2015/08/02 - 2015/08/04
172位(同エリア896件中)
ねいちゃさん
萩二日目。
前日はレンタサイクルで町内を走りましたが、やはり暑かったぁ!。
もう一足伸ばす気力が失せてしまうので、
それでは本末転倒もいいとこ。
なので、今日はレンタカーで豪勢に。(笑)
実際チャリでも回れる町の規模だし、巡回バスもあるんだけどね。
根がヘタレだから、「楽」しちゃおっと。
金をケチる歳でもないし、むしろ時間をケチらなきゃ。
と言うわけで、とりあえず「松陰神社」に行ってから、
近場のレンタカーでも見つけよう、
と算段してお出かけします。
宿はそのための神社への立地重視で選びました、とさっ。
決して「お気楽旅」重視ではありません!(笑)
今日も朝から「ミンミン」と蝉も元気です!!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
旅館「萩本陣」、7階市内眺望確約からの眺め
山側はちと安いんですが、山ばっか見ててもねぇ。
お金は使う時にはけちらないのがモットー。萩本陣 宿・ホテル
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萩の町ってかなり小さいんです。
視界の中にちょこんとおられます。萩本陣温泉【萩本陣 湯の丸】 温泉
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出かけようってしたところ、従業員の方が
「お写真とりましょう」という流れとなりました。
お気遣い、ありがとうございます。 -
「萩本陣」それなりのお値段ですが
温泉に趣向がこらしてあって、堪能しましたです。
何より日頃食事を作っている身としては、
据え膳上げ膳はそれだけで有り難いっ!
ただ、朝食がバイキングで、混んでたので並ぶのはマイナスぅ〜。 -
松陰神社
徒歩5分と言われてましたが、入口が端っこなので10分くらいかかったような。
でも、そんなことはどうでもよろしい。
吉田松陰先生を語らねば・・・。松陰神社 寺・神社・教会
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吉田松陰
長州藩士で思想家・教育者。明治維新の精神的指導者・理論家でもあります。
ですが、松陰の名は有名でも、実際の思想はあまり知られていません。
「天下は一人の天下なり」−天皇中心の国家思想で、尊皇主義。
「飛耳長目(ひじちょうもく)」−情報収集を行い、将来の判断材料とすること。
「草莽崛起(そうもうくっき)」−大衆よ立ち上がれ。天皇制国家へ進めと説く。
対外思想−北海道開拓、カムチャッカ半島の領有、琉球の日本領化、李氏朝鮮の属国化、満州台湾フィリピンの領有化を主張。
ウィキペディアではこれだけ出てきます。
どうでしょう?何か感じる所ありませんか? -
明治維新胎動之地の石碑
そうなのですよね、明治維新はこの吉田松陰の主張したとおり、進んで行っています。
彼の存在によって、果たした役割の大きさというものを実感せずにはいられません。
さらに彼は言っています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし」
吉田松陰は不朽の見込みをもって、あえて死地にのぞみ、その志は明治維新に脈々と生き続けていくのですね。 -
一方で、尊皇思想や草莽崛起の考え方は否定しませんが、
対外思想がかなり過激で、福沢諭吉に相通ずるところがあります。
いわゆる征韓論そのものの考え方が見て取れるし、
近くは後の大東亜共栄圏構想に通ずる部分もはっきりと見えますよね。
日本の近代史の、特に外交面での道筋をつけた人でもあるのです。 -
「親思ふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらん」の石碑
子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深いということ。
江戸で処刑される時に読んだ辞世の句です。
「今まで好き勝手して親不孝してごめんなさい」ですね。いいこと言いますよねぇ〜。
子どもって面倒くせぇーと思いつつも、ついつい世話焼いちゃうもんね。 -
松下村塾
安政2(1855)年12月、野山獄を出て、自宅に幽囚の身となった松陰先生は、家族や親族に対して自室にて講義をされるようになります。
噂を聞きつけて、近隣の子弟が数多く参加するようになり、これが発展。
安政4(1857)年11月、杉家隣の小屋を改装し、8畳1間の塾が開かれました。
この時より松下村塾は事実上、松陰先生が主宰する塾となってゆきます。松下村塾 名所・史跡
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この私塾は今までの塾と異なり、ただ講義を聴くだけでなく、
活発な議論もくり広げられていました。
現在でいうところの ActiveLearning の走りでしょうか。
教えの基本は、尊皇攘夷で儒学・兵学・史学など広範な学問が教授されたそうです。
この塾より多くの優れた人材が巣立ち、明治日本の礎となっていくのです。 -
どう見ても、みすぼらしい掘っ立て小屋なんですが、志をもった若者が目を輝かせて講義にのぞみ、自分の心の中に「誠」を宿していったんでしょうね。
口先だけでカッコイイこと言う人って、いるじゃないですか?
