西日を浴びた蜘蛛の巣です。
    この輝き具合は只者ではありません。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 <br />大願成就のための絵馬が鈴なりです。<br />これらが全て成就するのなら、世界は泰平なことでしょう。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    大願成就のための絵馬が鈴なりです。
    これらが全て成就するのなら、世界は泰平なことでしょう。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 <br />「太鼓谷」という地名は、江戸時代に時刻を知らせる太鼓が鳴り響いたことが由来だそうです。<br />社務所前には、機械仕掛けの獅子舞がおみくじを引いてくれる「からくりみくじ」が置かれています。この動作がユニークで暫く見入ってしまいました。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    「太鼓谷」という地名は、江戸時代に時刻を知らせる太鼓が鳴り響いたことが由来だそうです。
    社務所前には、機械仕掛けの獅子舞がおみくじを引いてくれる「からくりみくじ」が置かれています。この動作がユニークで暫く見入ってしまいました。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿<br />かつては盗難や失くしたものが祈願すれば出てくると言われ、遠くは九州から参拝者があったそうです。現在は、商売繁盛や五穀豊穣、厄除けなどの他、「稲成」と表記することからも判るように願望成就の神として篤く信仰されています。<br />境内には郷土関係の資料を集めた宝物殿や椋木潜(むくのきひそむ)、佐伯利麿(さえきとしまろ)、岡熊臣(おかくまおみ)等の和漢蔵書5000冊を収めた養老文庫や旧御殿の茶室を復元した茶席半峯亭(はんぽうてい)などもあります。 <br />

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿
    かつては盗難や失くしたものが祈願すれば出てくると言われ、遠くは九州から参拝者があったそうです。現在は、商売繁盛や五穀豊穣、厄除けなどの他、「稲成」と表記することからも判るように願望成就の神として篤く信仰されています。
    境内には郷土関係の資料を集めた宝物殿や椋木潜(むくのきひそむ)、佐伯利麿(さえきとしまろ)、岡熊臣(おかくまおみ)等の和漢蔵書5000冊を収めた養老文庫や旧御殿の茶室を復元した茶席半峯亭(はんぽうてい)などもあります。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿<br />色鮮やかな新社殿の扁額は、旧皇族 北白川房子の揮毫です。明治天皇第7皇女として北白川宮成久王の妃となるも、1923(大正12)年、成久王らとフランスへ遊学中、成久王の運転する車が事故を起こして成久王は即死、房子も複雑骨折の大怪我を負いました。その後、皇籍を離脱されました。<br />日本三大稲荷に数えられる笠間稲荷の扁額も当時の神宮祭主 北白川房子の揮毫ですので、稲荷に縁がおありだったことが窺えます。故に、骨折だけで済んだということなのでしょうか?

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿
    色鮮やかな新社殿の扁額は、旧皇族 北白川房子の揮毫です。明治天皇第7皇女として北白川宮成久王の妃となるも、1923(大正12)年、成久王らとフランスへ遊学中、成久王の運転する車が事故を起こして成久王は即死、房子も複雑骨折の大怪我を負いました。その後、皇籍を離脱されました。
    日本三大稲荷に数えられる笠間稲荷の扁額も当時の神宮祭主 北白川房子の揮毫ですので、稲荷に縁がおありだったことが窺えます。故に、骨折だけで済んだということなのでしょうか?

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿<br />稲成神社に祀られている神様は、2柱の女神です。<br />まず、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)=稲成大神です。<br />衣食住の大祖神様・五穀豊穰の神様で、江戸時代から商売繁昌の神様としても信仰され、願望成就の神様として崇敬されています。<br />御神徳:五穀豊穰・産業発展・商売繁昌・開運厄除・福徳円満・願望成就(良縁・学業・受験など)・失せ物(紛失物)発見などのご利益があります。<br /><br />もう1柱は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)=熊野大神です。<br />伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と供に日本の国造りの神です。<br />御神徳:創造開拓・夫婦円満・良縁成就・開運・病魔退散・鬼門除け・方災除け。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿
    稲成神社に祀られている神様は、2柱の女神です。
    まず、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)=稲成大神です。
    衣食住の大祖神様・五穀豊穰の神様で、江戸時代から商売繁昌の神様としても信仰され、願望成就の神様として崇敬されています。
    御神徳:五穀豊穰・産業発展・商売繁昌・開運厄除・福徳円満・願望成就(良縁・学業・受験など)・失せ物(紛失物)発見などのご利益があります。

    もう1柱は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)=熊野大神です。
    伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と供に日本の国造りの神です。
    御神徳:創造開拓・夫婦円満・良縁成就・開運・病魔退散・鬼門除け・方災除け。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所<br />新社殿の裏にも奉拝所があります。あまり知られていないようですが、ここを参拝しなければ、参拝したことにならないそうです。<br />新社殿の左側から裏へ回り込むための飛び石が用意されています。3日前には25cm程の積雪があったそうで、所々にその名残が見られます。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所
    新社殿の裏にも奉拝所があります。あまり知られていないようですが、ここを参拝しなければ、参拝したことにならないそうです。
    新社殿の左側から裏へ回り込むための飛び石が用意されています。3日前には25cm程の積雪があったそうで、所々にその名残が見られます。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所<br />津和野は、既に縄文時代の頃より人が定住していた痕跡があり、鎌倉時代には本格的な城造り、町つくりが始まりました。鎌倉時代中期、文永・弘安の役(元寇)の直後だったこともあり、幕府は海岸警備を強化すべく能登の御家人 吉見頼行を石見国の地頭に任じ、日本海沿岸の防備に当たらせました。頼行は着任後、津和野城の築城に着工し、小規模な曲輪が連なる本格的な山城を築き、三本松城と呼ばせました。<br />戦国時代、吉見家は、主君 大内義隆をクーデターで自刃させた陶晴賢(すえはるかた)や益田家らの大軍に山麓を包囲されて猛攻撃を受けるも、百日余の籠城戦の末、毛利元就の援助を受けて敵軍を退却させました。この戦いは「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に轟かせました。<br />吉見氏は、この後14代続きましたが、関ヶ原の戦いに際して毛利家に与して西軍に味方したため、長州移封の憂き目に遭いました。 <br />その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった坂崎直盛が3万石で入封し、三重天守と累々と続く石垣を備えた近世城郭へ大改修を行い、津和野城の原型を造り上げました。また、現在の津和野の基となる治水、街並の整備等を積極的に進め、一代で津和野藩の礎を形作り、名君と称されました。しかし、坂崎家はかの「千姫事件」により一代で改易となり、その後は亀井家が入封し、明治時代に至るまで代々の居城としました。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所
    津和野は、既に縄文時代の頃より人が定住していた痕跡があり、鎌倉時代には本格的な城造り、町つくりが始まりました。鎌倉時代中期、文永・弘安の役(元寇)の直後だったこともあり、幕府は海岸警備を強化すべく能登の御家人 吉見頼行を石見国の地頭に任じ、日本海沿岸の防備に当たらせました。頼行は着任後、津和野城の築城に着工し、小規模な曲輪が連なる本格的な山城を築き、三本松城と呼ばせました。
    戦国時代、吉見家は、主君 大内義隆をクーデターで自刃させた陶晴賢(すえはるかた)や益田家らの大軍に山麓を包囲されて猛攻撃を受けるも、百日余の籠城戦の末、毛利元就の援助を受けて敵軍を退却させました。この戦いは「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に轟かせました。
    吉見氏は、この後14代続きましたが、関ヶ原の戦いに際して毛利家に与して西軍に味方したため、長州移封の憂き目に遭いました。 
    その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった坂崎直盛が3万石で入封し、三重天守と累々と続く石垣を備えた近世城郭へ大改修を行い、津和野城の原型を造り上げました。また、現在の津和野の基となる治水、街並の整備等を積極的に進め、一代で津和野藩の礎を形作り、名君と称されました。しかし、坂崎家はかの「千姫事件」により一代で改易となり、その後は亀井家が入封し、明治時代に至るまで代々の居城としました。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所<br />油揚げはこのように御供物台の上にお供えします。<br />命婦社では丸い穴の中に落とし込むようになっていましたが、このような平置きで鳥獣が食するようなことはないのだろうかと気を揉むところです。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所
    油揚げはこのように御供物台の上にお供えします。
    命婦社では丸い穴の中に落とし込むようになっていましたが、このような平置きで鳥獣が食するようなことはないのだろうかと気を揉むところです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所<br />現在の津和野の礎を築いた坂崎直盛で有名なのが「千姫事件」です。大坂夏の陣で徳川家康の孫娘を大坂城から救出したために身を滅ぼすとは、何と皮肉なことでしょう。家康の2枚舌に絡め取られたのです。<br />「千姫を助けた者には嫁ぎ先を周旋させる」という家康の甘言を信じた直盛は、炎上する大坂城内から家康の孫で豊臣秀頼の正室 千姫を大火傷を負いながら救出しました(千姫は豊臣方の武将 堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けたとの説が有力)。しかし、秀頼の死後、千姫と公卿の縁組を取り持つも、千姫の我侭で破談し、その直後に徳川家臣 本多忠刻に嫁ぐことが決まったのです。やがて面目を潰された直盛が、輿入行列を襲撃して千姫を強奪しようと画策したのです。直盛には気の毒な気もしますが、忠刻は家康の亡き長男 信康の娘の子ですから、徳川一派に謀られたと諦めるべきだったのかもしれません。<br />しかし、この計画は幕府に露見し、秀忠は坂崎屋敷を包囲して直盛が自決すれば家督相続を許すと持ちかけました。家臣は主君を切腹させるわけにはいかないと拒否し、結局、幕閣の甘言に乗った家臣が酔った直盛の寝首を掻いたと伝えられています。また、立花宗茂の画策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとの説もあり、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は、坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたものとも伝わっています。<br />いずれにせよこの事件のために、坂崎家は津和野城主となって僅か16年でお家断絶となりました。坂崎家断絶後、亀井茲矩が因幡 鹿野城から津和野に入封し明治時代まで続いたのです。<br />余談ですが、姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫屋敷が建てられ、往時の華やかな暮らしぶりが偲ばれます。1618(元和4)年には長女 勝姫、翌年には嫡男 幸千代が生まれ、この頃に千姫は幸福の絶頂期を迎えます。しかし、それも長くは続かず、幸千代は3歳で病死。その後子宝に恵まれなかったことから、秀頼の怨念との噂が立ちます。さらに忠刻や母 江も次々と没し、未亡人となった千姫は出家して天樹院と号し江戸に戻ったのです。

