2015/05/21 - 2015/05/22
4位(同エリア9495件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記367冊
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- 3,057,930アクセス
- フォロワー141人
1930(昭和5)年に開園した山下公園は、関東大震災で生じた焼け土や瓦礫を埋め立ててできています。この地下に震災の瓦礫が埋まっているとは、カップルや家族連れが愉しそうに歩く風景からは全く想像できません。
開園後、1935年の復興記念横浜大博覧会の開催や1945~59年の米軍接収などを経て、1961年に再整備が完了、同年には氷川丸も係留され、現在と同じような景観が整いました。
公園と言ってもブランコやすべり台などの遊具はなく、一般的な海浜公園のようにバーベキューを楽しめるわけでもありません。遊具の代わりに、園内には様々な記念碑が建てられています。有名な「赤い靴はいてた女の子像」だけでなく、「かもめの水兵さんの歌碑」や「日米友好ガールスカウト像」、西洋理髪発祥の記念彫刻「ザンギリ」なんていうユニークなものまでバラエティーに富んでいます。
また、世界各国の都市と交流している横浜ならではの珍しいモニュメントとして、サンディエゴ市から贈られた噴水「水の守護神」や在日インド人協会から寄贈された「インド水塔」などがあり見逃せません。
更に、四季折々の花を咲かせる花壇や海の生物をモチーフにした「水の階段」も見所です。この時期には、バラが咲き誇っています。
山下公園の簡単なイラストマップです。
http://works-land.com/file009.html
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 徒歩
PR
-
横浜人形の家
「海の見える丘公園」からペデストリアン・デッキ(フランス橋、ポーリン橋)を渡って人形の家の正面入口に回りこみます。
人形の家では、世界140か国以上、1万3千体以上の民族人形と郷土人形を収蔵しています。「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」をコンセプトに展開し、貴重な御所人形や人間国宝の作品、ビスクドール人形からスピリチュアルな人形、おめでたい人形まで様々な人形を展示しています。
その他、企画展示室、人形劇などを行う「あかいくつ劇場」があり、ショップやカフェは入館者以外でも利用することができます。
尚、この人形の家は、元々1923(大正12)年の関東大震災によって倒壊した「横浜グランドホテル」があった場所に建てられています。現在の「横浜ニューグランドホテル」の名はこのホテルの名前に因んだものです。 -
人形の家 青い目の人形像
「青い目の人形」のブロンズ像です。人形のブロンズ像とは奇妙ですが、ふくよかな頬に愛らしい顔、この人形が愛されて歩んできた時を思えば、それもまた不思議ではありません。
傍らの説明書には次のように記されています。
「昭和3年の春、ひな祭りにあわせて、日米親善と平和を願う米国市民の思いをこめた13000体の青い目の人形が、はるばる太平洋の波濤をこえて横浜の港に着きました。「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に贈られ、友好促進に尽くしました。
この人形彫刻のモデル「ポリーン」ちゃんは、そのなかの一体で、今も横浜市西区の西前小学校に大切に保存されています」。
このブロンズ像の制作者は不詳のようです。
ポーリン橋(歩道橋)は、この人形の名前が由来なのでしょう。 -
人形の家 楽隊の像
入口では、楽隊がお出迎えです。
「太鼓をたたく像」と「アコーディオンを演奏する像」、「ホルンを吹く像」の3体のブロンズ像は、人形の家所蔵のスイスの民族人形をモデルに制作されたものです。
「太鼓をたたく像」と「アコーディオンを演奏する像」の2体は、1986年に横浜人形の家の開館時に制作され、もう1体の「ホルンを吹く像」はその翌年にに横浜ロータリークラブから寄贈を受けたものです。
意外なことに3体共に作者不詳だそうです。 -
山下公園 水の階段
最上部にあるギリシア神殿風の遺構を彷彿とさせる「せかいの広場」から「水の階段」が続いています。ここには沢山の海に棲む生物をモチーフにしたオブジェが見られます。それを見て回るだけでも愉しめます。
横浜の歴史は室町時代の1442年の文献に『横浜村』として記されていたのが初出とされ、諸説ありますが、「横」に長くのびた砂州から「浜」で『横浜』になったとする説が有力です。この横浜村があった辺りは、半島状に突き出た「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれる砂州でした。この宗閑嶋は「洲干嶋」とも書かれ、読んで字のごとく干上がった土地を表現しています。そして、この「浜」が陸地から野毛方面に向かい、まるで入海を閉ざすかのように「横」方向に突き出していました。この場所が、現在の中区本町通りに当たります。つまり、山下公園の辺りが、かつての州浜と言えます。みなとみらい地区や八景島が埋立地であることは有名ですが、実は現在の横浜の中心地域も人工的に作られた土地だったのです。
