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九夏三伏 京都逍遥④渉成園

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    旅行時期 2015/07/28 - 2015/07/28 (2015/08/09投稿

    『源氏物語』に登場する六条院原苑のモデルとなった源融の河原院跡地の風情を湛える「渉成園」を訪ねてみました。東本願寺から東へ150mほどの距離にある飛地境内地にある別邸です。敷地は正方形に近く、一辺が100間(約189m)あったために 「百間屋敷」とも称されましたが、元々は鴨川にまで達する広大なものだったそうです。また、外周に枳殻(からたち)が植えられていたことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれ、4月になると枳殻の白い花が咲き始めます。JR京都駅の直近にありながら雑踏の喧騒と無縁の景観が愉しめる都会のオアシスです。
    渉成園が池泉回遊式庭園を持つ飛地境内地となったのは、1641年に徳川家光が12代 宣如に土地を寄進したことにはじまります。その土地は約1万坪にもおよび、石川丈山の趣向を取り入れた作庭を進めた宣如は庭園が完成する頃に隠退しますが、その隠棲の地としてこの土地の一部を当てたのが渉成園のはじまりです。この地は、平安時代初期に源融が奥州塩釜の風景を模して造った河原院の跡に近く、作庭に際し、 印月池(いんげつち)と呼ばれる広い池を中心に池には島を浮かべて石橋や土橋で結び、周囲には樹木を茂らせて源融を偲ぶ名所もあり、平安朝の面影を再現しています。現在の建物は蛤御門の変による大火後の再建ですが、変化に富んだ景観は「十三勝」や「十景」と称され、1936(昭和11)年には国の名勝に指定されています。
    渉成園の名は、中国の詩人 陶淵明(とうえんめい)が官を辞して故郷に帰り、故郷での田園生活を歌った『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣(園、日に渉って以って趣を成す)」から採られています。その名に相応しく、日々移ろい行く四季の美しさを湛える庭園に仕上げられています。
    近年の研究により、渉成園を源融邸とする根拠はないというのが定説になっているのですが、最先端技術の投入で新しい発見がなされて歴史ロマンに水を差されることもままあるものです。
    東本願寺のHPです。
    http://www.higashihonganji.or.jp/worship/shoseien/

    写真 68枚

    交通手段 : 
    • 現地移動 :  高速・路線バス / 私鉄 / 徒歩
    エリア:
    京都 | 京都駅周辺
    エリアの満足度:
    5.0
    • 渉成園 西門(冠木門 かぶきもん)
      京都市美術館へ向かう前に名勝「渉成園」を訪れ、しばし清閑な庭園散策と洒落込みました。東本願寺の御影堂門を潜り抜け、烏丸通を横断し、中珠数屋町通を東に歩むとこの西門があります。現在出入りできる場所は、この西門だけのようです。
      門を入ると右手に拝観受付所があり、500円以上の協力寄付金が必要ですが立派なA4サイズのパンフレット(解説付き写真集)がいただけます。
      ブログのコメントは、主にこのパンフレットを参考にさせていただいています。

      現在、真宗大谷派は「渉成園」の本格的な保存整備工事を進めています。2023年度までに楼閣「傍花閣」の屋根の葺き替えや「印月池」の護岸、傾いた石組みの修理、生育が進んだために築地塀を歪ませている樹木の伐採などを計画的に実施するようです。つまり、「創建当初の姿に近づける」のが目的です。尚、工事期間中の拝観は通常通り行う方針だそうです。

    • 高石垣
      門を入ってすぐ正面に立ち塞がるのが、この味わい深い高石垣です。隠居屋敷という私的な空間ということもあり、庭園内には遊び心を感じさせるものが随所に配されています。
      アート感覚でリミックスに石組みされたモダンな石垣に暫し足が止まります。石垣と言えば同じ大きさや形の石を積み上げるのが定番ですが、この高石垣に使われている石は様々な大きさや形をし、一つひとつ見ていくと大いなる発見があります。石橋のように長い切石やリアルに穴の開いた石臼、瓦、、山石、礎石といった多様な石をリユースし、まるでパズルのように組合わせて表情豊かなアイストップを構成しています。江戸時代のエコロジー精神を垣間見る思いです。

    • 高石垣
      石垣の手前に植えられているのが、別称「枳殻邸」の由来になった枳穀(からたち)です。鋭い棘があることから、外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく使われていたそうです。
      因みに、京都の人に道を聞く場合は、渉成園と言っても通じません。枳殻邸(きこくてい)が通称になっていますのでご注意ください。

