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2万年前、今よりも年平均気温が7〜8℃低かった氷河期頃のこと・・・。<br /><br />富沢(この遺跡の場所)には、亜寒帯性の針葉樹を主とする湿地林が広がっており、鹿などの動物が、越冬のためにやってきていました。<br /><br />そんなある日の夕方・・・数人の旧石器人がやってきました。彼らは狩りの途中らしく、少し高くなった場所を選び、たき火の周りで槍を直したり、食事をしながらキャンプをし、翌朝、狩りを続けるため、どこかへ立ち去っていきました。<br /><br />氷河期の湿地林と、そこでたき火を焚いてキャンプをした旧石器人の痕跡が・・・現代〜縄文時代までの間に堆積した5mもの地層の下から発掘されました。<br /><br />2万年前の遺跡を、発掘されたままの状態で保存し公開しているミュージアムが仙台にありますのでご紹介しま〜す。<br /><br />地底の森ミュージアム<br />http://www.city.sendai.jp/kyouiku/chiteinomori/

2万年前の氷河期(旧石器時代)の森と、旧石器人の遺跡 ★地底の森ミュージアム★

94いいね!

2016/02/06 - 2016/02/06

15位(同エリア250件中)

6

82

こあひる

こあひるさん

2万年前、今よりも年平均気温が7〜8℃低かった氷河期頃のこと・・・。

富沢(この遺跡の場所)には、亜寒帯性の針葉樹を主とする湿地林が広がっており、鹿などの動物が、越冬のためにやってきていました。

そんなある日の夕方・・・数人の旧石器人がやってきました。彼らは狩りの途中らしく、少し高くなった場所を選び、たき火の周りで槍を直したり、食事をしながらキャンプをし、翌朝、狩りを続けるため、どこかへ立ち去っていきました。

氷河期の湿地林と、そこでたき火を焚いてキャンプをした旧石器人の痕跡が・・・現代〜縄文時代までの間に堆積した5mもの地層の下から発掘されました。

2万年前の遺跡を、発掘されたままの状態で保存し公開しているミュージアムが仙台にありますのでご紹介しま〜す。

地底の森ミュージアム
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/chiteinomori/

旅行の満足度
5.0

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  • 地下鉄南北線の長町南駅から徒歩5分ほどのところにある「地底の森ミュージアム」(仙台市富沢遺跡保存館)。<br /><br />駅から・・・いつもながらの方向音痴で・・・いったん反対方向へ向かってしまい・・・通りすがりの人に道を聞いてやってきました。<br /><br />単に自分が反対方向に行ってしまったってだけで、わかりにくいところなわけじゃありません。<br /><br />2万年前の旧石器時代の森・・・という環境と、人類の営みの跡が一体として保存されたのは世界でも初めてのことだそう。

    地下鉄南北線の長町南駅から徒歩5分ほどのところにある「地底の森ミュージアム」(仙台市富沢遺跡保存館)。

    駅から・・・いつもながらの方向音痴で・・・いったん反対方向へ向かってしまい・・・通りすがりの人に道を聞いてやってきました。

    単に自分が反対方向に行ってしまったってだけで、わかりにくいところなわけじゃありません。

    2万年前の旧石器時代の森・・・という環境と、人類の営みの跡が一体として保存されたのは世界でも初めてのことだそう。

    地底の森ミュージアム (仙台市富沢遺跡保存館) 美術館・博物館

  • モダンなミュージアムですね。受付入口は、地下1階になります。

    モダンなミュージアムですね。受付入口は、地下1階になります。

  • 地下5mのところで発掘された2万年前の遺跡・・・そのままの状態で保存・公開しているため、その遺跡の展示は、地下1階になります。<br /><br />中は、遺跡の保存のため、温水プールの施設に入った時のように、室温と湿度が高めです。いっきに眼鏡が・・・曇ります。

    地下5mのところで発掘された2万年前の遺跡・・・そのままの状態で保存・公開しているため、その遺跡の展示は、地下1階になります。

    中は、遺跡の保存のため、温水プールの施設に入った時のように、室温と湿度が高めです。いっきに眼鏡が・・・曇ります。

  • 富沢遺跡は、仙台市太白区の低地にある、面積90haの広大な遺跡です。<br /><br />1982年から発掘調査が行われ、弥生時代から明治時代にかけての水田跡が、広い範囲に何層もあることがわかり、大規模な水田遺跡として知られるようになりました。<br /><br />その後の数多くの調査から、その下に縄文時代の層があることもわかり、さらに下層の調査を進めた結果、1988年3月に、地下5mから、2万年前の氷河期の森と人々の生活した痕跡が一緒に見つかりました。<br /><br />これは、旧石器時代の人類と自然環境を考えるうえで、世界的にも例のない貴重な発見となりました。<br /><br />この地図で、黄色の部分が富沢遺跡の範囲、黄緑色の部分が現在わかっている森の跡の広がりです。そして、緑色の点々が、2万年前の樹木が見つかった場所で、赤い点が、このミュージアムの中に保存された場所です。<br /><br />現在では、富沢遺跡の大部分が、住宅街の下に埋まっているってことになりますね。

    富沢遺跡は、仙台市太白区の低地にある、面積90haの広大な遺跡です。

    1982年から発掘調査が行われ、弥生時代から明治時代にかけての水田跡が、広い範囲に何層もあることがわかり、大規模な水田遺跡として知られるようになりました。

    その後の数多くの調査から、その下に縄文時代の層があることもわかり、さらに下層の調査を進めた結果、1988年3月に、地下5mから、2万年前の氷河期の森と人々の生活した痕跡が一緒に見つかりました。

    これは、旧石器時代の人類と自然環境を考えるうえで、世界的にも例のない貴重な発見となりました。

    この地図で、黄色の部分が富沢遺跡の範囲、黄緑色の部分が現在わかっている森の跡の広がりです。そして、緑色の点々が、2万年前の樹木が見つかった場所で、赤い点が、このミュージアムの中に保存された場所です。

    現在では、富沢遺跡の大部分が、住宅街の下に埋まっているってことになりますね。

  • 2万年前の湿地林の跡のうち、この楕円部分だけが保存され残されました。<br /><br />

    2万年前の湿地林の跡のうち、この楕円部分だけが保存され残されました。

  • これが2万年前の森(湿地林)の跡です!すっごい〜〜!という言葉しか出ません。<br /><br />建物の外壁を深く厚い壁にして、地下水の影響を極力なくしています。<br /><br />樹木については、含まれている水分を、特殊な薬品に置き換えて腐らない物質にし、本来の色に戻す新しい保存処理方法が採用されています。

    これが2万年前の森(湿地林)の跡です!すっごい〜〜!という言葉しか出ません。

    建物の外壁を深く厚い壁にして、地下水の影響を極力なくしています。

    樹木については、含まれている水分を、特殊な薬品に置き換えて腐らない物質にし、本来の色に戻す新しい保存処理方法が採用されています。

  • たくさんの樹木の根や、倒れた幹が一面に広がって・・・これが2万年前の木々なのかと思うと・・・気が遠くなるというか・・・想像を超えているというか・・・衝撃的な気分に陥ります。

