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JR新発田駅から徒歩約8分、新発田城に向かう寺院群の一角に位置する廣澤山・宝光寺(ほうこうじ、新潟県新発田市諏訪町)は慶長3年(1598)新発田に入封した溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ、1548~1610)を初代とする歴代藩主の菩提寺となっています。<br /><br />もともと溝口秀勝が前任地である加賀国大聖寺に居城の時期に創建された大麟寺が起源で、新発田藩移封に伴い秀勝に随行して当地に移転した経緯があります。<br /><br />越後移転後は五十公野村に在していましたが、のちに現在地に移転、慶長15年(1610)、秀勝死去すると同寺に埋葬され秀勝法名に因んで浄見寺と改名されます。尚、慶安元年(1648)三代藩主溝口宣直(みぞぐち・のぶなお、1605~1676)より200石の寄進を受けています。<br /><br />宝永6年(1709)将軍徳川綱吉が死去し綱吉の院号である常憲院と音が類似するのをはばかって現在の宝光寺と改名しています。<br /><br /><br /><br />宝光寺ホームページでは「開基新発田藩溝口家」の紹介が次のように掲載されています。<br /><br />「初代藩主溝口秀勝公の御生涯<br /><br />秀勝公は、天文十七年(1548)、尾張中島郡西溝口村に、地侍溝口勝政の長男として生れました。幼名は竹、元服後は定勝と名乗りました。<br /><br />織田信長の家臣、丹羽長秀に仕えて武功をたて、天正九年(1581)、長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、五千石を与えられました。<br /><br />天正十一年(1583)の賎ヶ谷の戦いでは、敦賀にあった秀吉軍に馳せ参じ大いに功をたてました。これによって加賀国大聖寺城主となり、四万四千石を与えられました。<br /><br />天正十三年(1585)四月十六日、主君の丹羽長秀が病没し、その遺領は息子の長重が相続しました。しかし、八月には秀吉は長重の所領を削り、秀勝公を独立の大名としました。<br /><br />翌年天正十四年、従五位下に叙せられ、豊臣の姓と諱(いなみ)の秀の字をたまわり、伯耆守に任ぜられました。<br /><br />天正十五年(1587)には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍し、天正十八年(1590)には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として従軍しました。<br /><br />文禄元年(1592)から慶長三年(1598)まで続いた秀吉の朝鮮出兵のおりには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。<br /><br />このほかに、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、わずか14年間の秀勝公の大聖寺時代は従軍と普請手伝いに明け暮れたことになります。<br /><br />慶長三年(1598)正月、越後の領主上杉景勝が会津に移封されました。それにともない、越前北の庄(現在の福井市)から堀秀政が高田に移封され、秀勝公は新発田6万石の初代藩主として入封しました。<br /><br />旅の途中、寺泊や猿ケ馬場で賊徒に襲われましたが、寺泊の豪商五十嵐氏や新潟町の豪商大須賀氏・玉木氏に助けられたということです。<br /><br />千人を超す家臣とともに、御用商人や御用職人、また当山(当時は大隣寺と呼ばれていました)の二代目の住職雪崗全林(せっこうぜんりん)和尚や秀勝公の奥方の菩提寺である瑞雲寺の開山(初代住職)獄翁麟鷟(がくおうりんさく)和尚(後の当山の四代目住職)、また秀勝公の父君の菩提寺託明寺の住職祐念上人なども付き添ってきました。また、かなり多数の百姓もやって来たと伝承されています。<br /><br />秀勝公は、現在の新発田市の市街地の数キロメートル東方に位置する五十公野(いじみの)の地に仮の館を設け、新しい藩領の支配を始めました。<br /><br />上杉時代の支配者新発田重家の居城跡に、数倍規模の新発田城の建設と城下町の整備が開始され、三代藩主宣直公の時代に一応の完成を見ました。<br /><br />藩領は現在の新発田市、聖籠町、新潟市の東部、水原町、横越町、新津市、白根市、小須戸町、田上町、加茂市、中之島町に及ぶ広大なものでしたが、そのほとんどは湿地帯で、大小の河川や多くの潟・沼・池などが散在した未開地が多く残された土地でした。<br /><br />秀勝公は治水・用水工事を進め、新田開発を奨励しました。これは、明治期まで代々の藩主に受け継がれ、現在の穀倉地帯蒲原平野の基礎が作られました。<br /><br />慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し、上杉遺民一基(越後一揆)を平定しましたが、この労に対して、家康から感状を与えられました。<br /><br />秀勝公は、江戸三百年間の新発田藩主としての基礎を築き、慶長十五年(1610)九月二十八日、享年63で没しました。<br /><br />遺体は五十公野で荼毘に付され、現在遺骨は当山の墓塔に納められています。<br /><br />御戒名は、寶光寺殿翁淨見大居士と申されます。」

