2015/06/06 - 2015/06/09
781位(同エリア1514件中)
倫清堂さん
47ある都道府県の県庁所在地のうち、まだ訪れたことがないのは松山市のみとなっていました。
その松山を訪れる機会がようやく到来しました。
とは言っても特別な理由があるわけではなく、自分がその気になったというだけの話です。
松山には空港がありますが、仙台からの直通便はありません。
そこで羽田から松山までの全日空便を利用することにしました。
土曜日の夜9時に仕事を終え、帰宅して食事をとり、11時過ぎの夜行バスに乗ります。
眠れるようにとバスの中で日本酒を飲んだのですが、これが逆効果となってしまいました。
眠れたのは最初の3時間ほどで、しかも飛行機を操縦している夢を見てしまい、バスの揺れが夢の中にも伝わって、半眠半覚の状態でした。
その後完全に目が覚めてしまい、少し車酔いのような状態になってしまいました。
品川バス停に着いて地上に降り、自分の足で歩くことがこんなにも素晴らしいことなのかと実感したのでした。
京急線で羽田空港へ。
空港のラウンジで一息つき、飛行機に搭乗。
滑走路が混んでいるために定刻より20分ほど遅れて離陸しました。
ボーイング787は大きな機体でしたが、乗客はほとんどいませんでした。
全ての乗客が窓際の席に座っても、まだ後方の窓際席が空いているような状況でした。
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空港のロビーには、宇和島の伝統行事である牛鬼まつりの「牛鬼」が置かれていました。
牛鬼まつりは夏に行われる行事で、そのルーツは加藤清正公による朝鮮での戦いにまで遡るとされます。
清正公は難攻不落の晋州城を攻める際、牛の生首を先頭に掲げた「亀甲車」に兵を乗せて城へ突撃し、ついに晋州城を攻め落としたのでした。
清正公の武勇を宇和島で伝えたのが、宇和島藩を治めることとなった藤堂高虎公でした。
「亀甲車」をモデルに作られた牛鬼は祭りの期間中、竹笛の音色に合わせて首を振りながら町内を練り歩くのです。
宇和島藩が正式に成立したのは、伊達秀宗公が2代将軍徳川秀忠公から宇和島藩を与えられた慶長20年のことでした。
今年はそれからちょうど400年、節目の年に当たります。松山空港 空港
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ロビーには伊予柑のステンドグラスもあります。
子供の頃に伊予柑と聞かされても、「柑」が蜜柑の仲間であることを示すことは理解できましたが、「伊予」の意味が分かりませんでした。
私は生意気な子供だったので、疑問に思っても大人に質問したりなどせず、疑問をそのままほったらかしにしていました。
伊予が愛媛県の昔の地名であることを知ったのは、たしか高校生の頃だったと思います。
しかしその後、神話に興味を持つようになると、なんと伊予とは四国という島そのものを表す名称であることが分かりました。
イザナギ・イザナミ両神による国産み神話で、四国は淡路島に続いて2番目に産み出されます(『古事記』の場合。諸本によって違いあり)。
正式には「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と称され、1つの胴体に4つの顔があり、それぞれ愛比売(えひめ)、飯依比古(いひよりひこ)、大宜都比売(おほげつひめ)、建依別(たけよりわけ)と呼ばれます。
現在の愛媛という県名も、実は伊予と同じく神話にルーツがあったのでした。
なお、「えひめ」という名前は「美しい少女」という意味です。 -
空港でレンタカーの事業所に電話を入れると、送迎の車が来てくれます。
事業所で手続きを終え、旅の足が手に入りました。
私の旅は、たいてい最も遠い目的地から始まります。
高速道路を利用し、牛鬼まつりの舞台でもある宇和島を目指します。
仙台人として、愛媛県まで来て宇和島を訪れないという選択肢はありません。
仙台と宇和島とは、藩主伊達氏の縁でつながっています。
宇和島城の駐車場は城の北東、桑折氏武家長屋門の前にあります。
桑折は東北ではあまり珍しくない苗字ですが、宇和島には伊達とともに移住した家老の1家しかないそうです。
山家や星などの苗字も、こちらでは相当に珍しいとか。宇和島城 名所・史跡
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築城の名人、藤堂高虎公が築いた城だけあって、石垣がしっかり組まれています。
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天守閣がある本丸まで、駐車場からゆっくり歩いて15分ほどかかります。
