2016/02/11 - 2016/02/13
68位(同エリア1344件中)
こあひるさん
16時台の高速バスで仙台に帰る予定だったのだが、連れ合いがお腹の調子が良くないと言い出した・・・。胃腸は丈夫なのに、なんでこんな時に限って・・・。
この路線の高速バスにはトイレがついていないので、それじゃあ仕方ない・・・トイレの心配は私にはよ~く理解できるし・・・バスより高くつくけど、磐越西線と新幹線で帰ることにしよっか・・・。
どちらにしろ・・・夕方に帰るので、それまでの時間どこを歩こうか・・・。
鶴ヶ城には行っておきたい・・・という連れ合いのリクエストに応えて、鶴ヶ城までブラブラと歩いていくことにした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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夕方まで、ホテルに荷物を預かってもらい・・・鶴ヶ城まで歩いていくことにします。
ホテルのすぐそばに、蒲生氏郷(がもううじさと)のお墓があるというので(実は、着いた日に高速バスを降りて、道に迷ったお陰で、お墓がそこにあるというのを知ったのですが・・・)、寄り道していきます。
神明通りからちょっと裏手に入ったところにあります。 -
あれ?そういえばお墓ばかりに気がいっちゃったけど、お寺の名前はなんだったっけ〜(笑)?・・・あ、興徳寺ですって。
意外にも・・・鉄筋コンクリートのモダンな本堂です。興徳寺は、かつては栄えたお寺だったようですが、戊辰戦争で伽藍は焼失してしまい、今はかつての面影はありません。 -
写真の・・・右は、蒲生氏郷が出陣の時に被った燕尾形兜。高さは65cmあるそうです。相当目立って狙われやすかったらしい・・・。
蒲生氏郷は、近江・日野城主(滋賀県蒲生郡日野町)蒲生賢秀の長男。13歳の時、人質として織田信長のもとに送られました。しかしながら、信長の下で多くの手柄をたて、信長の超お気に入りになり、信長の娘・冬姫と結婚しました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢を平定するなど・・・やはり大いに活躍しました。
天正18年(1590)、天下人となっていた秀吉の奥羽仕置により、伊達政宗が葦名氏をやっつけて奪った会津は(政宗くんは、陰で色々謀りごとをしてて・・・やんちゃだったんで・・・)、秀吉の鶴の一声により、蒲生氏郷に与えられることになります。
こうして蒲生氏郷は、伊勢・松阪12万石から、会津黒川に移封となり、42万石に大躍進を遂げます。本人的には、都から遠い・・・寒い辺鄙な地方への異動は本意でなかったようですが・・・。
この会津への移封は、関東の徳川家康、奥州の伊達政宗を牽制する目的だったと考えられていますが、一説には、秀吉が氏郷の才能を恐れて遠ざけた・・・というものもあります。
葦名氏の頃には黒川と呼ばれていた町の名を、郷里の日野にある、蒲生家の氏神を祀る綿向神社の「若松の杜」にちなみ、若松と改めました。
そして葦名氏が築城した黒川城(天守はなかった)を、若松城(=鶴ヶ城、自分の幼名・鶴千代から一文字とって鶴ヶ城と呼ぶようになったという説もある)と改め、石垣をめぐらせ、屋根瓦に金を施した七層の天守を持つ城に改修しました(この時の天守は黒漆喰でした)。
また、城外に外郭と門をめぐらせ、その内側に武士、外側に商人や職人を住まわせて居住エリアをはっきり分け、町人街の北側に寺院を並べるなど、城下町を整備しました。
郷里である近江・日野の地場産業を会津若松に移植したり、楽市楽座を取り入れたり、経済と産業の振興もはかりました。
また氏郷は、和歌や茶道などにも造詣が深く、文武両道の人物でした。 -
この旅行記を作りながら・・・蒲生氏郷について知るにつれ、これまでのイメージと違って、なかなか凄腕の武将だったんだなぁ〜と改めて思うようになりました。
大河ドラマ「独眼竜政宗」だと、政宗がヒーローというストーリー仕立てなので、氏郷ってのは、政宗にとっては超ムカつく嫌な奴だったんですよ〜(笑)・・・まぁ、政宗も色々謀りごとばっかりしてるからなんですが・・・(←実際でも、政宗にとっては目障りな存在だったんでしょうけど・・・)。
しかしながら・・・蒲生氏郷は、40歳という若さで病のため都で亡くなります。
蒲生氏郷、辞世の歌・・・「限あれば
吹かねど花は散るものを
心みじかき春の山風」。
この歌碑は、昭和28年に氏郷公360年祭を記念して建てられたものです。 -