      渉成園の作庭者については、洛北で詩仙堂を営んだ詩人・書家の石川丈山の名が挙げられています。江戸初期の史料から宣如と丈山の関係が詳らかになるにつれ、丈山が関与した可能性が高まっています。
      敷地北西寄りの小さな池から、東南寄りの大きな印月池まで遣水(やりみず)で繋がれ、大きな池には中島を造り、橋を架け、瀟洒な茶亭 縮遠亭(しゅくえんてい)などを設けた回遊式の庭園です。隠居屋敷という私的空間のため、庭園内には遊び心が満載なのも魅力のひとつです。
      尚、平安時代前期には左大臣 源融(みなもとのとおる)所縁の「六条河原院」の旧蹟の庭があったという説もありますが、種々の文献資料により現在はその可能性は薄れています。因みに、源融は、かの『源氏物語』の光源氏のモデルと言われる人物です。

    • 高石垣
      中央にある穴の開いた丸い石が石臼をリサイクルしたものです。

      中国の「西湖十景」に倣って「渉成園十三景」が命名され、その風雅さは多くの人たちに賞賛されました。ことに儒学者・漢学者の頼山陽(らいさんよう)は、『渉成園記』で園内の風雅な様を讃え、主な建物や景物を「十三景」に分けて紹介しています。
      『渉成園記』が執筆された頃まで渉成園は火災に遭っておらず、造営当初の姿が残っていたと考えられますが、惜しいことに江戸時代末期の2度の火災により、建物は焼失し、今ある建物は1864(元治元)年の蛤御門の変による炎上以降に復興されたものです。しかし、忠実に復元されており、頼山陽が賞賛したかつての姿を偲ぶことができます。

    • 高石垣の手前を左方向に進んで右折すると、こうした庭園北口までのアプローチが待ち受けています。単なるアプローチなのですが、ここにもいろいろな仕掛けがあります。
      通路右手の高石垣の奥にある建物群に通じる門は、簡素ながら侘び寂びを湛えています。扉の透かしは特に凝った意匠です。
      通路の左側には竹垣が伸び、右手には白い源氏塀が訪問者を北口へと誘います。塀軒下には古瓦が並べられ、石が配された趣のあるアプローチです。

    • 埋め込まれた瓦と石臼を組合わせた、遊び心満点のオブジェです。
      渉成園は、14代 琢如以降も歴代の隠居所となり、現在も東本願寺の関係者の住まいとなっています。そのため、入口側の休憩所を除き、同園内での飲食はできません。その分、余計な喧騒に巻き込まれることなく、静かに庭を愛でることができます。

    • 庭園北口
      手前には織部灯籠が置かれています。この庭園北口は趣を異にする造りですが、これは北と南にある建物を結ぶ廊下の一部に庭園入口を設けているためです。
      北口を潜り抜けると植栽の濃い緑が広がり、北(左)へ進めば臨池亭・滴翠軒、南(右)に進めば園林堂・傍花閣に至ります。
      初めての訪問なので、見落としのないようにパンフレットに記されたガイドマップ順路に従って臨池亭・滴翠軒へ向かいます。

    • 臨池亭(りんちてい)・滴翠軒(てきすいけん)
      滴翠軒(奥)と臨池亭 (左)の2つの建物が吹き放しの廊下で繋がっています。どちらも池に面した開放的な建物です。濡れ縁を池の中に巡らし、緩やかな勾配の瓦屋根が深く軒を差し出しています。これら2つの建物を併せて「臨池亭」と呼んでいた時代には、北にある「滴翠軒」に対し、南にある建物を「喫茶居」と称していたそうです。『都名所図会』では、「臨池殿の庭は小堀遠州の好みなり。風光奇々として真妙なり」と記されていますので、当時は2つの建物があったとしても併せてこのように呼ばれていたようです。

    • 臨池亭・滴翠軒
      滴翠軒の東側には「檜垣の燈籠」と称される石燈籠と「滴翠軒」の名称の由来となった田辺朔朗博士により1897年に設けられた琵琶湖疏水からの防火用水本願寺水道「池に落ちる小滝(滴翠)」があります。檜垣という銘の由来については、はっきりしたことは伝えられていないそうです。背後の築山は「キリシマヤマ」と呼ばれています。

    • 臨池亭・滴翠軒 檜垣の燈篭
      私説で恐縮ですが、蓮台寺(熊本市西区蓮台寺)にある「檜垣の塔」に似た形の燈篭であることから「檜垣の燈篭」と名付けられたのではないかとひとりでロマンを膨らませています。
      檜垣の嫗(おうな)は、平安時代中期(10世紀)の閨秀女流歌人で、世阿弥の能『檜垣』のモデルとして世に知られています。一説には、檜垣は、筑紫の白河に住み、名高く事好む女と言われ、藤原興範に水を汲むように乞われ、「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」と詠んだほどです。しかしその人物像は謎のベールに包まれたままです。因みに、鎌倉時代に書かれた『無名草子』には、清原元輔と親交を結んで産まれた子が清少納言であるかのように記されているそうです。何れにせよ、檜垣は、謎こそ多いものの、名高い高貴な女性だったことが窺えます。
      「檜垣の塔」は、檜垣の墓石とも伝えられ、室町時代にはすでに著名だったそうです。
      檜垣の塔についてはこちらを参照してください。
      http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/e777a63677c2d372e6a91c1719c2fb16