    たくさんの樹木の根や、倒れた幹が一面に広がって・・・これが2万年前の木々なのかと思うと・・・気が遠くなるというか・・・想像を超えているというか・・・衝撃的な気分に陥ります。

  • 土の部分の色は、本来はチョコレート色だったそうですが、発掘して空気に触れたためか、土の成分のためか、このように白っぽくなったそうです。

    土の部分の色は、本来はチョコレート色だったそうですが、発掘して空気に触れたためか、土の成分のためか、このように白っぽくなったそうです。

  • 地下5mにもおよぶ富沢遺跡の地層断面をはぎ取ったものが展示されています。<br /><br />2万年前の旧石器時代の地層の2m上には、縄文時代の地層があり、その上には弥生時代から現代までの水田の土の層が重なっています。<br /><br />現在の地面は、昭和50年代の区画整理の時に盛った土の上にあります。

    地下5mにもおよぶ富沢遺跡の地層断面をはぎ取ったものが展示されています。

    2万年前の旧石器時代の地層の2m上には、縄文時代の地層があり、その上には弥生時代から現代までの水田の土の層が重なっています。

    現在の地面は、昭和50年代の区画整理の時に盛った土の上にあります。

  • 何百年と経過していくうちに、こんなふうにどんどん地層が重なっていくものなのか・・・?と驚いてしまいました。<br /><br />それにしても・・・2万年前の遺跡はもちろんすごい発見ですが・・・弥生時代、古墳時代、平安時代、鎌倉時代から明治時代まで・・・の水田跡が、積み重なるように発掘された・・・ってのも、すごいことだ〜〜と思います。

    何百年と経過していくうちに、こんなふうにどんどん地層が重なっていくものなのか・・・?と驚いてしまいました。

    それにしても・・・2万年前の遺跡はもちろんすごい発見ですが・・・弥生時代、古墳時代、平安時代、鎌倉時代から明治時代まで・・・の水田跡が、積み重なるように発掘された・・・ってのも、すごいことだ〜〜と思います。

  • 2万年前の湿地林の地層の、標高がやや高くなったところに、旧石器人のキャンプ跡も見つかりました。<br /><br />こちらがたき火の跡。

    2万年前の湿地林の地層の、標高がやや高くなったところに、旧石器人のキャンプ跡も見つかりました。

    こちらがたき火の跡。

  • たき火跡の近くに、石器をうめた穴が残っています。<br /><br />1階の展示室で詳しく解説があるので、またあとで説明させていただきます。

    たき火跡の近くに、石器をうめた穴が残っています。

    1階の展示室で詳しく解説があるので、またあとで説明させていただきます。

  • たき火跡の周囲では、道具として使われた石器や、石器を作るために出た石のかけらなどが見つかっています。

    たき火跡の周囲では、道具として使われた石器や、石器を作るために出た石のかけらなどが見つかっています。

  • 毎時10、30、50分から、旧石器時代の人がここでキャンプした様子を再現した映像が流れます。

    毎時10、30、50分から、旧石器時代の人がここでキャンプした様子を再現した映像が流れます。

  • 旧石器時代には、どんな言葉をしゃべっていたか不明なので無声です。まだまだ人々の生活については謎が多く、衣類なども推定されたものとなっています。<br /><br />この時代は狩猟時代ですが、もちろん弓矢なんてない時代です。

    旧石器時代には、どんな言葉をしゃべっていたか不明なので無声です。まだまだ人々の生活については謎が多く、衣類なども推定されたものとなっています。

    この時代は狩猟時代ですが、もちろん弓矢なんてない時代です。

  • 生々しい形状で残っているのが不思議すぎる・・・。<br /><br />

    生々しい形状で残っているのが不思議すぎる・・・。

  • 鹿のフンの跡も残っていました。これについても、1階の展示室で詳しく説明されていますので後で・・・。

    鹿のフンの跡も残っていました。これについても、1階の展示室で詳しく説明されていますので後で・・・。

  • 土が白っぽくなっているのも、この緑色生物の発生も、今でもわずかに外から入ってくる地下水と湿度との関係・・・のバランスの難しさからくるようです。<br /><br />緑色生物は、遺跡を劣化させる直接の原因にはならないようですが、景観上の問題などもあるので、現在新たな薬剤を用いて、その対策を試みているところだそうです。<br /><br />現代になって晒されることとなった2万年前の遺跡・・・色々な処理をして、その時を止めたつもりでも・・・やはり時間というものは容赦なく、その上にも流れていくのですねぇ。

    土が白っぽくなっているのも、この緑色生物の発生も、今でもわずかに外から入ってくる地下水と湿度との関係・・・のバランスの難しさからくるようです。

    緑色生物は、遺跡を劣化させる直接の原因にはならないようですが、景観上の問題などもあるので、現在新たな薬剤を用いて、その対策を試みているところだそうです。

    現代になって晒されることとなった2万年前の遺跡・・・色々な処理をして、その時を止めたつもりでも・・・やはり時間というものは容赦なく、その上にも流れていくのですねぇ。

  • 1階の展示室へ向かいます。1階へ上がっていくスロープの途中にもいくつか展示があります。<br /><br />こちらは2万年前の石器で、2点ともたき火跡のまわりから見つかったもの。<br /><br />右の石のハンマーには、表面に叩いた跡が残っています。このハンマーの近くからは、割られたかけらが80点ほど見つかっています。その80点のうち1点が左の石のかけらです。もともとの表面が残っていて、割り始めた段階のものとみられています。

    1階の展示室へ向かいます。1階へ上がっていくスロープの途中にもいくつか展示があります。

    こちらは2万年前の石器で、2点ともたき火跡のまわりから見つかったもの。

    右の石のハンマーには、表面に叩いた跡が残っています。このハンマーの近くからは、割られたかけらが80点ほど見つかっています。その80点のうち1点が左の石のかけらです。もともとの表面が残っていて、割り始めた段階のものとみられています。

  • およそ3500年前の縄文土器。細い縄ひもを交互にころがして、模様に変化を出しています。<br /><br />右の小さな白い石器は、つまみのある石匙。つまみのところに紐を巻き付け、持ち歩いて万能ナイフとして使いました。

    およそ3500年前の縄文土器。細い縄ひもを交互にころがして、模様に変化を出しています。

    右の小さな白い石器は、つまみのある石匙。つまみのところに紐を巻き付け、持ち歩いて万能ナイフとして使いました。

  • 2点とも、弥生時代の水田跡から見つかったもので、およそ2000年前のもの。<br /><br />左の弥生土器は、細い棒で模様を描き、そのほかは細かな縄の模様でうめています。右の石包丁は、稲の穂を摘み取る道具です。2つの穴は、手にかける紐を通すためのもの。

