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〝第十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の足跡を訪ねて~〟<br /><br />史上稀に見る地上戦が行われた沖縄。日本各地で徴兵された兵士はもとより、沖縄の住民をも巻き込んだ戦いでは、20万人を超える犠牲者を出しました。南方戦線での戦況悪化に伴い当初沖縄戦に投入された第9師団が台湾に抽出され、それを補うために満州より第24師団が投入されます。<br /><br />米軍を迎え撃つ日本軍は、第32軍牛島満司令官以下陸軍部隊第62師団・第24師団・独立混成第44旅団で86,400名(沖縄徴兵を含む)と海軍沖縄根拠地隊10,000名の総勢96,400名。加えて沖縄で現地徴兵された防衛隊と学徒隊合わせて22,000名。すべて合わせても118,400名で、沖縄上陸米軍兵力は総兵力18万3,000名とされているものから考えても、正規兵の約3倍、総動員数でも約2倍の兵力を迎え撃たなければいけないこととなります。<br /><br />その現地徴兵された沖縄の住民の中で、話題にのぼることが多い〝学徒隊〟というものがあります。沖縄県に戦前あった旧制中学や高等女学校の生徒によって構成されたほぼ強制的に徴兵された〝軍属〟の扱いで従軍したまだ10代の少年少女達がいました。21校の学校の生徒により構成された学徒隊の総数は20ありました。男子は切込み隊や通信兵等歩兵と同じ任務に就き、女子は学徒看護隊として陸軍病院での看護補助要員として任務についていました。<br /><br />その中のひとつである〝ひめゆり学徒看護隊〟。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と引率教師18名からなる240名から構成された大所帯の学徒隊ですが、沖縄戦に於いて従軍し123名が犠牲となっています。戦後なにかと取り上げられることが多く映画にもなりました。また彼女達がいた伊原第三外科壕跡は〝ひめゆりの塔〟が建立され、南部戦跡の一大立ち寄り地点として現在に至っています。<br /><br />多くの犠牲者を出しながら、なぜ他の学徒隊と比較すると取り上げられることが多かったのか。きれいな言葉では言えませんが、動員数も多かった半面生存者も多く、その足跡を辿ったものが多く存在したことがその理由です。しかし〝ありのまま〟というわけではなく、着色されたものも多いため、本当のことが語られていないところも多く見受けられます。沖縄師範学校女子部の生徒動員数157名のうち戦死者81名(52.0%)、沖縄県立第一高等女学校生徒動員数61名のうち戦死者42名(64.7%)、学徒隊として動員数222名のうち戦死者123名(55.4%)は学徒犠牲者の戦死率では高いものではあるものの、遺族や生存者の手によって記録が残されたものも多いことなどが、多くの方の目に触れることに繋がったようにも思えます。<br /><br />先ずは沖縄師範学校女子部の歴史ですが…<br />大正4(1915)年4月1日沖縄県師範学校に併置される形で〝沖縄県女子師範学校〟を設置。<br />大正5(1916)年1月真和志村大道の県立高等女学校校地に移転。<br />大正14(1925)年5月、高等女学校卒業者を対象に本科第2部を設置。<br />昭和18(1943)年4月1日、沖縄県師範学校と沖縄県女子師範学校を統合し、官立〝沖縄師範学校〟が設置。旧沖縄県師範学校校舎に〝男子部〟が、旧沖縄県女子師範学校校舎に〝女子部〟を設置。女子部は予科 (3年制)・本科 (2年制)・専攻科 (1年制) で発足する。<br />昭和20(1945)年3月23日、師範学校女子部・第一高等女学校学徒隊が動員される(後にひめゆり学徒隊と呼ばれる)。<br />昭和20(1945)年3月29日、女子部校舎が爆撃・砲撃で壊滅する。<br />同日夜、師範女子部及び一高女生徒の卒業式を三角兵舎にて挙行される。<br />昭和20(1945)年6月21日、野田貞雄校長が慶座絶壁海岸で生徒2名と共に戦死する。<br /><br />沖縄戦で校舎を失った上、戦後は沖縄県が日本の統治下から離れたことにより、後身校を持たずに廃止される。多くの師範学校が新生国立大学教員養成課程に改組されたものとは異なり、新制大学への継承関係は持っていません。<br /><br />現在も那覇市大道には、女子部の代用附属だった那覇市立大道小学校が存在し、平成14(2002)年には、ひめゆり同窓会によって大道小学校敷地内に学校跡地の碑が建立され現在に至っています。<br /><br />また沖縄県立第一高等女学校の歴史については…<br />明治33(1900)年6月20日 、私立沖縄高等女学校設立。<br />明治36(1903)年4月2日、沖縄県立高等女学校に改称。<br />明治41(1908)年11月1日、校舎竣工移転。<br />大正5(1916)年1月12日、沖縄県女子師範学校が移転し並置となる。<br />大正15(1926)年、制服がセーラー服に正式決定。<br />昭和2(1927)年、姫百合会発足(校友会で、本校の校友会と女子師範学校の学友会が合同)。<br />昭和3(1928)年3月31日、沖縄県立第一高等女学校に改称。<br />昭和16(1941)年、それまで自由だった髪型が1年生おかっぱ、2年生分け髪、3年生分けて結ぶ、4年生三つ編みと決められた。<br />昭和16(1941)年、この年の入学生からセーラー服がへちま襟に変更される。