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イチオシ
宇和島城の天守閣は復元ではなく現存です。
現存天守は12あって、そのうち島根県の松江城がつい先日、国宝への指定が決まりました。
国宝に指定される現存天守としては5番目です。
国宝の天守閣にくらべると、宇和島城の天守閣は小ぢんまりとしています。
ちなみに現存天守閣のほとんどは中部以西にあり、東は青森県の弘前城ただ1つ。
そして4つが四国にあります。 -
宇和島藩の初代藩主秀宗公は、仙台藩主伊達政宗公の長男に当たります。
普通なら分家する際、長男に本家を継がせて次男以下に家を分け与えるものです。
しかし政宗公は、長男秀宗公を宇和島藩主とし、次男の忠宗公に仙台藩を継がせたのでした。
秀宗公は側室が産んだ子であったことが、その原因と考えられます。
天守閣に入って最初に目につくのが、壁にかけられた藩主の肖像画です。
あるいは、秀宗公は3歳の時から豊臣秀吉公の人質として伏見城で暮らし、5歳の時には秀吉公の猶子となったため、政宗公にとっては実の子としてあまりかわいいとは思えなかったのかも知れません。 -
天守閣に登ると、いっそう宇和島湾の海がよく見えます。
歴代藩主たちも、ここから海を眺めたのでしょうか。
宇和島伊達家で最も知られる人物は、8代藩主の宗城公です。
宗城公は幕末から明治にかけての藩主で、幕末の四賢侯のひとりにも挙げられます。
外国船が次々と開港を求めてやって来る状況の中で、西洋文明を導入して軍事力を強化することこそが日本には必要であると真っ先に悟った大名たちのことです。
それまで大名が幕政に口を出すなどあり得ないことでしたが、老中首座にあった阿部正弘公が初めて広く意見を求め、四賢侯が実際に文明開化の先陣を切ったのでした。
宗城公は、牢破りによって逃亡中の身であった高野長英や、小さな村の医者でしかなかった村田蔵六(後の大村益次郎)の才能を見抜いて藩に招き、軍備の近代化をいちはやく進めました。 -
天守閣を出て、来たのとは違う方向へと歩きました。
郷土館のそばに、穂積陳重・八束兄弟の生家長屋門がありました。
穂積氏は宇和島伊達家が分家する以前からの伊達家臣ですから、もともと仙台にゆかりがあるのかも知れません。
代々頭脳明晰な人物を輩出し、祖父の重麿と父の重樹は国学者、陳重は枢密院議長まで務めた法学者、その長男の重遠は東宮侍従長、八束は天皇主権説を唱えた憲法学者です。 -
城の南側に位置する上り立ち門から出ました。
上り立ち門は、天守閣とともに江戸時代から現存する建物です。 -
上り立ち門のそばに、児島惟謙の像が立っています。
児島惟謙は宇和島出身の司法官で、警察官の津田三蔵がロシア帝国皇太子のニコライを斬りつけた「大津事件」で司法権の独立を守りました。
政府要人が報復を恐れて津田の極刑を強く求めたのに対し、児島は大審院長として政治の干渉に屈することのないよう、判事たちを説得したのでした。
津田は法律に基づき、無期刑に処せられたのでした。児島惟謙銅像 名所・史跡
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上り立ち門からすぐの所に、南豫護国神社が鎮座しています。
南豫とは伊予(伊豫)の南という意味で、愛媛県内の南部出身の御英霊をお祀りしています。 -
神職は常駐していませんが、境内はしっかり管理されている様子でした。
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駐車場へ戻る途中、丸之内和霊神社を参拝しました。
祀られているのは山家公頼公。
初代藩主秀宗公の時の家老です。
この家老一家は、ある事件によって殺されてしまいました。
山家の屋敷があった場所に明治時代に創建されたのが、丸之内和霊神社です。山家公頼の邸宅跡 名所・史跡
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最も幼くして殺されたのが、公頼公の四男、山家美濃でした。
美濃が投げ落とされた井戸は、社殿の後ろに今も残されています。 -
駐車場に戻り、車を走らせて和霊神社に向かいました。
丸之内和霊神社の本社に当たり、山家公頼公と、ともに殺された6名の御魂を祀っています。
人を神として祀る神社は各地にありますが、家老という身分でここまで規模の大きな神社は見たことがありません。
なぜ山家公頼公は、それほどまでに宇和島の人々に愛されたのでしょうか。和霊神社 寺・神社・教会