    2点とも、弥生時代の水田跡から見つかったもので、およそ2000年前のもの。

    左の弥生土器は、細い棒で模様を描き、そのほかは細かな縄の模様でうめています。右の石包丁は、稲の穂を摘み取る道具です。2つの穴は、手にかける紐を通すためのもの。

  • 平安時代の土器(須恵器)。ここまでくると、かなり洗練された感じで、現代の私たちに近い、理解できるような親近感を覚えます。<br /><br />約1000年前の平安時代の水田跡から見つかったものです。須恵器と呼ばれる、高温で焼かれた堅い焼き物です。表面には墨で「性」と書かれています(墨書土器と呼ばれています)。

    平安時代の土器(須恵器)。ここまでくると、かなり洗練された感じで、現代の私たちに近い、理解できるような親近感を覚えます。

    約1000年前の平安時代の水田跡から見つかったものです。須恵器と呼ばれる、高温で焼かれた堅い焼き物です。表面には墨で「性」と書かれています(墨書土器と呼ばれています)。

  • 1階まで上がってきました。上から、湿地帯の森の跡が眺められます。<br /><br />

    1階まで上がってきました。上から、湿地帯の森の跡が眺められます。

  • 通路に設置された双眼鏡のようなものを覗くと・・・発掘調査時の様子が見えます。<br /><br />こんなふうに地下水に浸かっていたのですねぇ〜〜!!!それにもビックリ!<br /><br />地下展示室には、ボランティアの方がいてわからないことなど教えてくれました。<br /><br />木は、水に浸かっていたら腐ってしまうのではないか・・・と想像しちゃいましたが、腐敗させるような菌がない状態で、色々な条件が重なると・・・かえってその清い水のおかげで、腐ったり土に帰ることがないまま・・・(真空パックのような感じ・・・?)・・・そのままの状態で現代まで残った・・・ということなのかな。

    通路に設置された双眼鏡のようなものを覗くと・・・発掘調査時の様子が見えます。

    こんなふうに地下水に浸かっていたのですねぇ〜〜!!!それにもビックリ!

    地下展示室には、ボランティアの方がいてわからないことなど教えてくれました。

    木は、水に浸かっていたら腐ってしまうのではないか・・・と想像しちゃいましたが、腐敗させるような菌がない状態で、色々な条件が重なると・・・かえってその清い水のおかげで、腐ったり土に帰ることがないまま・・・(真空パックのような感じ・・・?)・・・そのままの状態で現代まで残った・・・ということなのかな。

  • 四角い区切りは、その後の時代の水田跡なのでしょうかね。

    四角い区切りは、その後の時代の水田跡なのでしょうかね。

  • 1階展示室は、地下とガラリと変わり・・・明るいです。

    1階展示室は、地下とガラリと変わり・・・明るいです。

  • 鹿さん親子。

    鹿さん親子。

  • 人類は約400万年前にアフリカで誕生し、旧石器時代を通じて進化しながら、世界各地へ活動範囲を広げていきました。2万年前は、私たちの直接の祖先「ホモ・サピエンス」の時代で、地球の環境は、最後の氷河期にあたっていました。

    人類は約400万年前にアフリカで誕生し、旧石器時代を通じて進化しながら、世界各地へ活動範囲を広げていきました。2万年前は、私たちの直接の祖先「ホモ・サピエンス」の時代で、地球の環境は、最後の氷河期にあたっていました。

  • 300万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス。

    300万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス。

  • 1万8千年前のホモ・サピエンス・サピエンス。<br /><br />直立二足歩行を始めた人類は、その後、脳の容量が大きくなるとともに身長も高くなっていきました。

    1万8千年前のホモ・サピエンス・サピエンス。

    直立二足歩行を始めた人類は、その後、脳の容量が大きくなるとともに身長も高くなっていきました。

  • 氷河期とは、気候が寒冷で、氷河が拡大した時期を言います。<br /><br />人類が誕生してから何回かの氷河期がありました。その最後の氷河期の最盛期が2万年前頃で、氷河は地球の全陸地の30%を覆っていました。<br /><br />この地図で、色の濃くなった部分が、氷河におおわれていた場所です。日本は、氷河に覆われてはいませんね。でも、年平均気温が今よりも7〜8℃も低かった世界でした。<br /><br />氷河期というと、地球全体が氷で凍てついた世界・・・というイメージを持っていたので、そういうわけではなかったのだなぁ・・・と今さらながら勉強になりました。

    氷河期とは、気候が寒冷で、氷河が拡大した時期を言います。

    人類が誕生してから何回かの氷河期がありました。その最後の氷河期の最盛期が2万年前頃で、氷河は地球の全陸地の30%を覆っていました。

    この地図で、色の濃くなった部分が、氷河におおわれていた場所です。日本は、氷河に覆われてはいませんね。でも、年平均気温が今よりも7〜8℃も低かった世界でした。

    氷河期というと、地球全体が氷で凍てついた世界・・・というイメージを持っていたので、そういうわけではなかったのだなぁ・・・と今さらながら勉強になりました。

  • 2万年前には、氷河が拡大し、海面は100m近く下がっていました。そのため、日本列島は、大陸と陸続きかそれに近い環境にあり、動物や植物も現在とは異なっていました。この頃には、人類はシベリアまで活動範囲を広げており、多くの旧石器時代の遺跡が発見されています。<br /><br />そのころの日本と大陸とはこんな感じだったとされています。薄いオレンジっぽいのが当時の陸地です。本州や四国、九州が一体になっていますね。

    2万年前には、氷河が拡大し、海面は100m近く下がっていました。そのため、日本列島は、大陸と陸続きかそれに近い環境にあり、動物や植物も現在とは異なっていました。この頃には、人類はシベリアまで活動範囲を広げており、多くの旧石器時代の遺跡が発見されています。

    そのころの日本と大陸とはこんな感じだったとされています。薄いオレンジっぽいのが当時の陸地です。本州や四国、九州が一体になっていますね。

  • 2万年前の富沢がどんなだったかというと・・・海面が100m近く下がっていたため、仙台湾はほとんどが陸地で、海岸線は現在よりもはるか沖合にありました。<br /><br />当時の富沢は、標高が約100mで、海岸からは50kmほど離れていました。<br /><br />この模型で、真ん中のグレーのところは・・・現在の仙台湾で、グリーンの陸地との境目が海岸線となっています。しかし2万年前には、このグレー部分は陸地であり、写真の右端の黒っぽい部分との境目が海岸線でした。

    2万年前の富沢がどんなだったかというと・・・海面が100m近く下がっていたため、仙台湾はほとんどが陸地で、海岸線は現在よりもはるか沖合にありました。

    当時の富沢は、標高が約100mで、海岸からは50kmほど離れていました。

    この模型で、真ん中のグレーのところは・・・現在の仙台湾で、グリーンの陸地との境目が海岸線となっています。しかし2万年前には、このグレー部分は陸地であり、写真の右端の黒っぽい部分との境目が海岸線でした。

  • 地下展示室で見た湿地帯の森の遺跡のうち、旧石器人たちのキャンプ跡の部分だけを再現して復元したものが1階展示室に展示されています。オレンジ色の部分になります。<br /><br />2万年前に富沢を訪れた旧石器人たちは、細かい炭化物のまとまりと、100点ほどの石器、小さな穴などの活動の痕跡を残していきました。それらを調べて、そこがキャンプ跡だとわかったのです。