<br />昭和17(1942)年、この年の後半から通学がスカートの代わりにもんぺ着用になる。<br />昭和20(1945)年3月23日、米軍の沖縄上陸作戦開始。<br />昭和20(1945)年3月23日、学徒隊出発式が挙行される。<br />昭和20(1945)年3月29日 、空襲により校舎灰燼に帰す。<br />同日夜、師範女子部及び一高女生徒の卒業式を南風原病院壕三角兵舎にて挙行される。<br />昭和20(1945)年6月18日、 学徒隊解散命令が出される。<br />沖縄戦により校舎が壊滅し、戦後復興されることなく廃校となる。<br /><br />米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊が結成され、沖縄陸軍病院に看護要員として動員されました。名目上は志願とはされているものの、現実にはほぼ強制だったことは他の学徒隊と同じだったようです。学徒隊出発式を行った後一度南風原国民学校に拠点を移し、その後南風原病院壕へと移動します。<br /><br />那覇にあった高等女学校の学徒看護隊と大きく異なることは、それぞれの学徒は師団隷下の野戦病院に配属となっていますが、ひめゆり学徒が配属された沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)直轄〝球18803部隊〟の略称が付けられていました。病院規模の大きさと従軍した学徒数が比例していることから容易に想像できることですが、その最初の拠点であった南風原病院壕では本部、内科、外科、伝染病科に分かれており、付近一帯に掘られた40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容していたそうです。<br /><br />南風原病院壕に到着して間もなく、米軍の上陸により前線の負傷兵が増加するのに伴って内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更されることとなります。その後本島中部での熾烈な戦いの結果多くの重症患者が南風原にも運び込まれてくることとなり、南風原病院壕付近に分院壕が作られ、そこにひめゆり学徒も配属されることとなります。一日橋分院壕・識名分院壕・糸数壕(糸数アブチラガマ)等が置かれました。<br /><br />一旦南風原陸軍病院へと配属された学徒達は、以下のように配置換えや移動を行っています。<br />昭和20(1945)3月28日 沖縄県立第一高等女学校3・4年生16名が第32軍津嘉山経理部へと配置換えとなる。<br />4月19日 沖縄県立第一高等女学校3年生21名が一日橋分室へ配置換えとなる。後にその中から識名分室へ10名が配置換えとなり、その後2名が新たに合流する<br />4月26日 機銃掃射により沖縄師範女子部学徒1名が戦死(学徒初の戦死者)。<br />4月28日 沖縄師範学校女子部学徒14名が玉城村糸数分室へと配置換えとなる。なお糸数分室とは糸数アブチラガマのこと。<br />5月4日 病院壕一帯が猛烈な艦砲射撃を受け師範女子部学徒2名が戦死。<br />5月5~8日 沖縄師範女子部学徒3名が重傷を負う。<br />5月8日 一日橋分室壕が黄燐弾攻撃にあい一高女学徒3名戦死し2名が重傷を負う。<br />5月13日 沖縄師範女子部学徒8名が糸数分室へ移動する。<br />5月13日 迫撃砲により一高女学徒1名戦死。<br />5月15日 艦砲射撃により沖縄師範女子部学徒1名戦死。<br />5月25日 広池病院長が首里より戻り、『5月28日までに山城地区に転進し、2,000名収容の陸軍病院を開設すべし』との第32軍司令部からの軍命を伝える。軽傷者は第一線に送り返し、独歩患者は極力自力によって転進させる。そして重症患者(2000余名)は処置すると決められる。<br />同日夜南風原を出発し南部へと向かう。2名の重症学徒は親泊教諭が、負傷学徒3名は担架に乗せられて出発し、与座の先で糸数分室の一隊と合流し、その後真栄平で第一外科、真壁で第二・第三外科と合流して南下する。<br /><br />5月25日 高嶺の精糖工場付近で沖縄師範女子部学徒1名が艦砲射撃により戦死。<br /><br />5月26日 摩文仁村伊原へ到着した沖縄陸軍病院部隊は、山城本部壕・波平第一外科壕・糸洲第二外科壕・伊原第三外科壕・伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置されます。到着当時伊原の集落は平和で住民も家で寝起きしていたそうです。<br /><br />5月31日 津嘉山経理部が南部へ撤退する。<br /><br />6月初旬にようやく病院壕が決定し、本部壕は山城集落の自然壕で5・60名程が収容できるものでした。第一外科は本部から500m程離れた畑の中にある二つの洞窟が充てられ、第一外科と併せて糸数分室が収容されることになりました。第三外科は現ひめゆりの塔の場所にある壕が充てられ、識名分室も収容されることとなります。第二外科は糸洲の地にあり少し不便な場所であっただけでなく狭い場所だったとされており、病院要員しか収容できず退避した患者の多くは付近の集落や洞窟から通ってくるという有様だったようです。<br /><br />6月10日 津嘉山経理部の学徒達に解散命令が出され、伊原第一外科壕へと合流する。<br /><br />6月11日 一日橋・識名分室学徒達は伊原第三外科壕へ合流する。その際親泊教諭とともに一高女生徒を連れて第三外科壕へと向かう。