お墓(たぶんご遺体本体)は、京都の大徳寺にあるようで、興徳寺の蒲生氏郷の墓には、氏郷の遺髪が納められているようです。
氏郷没後の翌年、息子・秀行によって建立された五輪塔になります。建立当時には御霊屋があったそうですが、戊辰戦争の兵火で焼失して五輪塔だけになっています。
まぁ・・・ほんとは氏郷さんってキリシタンなんですけれど・・・この頃のキリシタン大名や奥方って、ほぼ仏教式のお墓に入ってるような感じだよねぇ。さすが日本らしいや・・・。蒲生氏郷の墓 名所・史跡
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それにしても・・・注目すべき立派な戦国武将だったのに・・・あまりのひっそりさ加減はなぜ・・・?(←という私も氏郷をよく知らなかったけど〜・・・)
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こちらはおさすり地蔵。
興徳寺には、鎌倉時代の頃から、身体の悪いところと同じ部分を摩ると、痛みを和らげてくれる・・・というお地蔵さまがあって、おさすり地蔵として信仰されてきました。摩られ過ぎて、しまいにはお地蔵さまがなくなっちゃったとか・・・。
この像はかなり新しいですが、そういう御利益のお地蔵さまがこのあたりに安置されていた・・・ということは間違いないのでしょうね。 -
ぐるっと周ってくると・・・あれ?こっちにもお寺らしき境内が・・・と思ったら、こっちも興徳寺みたい。むしろ、こっちが正面・・・?
興徳寺は、弘安10年(1287)、この地に創建されました。
郭内にあった唯一のお寺(臨済宗)でしたが、戊辰戦争の兵火により焼失し、伽藍に昔日の面影はありません。
天正18年、豊臣秀吉が奥州仕置の際、この寺に4日間滞在しました。また、秀吉が足を踏み入れた北限の地でもあるそうです。興徳寺 寺・神社・教会
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こちらの建物は、鶴ヶ城を解体した余材にて、明治10年に建立されたものだそう。
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観音さまの札所になっているようだけど・・・ピンポンを押しても誰も出てこないし、まぁ、いっか・・・。
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この渡り廊下なんて風情があります。
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石仏などは焼け残った古いものなのかな・・・?
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阿弥陀如来像供養碑。年紀はないのですが、室町時代のものと推定されています。
安山岩の自然石を用い、上部には梵字、そして中央には阿弥陀如来が結跏趺坐し、定印を結び、その下部に蓮華座を細線で刻んでいます。 -
境内。
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さて・・・鶴ヶ城へと向かっててくてく・・・。
こちらは昭和12年(1937)築の会津若松市役所。
市役所周辺は、郭内(外濠の内側)にあった武家の住まいエリアでした。明治以降には北会津郡役所が置かれ、付近に料亭や割烹が立ち並ぶ花街に姿を変えました。
今でも、このエリアには飲食店が多く・・・繁華街のようです。会津若松市役所本庁舎 名所・史跡
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今も現役の市役所として使われているみたい。今日は、土曜日だから閉まっていますが・・・。
かつて、北会津郡役所があった場所に建っています。 -
漆喰天井も美しい。
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無理やりガラスから覗き込んでみた・・・。
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階段踊り場のガラスはステンドグラスになっています。
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市役所通りから北出丸大通りへ曲がると・・・正面には鶴ヶ城天守閣が出現!