    地下展示室で見た湿地帯の森の遺跡のうち、旧石器人たちのキャンプ跡の部分だけを再現して復元したものが1階展示室に展示されています。オレンジ色の部分になります。

    2万年前に富沢を訪れた旧石器人たちは、細かい炭化物のまとまりと、100点ほどの石器、小さな穴などの活動の痕跡を残していきました。それらを調べて、そこがキャンプ跡だとわかったのです。

  • キャンプ跡の復元模型の上にガラスを張って、ガラス上からよく眺められるようになっているのですが、写真には撮りにくいです(笑)。<br /><br />謎の小さな穴があり、そこにいくつかの石器が埋められていました。後ほど、その穴の中に、何がどのように埋められていたのか、また説明が出てきます。

    キャンプ跡の復元模型の上にガラスを張って、ガラス上からよく眺められるようになっているのですが、写真には撮りにくいです(笑)。

    謎の小さな穴があり、そこにいくつかの石器が埋められていました。後ほど、その穴の中に、何がどのように埋められていたのか、また説明が出てきます。

  • たき火の跡です。この時代に、どのような方法で火を起こしたのかはわかっていないそうです。

    たき火の跡です。この時代に、どのような方法で火を起こしたのかはわかっていないそうです。

  • たき火のそばに、石器を作ったとみられる跡があります。また、石器を使ったとみられる場所もあります。

    たき火のそばに、石器を作ったとみられる跡があります。また、石器を使ったとみられる場所もあります。

  • 2万年前に富沢に来た旧石器人たちは何をしていたのか・・・?<br /><br />富沢遺跡の復元図のうち、色のついた部分・・・まずは、たき火の左側(南東側)に座っている人について・・・検証していきます。<br /><br />この場所は、石器を使った跡があったところです。また、使用痕のある石器が2点見つかっています。どうやらこの人は、石器を使って何か作業をしているようです。

    2万年前に富沢に来た旧石器人たちは何をしていたのか・・・?

    富沢遺跡の復元図のうち、色のついた部分・・・まずは、たき火の左側(南東側)に座っている人について・・・検証していきます。

    この場所は、石器を使った跡があったところです。また、使用痕のある石器が2点見つかっています。どうやらこの人は、石器を使って何か作業をしているようです。

  • たき火のそばの他の場所(北東側)では、石器づくりに使われた黒色の石材が見つかっています。それとは別のこの場所(南東側)で、使用痕のある石器が2点見つかりました。これらを顕微鏡で観察すると、石器の鋭い部分に、小さな光沢や傷が使用痕として残されており、ここが刃として使われたことがわかります。<br /><br />その光沢の特徴や広がり、傷の方向などを、実験したものと比べて、その石器がどんな作業に使われたのかを推定することができます。

    たき火のそばの他の場所(北東側)では、石器づくりに使われた黒色の石材が見つかっています。それとは別のこの場所(南東側)で、使用痕のある石器が2点見つかりました。これらを顕微鏡で観察すると、石器の鋭い部分に、小さな光沢や傷が使用痕として残されており、ここが刃として使われたことがわかります。

    その光沢の特徴や広がり、傷の方向などを、実験したものと比べて、その石器がどんな作業に使われたのかを推定することができます。

  • こちらが使用痕のある2点の石器です。

    こちらが使用痕のある2点の石器です。

  • 石の剥片(はくへん)を加工して作られた石器には、ナイフ形石器やスクレイパー、石錐(いしきり)などがあります。また、剥片や石核をそのまま道具として使うこともありました。<br /><br />石器は、旧石器時代の人々の暮らしを支えていました。仕留めた獲物の解体と加工にも石器が使われました。<br /><br />石器は、私たちが想像する以上に、よく切れるものでした。

    石の剥片(はくへん)を加工して作られた石器には、ナイフ形石器やスクレイパー、石錐(いしきり)などがあります。また、剥片や石核をそのまま道具として使うこともありました。

    石器は、旧石器時代の人々の暮らしを支えていました。仕留めた獲物の解体と加工にも石器が使われました。

    石器は、私たちが想像する以上に、よく切れるものでした。

  • 動物の皮を剥ぐにはナイフ形石器、剥いだ皮の脂をとるにはスクレイパーが使われました(衣類などとして皮を利用するには、皮についた脂をとらなくてはならない)。<br /><br />その石器で何を切ったり削ったりしたのか・・・ということを調べるためには、実験でできた使用痕と比べます。<br /><br />たき火のそばで見つかった2点の石器の使用痕は、肉や皮を切った時にできる使用痕と似ていました。つまり、ここでは獲物の解体などが行われていたと考えられています。<br /><br />しかし、石器の分布が狭く、数も少ないことから、大型の動物ではなく、小動物を解体したのではないかと考えられています。<br /><br />つまり・・・復元図で、たき火の左側にいる人は、小動物の解体などを行っていたと考えられます。

    動物の皮を剥ぐにはナイフ形石器、剥いだ皮の脂をとるにはスクレイパーが使われました(衣類などとして皮を利用するには、皮についた脂をとらなくてはならない)。

    その石器で何を切ったり削ったりしたのか・・・ということを調べるためには、実験でできた使用痕と比べます。

    たき火のそばで見つかった2点の石器の使用痕は、肉や皮を切った時にできる使用痕と似ていました。つまり、ここでは獲物の解体などが行われていたと考えられています。

    しかし、石器の分布が狭く、数も少ないことから、大型の動物ではなく、小動物を解体したのではないかと考えられています。

    つまり・・・復元図で、たき火の左側にいる人は、小動物の解体などを行っていたと考えられます。

  • たき火(オレンジ色のところ)の近くに、謎の小さな穴が見つかっています。その中には6点の石器が入っていました。しかし、丁寧に加工された石器はなく、大切な石器を隠していったとも考えにくい。この穴が掘られた目的、その性格は謎なのだそうです。

    たき火(オレンジ色のところ)の近くに、謎の小さな穴が見つかっています。その中には6点の石器が入っていました。しかし、丁寧に加工された石器はなく、大切な石器を隠していったとも考えにくい。この穴が掘られた目的、その性格は謎なのだそうです。

  • 謎の穴には、このような状態で石器が入れられていました。

    謎の穴には、このような状態で石器が入れられていました。

  • 謎の穴に入っていた6点の石器のうち、4点がこれらです。

    謎の穴に入っていた6点の石器のうち、4点がこれらです。

  • こちらはたき火跡の周囲で出土した石器(おそらく使用痕のないものだと思います)。

    こちらはたき火跡の周囲で出土した石器(おそらく使用痕のないものだと思います)。

  • さて、復元図の色のついている部分・・・右側(北東側)で、立ったり座ったりしている人たちについて検証していきます。<br /><br />この人たちは、どうやら石器作りをしているようです。