    • 臨池亭・滴翠軒 滴翠
      真夏でも涼しさを呼ぶ、防火用水本願寺水道「池に落ちる小滝(滴翠)」です。
      この小池には特別な名称はないのですが、園池と通称されています。琵琶湖疏水からの水はこの園池に注がれ、鑓水(やりみず=小川)を流れ下って庭園内にある印月池へと注がれます。

    • 臨池亭
      滴翠軒と共に池に面して1884(明治17)に再建された建物です。読んで字の如く、まさに池を臨んでいます。池に面して幅一間の広縁が張り出ているため、浮殿のように見えます。
      臨池亭のガラス越しに見渡す碧一色の庭園の情緒ある風景です。臨池亭へは立ち入ることはできませんが、雰囲気だけ愉しむことができます。

      江戸後期には、この渉成園へは色々な人が遊びに訪れています。
      14代将軍 家茂や15代将軍 慶喜も来ており、福井藩主 松平春嶽や貴族の三条実美、岩倉具視、明治天皇、ロシア皇太子ニコライ(後のニコライ皇帝?世)、ヘレン・ケラーと錚々たるメンバーです。東本願寺を宿所とした慶喜はこの庭園を気に入り、たびたび訪れたそうで、慶喜が筆を振るった「渉成園」の額も残されています。
      因みに、東本願寺の火災時には寺内の避難所として使われたそうです。

    • 滴翠軒<十三景の一>
      奥の滴翠軒は「十三景の一」に当たります。現在の建物は、臨池亭と同年に再建されたものです。
      縁側が池の中に張り出しているのがこの建物の特徴となっています。滴翠軒の内部には、花頭窓と床脇の半月形吹き抜けが印象的な座敷が設えられ、吹き放しの渡り廊下で臨池亭と繋げられています。

    • 代笠席(たいりつせき)
      庭園の北部にある生垣や竹垣で巡らせた区画にある煎茶席で、1888(明治22)年に再建されたものです。人里離れた地を訪れた旅人が笠代わりに雨宿りする席ということから名付けられています。

    • 代笠席
      雨戸が閉まっているので内部は見えませんが、内部は東西に4畳半2間が並んでいるそうです。かつてはここで来園者に煎茶を供し、「煎茶三席」の「茶店」として位置付けられています。その所以か、この建物の東側には茶畑が設けられています。
      その茶畑を手前に入れてみました。

    • 亀石井戸
      代笠席の南東側を仕切る生垣の外側に「亀石井戸」があります。
      亀の形に石組みされた井戸です。甲羅の部分が掘り込まれ、その中心に井筒が埋められていますが、現在は湧水していません。

    • 亀石井戸
      このように尻尾の方から見た方が亀らしく見えます。

    • 褐色の色合いと触角が毛深ことから、アブラゼミの抜け殻と思われます。
      抜け殻なのに、木の幹にしっかりと逞しくくっ付いているのが不思議です。

    • 園林堂(おんりんどう)
      傍花閣に対応する持仏堂で、1957年に再建されたものです。正面4間で、中央間には桟唐戸を吊り、仏堂風の意匠としています。園林とは中国宮廷に造られた大規模な庭園を指すそうですが、仏教の世界では浄土を意味するそうです。桂離宮にも同じ「園林堂」という名前の持仏堂があります。
      内部には、杉や水辺の月などを描いた版画家 棟方志功作の「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」と題された42面とも44面とも言われる襖絵で飾られているそうです。

    • 園林堂
      正面軒下には『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』の著者として知られる南北朝時代の禅僧 虎関師練(こかんしれん)の揮毫による扁額「園林」が掛けられています。

      隠居するための屋敷として慎ましく内輪で利用されていた渉成園が、何故天下の名園として世に広められたのでしょうか?
      その一大転換の筆頭要因は渉成園十三景の誕生ですが、18世紀の終わり頃に定められたと考えられるものの、誰がどのように定めたのかは不明だそうです。  
      一般に、滴翠軒、傍花閣、印月池、臥龍堂、五松塢、侵雪橋、縮遠亭、紫藤岸、偶仙楼、双梅檐、漱枕居、回棹廊、丹楓渓の順に紹介される十三景ですが、この順は『渉成園記』によるもので、最初からこの順番となっていた訳ではないようです。恐らく、『渉成園記』によって渉成園の名が世に知れ渡るに従い、十三景の順番も『渉成園記』に倣うようになったものと考えられています。

    • 廬菴(ろあん) 中門
      廬菴へ通じる前庭の路地には、珍しい屋根の形をした杉皮葺きに竹押えの中門が開かれています。
      まさしく簡素美の極致と言えます。

