2015/12/26 - 2015/12/26
280位(同エリア374件中)
滝山氏照さん
前身は小田原北条氏の陪臣であった秋元長朝(あきもと・ながとも、1546~1628)は天正18年(1590)北条氏の没落により浪人の身となりますが、文禄元年(1592)徳川四天王の一人である井伊直政(いい・なおまさ)の推挙により徳川家康に仕える旗本に召し抱えられ、直政配下として上野総社に所領を与えられます。
慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いの功績により大名に列せられ総社に1万石で入封した長朝は上野国府跡に総社長尾氏によって造られた蒼海(おうみ)城を居城としますが傷みが激しい為この城を放棄し植野勝山に新城と城下町を築きます。
寛永10年(1633)嫡男泰朝(やすとも、1580~1642)が城主の頃1万8千石に加増され甲斐国郡内谷村城へ転封となりこれを機に総社城は廃されます。
城川公園に立て掛けられた説明板には次の通り記されています。
「総社城跡
慶長6年(1601)蒼海城に封ぜられた秋元長朝が、父景朝眠る地、利根川崖端と越後道街村との間に築城した平城である。植野堰の開発と築城、城下町づくりを平行して実施、慶長12年に完成した。
総郭南北780m、東西750mの同心円状の縄張で、遠構えの西は天狗岩用水を大堀とし、各郭は濠と丸野づら積みの石垣で被覆されていた。二の丸中央には遠見山古墳を利用した物見台があった。寛永10年(1633)城主秋元泰朝が甲州谷村城(都留市)へ転封後廃城となった。
本丸は利根川により崩壊、二の丸三の丸も住宅化し、旧状は堀跡の一部と物見台のみである。
平成13年3月吉日 総社地区史跡愛存会」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
PR
-
元景寺に隣接する勝山小学校方向
左側秋元景朝供養塔がある元景寺石門を離れ総社城があったとされる勝山小学校に向かいます。 -
勝山小学校
-
勝山小学校正門
-
城川公園
下調べでは城跡の一部とされる城川公園に総社城跡説明板があるとのことで近隣住宅で所在を尋ねてようやく城川公園を探し出します。 -
総社城跡・説明板(全景)
公園の外周を一回りしますと説明板がありました。 -
総社城跡・説明板(近景)
総社地区史跡愛存会製作による城跡の説明文が掲示されています。 -
勝山小学校校庭
かつての総社城は当該小学校に建てられていたとの事で再度戻って遺跡らしきものはないのか見渡しますが・・・・・・。 -
二子山古墳池
この辺りには古墳があると持参の地図に記載されており、校庭にも「二子山古墳池」と記載されたプレートが見えます。 -
旧佐渡奉行街道総社宿・案内板
-
旧佐渡奉行街道総社宿・説明板
越後三国道の一宿場町として栄え大名や佐渡奉行が宿泊する本陣などが配されていましたがこの三国道も元禄年間には高崎・金古・渋川が本道となり次第に機能を失い衰退します。 -
総社大神宮
総社町道路元標の石標とともに総社大神宮が控えています。 -
総社町道路元標
古い石柱を補完するため傍らに新しい標柱が立っています。 -
総社大神宮と総社宿説明
説明ではこの東方向に大手門が在ったとされます。 -
総社神明宮
-
社殿
-
社殿横
-
神宮境内風景
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
17