横浜は海のイメージが強いのですが、実際は山も多い地形です。室町時代も同様で、海岸線の近くまで山が迫り、平地は少なく孤立した寒村地帯だったそうです。住人たちは半農半漁で貧しく暮らし、砂地ゆえ畑でしたが、平地が少ない上に灌漑整備も発達しておらず生産性は低かったそうです。後にペリーと共に村を訪れた宣教師ウィリアムズは、日記に「あまり繁栄しているようには見えない。悪臭が漂っている」とジャーナリスティックに「ショボイ村」であることを記しているほどです。
そんな横浜村でしたが、幸い海に囲まれて漁業や塩づくりが盛んに行われ、横浜市立大学刊『横浜いま/むかし』には、海の幸の中でもナマコが貴重な財源であったと記されています。往時の幕府は対中貿易の目玉として中華料理に欠かせないナマコを取り扱い、19世紀初期にはお上から「どんどんナマコを捕ってこい」とのお達しがあり、ナマコ採りは村の一大産業となり、横浜も発展しました。 -
山下公園 水の階段
その後の1853年、米国ペリー提督が4隻の船を率いて浦賀に来航し、開港を迫りました。 横浜開港のきっかけとなったのがこの日米修好通商条約でしたが、実は初期の開港予定地は神奈川だったそうです。 しかし、東海道沿いにある神奈川を開港すると、外国人との間にトラブルが発生する恐れが多分にあったため、急遽横浜に変更され、そして1859年に開港に至りました。
米国に開港されると同様の条約を締結したオランダやロシア、イギリス、フランスの5ヵ国との交流も始まり、次第に貿易港としての姿を整えていきました。また、1868年までにポルトガルやプロシァ、ベルギー、スイス、イタリア、デンマークといった国々とも通商条約を結び、様々な国の人々と交流を深めていきました。開港後、初めに現在の山下町に山下居留地が完成し、その後横浜居留地や山手居留地などが幕府により造成されていきました。 -
横浜マリンタワー
横浜マリンタワーは1961(昭和36)年に横浜開港100周年記念行事の一環として建設され、灯台を意識したデザインとなっています。因みに、神戸ポートタワー竣工の2年前になります。タワーの全長は106m、展望階の高さは94mあります。
2009年、横浜開港150周年の際にリニューアルオープンし、タワーの外観色はかつての紅白からシルバー&ブラウンオリーブとシックに生まれ変わりました。また、桂由美さん主宰の「恋人の聖地」にも認定され、街のランドマークとして地域に根付いているようです。 -
横浜マリンタワー
吹き抜けの全面ガラスが、真下から見上げる姿をより美しく感じさせます。遠景ではエレガントな姿でしたが、近くで見ると無骨で力強ささえ感じさせ、別の美しさを秘めています。
タワーといえば東京タワーを代表に角張ったものが大半を占めていたのですが、横浜マリンタワーは10角形をしており、どの角度から眺めても同じ姿に見えるようになっています。
往時の横浜マリンタワーの最大の特徴は、展望フロアの上の塔頂部分に実際に灯台としての機能を持っていたことです。以前は「世界一高い灯台」としてギネスブックにも記載されていました。 -
横浜マリンタワー モザイクタイル壁画
あまり知られていないようですが、1階のギャラリーホールには、放浪の天才画家 山下清画伯のモザイクタイル壁画があります。実際の絵を基に制作された力作です。
タイトルは「横浜の今昔」で、2枚組です。「今」が1961年当時、「昔」は開港当時の150年前がモチーフです。縦7m、横5mのこの壁画は、25万個の色ガラスが嵌め込まれており、タイル製のものより格段に鮮やかな色彩で表現されています。
「昔」には、横浜の開港期を思わせる港沿いの町並みと山手の風景、湾内には西洋の帆船と小型の和船が浮かび、夜空一面には山下画伯が大好きだった花火が大迫力で描かれています。 -
横浜マリンタワー モザイクタイル壁画
「今」には、1961年当時の横浜の街が描かれ、海側から見た大桟橋を中心に、接岸する大型船や桟橋を歩く人々、ビルの上に広がる空には雲の間にアドバルーンと飛行機など伸びやかな横浜の風景が広がり、町に活気が溢れている様子が見て取れます。
エントランスホールを飾るに相応しい、迫力のある存在感に満ちた大壁画です。 -
横浜マリンタワー モザイクタイル壁画
隅には、原画となった山下清画伯のモザイク製サインも見られます。
間近で鑑賞するなら1階、全体写真を撮るなら2階がお勧めです。 -
横浜マリンタワー モザイクタイル壁画
あまり知られていないようですが、壁画には他にも隠し文字が見られます。
