2015/05/03 - 2015/05/03
119位(同エリア370件中)
susuさん
前回の旅行先が混沌のインド・パキスタンだったので、もう旅行中から「次は景色が綺麗でのんびり落ち着けそうな所に行こう」と思っていました。真剣に行き先を考え始めたのが年明けすぐで、それから3日もしないうちにルートを決めて航空券を手配しました。
13日間となかなか長めの日程ですが、あの国にも行きたいあの街にも行きたいと欲張った結果、いつもの通りのんびり出来なさそうな旅程が出来上がりました。
4/24(金) 成田→イスタンブール
4/25(土) イスタンブール→リュブリャナ
4/26(日) リュブリャナ→ブレッド湖→リュブリャナ
4/27(月) リュブリャナ→ザグレブ
4/28(火) ザグレブ→プリトヴィッツェ湖群国立公園→ザグレブ
4/29(水) ザグレブ→ドブロブニク
4/30(木) ドブロブニク→コトル→ドブロブニク
5/01(金) ドブロブニク
5/02(土) ドブロブニク→モスタル
5/03(日) モスタル→サラエボ
5/04(月) サラエボ→ベオグラード
5/05(火) ベオグラード→イスタンブール
5/06(水) イスタンブール→成田
成田→リュブリャナ、ベオグラード→成田(ターキッシュエアラインズ)…124,100円
移動時間を考慮して、ザグレブ→ドブロブニクとサラエボ→ベオグラードは飛行機で移動することにしました。それ以外のバス・列車は現地で手配します。
ザグレブ→ドブロブニク(クロアチア航空)…US$56.45(6,877円)
サラエボ→ベオグラード(エアセルビア)…106.23EUR(14,526円)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日は9時発のバスでサラエボに向かいます。7時に目覚ましをかけて二度寝したりしながら仕度し、既にオープンしているカフェに鍵を返しに行きました。店主も一体いつ寝てるんだろう?
バスターミナルに向かって歩いていたら、超偶然なことに昨日宿の場所を教えて貰ったおじいさんとすれ違いました。スーパーに行った帰りのようで、おじいさんも私もお互い「(遠目に見て)あの人昨日会った人かな…(近付く)あっやっぱりそうっぽい(曖昧に笑って会釈)」という感じのリアクションでした。
カラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤの隣の墓地。よく見るとどれも没年が1993年だ…。 -
旧市街からバスターミナルまでは、2本の真っ直ぐな道が1ブロック離れて平行に走っており、昨日私が通ったのは東のMarsala Tita、今歩いているのは西のMladena Balordeです。こちらの道沿いには郵便局がありました。
ボスニア・ヘルツェゴビナの車のナンバープレートは、BHやBiH(ボスニア・ヘルツェゴビナはボスニア語でBosna i Hercegovina)のロゴがあるものの他に、この写真に写っている車のように数字とアルファベットしか書かれていないレトロなタイプもありました。取得時期の違いなのかな。このタイプのナンバープレートはモスタルでは結構見ましたが、サラエボでは見かけませんでした。 -
通りの突き当たりを右に曲がればバスターミナルです。15分程で着きました。
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そのすぐ左手に鉄道駅。
昨日行った時も思いましたが、列車の気配がなくてどこに線路があるのかよく分からない駅です。列車の気配がないのは本数が少ないせいだとは思いますが、窓口付近や外には電光掲示板等もありませんでした。ここは実は駅じゃなくて体育館なんだと言われれば納得してしまいそうな感じ。 -
サラエボ行きのバスは既に停まっていましたが、チケットに書いてある3番乗り場じゃなくて2番乗り場にいるな。
まだ乗車が始まっていなかったので、ベンチに座って日記を書きながら待っていたら、運転手がやって来てバスを3番乗り場に移動させました。1KM(約71円)で荷物を預けて乗車。 -
バスがモスタルを出発して間もなく、トタン屋根のバラックのような小屋がびっしり並ぶ原っぱの前を通りました。バラックの中はお店で、地元の人が盛んに買い物している様子。何だろう?
