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平安時代の末期には、出羽国府は酒田の城輪柵で出羽城介は秋田城にいた。陸奥の国府は多賀城で鎮守府将軍は水沢の胆沢城に勤務した。<br />平安時代を通じてこの四官が任期5年で任命されたが、賄賂で将軍となり蓄財に励んだと当時の日記に残る平維良のような人物が多く、都の貴族は馬、砂金、絹など奥羽二国からの貢進と、私腹を肥やすことに関心が高く、肝心の庶民は圧政に困窮していた。<br /><br />927年の法典集「延喜式50巻」の国郡一覧が示す国家領域は、出羽国の北限は秋田城、陸奥国の北限は胆沢城・江刺で、811年に陸奥国に置かれた和賀・稗貫・紫波の3郡は圧政に抗するエミシの強大化によるものか、放棄されている。939年、秋田城は俘囚(エミシ)に襲われて官稲を奪われ(出羽天慶の乱)、律令制度の内部でも庶民を救済すべく、939年に平将門が坂東で、藤原純友が瀬戸内で、乱を起こして敗れた(天慶の乱)。<br /><br />安倍頼良の父忠良が陸奥権守に任じられた1036年(長元9年)ころから安倍族が台頭した。安倍氏は中央の記録では酋長・俘囚と呼ばれ、エミシの末裔の東北人と扱われていたが、周辺の有力者、磐井郡の金(こん)氏、伊具郡の平氏、亘理郡の藤原氏などと姻戚関係を結んで衣川以南に勢力を伸ばした。<br /><br />律令制度を無視して労役や税を朝廷に納めないなど、強大になった安倍氏を懲罰のために、1051年に朝廷側の陸奥守藤原登任が秋田城介平重成と共に数千の兵で安倍軍と鬼切部(鬼首・おにこうべ)で戦ったが朝廷側が大敗した。これが「前九年合戦」の始まりとされる。以後10年にわたり陸奥守・鎮守府将軍を兼ねた源頼義と安倍氏(頼良とその子貞任など)が戦い続けた。<br /><br />追討将軍として陸奥に下向した源頼義を安倍頼良が饗応するなど、一時の平穏もあったが、1056年官人が阿久利川で襲われた事件で頼義の子・貞任が疑われて本格的な戦闘が始まった。この戦闘は「陸奥話記」によれば源頼義が戦闘開始を狙って仕掛けた冤罪であったとされる。<br />1057年の安倍頼良の死で安倍氏は貞任・宗任の時代となったが、相変わらずの強勢を誇り、源頼義は黄海(きのみ)の戦いで大敗し、わずか7騎で辛くも戦線から脱出した。<br />以後、安倍頼良の娘婿の藤原経清が諸国の税を徴発する状況が続いた。<br /><br />戦線の膠着を打破できない源頼義は出羽の俘囚豪族・清原光頼に名簿を提出して臣下の礼をとって援助を乞うた。1062年7月に清原光頼は弟の武則に1万あまりの兵をつけて陸奥国に派遣した。頼義軍は3000人だったので、実質的には出羽の清原軍が主力で、源氏は追随する状態であった。<br />8月に小松柵を破り源頼義は初めて安倍氏に勝利した。補給の関係で長期戦を恐れていた清原軍は、9月5日に奇襲をかけた8000の安倍貞任軍を破って勢いにのり、7日には衣川柵、11日には鳥海柵を陥落させた。17日から厨川で最後の戦闘に入り、激戦の末に貞任・経清を破り数日後に宗任以下が降伏して前九年の戦闘が終わった。<br />この戦いは、1051年頼義の陸奥守赴任から1062年の貞任の死までで、鎌倉時代中期までは「12年合戦」と呼ばれていた。<br /><br />貞任・重任は戦死し藤原経清は残虐に処刑された。<br />降伏した安倍宗任・正任は伊予に、頼良の弟の僧・良昭は大宰府に配流され、宗任ものちに大宰府に流された。<br />処刑された経清の妻は清原武則の子・武貞に与えられて家衡を生み、7歳の連れ子・清衡は清原の養子となったがのちに平泉藤原氏を興すことになる。<br />武貞には嫡子・真衡がおり、異母弟の家衡と清衡の清原氏3名と、源頼義の子・義家が後三年合戦の主役となる。<br />清原武則は1063年に現地人・蝦夷として初めて鎮守府将軍となり、安倍氏の遺領・奥6郡は清原清衡・家衡が治めて、清原氏が奥羽の覇者となった。<br /><br />なお、大宰府に流された宗任の子孫・松浦党の後裔には昭和初期の総理・米内光正海軍大将や、平成の総理・安倍晋三がいる。<br /><br />