    • 廬菴
      中門へと続く「行の飛石」です。人工の切石や大小様々な天然石を敷き詰めた道です。どことなく桂離宮を彷彿とさせる演出です。

    • 廬菴
      中門からは、このような飛石に導かれて進みます。

    • 蘆菴 春日燈篭
      中門を潜った先の路地の右側には、江戸初期の制作とされる6角形の笠を持つ春日灯籠が据えられています。興味深いのは、6角形の笠の屋根や中台の部分に、降り積もった雪が造形されていることです。

    • 蘆菴
      前庭の路地左側には、傾きかけた燈籠と苔生した蹲踞が置かれています。

    • 蘆菴
      2階建の茶室で1957年に再建されたものです。階下は7畳で、西側に床を構え、2方に縁が付けられています。階上は 主室4畳半と台目3畳の次の間があるそうです。主室北側を板敷きとし、中央に赤松の曲がり木を 立てて左を床とし、右脇には2重の棚を置いているようです。2方の肘掛窓からは眺望を楽しむことができる煎茶席です。丸い障子(開くと半月状になる)がチャームポイントなのですが、障子の破れがいささか気になるところです。

    • 漱枕居 (そうちんきょ)<十三景の十一>
      対岸から見る漱沈居は、どこか現実離れした夢のような空間にも映ります。
      その名は、流れに口を漱ぎ(すすぎ)、石を枕にするという、旅路にあることを意味する「漱流沈石」の語から採られています。 印月池の西南に位置し、半ば池に乗り出すように建てられた丸太柱で軽快な入母屋造、柿葺屋根が印象的です。4畳半に3畳敷の続く座敷と土間からなり、3畳の東には左右に手摺を付した縁を張り出しています。 4畳半部は池に臨んで二方に肘掛窓を開き、さながら舟中に遊ぶ趣を創り出しています。暑夏の夜は足を印月池につけて涼み、中秋には印月池に映る満月を愉しんだりと、風流を味わうための建物です。

    • 源融ゆかりの塔
      印月池は、平安時代の初期に左大臣源融(みなもとのとおる)が造った別荘「六条河原苑」の遺構とも言われています。源融は、嵯峨天皇の皇子で源氏物語の主人公光源氏のモデルとされる人物です。源融は左大臣でしたが、源の姓を賜って臣籍に下っています。そんな訳で南大島の東側の小島「鶴島」に建つ九重の石塔は、源融の供養塔と伝えられています。
      『都名所図会』には、「旧此所は河原院の旧蹟にして、池辺の出島に九重塔あり、是則融大臣の古墳なり」と記され、搭の制作年代は鎌倉時代中期と推定され、渉成園築造以前からこの辺りにあったと考えられています。築庭に当たり、宇治の塔の島の景色を写したとも言われています。塔の基礎に当たる格狭間には蓮華の彫刻が見られ、その上部の塔身には四方仏が彫られています。最上部の相輪は失われ、宝筺院塔の笠と宝珠で代用しているそうです。

    • 印月池 (いんげつち)<十三景の三>
      印月池の畔に立ち、広々とした池と新緑に萌える対岸の林を見渡します。架けられた橋は侵雪橋(しんせつきょう)と呼ばれ、北大島への回遊路の一部になっています。
      渉成園の6分の1(約1700坪)を占める大きな印月池は、東山から上る月影が水面に映る様がことさら美しいことから名付けられました。敷地の中心から東南側に寄せられているため、明治以後に敷地が削られたという見方もされましたが、古絵図から造営当時のままであることが判ったそうです。夏になると睡蓮が美しく咲き誇り、大きな鯉が気ままに泳いでいます。
      庭の中を巡って観賞する回遊式の庭園ですが、池の外周を一周できる造りにはなっておらず、独特の様式に基づくものと言えます。池越し、あるいは中島にある縮遠亭から背景の東山を眺めるのを主眼に作庭されたものと思われます。  

    • イブキ
      傍花閣の近くには、イブキの枯れた巨樹2本があります。イブキはビャクシンとも呼ばれ、成長の遅いヒノキ科の針葉樹です。樹齢は不詳ですが、幹周は大きい方で4.8mもあり、推定樹齢数百年以上と言われています。成長が遅い分、年輪の密度が高く強度の高い木ですが、出荷量が少ないため、その用途は限られています。