<br /><br />6月14日 山城本部壕が直撃弾を受け伝令に来ていた沖縄師範女子部学徒2名が戦死。広池院長も重傷を負い、片足切断の手術を受けるも翌日戦死。<br />6月16日 病院本部壕にいた学徒は第一外科と第三外科の壕に分散する事になり、〝じゃんけん〟の勝ち負けでそれを決めたとの記録が残っています。勝った方が第三外科に、負けた方の6名は伊原の大田壕に移ることになります。また波平第一外科壕の生徒の一部が伊原第一外科壕へと移動しました。<br /><br />6月17日 伊原第一外科壕が砲撃を受け沖縄師範女子部学徒2名と一高女学徒1名が戦死。一高女学徒3名が重傷を負います。<br /><br />6月18日 糸洲第二外科壕が米軍の馬乗り攻撃を受け、夜に生徒の多くは伊原第一外科壕へ移動する。同日には波平第一外科壕の生徒も伊原第一外科壕へ移動。その夜各壕の生徒に解散命令下る。<br /><br />6月19日朝 伊原第三外科壕に黄燐弾が投げ込まれ、奇跡的に生き残った5名を除く4名の教師と38名の生徒が戦死しました。そして学徒2名と教師1名が、なんとか壕からは脱出したものの銃撃を受けて戦死します。<br /><br />6月21日 荒崎海岸まで逃げてきた学徒や教師ではありましたが、海には米艦船、陸には米軍兵士という絶体絶命の場所に於いて教師1名・一高女学徒7名・卒業生1名・二女高生徒1名の10名が手榴弾にて自決。付近にて米軍の銃撃を受けた3名が死亡、2名が重傷を負いました。<br /><br />結果として123名のうら若き乙女たちの犠牲を出して、ひめゆり学徒看護隊としての活動を終える形となりました。鉄の暴風が過ぎ去った沖縄でひめゆり学徒の足跡を辿ったのは、真和志村村長の金城和信夫妻でした。二人の娘はひめゆり学徒として従軍し戦死されています。その足掛かりとなったのは伊原第三外科壕の発見でした。その後真和志村村民の協力により付近に散乱していた遺骨収集が進み、昭和21(1946)年4月にこの伊原第三外科壕前に初代〝ひめゆりの塔〟が建立されました。<br /><br />時は進みひめゆり同窓会の手によって平成元(1989)年にひめゆりの塔敷地内にひめゆり平和祈念館が建てられ、ひめゆり学徒の足跡をはじめとした沖縄戦の傷跡を紹介し続けて現在に至っています。<br /><br />その他にもひめゆり学徒を取り上げた書籍や映画等も作られ、結果多くの人がひめゆり学徒を知り、若くして散る選択しか取れなかったその凄惨な戦争という背景を、ひめゆり学徒が祀られているひめゆりの塔を訪れることによって知るきっかけになったことは疑いのない事実だと思います。<br /><br />私自身来沖の回数がそれほどなかった頃は、ひめゆりの悲劇こそが沖縄戦の悲劇であったと思っていた時期もありました。しかし何度も沖縄を訪れるにつれ、沖縄戦の悲劇はなにもひめゆり学徒の話だけではないことを知りました。学徒隊というとひめゆり学徒だけではなく、女子学徒が従軍した学校の数は那覇にあった学校だけでも沖縄師範女子部と沖縄県立第一高等女学校の〝ひめゆり学徒〟、沖縄県立第二高等女学校の〝白梅学徒〟、沖縄県立首里高等女学校の〝瑞泉学徒〟、私立沖縄昭和高等女学校の〝梯梧学徒〟、積徳高等女学校の〝ふじ(積徳)学徒〟と6校5つの学徒があった事実を知ることになります。なぜその他の学徒のことを知らなかったのか…。ひとつは知るきっかけがなかったこともありますが、知ろうともしていなかった事実もあります。<br /><br />そのことを思い返し、個々の学徒所縁の戦跡を回り始めるとその他の学徒の足跡は見えてきたものの、肝心な情報が意外に少ないことを知りました。学徒動員された少女の年齢は今の高校生と同じ年齢、鉛筆が転がるだけでも笑い転げていた時期でしょう。そこに戦争という時代背景が来ることによって、その後の楽しく過ごせただろう学生生活をはじめ人生をも狂わせられてしまった…。その背景はすべての学徒に共通するものだと思います。しかし学徒を祀る慰霊碑を訪れる人々の数には大きな開きがあり、人によっては知らない人がいるという事実。この背景にはひとつ〝史実の捉え方の差〟があるように思えてなりません。中学や高校で受ける日本史の授業には順番があり古い時代から教わるため、近代から現代史となる第二次世界大戦のことを触れる時期には〝時間切れ〟となってしまい、知識を得ることなく終わってしまっていることは周知の事実です。その〝片手落ち〟の教育の中で戦争を知るには、大学等で近代・現代史を専攻するしかないという特殊な現実が待ち構えることになります。多くの学生がいる中でどれだけの割合が専攻するかは、語る必要もないことでしょう。またこの学徒隊の犠牲者を〝割合〟で出している統計論にも問題があるようにも思えます。何人に一人が亡くなったのか=パーセンテージ。その数字が大きいか否かだけで判断してしまう傾向があることにも否めない理由があります。つまり〝結果論がすべて〟だという考え。学校の勉強も〝確率の低いもの〟は〝敢えて手を付けないで〟といった勉強法からも窺い知れることではないでしょうか。<br /><br />そのようなことを背景にし、自分の想いを込めて学徒の足跡を回ってきました。資料も少ない反面、所属部隊がはっきりすると一筋に繋がる道程が見えてきます。それが今までに見て書いてきた学徒隊の軌跡ではありますが、最後に残ったひめゆり学徒の足跡は、意外な理由からなかなか進まなくて最後になってしまった理由があります。それは半ば観光地化されている〝ひめゆりの塔〟〝ひめゆり平和祈念館〟以外は場所すら明記されていないものが多々あるという事実です。