赤い車の上に、黄色のタイルで書かれた「AMANO」や「IZUMI」、「TY」などの文字が読めるでしょうか?これらは、当時壁画制作に参加したアルバイトの横浜国大の学生さんたちが、著名な画家の作品であることや一生懸命やった記念として自分たちの名前をこっそり埋め込んだものだそうです。
現在は70才代と思われる彼らの「若気の至り」と言うか、企業も人も元気だった60年代の日本の息吹が、若者の茶目っ気と共に壁画にひっそりと残されています。
こうしたほのぼのとするエピソードも横浜の歴史の一駒と言えます。 -
横浜マリンタワー 回転灯器
1階ギャラリーホールには、かつてこのタワーに灯台機能があった証しとして『90糎(センチメートル)回轉灯器』が保存展示されています。10秒毎に紅と緑の閃光を発し、空気の澄んだ日には36km先までその光が届いたと記録されています。
近年、無線やレーダーなどの航行支援装置が発達したことなどからマリンタワーに灯台があることの意義は薄れ、すでにその役目は終えたとの判断からリニューアルの際に取り外されました。 -
横浜マリンタワー 横山剣氏の胸像
2階マリンタワーショップ横には、横浜マリンタワー名誉館長であり「クレイジーケンバンド」員でもある、横山剣氏の胸像が展示されています。元々は、マリンタワーの向かいにあるバーニーズニューヨーク横浜店のウィンドウに飾られていたものだそうです。とても精巧で魅力的なオブジェです。
よく見ると小さな「ヨコワケハンサム」がいっぱいいます。写真をクリックして拡大すると判りやすいと思います。 -
横浜マリンタワー 横山剣氏の胸像
こちらは横顔です。 -
横浜マリンタワー
1階にあるカフェ&イタリアンレストラン「THE BUND(ざ・ばんど)」の純白の巨大なシャンデリアです。
夜にはシャンデリアの灯りが煌々と輝き、デートに最適なシチュエーションに変わります。 -
ホテルニューグランド
山下公園前にノスタルジックな佇まいを見せるホテルニューグランドは、昨年創業88周年を迎えた日本4大クラシックホテルのひとつです。
関東大震災で一面瓦礫と化した横浜の復興のシンボルとして建設された瀟洒なホテルと言うことで、シンボルマークがフェニックスの、言わば「ハマの迎賓館」です。英王室、喜劇王チャールズ・チャップリン氏、ベーブ・ルース氏、作家 大佛次郎氏、昭和のスーパースター石原裕次郎氏、松田優作氏など錚々たる著名人が滞在し、数々のエピソードを残しています。マッカーサー元帥が新婚旅行で宿泊した思い出のホテルでもあり、コーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立ったその足でここへ直行したと伝えられています。 -
ホテルニューグランド
1階にあるカフェでは、オフコースのレコード『めぐる季節』のジャケット写真が撮影されました。また、TVドラマ『華麗なる一族』や『南極大陸』のロケ地ともなった、まさしく「画」になるホテルです。また、ミュージシャンにも愛され、矢沢永吉やサザンオールスターズなどがホテルのカフェやバーを歌にしています。
1927(昭和2)年の創業から第二次世界大戦中、戦後、さらに21世紀と移りゆくそれぞれの時代において、文明開化の街 横浜ならではのハイカラでユニークな文化を発信し続けています。横浜市の歴史的建造物、経産省の近代化産業遺産に認定されています。 -
ホテルニューグランド
ネオ・ルネッサンス様式の外壁上部には、その完成年を記したレリーフが燦然と輝いています。全体がどことなく「フェニックス」のデフォルメのように思えます。
震災後、有吉忠一 横浜市長が横浜商工会議所や地元財界に働きかけ、横浜復興のシンボルとして誕生させました。地上5階建、2階にロビーがある造りは往時でも珍しいものでした。設計者は、銀座を象徴する和光(旧服部時計店)や東京国立博物館(本館)で名高い渡辺仁氏。新進気鋭の38歳の作品でした。建築設計書には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」と記されています。古典主義にアール・デコを加味した近世復興式の建築です。
落成レセプションには各国大使をはじめ3000人が集まりました。これは単に新しいホテルの開業を祝う意味合いだけでなく、横浜の復興と新しい歴史の幕開けに対する一大セレブレーションでもあったことでしょう。 -
ホテルニューグランド ザ・カフェ
スパゲッティの本場イタリアにはなくて、日本にしかないスパゲッティといえばナポリタン。このナポリタンを日本で初めて考案したのは、サリー・ワイル氏の愛弟子だった2代目総料理長 入江茂忠氏です。当時と変わらないレシピのナポリタンは、本館1階の「ザ・カフェ」の人気メニューです。
因みに、プリン・ア・ラ・モードやドリアの発祥の地でもあります。 -
ホテルニューグランド