この辺りは、家老を始め上級武士の屋敷跡が多く・・・今では武家屋敷の家並みはほとんど残っていないものの・・・かつてはそうだったんだろうな〜ぁ・・・という雰囲気は大いに感じられます。 -
北出丸大通りには宮泉銘醸という酒蔵があります。昨日までに2軒でお酒を買い込んでおり、これ以上お酒ばかりにお金を使うのも・・・と思い、通り過ぎるだけ・・・。
宮泉銘醸
http://www.miyaizumi.co.jp/ -
ちょっと敷地内を覗いてみました。酒蔵って古い建物がいくつも並んでいていい感じですよね。
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このあたりは、戊辰戦争終結の地ということです。
明治元年(1868)9月22日午前10時、会津藩は、鶴ヶ城の北出丸に「降参」と大きく書かれた白旗を掲げました。そして正午に、追手門に通じるここ甲賀町通りの路上で降伏式が行われました。
地面には、家老・内藤介右衛門邸にあった4.5m四方の緋毛氈(赤色の上等な敷物)が敷かれ、その上に会津藩主の松平容保(かたもり)・善徳父子が立ち、西軍の軍監である中村半次郎らに嘆願書を渡しました。1ヵ月に及び必死に戦い続けた会津藩の籠城戦は、正式に幕を降ろしたのでした。
式が終わると、会津藩士たちは、この日の無念を忘れぬようにと、敷かれていた緋毛氈を次々と切り取り、その小片を懐中深く持ち帰ったそうです。のちにこの毛氈は「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれるようになり、この日の出来事を語り継ぐ重要な証となりました。
天皇や将軍家に忠誠を尽くした会津藩が、逆賊の汚名を着せられての敗北・・・このときの容保の心中はいかばかりだったかと・・・。 -
現在では、裁判所や合同庁舎の敷地の片隅に、ぽつん・・・と残っている「白露庭」。
会津藩家老・内藤介右衛門の屋敷(先の緋毛氈があったお家)跡で、この庭園の年代や作者は明らかでないのですが、江戸時代遠州流の流れを汲んだものとなっています。白露庭 公園・植物園
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かつて池だったところには水もなく・・・庁舎や駐車場の片隅に、武家屋敷のお庭の一部が突然あるのはとても不思議。そこだけ別の時間が流れているよう・・・。
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白露庭・・・つまり内藤邸跡と、北出丸通りを挟んで向かいにあるのは、やはり家老であった西郷頼母(たのも)邸跡。会津武家屋敷の家老屋敷は、ここにあった西郷邸を復元したものです。
西軍が鶴ヶ城下に侵入し、急を告げる早鐘が打ち鳴らされると、会津藩士や家族たちは籠城戦に備え、競って入城を急ぎました。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千重子が長男・吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58歳)を始め、秀子(2歳)まで21人そろって辞世の和歌を詠み、自刃しました。
この日郭内では、230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなったのでした。西郷邸跡 名所・史跡
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老舗っぽいステキな和菓子屋さんがあったので、入ってみることに・・・。
会津葵 グルメ・レストラン
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建物は、明治時代のものだそうです(戊辰戦争でこのあたりの建物は燃えてしまいました)。
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お濠に沿って、北出丸方向へ・・・。
戊辰戦争にも耐えた鶴ヶ城ですが、明治7年、石垣だけを残して取り壊されました。 -
こちらのレンガの建物はカフェ(入ったことないけど)。シルクロード美術館なるものもあるようです。
さきほどの会津葵が経営しているようで、このカフェで、会津葵のお菓子も食べられるようです。 -
北出丸に入ります。
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北出丸には、昭和9年に建てられた入母屋造りの武徳殿があります。鬼瓦は、「會武」の文字が入っている特注品だそう。
現在でも、なぎなたや剣道など、子供から大人までの鍛錬の場として使われています。
この建物の横には、弓道場もありました。 -
現在の鶴ヶ城マップ。
石垣を取り囲むお濠は内堀です。武家屋敷街を囲む外郭は、約2kmx約1kmほどの範囲で取り囲んでいたそうです(現在、外郭はほとんど残っていないようです)。 -