    津和野 太鼓谷稲成神社 新社殿奉拝所
    現在の津和野の礎を築いた坂崎直盛で有名なのが「千姫事件」です。大坂夏の陣で徳川家康の孫娘を大坂城から救出したために身を滅ぼすとは、何と皮肉なことでしょう。家康の2枚舌に絡め取られたのです。
    「千姫を助けた者には嫁ぎ先を周旋させる」という家康の甘言を信じた直盛は、炎上する大坂城内から家康の孫で豊臣秀頼の正室 千姫を大火傷を負いながら救出しました(千姫は豊臣方の武将 堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けたとの説が有力)。しかし、秀頼の死後、千姫と公卿の縁組を取り持つも、千姫の我侭で破談し、その直後に徳川家臣 本多忠刻に嫁ぐことが決まったのです。やがて面目を潰された直盛が、輿入行列を襲撃して千姫を強奪しようと画策したのです。直盛には気の毒な気もしますが、忠刻は家康の亡き長男 信康の娘の子ですから、徳川一派に謀られたと諦めるべきだったのかもしれません。
    しかし、この計画は幕府に露見し、秀忠は坂崎屋敷を包囲して直盛が自決すれば家督相続を許すと持ちかけました。家臣は主君を切腹させるわけにはいかないと拒否し、結局、幕閣の甘言に乗った家臣が酔った直盛の寝首を掻いたと伝えられています。また、立花宗茂の画策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとの説もあり、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は、坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたものとも伝わっています。
    いずれにせよこの事件のために、坂崎家は津和野城主となって僅か16年でお家断絶となりました。坂崎家断絶後、亀井茲矩が因幡 鹿野城から津和野に入封し明治時代まで続いたのです。
    余談ですが、姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫屋敷が建てられ、往時の華やかな暮らしぶりが偲ばれます。1618(元和4)年には長女 勝姫、翌年には嫡男 幸千代が生まれ、この頃に千姫は幸福の絶頂期を迎えます。しかし、それも長くは続かず、幸千代は3歳で病死。その後子宝に恵まれなかったことから、秀頼の怨念との噂が立ちます。さらに忠刻や母 江も次々と没し、未亡人となった千姫は出家して天樹院と号し江戸に戻ったのです。

  • 津和野 太鼓谷稲成 神社<br />神社境内地の高さは 海抜214m、垂直67mあります。  <br />神門の脇から下界を見下ろすと、南西方面に津和野の美しい町並みが眺められます。眼下を蛇行しながら流れる津和野川の清流と石州赤瓦の家並に古里が感じられます。土日祭日にはSLが走りますから、汽笛の音と黒煙が風情に彩りを添えてくれることでしょう。<br /><br />津和野への旅の中で、津和野城址から見下ろした風景を歌にしたのが、さだまさし氏の名曲『案山子』です。<br />「城跡から見下せば 蒼く細い河 橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突・・・♪」。もう数十年前の歌ですが、今でも歌詞さながらの情景が涼やかに目に飛び込んできます。癒し系の歌ですから、この街が醸しだす癒しの波長に共鳴してできあがった歌なのでしょう。<br />『案山子』は、かつて津和野城にあった松の大木が、津和野に育ちながら今は故郷を離れている人々に、「たまには帰ってこい」と呼びかけているという設定だそうです。

    津和野 太鼓谷稲成 神社
    神社境内地の高さは 海抜214m、垂直67mあります。 
    神門の脇から下界を見下ろすと、南西方面に津和野の美しい町並みが眺められます。眼下を蛇行しながら流れる津和野川の清流と石州赤瓦の家並に古里が感じられます。土日祭日にはSLが走りますから、汽笛の音と黒煙が風情に彩りを添えてくれることでしょう。

    津和野への旅の中で、津和野城址から見下ろした風景を歌にしたのが、さだまさし氏の名曲『案山子』です。
    「城跡から見下せば 蒼く細い河 橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突・・・♪」。もう数十年前の歌ですが、今でも歌詞さながらの情景が涼やかに目に飛び込んできます。癒し系の歌ですから、この街が醸しだす癒しの波長に共鳴してできあがった歌なのでしょう。
    『案山子』は、かつて津和野城にあった松の大木が、津和野に育ちながら今は故郷を離れている人々に、「たまには帰ってこい」と呼びかけているという設定だそうです。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社<br />山の裾に巨大な津和野大鳥居が顔を覗かせています。その鳥居の右下、河原近くには森鴎外の旧居が佇んでいます。<br />1968年に建造され太皷谷稲成神社に北九州市の方から寄進されたもので、国道9号から津和野の町へ降りてくる途中に立てられています。朱色のコンクリート製で、高さ18m、柱の直径2m、扁額の大きさは6畳敷分もあるという巨大なものです。寄進された方は、きっとこの鳥居の大きさくらいの大願が成就したのでしょうね!<br />因みに、鳥居の高さの順で言えば、1位は熊野本宮大社 大斎原(和歌山)33.9m、2位は大神神社(奈良)32.2m、3位は弥彦神社(新潟)30.16mです。津和野大鳥居は、ベスト10にも入りません。こうしたデータから、如何に大鳥居なるものが跋扈のごとく造られているかが判ると思います。<br />大型バスはこの大鳥居の所からは降りられず、2km程益田方面(北)へ進み、そこからJR津和野駅へと降りて行きます。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    山の裾に巨大な津和野大鳥居が顔を覗かせています。その鳥居の右下、河原近くには森鴎外の旧居が佇んでいます。
    1968年に建造され太皷谷稲成神社に北九州市の方から寄進されたもので、国道9号から津和野の町へ降りてくる途中に立てられています。朱色のコンクリート製で、高さ18m、柱の直径2m、扁額の大きさは6畳敷分もあるという巨大なものです。寄進された方は、きっとこの鳥居の大きさくらいの大願が成就したのでしょうね!
    因みに、鳥居の高さの順で言えば、1位は熊野本宮大社 大斎原(和歌山)33.9m、2位は大神神社(奈良)32.2m、3位は弥彦神社(新潟)30.16mです。津和野大鳥居は、ベスト10にも入りません。こうしたデータから、如何に大鳥居なるものが跋扈のごとく造られているかが判ると思います。
    大型バスはこの大鳥居の所からは降りられず、2km程益田方面(北)へ進み、そこからJR津和野駅へと降りて行きます。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社<br />一番高い山が青野山です。<br />津和野百景図に数多く描かれ、津和野のシンボルのひとつです。青野山は標高908mのお椀を伏せたような丸い優美な山容が特徴的で、その女性的な容姿から「妹山」とも呼ばれています。津和野八景にも数えられるこの山は、四季を通じて多くの人に親しまれています。どこから見ても同じ形に見えるため、GPSが登場する以前は漁師たちが山立て(方位を見定める基準点)に使っていたそうです。また、古墳時代には、渡来人たちが日本に来航する際の目印として使っていたと言われています。