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そこから5分程走って、広大な墓地の前を通りました。
どの墓石にも色とりどりの花が供えられています。たまたまお彼岸的な日の直後だったのか、それとも、みんな毎日のようにお墓参りに来ているのかな…。 -
バスはネレトヴァ川に沿って北へ遡っていきます。ネレトヴァ川はどこまで行っても緑色なんだなあ。場所によっては流れが非常に穏やかで、川とは思えないくらい鏡のように景色が映っていました。
これほどの景勝地を通るルートなのにバスの窓が汚れているのが残念。観光地化されていないのが不思議なくらいの絶景でしたが、内戦時の地雷がまだ撤去されていないというのがその理由のようです。 -
バスは路線バスのようによく停まって乗客が乗り降りしました。私は車体真ん中の扉から入ると目の前に見える席に座っていましたが、隣の人が4回は入れ替わりました。
車窓から見えたのは、なんとデジタル形式の慰霊碑。顔写真と名前、生没年が次々と映し出されていました。内戦時はお墓を作る土地も時間も足りなかったんだろうな…。若い人の写真ばかりだったのがまた辛い。
慰霊碑の前の旗から調べたら、ここはサラエボの手前のハジチ(Hadžići)という町でした。 -
やがて車道の脇にトラムの線路が現れました。わあ~もうすぐサラエボだ…緊張してきた。スリが多いらしいサラエボ駅前が怖い。スリの注意情報くらいでそんなにビビらんでもと自分でも思いますが、今回廻ったエリアの中で具体的な注意情報が出ているのはサラエボだけなのでどうも構えてしまいます。
バスと並走するトラム。レトロな車体が良いねえ。車内はかなり混雑している様子。 -
11時半過ぎにボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側バスターミナルに到着しました。サラエボ中央駅のすぐ隣。
ちなみにモスタルはボスニア・ヘルツェゴビナのヘルツェゴビナ地方に、サラエボはボスニア地方に位置しています。 -
左手の建物がサラエボ中央駅、右のビルはアヴァズツイストタワー。高さ142m、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も高いビルです。アヴァズはボスニアを代表する新聞社の名前だそう。
今私はサラエボにいるんだなあ。ここ100年程の間にとんでもない出来事がいくつも起こったサラエボに。私の中で『Welcome To』の後に続く言葉として真っ先に挙がるサラエボに(次点はThe Jungle)。じわじわと感動のようなものが湧き上がってきました。
初めての海外旅行から9年、これまで色々な所…憧れの場所や有名な場所に行きましたが、こんな風に感じるのは初めてかもしれません。 -
警戒していたサラエボ中央駅前ですが、人通りが少なくて閑散としている割には小さい子供連れのファミリーがちらほらいたりしたので、意外に雰囲気は悪くありませんでした。
でも夜は近付かないでおこう。まあもうここに来る予定はないけど。 -
駅前のトラム停留所(2枚上の写真の右端)へ。すぐ脇にあるキオスクでトラムヴァイカルタ(トラムチケット)を購入、1.60KM(約114円)。トラムに乗って宿があるバシチャルシァへ向かいます。
停留所には1番のトラムが停まっていました。バシチャルシァがある東とは逆方向を向いているので不安でしたが、駅前には線路が1本しかないし停留所も1か所しかない。運転手に「バシチャルシァに行きますか?」と確認して乗車。トラムヴァイカルタを見せてどこで改札すればいいのか身振りで尋ねると、切符を受け取って改札機に差し込んでくれました。 -
左の緑色の機械が改札機。
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スマホの地図アプリMAPS.MEはWi-FiをONにしていると電波が無くても現在地ポインタが動くということに昨日気が付いたので、ポインタを見ながらトラムで移動しました。これ便利だなあ。
トラムはミリャツカ川沿いを走り、やがて予約した宿が左手に見えてきました。こんなに簡単に宿に着けるなんて!今旅に限らず過去最高クラスの楽さじゃないだろうか。
宿の目の前の停留所で降り、信号を渡りました。 -
宿の近くにある市庁舎。オーストリア=ハンガリー帝国時代に市庁舎として建てられたムーア風建築で、後に国立図書館になった建物です。サラエボのシンボルともいえる建物でしたが、1992年の砲撃で外壁を残して炎上。貴重な蔵書の殆どは燃えてしまったそうです。