でも、松陰先生は実際に密航まで企てた行動力のある人。
世間知らずの田舎者の若者には憧れだったと思うのです。
松陰先生は、そういう若者の心を鷲掴みにしていった。 -
教育の成果なのですが、洗脳と紙一重でもあるんですよね。
確固たる自分をもって、大事を成した英傑も出ています。
でも一方で、過激思想に感化されて、大事な命を落としていった若者も、
ここからはたくさん出ているんですよね〜。
教育というのは一歩間違えると怖いものだと思います。
このちっぽけな松下村塾は、そんなことを考えさせてくれた史跡でした。 -
壁にはここから輩出された、名のある方々のお写真が飾ってありました。
塾生には、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一・伊藤博文・山県有朋・
前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・野村靖・渡辺蒿蔵(天野清三郎)・松浦松洞
など、総計で約90名余りが松陰先生の教えを受けました。 -
講義室
ここで教えを受けた塾生たちの中には、明治政府の中枢を担うものが多くでています。
総理大臣となり名声と栄誉を得たものや世俗的な成功を得たものもいます。
だからといって、そういった成功の元が、理想の教育方法・理想の教師像ゆえと捉えてしまうと、少し違うような気もするのです。 -
松陰先生は決して一介の成功者を造りたかったわけではないでしょう。
「志をもって、いかに生きるか。それを知るために学べ。」
そんな声が聞えたような気がしました。 -
吉田松陰幽囚ノ旧宅[よしだしょういんゆうしゅうのきゅうたく]
松陰の実家 杉家旧宅です。ここは国指定の史跡で、木造瓦葺き平屋建て。
かなり大きい建物で、この中の幽囚室は東側にある3畳半の一室になります。 -
安政元(1854)年 3月27日、松陰は伊豆下田でアメリカ軍艦への密航を企て
失敗後江戸伝馬町の牢に捕らえられ、萩送還処分となって野山獄に入れられました。
翌年に釈放となりましたが、父杉百合之助預かりで
実家の杉家で謹慎生活を送り、読書と著述に専念します。
松陰は幽囚室で孟子などを講じるようになり、
次第に多くの若者が参加するようになってゆきました。 -
塾生たちを一部ご紹介しましょう。
久坂玄瑞[くさかげんずい]−松下村塾の双璧。
「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価された英才。
長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍し、
坂本龍馬や中岡慎太郎・西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えるも
禁門の変で自刃(享年25歳)。 -
高杉晋作[たかすぎしんさく]−松下村塾の双璧。
功山寺挙兵により長州藩の藩論を倒幕に統一。
その後の第二次長州征伐でも海軍総督を務め、江戸幕府のを倒壊を決定づけた。
結核により明治維新を見ずに逝去(享年27歳)。
吉田稔麿[よしだとしまろ]−松下村塾の三秀(久坂、高杉、吉田)。
初期の松下村塾門下生として、増野徳民・、松浦松洞と共に「三無生」とも言われる。
「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」と高く評価された。
奇兵隊に参加後、屠勇隊を創設するなど、松陰死後に有力な志士として活動したが、池田屋事件で討ち死(享年24歳)。 -
イチオシ
入江九一[いりえくいち]−松下村塾の四天王(久坂、高杉、吉田、入江)。
久坂、高杉などの門下生の大半が反対する中、松陰が考えた老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従。
高杉の奇兵隊創設にも協力したが、禁門の変で死亡(享年28歳)。
伊藤博文[いとうひろぶみ]−高杉の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。
明治維新後は初代内閣総理大臣となり、4次にわたり組閣。
長きにわたり、国政の発展に貢献したが、明治42年満州にて安重根により暗殺(享年69歳)。 -