    さて、復元図の色のついている部分・・・右側(北東側)で、立ったり座ったりしている人たちについて検証していきます。

    この人たちは、どうやら石器作りをしているようです。

  • たき火跡のまわりの石器の分布から、たき火の北東側では、石器づくりが行われていたことがわかりました。

    たき火跡のまわりの石器の分布から、たき火の北東側では、石器づくりが行われていたことがわかりました。

  • 石器はどうやって作るのか・・・。まず、加工しやすい石を選びます。

    石器はどうやって作るのか・・・。まず、加工しやすい石を選びます。

  • 富沢では、頁岩(けつがん)と呼ばれる石が多く使われていました。

    富沢では、頁岩(けつがん)と呼ばれる石が多く使われていました。

  • 珪質頁岩です。なんだか柔らかそうな石ですね。

    珪質頁岩です。なんだか柔らかそうな石ですね。

  • 石の形を見ながら、石器作りの計画をたてます。

    石の形を見ながら、石器作りの計画をたてます。

  • 石器の素材となる剥片(はくへん)を取りやすいように、まずは石の形を整えます。

    石器の素材となる剥片(はくへん)を取りやすいように、まずは石の形を整えます。

  • こうして整えられた石を石核(せっかく)といいます。

    こうして整えられた石を石核(せっかく)といいます。

  • 剥片とは、石を打ち割った時に、剥がされた方の薄い石の破片をいいます。そして残された方の石の塊を石核といいます。<br /><br />石を打ち割るには、石のハンマーや鹿の角などが使われました。

    剥片とは、石を打ち割った時に、剥がされた方の薄い石の破片をいいます。そして残された方の石の塊を石核といいます。

    石を打ち割るには、石のハンマーや鹿の角などが使われました。

  • 石核から剥片をとるには、直接打法と間接打法があります。<br /><br />直接打法は、直接、石核に石のハンマーを打ち付けて、剥片をとる方法。間接打法は、石核に鹿の角をあて、棒を打ち付けて剥片をとる方法。

    石核から剥片をとるには、直接打法と間接打法があります。

    直接打法は、直接、石核に石のハンマーを打ち付けて、剥片をとる方法。間接打法は、石核に鹿の角をあて、棒を打ち付けて剥片をとる方法。

  • 剥片をとるのにも、コツがいるようですね。

    剥片をとるのにも、コツがいるようですね。

  • こうして、色々な形の剥片をとることができました。

    こうして、色々な形の剥片をとることができました。

  • ナイフ形石器ならば、剥片の鋭い部分はそのまま刃とし、他の部分を、鹿の角などで細かく叩いて形を整えます。

    ナイフ形石器ならば、剥片の鋭い部分はそのまま刃とし、他の部分を、鹿の角などで細かく叩いて形を整えます。

  • このように、石器はきちんと見通しを立てたうえで作られたのですねぇ〜〜。驚きでした〜。<br /><br />また、石器作りが行われた黒色の石を、元の形に復元してみると、あいている隙間がたくさんあることがわかります。その隙間こそ、加工されたりして持ち去られた石器の部分なのです。

    このように、石器はきちんと見通しを立てたうえで作られたのですねぇ〜〜。驚きでした〜。

    また、石器作りが行われた黒色の石を、元の形に復元してみると、あいている隙間がたくさんあることがわかります。その隙間こそ、加工されたりして持ち去られた石器の部分なのです。

  • たき火の北東側に分布する石器・・・剥片や石核、石のハンマーが見つかっています。これはここで、石器作りが行われていたことを示しています。<br /><br />また、その中には、2点の折れたナイフ形石器が見つかりました。<br /><br />ここでキャンプをした旧石器人たちは、槍先に用いていた大切なナイフ形石器が折れてしまったので、近くで間に合わせの石を探して、代わりのナイフ形石器を作ったのかもしれないとも推測されます。

    たき火の北東側に分布する石器・・・剥片や石核、石のハンマーが見つかっています。これはここで、石器作りが行われていたことを示しています。

    また、その中には、2点の折れたナイフ形石器が見つかりました。

    ここでキャンプをした旧石器人たちは、槍先に用いていた大切なナイフ形石器が折れてしまったので、近くで間に合わせの石を探して、代わりのナイフ形石器を作ったのかもしれないとも推測されます。

  • 折れたナイフ形石器はとても良質な石で作られています。このように良質な石は、富沢近辺(名取川など)ではほとんどとれません。山形県の最上川上流で多くみられるものなのです。<br /><br />

    折れたナイフ形石器はとても良質な石で作られています。このように良質な石は、富沢近辺(名取川など)ではほとんどとれません。山形県の最上川上流で多くみられるものなのです。

  • こちらが、富沢近辺でとれる石。<br /><br />折れてしまったナイフ形石器の代わりを、近くで手に入れた石で作ったのではないか・・・という推測はここからきています。

    こちらが、富沢近辺でとれる石。

    折れてしまったナイフ形石器の代わりを、近くで手に入れた石で作ったのではないか・・・という推測はここからきています。

  • こちらは出土した石器のひとつ。

    こちらは出土した石器のひとつ。

  • 復元図の色のついた部分・・・たき火です。<br /><br />富沢遺跡には、炭化物が集中して発見された箇所があり、さまざまな分析や考察の結果、これが2万年前のたき火の跡であることがわかりました。<br /><br />たき火跡のまわりは、西の方へ向かって少し低くなっています。石器は、やや高い東側で多く見つかっています。たき火跡を中心として、半径2.5mの半円状に、100点ほどの石器が分布していました。<br /><br />これは、旧石器人たちが、たき火のまわりで、なんらかの作業をしたことを意味していると考えられます。<br /><br />煙を避けて風上にすわったので、たき火の片方にしか作業の跡が残っていないのかもしれません。<br /><br />石器の数が少なく、その範囲も狭いため、一晩くらいのキャンプの場と考えられています。

    復元図の色のついた部分・・・たき火です。

    富沢遺跡には、炭化物が集中して発見された箇所があり、さまざまな分析や考察の結果、これが2万年前のたき火の跡であることがわかりました。

    たき火跡のまわりは、西の方へ向かって少し低くなっています。石器は、やや高い東側で多く見つかっています。たき火跡を中心として、半径2.5mの半円状に、100点ほどの石器が分布していました。

    これは、旧石器人たちが、たき火のまわりで、なんらかの作業をしたことを意味していると考えられます。

    煙を避けて風上にすわったので、たき火の片方にしか作業の跡が残っていないのかもしれません。

    石器の数が少なく、その範囲も狭いため、一晩くらいのキャンプの場と考えられています。

  • こちらは、たき火跡の炭です。<br /><br />樹木は、火を受けて黒い炭になる場合と、地下展示室の樹木が見つかったときのように自然に黒くなる場合がありますが、顕微鏡で見れば違いがはっきりとわかります。<br /><br />ここで(たき火跡で)発見された細かい炭化物には、火を受けた黒い炭と同じように、きらきらと光る特徴がみられました。従って、ここの炭化物は、火を受けた樹木が小さな炭になったものなのです。<br /><br />また、その細かい炭化物のまわりの土で、色々な科学的分析を行いましたが、いずれからも火を受けたという結果は得られませんでした。このことから、ここでは火が焚かれたものの、土に影響が残るほど長い期間ではなかったと考えられています。おそらく一晩くらい火を焚いた跡だと推察されています。<br /><br />2万年前のある静かな夜・・・富沢の地に狩りでやってきて・・・たまたま一晩キャンプした人たちの痕跡が・・・2万年後にそのままの形で発見されたなんて・・・なんと奇跡的なことなのでしょう〜〜。