これを書いている今になって初めて気が付きましたが、この建物がWikipediaのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のページに載っている写真『破壊されたサラエヴォの国立図書館で演奏するチェロ奏者』の建物じゃないか…!そのページと写真は何年も前から何度も見ていました。 -
市庁舎の西にあるこちらが予約した宿、パンションセビリ。
1階はカフェになっています。近付いて行ったらカフェのカウンターにいた男性に「May I help you?」と声を掛けられ、予約していると言ったら2階のレセプションに案内してくれました。 -
Booking.comで予約して、朝食なしバスルーム共同1泊で9.70EUR(約1,291円)。今旅最安値です。Booking.comにはカード払い可とありましたが、機械の関係だか何だかでそれならチェックアウト時にしてくれと言われました。
部屋も2階で、ミリャツカ川沿いの通りに面した部分が全面窓。明るくて爽やかな室内です。せいぜい半2階くらいの高さしかなくて通りから近いので、外から部屋の中が見えそうでした。
床のラグがよれているのは、カーテンを開けに行く時に私が滑ったからです。テレビがありますが映し方が分かりませんでした。
Booking.comには共用スペースでのみWi-Fi使用可とありましたが、私の部屋(7号室)でも使えました。 -
ドアの内側には全6条のハウスルールなるものが掲示されていました。
館内アルコール不可、客室内禁煙などはどっちもやらない私にとっては無関係ですが、客室内飲食不可は厳しいな。だからなのか、室内にゴミ箱がありませんでした。
2条目に分からない単語があったので、スマホの翻訳アプリが役に立ちました。カメラで撮影して一瞬で文章ごと翻訳できます。便利な世の中になったものだ。
チェックアウトは12時までとありますが、レセプションのカウンターにあった同じような掲示には11時って書いてあった。Booking.comには12:00~13:00とある。どれが正解なんだろう…。 -
女性用の共用バスルームは2部屋ありました。もう1つの方には小窓があって、目の前にオープンテラスのカフェが見えました。客席が近すぎて落ち着かないので、窓がないこちらをよく使いました。いつ行っても先客はいなかったので選び放題です。ここに限らず、イスタンブール以降泊まった宿で女性客を見かけたことは1度もありませんでした。尤も男性客すら見なかった宿(=滞在中の宿泊客が私だけ)も多かったですが…。
部屋にタオルがありませんでしたが、レセプションに行ったら快く貸してくれました。 -
すぐに観光に出掛けました。真っ先に向かったのはラテン橋。第一次世界大戦が勃発する原因となったサラエボ事件が起こった橋です。
サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、19歳のボスニア系セルビア人ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件です。共犯者への尋問を経て武器がセルビア政府の支給品であったことが分かり、オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難して最後通牒(オーストリア最後通牒)を突き付け、48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告しました。最後通牒の内容には到底受け入れられないような内容が含まれていたため、セルビア政府は要求のうちの二点を受諾せず、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発しました。
訪問時の2015年5月は、サラエボ事件から100年目の一年間にまだギリギリ含まれていることに帰って来てから気が付きました。 -
以前は銃撃時にプリンツィプが立っていた場所に足形があったらしいですが、現在はありません。サラエボ博物館の中に置かれているそうです。
ボスニア・ヘルツェゴビナではプリンツィプの評価は賛否両論、テロリストとみなす意見と英雄とみなす意見の両方が存在するらしい。 -
ラテン橋の向こうにトロリーバスが停まっているのが見えました。あっあれは!