    津和野 太鼓谷稲成神社
    一番高い山が青野山です。
    津和野百景図に数多く描かれ、津和野のシンボルのひとつです。青野山は標高908mのお椀を伏せたような丸い優美な山容が特徴的で、その女性的な容姿から「妹山」とも呼ばれています。津和野八景にも数えられるこの山は、四季を通じて多くの人に親しまれています。どこから見ても同じ形に見えるため、GPSが登場する以前は漁師たちが山立て(方位を見定める基準点)に使っていたそうです。また、古墳時代には、渡来人たちが日本に来航する際の目印として使っていたと言われています。

  • 津和野 太鼓谷稲成神社<br />漸く道路の所まで戻ってきました。鳥居の向こうには味わいのある石燈篭が佇んでいます。<br />早足で回ったつもりでしたが、ここまでで25分を要しました。<br />後はダッシュあるのみ!

    津和野 太鼓谷稲成神社
    漸く道路の所まで戻ってきました。鳥居の向こうには味わいのある石燈篭が佇んでいます。
    早足で回ったつもりでしたが、ここまでで25分を要しました。
    後はダッシュあるのみ!

  • 津和野 殿町 鷺舞の銅像<br />殿町へ戻ってきました。<br />津和野大橋の袂には、鷺舞の銅像があります。<br />鷺舞は、京都から弥栄神社に伝わった古典芸能神事です。現在まで廃絶することなく奉納され続けている唯一の鷺舞で、貴重な無形文化遺産として学術的にも高く評価されています。<br />鷺舞は、1542(天文11)年に時の城主 吉見正頼が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、元々は京都の八坂神社祇園会に伝えられた神事で、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。しかし、京都では途中で伝統が途絶えてしまい、現在では津和野から逆輸入した鷺舞を踊っているそうです。何事も一度伝統を絶えさせると、復興させるには多大なエネルギーが必要となることは間違いありません。

    津和野 殿町 鷺舞の銅像
    殿町へ戻ってきました。
    津和野大橋の袂には、鷺舞の銅像があります。
    鷺舞は、京都から弥栄神社に伝わった古典芸能神事です。現在まで廃絶することなく奉納され続けている唯一の鷺舞で、貴重な無形文化遺産として学術的にも高く評価されています。
    鷺舞は、1542(天文11)年に時の城主 吉見正頼が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、元々は京都の八坂神社祇園会に伝えられた神事で、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。しかし、京都では途中で伝統が途絶えてしまい、現在では津和野から逆輸入した鷺舞を踊っているそうです。何事も一度伝統を絶えさせると、復興させるには多大なエネルギーが必要となることは間違いありません。

  • 津和野 殿町 <br />本町の南に続く殿町には、かつての上級家臣の屋敷が並んでいます。往時は殿町と本町の間に惣門と番所が設けられ、通行人の監視が行われていたそうです。<br />武家屋敷として現存するのは津和野藩の筆頭家老を担っていた多胡家の屋敷だけですが、白漆喰に海鼠壁の土塀が連なり、また津和野町役場の前には大岡家老門が復元されるなど、武家町の風情を今に伝えています。<br />また殿町通りの両脇には、津和野川の上流から水を引いた掘割水路が通されています。これは城下町の形成に伴い防火用に造られたもので、錦鯉が群れながら悠々と泳いでいます。ここ津和野では鯉は家族同然に扱われ、色とりどりの錦鯉と海鼠壁の土塀の風景が美しいハーモニーを奏でています。しかし、水が少し濁っていることに気付きませんか?実は、2013年の豪雨による被災以来、水が濁ってしまったようです。ろ過機能が有効に働くまでには長い年月が必要かもしれません。<br />坂崎直盛が兵糧のために鯉を養殖したという説がありますが、今日のような「鯉が泳ぐ町」になったは、1934(昭和9)年に民俗学者 宮本常一の薦めで町内の篤志家が掘割に鯉を放流したのが始まりだそうです。<br />殿町に入るにつれて鯉が徐々に大きくなっていくのが不思議です。その肥満度は「異常」としか言いようのない状態です。観光客に餌を任せるようになってから太ってきたそうですが、そもそも鯉にはメタボは存在しないそうです。何故なら、冬になったら食べなくなるし動かなくなるので、大丈夫だそうです。冬眠は、鯉の生理現象のひとつのようです。<br />毎年6月には菖蒲の花が咲き乱れ、紫色の花が景観のアクセントになって一段と美しくなるそうです。<br />因みに、この筋はサスペンスドラマでよく使われるロケ地だそうです。この筋だけで何十件も殺人事件が起きているそうです。

    津和野 殿町
    本町の南に続く殿町には、かつての上級家臣の屋敷が並んでいます。往時は殿町と本町の間に惣門と番所が設けられ、通行人の監視が行われていたそうです。
    武家屋敷として現存するのは津和野藩の筆頭家老を担っていた多胡家の屋敷だけですが、白漆喰に海鼠壁の土塀が連なり、また津和野町役場の前には大岡家老門が復元されるなど、武家町の風情を今に伝えています。
    また殿町通りの両脇には、津和野川の上流から水を引いた掘割水路が通されています。これは城下町の形成に伴い防火用に造られたもので、錦鯉が群れながら悠々と泳いでいます。ここ津和野では鯉は家族同然に扱われ、色とりどりの錦鯉と海鼠壁の土塀の風景が美しいハーモニーを奏でています。しかし、水が少し濁っていることに気付きませんか?実は、2013年の豪雨による被災以来、水が濁ってしまったようです。ろ過機能が有効に働くまでには長い年月が必要かもしれません。
    坂崎直盛が兵糧のために鯉を養殖したという説がありますが、今日のような「鯉が泳ぐ町」になったは、1934(昭和9)年に民俗学者 宮本常一の薦めで町内の篤志家が掘割に鯉を放流したのが始まりだそうです。
    殿町に入るにつれて鯉が徐々に大きくなっていくのが不思議です。その肥満度は「異常」としか言いようのない状態です。観光客に餌を任せるようになってから太ってきたそうですが、そもそも鯉にはメタボは存在しないそうです。何故なら、冬になったら食べなくなるし動かなくなるので、大丈夫だそうです。冬眠は、鯉の生理現象のひとつのようです。
    毎年6月には菖蒲の花が咲き乱れ、紫色の花が景観のアクセントになって一段と美しくなるそうです。
    因みに、この筋はサスペンスドラマでよく使われるロケ地だそうです。この筋だけで何十件も殺人事件が起きているそうです。

  • 津和野 殿町 多胡家老門<br />かつては養老館の辺りに家老屋敷が集まり、津和野藩の中心地でした。多胡家老門は同家の表門で、三間一戸薬医門の形式、屋根は切妻造、浅瓦葺、門の左右には番所を構えて格式があります。構造、意匠共に簡素な造りながら、威厳ある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えています。また、妻側の屋根に螻(けら)という昆虫の羽根の形に似た瓦の螻羽瓦(けらばがわら)をあしらった本格的なものです。この門を見上げると往時の家老の権勢が推し量れます。<br />多胡家は、藩主 亀井家の初代〜11代に亘って筆頭家老を務めた家柄です。特に、鬼主水と呼ばれた多胡真武は、殖産振興業に尽力し、産業の基礎を築きました。また、多胡真蔭は仮名手本忠臣蔵における加古川本蔵のモデルと言われ、亀井慈親に仕えて功があったそうです。更に、幕末の多胡真祇(逸斎)は絵画を谷文晁や桜間青崖に学んで逸作を残し、渡辺崋山と親交があったことが知られています。<br />多胡辰敬が書いた家訓が残されています。彼は、学問や弓馬、算術など諸芸17ヶ条からなる家訓を記しました。「人の用にたつ」人になれという実用主義で貫かれたもので、自らそれを実践したと言われ、「命は軽く、名は重い」は有名な言葉として伝わっています。