鶴ヶ城の歴代城主です。
1384年、葦名直盛が東黒川館を建てました。1589年に伊達政宗が葦名氏を攻め、会津に入ります。
しかしながら、秀吉による奥州仕置で、会津は政宗から取り上げあられ、1590年には、蒲生氏郷(92万石)が会津領主として、黒川城に入城します。蒲生氏郷は、鶴ヶ城の生みの親。統治した期間は短かったのですが、地名を若松に改め、城下町の基盤を造り、今よりも高い七層の鶴ヶ城を築きました。
病のため亡くなった氏郷のあと、跡を継いだ若すぎる嫡男(秀行)のまわりで家臣が内紛を起こしたため、蒲生氏は宇都宮18万石へ転封されてしまいます。
1598年、上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石となります。
ところが、関ケ原の戦いで西軍についた上杉家は米沢に転封となり、東軍についた蒲生秀行(氏郷の嫡男)が、再び会津城主となって戻ってきます(60万石)。
しかし1612年、30歳で秀行が亡くなると、秀行の子・忠郷が25歳で他界、そのあとを継いだ忠知も30歳で急死し、跡継ぎがなかった蒲生家は滅びてしまいます。
それにしても蒲生家って・・・短命の家系なのですねぇ・・・ビックリ・・・。この時代、跡継ぎがないということはお家断絶を意味しました。
1627年、伊予松山から、加藤嘉明が会津に入ります(40万石)。
蒲生氏郷が建てた天守閣は、1611年の会津地震で倒壊して、しばらくそのままになっていたそうです。1639年になり、天守閣が五層に改められ、西出丸、北出丸も整備されました。
しかしながら、1643年、加藤嘉明の子・明成が会津40万石を幕府に召し上げられ、三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で入封します。
保科正之の子・正容が会津藩三代目を継ぐと、幕府から松平姓と葵の紋を与えられ、正式に徳川親藩に会津は組み入れられる事になります。
この後、会津の松平藩政は九代続きました。最後の会津藩主が松平容保になります。 -
本丸へ向かいます。椿坂と呼ばれるここは、かつては馬の歩幅にあわせた石段だったそうです。
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かつて太鼓門があった場所。楼門の上に太鼓が置かれ、何かがあると太鼓の音で知らせたそう。
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太鼓門のあった石垣には、柱の跡が太い筋となって残っています(写真だとわかりづらくてすみません)。
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鶴ヶ城の始まりは、南北朝の頃、葦名氏によってここに築かれた館でした。
文禄2年(1593)、蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名しました。
現在、復元されている天守閣は、氏郷時代のものではありません。
寛永16年(1639)加藤明成が天守閣を五層に改修し、北出丸、西出丸を整備して、現在の城跡を完成させています。戊辰戦争(1868)では1ヵ月の籠城に耐えました。
現在みられる鶴ヶ城内の桜は、明治41年に植えられたものです。当時の鶴ヶ城には、桜ヶ馬場と呼ばれた馬の練習場(現在の鶴ヶ城会館あたり)以外には、ほとんど桜はなかったのです。 -
石垣の石には細い線の模様がつけられているところがあります。
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V字型に造られた、武者走りと呼ばれる石垣。鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などに簡単に昇り降りできるように造られています。
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明治政府によって取り壊された鶴ヶ城は、昭和40年に鉄筋コンクリートで再建されました。蒲生時代でなく、加藤時代に建てられて明治に取り壊しとなった姿です。
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再建された天守閣の屋根には、黒瓦が乗せられていましたが、平成23年になって、黒から赤の瓦に葺き替えられました。
蒲生氏の頃の城は、黒漆喰と、黒っぽいいぶし瓦屋根だったようです。
赤瓦は、会津松平藩の藩祖・保科正之時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。 -
私は、2014年に友人と鶴ヶ城を訪れましたが、後からパンフレットを見るまで、瓦が赤だったことに全く気付きませんでした。