盛岡市:前九年合戦を歩く 源氏による辺境軍事貴族安倍氏の滅亡

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2015/06/13 - 2015/06/15

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

平安時代の末期には、出羽国府は酒田の城輪柵で出羽城介は秋田城にいた。陸奥の国府は多賀城で鎮守府将軍は水沢の胆沢城に勤務した。
平安時代を通じてこの四官が任期5年で任命されたが、賄賂で将軍となり蓄財に励んだと当時の日記に残る平維良のような人物が多く、都の貴族は馬、砂金、絹など奥羽二国からの貢進と、私腹を肥やすことに関心が高く、肝心の庶民は圧政に困窮していた。

927年の法典集「延喜式50巻」の国郡一覧が示す国家領域は、出羽国の北限は秋田城、陸奥国の北限は胆沢城・江刺で、811年に陸奥国に置かれた和賀・稗貫・紫波の3郡は圧政に抗するエミシの強大化によるものか、放棄されている。939年、秋田城は俘囚(エミシ)に襲われて官稲を奪われ(出羽天慶の乱)、律令制度の内部でも庶民を救済すべく、939年に平将門が坂東で、藤原純友が瀬戸内で、乱を起こして敗れた(天慶の乱)。

安倍頼良の父忠良が陸奥権守に任じられた1036年(長元9年)ころから安倍族が台頭した。安倍氏は中央の記録では酋長・俘囚と呼ばれ、エミシの末裔の東北人と扱われていたが、周辺の有力者、磐井郡の金(こん)氏、伊具郡の平氏、亘理郡の藤原氏などと姻戚関係を結んで衣川以南に勢力を伸ばした。

律令制度を無視して労役や税を朝廷に納めないなど、強大になった安倍氏を懲罰のために、1051年に朝廷側の陸奥守藤原登任が秋田城介平重成と共に数千の兵で安倍軍と鬼切部(鬼首・おにこうべ)で戦ったが朝廷側が大敗した。これが「前九年合戦」の始まりとされる。以後10年にわたり陸奥守・鎮守府将軍を兼ねた源頼義と安倍氏(頼良とその子貞任など)が戦い続けた。

追討将軍として陸奥に下向した源頼義を安倍頼良が饗応するなど、一時の平穏もあったが、1056年官人が阿久利川で襲われた事件で頼義の子・貞任が疑われて本格的な戦闘が始まった。この戦闘は「陸奥話記」によれば源頼義が戦闘開始を狙って仕掛けた冤罪であったとされる。
1057年の安倍頼良の死で安倍氏は貞任・宗任の時代となったが、相変わらずの強勢を誇り、源頼義は黄海(きのみ)の戦いで大敗し、わずか7騎で辛くも戦線から脱出した。
以後、安倍頼良の娘婿の藤原経清が諸国の税を徴発する状況が続いた。

戦線の膠着を打破できない源頼義は出羽の俘囚豪族・清原光頼に名簿を提出して臣下の礼をとって援助を乞うた。1062年7月に清原光頼は弟の武則に1万あまりの兵をつけて陸奥国に派遣した。頼義軍は3000人だったので、実質的には出羽の清原軍が主力で、源氏は追随する状態であった。
8月に小松柵を破り源頼義は初めて安倍氏に勝利した。補給の関係で長期戦を恐れていた清原軍は、9月5日に奇襲をかけた8000の安倍貞任軍を破って勢いにのり、7日には衣川柵、11日には鳥海柵を陥落させた。17日から厨川で最後の戦闘に入り、激戦の末に貞任・経清を破り数日後に宗任以下が降伏して前九年の戦闘が終わった。
この戦いは、1051年頼義の陸奥守赴任から1062年の貞任の死までで、鎌倉時代中期までは「12年合戦」と呼ばれていた。

貞任・重任は戦死し藤原経清は残虐に処刑された。
降伏した安倍宗任・正任は伊予に、頼良の弟の僧・良昭は大宰府に配流され、宗任ものちに大宰府に流された。
処刑された経清の妻は清原武則の子・武貞に与えられて家衡を生み、7歳の連れ子・清衡は清原の養子となったがのちに平泉藤原氏を興すことになる。
武貞には嫡子・真衡がおり、異母弟の家衡と清衡の清原氏3名と、源頼義の子・義家が後三年合戦の主役となる。
清原武則は1063年に現地人・蝦夷として初めて鎮守府将軍となり、安倍氏の遺領・奥6郡は清原清衡・家衡が治めて、清原氏が奥羽の覇者となった。