<br /><br />沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、官立と県立という違いはあれど当時の沖縄県の台所事情から姉妹校の扱いを受け現那覇市立大道小学校付近併置されました。沖縄が戦場になることが不可避になりつつある昭和20(1945)年にこの両校の学生から構成される〝ひめゆり学徒看護隊〟が結成され、僅かな期間の看護実習を受けた後南風原国民学校に置かれていた沖縄陸軍病院に配属されます。その後現南風原陸軍病院壕群として戦争遺跡登録をされている南風原病院壕へと移動し、本格的な看護補助業務に就くことになります。中部戦線から送られる重症兵士数の増加により南風原陸軍病院分院として、一日橋分院壕・識名分院壕・糸数壕等が置かれ、そこへも学徒が配属されます。この分院壕の話あたりから情報が錯誤しており、糸数壕は現在の糸数アブチラガマである確認は取れているものの、一日橋分院壕は埋没壕とされており詳細はわからずじまい。しかし識名分院壕は識名壕との取り違えが多々見られるところでもあります。識名4丁目識名壕は住宅の下にある壕ですが、第62師団野戦病院の分院壕として利用されていたものでした。それに対し識名分院壕はあくまで第32軍直轄部隊の沖縄陸軍病院の分院として、現在の識名園の下方に位置しているようです。もっとも識名分院壕に至る道は識名園から向かう道しかなく、その道も安全のためだということで閉鎖されており、事実上訪れることができない場所となっています。<br /><br />そして移動の後に陸軍病院部隊が入った糸満には山城本部壕(現存)・波平第一外科壕(埋没?)・糸洲第二外科壕(埋没・入口確認可能)・伊原第三外科壕(現ひめゆりの塔)・伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕・現存)ではあるものの、地図もなく、場所を聞いても答えられない方々が多くおられました。ちなみにひめゆりの塔前のお土産屋さんでの出来事です。<br /><br />そして急襲された伊原第三外科壕をでた教師学徒がたどり着き、海に敵艦、陸には敵兵に囲まれて学徒を含む10名が自決した荒崎海岸〝ひめゆり学徒散華の跡〟で終わるも、その場所まで書かれているものも多くはありませんでした。<br /><br />数回に分けて回ってきた戦跡の中でひめゆり学徒の足跡を辿るものとしてまとめてみましたが、よくブログに書かれているひめゆりの塔界隈のお土産物屋が客集めのため押しボタン信号を私物化していることなどがひめゆりの塔を訪れようとしている観光客を遠ざけているとの一文ですが、このことは戦没された学徒達になんら非はありません。むしろその知名度を利用している後世の人間の問題であることに間違いはないでしょう。ひめゆり平和祈念館で伊原第一外科壕の話を聞こうとすると、管轄外みたいなことを言われたなどという残念な事実も現実にはあるようです。しかし考え方によっては〝人に頼る〟から〝残念な結果〟が出てくるのであって、本当に自分自身が〝史実を知りたい〟のであれば、〝自ら調べる〟姿勢が必要なのかも知れないと最近は思うようになってきました。<br /><br />しかし〝暇なし金なし〟のサラリーマンである以上、一回の来沖で訪れることができる場所は限られており、足跡を調べているうちにまた新たなことを知るといった現実の繰り返しには正直限界を感じているのが本音です。<br /><br />しかし現実として今年平成28(2016)年は戦後71年目の年であり、その時の流れは止まることはありません。史実を知る学徒生存者の方々が、自分達の経験を後世に残すべく努力をされておられることも知ってはいますが、人の寿命はどうしようもないことであり、いずれかは〝史実を知る方々〟が〝おられない〟時代がやってくることは間違いありません。戦跡の保存のために沖縄での生活に不便さを強いることは、内地の人間の独りよがりであり、そのようにして頂けることを〝お願いする〟立場でしかないことを痛感しています。<br /><br />数年間で見て回った多くの戦跡の数々ですが、それをまとめるだけの気力も知識も、今の私には〝残っていない〟という気持ちを最近痛感しています。頭を冷やしてまた一から学び直し、また一から戦跡を訪ね歩く気力が戻ってきたときに、新たな戦跡を追いかける旅路に出たいと考えています。<br /><br />約80日間と言われる沖縄戦。それに駆り出された学徒で将来の夢を見たまま斃れた多くの御霊に手を合わせつつ、頼りない写真と文章でその思いを述べてきました。今回取り上げた〝ひめゆり学徒の足跡〟では、知名度によってほんの一部しか生かせ切れていない現状を挙げました。人それぞれ考え方は違うとは思いますが、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念館だけを訪れて、戦跡を回ったとは思って貰いたくない気持ちが伝われば本望です。<br /><br />この章は、<br />① 沖縄陸軍南風原病院壕<br />② 糸数分院(糸数アブチラガマ)<br />③ 沖縄陸軍病院(山城)本部壕<br />④ 陸軍病院(伊原)第一外科壕<br />⑤ 陸軍病院(糸洲)第二外科壕<br />④ 陸軍病院(伊原)第三外科壕<br />⑤ 荒崎海岸ひめゆり学徒散華の跡<br />の順番で構成されています。<br /><br />中途半端かも知れませんがこれにて〝第十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。拙い長文にお付き合い頂きましてまことにありがとうございました。