今回の旅で、サラエボ→ベオグラード間の移動は当初バスで行うつもりでした。あの103番のトロリーバスに乗ってセルビア人共和国側バスターミナル(の300m手前が終点)まで行き、そこから長距離バスに乗る計画だったのですが、旅の終盤に7時間のバス移動はきついだろうと思って直前に飛行機に変更したのでした。
紛争の末、ボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のセルビア人共和国(スルプスカ共和国)という2つの構成体からなる連合国家になりました。なのでセルビア行きのバスの大半はあのサラエボ中央駅前のバスターミナルからではなく、セルビア人共和国にある東サラエボバスターミナル(通称ルカヴィツァ)から出ているのです。サラエボ中央駅前のバスターミナルからも一応出ていますが、朝6時発の1本のみで運賃もちょっと高いらしい。 -
橋の南から。
向こうに見えるピンク色の建物がサラエボ博物館。建物の周りに、サラエボ事件に関する写真が展示されています。サラエボ事件の現場は厳密にはラテン橋の上ではなくて橋の延長線上、サラエボ博物館の脇の辺りらしい。
ラテン橋自体はオスマン帝国時代(1500年代)に造られたもので、サラエボに現存する中では一番古い橋だそうです。 -
続いてバシチャルシァへ。バシチャルシァは旧市街の中心にある職人街で、サラエボ随一の観光地です。
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瓦屋根で平屋で木造の建物が並んでいます。同じ平屋でもモスタルの建物とは全然違う。アラブのスークをモデルに設計されているらしい。
観光客は多いけど東アジア人が全くいない。今旅初めて自撮り棒軍団から解放されました。やはりサラエボまで行くとツアー客がぐっと減ります。 -
色とりどりのお菓子。1kg1,000~1,800円くらい。
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ナッツと香辛料のお店が混雑していました。
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これがセビリ(水飲み場)、サラエボのシンボル。セビリがあるここがバシチャルシァ広場です。
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バシチャルシァ広場にあるOsmanli Pide Donerというレストランでランチにしました。
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観光地ど真ん中なのに感激の安さ!!店員さんは英語ペラペラですがメニューはボスニア語オンリーなので、多分これはあれだろうという感じで注文しました。
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ドネルサラダ(5KM≒355円)とトルコチャイ(1.5KM≒107円)。予想通り!
ヨーグルトソースは癖がなくフレンチドレッシングのような味で、肉によく合って美味しかったです。パンのようなナンのようなホブズのような…エキメキ(トルコのパンの総称)?は触ってみたら温かい!焼き立てだ!フワフワで美味しい。半分くらい食べて、もう半分の中に肉と野菜を詰め込んで持ち帰りました。
今日は朝からずっと曇りの天気でしたが、食事を摂っている間に急速に空が晴れていきました。2枚上の外観写真は食後に撮ったものです。 -
バシチャルシァ広場のすぐ北にはトラムが通っています。私がサラエボ中央駅前から乗った1番トラムは、市庁舎の角を曲がってバシチャルシァを囲むように駅方向に戻っていくようでした。
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トラム停留所のすぐ隣にコンズムがありました。後で行こう。
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イチオシ
鳩で一杯のバシチャルシァ広場。
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セビリは1891年に建てられたそうですが、ピカピカで新品のように見えました。
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絶えず流れている水はびっくりするくらい冷たかったです。
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イチオシ
青空のバシチャルシァ広場。ほんの30分前まであった雲は一体どこへ?
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日差しがあると気温が全然違う。アイス日和だ!ストロベリーチーズケーキ味、1KM(約71円)。
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サラエボのお土産はセビリをモチーフにしたものが多かったです。
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この建物はブルサ・ベジスタン、旧絹取引所。16世紀の建物です。ブルサは当時の絹の産地で、ブルサから運ばれてきた絹を取引していたためにこの名前になったそう。
現在は歴史博物館だそうですが、周囲はびっしり土産物屋です。 -
エキメキを置きに一旦宿に戻りました。気軽に戻れるこの立地、最高。
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イチオシ
再びバシチャルシァへ。
金属製品を扱うお店が集まっている通り。お店の中からレリーフを彫るカンカンという音が聞こえてきます。
掬う部分が真ん丸くて彫刻がされているティースプーンが可愛いので欲しかったんですが、どれも柄の部分に子供のネックレスに付いているような、プラスチックのしょぼい宝石が付いているのが気に入りませんでした。これ使ってるうちに絶対剥がれると思う。一応宝石の代わりにナザール・ボンジュウが付いているものもありましたが、全く何も付いてないのが欲しいなあ…。結局見つけられませんでしたが。