赤というよりも・・・くすんだえんじ色のような・・・ちょっとグレーがかっていて、光の当たり具合によっては赤味がよくわかりません。 -
石垣は、時代によって石の形や積み方が異なりますが、天守閣の石垣では丸っこい石が積まれており、野面積みとなっていて、最も古い蒲生時代の石垣です。丸っこい石は河原の石だとか・・・。
1611年の会津地震で、天守閣は傾き損壊しましたが、石垣は崩れなかったそうです。 -
あちこちに井戸の跡も見られます。
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本丸には、御三階(おさんかい)と呼ばれる高楼建築がありました。
藩主の御休憩の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられます。
戊辰戦争でも焼失することはありませんでしたが、戦いの後、戦闘によって本堂を失った市内の阿弥陀寺に建物は移築されました。 -
2014年9月に写した阿弥陀寺の御三階。おもに会議等に使われていたそうです。
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大正年間に城跡公園として整備が始まってからも、御三階のあった石垣は残り、会津若松市としては、将来、再び往時のような姿でよみがえらせることも含めて、城跡全体の整備計画の中で検討しているとのことです。
現在は、石垣が積まれたところやその周辺の地面の中に、昔のことを知る手がかりがあるかもしれないとして、発掘調査が行われています。 -
天守閣と御三階の間・・・現在では芝生になっている広場には、鶴ヶ城本丸御殿が立ち並んでいました。本丸御殿は、表(オレンジ色)、中奥(紫色)、奥向(水色)などに分けられていました。
中奥は、藩主が日常生活や政務を執る場。表は、藩主の謁見など公式な儀式や行事のほか、藩役人の執務の場で、奥には、金之間や御茶室などもありました。オレンジ色の最も下端にある御茶室・数奇屋が、次に出てくる「茶室麟閣」に当たるようです。
また、長局のある奥向はいわゆる大奥にあたり、藩主の家族や女性たちの生活の場でした。 -
本丸内には「麟閣(りんかく)」という茶室があります。2014年に訪れた時には修繕中で見学できなかったので、今日はぜひ見たいと思ってやってきました。
千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられましたが、利休七哲として茶道の弟子の筆頭格であった蒲生氏郷は、千家がおとりつぶしになると、茶道全体が廃れてしまうと危惧し、利休の子の小庵を会津にかくまいました。
その間、氏郷は徳川家康とともに、秀吉に千家再興を願い出て、許しが得られたため、小庵は1594年に京都に戻り、やがて現在の表・裏・武者小路の三千家に分かれ、連綿として今に続いています。
この小庵が会津にかくまわれている間に、小庵が蒲生氏郷のために造ったと言われているのがこの麟閣です。 -
表門には、裏千家家元が書いた扁額が掲げられています。
その他、脇門には武者小路千家家元、茶室には表千家家元が書いた扁額が掲げられています。茶室麟閣 グルメ・レストラン
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戊辰戦争後、城内の建物はすべて取り壊されることになりましたが、市内の茶人・森川善兵衛が、由緒ある茶室が無くなることを惜しみ、自邸に移築・保存しました。
平成2年(1990)、建造当初の現在の場所に、移築・復元されました。 -
表門から入ると・・・「寄付」があります。
外露地に構えられる建物で、茶会に先立って、客が連客と待ち合せたり、身支度を整えて席入りの準備をするところです。
森川家(蒲生氏の家臣)から移築・復元されたもの。 -
「中門」。内露地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、茶室の躙口(にじりぐち)同様、くぐりの意味が込められています。
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「腰掛待合」。客が露地入りして、亭主の迎えを待ったり、中立の際にいったん露地に出て、後の席入りの合図を待つ施設です。
こちらも、森川家から移築・復元したもの。 -
「つくばい」。露地にある水場のことで、手水鉢と役石などでできています。つくばいでは、茶室に入る前に、俗界の汚れを払い、清らかな心で席入りするために手を洗い、口をすすぎます。
この手水鉢は若松城の遺構を生かして造られたものです。 -
鎖の間(蒲鶴亭)。茶室に付けられた書院的な一室。
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無駄を省いた茶室とは異なり、装飾をすることが許されています。