    • イブキ
      後ろにある現在工事中の建物が傍花閣(ぼうかかく)<十三景の二>です。
      傍花閣は、1892(明治25)年に再建された建物です。その名の通り桜を眺めるために建てられた山門の形をした珍しい建物で、石川丈山が天体観測をしたとも伝えられています。2階に上がるには山廊(さんろう)と呼ばれる階段を利用します。残念ながら中には入れませんが、2階には4畳半の部屋があり、その天井には丈山考案の方位盤に十二支を配した奇抜な図柄が描かれているそうです。
      傍らには様々な種類の桜が植樹されています。3月下旬になると一番桜であるシュゼンジカンザクラが、その後はベニシダレ、ヤマザクラ、ソメイヨシノと咲き始めます。4月中旬頃に咲くボタンザクラを最後に、およそ1か月に亘り桜を愉しむことができます。桜が満開の時期を迎える頃には、傍花閣の周りはピンク色に染まるそうです。このような趣ある建築と一緒に花見が楽しめるのは同園ならではの魅力です。
      傍花閣はこちらを参照してください。不思議な形をしています。
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%89%E6%88%90%E5%9C%92#/media/File:SyoseienBoukakaku.jpg

    • 回棹廊(かいとうろう)<十三景の十二>
      縮遠亭のある北大島と丹楓渓を結ぶ木造の橋で、1884(明治17)年頃に再建された、檜皮葺の屋根を持つ回廊風の木橋です。安政の大火で焼失する以前は、朱塗りの欄干を持つ反橋だったと伝えられています。かってはその屋根に夜半は来客の折りに金灯籠を吊って火を灯したそうです。暗闇の中に回棹廊の中央部が朧に浮かび上がる光景は、幻想的だったことでしょう。

    • 侵雪橋(しんせつきょう)<十三景の六>
      印月池の西北岸と縮遠亭のある北大島を結ぶ木造の反橋です。頼山陽は、『渉成園記』の中で雪の積もった侵雪橋のありさまを玉龍になぞらえて表現しています。確かに、雪がこの上に積もると絵になりそうな雰囲気です。
      この広大な池にはこの侵雪橋や回棹廊という檜皮葺の屋根を持つ木橋が架けられており、ワクワク・ドキドキしながら回遊できるワンダーランドになっています。

    • 漱枕居
      様々なロケーションから、それぞれ違った雰囲気で眺められるのもひとつの魅力です。

    • 源融が美意識を総動員し、心血注いでできあがったのが「六条河原院」です。 そのため源融は造営した邸宅の名前から「河原の左大臣」と呼ばれるほどだったそうです。源融はそこで豪奢な生活を愉しみ、73歳まで長生きしました。ですから何の未練もなくこの世を去ったと思うのですが、あまりに邸宅への執着が強く、死後もそこに住み続けたとされます。六条院には融の幽霊が出没するということで都で評判のお化け屋敷となり、その様子は多くの物語で描写されることになります。
      邸宅を相続した源融の息子 昇は、広過ぎて手入や維持が大変だったために宇多法皇に寄進してしまいます。ある日、法皇は評判の六条院に御息所(妃の一人)とお泊りすることになりました。息子の行為が許せないのか、自分が仕えた宇多法皇が出家したにもかかわらずお楽しみなのが許せないのか、融が幽霊となって出ます。
      法皇が「そなたは誰か?」と尋ねると、幽霊は「この家の主だった者でございます」と答えます。「ということはそなたは、融の大臣かな?」と聞くと、「その通りでございます。我が家にあなたさまが大勢の方といらっしゃるものですから、狭くて窮屈なのでございます。どこに身をおけば良いのやら」。法皇は「されどそなたの子孫が私に献上したのであるからなぁ。昔はどうあれ、今は私の住まいであるぞ」。
      「恨むのはお門違いである」と怒鳴りつけたら幽霊は消えたという説と、幽霊になっても相変わらず色好みの癖が抜けない融は、傍らにいた御息所の美しさに惹かれ、妃を所望していきなり抱きつき、哀れ御息所は気を失って倒れこみ、加持祈祷でやっと蘇生したという話もあります。
      その他、多彩なバージョンがあり、御息所は結局儚くなってしまうという終わり方や、旅の夫婦者が知らずに雨宿りして妻だけ殺されてしまうバリエーションも語り継がれています。

    • 南大島(臥龍堂)<十三景の四>
      池泉中の南大島は、かつてこの島に鐘楼堂「臥龍堂(がりゅうどう)」が建てられていたことから、この名が通称になっています。堂宇は2階建、瓦葺で、漱枕居で開かれた茶会の客人が縮遠亭に舟で向かう際、刻限を告げるために鐘が鳴らされたそうです。臥龍堂は、江戸時代、安政の大火により焼失し、その後再建されていません。しかし、これだけの石組を造るのは大変な作業だったと思われます。
      洛中の真ん中にこのような閑静な庭園があることに吃驚すると共に、印月池に浮かぶ南大島が六条河原院にあったというマガキガ島を想起させ、しばし、時間の流れが止まったように感じられました。そして静謐の時空にやさしく包まれると、謡曲「融」の幽玄の世界の息遣いが耳元に感じられました。