職人街なのにどのお店も全く同じ大量生産品を売っているのが何とも残念ですが、職人は製造はするけどデザインはしないという事なのかな…。 -
バシチャルシァ広場の北へ。
ふと右を見たら、私と横並びで野良犬達がゾロゾロ歩いていたのでびっくりしました。君らも道を渡りたいのかい? -
『水飲み場のある広場から北に5分ほど急坂を上ると、オスマン朝時代の門や壁が残っており、市内の眺めもいい』と歩き方に書いてあるので、行ってみました。
北の道っていくつかあるんだけどどれだろう…。とりあえずコンズムの脇の道を上ってみました。
確かに急坂ですが、それらしい物は全く見つかりません。 -
イチオシ
路地の隙間から見える家だらけの丘がとても綺麗でした。
綺麗ですが、紛争時はサラエボの周囲360度の丘にセルビア人勢力が陣取って町を砲撃したそうです。
サラエボは1992年4月から3年半にわたってセルビア人勢力に包囲され、1万人以上の市民が犠牲になりました。 -
坂を10分程上った所にモスクと墓地がありました。
白い墓標に刻まれている没年は殆どが1992年と1993年でした。1992年後半から1993年前半にかけてが、サラエボ包囲が最も激しかった期間だそう。
この辺りで引き返すことにします。 -
人気の少ない静かな路地を歩きます。
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外れそうな扉から見える空が美しかった。
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サラエボの街は標高500mの盆地の上にあります。確かにどの方向を見ても丘というか山がある。
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バシチャルシァ北の通りを、トラムの線路に沿って西へ。結構遠いけど歩いてホリデイ・インを見に行きます。
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バシチャルシァ広場から7分程歩いた所に大きな教会がありました。地図によると…カトリック大聖堂かな?
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カトリック大聖堂を正面から見ようと歩いていたら、唐突に目に飛び込んできたもの。サラエボのバラだ!!迫撃砲の砲弾による死者を出した爆発の跡を、後に赤い樹脂で埋めたもの。
写っている壁は大聖堂の壁です。本当にすぐ脇。
サラエボのバラはアスファルト舗装によって次第に減ってきているらしいですが、私はこの日だけで4か所見ました。 -
大聖堂の正面は賑やかな通りでしたが、ここにもサラエボのバラが。
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正面から見たカトリック大聖堂、イエスの聖心大聖堂。サラエボ大聖堂とも呼ばれているそうです。
サラエボの象徴であり、入り口の上の窓のデザインはサラエボ県の県旗と県章のデザインに、ロマネスク風の2本の塔はサラエボの市旗と市章のデザインにそれぞれ使われています。 -
賑やかなこの通りの名前はフェルハディヤ通り。ボスニア・ヘルツェゴビナ最大にしてサラエボ市唯一の歩行者天国。全長1km。
この通り沿いにもサラエボのバラがありました。 -
郵便局を発見。今日は日曜日なのになんと営業しています。やった!
1.70KM(約121円)の切手を購入しました。歩き方にはハガキを送る場合1.50KMとありますが、値上がりしたそうです。 -
この建物の前に、永遠の火のようなモニュメントがありました。第二次世界大戦でパルチザンがファシストを打破してサラエボを解放したことを記念したもので、大戦の犠牲者を偲ぶ慰霊碑だそうです。紛争中は石油不足で火が消えていたらしい。
右の道がフェルハディヤ通り、左から背後に向かって延びているのがマーシャル・チトー通り。 -
ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行、入口が半端ない。ムキムキの男女の像がライト持ってお出迎え。
また空が曇ってきましたが、通り沿いにあった気温計によると只今の気温は24.8℃。旅を始めてから日に日に気温が上がっていっています。明後日のベオグラードの最高気温は32℃の予報。何それ恐ろしい。 -
道の向こうの公園の前に慰霊碑がありました。紛争で犠牲になったサラエボの子供たちへの慰霊碑だそうです。お母さんに寄り添う子供を表しているのかな…。
右奥の原っぱに不揃いの墓標のようなものが立っています。 -
モスクの前の八重桜が満開でした。
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スナイパー通りに出ました。狙撃兵通り、スナイパーストリート。
サラエボ包囲の間、この通りで動くもの全てがセルビア人狙撃兵の的になりました。標的は一般市民。老人や子供、女性は特に狙われたそう。包囲によってサラエボに閉じ込められた市民達は見晴らしの良い場所を避け、建物の陰に隠れながら生活していたそうです。 -
銃撃だけでなく砲撃も。
サラエヴォ包囲の期間中は平均して一日当たり329回の砲撃があり、最も多かった日は1993年7月22日の37,777回だったそうです。 -
特徴的な形の広告塔ですね。
その向こうにホリデイ・インの黄色い建物が見えてきました。 -
ホリデイ・イン・サラエボ。現在はホリデイイン系列ではなくなり、Hotel Holidayという名前のホテルになっています。
元々は1984年のサラエボ冬季オリンピックを記念して建てられたらしいですが、サラエボ包囲中も営業を続けて世界中のジャーナリストを受け入れたことで伝説的なホテルになりました。ある意味世界一有名なホテルだと思います。