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山家公頼公は、伊達氏が宇和島に分家を立てる際、政宗公が最も信頼する家臣として秀宗公につけた人物でした。
宇和島藩は伊達氏がお国入りするまで藩主が頻繁に交代していたため、財政が不健全で、領民は疲弊していました。
秀宗公の宇和島藩も財政は非常に苦しく、本家の仙台藩から借金をして藩の運営を行っていました。
公頼公はその借金を返済しつつ、年貢の割合を抑えるなどして領民の生活の向上に努めたのでした。
しかし公頼公の手法が気に食わない家臣もおりました。
桜田元親は公頼公とともに大阪城の石垣工事に携わった人物でしたが、自らの不正を隠すために公頼公を讒訴し、宇和島に戻った公頼公を家族・親戚もろとも襲撃させたのでした。
襲撃の首謀者である桜田元親はお咎めなしであったことから、実は秀宗公もこの襲撃事件に絡んでいた疑いがあります。 -
殺されたのは公頼公・次男治郎・三男丹治・四男美濃の父子、塩谷内匠・帯刀・勘太郎の娘婿一家の計7名でした。
その後、首謀者の桜田元親は変死し、秀宗公の息子たちも幼くして次々に世を去りました。
それらが公頼公の祟りによって引き起こされていると思った秀宗公は、和霊神社を創建して公頼公の御魂を慰めることにしたのでした。 -
次に卯の町に向かいました。
卯之町には古い街並みが残っています。
当たり前のことですが、そんな風景の中で日常生活を送っている方たちがおります。
朝食も昼食もとっておらず空腹を感じていたところ、地物のご婦人がによる手作りの「おすし」が売られていました。
こちらで言うちらし寿司のことで、甘く煮た具と酢飯の味がとても良く合っていました。 -
そんな卯之町でのお目当ては高野長英の隠れ家。
長英は罪人の身でありながら伊達宗城公によって「伊東瑞渓」の名で召し抱えられていましたが、いよいよその正体が幕府に露見しそうになったため、同じシーボルト門下の二宮敬作によって、自宅裏の離れの2階に匿われたのでした。
それがこの場所です。
二宮敬作はシーボルト門下生の中でも特に才能抜群で、しかも義を重んじる人物でした。
シーボルト事件の際は幕府の役人によって激しい拷問を受けましたが、決して師を危険にさらすような言葉は吐きませんでした。
長英は牢から逃げた罪人なので、匿う者も死罪は免れません。
しかし長英をなんとか生かしたいという一心で、ここに隠れ家を用意したのでした。高野長英の隠家 名所・史跡
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卯之町には明治5年に建てられた四国最古の小学校、開明学校があります。
現在の建物は明治15年に新築されたもので、擬洋風のモダンな姿をしています。
開明学校が建てられた背景には、二宮敬作という大学者の存在がありましたが、その二宮の墓は開明学校の裏にあります。開明学校 名所・史跡
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もとは6つの教室がありましたが、現在は1つの教室がほぼ当時のまま残され、残りの部分は展示スペースとなっています。
明治16年の第1期生は、男子62名・女子53名でした。
その後明治44年には、全校生徒数は439名にまで増えています。
教師は6名から8名で、校長も担任を受け持っていました。
小さな学校ですが、ほほえましい教育の風景があったものと想像されます。 -
この貴重な文化遺産を利用し、開明学校では年1回、小学校3年生から6年生を対象に「遊べや学べ明治の学校」という行事を行っています。
かすりの着物・わら草履といういでたちで、読み書き・算術・修身・手工・唱歌など明治時代の授業を体験し、竹の皮に包まれた麦ごはんのおにぎりを食べるというものです。
今年平成27年で、この行事は14回目となります。
自分が小学生だったら、ぜひ参加してみたい。
こういう試みが、これから全国に広がることを期待します。 -
次に大洲へと向かいました。
大洲には復元された大洲城があります。
復元天守も立派ですが、石垣が必見であると聞いていたので、行ってみることにしました。
大洲城は初め、鎌倉時代末期に伊予宇都宮氏によって築かれました。
宇都宮氏の支族は筑後や豊前も支配しており、豊後水道を挟んで分布していたことが分かります。
豊前宇都宮氏が黒田官兵衛によって滅ぼされたことへは、大分を訪れた時に関連史跡を巡って思いを馳せました。
伊予宇都宮氏は戦国時代に毛利氏に滅ぼされ、大洲城はその後何人も城主を変え、文禄4年に入城した藤堂高虎公によって近世城郭として整備されました。大洲城 名所・史跡