    • 漱枕居
      縮遠亭は飯店、代笠席は茶店、この漱枕居は酒店として用いられたようで、合わせて煎茶三席と言われ、園内に三席が完存する珍しい事例だそうです。このような遊び方は煎茶の祖であり、この庭を作庭した石川丈山が始めたと言われています。

    • 縮遠亭(しゅくえんてい)<十三景の七>
      北大島の小高いところにある茶室「縮遠亭」です。

    • 塩釜の手水鉢
      縮遠亭の脇に置かれた手水鉢、一般に広まった「塩釜の手水鉢」の本歌(=オリジナル)とされています。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作と推定されているそうです。
      庭園の景物として重要な存在だそうです。その割には、無造作に茶室の傍に置かれているようにも思えるのですが…。

    • 塩釜の手水鉢
      千利休や裏千家との関わりが深かったことから、苑内には「縮遠亭」「蘆庵」」などの茶室が散在しています。閬風亭と園林堂の間に建てられた2階建の茶室「廬菴」の2階には、四畳半の主室と台目3帖の控の間を備えています。
      それでいて文人趣味の庭園かと思えば、やはり仏寺の庭園らしく、内仏が安置されている「園林堂」と「傍花閣」を中軸に全体設計されているそうです。

    • 縮遠亭
      印月池に 浮かぶ北大島に建てられた茶室で、1884(明治17)年頃に再建されたものです。西側入口の土間から入ると茶室(抹茶席)があり、四畳間が付く構成となっています。その南端から斜めに続く板間を経て、3畳敷きの上段の間が連結されており、上段は床を高く支えた舞台造りになっています。
      縮遠亭は、その名の通り、かつては上段の間から東山36峰のひとつである「阿弥陀が峰」の遠景が縮図のように見渡せたと伝えられています。現在では樹木が生い茂り、また周囲にマンションが建てられたため、見ることは叶いません。

    • 縮遠亭
      築山の下から見上げる縮遠亭です。
      茶亭「縮遠亭」に行くのには小船を浮かべて渡したりと、あまり形式にこだわらず、自由なおもてなしで客人を愉しませていたことが窺えます。池岸の水面に乗り出して設けられた茶亭や、屋根のついた廊橋など、随所に中国的な雰囲気が見られるなど、隠居屋敷という形式張る必要のない私的な空間に相応しい庭園です。
      こうしたところも、桂離宮との類似性が認められるところです。

    • 碧玉の石幢(へきぎょくのせきどう)
      侵雪橋の脇に置かれた石幢です。石幢というのは通常の石燈篭と異なり、笠の部分に蕨手(わらびて)と呼ばれる装飾が付いておらず、竿に節が無いのが特徴です。また、石燈篭でいう火袋に当たる部分は平面が6角形の仏像を安置するための龕(がん)になっており、確かにシンプルです。
      通常、碧玉は青い色をした貴石のことを言います。しかし、この石幢はさほど青味がかっていないにもかかわらず、不思議なことに「碧玉」と呼ばれています。いただいた冊子にも、その理由は不明と記されています。

    • 碧玉の石幢
      竿の下の基壇を眺めると、半円形の窪みがあるのは長い歳月で水滴が穿った窪みなのか、時の移ろいを感じさせます。

    • 京都タワーとのコラボです。
      かつて池の水源は高瀬川から分流した水路でした。1890(明治23)年に琵琶湖疏水が開通すると、蹴上に東本願寺用の水槽が設けられ、防火用に境内まで専用の鉄管を布設し、本山の掘割や渉成園に引き込みました。疏水の水を引き込んでいるため、池には琵琶湖の魚介類も混じっているそうです。近年、鉄管が老朽化し水の出が悪くなっているため、現在は地下水で不足分を補って清流を保っているそうです。

    • 塩釜
      縮遠亭の築山の北麓に石組みの横穴があり、その奥の底には井筒があります。縮遠亭で茶会が催された時の水源として使われたそうですが、現在は水が枯れています。

    • 塩釜
      形状が塩を製造する塩釜とそれを屋根として覆う石組みを塩屋に似ていることから名付けられています。河原院で源融が塩釜の浦の景色を再現した塩釜に因んだものと思われます。

    • 回棹廊
      中央に張り出した唐破風の屋根に趣があります。

    • 回棹廊
      印月池の畔から回棹廊を見上げます。
      橋のスケールは小さいですが、東福寺の通天橋を彷彿とさせる木橋です。

    • 回棹廊
      ただ単に真っ直ぐに伸びた平坦な回廊ではなく、中央部が2段高くしてあるのが特徴です。
      中央の高段で景色を愉しむことができるように配慮されたものかもしれません。

    • 回棹廊
      唐破風屋根のある橋中央部は、高くしてあるだけでなく欄干部分が前後に張り出しています。欄干ぎりぎりの所に立てば、まるで池の上に立って景観を観賞している趣になります。