第十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の足跡を訪ねて~

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2016/02/28 - 2016/06/23

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

〝第十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の足跡を訪ねて~〟

史上稀に見る地上戦が行われた沖縄。日本各地で徴兵された兵士はもとより、沖縄の住民をも巻き込んだ戦いでは、20万人を超える犠牲者を出しました。南方戦線での戦況悪化に伴い当初沖縄戦に投入された第9師団が台湾に抽出され、それを補うために満州より第24師団が投入されます。

米軍を迎え撃つ日本軍は、第32軍牛島満司令官以下陸軍部隊第62師団・第24師団・独立混成第44旅団で86,400名(沖縄徴兵を含む)と海軍沖縄根拠地隊10,000名の総勢96,400名。加えて沖縄で現地徴兵された防衛隊と学徒隊合わせて22,000名。すべて合わせても118,400名で、沖縄上陸米軍兵力は総兵力18万3,000名とされているものから考えても、正規兵の約3倍、総動員数でも約2倍の兵力を迎え撃たなければいけないこととなります。

その現地徴兵された沖縄の住民の中で、話題にのぼることが多い〝学徒隊〟というものがあります。沖縄県に戦前あった旧制中学や高等女学校の生徒によって構成されたほぼ強制的に徴兵された〝軍属〟の扱いで従軍したまだ10代の少年少女達がいました。21校の学校の生徒により構成された学徒隊の総数は20ありました。男子は切込み隊や通信兵等歩兵と同じ任務に就き、女子は学徒看護隊として陸軍病院での看護補助要員として任務についていました。

その中のひとつである〝ひめゆり学徒看護隊〟。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と引率教師18名からなる240名から構成された大所帯の学徒隊ですが、沖縄戦に於いて従軍し123名が犠牲となっています。戦後なにかと取り上げられることが多く映画にもなりました。また彼女達がいた伊原第三外科壕跡は〝ひめゆりの塔〟が建立され、南部戦跡の一大立ち寄り地点として現在に至っています。

多くの犠牲者を出しながら、なぜ他の学徒隊と比較すると取り上げられることが多かったのか。きれいな言葉では言えませんが、動員数も多かった半面生存者も多く、その足跡を辿ったものが多く存在したことがその理由です。しかし〝ありのまま〟というわけではなく、着色されたものも多いため、本当のことが語られていないところも多く見受けられます。沖縄師範学校女子部の生徒動員数157名のうち戦死者81名(52.0%)、沖縄県立第一高等女学校生徒動員数61名のうち戦死者42名(64.7%)、学徒隊として動員数222名のうち戦死者123名(55.4%)は学徒犠牲者の戦死率では高いものではあるものの、遺族や生存者の手によって記録が残されたものも多いことなどが、多くの方の目に触れることに繋がったようにも思えます。

先ずは沖縄師範学校女子部の歴史ですが…
大正4(1915)年4月1日沖縄県師範学校に併置される形で〝沖縄県女子師範学校〟を設置。
大正5(1916)年1月真和志村大道の県立高等女学校校地に移転。
大正14(1925)年5月、高等女学校卒業者を対象に本科第2部を設置。
昭和18(1943)年4月1日、沖縄県師範学校と沖縄県女子師範学校を統合し、官立〝沖縄師範学校〟が設置。旧沖縄県師範学校校舎に〝男子部〟が、旧沖縄県女子師範学校校舎に〝女子部〟を設置。女子部は予科 (3年制)・本科 (2年制)・専攻科 (1年制) で発足する。
昭和20(1945)年3月23日、師範学校女子部・第一高等女学校学徒隊が動員される(後にひめゆり学徒隊と呼ばれる)。
昭和20(1945)年3月29日、女子部校舎が爆撃・砲撃で壊滅する。
同日夜、師範女子部及び一高女生徒の卒業式を三角兵舎にて挙行される。
昭和20(1945)年6月21日、野田貞雄校長が慶座絶壁海岸で生徒2名と共に戦死する。

沖縄戦で校舎を失った上、戦後は沖縄県が日本の統治下から離れたことにより、後身校を持たずに廃止される。多くの師範学校が新生国立大学教員養成課程に改組されたものとは異なり、新制大学への継承関係は持っていません。

現在も那覇市大道には、女子部の代用附属だった那覇市立大道小学校が存在し、平成14(2002)年には、ひめゆり同窓会によって大道小学校敷地内に学校跡地の碑が建立され現在に至っています。