越後新発田 加賀大聖寺から随行し入封後明治維新まで270年間国替えなく新発田を知行地とした外様大名溝口家菩提寺『宝光寺』散歩

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2015/08/09 - 2015/08/09

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR新発田駅から徒歩約8分、新発田城に向かう寺院群の一角に位置する廣澤山・宝光寺(ほうこうじ、新潟県新発田市諏訪町)は慶長3年(1598)新発田に入封した溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ、1548~1610)を初代とする歴代藩主の菩提寺となっています。

もともと溝口秀勝が前任地である加賀国大聖寺に居城の時期に創建された大麟寺が起源で、新発田藩移封に伴い秀勝に随行して当地に移転した経緯があります。

越後移転後は五十公野村に在していましたが、のちに現在地に移転、慶長15年(1610)、秀勝死去すると同寺に埋葬され秀勝法名に因んで浄見寺と改名されます。尚、慶安元年(1648)三代藩主溝口宣直(みぞぐち・のぶなお、1605~1676)より200石の寄進を受けています。

宝永6年(1709)将軍徳川綱吉が死去し綱吉の院号である常憲院と音が類似するのをはばかって現在の宝光寺と改名しています。



宝光寺ホームページでは「開基新発田藩溝口家」の紹介が次のように掲載されています。

「初代藩主溝口秀勝公の御生涯

秀勝公は、天文十七年(1548)、尾張中島郡西溝口村に、地侍溝口勝政の長男として生れました。幼名は竹、元服後は定勝と名乗りました。

織田信長の家臣、丹羽長秀に仕えて武功をたて、天正九年(1581)、長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、五千石を与えられました。

天正十一年(1583)の賎ヶ谷の戦いでは、敦賀にあった秀吉軍に馳せ参じ大いに功をたてました。これによって加賀国大聖寺城主となり、四万四千石を与えられました。

天正十三年(1585)四月十六日、主君の丹羽長秀が病没し、その遺領は息子の長重が相続しました。しかし、八月には秀吉は長重の所領を削り、秀勝公を独立の大名としました。

翌年天正十四年、従五位下に叙せられ、豊臣の姓と諱(いなみ)の秀の字をたまわり、伯耆守に任ぜられました。

天正十五年(1587)には、700人の兵を率いて秀吉の九州島津征伐に従軍し、天正十八年(1590)には、秀吉の小田原北条攻めに北陸軍団の第一線部隊として従軍しました。

文禄元年(1592)から慶長三年(1598)まで続いた秀吉の朝鮮出兵のおりには、肥前名護屋の本営勤務を果たしました。

このほかに、大坂城の普請手伝い、京都東山の大仏殿造営の手伝いなど、わずか14年間の秀勝公の大聖寺時代は従軍と普請手伝いに明け暮れたことになります。

慶長三年(1598)正月、越後の領主上杉景勝が会津に移封されました。それにともない、越前北の庄(現在の福井市)から堀秀政が高田に移封され、秀勝公は新発田6万石の初代藩主として入封しました。

旅の途中、寺泊や猿ケ馬場で賊徒に襲われましたが、寺泊の豪商五十嵐氏や新潟町の豪商大須賀氏・玉木氏に助けられたということです。

千人を超す家臣とともに、御用商人や御用職人、また当山(当時は大隣寺と呼ばれていました)の二代目の住職雪崗全林(せっこうぜんりん)和尚や秀勝公の奥方の菩提寺である瑞雲寺の開山(初代住職)獄翁麟鷟(がくおうりんさく)和尚(後の当山の四代目住職)、また秀勝公の父君の菩提寺託明寺の住職祐念上人なども付き添ってきました。また、かなり多数の百姓もやって来たと伝承されています。