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茶室の間取りはこんな感じ。現在は、数奇屋座敷の一部である鎖の間(蒲鶴亭)と、三畳台目を中心とした茶室(麟閣)のみが復元されています。
今覗いたのは、ピンク色の部分である鎖の間(蒲鶴亭)。 -
茶室「麟閣」。間取り図の緑色の部分。
主客を招く畳三枚分の特別な席です。本丸御殿の最端部にあり、特別な客を招き入れることを意味しています。
麟閣の扁額は、表千家家元によるもの。 -
躙口(にじりぐち)。お茶室特有の客人用の出入口。縦横60cmくらいの狭さで、身をかがめてようやくくぐれる程度の小窓です。
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茶室の中にある床柱は、小庵自ら削ったものだと伝えられています。
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建物をぐるっと周って・・・
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茶室麟閣に隣り合って、数奇屋や金之間(本丸御殿の応接間)の跡(礎石で表してある)があるようですが、雪でよくわかりません。
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休憩どころのお茶席で一服していきます。抹茶と菓子で500円です。
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本丸の南側の土塁下あたりに、藩主が馬術を稽古する馬場があったそうです。
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こちら側から見ると、赤みがかった瓦だということがわかるかな・・・。
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馬場の隅に、馬の口洗いのために使ったと伝えられる、石をくりぬいた桶のようなものが置かれていました。
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天守から延びる長細い建物は、南走長屋と干飯櫓(ほしいやぐら)です(写真の左側からもっと先に延びています)。
干飯櫓は、鶴ヶ城内にあった11棟の二重櫓のうち、一番規模の大きかった櫓です。食糧庫だったと言われています。
また、干飯櫓と鉄門(くろがねもん)を結んでいるのが南走長屋で、武器庫であったと言われる建物です。いずれも本丸と帯廓(おびくるわ)を隔てる重要な建物でした。天守閣とともに、明治7年までに取り壊されました。
こちらも見学できるので、天守閣を見たあとに入ってみようと思います。 -
鶴ヶ城天守閣に入りました。
天守の石垣部分は穴蔵になっていて、冷涼な環境を活かして、塩などの貯蔵庫として利用されていたため「塩蔵」と呼ばれています。
常時、「かます」に入れられた塩が積み重ねられており、また保存用食料として乾燥したタニシなども備蓄されていました。
暗くてひんや〜りしています。鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
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内部は、撮影可のフロアと撮影不可のフロアとに分かれています。
自分としては撮影するほどの興味はなかったので(内部見学2度目ですし)五層目の展望台からの眺めをどうぞ〜。 -
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では南走長屋と干飯櫓を見学してみよ〜。
南走長屋と干飯櫓は、平成13年に復元作業が完了しました。
鶴ヶ城では、詳細な図面が1枚もなく、資料に乏しい状況だったため、念入りな発掘調査が行われました。
古地図や古文書、取り壊し前の古写真などの資料調査や復元現場の発掘調査をもとに設計され、往時の工法・技術を用いて建てられています。 -
南走長屋。
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本丸に面した側には部屋が並び、主に武器庫として使用されていたようです。
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南走長屋の先に階段があって・・・そこを上ると・・・
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干飯櫓になっています。さらに上の層もあります(立ち入り禁止)。
鶴ヶ城
http://www.tsurugajo.com/ -
なんと御朱印があるのに気づいて驚いちゃったけど・・・記念スタンプってスタンスだろうね〜。でも、鶴ヶ城歴代藩主の家紋がいい〜!ですね!