    津和野 殿町 多胡家老門
    かつては養老館の辺りに家老屋敷が集まり、津和野藩の中心地でした。多胡家老門は同家の表門で、三間一戸薬医門の形式、屋根は切妻造、浅瓦葺、門の左右には番所を構えて格式があります。構造、意匠共に簡素な造りながら、威厳ある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えています。また、妻側の屋根に螻(けら)という昆虫の羽根の形に似た瓦の螻羽瓦(けらばがわら)をあしらった本格的なものです。この門を見上げると往時の家老の権勢が推し量れます。
    多胡家は、藩主 亀井家の初代〜11代に亘って筆頭家老を務めた家柄です。特に、鬼主水と呼ばれた多胡真武は、殖産振興業に尽力し、産業の基礎を築きました。また、多胡真蔭は仮名手本忠臣蔵における加古川本蔵のモデルと言われ、亀井慈親に仕えて功があったそうです。更に、幕末の多胡真祇(逸斎)は絵画を谷文晁や桜間青崖に学んで逸作を残し、渡辺崋山と親交があったことが知られています。
    多胡辰敬が書いた家訓が残されています。彼は、学問や弓馬、算術など諸芸17ヶ条からなる家訓を記しました。「人の用にたつ」人になれという実用主義で貫かれたもので、自らそれを実践したと言われ、「命は軽く、名は重い」は有名な言葉として伝わっています。

  • 津和野 殿町 藩校「養老館址」<br />津和野の藩風は、明治維新後の日本の近代化を担う偉人を大勢輩出しました。萩藩が幕末の志士を育てたのとは異なり、ここでは賢哲を育成しています。哲学や倫理学、感性など概念的な新しい日本語を次々に生み出した西周、西の縁戚の森鴎外も養老館に学んだひとりです。<br />養老館は町の中心の殿町通りにあり、掘割水路に群れ泳ぐ鯉と共に津和野を代表する風情を魅せています。武家屋敷や白壁に赤い瓦屋根の豪奢な商家が並ぶ殿町・本町界隈は端正な佇まいで、掘割水路の鯉が跳ねる水音が静寂の中に響き渡ります。

    津和野 殿町 藩校「養老館址」
    津和野の藩風は、明治維新後の日本の近代化を担う偉人を大勢輩出しました。萩藩が幕末の志士を育てたのとは異なり、ここでは賢哲を育成しています。哲学や倫理学、感性など概念的な新しい日本語を次々に生み出した西周、西の縁戚の森鴎外も養老館に学んだひとりです。
    養老館は町の中心の殿町通りにあり、掘割水路に群れ泳ぐ鯉と共に津和野を代表する風情を魅せています。武家屋敷や白壁に赤い瓦屋根の豪奢な商家が並ぶ殿町・本町界隈は端正な佇まいで、掘割水路の鯉が跳ねる水音が静寂の中に響き渡ります。

  • 津和野 殿町 藩校「養老館址」<br />1786年に8代藩主 亀井矩賢が創設し、1853年の大火で焼失するも、その2年後に再建された藩校です。藩主が政策として教育に注力し、藩士の子弟に学問や武芸などを教え、津和野文化や人材育成の核となりました。藩は藩士から庶民に至るまで医学を志す者に学資を貸与する、言わば現在の奨学金制度を設けたほどの力の入れようでした。<br />現在遺されている建物は、門の左が剣術教場と居合柔術教場、右が槍術教場、正面奥の土蔵は御書物庫となっています。特に11代藩主 茲監(これみ)は文武の奨励に注力し、全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成しました。<br />「養老館」と書かれた提灯にも風情が漂います。

    津和野 殿町 藩校「養老館址」
    1786年に8代藩主 亀井矩賢が創設し、1853年の大火で焼失するも、その2年後に再建された藩校です。藩主が政策として教育に注力し、藩士の子弟に学問や武芸などを教え、津和野文化や人材育成の核となりました。藩は藩士から庶民に至るまで医学を志す者に学資を貸与する、言わば現在の奨学金制度を設けたほどの力の入れようでした。
    現在遺されている建物は、門の左が剣術教場と居合柔術教場、右が槍術教場、正面奥の土蔵は御書物庫となっています。特に11代藩主 茲監(これみ)は文武の奨励に注力し、全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成しました。
    「養老館」と書かれた提灯にも風情が漂います。

  • 津和野 殿町 大岡家老門<br />津和野藩の家老職を勤めた大岡家の表門です。付属舎などは残されていませんが、規模だけで言えば島根県指定有形文化財に指定されている多胡家の表門と同格です。<br />大岡家老門は、薬医門形式、切妻、桟瓦葺、右側には脇門があって格式の高さが窺え、旧武家屋敷の景観の重要な要素になっています。

    津和野 殿町 大岡家老門
    津和野藩の家老職を勤めた大岡家の表門です。付属舎などは残されていませんが、規模だけで言えば島根県指定有形文化財に指定されている多胡家の表門と同格です。
    大岡家老門は、薬医門形式、切妻、桟瓦葺、右側には脇門があって格式の高さが窺え、旧武家屋敷の景観の重要な要素になっています。

  • 津和野 殿町 津和野町役場庁舎<br />大岡家老門を潜った先にある敷地内には、津和野町役場庁舎が建てられています。<br />この建物は1919年に建造された郡役所を用いています。<br />

    津和野 殿町 津和野町役場庁舎
    大岡家老門を潜った先にある敷地内には、津和野町役場庁舎が建てられています。
    この建物は1919年に建造された郡役所を用いています。

  • 津和野 殿町 津和野カトリック教会<br />1917年にドイツ人シェーファー神父によって創建され、現在は有形文化財に指定されています。現在の主任司祭は、ヴィタリ・ドメニコ神父です。荘厳な雰囲気が漂うゴシック様式の美しい石造教会ですが、その高さ故、武家屋敷が立ち並ぶ殿町界隈でも一際異彩を放ち、存在感を顕にしています。<br />教会正面には、範となった大浦天主堂の入口にあるイエスのモノグラム(イエズス教会の紋章)「IHS」のマークが燦然と輝いています。イエス・キリストはラテン語で「Ihsouz Xristoz」となり、その最初の3文字を示しています。

    津和野 殿町 津和野カトリック教会
    1917年にドイツ人シェーファー神父によって創建され、現在は有形文化財に指定されています。現在の主任司祭は、ヴィタリ・ドメニコ神父です。荘厳な雰囲気が漂うゴシック様式の美しい石造教会ですが、その高さ故、武家屋敷が立ち並ぶ殿町界隈でも一際異彩を放ち、存在感を顕にしています。
    教会正面には、範となった大浦天主堂の入口にあるイエスのモノグラム(イエズス教会の紋章)「IHS」のマークが燦然と輝いています。イエス・キリストはラテン語で「Ihsouz Xristoz」となり、その最初の3文字を示しています。

  • 津和野 殿町 津和野カトリック教会<br />内部は、珍しく畳24枚敷きの和式の祈りの場を持ち、床に落ちたステンドグラスの揺曳がとてもきれいです。しかし、その美しさの陰には明治時代初期に起こった哀しい殉教の歴史があり、その慰霊のために建てられたのがこの教会です。キリシタン迫害の歴史を記憶に留め、2度と同じ過ちを繰り返さない、そんな願いが込められた聖堂です。<br />堂内の中央祭壇は、大浦天主堂のものと同じ様式になっています。ステンドグラスは、アール・デコ調の模様が印象的です。穏やかな春の陽光を通す色ガラスに付けられた格子が周辺の海鼠壁の土塀の風景と折り重なります。<br />敷地内には乙女峠展示室もあり、詳しい歴史が紹介されています。