秀勝公は、現在の新発田市の市街地の数キロメートル東方に位置する五十公野(いじみの)の地に仮の館を設け、新しい藩領の支配を始めました。

上杉時代の支配者新発田重家の居城跡に、数倍規模の新発田城の建設と城下町の整備が開始され、三代藩主宣直公の時代に一応の完成を見ました。

藩領は現在の新発田市、聖籠町、新潟市の東部、水原町、横越町、新津市、白根市、小須戸町、田上町、加茂市、中之島町に及ぶ広大なものでしたが、そのほとんどは湿地帯で、大小の河川や多くの潟・沼・池などが散在した未開地が多く残された土地でした。

秀勝公は治水・用水工事を進め、新田開発を奨励しました。これは、明治期まで代々の藩主に受け継がれ、現在の穀倉地帯蒲原平野の基礎が作られました。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し、上杉遺民一基(越後一揆)を平定しましたが、この労に対して、家康から感状を与えられました。

秀勝公は、江戸三百年間の新発田藩主としての基礎を築き、慶長十五年(1610)九月二十八日、享年63で没しました。

遺体は五十公野で荼毘に付され、現在遺骨は当山の墓塔に納められています。

御戒名は、寶光寺殿翁淨見大居士と申されます。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • 宝光寺・総門<br /><br />参道の左右はすべて長壁にて覆われいささか緊張するような雰囲気が認められます。<br /><br />

    宝光寺・総門

    参道の左右はすべて長壁にて覆われいささか緊張するような雰囲気が認められます。

  • 拝観案内板<br /><br />宝物館及び歴代藩主の墓所が案内されています。淨見堂(宝物館)には阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像、の他新発田藩主である溝口家歴代当主の肖像画も新発田氏指定文化財として蔵されています。

    拝観案内板

    宝物館及び歴代藩主の墓所が案内されています。淨見堂(宝物館)には阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像、の他新発田藩主である溝口家歴代当主の肖像画も新発田氏指定文化財として蔵されています。

  • 総門(近景)<br /><br />上部に掲載の扁額には「城東法窟(じょうとうほうくつ)」という文字が刻されています。(仏教用語と思われますが判りません)

    総門(近景)

    上部に掲載の扁額には「城東法窟(じょうとうほうくつ)」という文字が刻されています。(仏教用語と思われますが判りません)

  • 宝光寺・山門<br /><br />当該寺は溝口秀勝の新発田移封に伴い加賀国大聖寺から随行した寺院で慶長17年(1612)頃現在地に建立されたといわれます。

    宝光寺・山門

    当該寺は溝口秀勝の新発田移封に伴い加賀国大聖寺から随行した寺院で慶長17年(1612)頃現在地に建立されたといわれます。

  • 宝光寺・山門(近景)<br /><br />文政年間の大火で類焼し、本堂、庫裏など全てを焼失しましたが、この山門は弘化2年(1845)11代藩主直溥(なおひろ)等の助力によって復興したものです。

    宝光寺・山門(近景)

    文政年間の大火で類焼し、本堂、庫裏など全てを焼失しましたが、この山門は弘化2年(1845)11代藩主直溥(なおひろ)等の助力によって復興したものです。

  • 宝光山・山門説明板

    宝光山・山門説明板

  • 宝光山・左回廊<br /><br />山門から続く回廊が境内を取り囲むように施されています。

    宝光山・左回廊

    山門から続く回廊が境内を取り囲むように施されています。

  • 宝光山・右回廊

    宝光山・右回廊

  • 宝光山・本堂<br /><br />正式には廣澤山寶光寺と称する漕洞宗の寺院で、起源は溝口秀勝が前任地である加賀国大聖寺に知行が在った頃、雪堂を開山として創建(1583~1595の間と推定)された大隣寺(だいりんじ)で、慶長3年秀勝の新発田移封に伴い随行した経緯があり、移転当初の五十公野村所在を経て現在地に移っています。<br /><br />秀勝没後は寺号を淨見寺と改め、更に宝永6年(1709)五代将軍綱吉が他界し常憲院と称したことから音が通じるのを憚り、秀勝の戒名「淨見寺殿」と呼ばれたのを敢えて「寶光寺殿」に変え、寺号も寶光寺と改めた経緯があります。