華々しい開業からわずか10数年で第二次世界大戦が勃発。終戦後の7年間、ホテルは連合軍に接収されました。連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが滞在した315号室は、正式名を「マッカーサーズ・スイート」、俗称「勝利の間」と呼ばれ、彼が実際に使ったライティングデスクや椅子は現在も大切に保存されているそうです。接収という暗いイメージとは裏腹に、米国人から従業員に伝えられた西洋式の流儀やノウハウは、その後のニューグランドの進化への一助となったそうです。 -
ホテルニューグランド 大階段
山下公園に面した本館入口の回転扉を開くと、外界の喧騒がフェードアウトされ、重厚かつ落ち着きを湛えた劇的な歴史空間へと迷い込みます。目の前に広がるのは、別世界へと誘う伝統のニューグランド・ブルーの絨毯を敷き詰めた大階段です。「シンデレラが靴を落とした階段のような」と形容した方が判り易いかもしれません。
この大階段はホテルのシンボル的存在であり、新郎新婦の記念撮影の他、様々な映像作品の舞台にもなっています。天井高のある2階ロビーへと続く階段は、クラシックな風格を湛え、手摺りなどに使われているタイルは開業当時にイタリアから取り寄せたスクラッチタイルだそうです。 -
ホテルニューグランド 大階段
格調の高さゆえ、ホテルを利用しない場合は足を踏み入れるのに気後れする方も多いのではないでしょうか?しかし、本館は2階の階段部分までロビー扱いで、一般の方も出入りできます。
階段を上ったロビーの先は、バンケットルーム(宴会場)に通じています。
エレベータホールの上のアーチに彫られた模様は、極楽浄土に咲く幻の花「宝相華」をモチーフにしたもののように思います。また、クラシカルな時計は火焔宝珠に包まれており、和のテイストに満ちています。 -
ホテルニューグランド 大階段
こうした造りをイタリア・ルネサンスの建築様式で「ピアノ・ノビ―レ」(高貴な階)と呼ぶそうです。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
エレベータ上部にある「天女奏楽之図」は、帝室技芸員 川島甚兵衛氏(川島織物)によるタペストリーです。1991年、駐車場があった隣の敷地に新館(ニューグランドタワー)を建設した際に実施された大改装で、製造元である川島織物(現:川島織物セルコン)の修復により、かつての美しさを蘇らせています。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
外観のネオ・ルネッサンス様式とは打って変わって、2階ロビーは東洋的なムードに包まれた癒しの空間になっています。これは外国人専用ホテルとして建てられたための趣向で、来日した外国人が「エキゾティックなオリエンタルムード」を満喫できるようにとの演出です。完全な純和風としていないのは、往時の航路の寄港地がインド〜東南アジアだったことを配慮したもので、寄港地の雰囲気と日本の情景をできるだけ近づけて違和感を持たせない意図もあったそうです。
これぞ、日本伝統の「おもてなし」の精神です。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
エレベータ周りの石彫といい、天井部分の漆喰細工といい、和風デザインの基本は奈良時代の寺院建築をモチーフにしているように思えます。
天井から下がる真鍮製の照明器具も、東大寺などで見られる吊り燈籠に似たデザインです。照明の底部には双つ巴の紋があり、そして透かし部分には魔除けの効果があると言われる繊細な麻の葉の模様が入れられ、気付いた者に息を呑ませる細かい仕掛けが窺えます。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
ロビーの右奥は、整然とした灯りが支配する薄暗い空間になっています。ここの柱は全て今では入手できないマホガニー製です。並ぶ調度品のほとんどはホテル開業時からある横浜家具で占められ、主に元町にあった三光家具製作所(富澤市五郎氏)によるものです。富澤氏は「国産西洋家具のはしり」とされる横浜家具の長い歴史の中でも中興の祖とされる人物です。
ネットに掲載された写真では昼間はカーテンが開けられてもう少し明るい雰囲気でしたが、本日はカーテンを閉め切ってプロの商業写真家による撮影が行われているようです。電灯の明かりだけが頼りですが、ISO感度を上げて対応しています。
こうした光景は夜しか見られないので、ありがたく感謝しなくてはなりません。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
柱の上部の蝋燭を模した電灯には琵琶を抱えた弁財天が浮き彫りにされ、まさに洋の東西が融合された空間です。
窓と窓との間には黒光りしたマホガニーの太い柱が規則的に立ち並び、柱に付けられた照明や天井から下がった風情ある照明からは淡い光が放たれています。列柱が森を象徴するゴシック建築の教会の内陣を彷彿とさせます。
クラシカルな調度品や家具は、優雅な雰囲気に包まれ、歴史の重さと気品の高さを感じさせます。