また沖縄県立第一高等女学校の歴史については…
明治33(1900)年6月20日 、私立沖縄高等女学校設立。
明治36(1903)年4月2日、沖縄県立高等女学校に改称。
明治41(1908)年11月1日、校舎竣工移転。
大正5(1916)年1月12日、沖縄県女子師範学校が移転し並置となる。
大正15(1926)年、制服がセーラー服に正式決定。
昭和2(1927)年、姫百合会発足(校友会で、本校の校友会と女子師範学校の学友会が合同)。
昭和3(1928)年3月31日、沖縄県立第一高等女学校に改称。
昭和16(1941)年、それまで自由だった髪型が1年生おかっぱ、2年生分け髪、3年生分けて結ぶ、4年生三つ編みと決められた。
昭和16(1941)年、この年の入学生からセーラー服がへちま襟に変更される。
昭和17(1942)年、この年の後半から通学がスカートの代わりにもんぺ着用になる。
昭和20(1945)年3月23日、米軍の沖縄上陸作戦開始。
昭和20(1945)年3月23日、学徒隊出発式が挙行される。
昭和20(1945)年3月29日 、空襲により校舎灰燼に帰す。
同日夜、師範女子部及び一高女生徒の卒業式を南風原病院壕三角兵舎にて挙行される。
昭和20(1945)年6月18日、 学徒隊解散命令が出される。
沖縄戦により校舎が壊滅し、戦後復興されることなく廃校となる。

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊が結成され、沖縄陸軍病院に看護要員として動員されました。名目上は志願とはされているものの、現実にはほぼ強制だったことは他の学徒隊と同じだったようです。学徒隊出発式を行った後一度南風原国民学校に拠点を移し、その後南風原病院壕へと移動します。

那覇にあった高等女学校の学徒看護隊と大きく異なることは、それぞれの学徒は師団隷下の野戦病院に配属となっていますが、ひめゆり学徒が配属された沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)直轄〝球18803部隊〟の略称が付けられていました。病院規模の大きさと従軍した学徒数が比例していることから容易に想像できることですが、その最初の拠点であった南風原病院壕では本部、内科、外科、伝染病科に分かれており、付近一帯に掘られた40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容していたそうです。

南風原病院壕に到着して間もなく、米軍の上陸により前線の負傷兵が増加するのに伴って内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更されることとなります。その後本島中部での熾烈な戦いの結果多くの重症患者が南風原にも運び込まれてくることとなり、南風原病院壕付近に分院壕が作られ、そこにひめゆり学徒も配属されることとなります。一日橋分院壕・識名分院壕・糸数壕(糸数アブチラガマ)等が置かれました。

一旦南風原陸軍病院へと配属された学徒達は、以下のように配置換えや移動を行っています。
昭和20(1945)3月28日 沖縄県立第一高等女学校3・4年生16名が第32軍津嘉山経理部へと配置換えとなる。
4月19日 沖縄県立第一高等女学校3年生21名が一日橋分室へ配置換えとなる。後にその中から識名分室へ10名が配置換えとなり、その後2名が新たに合流する
4月26日 機銃掃射により沖縄師範女子部学徒1名が戦死(学徒初の戦死者)。
4月28日 沖縄師範学校女子部学徒14名が玉城村糸数分室へと配置換えとなる。なお糸数分室とは糸数アブチラガマのこと。
5月4日 病院壕一帯が猛烈な艦砲射撃を受け師範女子部学徒2名が戦死。
5月5~8日 沖縄師範女子部学徒3名が重傷を負う。
5月8日 一日橋分室壕が黄燐弾攻撃にあい一高女学徒3名戦死し2名が重傷を負う。
5月13日 沖縄師範女子部学徒8名が糸数分室へ移動する。
5月13日 迫撃砲により一高女学徒1名戦死。
5月15日 艦砲射撃により沖縄師範女子部学徒1名戦死。
5月25日 広池病院長が首里より戻り、『5月28日までに山城地区に転進し、2,000名収容の陸軍病院を開設すべし』との第32軍司令部からの軍命を伝える。軽傷者は第一線に送り返し、独歩患者は極力自力によって転進させる。そして重症患者(2000余名)は処置すると決められる。
同日夜南風原を出発し南部へと向かう。2名の重症学徒は親泊教諭が、負傷学徒3名は担架に乗せられて出発し、与座の先で糸数分室の一隊と合流し、その後真栄平で第一外科、真壁で第二・第三外科と合流して南下する。

5月25日 高嶺の精糖工場付近で沖縄師範女子部学徒1名が艦砲射撃により戦死。

5月26日 摩文仁村伊原へ到着した沖縄陸軍病院部隊は、山城本部壕・波平第一外科壕・糸洲第二外科壕・伊原第三外科壕・伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置されます。到着当時伊原の集落は平和で住民も家で寝起きしていたそうです。

5月31日 津嘉山経理部が南部へ撤退する。

6月初旬にようやく病院壕が決定し、本部壕は山城集落の自然壕で5・60名程が収容できるものでした。第一外科は本部から500m程離れた畑の中にある二つの洞窟が充てられ、第一外科と併せて糸数分室が収容されることになりました。第三外科は現ひめゆりの塔の場所にある壕が充てられ、識名分室も収容されることとなります。第二外科は糸洲の地にあり少し不便な場所であっただけでなく狭い場所だったとされており、病院要員しか収容できず退避した患者の多くは付近の集落や洞窟から通ってくるという有様だったようです。

6月10日 津嘉山経理部の学徒達に解散命令が出され、伊原第一外科壕へと合流する。

6月11日 一日橋・識名分室学徒達は伊原第三外科壕へ合流する。その際親泊教諭とともに一高女生徒を連れて第三外科壕へと向かう。

6月14日 山城本部壕が直撃弾を受け伝令に来ていた沖縄師範女子部学徒2名が戦死。広池院長も重傷を負い、片足切断の手術を受けるも翌日戦死。
6月16日 病院本部壕にいた学徒は第一外科と第三外科の壕に分散する事になり、〝じゃんけん〟の勝ち負けでそれを決めたとの記録が残っています。勝った方が第三外科に、負けた方の6名は伊原の大田壕に移ることになります。また波平第一外科壕の生徒の一部が伊原第一外科壕へと移動しました。