山県有朋[やまがたありとも]−奇兵隊軍監として活躍。
明治維新後は、明治22年に第9代内閣総理大臣に就任。
山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた(享年85歳)。
前原一誠[まえばらいっせい]−長州藩における倒幕活動に尽力。
戊辰戦争では参謀として活躍し、維新後は越後府判事や参議を勤める。
明治9年不平士族を集め「萩の乱」を起こし、処刑された(享年43歳)。 -
品川弥二郎[しながわやじろう]−松陰死後、尊王攘夷活動に奔走。
山田顕義らとともに御楯隊を組織するなどした。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。
維新後は、第一次松方内閣で内務大臣をつとめ、選挙大干渉をおこす。
現在の獨協学園(獨協大学)や京華学園(京華中学・高校)を創立した(享年58歳)。
山田顕義[やまだあきよし]−禁門の変や、功山寺挙兵、戊辰戦争に参戦。
明治7年「佐賀の乱」、明治10年「西南の役」では征討軍の将として戦った。
明治新政府では、初代司法大臣として入閣。
日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立した(享年49歳)。 -
松浦松洞[まつうらしょうどう]−松陰主宰初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。
現存する江戸におくられる直前の吉田松陰の肖像を描き残した人物。
公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を企てるが果たせず、京都で自害(享年26歳)。
野村靖[のむらやすし]−入江九一の弟。兄とともに老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど、最後まで師に追従した。
維新後は神奈川県令、枢密顧問官、駐仏公使などを歴任。内務大臣や逓信大臣にも就任している。
現存する「留魂録」を、松陰の死から17年後、元牢名主であった沼崎吉五郎から受け取った人物(享年68歳)。
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幽囚室[ゆうしゅうしつ]
松陰が蟄居した部屋で、三畳半という中途半端な部屋。
もともとは四畳半だったのですが、神棚が設けられてこうなったそうです。
獄中で行っていた孟子の講義はここで完成され、主著の一つである「講孟余話」はここでなされたそうです。 -
きら星の如き、塾生たち・・・双璧とか四天王と呼ばれた方々はいずれも短命ですよね。みな30前に亡くなっておられます。
それにひきかえ、長命で栄達を成し遂げた方々の(こういっては失礼ですが)小粒さは否めない事実でもあります。
品川弥二郎なんて、暴力による自由民権運動の弾圧者なんですよね〜。
山県有朋なんて、陸軍による軍国主義の塊のようなお方です。 -
生きなければならない方々が亡くなり、人物として(こういっては失礼ですが)二流の人たちが作り上げた明治政府。
日本の近代史の暗雲がみえてしまって、どうも悲しくなってくるんですが・・・。
本当にこれでよかったのかしらん。
吉田松陰先生の功罪、結構罪が重いような気がするのは気のせいでしょうか。 -
明治23(1890)年、実家の杉家の邸内に松陰の兄杉民治が土蔵造りの小祠を建てたのがはじまり。
ご神体は、松陰愛用の赤間硯と松陰の書簡が祀られています。 -
明治40年に伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、昭和30年には新しく建て替えられました。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、松下村塾の塾生らを祀る末社・松門神社となっています。 -
宝物殿「至誠館」
安政6(1859)年、松陰は安政の大獄により江戸で刑死してから
150年目となる平成21(2009)年を迎えることを記念して建設されました。
松陰が遺した著述や物品の永久保存を目的とし、