手前にある全体的に丸みを帯びて肘掛け部分までしっかりと布張りされた2脚の椅子が「クイーンチェア」です。撮影の邪魔になるのを憚って近づけませんでした。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー「キングチェア」
ここにある横浜家具の中でも代表的なのが、太いマホガニーの柱を背に2脚置かれている開業当時からのアンティーク椅子「キングチェア」です。一脚で乗用車が1台買えてしまうほどの滅多にお目にかかれない横浜家具の椅子が、ロビーにさりげなく配置されているのは心憎いばかりです。
横浜家具は、西洋風のデザインでありながら、木の接合に釘をほとんど使わない「ほぞ接ぎ」という日本伝統の技を用いています。職人さんが西洋家具の技術や様式を習得し、そこへ彫刻など和の伝統技術や意匠を調和させて誕生させた工芸品です。しかし、横浜家具の多くは震災や戦災で失われ、今では貴重なものとなっているそうです。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー「キングチェア」
肘掛け部分に棲んでいるギリシア神話に登場する天使(ニケ)を模した彫刻は、ここを触ると幸せになるとの都市伝説のおかげで角が取れて鼻ペチャになっています。光沢を湛えたその表情がやさしげに映ります。また、脚部の畳摺りなど、至る所に施された彫琢(エンリッチメント)が美しい優品です。
座ってみたかったのですが、「キングチェア」と知ってか知らずか、カメラマンさんの携帯電話が置かれており、諦めることにしました。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー「ジャックチェア」
背もたれの上部に気品ある牡羊の角の彫刻を持つ椅子が、「ジャックチェア」です。肘掛の先端に彫られた模様は、シュロ(棕櫚)をモチーフにしたデザインのように思えます。西洋建築には、このシュロをデザインした装飾が施されていることが多いようです。
旧約新書のアダムとイヴの話の中には、2本の木が登場します。ひとつは、蛇にそそのかされたイブがその実を食べた「善悪を知る木」。もうひとつが「生命の木」で、それがシュロの木です。
これらの椅子は、キング・クイーン・ジャックの「横浜三搭」に対抗しているような気がします。「エースチェア」なんてのもあるのでしょうか?
因みに、後ろの扉が開いている部屋は、荒井由実さんと松任谷正隆さんの結婚披露宴が行われた「レインボールーム」です。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
大谷石の太い柱が支える装飾の美しい高い天井に目を瞠ります。
左奥にある扉の先が「フェニックスルーム」に通じています。
このホテルが関東大震災復興のシンボルとして建設されたため、公募した名称の最終候補として「フェニックスホテル」という名も挙がっていたこともあり、ホテルの象徴として「フェニックス」のモチーフが随所に起用されています。
なんとなく阪神淡路大震災後の復興する神戸の街を彷彿とさせるエピソードです。神戸大丸では、図らずも「フェニックス」が「孔雀」に化けてしまったのですが…。
こちらが神戸大丸の「孔雀」です。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=38308203 -
ホテルニューグランド 2階フェニックスルーム
一際重厚なフェニックスルームの扉は、内部に鉄を挟んで防火扉の役目も果たしているそうです。
映画『THE有頂天ホテル』に登場した「フェニックスルーム」の他、「レインボールーム」は、いずれも横浜市認定歴史的建造物になっています。
この「フェニックスルーム」が桃山調と呼ばれる神殿風なら、「レインボールーム」はヨーロッパ調の趣となっています。
余談ですが、ユーミンさんが『時のないホテル』を書いたのがこのホテルと言われています。とても印象的な歌詞ですが、そんな詩が浮かんでくる雰囲気はなんとなく判るような気がします。
歌詞を紹介しているサイトです。
http://www.kasi-time.com/item-20165.html
因みに、北川悠仁さんと高島彩さんの披露宴は、ここの「ペリー来航の間」で行われました。
ホテルのHPにある各ルームの写真です。
http://www.hotel-newgrand.co.jp/rainbow/
http://www.hotel-newgrand.co.jp/phoenix/
http://www.hotel-newgrand.co.jp/perry/ -
ホテルニューグランド 2階ロビー
マッカーサー元帥と言えばGHQ最高司令官としての功績が光りますが、マッカーサー愛唱詩でも知られています。
彼が座右の銘として占領軍司令部があった渋谷の執務室に掛けていた、サミエル・ウルマン氏の『青春の詩』です。