なお、大宰府に流された宗任の子孫・松浦党の後裔には昭和初期の総理・米内光正海軍大将や、平成の総理・安倍晋三がいる。

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス タクシー 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
個別手配

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  • 前九年合戦の最後の戦場となった厨川柵、嫗戸(うばと)柵は、盛岡市の前九年1〜3丁目、安倍館町、天昌寺町、大舘町あたりと推定されているが、正確な場所は不明である。<br />それにしても、安倍舘とか前九年という地名があるのが興味深い。

    前九年合戦の最後の戦場となった厨川柵、嫗戸(うばと)柵は、盛岡市の前九年1〜3丁目、安倍館町、天昌寺町、大舘町あたりと推定されているが、正確な場所は不明である。
    それにしても、安倍舘とか前九年という地名があるのが興味深い。

  • 前九年公園で唯一、遺跡を物語るものはこの石碑だった。

    前九年公園で唯一、遺跡を物語るものはこの石碑だった。

  • 盛岡駅前のバス停、2番から発車するバスは150円でこの停留所まで運んでくれる。1時間に数本のバスがあるのでこれが便利。<br />この停留所はローソン前で、駐車場も広い。<br />向かい側の道を入ると、安倍舘稲荷と貞任・宗任神社がある。この二つの神社は盛岡市の観光案内地図では数百メートル北に誤表示されているので、時間借り上げしたハイヤーで20分ほど費やしたが見つからず、翌日に再訪して探し当てました。

    盛岡駅前のバス停、2番から発車するバスは150円でこの停留所まで運んでくれる。1時間に数本のバスがあるのでこれが便利。
    この停留所はローソン前で、駐車場も広い。
    向かい側の道を入ると、安倍舘稲荷と貞任・宗任神社がある。この二つの神社は盛岡市の観光案内地図では数百メートル北に誤表示されているので、時間借り上げしたハイヤーで20分ほど費やしたが見つからず、翌日に再訪して探し当てました。

  • バス停の向かい側に堀があり、埋蔵文化財安倍舘遺跡という標柱が建っていました。<br /><br />この右側に安倍舘稲荷、貞任・宗任神社への道があり、左側に厨川八幡への道があります。

    バス停の向かい側に堀があり、埋蔵文化財安倍舘遺跡という標柱が建っていました。

    この右側に安倍舘稲荷、貞任・宗任神社への道があり、左側に厨川八幡への道があります。

  • 八幡宮の入り口です。<br />左側には安倍舘保育園の看板がありました。<br /><br />昔の濠を埋めて道が作られています。

    八幡宮の入り口です。
    左側には安倍舘保育園の看板がありました。

    昔の濠を埋めて道が作られています。

  • 上の写真の右側に続いている濠です。

    上の写真の右側に続いている濠です。

  • 左側にも平安時代の濠が続いています。

    左側にも平安時代の濠が続いています。

  • 濠に囲まれた厨川八幡宮です。この後ろは北上川の急崖です。<br />昔から前九年合戦の最後の戦場となった厨川柵、嫗戸(うばと)柵の跡と伝えられたが、発掘調査により頼朝が任命した中世の岩手郡の地頭・工藤氏の居城と判明したという。(盛岡遺跡学び館・室野氏のご教示)<br /><br />厨川柵、嫗戸(うばと)柵の、正確な場所はいまだ不明だという。<br />

    濠に囲まれた厨川八幡宮です。この後ろは北上川の急崖です。
    昔から前九年合戦の最後の戦場となった厨川柵、嫗戸(うばと)柵の跡と伝えられたが、発掘調査により頼朝が任命した中世の岩手郡の地頭・工藤氏の居城と判明したという。(盛岡遺跡学び館・室野氏のご教示)

    厨川柵、嫗戸(うばと)柵の、正確な場所はいまだ不明だという。

  • 北上川に急峻な崖で接し、図のような構造の城であったらしい。<br /><br />安倍舘という地名と、難攻不落と見える地形からみて、工藤氏の遺跡の下層に安倍氏の遺跡があってほしいと思ったが、素人のひいき目か?

    北上川に急峻な崖で接し、図のような構造の城であったらしい。

    安倍舘という地名と、難攻不落と見える地形からみて、工藤氏の遺跡の下層に安倍氏の遺跡があってほしいと思ったが、素人のひいき目か?