それらを展示することを通じて、その思いを現代に伝えています。
無料ゾーンには、ミュージアムショップが併設され、
ここでしか買えないグッズもありますので、要チェックです。 -
松陰神社で戴いた御朱印です。
やっぱ「至誠」ですよねぇ〜。(笑) -
いっぱい語ってしまいましたっ。
みなさん、お腹いっぱいじゃないですか?(笑)
ここからは少し軽〜く行きましょうね。
松陰神社からレンタカーを得るため、トヨタに歩いて行きました。
予約もしてない飛び込みだったのですけど、快く貸していただきました。
https://rent.toyota.co.jp/shop/detail.aspx?rCode=66501&eCode=004&udFlg=2&sFlg=3&pref=%e5%b1%b1%e5%8f%a3%e7%9c%8c%e8%90%a9%e5%b8%82%2c35204&jFlg=1 -
わずかな距離でも、自転車はそれなりに汗をかきますが、やっぱり車は快適〜。
すぐ近くの東光寺にさくっとやってきました。
東光寺
http://www.toukouji.net/ -
東光寺総門(国指定・重要文化財)
東光寺は元禄年間に創建された、黄檗宗の寺院です。
開山は慧極禅師、総門扁額には禅師筆の「護国山」が掲げてあります。
総門は八脚門で、中央は持ち上げ棟式の屋根で、黄檗宗の様式で中国風の様子を伝えてくれます。ベンガラが塗られていて、見た目も美しいです。 -
東光寺三門(国指定・重要文化財)
この門は創建後121年後に竣工しました。藩主毛利斉熙が寄進したもの。
地方寺院としては立派なもので、桁行11.6m・梁間6.7mもあります。
南禅寺の三門を小さくしたような感じです。東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会
-
三門から本殿にあたる大雄宝殿までの参道は、長めで間延びした感じを持ちますが
かつてはこの間に天王殿がありました。
ですが、廃藩置県後の寺禄廃止により解体されたそうです。
寺禄廃止というのは、神仏分離令により神道重視となった明治政府が、経済面を含めた寺院の保護を打ち切った政策をいいます。
この結果たくさんの寺院が廃寺になり、この流れが廃仏毀釈へと進んでいきます。
日本文化を軽視した蛮行といってもいい政策です。 -
イチオシ
天皇重視、神道重視は結構ですが、日本というのはどうしてこうも極端に振れるんでしょうね。
西洋文明礼賛もいいのだけれど、日本のいいものはいいという矜恃はもってほしいものだと常々思います。
これが松陰先生が育てた、長命なる塾生たちがやったこと。明治政府というのはこういう蛮策が実に多い。 -
大雄宝殿(国指定・重要文化財)
黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼び、本場の中国でもそう呼ぶのだそうです。
元禄11(1698)年12月に竣工、唐様式の仏殿です。
堂内は土間叩仕上げで、黄檗宗の読経は現在でも立ったまま行うんだとか。
屋根の中央に何か見えてますよね。
あれは火焔付き二重宝珠で、あれが黄檗風らしいです。 -
東光寺鐘楼
二層の上層内部には、毛利家4代藩主吉広公が鋳物師の名工に命じて鋳造させた大鐘があります。
この大鐘には、毛利家3代藩主吉就公の葬儀が行われた翌日の日付である元禄7(1694)年5月15日の銘が入っており、この由来からか、第二次世界大戦中にも供出から除外されたそうです。
また、この鐘楼の上層には大太鼓もあり、鼓楼も兼ねています。 -
萩藩主毛利家墓所(国指定・史跡)
毛利家では偶数代の藩主は大照院に、奇数代の藩主は東光寺に、それぞれ交互に葬られるしきたりがあったようです。なぜだかわかりませんが、面白いですね。 -
で、この東光寺墓所には中央に3代藩主毛利吉就[よしなり]があり、左右端に5代吉元[よしもと]・7代重就[しげたか]があって、間を埋めるように9代斉房[なりふさ]・11代斉元[なりもと]と墓石が並んでいます。
奇数代の5藩主夫妻の墓が整然と立つ姿は壮観な眺めです。 -
それら藩主の墓石もさることながら、ここの最大の見所はその下に石灯籠500数基が並んでいる景観なんですね。
最初見た時はなんだこれ?と衝撃でした!