この詩は岡田義夫氏によって漢文調に訳され、後に松下幸之助氏の「青春とは、心の若さである…」によって広く世に知られました。さわりの部分だけ紹介いたします。
『青春の詩』
青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春というのだ。 -
ホテルニューグランド 2階ロビー
ロビー側から階段を見下ろすと、階段とエントランスの間の距離がとても狭いのが判ります。 -
山下公園
ホテルニューグランドを後に、再び山下公園へ戻ってきました。
山下公園でもローズガーデンを愉しむことができます。場所は、日本郵船氷川丸の前面にある沈床花壇周辺です。ここには、約60種400株のバラが植えられているそうです。氷川丸をバックに潮風を感じながら、バラを愛でるのも気持ち良いものです。
借景は、贅沢にも日本郵船氷川丸と白灯台です。
このバラは、ラバグルートと言い、1978年にドイツのコルデス社により作出されたものです。黒赤の花色といい、質感といい、ビロードのような感じで高貴さが漂っています。 -
山下公園 サプライズ
1993年にドイツのコルデス社が作出したバラです。
別名「 ゴールド・ホルスタイン」とも言います。その名の通り、花色は鮮やかな目に眩しい濃い黄色です。花弁には少しウェーブがかかり、半八重の平咲き種です。 -
山下公園
サプライズとレッド メイディランドの饗宴です。 -
山下公園 ブルーライト
藤色の優美さと剣弁高芯咲きの端正さが絶妙なバランスで、見る者のハートを捉えて離しません。芳香も気品に溢れ、潤沢です。
伊藤良順氏が1994年にJRC国際ばら新品種コンクールで金賞と芳香賞を受賞したハイブリット・ティー・ローズです。
「ブルーライト」とは、ネーミングも横浜にピッタリですね!
♪ブルーライト横浜〜♪…。年齢がばれそうですが…。 -
山下公園 うらら
1995年に京成バラ園芸が作出した「うらら」です。
花型は丸弁抱え咲きで、花色はショッキングピンクに近く目に鮮やかです。 -
山下公園 日本郵船氷川丸
山下公園前の海上に係留されている大型貨客船です。
かつてはチャップリンも乗船し、1960年まで北太平洋航路で運行していた貨客船です。その美しいフォルムから「北太平洋の女王」と呼ばれていました。
船内を見学(有料)することもでき、1930年竣工当時のアール・デコ様式のインテリアが施され、優雅な船旅の雰囲気に満ちているそうです。
プロムナードデッキからは横浜港の風景を愉しむことができ、2003年に横浜市有形文化財に指定されています。 -
山下公園 水の守護神
1957年、横浜市が米国カリフォルニア州サンディエゴ市と姉妹都市提携を結び、「友好の鐘」と「茶室」を贈ったその返礼として1960年に贈られた、ドナルド・ホード氏制作の「水の守護神」像です。サンディエゴ市庁舎にも同じものがあるそうです。
因みに、姉妹都市が提携されたきっかけは、1955年にサンディエゴ市在住の日系市民の要望に応え、横浜市から「雪見灯籠」を寄贈したことが始まりです。同年に横浜で開催された日米市長会議に出席したサンディエゴ市長から申し入れがあり、2年後に両市の姉妹都市がなされました。 -
山下公園 水の守護神
守護神像の周りの噴水の演出は「サンディエゴ友好の泉(2008年)」です。サンディエゴ市との姉妹都市提携50周年を記念して設置され、何とも神々しい演出となっています。それにしてもこの噴水はものすごい勢いです。エンディングでは像が完全に隠れてしまうほどです。
水の守護神像を取り囲むように4基のミッションベルが設置されています。このうち海側の2基は姉妹都市25周年を記念して、陸側の2基は同じく50周年を記念して「美わしのサンディエゴ」の歌碑と共に設置されたものです。 -
山下公園
「花菖蒲」、「あやめ」、「かきつばた」を見分けるのは、なかなかと難しいものです。いずれもアヤメ科アヤメ属であり、とてもよく似ていて見分け難いのは確かです。
結論を言えば、花弁の根元のところに「黄色い目の形の模様」があるので花菖蒲と思われます。
花菖蒲の花期は、5月下旬〜6月下旬です。花菖蒲は江戸時代の中頃より、各地に自生するノハナショウブの変わり咲きを基に改良され発達してきた、日本が世界に誇れる伝統園芸植物です。ですから種類も半端なく多いそうです。
花菖蒲と言うと池や沼地を思い浮かべますが、このような港でも逞しく生育していることにある意味野性味を感じます。 -
山下公園 レオナルド・ダ・ヴィンチ
1994年にフランスの名門メイアン家が作出しています。
カップ咲きからクォーターロゼット咲きになる途上のようです。 -
山下公園 赤い靴はいてた女の子像
氷川丸からハッピー・ローソンに向かって海沿いを歩いていく途中にあるのが童謡『赤いくつ』で有名な「赤い靴はいてた女の子」像です。1979年に山本正道氏により制作されたものです。