    津和野 殿町 津和野カトリック教会
    内部は、珍しく畳24枚敷きの和式の祈りの場を持ち、床に落ちたステンドグラスの揺曳がとてもきれいです。しかし、その美しさの陰には明治時代初期に起こった哀しい殉教の歴史があり、その慰霊のために建てられたのがこの教会です。キリシタン迫害の歴史を記憶に留め、2度と同じ過ちを繰り返さない、そんな願いが込められた聖堂です。
    堂内の中央祭壇は、大浦天主堂のものと同じ様式になっています。ステンドグラスは、アール・デコ調の模様が印象的です。穏やかな春の陽光を通す色ガラスに付けられた格子が周辺の海鼠壁の土塀の風景と折り重なります。
    敷地内には乙女峠展示室もあり、詳しい歴史が紹介されています。

  • 津和野 殿町 津和野カトリック教会<br />津和野は隠れキリシタン殉教の地でもあります。1868(明治元)年、153名の隠れキリシタンが長崎県浦上から流配されてきました。「キリシタンは斬首にすべし」という強硬論が渦巻く中、穏健な説諭を説く津和野藩の手腕に世間の耳目が集まりました。この頃、神道研究で名を馳せた津和野藩は、信徒を改心させることに自信を持っていたのです。藩は、廃寺となった乙女峠の光琳寺跡にキリシタンを収容し、最初は下にも置かぬもてなしで迎えました。しかし、改心させることはできませんでした。業を煮やした藩は、説得から拷問へと舵を切り、筆舌に尽くせない辛酸を舐めさせました。着のみ着のままに獄舎でを越冬させることは拷問の極みでした。日増しに加わる減食の責苦、また乙女峠にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息も絶え絶えの者を引き上げて今度は火炙りにして責めました。他藩より説得に注力した分、屈しない信徒への憎悪もまた一段と強く、皮肉にも穏健な説諭を説く筈の津和野藩の拷問が、他藩よりも苛烈だったそうです。<br />結局、信仰を忠実に守り通した信者36名は光琳寺に幽閉され、そこで殉教の道を選びました。その殉教者たちの恩徳を称えるために建てられたのが津和野カトリック教会です。<br />遠藤周作著『女の一生』はフィクションですが、小説で描かれた情景は創作ではなく、津和野の乙女峠で実際に起きた悲劇がほぼそのまま引用されているそうです。<br />また、乙女山の中腹であって峠ではないのに乙女峠と呼ぶのは、長崎の原爆で亡くなった永井隆博士の著書名が『乙女峠』だったことに因むそうです。

    津和野 殿町 津和野カトリック教会
    津和野は隠れキリシタン殉教の地でもあります。1868(明治元)年、153名の隠れキリシタンが長崎県浦上から流配されてきました。「キリシタンは斬首にすべし」という強硬論が渦巻く中、穏健な説諭を説く津和野藩の手腕に世間の耳目が集まりました。この頃、神道研究で名を馳せた津和野藩は、信徒を改心させることに自信を持っていたのです。藩は、廃寺となった乙女峠の光琳寺跡にキリシタンを収容し、最初は下にも置かぬもてなしで迎えました。しかし、改心させることはできませんでした。業を煮やした藩は、説得から拷問へと舵を切り、筆舌に尽くせない辛酸を舐めさせました。着のみ着のままに獄舎でを越冬させることは拷問の極みでした。日増しに加わる減食の責苦、また乙女峠にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息も絶え絶えの者を引き上げて今度は火炙りにして責めました。他藩より説得に注力した分、屈しない信徒への憎悪もまた一段と強く、皮肉にも穏健な説諭を説く筈の津和野藩の拷問が、他藩よりも苛烈だったそうです。
    結局、信仰を忠実に守り通した信者36名は光琳寺に幽閉され、そこで殉教の道を選びました。その殉教者たちの恩徳を称えるために建てられたのが津和野カトリック教会です。
    遠藤周作著『女の一生』はフィクションですが、小説で描かれた情景は創作ではなく、津和野の乙女峠で実際に起きた悲劇がほぼそのまま引用されているそうです。
    また、乙女山の中腹であって峠ではないのに乙女峠と呼ぶのは、長崎の原爆で亡くなった永井隆博士の著書名が『乙女峠』だったことに因むそうです。

  • 津和野 殿町 津和野カトリック教会<br />キリシタン迫害の様子を掻い摘んで紹介いたしましょう。<br />見せしめのため、安太郎は裸のまま雪の中の狭い三尺牢に幽閉されました。明るい性格で立派な人物ゆえ、役人は彼が棄教すれば他の者も改心すると考えたのです。しかし思惑とは逆に、残された者は安太郎のために祈りを捧げました。ある日、床に穴を開けて彼を訪ね、彼の言葉を聞いて驚きました。「私は少しも寂しゅうはありません。毎夜、夜明けまで聖マリア様のような面影のご婦人が頭の上に顕れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです」と語ったそうです。 <br />

    津和野 殿町 津和野カトリック教会
    キリシタン迫害の様子を掻い摘んで紹介いたしましょう。
    見せしめのため、安太郎は裸のまま雪の中の狭い三尺牢に幽閉されました。明るい性格で立派な人物ゆえ、役人は彼が棄教すれば他の者も改心すると考えたのです。しかし思惑とは逆に、残された者は安太郎のために祈りを捧げました。ある日、床に穴を開けて彼を訪ね、彼の言葉を聞いて驚きました。「私は少しも寂しゅうはありません。毎夜、夜明けまで聖マリア様のような面影のご婦人が頭の上に顕れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです」と語ったそうです。 

  • 津和野 殿町 津和野カトリック教会<br />もうひとつは5歳の女の子 モリちゃん(聖カタリナ)の殉教です。飢えに苦しんでいるモリちゃんに役人はお菓子を見せ、「食べてもいいけど、その代わりにキリスト教は嫌いだと言いなさい」と言うと、モリちゃんは、「天国の味の方がもっといい」と即座に答えて永遠の幸せを選んだそうです。<br /><br />人間的に弱かった信者数名は口ではキリスト教を捨てましたが、働いて稼いだお金で信仰を守り通している信者に密かに差し入れをして支援したそうです。この謙遜な痛悔と犠牲心がキリスト教の真の精神だと認めたキリシタンたちは、自由の身になって故郷長崎に帰った際、「ころんだ」仲間たちの弁護をし、彼らを許して再び教徒として迎え入れたそうです。

    津和野 殿町 津和野カトリック教会
    もうひとつは5歳の女の子 モリちゃん(聖カタリナ)の殉教です。飢えに苦しんでいるモリちゃんに役人はお菓子を見せ、「食べてもいいけど、その代わりにキリスト教は嫌いだと言いなさい」と言うと、モリちゃんは、「天国の味の方がもっといい」と即座に答えて永遠の幸せを選んだそうです。

    人間的に弱かった信者数名は口ではキリスト教を捨てましたが、働いて稼いだお金で信仰を守り通している信者に密かに差し入れをして支援したそうです。この謙遜な痛悔と犠牲心がキリスト教の真の精神だと認めたキリシタンたちは、自由の身になって故郷長崎に帰った際、「ころんだ」仲間たちの弁護をし、彼らを許して再び教徒として迎え入れたそうです。

  • 津和野 本町 財間家住宅(明治時代後期築 登録文化財)<br />殿町通り北端の信号機のある交差点を越えると商人の町「本町通り」です。藩主 亀井氏の主導で商業が強く奨励された町であるため、醸造業や製紙業が栄え、特に紙は石州和紙として津和野の特産品として知られていました。<br />風情を湛えた連子格子や石州瓦の重厚な屋敷が軒を連ね、通りには今も白壁の土蔵が残され、造り酒屋や薬局など、趣ある老舗が点在しています。 <br /><br />津和野の伝統的な町家は、切妻造の平入の中2階建あるいは2階建を基調とし、石州瓦の赤と白漆喰の袖壁、虫籠窓、格子窓が印象的です。その中でも特に赤褐色の独特な色合いを見せる瓦がアクセントになっています。出雲地方特有の含鉄土石「来待石」を釉薬にしているため、このような美しい赤色が出せるそうです。また色彩だけでなく、日本3大瓦のひとつに数えられるほど強度や耐寒性にも優れています。