    • 紫藤岸(しとうがん)<十三景の八>
      印月池の北東、回棹廊の東にあり、その名の通り藤棚が池に迫り出すように造られています。当初この藤は野生だったと伝えられていますが、現在は棚が設けられているそうです。
      水面に映った樹木から印月池の透明度が推し量れます。鬱蒼とした樹木の先は、河原町通に面する築地塀になっています。

    • 河東碧梧桐の句碑
      回棹廊を渡った先の丹楓渓の端に、河東碧梧桐 (かわひがし へきごとう)、高濱虚子、大谷句佛の句碑が並んでいます。

      「愕然として ひるねさめたる 一人哉」碧(梧桐)と刻まれています。
      河東碧梧桐について調べてみました。碧梧桐は、明治時代の日本の俳人で高浜虚子と並び子規門の双璧と呼ばれた人物だったそうです。虚子ほど知名度があるわけではなく、当方のような門外漢には全く知られていない存在です。
      双璧の2人は、多感な青春時代を共に過ごし、子規から野球や俳句を学びました。京都三高時代には同宿し、下宿に「虚桐庵」と名付けるほど親密な関係でしたが、やがてそれぞれの道を歩み始めます。子規没後は、定型を破り季題趣味から脱する試みを始め、やがて自由律俳句の端緒となり現代俳句への新しい流れを作ることに尽力したそうです。

    • 高濱虚子の句碑
      「独り句の 推敲をして 遅き日を」虚子。
      これは高濱虚子が大谷句佛の17回忌に詠んだ句で、虚子の辞世の句としても知られています。
      あまり表に出ることはありませんが、虚子の俳句には南無阿弥陀仏への信仰があることが、複数の俳句によって知ることができそうです。
      典型的なのは「明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀」という句です。「明易」とは、夜が明けるのが早い、夏至前後の短い夜のことを意味する季語で、「短い明易い人間」を意味しています。そして「花鳥諷詠」は、「春夏秋冬の移り変りに依って起る自然界の現象、並びにそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」という、「客観写生」と共に虚子が提唱した俳句の理念でもあります。
      子規との出会い、そして朋友 河東碧梧桐との確執、その後勃興する新興俳句との関わりという俳句人生を思い起こしながら、「俳句は『花鳥諷詠詩である』と断じた事は、私の一生のうちの大きな仕事であったと思う」という辞を残しています。「俳句は沈黙の文芸」という虚子には、言葉を超えた沈黙を生きる姿があったように思えてなりません。

    • 大谷句佛の句碑
      「勿體(もたい)なや 祖師ハかみ古(紙衣)乃 九十年」句佛。
      大谷句佛も聞いたことがなかったのですが、浄土真宗の僧かつ俳人で、東本願寺23世だそうです。句佛の号は、「句をもって、仏事をなす」の意だそうです。
      句佛は、子規や虚子、碧梧桐の薫陶を受けて俳人としても大きな業績を残した方だそうです。その所縁で句碑が並べられていると言うことだと思います。

    • 獅子吼(ししく)
      印月池の水源として、北東岸の入り江の奥にある築山の下部に造られた注水口です。瀧の石組みではなく、泉のように水が湧き出すタイプです。古くは高瀬川の水が引かれていたそうですが、高瀬川の水位が下がったため、現在は地下水を汲み上げているそうです。

    • 獅子吼
      青モミジが目に眩しいほどです。秋の紅葉の季節にはどんな景観を見せてくれるのでしょうか?

    • 五松塢(ごしょうう)<十三景の五>
      侵雪橋を北大島に渡ったところの北側辺りを指す五松塢です。かつて五本の松か一幹五枝の松が植えられていたことに由来する名前です。
      「塢」とは、小さな土手を意味します。この五松塢がある北大島と南大島は、その位置と高さ、古図面に見られる高瀬川の旧流路などから、豊臣秀吉が築かせた御土居の跡と言われています。

    • 丹楓渓(たんぷうけい)<十三景の十三>
      回棹廊とつながる丹楓渓という渓谷を模した一帯には、楓が林のように植えられ、秋には美しい紅葉が堪能できるようになっています。「丹」は、朱色を表す言葉で、紅葉の美しい渓谷を模して造形された一帯になります。このように四季折々の美しい自然が愉しめ、雅な建築物や塩釜の手水鉢といった景物のある同園には、多くの著名人が足を運んでいます。

    • 印月池
      天空を見上げると、空の色と京都タワーの胴体部の白色が同化し、まるでUFOが浮かんでいるようで吃驚させられてしまいます。しかし、こうして池面に映り込んだタワーは、しっかりとその胴体を顕にしています。

      京都タワーは、パリのエッフェル塔と同じく、建造当初から賛否両論があります。日本人より外国の識者が強く反対していたそうで、古都の侘び・寂びのイメージにそぐわないと言うのが大方の意見です。また、吃驚することには、宗教都市を映した「ロウソク」をイメージしていると思っていたのですが、これは俗説であり、1964年の創建時のモチーフは「灯台」だったそうです。連なる京町家の屋根瓦を波に見立てたそうです。何故灯台をイメージしたのかは積年の謎だそうですが、近しい年代に建造された神戸ポートタワーや横浜マリンタワーに触発されたり、海への憧憬があったのかもしれません。
      市の規制により、高さ131mもある京都タワーは、建築物ではなく工作物として建造されています。今年から低層階を改装しはじめ、10年後を目途にタワー本体の建て替えも検討しているようです。果たしてどんなデザインに変わるのでしょうか?