    宝光山・本堂

    正式には廣澤山寶光寺と称する漕洞宗の寺院で、起源は溝口秀勝が前任地である加賀国大聖寺に知行が在った頃、雪堂を開山として創建(1583~1595の間と推定)された大隣寺(だいりんじ)で、慶長3年秀勝の新発田移封に伴い随行した経緯があり、移転当初の五十公野村所在を経て現在地に移っています。

    秀勝没後は寺号を淨見寺と改め、更に宝永6年(1709)五代将軍綱吉が他界し常憲院と称したことから音が通じるのを憚り、秀勝の戒名「淨見寺殿」と呼ばれたのを敢えて「寶光寺殿」に変え、寺号も寶光寺と改めた経緯があります。

  • 境内風景<br /><br />例によって本堂から山門方向を一望します。

    境内風景

    例によって本堂から山門方向を一望します。

  • 宝光寺・城東窟の桜<br /><br />徳川家康が寄進したと伝えられる桜の樹木で樹齢380年と推定される枝垂れ桜となっています。

    宝光寺・城東窟の桜

    徳川家康が寄進したと伝えられる桜の樹木で樹齢380年と推定される枝垂れ桜となっています。

  • 宝光寺・境内景色<br /><br />山門を中心として左右を回廊で囲み、右側角には隅櫓と思わせるような二階建ての建物が視野に入ります。

    宝光寺・境内景色

    山門を中心として左右を回廊で囲み、右側角には隅櫓と思わせるような二階建ての建物が視野に入ります。

  • 宝光山・山門と隅櫓

    宝光山・山門と隅櫓

  • 宝光山・境内風景<br /><br />右回廊の外側には一般墓地の他社務所が見られます。

    宝光山・境内風景

    右回廊の外側には一般墓地の他社務所が見られます。

  • 右回廊

    右回廊

  • 左回廊<br /><br />溝口氏歴代藩主墓所は左回廊を直進し途中出入口から墓地方向に向かいます。

    左回廊

    溝口氏歴代藩主墓所は左回廊を直進し途中出入口から墓地方向に向かいます。

  • 宝光山・本堂<br /><br />回廊から本堂を捉えます。

    宝光山・本堂

    回廊から本堂を捉えます。

  • 溝口氏歴代藩主墓石配置図<br /><br />配置図によれば十二代のうち初代から十一代までの藩主、二代から十一代までの室の墓がそれぞれ見られます。尚初代秀勝墓石は入口の一番奥に配されています。<br /><br />

    溝口氏歴代藩主墓石配置図

    配置図によれば十二代のうち初代から十一代までの藩主、二代から十一代までの室の墓がそれぞれ見られます。尚初代秀勝墓石は入口の一番奥に配されています。

  • 溝口家墓所入口<br /><br />外様大名ながら新発田入封以来一度も国替えなく、従い歴代藩主の墓所も当山にて一堂に祀られています。

    溝口家墓所入口

    外様大名ながら新発田入封以来一度も国替えなく、従い歴代藩主の墓所も当山にて一堂に祀られています。

  • 溝口氏歴代藩主・墓所説明板<br /><br /><br /><br />「 新発田市指定文化財  史跡<br />   新発田藩主溝口家墓所<br /><br />新発田藩主溝口家の墓所は、諏訪町(旧寺町)の曹洞宗宝光寺本堂の北東に位置する。かつては墓所の前方に庭園があり、池に架かった石橋を渡って霊域である墓所に入る形式をとっていた。<br /><br />墓塔は、初代秀勝から十代直あきまでの藩主の墓塔10基、二代から十一代までの夫人等の墓塔10基と、子ども等の墓17基が現存する。<br /><br />藩主および夫人の墓塔は全てかさ塔婆と宝篋印塔である。初代秀勝墓塔の後方にある五輪塔は加賀大宝寺時代からの御用商人である中村彦左衛門(中村藤蔵家初代)の墓塔で、溝口家墓所では唯一の民間人の墓塔である。<br /><br />初代秀勝は慶長15年(1610)に没し、遺体は五十公野で荼毘にして埋葬され、後に旧寺町の宝光寺の墓所に改葬された。他の藩主の墓には、遺品や遺髪等が埋葬されている。また、江戸で没した藩主等の墓所は、東京都駒込の吉祥寺にあり、和歌山県の高野山にも供養塔がある。<br /><br />溝口家は、外様大名でありながら、初代秀勝入封から明治の廃藩置県に至るまでの約270年間国替えなく、十二代にわたって新発田藩を務めた。溝口家墓所は、墓所が各地に存在することなく、宝光寺にほぼまとまって存在しているため、墓塔の形式の変遷を見ることができ、貴重な遺構である。<br /><br />  平成21年3月4日指定<br />                 新発田市教育委員会 」