    こちらは、たき火跡の炭です。

    樹木は、火を受けて黒い炭になる場合と、地下展示室の樹木が見つかったときのように自然に黒くなる場合がありますが、顕微鏡で見れば違いがはっきりとわかります。

    ここで(たき火跡で)発見された細かい炭化物には、火を受けた黒い炭と同じように、きらきらと光る特徴がみられました。従って、ここの炭化物は、火を受けた樹木が小さな炭になったものなのです。

    また、その細かい炭化物のまわりの土で、色々な科学的分析を行いましたが、いずれからも火を受けたという結果は得られませんでした。このことから、ここでは火が焚かれたものの、土に影響が残るほど長い期間ではなかったと考えられています。おそらく一晩くらい火を焚いた跡だと推察されています。

    2万年前のある静かな夜・・・富沢の地に狩りでやってきて・・・たまたま一晩キャンプした人たちの痕跡が・・・2万年後にそのままの形で発見されたなんて・・・なんと奇跡的なことなのでしょう〜〜。

  • 次には・・・復元図で、人々の周囲に広がる、環境について検証していきます。<br /><br />遺跡では、2万年前の樹根や幹、枝などが生々しい姿で発見されました。これらの樹木や植物化石、花粉、または昆虫や珪藻(けいそう)の化石から、当時の湿潤な土地、針葉樹の多い林、寒冷な気候などの環境が復元されました。<br />

    次には・・・復元図で、人々の周囲に広がる、環境について検証していきます。

    遺跡では、2万年前の樹根や幹、枝などが生々しい姿で発見されました。これらの樹木や植物化石、花粉、または昆虫や珪藻(けいそう)の化石から、当時の湿潤な土地、針葉樹の多い林、寒冷な気候などの環境が復元されました。

  • 見つかった樹木の種類と分布を見ると・・・<br /><br />植物化石の中でも、その樹木が確実に生育していたことを示すのは根株です。トミザワトウヒやグイマツなど244本が確認されていますが、これらは長い間に生育を繰り返した樹木の総数です。ひとつの時期には10本くらいの樹木のまとまりが、あちこちにできていたようです。<br /><br />一面の原生林のような森・・・というよりは、湿地帯の原野のところどころに、木々の茂みが点在する・・・といった光景でしょうか。

    見つかった樹木の種類と分布を見ると・・・

    植物化石の中でも、その樹木が確実に生育していたことを示すのは根株です。トミザワトウヒやグイマツなど244本が確認されていますが、これらは長い間に生育を繰り返した樹木の総数です。ひとつの時期には10本くらいの樹木のまとまりが、あちこちにできていたようです。

    一面の原生林のような森・・・というよりは、湿地帯の原野のところどころに、木々の茂みが点在する・・・といった光景でしょうか。

  • 樹木のまわりからは、球果(松ぼっくり)や葉、種子が多く見つかりました。トミザワトウヒとグイマツの球果やハンノキ、ヤナギなどの葉、またチョウセンゴヨウの種子のほか、湿地や沼に生育する草などの実も見つかりました。<br /><br />また、ハシバミ、ツツジなどの低木や、ヨモギ、セリ、キクなどの花粉も多く見つかっており、これらも生育していたと考えられています。<br /><br />生育していた植物の中で、食べられるものには、チョウセンゴヨウの種子とハシバミの実があります。そのほかに、花粉などから生育していたことが推定されるコケモモやクロマメノキの果実もあり、氷河期とはいえ、植物質の食料も、少なからずあったことがわかります。<br /><br />

    樹木のまわりからは、球果(松ぼっくり)や葉、種子が多く見つかりました。トミザワトウヒとグイマツの球果やハンノキ、ヤナギなどの葉、またチョウセンゴヨウの種子のほか、湿地や沼に生育する草などの実も見つかりました。

    また、ハシバミ、ツツジなどの低木や、ヨモギ、セリ、キクなどの花粉も多く見つかっており、これらも生育していたと考えられています。

    生育していた植物の中で、食べられるものには、チョウセンゴヨウの種子とハシバミの実があります。そのほかに、花粉などから生育していたことが推定されるコケモモやクロマメノキの果実もあり、氷河期とはいえ、植物質の食料も、少なからずあったことがわかります。

  • 富沢で新しく発見されたトウヒは、福島大学名誉教授の故・鈴木敬治博士によって「トミザワトウヒ」と名付けられました。<br /><br />富沢の球果の特徴が、亜寒帯性のアカエゾマツの球果に似ているものの、わずかに異なる新種であるとして、その典型的な資料が多く見つかった富沢にちなんで、トミザワトウヒと命名されました。

    富沢で新しく発見されたトウヒは、福島大学名誉教授の故・鈴木敬治博士によって「トミザワトウヒ」と名付けられました。

    富沢の球果の特徴が、亜寒帯性のアカエゾマツの球果に似ているものの、わずかに異なる新種であるとして、その典型的な資料が多く見つかった富沢にちなんで、トミザワトウヒと命名されました。

  • 2万年前の富沢に生育していた植物からわかったこと・・・<br /><br />富沢あたりには、草原や沼・湿地が広がり、トウヒやグイマツなどの針葉樹に、シラカンバ、ハンノキなどの広葉樹が少しだけ混じる湿地林があちこちにできていました。<br /><br />そして今の仙台よりも7〜8℃ほど気温が低く、夏と冬の気温差が大きく、雨が比較的少ない大陸性の気候だったようです。

    2万年前の富沢に生育していた植物からわかったこと・・・

    富沢あたりには、草原や沼・湿地が広がり、トウヒやグイマツなどの針葉樹に、シラカンバ、ハンノキなどの広葉樹が少しだけ混じる湿地林があちこちにできていました。

    そして今の仙台よりも7〜8℃ほど気温が低く、夏と冬の気温差が大きく、雨が比較的少ない大陸性の気候だったようです。

  • 樹木の近くからは、多数の昆虫の化石が・・・土の中からは何種類もの珪藻化石が見つかりました。<br /><br />昆虫は、色々な場所に棲み分ける性質があるので、環境を復元するのに役に立ちます。<br /><br />発見された昆虫化石は、すべてコガネムシの仲間の甲虫類でした。キンスジコガネは針葉樹の葉を、スゲヒメゾウムシやエゾオオミズクサハムシは湿地や沼の草を好んで食べる食葉系の昆虫です。また、クロヒメゲンゴロウは、水の中に生息する食肉性の昆虫で、現在は、北海道より北にだけ生息しています。

    樹木の近くからは、多数の昆虫の化石が・・・土の中からは何種類もの珪藻化石が見つかりました。

    昆虫は、色々な場所に棲み分ける性質があるので、環境を復元するのに役に立ちます。

    発見された昆虫化石は、すべてコガネムシの仲間の甲虫類でした。キンスジコガネは針葉樹の葉を、スゲヒメゾウムシやエゾオオミズクサハムシは湿地や沼の草を好んで食べる食葉系の昆虫です。また、クロヒメゲンゴロウは、水の中に生息する食肉性の昆虫で、現在は、北海道より北にだけ生息しています。