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連れ合いは、白虎隊の飯盛山にも行く(私は2014年に訪れている)と言っていたのですが、疲れちゃったらしく、鶴ヶ城だけでいい・・・というので、そろそろランチでも食べにいこうか〜。
ブラブラしながら・・・ホテル周辺あたりまで戻ってきました。
こちらは田中稲荷神社。ここの社殿を見たいと思っていたら、ちょうどその前を通りがかりました。 -
あら〜〜!冬支度の囲いで覆われてよくわかんないじゃん・・・土蔵造りの社殿なんです。
神社の創始は不詳だそうですが、1042年とも伝わっているそうです。
文政元年(1822)、明治17年・・・と度々の火災に遭ったため、明治32年、火災に強い土蔵造りに建て替えられたそうです。
京都の土蔵造りを模して建てられたもので、神社としては京都と会津の2ヵ所だけのものとか。
喜多方の安勝寺も蔵造りだったけど、寺だったから・・・。 -
カバーの内部からだと、ちょっとしか見えないよ・・・喜多方安勝寺よりは規模が小さく地味めな感じ。
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境内には、いくつもの祠があります。
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さて・・・前回連れ合いと吹雪の七日町を歩いたとき、また会津に来たら、これだけはリピで食べたいね〜!と話していた、みそ田楽の満田屋にやってきました。
満田屋 グルメ・レストラン
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今回は14時をまわっていることもあり、空いていました。
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注文を受けてから、囲炉裏でひとつひとつ焼いていきます。
わが家は、今回も「みそ田楽コース」1300円を頼みました。 -
味噌づくりの老舗だけあって、様々なみそ田楽を味わうことができます。
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みそ田楽コースは、こんにゃく(ゆずみそと甘みそ)、豆腐生揚げ(山椒みそ)、おもち(甘みそ)、しんごろう餅(じゅんねんみそ)、里いも(甘みそ)、身欠きにしんの(山椒みそ)7本で1300円です(写真は2人前ずつになっています)。
もちろん単品メニューもあります。
やっぱり美味しいな〜〜!みそ田楽を食べられるお店って、街なかにありそうでないような・・・味噌づくりの専門店だけあって・・・お味噌がとっても美味しいです!もち好きの私は、やっぱりおもちがベスト!!
満田屋
http://www.mitsutaya.jp/ -
16時台の磐越西線(トイレはついてる)と新幹線で帰りました。
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会津葵の「かすてあん」というお菓子はなかなか美味しかったです。バラ売りはないようだけど、2個入りのパッケージがあるので、お土産にも良いです。
会津葵
http://aizuaoi.com/ -
七日町の太郎庵で買ったお菓子。このお店は、何を買ってもたいがい美味しいのでお土産にもお薦めです。
太郎庵
https://www.taroan.co.jp/
会津絵ろうそくまつり・・・今年は雪がこんなにも少なくて、雪景色を見ようという目論見は見事に外れてしまったけど・・・天気が良くて暖かかったし、観光はとってもしやすかったです。
仙台から会津はバス1本でアクセスはいいので・・・またリベンジできたらいいな〜と思いました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (4)
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- aoitomoさん 2016/02/27 02:33:51
- 歴史の勉強にもなりました〜
- こあひるさん
『蒲生氏郷』
キリシタン大名だからなのか、この時代に似合わないほど規律や道徳にきびしく側室さえも置かないところが凄い武将です。結局、そのせいか?ふたりの実子も早世で本人も40歳で亡くなり血も絶えてしまったという。
ヒーローになり損ねた感がありますが、蒲生氏郷中心の時代劇なんかがあれば面白そうです。
燕尾形兜も本人が被ったでしょうね。影武者は使わず。(笑)
『興徳寺』
秀吉が足を踏み入れた北限の地というのも興味深いです。
観音さまの札所にも関わらず不在で、御朱印が手に入らなかったのですね。
かわりに鶴ヶ城の御朱印が手に入ったのですね。(爆)
『鶴ヶ城』
天守閣内も広そうで色々展示などもありそうですね。
敵の侵入を防ぐ作りが、随所に見られるのも面白いです。
干飯櫓・南走長屋もその役目を大いに発揮したのではないでしょうか。
現在NHKの『趣味どきっ!お城へ行こう』が毎週火曜日に放送されており録画して見てます。
堅固な城はいかに造られたのか、天守や表御殿を訪ね、城にひめられた武将の思いを読み解いていく・・
みたいな番組です。
そんな訳で、お城全体の造りとかも興味を持つようになりました。(笑)
『田中稲荷神社』
土蔵造りの社殿なのにさらに冬支度の囲いなんてのがあるのですね。
過保護〜(爆)
『満田屋』
囲炉裏で焼いてくれるのがいいですね。
店内の雰囲気もいいし〜
味もよければ最高です。
来年雪が多かったら、
是非また『会津絵ろうそくまつり』にチャレンジしてください〜
aoitomo
- こあひるさん からの返信 2016/02/27 09:38:46
- RE: 歴史の勉強にもなりました〜
- aoitomoさん、おはようございます!