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関ヶ原の戦い後、脇坂安治公が5万3500石を与えられて入城しました。
それまで地名は「大津」でしたが、安治公はその前の居城であった州本から天守を移築したため、「大洲」に改めたのではないかと考えられています。
脇坂安治公の次に入封したのが加藤貞泰公で、加藤氏による支配は幕末まで続きました。
明治維新後も天守閣は残りましたが、老朽化によって明治21年に解体。
しかし住民による復元運動の成果により、平成16年に復元されました。
よくあるコンクリート造りの模擬天守ではなく、江戸時代の資料や明治時代の写真などをもとに正確に再現された真の復元天守です。 -
本丸には乃木大将による日露戦争の戦勝記念碑がありました。
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中江藤樹の像を発見。
中江藤樹は近江の出身ですが、9歳の時に米子に住む祖父母に引き取られ、10歳の時に藩主加藤貞泰公が米子から大洲へ国替えとなったために、祖父母とともに大洲に移住したのでした。
祖父母が世を去り、藤樹は15歳で藩士となりました。
大洲では独学で四書五経を修め、徐々に勉強仲間も増えましたが、近江で一人で暮らす母が老いるについれて心配になり、大洲に引き取ろうとしました。
母は住み慣れた近江を離れることを拒んだため、藤樹は意を決して藩に辞職願を提出しました。
しかし藤樹の辞職願は受理されず、藩からはその後何の返答もなかったため、藤樹はついに脱藩という道を選んで近江の母のもとへ帰ったのでした。 -
大洲にも古い街並みが残っていますが、残念なのは石垣を見上げられる最も景色がよい場所に、市民会館の無粋で巨大な建物がふんぞり返っていることです。
これにはかの司馬遼太郎氏も憤激していました。
司馬遼太郎氏の歴史小説は、彼の主観がかなり入り込んでいるため、人によっては「司馬史観」などと言って貶す者もあります。
私も乃木大将に対する評価はその最たるものだと思っていました。
しかし彼は、美しい日本の景観が失われて行くことに対し、誰よりも心を痛め、批判調にならぬよう配慮しながら警鐘を鳴らし続けて来ました。
冷静に考えれば、司馬遼太郎氏こそが本当の意味での保守思想家であったと思います。 -
次に臥龍山荘を目指したところ、近隣に大洲神社が鎮座していることが分かったので、まずそちらを参拝することにしました。
御創建は宇都宮氏の頃にさかのぼり、鎌倉時代の元弘元年に宇都宮豊房公が大洲城を築いた際、城内の総鎮守として父祖の地である下野国から二荒山神社の御祭神を勧請して祭祀を始めたのでした。
現在のご祭神は大国主命と事代主命です。大洲神社 寺・神社・教会
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参拝を終え、改めて臥龍山荘へ向かいました。
大洲神社の裏参道を下って行った先、肱川のほとりにあります。
臥龍山荘は3代目大洲藩主の加藤泰恒公が「臥龍」と讃えた景勝地に、明治時代の貿易商、河内寅次郎が10年の歳月をかけて築いた山荘です。
ピタリと合わさって重なる石積みは、仕事の丁寧さを物語っています。臥龍山荘庭園 名所・史跡
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石積みの上に建てられているのが臥龍院。
桂離宮や修学院離宮、梨本宮御常御殿などを参考に、構想10年・工期4年をかけて建築されました。
一部の床に、一枚板の仙台松が用いられています。
何人かの職員が常駐しているものの、見学者への対応は雑で、質問をしても「録音のテープを聞いてください」と言われました。
建物が素敵でも、それを支える職員の気持ちが入っていなければ、地域の誇りとはなり得ないのではないかと思います。 -
庭園にあった石灯籠に、珍しい苔が生えていました。
それは、まるで灯籠の地肌が見えているのかと思えるような白くなっている部分で、非常に成長が遅い「ぼたん苔」という種類なのだそうです。 -
かつて浴室だった知止庵は、昭和24年に茶室に改良されました。
知止とは中江藤樹の言葉で、「止まるところを知らない人は不幸になる。止まるを知る人生を歩むように」との意味が込められています。
陽明学より道教の教理に近い言葉のように思えます。 -
不老庵は京都の清水寺のように、舞台造りの建物です。
こちらでも2間幅の仙台松の一枚板が用いられています。 -
山荘の見学を終えて肱川まで下り、外側から不老庵を望むことにしました。
しかし木々が生い茂っているため、その一部しか見えませんでした。