セルビア人勢力とボスニャク人勢力が睨み合う最前線に位置しており、建物の半分が破壊されてももう半分で営業していたそうです。包囲直後の1992年4月22日、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国議会(スナイパー通りを挟んで斜向かいの位置)の前で行われた平和的なデモ行動は、このホテルからの発砲によって潰えたそう。
重すぎる歴史を背負ったこのホテルですが、外観は不謹慎なくらいに明るいデザインでした。ホテル名のフォントもなんてファンシー。
ホテルの周囲には現代的なショッピングモールがいくつもありました。 -
当時はどうだったか分かりませんが現在のスナイパー通りは一方通行、片側4車線の大通りです。
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ミリャツカ川沿いの道を歩いて戻ります。ホリデイホテル周辺と違って、この辺りの建物はだいぶ古びていました。
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なんだあれは?と思ってズームしたら…
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周囲の建物が銃痕だらけなことに気が付きました。どの建物もです。
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ボスニア・ヘルツェゴビナに入ってからよく見る、枠からはみ出る看板。
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釣り人がいました。
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ミリャツカ川には沢山の橋がかかっています。その中の一つに、何やら途中で一回転しているような橋がありました。
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正面から見るとこんな感じ。
奥の立派な建物は美術アカデミーですと。ハンガリーの国会議事堂みたいですね。 -
一回転橋を渡って対岸へ。
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イラン大使館にも桜の木が。
川沿いの道が次の橋で行き止まりになっていたので、また対岸に戻りました。 -
面白いデザインの建物なんですが、えげつないほど落書きされてしまっています。
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電球が埋め込まれていて人物の輪郭が光る、分厚い箱のような標識。
ここのは電球が殆ど切れていました。点いてるのは腕と脚の一部くらい。 -
木製の橋、どこか日本的で懐かしい。
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新シナゴーグの隣の建物が凄いカラフルでした。デザインがどことなくホリデイ・インに似てる。
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ラテン橋まで戻ってきました。
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サラエボ博物館。
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イチオシ
道を渡ろうとしたら3番トラムがやって来ました。行き先がバシチャルシァだ。
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ラテン橋の北の道。サラエボ事件の現場はこの辺りらしい。
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事件直後、逮捕されるガヴリロ・プリンツィプ。
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面白い建物!
サラエボの街並みは見応えがありますね。多民族都市だけに景色のバリエーションが豊富です。色も個性的で鮮やかでした。
手前にタクシーが写っています。歩き方の情報によると台数が多くて拾いやすいとのことでしたが、宿周辺では意外に流しのタクシーを殆ど見かけませんでした。セビリの北のトラム停留所周辺ではよく見ましたが。
明日タクシーで空港に行くつもりだけど、捉まるかな?
手持ちの飲料水が尽きたので、一旦宿に戻りました。 -
部屋で一休みして、6時頃にまたバシチャルシァに出掛けました。
昼間は全く見かけなかった東アジア人観光客の姿がちらほら。日本人ツアー客もいました。昼間はモスタル辺りにいたのかな。 -
めちゃくちゃ可愛い土産物屋さん。こんなにファンシーなのに、ここでも薬莢ボールペンや戦車を売っていました。
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コーヒー豆のお店に行列が出来ていました。
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モスクの前を通りかかりました。ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤかな。1531年に建てられた、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も重要なイスラム寺院だそうです。
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お洒落な看板。
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派手な土産物屋さん。サラエボオリンピックのマスコット、ブチコのグッズも豊富です。オリンピックマスコットがこんなに長きに亘って愛されているのも相当珍しいんではないでしょうか。
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可愛いホステル!