  • 厨川八幡の階段越しに北側の濠を見たつもりですが・・・・・わかりにくい。

    厨川八幡の階段越しに北側の濠を見たつもりですが・・・・・わかりにくい。

  • バス停に戻って、ローソンの向かいの道を入ると安倍舘稲荷神社があります。<br /><br />稲荷社なので、赤い鳥居がいくつもあって神社も赤でした。

    バス停に戻って、ローソンの向かいの道を入ると安倍舘稲荷神社があります。

    稲荷社なので、赤い鳥居がいくつもあって神社も赤でした。

  • 念のために:安倍舘稲荷神社の掲額です。

    念のために:安倍舘稲荷神社の掲額です。

  • 左が安倍舘稲荷神社で、右が貞任宗任神社です。<br /><br />真ん中の小さい鳥居の神様はよくわからない不思議な神様です。

    左が安倍舘稲荷神社で、右が貞任宗任神社です。

    真ん中の小さい鳥居の神様はよくわからない不思議な神様です。

  • 昭和40年代に建てられた石の鳥居の奥に貞任宗任が鎮座しておりました。

    昭和40年代に建てられた石の鳥居の奥に貞任宗任が鎮座しておりました。

  • 鳥居の額を寫しましたが、1062年に攻め滅ぼされた土着の豪族・安倍氏を神様として祀っている神社です。<br />律令制度末期のいくつかの反乱と考え合わせると、苛斂誅求に苦しんだ庶民の側に立っていた安倍族への庶民の共感がおもわれます。

    鳥居の額を寫しましたが、1062年に攻め滅ぼされた土着の豪族・安倍氏を神様として祀っている神社です。
    律令制度末期のいくつかの反乱と考え合わせると、苛斂誅求に苦しんだ庶民の側に立っていた安倍族への庶民の共感がおもわれます。

  • 覆い屋の中の神社はごく小さい神社でした。<br /><br />いつごろ、だれが建立したのか。沿革などは掲示されていませんでした。

    覆い屋の中の神社はごく小さい神社でした。

    いつごろ、だれが建立したのか。沿革などは掲示されていませんでした。

  • 小さな鳥居の先には石が祀られていました。<br /><br />円磨された石がご神体になっているのはしばしばありますが、この石はなぜ祀られているのか、判らなかった。

    小さな鳥居の先には石が祀られていました。

    円磨された石がご神体になっているのはしばしばありますが、この石はなぜ祀られているのか、判らなかった。

  • 天昌寺です。<br />右上に登り坂になっているので、昔の砦・柵をつくる場所としては好適なのかもしれない。<br /><br />里館(さだて)遺跡がここにある。

    天昌寺です。
    右上に登り坂になっているので、昔の砦・柵をつくる場所としては好適なのかもしれない。

    里館(さだて)遺跡がここにある。

  • 念のため、寺の名前を入れて一枚。

    念のため、寺の名前を入れて一枚。

  • 上の写真の反対側、寺の土塀を凹ませてこのような説明が掲示されていた。<br /><br />ガイドによれば、これ以外に遺跡を示すものはないとのことでした。

    上の写真の反対側、寺の土塀を凹ませてこのような説明が掲示されていた。

    ガイドによれば、これ以外に遺跡を示すものはないとのことでした。

  • 前九年公園に珍しい 「しだれかつら」 の木がありました。<br /><br />盛岡の「市の樹」だそうです。

    前九年公園に珍しい 「しだれかつら」 の木がありました。

    盛岡の「市の樹」だそうです。

  • ちょうど「ちゃぐちゃぐ馬こ」の日でした。<br /><br />昔は6月15日だったのを、6月第二土曜日に変更したそうですが、昔も今も雨が降らない異常日だそうです。<br />当日も雨の予報でしたが降りませんでした。

    ちょうど「ちゃぐちゃぐ馬こ」の日でした。

    昔は6月15日だったのを、6月第二土曜日に変更したそうですが、昔も今も雨が降らない異常日だそうです。
    当日も雨の予報でしたが降りませんでした。

  • 80頭をこえる着飾った馬が子供を乗せて行進しました。<br /><br />馬の苦労を慰めるために始まった祭りですが、13?も歩かされては馬も大変です。

    80頭をこえる着飾った馬が子供を乗せて行進しました。

    馬の苦労を慰めるために始まった祭りですが、13?も歩かされては馬も大変です。

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