1日目の目的地は、これで全て訪れることができました。
宿泊地の松山まで、高速道路を使って戻りました。 -
1日目は南予へ行ったので、2日目は東予を目指すことにしました。
最初の目的地は石鎚神社。
四国における山岳信仰の中心地で、石鎚山を神体山とします。
ナビに目的地を設定し、指示通りに松山市内から走ること約1時間半。
感覚的に登り坂をしばらく走った気がするので、かなり標高が高い場所のはずです。
目的地周辺に到着したと案内が流れましたが、石鎚神社の場所を示す看板などはどこにも出ていません。
目に入ったのは、ロープウェイ乗り場の案内看板でした。
まさかと思って近くの売店で尋ねてみると、ここは石鎚山登山道の入口に当たる場所なのだそうです。
確認が甘かったため、石鎚神社の本社ではなく、中腹の成就社を目的地に設定していたのでした。
2日目はスタートから予定が狂ってしまったのです。
売店のご主人は、ロープウェイの先にある成就社は神秘的なので、ぜひ参拝するとよいと勧めてくれます。
ロープウェイの運行時間は20分に1本で、極端に少ないわけではありません。
それに、こうして目的地を間違えたのも何かの縁。
どうせ狂った予定なら、悪あがきせずに流れにまかせてみようと、ロープウェイ乗り場へ向かったのでした。石鎚登山ロープウェイ 乗り物
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石鎚山のロープウェイは1800メートルを超す距離を持つロープウェイで、山麓と山頂の駅の間を約8分かけて運行しています。
乗客は往復とも自分一人でした。 -
雲が厚いため、遠くまで見渡すことができません。
山麓駅では雨は降っていませんでしたが、山頂駅からは傘をさして歩くことになりました。 -
山頂駅とは言っても、本当の山頂はまだまだ先です。
とりあえず目指す成就社まで、修験道らしい神仏混合の施設が数多く見られます。 -
少し登ると、四国八十八ヶ所霊場64番札所、前神寺の奥ノ院に辿り着きます。
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さらに15分ほど進むと、ようやく成就社の鳥居が見えてきました。
修験道の開祖、役行者は石鎚山の山頂を目指して山道を歩きましたが、どうしても山頂へ辿りつくことができませんでした。
あきらめて下山しようとした時、この場所で一人の白髪の老人に出会いました。
その老人は斧を研いでいました。
なぜ斧を研いでいるのか尋ねてみると、老人は「この斧を針にするために研いでいるのだ」と答えました。
その言葉から、継続によって必ず道が開けることを悟った役行者は、再び山頂を目指して歩き始め、ついに登ることができたのでした。
この老人こそが、石鎚神社の御祭神である石土毘古命だったのです。成就社 寺・神社・教会
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麓の売店のご主人は神秘的だと形容しましたが、境内はごく普通の神社と変わりありませんでした。
霧がなく見晴らしが良ければ、すぐ目の前に石鎚山が迫って見えるのでしょう。
石鎚神社の正式な参拝方法は、二礼二拍手心中祈念二拍手二礼です。 -
石鎚山を開いた役行者が、下山の折に山頂を振り返って眺めたという「見返遥拝殿」からも、残念ながら山の姿は見えませんでした。
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山頂へ続く登山道の入り口には、神門が建っています。
山頂までは約90分の登山道が続いています。
石鎚山は、最初一人で訪れたら、次は友を連れて二人で訪れるべしと言われているそうです。
晴れ男か晴れ女の友達を連れ、いつか再び訪れたいと思います。 -
大幅に予定が狂ってしまいましたが、気を取り直して石鎚神社の本社に向かいます。
その前に、通り道にある伊曽乃神社を参拝。
ここでもまた雨が降り出しましたが、伊曽乃神社は雨がよく似合う神社だと感じました。
愛媛県に鎮座する官国幣社は、伊豫国一之宮の大山祇神社と、ここ伊曽乃神社(国幣中社)の2社のみです。
格の高い神社にふさわしい、広大な境内を有しています。
神門の前には、樹齢1000年近い大楠が生き生きと茂っています。 -
伊曽乃神社の御創建は成務天皇7年。
第12代景行天皇の皇子である武国凝別命が伊予の国土開発のために定住した際、天照大御神の分霊を祀ったのが始まりとされます。
その後、武国凝別命も合祀されて現在に至ります。 -
イチオシ
社殿は重厚な神明造です。
伊勢神宮と同じ様式ですが、伊勢神宮と違って石垣の上に建てられています。