膝を抱えた女の子が波止場から海の彼方を見つめています。その小さな胸はまだ見ぬ異国への不安と、恐らくはもう二度と会うことのできない母親への強い思いでいっぱいだったことでしょう…。
この像を見ながら童謡『赤いくつ』の歌詞を思い出せば、自ずとそうした情景が浮かぶのですが、実際は野口雨情氏の詩のモデルとなった女の子(岩崎きみちゃん)が船に乗って海を渡ることはなかったそうです。 -
山下公園 赤い靴はいてた女の子像
岩崎きみちゃんは明治35年に清水市宮加三(旧不二見村)で生まれました。父親の詳細は不明で、母かよさんは未婚の母として1人で子育てをしていました。彼女は、私生児の母ということで世間からの風当たりが強かったこともあり、開拓による生計を夢見て北海道に渡り、再婚者の鈴木志郎氏と開拓農場へ入植しました。しかし開拓地での生活は想像以上の厳しさで、きみちゃんは3歳の時に函館で宣教師をしていた米国人ヒュイット夫妻の養女になりました。その後ヒュイット夫妻が任務を終えて帰国しようとした時、往時不治の病とされていた結核に冒されていることが判り、夫妻はやむなくこの幼な子を東京の教会の孤児院に託して横浜港から帰国の途に着きました。きみちゃんが6歳の時のことでした。きみちゃんが孤児院でその短い生涯を閉じたのは、その3年後。癒えることのない病の床にあって、相見ることもかなわぬ母を慕いながら、短い生涯を終えたのでした。かよさんには、きみちゃんが亡くなったことは知らされませんでした。かよさんは、きみちゃんが米国に渡って幸せに暮らしていると信じたまま、「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64年の生涯を閉じました。現在、この幸薄い母子に思いを寄せ、きみちゃんに所縁のある地に合わせて5つの像が建てられています。(日本平、北海道虻田郡留寿都村、北海道小樽市、麻布十番、山下公園)
あまり知られていない悲しい話ですが、後世に語り継いでいきたい逸話のひとつです。
ブロンズ像は、アメリカでの幸せな暮らしを夢見て海の彼方をじっと見つめています。 -
山下公園 インド水塔
インド水塔は、関東大震災で被災した横浜の在留インド人の追悼と共に被災したインド人を横浜市が救済したことへの感謝の気持ちを込めて在日インド人協会から1939(昭和14)年に寄贈されました。インド式の水飲場ですが、現在は衛生上の問題から水道管が外されていて水は出ません。
インドというよりもイスラム寺院を彷彿とさせる玉葱型の丸屋根の塔です。ドームの天井には美しい花模様のモザイクが施され、色とりどりのグラスモザイクには思わず見入ってしまうほどです。 -
山下公園 インド水塔
横浜市認定歴史的建造物であり、設計者は横浜市4代目建築課長の鷲巣昌(わしず あきら)氏です。
鷲巣氏は、震災復興期に代官山や神宮参道に建てられた先進的な鉄筋コンクリート造集合住宅「同潤会アパート」にも関わった人だそうです。
あまり目立たない小さな建造物ですが、意外と奥が深いことに吃驚です。
場所は、ハッピー・ローソンの直ぐ目の前です。 -
山下公園 インド水塔
ドーム天井には、別府ステインド硝子制作所が制作したグラスモザイクが施されています。色とりどりの不透明なグラスチップを専用のペンチで割り、丁寧に貼り付けています。ステンドグラスは自然光や照明を透過させた輝きを愉しみますが、こうしたグラスモザイクは不透明ガラスを用いるため、反射光に輝く板ガラスの小片が織りなす光の色が愉しめます。 -
山下公園 インド水塔
ダイヤモンドカットされて表面が虹色に輝いているもの、 金箔や銀箔を挟み込んだもの、銅粉を練り込んだものと素材のバリエーションも様々で、多彩な色を組合わせたまさに百花繚乱の世界です。 -
山下公園 インド水塔
水塔の内壁は漆喰打ちされていますが、こちらも左官職人が優れた腕前をみせた紋様が一面に施されています。
それほど大きくはないインド水塔ですが、その道の職人の気概と矜持を窺うことができます。 -
ハッピー・ローソン山下公園店
さすがは文化の最先端横浜市と唸るような「子育て支援」をテーマとしたコンビニエンスストアです。
「ミッフィー」をシンボルとし、授乳用のスカーフの貸出しやミルク用のお湯の提供が行われています。ベビーカーでも通行し易いように通路が広くとられ、休憩スペースやカフェなども併設されています。
また、ハッピー・ローソンだけのオリジナルグッズの発売も人気だそうです。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
横浜には歴史ある名建築が多数ありますが、そうした古いものを残すだけでなく、時代毎に街のランドマークとなる名建築を誕生させています。2002年にグランドオープンした大桟橋客船ターミナルもそのひとつです。長さ480m、幅100m、3層から成る大桟橋は、壁や床が曲面で融合され、た斬新な構造の建築物です。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