6月17日 伊原第一外科壕が砲撃を受け沖縄師範女子部学徒2名と一高女学徒1名が戦死。一高女学徒3名が重傷を負います。

6月18日 糸洲第二外科壕が米軍の馬乗り攻撃を受け、夜に生徒の多くは伊原第一外科壕へ移動する。同日には波平第一外科壕の生徒も伊原第一外科壕へ移動。その夜各壕の生徒に解散命令下る。

6月19日朝 伊原第三外科壕に黄燐弾が投げ込まれ、奇跡的に生き残った5名を除く4名の教師と38名の生徒が戦死しました。そして学徒2名と教師1名が、なんとか壕からは脱出したものの銃撃を受けて戦死します。

6月21日 荒崎海岸まで逃げてきた学徒や教師ではありましたが、海には米艦船、陸には米軍兵士という絶体絶命の場所に於いて教師1名・一高女学徒7名・卒業生1名・二女高生徒1名の10名が手榴弾にて自決。付近にて米軍の銃撃を受けた3名が死亡、2名が重傷を負いました。

結果として123名のうら若き乙女たちの犠牲を出して、ひめゆり学徒看護隊としての活動を終える形となりました。鉄の暴風が過ぎ去った沖縄でひめゆり学徒の足跡を辿ったのは、真和志村村長の金城和信夫妻でした。二人の娘はひめゆり学徒として従軍し戦死されています。その足掛かりとなったのは伊原第三外科壕の発見でした。その後真和志村村民の協力により付近に散乱していた遺骨収集が進み、昭和21(1946)年4月にこの伊原第三外科壕前に初代〝ひめゆりの塔〟が建立されました。

時は進みひめゆり同窓会の手によって平成元(1989)年にひめゆりの塔敷地内にひめゆり平和祈念館が建てられ、ひめゆり学徒の足跡をはじめとした沖縄戦の傷跡を紹介し続けて現在に至っています。

その他にもひめゆり学徒を取り上げた書籍や映画等も作られ、結果多くの人がひめゆり学徒を知り、若くして散る選択しか取れなかったその凄惨な戦争という背景を、ひめゆり学徒が祀られているひめゆりの塔を訪れることによって知るきっかけになったことは疑いのない事実だと思います。

私自身来沖の回数がそれほどなかった頃は、ひめゆりの悲劇こそが沖縄戦の悲劇であったと思っていた時期もありました。しかし何度も沖縄を訪れるにつれ、沖縄戦の悲劇はなにもひめゆり学徒の話だけではないことを知りました。学徒隊というとひめゆり学徒だけではなく、女子学徒が従軍した学校の数は那覇にあった学校だけでも沖縄師範女子部と沖縄県立第一高等女学校の〝ひめゆり学徒〟、沖縄県立第二高等女学校の〝白梅学徒〟、沖縄県立首里高等女学校の〝瑞泉学徒〟、私立沖縄昭和高等女学校の〝梯梧学徒〟、積徳高等女学校の〝ふじ(積徳)学徒〟と6校5つの学徒があった事実を知ることになります。なぜその他の学徒のことを知らなかったのか…。ひとつは知るきっかけがなかったこともありますが、知ろうともしていなかった事実もあります。

そのことを思い返し、個々の学徒所縁の戦跡を回り始めるとその他の学徒の足跡は見えてきたものの、肝心な情報が意外に少ないことを知りました。学徒動員された少女の年齢は今の高校生と同じ年齢、鉛筆が転がるだけでも笑い転げていた時期でしょう。そこに戦争という時代背景が来ることによって、その後の楽しく過ごせただろう学生生活をはじめ人生をも狂わせられてしまった…。その背景はすべての学徒に共通するものだと思います。しかし学徒を祀る慰霊碑を訪れる人々の数には大きな開きがあり、人によっては知らない人がいるという事実。この背景にはひとつ〝史実の捉え方の差〟があるように思えてなりません。中学や高校で受ける日本史の授業には順番があり古い時代から教わるため、近代から現代史となる第二次世界大戦のことを触れる時期には〝時間切れ〟となってしまい、知識を得ることなく終わってしまっていることは周知の事実です。その〝片手落ち〟の教育の中で戦争を知るには、大学等で近代・現代史を専攻するしかないという特殊な現実が待ち構えることになります。多くの学生がいる中でどれだけの割合が専攻するかは、語る必要もないことでしょう。またこの学徒隊の犠牲者を〝割合〟で出している統計論にも問題があるようにも思えます。何人に一人が亡くなったのか=パーセンテージ。その数字が大きいか否かだけで判断してしまう傾向があることにも否めない理由があります。つまり〝結果論がすべて〟だという考え。学校の勉強も〝確率の低いもの〟は〝敢えて手を付けないで〟といった勉強法からも窺い知れることではないでしょうか。