  • また、珪藻(=主に水中に生息する単細胞の植物プランクトン)にも水生と陸生があるので、水域を推定する鍵となります。<br /><br />以上の昆虫と珪藻の分布から、2万年前の富沢には、林や湿地、浅い沼があったことがわかります。昆虫の中に北方系のものがいるので、そこからも、富沢の気候が寒冷だったことがわかります。

    また、珪藻(=主に水中に生息する単細胞の植物プランクトン)にも水生と陸生があるので、水域を推定する鍵となります。

    以上の昆虫と珪藻の分布から、2万年前の富沢には、林や湿地、浅い沼があったことがわかります。昆虫の中に北方系のものがいるので、そこからも、富沢の気候が寒冷だったことがわかります。

  • 地下の森の遺跡のなかにあった鹿のフンの跡・・・こちらの展示だとわかりやすいです。<br /><br />遺跡では、黒い粒のまとまりが多数見つかっています。約30cmの範囲に、50個〜100個でひとまとまりになっています。<br /><br />組織的分析から、黒い粒は、植物の小さなかけらからできていることがわかり、中から動物の消化管内で分泌された粘液が検出されました。ここから、黒い粒は、草食動物のフンであることがわかりました。<br /><br />そしてこれらが鹿のフンであり、1回分の量や形や大きさから、ニホンジカ程度の大きさの鹿だっただろうと推測されています。<br /><br />さらにフンを構成する植物のかけらは、ほとんど木質の繊維や針葉樹の葉からできていました。また、土に含まれているよりもはるかに多い量のカバノキやハンノキ、ハシバミの花粉、さらにヨシやササなどに含まれているガラス質の小さな細胞(プラント・オパール)が見つかりました。鹿はこのような植物の木の皮や葉、花の芽を食べていたことがわかります。<br /><br />フンの分布の多さからみて、かなりの数の鹿がここにいたようです。食べていた植物から判断すると、フンが落とされた季節は、植物が乏しく、花が開花する前の、冬の終わりか早春ころと考えられます。<br /><br />この季節に鹿がたくさんいたということは、富沢は鹿の越冬地だったのかもしれません。

    地下の森の遺跡のなかにあった鹿のフンの跡・・・こちらの展示だとわかりやすいです。

    遺跡では、黒い粒のまとまりが多数見つかっています。約30cmの範囲に、50個〜100個でひとまとまりになっています。

    組織的分析から、黒い粒は、植物の小さなかけらからできていることがわかり、中から動物の消化管内で分泌された粘液が検出されました。ここから、黒い粒は、草食動物のフンであることがわかりました。

    そしてこれらが鹿のフンであり、1回分の量や形や大きさから、ニホンジカ程度の大きさの鹿だっただろうと推測されています。

    さらにフンを構成する植物のかけらは、ほとんど木質の繊維や針葉樹の葉からできていました。また、土に含まれているよりもはるかに多い量のカバノキやハンノキ、ハシバミの花粉、さらにヨシやササなどに含まれているガラス質の小さな細胞(プラント・オパール)が見つかりました。鹿はこのような植物の木の皮や葉、花の芽を食べていたことがわかります。

    フンの分布の多さからみて、かなりの数の鹿がここにいたようです。食べていた植物から判断すると、フンが落とされた季節は、植物が乏しく、花が開花する前の、冬の終わりか早春ころと考えられます。

    この季節に鹿がたくさんいたということは、富沢は鹿の越冬地だったのかもしれません。

  • なぜ2万年前のフンが、生々しい状態で残ったのだろうか。<br /><br />落とされたばかりの黒いフンは、ふつうは時間がたつと乾燥して白くなり、しまいにはなくなってしまいます。富沢のフンが残ったのは、そこが常に湿潤で、水の影響を受けやすい土地だったからです。<br /><br />地層を観察すると、森林があった富沢は、その後は、粘土や砂などが繰り返し堆積するような土地に変わっていったことがわかります。<br /><br />つまり・・・柔らかく湿った土地に落とされたフンは、まもなく水が運んできた粘土に静かに覆われて・・・その後は、上に重なった厚い地層と地下水の働きが、天然の冷蔵庫の役目をして、2万年もの長い間、地中に保存されたと考えられます。森林や人間の活動の跡が残ったのも同じ理由と思われます。

    なぜ2万年前のフンが、生々しい状態で残ったのだろうか。

    落とされたばかりの黒いフンは、ふつうは時間がたつと乾燥して白くなり、しまいにはなくなってしまいます。富沢のフンが残ったのは、そこが常に湿潤で、水の影響を受けやすい土地だったからです。

    地層を観察すると、森林があった富沢は、その後は、粘土や砂などが繰り返し堆積するような土地に変わっていったことがわかります。

    つまり・・・柔らかく湿った土地に落とされたフンは、まもなく水が運んできた粘土に静かに覆われて・・・その後は、上に重なった厚い地層と地下水の働きが、天然の冷蔵庫の役目をして、2万年もの長い間、地中に保存されたと考えられます。森林や人間の活動の跡が残ったのも同じ理由と思われます。

  • 2万年の時空を超えて・・・想像力をめいっぱい働かせても・・・ほんの一部を垣間見ただけで・・・現代人の頭じゃ、やっぱり想像しきれない・・・はるか太古の世界。<br /><br />2000年じゃないよ〜、2万年だからねぇ〜〜〜(&gt;_&lt;)!!!<br /><br />この頃の人間の寿命は20歳代だったそうです。

    2万年の時空を超えて・・・想像力をめいっぱい働かせても・・・ほんの一部を垣間見ただけで・・・現代人の頭じゃ、やっぱり想像しきれない・・・はるか太古の世界。

    2000年じゃないよ〜、2万年だからねぇ〜〜〜(>_<)!!!