新ターミナルのデザインは、「庭港」というコンセプトの下、国際デザインコンペにより、市民にも愛されるデザインを広く公募して選ばれました。世界41ヵ国から660作品の応募があり、日本の国際コンペとして過去最高の規模だったそうです。その中で最優秀賞に輝いたのが、イギリス在住の建築家アレハンドロ・ザエラ・ポロとファッシド・ムサヴィ両氏の作品でした。フルCGのコンピュータによる設計、そしてそのユニークで革新的でありながら機能や工法、快適性にも配慮した作品は大きな話題となりました。
このデザインを実現するため、デザイナーと設計チームが基本設計を何度も練り直し、2002年に大桟橋が完成しました。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
横浜の都市伝説の中に、女神像「梨花子様」を正面から拝むと恋愛が成就するというものがあります。
それでは「梨花子様」は何処におられるかというと、横浜グランドインターコンチネンタルホテルの海側の最上部で行き交う船の安全を見守っています。身長4m、質量1.3トンの像です。この像は、ホテルが開業した1991年に横浜銀行から寄贈されたものだそうです。作者は彫刻家 吉野毅氏で、正式名称は「みちびき」というのですが、 像の背面には「梨花子」と刻印されているそうです。これは制作者の娘さんの名前で、我が子同様に大切にしているという意味が込められているそうです。 こうして、女神像は「梨花子様」という愛称で呼ばれるようになったようです。
「梨花子様」は、大桟橋国際客船ターミナルや赤レンガ倉庫などの場所から見ることができますが、正面から拝むなら新港パークになります。
きっと恋愛が成就することでしょう。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
広い港全体がひとつのアートのようにデザインされているのが横浜港の特徴です。開港以来、海上から見た視点で町づくりが行われてきた横浜。戦後、港全体の景観を意識した町づくりが始まり、そして誕生したのが「横浜ベイブリッジ」です。「斜張橋(しゃちょうきょう)」と呼ばれる、鳥が大きく翼を広げたような姿を彷彿とさせる華麗なデザインです。
この橋を起点に、新たな港町のデザイン構想が着々と進められています。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
広々とした飾り気のないシンプルな開放的な空間です。ともすれば無味乾燥になる要素を孕むターミナルですが、曲面を多用し、シンメトリックを少し崩したデザインにすることで有機的な息遣いが感じられる構造体になっています。
寝転んで空を見上げていると、本当に「くじらの背中」に乗って大海原を漂流しているような気分に浸れます。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
印象的な床や壁の木材は、ブラジル原産の「イペ(IPE)」という木です。
海風に強く、水に沈むほど密度が高く、歳月が経っても変形し難い堅い材料だそうです。ただし、その堅さ故に、棘がささくれ立っているのが難点です。お子様連れの場合は、留意してあげてください。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
現在、地上から「横浜三搭」を同時に望める場所は限られており、全体で4ヵ所しかないそうです。そのひとつが、大桟橋国際客船ターミナルの屋上に相当する「くじらの背中」です。スロープを上がると横浜三塔が見えることを示すプレートがあります。この場所は、結婚の前撮り写真の人気スポットでもあるそうです。
カップルで訪れて鍵を付けると愛が深まるとの都市伝説も手伝い、愛を誓う「ハートロックスポット」にもなっています。ハートロックは2階のショップで買うことができるそうです。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
実は、デッキの西よりの通路からも「横浜三搭」を見ることができます。
プレートのあるスポットは大代表と言うことのようです。 -
山下公園 大桟橋客船ターミナル
デッキから見る「クイーンの搭」(横浜税関)です。 -
山下公園
象の鼻付近から見上げる「キングの搭」(神奈川県庁本庁舎)です。 -
スーパーホテル関内
17時過ぎに無事ホテルに帰還しました。最上階13階のお部屋からの景色です。
カーテンを開けると現在(5月21日時点)パリーグ首位を独走している「YOKOHAMA DeNA BAYSTERS」の本拠地が見えます。横浜公園内にあり、3角形をした照明が特徴的なスタジアムです。
ホテルで一息付いてから、夕食:中華バイキング~夜景見物へと繰り出します。
この続きは、問柳尋花 横浜逍遥⑥夜景でお届けいたします。
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