蒲生氏郷、今回の会津への訪問で、すっかり見直しました。やっぱり、短期で途絶えてしまったので、あんまり注目されないのかなぁ・・・。信長の超お気に入りってのも凄いことです〜。
aoitomoさん、さすがですね〜。蒲生氏郷についてちゃんと知識を・・・!!あの時代には、子どものなくなる率が高かったし、跡継ぎがいないとお家断絶だし・・・なのに側室も置かず、子供も少なく・・・どういう人柄だったのか興味湧きますね〜。
余談ですが、松平容保の頃には写真があって、容保がイケメンなので、ちょっと肩を持っちゃうこの頃です(笑)。
興徳寺は、郭内にあった唯一のお寺で由緒もあるのに、蒲生氏郷のお墓とともに、なんかとっても寂しい感じでした。
ご朱印をもらおうと(と同時に、観音さまを拝観させていただこうと)思ったのですが、玄関のカギはかかっておらず・・・戸は開くのですが・・・(こらこら!勝手に・・・)声を掛けても誰も出てこなかったんです。まさか鍵もかけずに留守だったのかなぁ。
鶴ヶ城の天守はけっこう大きく、これが基準のイメージだったので、弘前城が小さくてビックリしちゃったんですよね。干飯櫓や南走長屋は、お城全体にも言えることですが、かなり頑丈な造りで、1ヶ月の戦闘にも耐えたのですがねぇ・・・。取り壊しちゃったなんて・・・惜しい・・・。
お城にまですごくは興味が向いてはいないのですが、城づくりに込められた技術や思い・・・防御のための工夫、城下町作りなんかについてのお話しはとっても興味深く思っています。その番組、単にお城のガイドでないので面白そうですね。
満田屋、要は、お味噌をつけて串で焼いただけなんですが、お味噌が美味しいんですよ〜。
絵ろうそくまつりは、やっぱりもう一度、リベンジしたいですね。
こあひる
-
- hiro3さん 2016/02/26 19:13:29
- おめでとうございます!
- こあひるさん、旅行記が500冊ですね!
スゴイ!ガンバッテ追いかけますね!
今年は雪が例年とは違った降りかたをしているのですかね?
気合を入れて冬用タイヤにしていたのですが、今年は出番がありませんでした。
鶴ヶ城、赤瓦に葺き替えられてから見に行きました。もちろん車で(笑)
G.Wに車で・・・、無茶してましたね。
キレイですね鶴ヶ城!赤瓦が本当に印象的でした。
懐かしく思い出しました。
hiro3
- こあひるさん からの返信 2016/02/27 09:24:29
- RE: おめでとうございます!
- hiro3さん、おはようございま〜す!
冊数よりも内容が・・・自分勝手な旅行記ばっかりで・・・(>_<)!!
そちらでもやっぱり冬タイヤに履き替えるんですね〜。というか、hiro3さんの場合は、雪のあるところにドライブするためですかね。
もう一度、hiro3の東北旅行記を拝見しました。喜多方や大内宿などにもいかれたんですね〜。車で効率よくまわれるでしょうが、それでもかなりの駆け足でしょうね〜。ひとつひとつがそんなに近いってわけでもないですし。
なにより関西から車で東北まで・・・ってのがすごいですけど。
鶴ヶ城は、残念ながら明治政府によって取り壊されてしまって、古い時代のものは失われてしまいましたが・・・天守も大きいし、赤い瓦がとっても良く似合う美しいお城ですねぇ〜〜。
こあひる
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