    この頃の人間の寿命は20歳代だったそうです。

  • 鹿などの動物が越冬するためやってくるこのあたりは、旧石器人にとって、絶好の狩りの場所だったのですね。

    鹿などの動物が越冬するためやってくるこのあたりは、旧石器人にとって、絶好の狩りの場所だったのですね。

  • 外には、2万年前の氷河期の森を復元したお庭が造られています。<br /><br />調査でわかった地形や植物に基づき、草原の沼・湿地をつくり、その中におよそ90種類の植物を当時のように配置し、氷河期の森のようすが実感できるようにしてあるそうです。<br /><br />このような風景だった氷河期の富沢・・・鹿の群れが水を飲みに来たり、時には、小高いところで旧石器人たちがキャンプをしていたんですねぇ・・・。<br /><br />今日は、もう4時半でそろそろ閉館時間だし(いつもながら遅出のわが家だから・・・)、もうちょっと暖かくなったら、氷河期の森をゆっくり見てみようかな。<br /><br />それにしても・・・想像よりも衝撃的で・・・楽しくて・・・とっても勉強になりました。子供向けにわかりやすい説明がたくさんあるので、私でも理解できるのがよかったです。<br /><br />地底の森ミュージアム<br />http://www.city.sendai.jp/kyouiku/chiteinomori/

    外には、2万年前の氷河期の森を復元したお庭が造られています。

    調査でわかった地形や植物に基づき、草原の沼・湿地をつくり、その中におよそ90種類の植物を当時のように配置し、氷河期の森のようすが実感できるようにしてあるそうです。

    このような風景だった氷河期の富沢・・・鹿の群れが水を飲みに来たり、時には、小高いところで旧石器人たちがキャンプをしていたんですねぇ・・・。

    今日は、もう4時半でそろそろ閉館時間だし(いつもながら遅出のわが家だから・・・)、もうちょっと暖かくなったら、氷河期の森をゆっくり見てみようかな。

    それにしても・・・想像よりも衝撃的で・・・楽しくて・・・とっても勉強になりました。子供向けにわかりやすい説明がたくさんあるので、私でも理解できるのがよかったです。

    地底の森ミュージアム
    http://www.city.sendai.jp/kyouiku/chiteinomori/

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この旅行記へのコメント (6)

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  • Zebraさん 2016/02/14 20:29:49
    絶対に行きたいっ
    すごい、これ、仙台にあるんですね。
    仙台はよく行く街なのですが、知りませんでした。
    これはぜひ行かなければ。

    次回の出張帰り(3月)に、予定に入れてしまおう、と
    ひそかに決心しました。

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2016/02/17 10:17:20
    RE: 絶対に行きたいっ
    Zebraさん、こんにちは!

    興味持っていただけて、旅行記にした甲斐があったというものです。

    地下鉄長町南駅から歩いてすぐ!ですので、興味があれば是非行ってみてくださいね〜!!!なかなか見られぬ貴重な遺跡です〜〜!

    こあひる
  • ガブリエラさん 2016/02/09 22:07:43
    なんだか、ワクワクしちゃいます♪
    こあひるさん☆

    こんばんは♪

    「地底の森ミュージアム」名前で、まずワクワクしちゃいますよー!!!

    実は私、遺跡大好き人間で、学生時代「考古学ゼミ」に入ってたんです(笑)。
    欧州行くまでは、なんといっても好きな国のNO.1は、エジプトでしたから(*^_^*)

    2万年前って、想像つかないですよね・・・。
    こんな風に、木が残ってるなんて、本当にロマンですよね!!!
    私が石、岩が好きなのも、歴史を感じられるからっていうのも、あるんです。
    旧石器時代の人々の生活、思わず空想の世界に入ってしまいそうです♪

    ガブ(^_^)v

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2016/02/10 09:53:02
    RE: なんだか、ワクワクしちゃいます♪
    ガブちゃん、おはよ〜〜!

    わ〜〜!考古学ゼミに入ってたんですね〜〜!奈良のようなところで育つと、古いものが身近にあり、やっぱり興味を持ちやすいのでしょうね。

    古代の遺跡は・・・現代人とは全く異なる生活や考え方も学ぶこととなり、ほんとに奥が深く、ロマンチックでワクワクしますよね。

    2万年前の氷河期のことなんて、全く考えたこともなかったけど・・・。恐竜が、6500万年前に、隕石墜落で訪れた寒冷のために絶滅したというくらいは聞きかじったことはあったけど・・・(これまた・・・もっとはるか昔過ぎますね・・・笑)。

    2万年前の木の根や倒木した幹などがリアルな形状で残っていた・・・ってほんとにすごい〜〜と思っちゃいました。化石でなくそのものなので・・・なんとも言えない感覚に陥りました。

    想像力を働かせても想像しきれない・・・古代の人々の生活や観念・・・なんとも引き込まれますねぇ。

    こあひる
  • aoitomoさん 2016/02/08 19:03:55
    天然の冷蔵庫パワーに旧石器人もビックリ!?
    こあひるさん こんにちは〜

    『地底の森ミュージアム』
    2万年前の氷河期にたき火を焚いてキャンプをした旧石器人は、2万年後に自分達の行動が注目されるなんて、考えてもみなかったことでしょうね〜(笑)

    『水田遺跡』
    さらに、2万年前の氷河期の地層の上には色々な時代の水田が折り重なる『水田遺跡』がまた、面白いです。
    時代時代の都市の遺跡が地中で折り重なる『トロイの遺跡』と似てます。

    『湿地林の跡』
    眠りの地が目覚めて、空気に暴露されると、風化の時を刻み始めます。
    それを抑えて保存する技術が出来るのもまた凄いことです。
    木も腐敗菌などが存在しなければ腐らないというのも納得です。

    『石器作り』
    石器作りも詳しいことが多々分かっているのですね。
    大人の『石器作り』体験コーナーを作ってほしいですね。(笑)

    『鹿のフン』
    これも残っていることに驚きます。
    天然の冷蔵庫というのも納得です。

    実際には遺跡の大部分が住宅街の下ですから、
    まだまだ、多くの歴史が眠っていることは確実ですね。

    『地底の森ミュージアム』なかなか面白いです。
    説明も分かりやすく取っ付きやすいのが一番です。
    『トロイの遺跡』は実は難解で理解する前にギブアップでした。(笑)

    楽しませていただきました〜

    aoitomo

    こあひる

    こあひるさん からの返信 2016/02/10 09:44:29
    RE: 天然の冷蔵庫パワーに旧石器人もビックリ!?
    aoitomoさん、おはようございま〜す!

    そうですよね〜〜!まさかまさか・・・こんなに未来の人たちが、自分たちのキャンプ跡や鹿ちゃんのフンで注目をあびるなんて・・・。日々の生活だけの世界で、遠い未来のことなんて思い描くことがあったのかなぁ〜〜〜。生活スタイルの一部が解明されても、どんなことを考えていたのかは全くわからず・・・ほんとに不思議な感覚に陥ります。

    水田遺跡については、調査してからまた埋めちゃったんですよね、きっと。まあ、遺跡が重なっていると、どの部分をどう残していくか・・・余計難しくなりますね。たしか明日香の板葺宮も、いくつかの宮が重なって建てられていたんですよね。トロイの遺跡もそうなんですかぁ〜〜〜。自分の住んでいる身近な場所の歴史だと、より親近感と興味が深まりました。

    地下深いところに存在している遺跡・・・温度や湿度調整や、薬品を駆使して何とか時を止めようと思っても・・・自然には敵いませんねぇ・・・。いつまで・・・こういう貴重な資料を伝えていけるものなのか・・・。

    石器作りとか、色々な体験コーナーあるみたいですよ。予約制なのか、会員制なのかよくわかりませんが・・・。石器だったか土器だったか、その他いろいろな道具を作ったものが展示されていました。

    住宅街の下に眠る様々な水田についても、もっと知りたいかも・・・と思いました。

    このミュージアムは、子供でも理解できるような言葉で、説明も詳しく、説明を読むのが面倒くさがりの私でも、その場で読んで、理解して楽しめました。

    こあひる

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