ここが今回萩旅行を決めた主因だったりします。
「見てみたいー」 -
参道は3つに別れ、それぞれ鳥居に繋がっています。
その周囲にこれでもかと並ぶ石灯籠。ここは空気感が全く違ってました。 -
「萩・万灯会」(はぎ・まんとうえ)は萩の夏の風物詩で、
13日には天照院の600余の石灯籠に火が入り「迎え火」と呼ばれます。
15日には東光寺の石灯籠に火が灯され「送り火」となるそうです。
ただでさえ荘厳な雰囲気なのに、真っ暗の中で石灯籠に火が入る光景は、ホント凄いんでしょうねぇ。
お盆だし先祖の霊を京都でも送らなければいけないけれど、一度は見て見たいものです。 -
イチオシ
通常のレンズだと入りきらないので、この辺から広角を使い出しております。
それでも全部は収めきれません。 -
なんで石灯籠が置かれたのか?
よくは知らないのですが、江戸初期まで「殉死」の風潮があり、主君が亡くなると家臣は後を追って・・・というのがあったんですね。
4代将軍家綱の頃に「殉死」が禁止されたのに伴い、家臣たちは代わりに石灯籠を寄進しはじめたというのを、どっかで聞いたような気がします。
間違ってるかもしれませんが・・・。 -
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藩主ご夫妻の墓は花崗岩で造られ、方形の笠石が唐破風調になって乗せられています。
墓石には法号、笠石の裾には藩主夫妻の沢潟紋が刻まれています。 -
お墓をバシャバシャ撮るのは、大変失礼で申し訳ないのですが
見たことのない光景なので、ご容赦くださいませ。 -
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お墓のあたりから下を見ても圧巻の光景です。
お墓に鳥居という組み合わせも、妙なのですが、藩主は死して神になられると考えると納得もいきます。 -
藩主目線で見ると、石灯籠は家臣たちが傅いている姿にも見えますね。
「あい、わかった。そうせいっ!」と言いたくなるような・・・。 -
イチオシ
周囲のうっそうたる木々も素晴らしい。
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真っ直ぐに伸びる石畳もいいなぁ。
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左奥にも墓石があったのですが、何だか畏怖心が出て近づけませんでした。
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イチオシ
今回のタイトル写真・・・やっぱ、ここでしょ。
よかったですよ。
皆さんも是非この場に立って、この空気感を味わってみてくださいね。 -
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四大夫十一烈士の墓[したいふじゅういちれっしのはか]
禁門の変の敗北により、恭順派が主導権を握った長州藩では、急進派に対しその責を問う、苛烈な弾圧が行われます。
その中で自刃や斬首などによって、命を落とした家老や家臣たちの墓は、各地に散逸し香花も絶えたのを見かねた、松陰の兄杉民治らがここに招魂墓を建てました。 -
毛利歴代藩主の墓所前に、毛利家のために命を落とした家臣たちの招魂墓が築かれている。
これもまた長州藩がたどった苦難の歴史の一ページなのでしょうね。 -
明治31年には、禁門の変の責任を感じ自刃した、周布政之助の招魂墓も建立されたとあります。
上の写真の奥にあった墓石がそうかな。 -
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東光寺方丈
方丈は東光寺でもっとも大きな建造物。
ここには出入り口が2つあって、こちらの唐破風の屋根になっているのが、藩主たちの玄関。
藩主たちの墓参りの際に使用されます。 -
イチオシ
東光寺かなりよかったですね。
これで拝観料は300円です。一見の価値はあります。
毛利家墓所でお墓参りを済ませたので、次は吉田松陰と杉家のお墓参りに行きましょう。 -
