2012/06/03 - 2012/06/08
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<6日目 6月8日 キーロフ市内>
十字架行進は、いよいよ最終日の午後に入った。この日3回目の休憩地で昼食をとった後、ちょうど12時頃に広い幹線道路からキーロフ市内に向かう分岐点に到着した。すでにこの日の行程の半分以上を歩いている。断続的に降っていた小雨がやみ、空が少し明るくなってきた。
市内に伸びる道路が右に緩やかにカーブする先に、アパートや工場の建物が入り混じったキーロフの街並みが広がっている。これから市内に入り、いくつかの教会をめぐってから、出発点の聖トリフォン修道院をめざすのだが、市内入口にたどりついたという安堵感から、もうすぐにでも行進が終わるような錯覚にとらわれる。
しかし、ここからがまだ長かった。分岐点から、次の休憩地となる市内のノヴォムチェニキ教会まで約2時間、さらにもう一つ別の教会まで市内の通りを道いっぱいに広がりつつ巡り歩いて、終点の聖トリフォン修道院に到着したのは夕方の5時前だった。
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■ソ連時代は「閉鎖都市」だった工業都市キーロフ
キーロフ(Киров)は、ボルガ川に注ぐカマ川の支流、ヴャートカ川の左岸に位置している。最初の名前はフルイノフ(Хлынов)といい、1181年に交易商人たちによって町が開かれた。昔のロシアの物流は河川を利用した水運で支えられており、フルイノフは毛皮交易の中継地、農産物の集積地として栄えた。1780年に町の名前がヴャートカ(Вятка)に変わり、1934年にキーロフと改名された。
18世紀から19世紀のヴャートカは政治囚の流刑地でもあった。19世紀後半の革命思想家、アレクサンドル・ゲルツィン(Александр Герцен)がこの地に流されていた。19世紀末にシベリア鉄道が開通し、駅が置かれて交通の要衝となったヴャートカには近代的な工場が建ち始める。第二次大戦中にドイツ軍の攻撃を避けるためにロシア西部から多くの軍需工場が疎開して来たために、キーロフは重化学工業都市として急速に発展することになった。キーロフで製造されたT-34戦車は、ソ連がドイツ軍を撃退し勝利をおさめる決定的な原動力となった。キーロフにはまた、航空機産業(スホーイ)の部品工場があり、化学ではバイオ工業が盛んだ。こうした事情により、ソ連時代のキーロフは長らく「閉鎖都市」とされ、外国人の立入が禁止されていた。
現在のキーロフ市の人口は約46万人。航空機部品や自動車製造、電子工業、バイオ化学などの工業都市であると同時に、家具生産や工芸品づくりでもよく知られている。近郊のディムコヴォ村で作られる土人形や笛などの玩具は、今でも「ディムコヴォ人形」、「ヴャートカ人形」の名前で親しまれている。
余談ながら、第二次世界大戦はロシアの都市建設に大きな影響を及ぼした。ドイツ軍の電撃作戦によってソ連西部地域はあっという間に制圧され、モスクワ、レニングラードの二大都市が陥落寸前という苦境に追い詰められたため、これら諸都市の工場設備や文化施設は東部のウラル地域や西シベリアへと、疎開のため大挙移された。モスクワ陥落に備えて首都機能の大半がクイビシェフ(現サマーラ)に一時移されて「臨時首都」となったのをはじめ、レニングラードのキーロフ・バレエ劇場とワガノワ・バレエ学校はペルミへ、エルミタージュ美術館の収蔵品はスベルドロフスク(現エカテリンブルグ)へと疎開した。ゴーリキー(現ニジニ・ノブゴロド)、チェリャビンスク、カザン、ウファ、オムスク、クラスノヤルスクといった都市にも戦車、ロケット砲、火器・弾薬など軍需工場が次々と移設され、戦後、これら諸都市は自動車、航空機、機械製造などを中心とする重工業都市として発展することになった。
■スターリン大粛清の引き金となったキーロフ暗殺
セルゲイ・キーロフは、ロシア革命に参加し、スターリンの懐刀として辣腕をふるったソ連時代初期の革命家であり政治家だ。キーロフは1923年に共産党中央委員に選出され、26年にジノヴィエフらスターリン反対派が勢力をもっていたレニングラードの党第一書記に就任した。スターリンの部下として、反対派の排除や農業の集団化に力をふるった。30年代にはスターリンと並ぶ有力政治家と目されるようになったが、1934年11月に反対派党員によって殺害された。スターリンはこの暗殺事件を、政敵追い落とし、共産党内反対派への大粛清の口実として利用した。事件直後、レニングラードの共産党指導者の大多数が逮捕され、処刑された。1930年代後半にソ連全土を吹き荒れた大粛清の嵐によって、数知れない政治家、軍人、共産党員が処刑され、数百万の無実の人々が収容所に送られて過酷な強制労働を強いられた。
スターリン大粛清の引き金となったこの事件は、キーロフの人気を妬んだスターリンが、反対派の古参ボリシェビキを一掃し、国内の大粛清を進めるために、暗殺を指示したのではないかという見方が、長らくソ連研究者の間で定説のようになっていた。しかし、1991年のソ連崩壊後に公開された歴史文書ではそのような事実を裏付ける資料は発見されておらず、今では偶発的な殺人事件を奇貨として、スターリンが独裁権力を確立するために、これを最大限に利用したものと考えられている。
ともあれ、このような背景のもとに、セルゲイ・キーロフの故郷に近いヴャートカ市は、1934年12月に彼の名前を記念して、キーロフ市と改名された。ソ連崩壊後、市の名前をもとのヴャートカにもどそうという提案もあったが、市民の支持が得られず、そのままになっている。
ソ連時代に名前が変えられた都市は多い。レニングラード(旧名:サンクトペテルブルグ)、スベルドロフスク(旧名:エカテリンブルグ)、ゴーリキー(旧名;ニジニ・ノブゴロド)、クイビシェフ(旧名;サマーラ)、キーロフ(旧名;ヴャートカ)、プーシキン(旧名;ツァールスコエ・セロー)、ボルゴグラード(旧名;ツァリーツイン、スターリングラード)などだ。
ソ連崩壊後、かなりの都市が旧名にもどされたが、元に戻さずそのままとなっている都市も結構多い。キーロフ市民が、町の名前を旧名ヴャートカに戻すことに同意しなかったのは、この町がソ連時代に大きく発展し、キーロフの名前がそれだけ人々に慣れ親しまれているということなのだろう。ソ連崩壊直後は、社会主義時代のすべてを否定する論調が優勢だったが、しかし、それも含めて自分たちの歴史なのだと受けとめて、ソ連時代の否定面と肯定面を冷静に評価する常識的な考え方もまた健在なのだ。
(つづく)
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