    • 閬風亭(ろうふうてい)
      書院群の南端にある園内最大の書院造風の建物です。迎賓館の役割を担い、1865(慶応元)年頃に再建されています。蘆菴と廊下で繋げられ、内部からは印月池を隔てて東山の阿弥陀ヶ峰を借景とした庭が一望できるように構成されています。賓客を迎えるための大書院と言うことで、中国の崑崙山脈の頂部にあり仙人が棲むといわれる山の名前が付けられています。1880(明治13)年には、床と付書院を備えた八畳敷の「嘉楽」と称される一室を明治天皇のご休息所として使ったそうです。尚、畳を外せば能舞台に早代わりする合理的な設計の迎賓館になっています。内部には、石川丈山直筆の扁額「閬風亭」と徳川慶喜直筆の扁額「渉成園」が掛けられてるそうです。
      十三景の九となる偶仙楼は、焼失して現在は存在しませんが、閬風亭近くにあった高楼だったそうです。江戸時代初期の古絵図には、伏見城から移築された桃山風の大書院に付随した高楼が描かれているそうです。

    • 漱枕居
      印月池に映り込んだ白い障子が、侘び寂びの世界を醸しています。
      こうして池と融合した佇まいには趣があります。

    • 漱枕居
      中国では「枕石漱流」という言葉は、「田舎に引退する」という意味を表すそうです。この語句は劉義慶著『世説新語』の「排調第二十五」に登場するのですが、「漱流枕石」もこの語句と同じ趣旨だと思われます。
      しかし、何故この言葉が『世説新語』に登場するかと言うと、この成句を晋の時代の孫楚という人が友人 王済に隠遁生活の意志を伝える際、「石に枕し、流れに漱ぐ」と言うべきところ、間違えて「漱石枕流」と言ってしまったのです。すかさず王済が「枕石漱流」ではないかとツッコミを入れたのですが、「石に漱ぐのは歯を磨くためであ り、流れに枕するのは耳を洗うため」と詭弁し、絶対に間違いを認めなかったそうです。
      この故事から、「漱石枕流」という語は、「負け惜しみが強い頑固者」の意味で用いられるようになったと言います。因みに、夏目漱石のペンネームは、親友の正岡子規から譲り受けたものだそうですが、この逸話に由来するそうです。

    • 双梅檐(そうばいえん)<十三景の十>
      閬風亭と漱枕居の間にある梅林です。双梅檐には、紅梅・白梅20株ほどが植えられています。
      「檐」は「ひさし」を意味し、蛤御門の変による類焼以前は閬風亭の屋根がこの辺りまでかかっていたことに由来するそうです。

    • 大玄関
      明治天皇行幸の際、東本願寺の境内に残る宮御殿と共に大宮御所から渉成園への移築が約束され、1884(明治17)年頃に移されてきた玄関です。
      閬風亭と比較しても巨大な玄関であり、正直なところ場違いな印象を受けたほどです。正面四間・切妻造の大きな車寄せです。

    • 馬繋ぎ(廚)
      築地塀のすぐ手前に建ち、明治初期に建てられたものがそのまま残されているようです。

    • 西門の正面にあった「高石垣」の南に繋がる白壁です。
      建物や内庭のある区画への出入口と白塀が長く伸びています。

    • 高石垣
      入園後、最初に強烈なインパクトを受けた高石垣の所まで戻ってまいりました。
      これで渉成園を一通り見て回ったことになります。

      ③東本願寺では、家康は、天下を統一した際、豊臣家の庇護を受けた西本願寺と豊臣家の聖地「豊国社」・方広寺を結ぶ「聖なるライン」を分断する意図で東本願寺を造成したと記しました。その意味を踏まえれば、家康を慕った家光によって渉成園の地が寄進されたことは、正面通りを更に分断したとも解釈できます。この地は、歴史的には複雑な区画と言えるのかも知れません。

      渉成園を後に、JR京都駅の市バスD1停留所から京都市美術館へ向かいます。25分ほどのバスの旅です。途中、激しい雷雨に見舞われましたが、美術館到着時には雨は上がっていました。
      この続きは、⑤京都市美術館(エピローグ)でお届けいたします。

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