東光寺で戴いた御朱印です。
こちらではあらかじめ記入された御朱印を購入しました。
それでも日付はきっちり書いて頂けます。 -
東光寺からはものの5分(車ですけど)の団子岩とよばれる所に、吉田松陰の墓があります。
その隣に「吉田松陰先生」と金子重輔の彫像があります。
金子重輔は松陰の弟子で、師と共にアメリカ船への密航を企て失敗します。
萩送還後は士分以下が入る岩倉獄に収監されるも、安政2年獄中で病没しました。
享年25歳でした。 -
また、墓と向かい合うように
「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」も立っています。高杉晋作草庵跡 名所・史跡
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彫像に向かって左に吉田松陰の墓が、右に松陰誕生地があります。
この地は「団子岩」とよばれる小高い所で、萩市内が一望できる風光明媚な場所です。 -
吉田松陰が亡くなって百か日にあたる、万延元(1860)年2月7日、杉家では百カ忌を営みます。
家族や親戚・高杉晋作・久坂玄瑞をはじめ門人のほとんどが出席。
故人の霊を弔い、遺髪を団子岩の吉田家墓地に埋葬しました。
左写真は松陰の父「杉百合之助の墓」
右上写真は松陰の末弟「杉敏三郎の墓」
右下写真は「杉家累代の墓」 -
久坂玄瑞の招魂墓
玄瑞は禁門の変の際、鷹司邸で自刃しその屋敷が焼失したので、遺骸は確認されておりません。
越前藩が合葬したという説もありますが、真実は不明です。
京都の霊山神社の墓が、今一般的に久坂玄瑞の墓だとされています。
こちらには遺髪などゆかりのあるものが、納められてられているのかもしれません。 -
高杉晋作の招魂墓
高杉晋作の正式な墓は、下関にあり愛妾「おうの」が山県有朋から譲られた東行庵だとされています。
「おうの」は最後に晋作を看取った女性なので、信憑性は高いと思われます。
ここにある墓石も招魂墓と考えていいと思います。 -
吉田稔麿の招魂墓
吉田稔麿の最期は色々意見が分かれています。
経過としては池田屋を一旦離れ、もう一度戻った所を、会津藩もしくは新撰組によって討たれた、ということになっています。
墓は京都霊山護国神社とここを含め4カ所あります。
また、現在は移転していますが、京都にある三緑寺に池田屋殉難墓碑があり、遺骸は一旦そこに運ばれ埋葬されたと言われています。 -
吉田松陰の墓
松陰は江戸小伝馬町で処刑されました。東京の十思公園に「吉田松陰終焉の地」の石碑があり、桂小五郎の尽力により小塚原回向院で一時供養されます。
その後、東京世田谷の松蔭神社に改葬され、橋本左内とともに眠っておられます。
こちらのお墓には遺骨こそありませんが、遺髪などが納められ、杉家親族の供養を受けてますので、もう立派なお墓と言ってもいいでしょう。吉田松陰誕生地 名所・史跡
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表には「松陰二十一回猛士墓」、裏には「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。
墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進したもの。
松陰を偲ぶとはいえ、幕府の大罪人に対して名前入りで寄進するのは、大変勇気のいる行動です。
それだけ松陰が門人や家族たちから慕われていたということが伺えますね。 -
「吉田松陰先生誕生之地」石碑
書は山県有朋によります。総理大臣など歴任した人ですが、先生の前ではただの学生であるという思いから、肩書きなしで「門下生」とのみ記しています。
ちょっとあざといような・・・穿ちすぎですかね。
山県ってあんまり好きじゃないんですよ。
右下の写真は、ここにあった当時の杉家の間取りを石で示したもの。 -
左下の写真は「松陰先生産湯の井」石碑
よくありますよね〜、誕生地なら近くの井戸は産湯に使ったんだろうという発想なのでしょう。
でも、小学校の先生たちと児童たちの合作なので、批判めいたことはいいません、応援しますっ!