    津和野 本町 財間家住宅(明治時代後期築 登録文化財)
    殿町通り北端の信号機のある交差点を越えると商人の町「本町通り」です。藩主 亀井氏の主導で商業が強く奨励された町であるため、醸造業や製紙業が栄え、特に紙は石州和紙として津和野の特産品として知られていました。
    風情を湛えた連子格子や石州瓦の重厚な屋敷が軒を連ね、通りには今も白壁の土蔵が残され、造り酒屋や薬局など、趣ある老舗が点在しています。

    津和野の伝統的な町家は、切妻造の平入の中2階建あるいは2階建を基調とし、石州瓦の赤と白漆喰の袖壁、虫籠窓、格子窓が印象的です。その中でも特に赤褐色の独特な色合いを見せる瓦がアクセントになっています。出雲地方特有の含鉄土石「来待石」を釉薬にしているため、このような美しい赤色が出せるそうです。また色彩だけでなく、日本3大瓦のひとつに数えられるほど強度や耐寒性にも優れています。

  • 津和野 本町 財間家住宅<br />当初は酒の販売をされていたそうです。<br />明治30年代後半の建造になり、木造2階建、切妻造、桟瓦葺、正面に下屋を付けています。正面2階は両端を大壁とし、その間に広く格子を構え、1階に平格子や出格子を設けています。また、左端には座敷蔵を構え、主屋との間に来客専用の総欅造の本門を構えた津和野の典型的な町屋建築です。<br />妻側の2階は漆喰仕上げとし、鉄格子を持たせた3連窓がアクセントになっています。

    津和野 本町 財間家住宅
    当初は酒の販売をされていたそうです。
    明治30年代後半の建造になり、木造2階建、切妻造、桟瓦葺、正面に下屋を付けています。正面2階は両端を大壁とし、その間に広く格子を構え、1階に平格子や出格子を設けています。また、左端には座敷蔵を構え、主屋との間に来客専用の総欅造の本門を構えた津和野の典型的な町屋建築です。
    妻側の2階は漆喰仕上げとし、鉄格子を持たせた3連窓がアクセントになっています。

  • 津和野 本町 旧河田家具店(明治時代後期築 登録文化財)<br />明治〜大正にかけて質屋や家具屋を営んでいたそうです。<br />明治後期の建造で、木造2階建、切妻造、桟瓦葺です。正面1・2階の窓には木格子を嵌め込んでいます。また、土蔵で周囲を取り囲んでいます。<br />向かいの財間家と双璧をなす代表的な町屋建築です。

    津和野 本町 旧河田家具店(明治時代後期築 登録文化財)
    明治〜大正にかけて質屋や家具屋を営んでいたそうです。
    明治後期の建造で、木造2階建、切妻造、桟瓦葺です。正面1・2階の窓には木格子を嵌め込んでいます。また、土蔵で周囲を取り囲んでいます。
    向かいの財間家と双璧をなす代表的な町屋建築です。

  • 津和野 本町 分銅屋七右衛門本店(江戸時代末期築 登録文化財)<br />分銅屋は、享保2年に御用商人となり、鬢付け油と和蝋燭を扱う商家でした。<br />創業から3百有余年経った現在は、お香や手漉き和紙製品をはじめ、水引や香袋など和子物を扱っています。<br />1853(嘉永6)年の大火で母屋が全焼し、その直後に建てられた重伝建地区内最古の商家建築です。その後昭和初期に大改修され、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、塗屋造、外壁は白漆喰で仕上げられ1階正面には下屋庇が設けられ、その下部には家紋をあしらった板ガラスの欄間が嵌め込まれています。2階の窓には、銅板巻の格子戸を嵌めています。

    津和野 本町 分銅屋七右衛門本店(江戸時代末期築 登録文化財)
    分銅屋は、享保2年に御用商人となり、鬢付け油と和蝋燭を扱う商家でした。
    創業から3百有余年経った現在は、お香や手漉き和紙製品をはじめ、水引や香袋など和子物を扱っています。
    1853(嘉永6)年の大火で母屋が全焼し、その直後に建てられた重伝建地区内最古の商家建築です。その後昭和初期に大改修され、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、塗屋造、外壁は白漆喰で仕上げられ1階正面には下屋庇が設けられ、その下部には家紋をあしらった板ガラスの欄間が嵌め込まれています。2階の窓には、銅板巻の格子戸を嵌めています。

  • 津和野 本町 旧布施時計店(登録文化財)<br />江戸〜昭和初期に建造された商家建築が軒を連ねる本町通りにあって、異彩を放つ存在の戦前築(昭和9年)のモダン建築です。<br />津和野では昭和初期にこのような洋風の外観を持った店舗が出現したそうですが、現在残されている唯一のものです。木造2階建、桟瓦葺、正面ファサードはパラペットを立ち上げたモルタル仕上げとし、外観を石造洋館に見せています。基調は直線的なデザインのアール・デコ調です。トップの丸窓が良いアクセントになっていますが、かつてはここに時計が嵌め込まれていたそうです。つまり丸窓が時計屋さんとしての名残と言えます。<br />現在は、山陰中央新報の津和野支所となっています。

    津和野 本町 旧布施時計店(登録文化財)
    江戸〜昭和初期に建造された商家建築が軒を連ねる本町通りにあって、異彩を放つ存在の戦前築(昭和9年)のモダン建築です。
    津和野では昭和初期にこのような洋風の外観を持った店舗が出現したそうですが、現在残されている唯一のものです。木造2階建、桟瓦葺、正面ファサードはパラペットを立ち上げたモルタル仕上げとし、外観を石造洋館に見せています。基調は直線的なデザインのアール・デコ調です。トップの丸窓が良いアクセントになっていますが、かつてはここに時計が嵌め込まれていたそうです。つまり丸窓が時計屋さんとしての名残と言えます。
    現在は、山陰中央新報の津和野支所となっています。

  • 津和野 本町 旧布施時計店<br />こちらから見てると、どのように正面ファサードを改築したかが一目瞭然です。

    津和野 本町 旧布施時計店
    こちらから見てると、どのように正面ファサードを改築したかが一目瞭然です。

  • 津和野 本町 古橋酒造(登録文化財)<br />古橋酒造店舗兼主屋は、1915(大正10)年頃に建てられた木造2階建、桟瓦葺です。店舗部の1・2階の窓部分に木格子を配し、両脇には軒下を伝わってくる火を防ぐ効果を持つ小さな「袖うだつ」を設けた高い2階建が特徴です。<br />店舗と作業場、酒蔵が71mもの長さで裏通りまで連なり、蔵元の重厚な屋敷景観を残しています。

    津和野 本町 古橋酒造(登録文化財)
    古橋酒造店舗兼主屋は、1915(大正10)年頃に建てられた木造2階建、桟瓦葺です。店舗部の1・2階の窓部分に木格子を配し、両脇には軒下を伝わってくる火を防ぐ効果を持つ小さな「袖うだつ」を設けた高い2階建が特徴です。
    店舗と作業場、酒蔵が71mもの長さで裏通りまで連なり、蔵元の重厚な屋敷景観を残しています。

  • 津和野 本町 古橋酒造<br />須佐之男命が八塩折之酒で八岐大蛇を退治したという神話の世界を今に伝える島根県。古代より酒造の伝統を受け継ぐ県下には、30を超える酒造元があります。津和野町には、清純な水と地元の酒米、そして気候に恵まれ、3軒の蔵元があります。明治初期の創業以来、拘りのあるお酒造りを続けている古橋酒造もその一軒です。昔ながらの佇まいを残す老舗酒蔵では、見学もできます。代表ブランドは「初陣」と言い、その名は初代が17歳の時、広島藩士お馬廻りとして鳥羽伏見の戦いで「初陣」を飾ったことから由来しています。

    津和野 本町 古橋酒造
    須佐之男命が八塩折之酒で八岐大蛇を退治したという神話の世界を今に伝える島根県。古代より酒造の伝統を受け継ぐ県下には、30を超える酒造元があります。津和野町には、清純な水と地元の酒米、そして気候に恵まれ、3軒の蔵元があります。明治初期の創業以来、拘りのあるお酒造りを続けている古橋酒造もその一軒です。昔ながらの佇まいを残す老舗酒蔵では、見学もできます。代表ブランドは「初陣」と言い、その名は初代が17歳の時、広島藩士お馬廻りとして鳥羽伏見の戦いで「初陣」を飾ったことから由来しています。