そのようなことを背景にし、自分の想いを込めて学徒の足跡を回ってきました。資料も少ない反面、所属部隊がはっきりすると一筋に繋がる道程が見えてきます。それが今までに見て書いてきた学徒隊の軌跡ではありますが、最後に残ったひめゆり学徒の足跡は、意外な理由からなかなか進まなくて最後になってしまった理由があります。それは半ば観光地化されている〝ひめゆりの塔〟〝ひめゆり平和祈念館〟以外は場所すら明記されていないものが多々あるという事実です。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、官立と県立という違いはあれど当時の沖縄県の台所事情から姉妹校の扱いを受け現那覇市立大道小学校付近併置されました。沖縄が戦場になることが不可避になりつつある昭和20(1945)年にこの両校の学生から構成される〝ひめゆり学徒看護隊〟が結成され、僅かな期間の看護実習を受けた後南風原国民学校に置かれていた沖縄陸軍病院に配属されます。その後現南風原陸軍病院壕群として戦争遺跡登録をされている南風原病院壕へと移動し、本格的な看護補助業務に就くことになります。中部戦線から送られる重症兵士数の増加により南風原陸軍病院分院として、一日橋分院壕・識名分院壕・糸数壕等が置かれ、そこへも学徒が配属されます。この分院壕の話あたりから情報が錯誤しており、糸数壕は現在の糸数アブチラガマである確認は取れているものの、一日橋分院壕は埋没壕とされており詳細はわからずじまい。しかし識名分院壕は識名壕との取り違えが多々見られるところでもあります。識名4丁目識名壕は住宅の下にある壕ですが、第62師団野戦病院の分院壕として利用されていたものでした。それに対し識名分院壕はあくまで第32軍直轄部隊の沖縄陸軍病院の分院として、現在の識名園の下方に位置しているようです。もっとも識名分院壕に至る道は識名園から向かう道しかなく、その道も安全のためだということで閉鎖されており、事実上訪れることができない場所となっています。

そして移動の後に陸軍病院部隊が入った糸満には山城本部壕(現存)・波平第一外科壕(埋没?)・糸洲第二外科壕(埋没・入口確認可能)・伊原第三外科壕(現ひめゆりの塔)・伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕・現存)ではあるものの、地図もなく、場所を聞いても答えられない方々が多くおられました。ちなみにひめゆりの塔前のお土産屋さんでの出来事です。

そして急襲された伊原第三外科壕をでた教師学徒がたどり着き、海に敵艦、陸には敵兵に囲まれて学徒を含む10名が自決した荒崎海岸〝ひめゆり学徒散華の跡〟で終わるも、その場所まで書かれているものも多くはありませんでした。

数回に分けて回ってきた戦跡の中でひめゆり学徒の足跡を辿るものとしてまとめてみましたが、よくブログに書かれているひめゆりの塔界隈のお土産物屋が客集めのため押しボタン信号を私物化していることなどがひめゆりの塔を訪れようとしている観光客を遠ざけているとの一文ですが、このことは戦没された学徒達になんら非はありません。むしろその知名度を利用している後世の人間の問題であることに間違いはないでしょう。ひめゆり平和祈念館で伊原第一外科壕の話を聞こうとすると、管轄外みたいなことを言われたなどという残念な事実も現実にはあるようです。しかし考え方によっては〝人に頼る〟から〝残念な結果〟が出てくるのであって、本当に自分自身が〝史実を知りたい〟のであれば、〝自ら調べる〟姿勢が必要なのかも知れないと最近は思うようになってきました。

しかし〝暇なし金なし〟のサラリーマンである以上、一回の来沖で訪れることができる場所は限られており、足跡を調べているうちにまた新たなことを知るといった現実の繰り返しには正直限界を感じているのが本音です。

しかし現実として今年平成28(2016)年は戦後71年目の年であり、その時の流れは止まることはありません。史実を知る学徒生存者の方々が、自分達の経験を後世に残すべく努力をされておられることも知ってはいますが、人の寿命はどうしようもないことであり、いずれかは〝史実を知る方々〟が〝おられない〟時代がやってくることは間違いありません。戦跡の保存のために沖縄での生活に不便さを強いることは、内地の人間の独りよがりであり、そのようにして頂けることを〝お願いする〟立場でしかないことを痛感しています。

数年間で見て回った多くの戦跡の数々ですが、それをまとめるだけの気力も知識も、今の私には〝残っていない〟という気持ちを最近痛感しています。頭を冷やしてまた一から学び直し、また一から戦跡を訪ね歩く気力が戻ってきたときに、新たな戦跡を追いかける旅路に出たいと考えています。

約80日間と言われる沖縄戦。それに駆り出された学徒で将来の夢を見たまま斃れた多くの御霊に手を合わせつつ、頼りない写真と文章でその思いを述べてきました。今回取り上げた〝ひめゆり学徒の足跡〟では、知名度によってほんの一部しか生かせ切れていない現状を挙げました。人それぞれ考え方は違うとは思いますが、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念館だけを訪れて、戦跡を回ったとは思って貰いたくない気持ちが伝われば本望です。

この章は、
① 沖縄陸軍南風原病院壕
② 糸数分院(糸数アブチラガマ)
③ 沖縄陸軍病院(山城)本部壕
④ 陸軍病院(伊原)第一外科壕
⑤ 陸軍病院(糸洲)第二外科壕
④ 陸軍病院(伊原)第三外科壕
⑤ 荒崎海岸ひめゆり学徒散華の跡
の順番で構成されています。

中途半端かも知れませんがこれにて〝第十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。拙い長文にお付き合い頂きましてまことにありがとうございました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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あみんちゅ戦争を学ぶ旅

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