    溝口氏歴代藩主・墓所説明板



    「 新発田市指定文化財  史跡
       新発田藩主溝口家墓所

    新発田藩主溝口家の墓所は、諏訪町(旧寺町)の曹洞宗宝光寺本堂の北東に位置する。かつては墓所の前方に庭園があり、池に架かった石橋を渡って霊域である墓所に入る形式をとっていた。

    墓塔は、初代秀勝から十代直あきまでの藩主の墓塔10基、二代から十一代までの夫人等の墓塔10基と、子ども等の墓17基が現存する。

    藩主および夫人の墓塔は全てかさ塔婆と宝篋印塔である。初代秀勝墓塔の後方にある五輪塔は加賀大宝寺時代からの御用商人である中村彦左衛門(中村藤蔵家初代)の墓塔で、溝口家墓所では唯一の民間人の墓塔である。

    初代秀勝は慶長15年(1610)に没し、遺体は五十公野で荼毘にして埋葬され、後に旧寺町の宝光寺の墓所に改葬された。他の藩主の墓には、遺品や遺髪等が埋葬されている。また、江戸で没した藩主等の墓所は、東京都駒込の吉祥寺にあり、和歌山県の高野山にも供養塔がある。

    溝口家は、外様大名でありながら、初代秀勝入封から明治の廃藩置県に至るまでの約270年間国替えなく、十二代にわたって新発田藩を務めた。溝口家墓所は、墓所が各地に存在することなく、宝光寺にほぼまとまって存在しているため、墓塔の形式の変遷を見ることができ、貴重な遺構である。

      平成21年3月4日指定
                     新発田市教育委員会 」

  • 歴代藩主墓石

    歴代藩主墓石

  • 初代藩主溝口秀勝墓石

    初代藩主溝口秀勝墓石

  • 初代藩主溝口秀勝説明板<br /><br />法名である「寶光寺殿性翁淨見大居士」から寺号が称されているのがわかります。尚 秀勝室は寛永11年(1634)に没し遺命によって新発田市に在する大平山瑞雲寺に埋葬されています。

    初代藩主溝口秀勝説明板

    法名である「寶光寺殿性翁淨見大居士」から寺号が称されているのがわかります。尚 秀勝室は寛永11年(1634)に没し遺命によって新発田市に在する大平山瑞雲寺に埋葬されています。

  • 2代溝口宣勝正室墓石

    2代溝口宣勝正室墓石

  • 2代宣勝正室説明板<br /><br />上杉景勝が会津転封後に越後に入府した堀秀政(ほり・ひでまさ)娘が宣勝夫人となっていることがわかります。

    2代宣勝正室説明板

    上杉景勝が会津転封後に越後に入府した堀秀政(ほり・ひでまさ)娘が宣勝夫人となっていることがわかります。

  • 2代藩主溝口宣勝墓墓石

    2代藩主溝口宣勝墓墓石

  • 2代藩主宣勝説明板<br /><br />

    2代藩主宣勝説明板

  • 3代藩主宣直墓石

    3代藩主宣直墓石

  • 3代藩主宣直説明板

    3代藩主宣直説明板

  • 4代藩主重雄墓石

    4代藩主重雄墓石

  • 4代藩主重雄案内板

    4代藩主重雄案内板

  • 4代重雄継室墓石

    4代重雄継室墓石

  • 4代重雄継室説明板<br /><br />重雄継室は酒井忠勝娘とあり、家康に近い譜代の家柄との交誼があったことを示しています。

    4代重雄継室説明板

    重雄継室は酒井忠勝娘とあり、家康に近い譜代の家柄との交誼があったことを示しています。

  • 歴代藩主各墓石

    歴代藩主各墓石

  • 歴代藩主各墓石

    歴代藩主各墓石

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