  • 津和野 本町 古橋酒造<br />入口には姉妹都市「ベルリン」のキャラクター「アンペルマン」の信号機が置かれています。ドイツでは国民的な人気キャラクターです。<br />アンペルマンは、旧東ドイツ時代に交通心理学者カール・ペグラウ氏によって誕生し、現在でもベルリンを中心に活躍中の「歩行者用信号機」です。60年代のモータリゼーションによる交通量の増加に伴い、交通事故から歩行者を守るために視認性に優れたこのデザインが誕生しました。絵文字による誰にでも理解し易い信号は、子供や視覚異常の方、海外旅行者を含む歩行者の安全を守るに相応しいスタイルです。アンペルマンに代表される「絵文字」は、日本でも1964年の東京オリンピックやその後に開催された万国博などで案内のシンボルとして活躍し、現在に受け継がれています。<br />順風満帆のように見えますが、歴史に翻弄された数奇なデザインでもあります。1990年のドイツ再統一後、旧東ドイツのデザインなど多くの文化が消え、アンペルマンも空前の灯火でした。そんな中、アンペルマンに惹かれた旧西ドイツ出身の工業デザイナー マルコス・ヘックハウゼン氏が撤去された信号機を引き取ってライトを制作しました。その反響が大きく、ベルリン市民を中心としたドイツ国内でアンペルマン復刻運動が起こりました。メディアもこの話題を取り上げ、1997年に復刻運動が実を結び、再びベルリンの交差点に復刻したのです。<br />2010年、白金高輪に日本初のフラッグ・シップ・ショップ「AMPELMANN Shop 白金高輪」がオープンしています。<br />2010年からは世界で初めての公共交通としてアンペルマンバスが津和野町営バスとして6台走り、津和野町のメインストリートには初陣の古橋酒造、菓子の三松堂にShop in Shopができました。

    津和野 本町 古橋酒造
    入口には姉妹都市「ベルリン」のキャラクター「アンペルマン」の信号機が置かれています。ドイツでは国民的な人気キャラクターです。
    アンペルマンは、旧東ドイツ時代に交通心理学者カール・ペグラウ氏によって誕生し、現在でもベルリンを中心に活躍中の「歩行者用信号機」です。60年代のモータリゼーションによる交通量の増加に伴い、交通事故から歩行者を守るために視認性に優れたこのデザインが誕生しました。絵文字による誰にでも理解し易い信号は、子供や視覚異常の方、海外旅行者を含む歩行者の安全を守るに相応しいスタイルです。アンペルマンに代表される「絵文字」は、日本でも1964年の東京オリンピックやその後に開催された万国博などで案内のシンボルとして活躍し、現在に受け継がれています。
    順風満帆のように見えますが、歴史に翻弄された数奇なデザインでもあります。1990年のドイツ再統一後、旧東ドイツのデザインなど多くの文化が消え、アンペルマンも空前の灯火でした。そんな中、アンペルマンに惹かれた旧西ドイツ出身の工業デザイナー マルコス・ヘックハウゼン氏が撤去された信号機を引き取ってライトを制作しました。その反響が大きく、ベルリン市民を中心としたドイツ国内でアンペルマン復刻運動が起こりました。メディアもこの話題を取り上げ、1997年に復刻運動が実を結び、再びベルリンの交差点に復刻したのです。
    2010年、白金高輪に日本初のフラッグ・シップ・ショップ「AMPELMANN Shop 白金高輪」がオープンしています。
    2010年からは世界で初めての公共交通としてアンペルマンバスが津和野町営バスとして6台走り、津和野町のメインストリートには初陣の古橋酒造、菓子の三松堂にShop in Shopができました。

  • 津和野 本町 古橋酒造<br />津和野町は寒冷の地。澄んだ伏流水にも恵まれ日本酒造りが盛んです。本町通りには3軒の酒蔵が並んでいます。日本酒好きではなくても、蔵元ならではの店の佇まいと商品は魅力的です。<br />店の奥には、地元の左官 藤本誠一氏が寄贈した「龍の鏝絵(こてえ)」が掲げられています。リアルで大迫力の龍の姿に吃驚ポンです。

    津和野 本町 古橋酒造
    津和野町は寒冷の地。澄んだ伏流水にも恵まれ日本酒造りが盛んです。本町通りには3軒の酒蔵が並んでいます。日本酒好きではなくても、蔵元ならではの店の佇まいと商品は魅力的です。
    店の奥には、地元の左官 藤本誠一氏が寄贈した「龍の鏝絵(こてえ)」が掲げられています。リアルで大迫力の龍の姿に吃驚ポンです。

  • 津和野 本町 さゝや呉服店(江戸時代末期築 登録文化財)<br />安政年間の建築物が残されたさゝやは、御用商人として呉服商を営んでいました。<br />切妻造、桟瓦葺に銅瓦棒葺の下屋庇を付け、背面は葺き降ろしています。また、通り側の2階には、鉄格子を持つ窓が4つ連なっています。<br />全体として建築当初の様式を残しているそうです。

    津和野 本町 さゝや呉服店(江戸時代末期築 登録文化財)
    安政年間の建築物が残されたさゝやは、御用商人として呉服商を営んでいました。
    切妻造、桟瓦葺に銅瓦棒葺の下屋庇を付け、背面は葺き降ろしています。また、通り側の2階には、鉄格子を持つ窓が4つ連なっています。
    全体として建築当初の様式を残しているそうです。

  • 津和野 本町 さゝや呉服店<br />座敷蔵は、土蔵造、2階建、東西棟は切妻造、桟瓦葺です。<br />腰壁は海鼠壁とし、各階に瓦庇付の窓を開け、銅製の開戸を吊り、上部に家紋を飾っています。<br />

    津和野 本町 さゝや呉服店
    座敷蔵は、土蔵造、2階建、東西棟は切妻造、桟瓦葺です。
    腰壁は海鼠壁とし、各階に瓦庇付の窓を開け、銅製の開戸を吊り、上部に家紋を飾っています。

  • 津和野 本町 海老舎(えびや)<br />古橋酒造の斜め向かいにある海老舎は、雑貨店を営んでいます。<br />登録文化財ではありませんが、風情があり、開放感があります。<br />築170年の造り醤油屋を改装した店舗で、全国の作家さんから仕入れた陶器や小物、紙や布製品などを多数扱っています。「醤油屋」の古い看板が名残を見せています。店の奥にある「マニマニの間」では、お客さんにゆっくりと思い思いに過ごしていただきたいと椅子や机などが置かれています。

    津和野 本町 海老舎(えびや)
    古橋酒造の斜め向かいにある海老舎は、雑貨店を営んでいます。
    登録文化財ではありませんが、風情があり、開放感があります。
    築170年の造り醤油屋を改装した店舗で、全国の作家さんから仕入れた陶器や小物、紙や布製品などを多数扱っています。「醤油屋」の古い看板が名残を見せています。店の奥にある「マニマニの間」では、お客さんにゆっくりと思い思いに過ごしていただきたいと椅子や机などが置かれています。

  • 津和野 本町 橋本酒造(登録文化財)<br />橋本酒造店舗兼主屋は、1883(明治16)年頃に建てられた木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、2階は塗屋造、白漆喰仕上げ、正面開口部には格子戸と虫籠窓、外壁両側には「袖うだつ」が設けられています。<br />左端にある道具蔵も同時期に建てられ、土蔵造、2階建、切妻、桟瓦葺です。腰壁は海鼠壁とし、主屋と道具蔵の間に来客専用の表門を構え、津和野の商家を代表する建造様式です。

    津和野 本町 橋本酒造(登録文化財)
    橋本酒造店舗兼主屋は、1883(明治16)年頃に建てられた木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、2階は塗屋造、白漆喰仕上げ、正面開口部には格子戸と虫籠窓、外壁両側には「袖うだつ」が設けられています。
    左端にある道具蔵も同時期に建てられ、土蔵造、2階建、切妻、桟瓦葺です。腰壁は海鼠壁とし、主屋と道具蔵の間に来客専用の表門を構え、津和野の商家を代表する建造様式です。