現在の社殿は江戸時代の再建で、それ以前は入蜻蛉造という珍しい様式でした。 -
拝殿の前に木花開耶姫命の金の像。
火山を司る神であり、摂社古茂理神社の御祭神でもあります。 -
そして、本来最初に訪れるはずだった石鎚神社に向かいました。
伊曽乃神社からさほど離れていません。
天保2年に建てられた神門の前で、備前焼の狛犬が境内を守護しています。
神門の中には、2体の天狗像が安置されています。石鎚神社 寺・神社・教会
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参道の石段の上には、斎藤實の揮毫による石柱が立っています。
特徴のある文字なのですぐに分かります。
「威烈輝千載 徳澤溢四海」と読めます。 -
それほど多くはないですが、石段が続きます。
石段には手すりのかわりに鎖が設置されています。
これは石鎚山の登山道に設けられた3ヶ所の鉄鎖のうち、どれかを交換した際に再利用したものでしょう。 -
拝殿・本殿は平成の大改修のため工事中でした。
工事は今年の10月に終了する予定で、10月5日に奉祝大祭が行われます。
工事中のため、拝殿に昇殿して参拝させていただくことができました。 -
修験者が修行を行う禊場の水は、竜の口から吐き出されていました。
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愛媛県の突端、瀬戸内海に向かって突き出ている半島を経由して松山に帰ることにします。
今治市や松山市北部、西条市北西部を含むこの半島は、高縄半島と呼ぶそうです。
今治と言えばタオル生産地として有名ですが、城好きの自分として今治城を訪れずに帰ることはできません。
都合の良い場所に駐車場があるので、車を停めて城内へ向かいました。今治城 名所・史跡
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海に面した城で、築城当時は海水を引いた3重の堀が本丸を守っていたということです。
日本三大水城の一つに数えられ、「吹揚城」の別名も持っています。 -
石垣と内堀は江戸時代のままに残されています。
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築城したのは藤堂高虎公。
慶長7年に着工し、9年に完成したとされます。
しかし天守閣があったことを示す一次資料は存在せず、天守の存在は意見が分かれています。 -
大洲城の天守が忠実な復元であるのに対し、今治城の天守は鉄筋コンクリート造りの史実にもとづかない模擬天守です。
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模擬天守に隣接して吹揚神社が鎮座しています。
廃藩置県の際に今治市内に鎮座していた4社を合祀し、その後藤堂高虎公と久松定房公を合祀しました。
久松氏は松平家の一門で、定房公は藤堂高虎公にかわって今治藩を治めた伊予今治藩初代藩主です。吹揚神社 寺・神社・教会
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松山市内に帰り、愛媛県護国神社を参拝しました。
この日の雨のピークでした。
相撲場の土俵の近くに車を停めて外へ出ると、傘をさしてもびしょ濡れになるほどの強い雨が降っていました。
愛媛県護国神社には、愛媛県出身の御英霊や公務殉職者の他、松山城初代城主加藤嘉明命、正岡子規命なども祀られています。愛媛縣護國神社 寺・神社・教会
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市街地に入り、秋山兄弟生誕地を訪れました。
ここは専用駐車場はなく、近隣のコインパーキングを利用。
やはり雨が降っていて、復元された生家を早く見学したいと思って歩いたのですが、残念ながら休館日のため立ち入ることができませんでした。
あまり気にしていなかったのですが、今日は月曜日だったのです。
公の施設の多くは月曜が休業日であることは分かっていたのですが、スケジュールを組む時にそこまで考えなかったのは迂闊でした。
仕方がないので敷地の外から見るだけにとどめます。
ひときわ立派な建物は「常盤学舎」です。
秋山兄弟の精神を引き継ぎ、武道の稽古などこ行っています。秋山兄弟生誕地 名所・史跡
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兄の秋山好古は日露戦争において騎兵第一旅団長としてロシア奇兵隊と戦い、見事に撃ち破って日本の戦勝に貢献しました。