他の写真は団子岩からみた眺望です、綺麗ですね〜。 -
さぁ次はどこ行こう?
松陰先生ゆかりの地はほぼ見終わったので、今年(2015)認定された「世界遺産」群を見て回りましょうか。
というわけで、やってきたのが「史蹟反射炉」萩反射炉 名所・史跡
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萩反射炉
萩藩が海防強化の一環として、鉄製大砲を鋳造するために、安政3年に試作的に築造した金属溶鉱炉です。
高い煙突を装備し、炉内に半円状の天井を設け熱反射を用いて、燃焼室の温度を極限まで高め、硬度の高い鉄鋼を鋳造するものが反射炉と言われています。 -
しかし、結論から言えばこの反射炉はうまくいきませんでした。
煙突の高さ不足など要因は様々なんですが、想定した高熱には至らなかったようです。
ですからこの遺跡は「試験炉」の扱いなんですけど、これで世界遺産になるの?って疑問も出てきますよね。
ただ、こういう反射炉が現存しているのは、静岡県の韮山とここしかありません。
これが世界遺産の要因を満たしたわけなのでしょう。
失敗作だけど世界遺産、いいじゃないですか! -
恵比須ヶ鼻造船所跡[えびすがはなぞうせんじょあと]
次に向かったのが、反射炉のすぐ近くにある造船所跡。
実はこれも世界遺産です。
ショボイ?いえいえ立派な近代産業遺産なのですよ。
江戸時代の造船技術は小さな木造船を造るのがやっとだったのに、瞬く間に世界有数の造船立国となった背景となる産業遺産。恵美須ケ鼻造船所跡 名所・史跡
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このような案内版が3つ作られて、ボランティアガイドのおばさんも常駐されてました、プレハブ小屋でしたけども・・・。
暑いのにご苦労様です。
どうも棚ぼた?的に世界遺産になっちゃったもんで、受け入れ体制はまだまだのようですが、もう少し脚光をあててあげてほしい遺跡でした。 -
ここは鉄鋼船は無理でも木造船ならば、洋式軍艦は造れると長州藩が総力を結集した造船所。
実際ここでは、西洋式軍艦の「丙辰丸」と「庚申丸」が建造され、その建造には並々ならぬ労苦が窺い知れて面白かったです。
もっとも下関戦争で壊されちゃいましたが・・・。 -
こういう野ざらしな遺跡って、個人的には大好物なんで、これはこのままでも私的にはいいかもって部外者としては思ったりもします。
ここにドックがあったんだよぉ〜と緑のラインも教えてくれてます。 -
急ごしらえの、古きモノ感の汚れを施された石碑。
あざといですね〜、しかしこうゆうあざとさというのも、大事なんです。
人工物は見た目もちゃっちぃですけども、時がそのうちに追いついてくれます。 -
小さな世界遺産を見てきた所で、次は歴史の王道の史料を見ておきましょう。
昨日は素通りした「萩博物館」へ、今日こそ見学させてもらいます!