  • 津和野 本町 俵屋華泉酒造(登録文化財)<br />享保年間から続く創業260年の老舗造り酒屋で、建物は明治中期の建築です。<br />1階は全面を木格子とし、2階には3面に漆喰の虫籠窓を設け、両脇に袖うだつを配しています。主屋の両脇には土蔵(左:道具蔵、右:衣装蔵)を配し、背後の通りまで酒蔵が並んでいます。道具蔵は主屋より少し前の1830(文政13)年頃に建てられ、2階建、切妻、桟瓦葺です。両脇に蔵を配する構造は、津和野においても特異な例で、商家の雰囲気をよく残しています。<br />代表ブランドは「華泉}で、酒蔵ギャラリーも2階に併設しています。

    津和野 本町 俵屋華泉酒造(登録文化財)
    享保年間から続く創業260年の老舗造り酒屋で、建物は明治中期の建築です。
    1階は全面を木格子とし、2階には3面に漆喰の虫籠窓を設け、両脇に袖うだつを配しています。主屋の両脇には土蔵(左:道具蔵、右:衣装蔵)を配し、背後の通りまで酒蔵が並んでいます。道具蔵は主屋より少し前の1830(文政13)年頃に建てられ、2階建、切妻、桟瓦葺です。両脇に蔵を配する構造は、津和野においても特異な例で、商家の雰囲気をよく残しています。
    代表ブランドは「華泉}で、酒蔵ギャラリーも2階に併設しています。

  • 津和野 本町 倉益開正堂<br />源氏巻をはじめとした和菓子屋を営まれている老舗です。<br />津和野出身の画家 安野光雅氏が子供の頃によく通われたお店だそうです。「開正堂の丁稚小僧になりたかった」という安野氏は、工場にやってきては飴玉や餡子を舐めていたそうです。源氏巻はこし餡が定番ですが、ここはそれ以外にも、つぶ餡、うぐいす餡、抹茶餡などバラエティ豊富です。<br />ショップのHPです。<br />http://tsuwano-kanko.net/shop/user_data/kaiseido.php<br /><br />せっかくですので、源氏巻誕生にまつわる逸話を紹介いたしましょう。<br />赤穂藩 浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起きる3年前のことでした。第3代藩主 亀井慈親は、幕府から公儀饗応役を命じられ、指南役 吉良上野介から辱めを受けます。余りの悔しさに藩主は上野介を斬ろうと画策しますが、これを知った家老 多胡外記は、大事に至らぬようにと機転を利かせ、上野介に進物を贈って穏便に済ませ、お家取潰しを免れました。この時の進物が「小判をカステラのような平らな生地に包んだ、小判形のお菓子」でした。これが名物「源氏巻き」の原型とされ、現在も縁起の良いお菓子として親しまれています。<br />歴史に「もしも」はご法度ですが、この時、家老が諌めなければ、「赤穂浪士事件」ではなく、「津和野浪士事件」が勃発していたかも知れません。<br />ところで、「赤穂浪士事件」の浅野内匠頭が何故刃傷に及んだか、その理由は実のところ定かではないそうです。詳しい供述書があったものの、それが伝わっていないからです(意図的に隠匿された可能性大)。<br />「井の中の鮒、鮒侍」と罵られたからというのは、『仮名手本忠臣蔵』の創作です。最も一般的なのが賄賂説で、相役(院使接待役)の伊達左京亮が上野介に厚く賄を贈ったのに対し、浅野内匠頭はそれを潔しとしなかったためにいじめられたという説です。この説は諸書にも記され、正史『徳川実記』にも載せられています。多胡外記も賄賂で事なきを得たようですので、賄賂説を裏付けるもののようにも思えます。<br />「源氏巻」の名前の由来はこうです。<br />文久年間(1861〜4年)の頃、藩主 亀井家の御用菓子職人の財間善一郎が黄金色の外皮に紫色の餡を包んだ菓子を作って献上した際、亀井茲監の夫人に雅趣ある名称を付けて欲しいと願い出ました。<br />この求めに応じ、源氏が若紫について詠んだ歌「「手に摘みて いつしかも見む紫の 根にかよひける 野辺の若草」を参考に「源氏巻」と名付けたと言われています。

    津和野 本町 倉益開正堂
    源氏巻をはじめとした和菓子屋を営まれている老舗です。
    津和野出身の画家 安野光雅氏が子供の頃によく通われたお店だそうです。「開正堂の丁稚小僧になりたかった」という安野氏は、工場にやってきては飴玉や餡子を舐めていたそうです。源氏巻はこし餡が定番ですが、ここはそれ以外にも、つぶ餡、うぐいす餡、抹茶餡などバラエティ豊富です。
    ショップのHPです。
    http://tsuwano-kanko.net/shop/user_data/kaiseido.php

    せっかくですので、源氏巻誕生にまつわる逸話を紹介いたしましょう。
    赤穂藩 浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起きる3年前のことでした。第3代藩主 亀井慈親は、幕府から公儀饗応役を命じられ、指南役 吉良上野介から辱めを受けます。余りの悔しさに藩主は上野介を斬ろうと画策しますが、これを知った家老 多胡外記は、大事に至らぬようにと機転を利かせ、上野介に進物を贈って穏便に済ませ、お家取潰しを免れました。この時の進物が「小判をカステラのような平らな生地に包んだ、小判形のお菓子」でした。これが名物「源氏巻き」の原型とされ、現在も縁起の良いお菓子として親しまれています。
    歴史に「もしも」はご法度ですが、この時、家老が諌めなければ、「赤穂浪士事件」ではなく、「津和野浪士事件」が勃発していたかも知れません。
    ところで、「赤穂浪士事件」の浅野内匠頭が何故刃傷に及んだか、その理由は実のところ定かではないそうです。詳しい供述書があったものの、それが伝わっていないからです(意図的に隠匿された可能性大)。
    「井の中の鮒、鮒侍」と罵られたからというのは、『仮名手本忠臣蔵』の創作です。最も一般的なのが賄賂説で、相役(院使接待役)の伊達左京亮が上野介に厚く賄を贈ったのに対し、浅野内匠頭はそれを潔しとしなかったためにいじめられたという説です。この説は諸書にも記され、正史『徳川実記』にも載せられています。多胡外記も賄賂で事なきを得たようですので、賄賂説を裏付けるもののようにも思えます。
    「源氏巻」の名前の由来はこうです。
    文久年間(1861〜4年)の頃、藩主 亀井家の御用菓子職人の財間善一郎が黄金色の外皮に紫色の餡を包んだ菓子を作って献上した際、亀井茲監の夫人に雅趣ある名称を付けて欲しいと願い出ました。
    この求めに応じ、源氏が若紫について詠んだ歌「「手に摘みて いつしかも見む紫の 根にかよひける 野辺の若草」を参考に「源氏巻」と名付けたと言われています。

  • 津和野 殿町 松韻亭(沙羅の木)<br />殿町通りの北端にあるのは、大正レトロ風な造りの沙羅の木です。<br />松韻亭は津和野藩第3家老 田中家の屋敷跡にあります。国指定の登録記念物認定された閑静な日本庭園を眺めながら、手づくりの季節料理と抹茶が味わえます。<br />トイレを間に挟み、この建屋と反対側にあります。<br /><br />時間に追われたため「鯉のおる米屋」、「安野光雅美術館」、「JR津和野駅」はスキップしました。あわただしい散策でしたが、積年の悲願が実った充実した彷徨ができました。ゆっくり見るには1.5時間以上は欲しい所です。ツアーを企画されている方には参考にしていただけると幸甚です。<br /><br />この後、バスは津和野を離れ、国道9・262号線を走って萩の街へ向かいます。この続きは、早春賦 西国放浪記③萩城下町(番外編)でお届けいたします。

    津和野 殿町 松韻亭(沙羅の木)
    殿町通りの北端にあるのは、大正レトロ風な造りの沙羅の木です。
    松韻亭は津和野藩第3家老 田中家の屋敷跡にあります。国指定の登録記念物認定された閑静な日本庭園を眺めながら、手づくりの季節料理と抹茶が味わえます。
    トイレを間に挟み、この建屋と反対側にあります。

    時間に追われたため「鯉のおる米屋」、「安野光雅美術館」、「JR津和野駅」はスキップしました。あわただしい散策でしたが、積年の悲願が実った充実した彷徨ができました。ゆっくり見るには1.5時間以上は欲しい所です。ツアーを企画されている方には参考にしていただけると幸甚です。

    この後、バスは津和野を離れ、国道9・262号線を走って萩の街へ向かいます。この続きは、早春賦 西国放浪記③萩城下町(番外編)でお届けいたします。

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