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弟の秋山真之は東郷元帥の作戦参謀となり、バルチック艦隊の迎撃作戦が見事に的中して、世界最強と恐れられた艦隊を海に沈めました。
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秋山真之と親友だったのが、歌人の正岡子規です。
子規の住居、子規堂は、正岡家の菩提寺である正宗寺の境内に残されています。子規堂 名所・史跡
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境内には、明治時代に市内を走っていた「坊ちゃん列車」も置かれています。
やはり松山が生んだ偉人、夏目漱石による小説「坊ちゃん」が名前の由来です。 -
子規が松山中学校に進学してから増築された勉強部屋の広さは、なんと3畳。
便利な世の中となった現在とは違い、様々な不便があったと思いますが、そこから発せられるエネルギーは今の日本人には及びもつかないものだったことでしょう。 -
6畳の居間。
質素ではありますが、様々な俳句の発想が浮かんで来たことでしょう。 -
ホテルに駐車場に車を入れて、最後の目的地である松山城までは徒歩で移動しました。
雨が降って、空には厚い雲が垂れ込めています。
すでに夕方になっているので、城の内部を見学できるかどうかは微妙なところですが、せめて外見だけでもしっかり自分の眼で見ておきたい。
そう思って、松山城天守閣へと続くロープウェイ乗り場を目指しました。
乗り場の前には、初代城主の加藤嘉明公の騎馬像。
豊臣秀吉公の子飼いで、賤ヶ岳七本槍の一人。
朝鮮征伐にも加わり、秀吉公の死後は武断派に属して石田三成ら文治派と対立。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、伊予で20万石の大名になったのでした。 -
ロープウェイは営業時間が終わりに近づいているとのことで、帰りの便には乗れないと説明されました。
帰りは徒歩で山を下ることになりそうです。
ロープウェイに乗ったのは、自分を含めてたった3人だけでした。
その運行中、自分の人生を大きく変える電話がかかって来ました。
記念としてここに書き留めておきます。 -
ロープウェイを長者ヶ平で降り、天守閣目指してしばらく歩きました。
途中、車道を整備中の場所を見てしまいました。
石垣を現状維持しているとは言え、いくらなんでもこの開発はひどすぎる。
もちろん身障者への配慮は必要ですが、これはただ利便性だけを求めた破壊行為に過ぎません。 -
その先に見える石垣と櫓。
霧の中に浮かんでいる様子は幻想的です。松山城 名所・史跡
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隠門は築城当時のままに残されています。
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イチオシ
ようやく天守が見える位置に到着するも、すでに登場受付時間は過ぎていました。
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帰りは徒歩。
途中、天照大御神と松山藩の藩主を祀る東雲神社を参拝。東雲神社 寺・神社・教会
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松山での最後の夜は、郷土料理を味わうことにしました。
地元では誰もが知る五志喜は、ホテルから徒歩15分ほどの場所にあります。
実は前日にも店を訪れたのですが、日曜の夜だったからか、満席で料理にありつけませんでした。
その反省もふまえ少し早目の時間に見せに入ると、まだ席に余裕がありました。郷土料理 五志喜 本店 グルメ・レストラン
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最初にどぶろくを注文しました。
その名は「なっそ」
標準語にすると「なぜ?」という言葉で、「なぜそんなに美味しいの?」という意味がこめられています。
量的に物足りない気分ですが、味は良かったです。 -
ご飯が食べたかったので、みかん寿司を注文しました。
確かにみかんの香りがします。 -
そして最後に鯛そうめん。
五志喜の店の名前の由来ともなっている五色そうめんです。
白は小麦、赤は梅、緑は抹茶、黄は卵、茶はそばで色づけされています。
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