写真は、旧大野毛利家の屋敷で萩城三の丸の隅矢倉(物見櫓)の復元建造物。萩博物館 美術館・博物館
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かつてこの辺りは萩城三の丸にあたり、この地区内にあった規模の大きい武家屋敷の特徴にならって造られています。
萩の歴史・文化発信拠点として、吉田松陰、高杉晋作をはじめ幕末維新関連の実物資料を展示などが行われていました。 -
復元された土塀とはいえ、やはり全くないよりはあった方がはるかにいいですよね。
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「萩まちじゅう博物館」の中核施設として、萩開府400年の記念日である平成16年11月11日に開館したそうです。
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たっぷり時間かけて食い入るように展示品を見てきました。
雅ヨメもほったらしで・・・。(笑)
面白かった〜、歴史にどっぷり浸かれるっていいなぁ。 -
さぁあんまり時間ないんですけど、もう一カ所の鍵曲に行きますね。
前回行った場所は堀内内にあったものですが、こちらの平安古[ひやこ]は堀内が手狭になったことから、大身武士が新たに下屋敷を求めた場所です。萩市平安古地区伝統的建造物群保存地区 名所・史跡
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イチオシ
平安古鍵曲[ひやこかいまがり]
城下町特有の街路の姿をそのままに残しています。まるで江戸時代そのもの。旧児玉家屋敷跡 (平安古かいまがり交流館) 名所・史跡
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いいなぁ〜、萩。
こんな希有な景観なのに、車も人も通らない・・・。
京都じゃ考えられない絶景です。 -
ぽんぽん行きましょう、次も美景ポイントですよ〜。
離合もできないような細い道をくねくねと車で進んでやってきました。 -
JR萩駅から東方、橋本川と阿武川の合流地点にある三角州。
その中央で藍場川という小川が慎ましく流れています。 -
いいんですよね〜、ここも。
ガイドブックに載ってたのを頼りに、半信半疑ながらやってきて正解! -
京都の上賀茂神社前がまさにこんな感じで、京都人ならば必ず好むだろうという景観なんですね。
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桂太郎旧宅[かつらたろうきゅうたく]
大正時代、いわゆる桂園時代を現出した桂太郎の旧宅ですが、そんなのどうでもいい。
えぇ、桂太郎には何の思い入れもございませんので。(笑)桂太郎旧宅 名所・史跡
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それよりもこの美景ですっ!
ほっこりする空間なんですよね。 -
藍場川に泳ぐ鯉、いいじゃないですか〜。
津和野にはこういう景観があると聞いていますが、津和野まで行かなくても萩にもあるんですよ。
車でないと行きにくい場所ですけどね。 -
藍場川は6代藩主の毛利宗広が、岡山藩にならって開削した人工の川。
萩市内にくまなく水を行き渡らせるために作らせました。
単なる農業用水だけでなく、防火や水運もまかなえる規模に拡大させています。 -
その後、明和年間に藩営の藍玉座が設営されて、この川は藍色に染まることになり、
いつしか藍場川と呼ばれるようになったとか。 -
写真に見られるような船着き場や手前のハトバと呼ばれる洗い場など、昔の面影が偲ばれます。
かつての城下町の生活の情緒を伝え残しており、川沿いは歴史的景観保存地区に指定されています。 -
イチオシ
藍場川には現在鯉が放流され、周辺の風情は萩の中でも印象の深いところとなっています。
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イチオシ
車をお返しし、萩本陣に戻って参りました。
お風呂にも入って、男湯7風呂も完全制覇いたしました。明日の朝は今は女風呂になってる浴槽にも浸かりますよ。 -
日没を迎えます。
指月山に沈む夕陽・・・いいですねぇ。
この景色だけで、酒が何杯でも飲めそうな勢いですわ〜。 -
イチオシ
おぉ、マジックアワーが訪れました。
このグラデーション・・・ご堪能くださいませ!って加工しちゃってますけど。 -
マジックアワーの終焉でございます。
ほんと短時間なんですねぇ〜、つかの間の一瞬。
え?食事の時間だって? 了解! -
メシ喰った後、酒をほどほどにして、次なるミッションに!
山頂の足湯なるものに、行ってやろうじゃない? -
萩本陣名物、SL型シャトルバスに乗って山頂の足湯ポイントに向かいます。
バスなのにシュッポシュッポを音出しながら山道のぼっていきます。
子供さん向けですけど、結構面白い。 -
体験的なモノはとりあえずやっちゃうタイプ。
良かったか悪かったかはこの際は関係ないのです。とりあえずやっとくのがモットーなんでね。 -
で、結論はいつも「やっといて良かったね」なんですよね。
というわけで、本旅行記も何とか終わりを迎えました。(笑)
ここまで丁寧にお読み下さった方々、流し読みでお茶を濁した方々。
駄文にお付き合いして頂いたみなさま、ホントありがとうございました。
明日は朝から萩を離れ、岩国の錦帯橋を見てきますね。
よければ、またお立ちよりくださいませ。
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