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この通りを歩いていたら不意に街中のあちこち、近く遠くから大きな歓声が聞こえてきました。私の前にいたレストラン店員の男性が「後は任せた!(多分)」と同僚に言い残して走りだしました。あちこちから「ゴール!ゴール!」という歓喜の声が聞こえてきます。
ピンときて、私も彼の後を追って中庭のような広場に駆け込みました。 -
思った通り、パブリックンビューイングのようなスペースのテレビにはサッカーの試合が映し出されていました。観客は皆笑顔で興奮した様子で、ゴールのリプレイ映像に見入っています。
国際試合なのかサラエボのチームの試合なのかは分かりませんでしたが、サッカーは人を幸せにするなあとしみじみ思いました。サッカーに限らず、スポーツには人を団結させる力がありますね。 -
昼間辿り着けなかったオスマン朝時代の門や壁、こっちの坂だったのかなあ。私が昼間歩いたのはコンズムの左の道で、これは右の道です。
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どこかで食事かお茶にしたかったんですが、何故かどこのお店もアウェーに感じてしまって入りづらく、入りやすそうなお店を探して延々とバシチャルシァを彷徨い歩きました。ランチは平気だったし手頃な価格の魅力的なお店ばかりなので、完全に私の気分の問題だと思います。なんかたまにこういう事があるんだよなあ。居場所が見つけられない。スペインのグラナダでもこうなったなそういえば。
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30分以上も路地を歩き回り、同じ場所を何度も通った末に、ガジ・フスレヴ・ベイ・べジスタン付近の路地にあったお店に入りました。バシチャルシァでも東の市庁舎寄りのエリア(上の写真の辺り)は観光客向けの賑やかなレストランが多く、西のガジ・フスレヴ・ベイ・べジスタン付近にはどちらかというと地元の人向けの落ち着いたお店が多いようでした。
メイド服のような制服を着たお婆ちゃん店員に貰ったメニュー(左の青いの)を見ると、種類がとても少ない。これドリンクメニュー?先客達は何か料理を食べているのでドリンクしかないお店という訳ではないだろうけど…困惑しつつミネラルウォーターを頼んだら、「水だけ?」と解せない顔をされました。うう…。
水を持ってきてくれたお婆ちゃんにフードメニューはあるかと聞くと、これがそうだと言う。ああ、よく見たらプレスカヴィツァとかチェバプチチとか書いてあるわ…。今夜はシシケバブが食べたかったんですが、チェバプチチにしておこう。ボスニア・ヘルツェゴビナの名物料理ですし。
チェバプチチ5本、3.5KM(約249円)。お婆ちゃんが「玉ねぎは入れる?チーズは?」と聞くのに適当に全部肯いたら、チーズは有料でした。カイマク1.5KM(約107円)。しかも水(1.5KM≒107円)がガス入りでショック。これ苦手なんだ…。
今回旅したエリアのレストランのメニューでは、ガス入りはMINERAL WATER、ガスなしはNATURAL WATERと書かれていることが多かったです。ここのメニューはボスニア語オンリーで水はガス入り一択ですが。
うっかりナイフとフォークで食べ始めてしまいましたが、持って齧り付いた方が美味しかったろうな。カイマクに隠れて見えませんが、親指のような小さいソーセージが5本入っています。歯ごたえのあるソーセージにクリームチーズが添えられている感じ。うーんカイマク…違う場面で味わいたかった。玉ねぎも無い方が良かった。
食べているうちに閉店準備が始まったのもあって、早めに食事を切り上げました。
自分の色々な失敗によって残念なことになったディナーだった。一度歯車が狂うと何をやっても駄目だな。 -
色とりどりのロクムとドライフルーツ。バシチャルシァにはお土産に良さそうなスイーツのお店がいくつもありました。お洒落なラッピングのチョコレートとか。
まだ暗くならないけど、土産物屋が続々閉まり始めているし私も帰ろう。
宿の毛布は軽くてフワッフワで肌触りが最高でしたが、木のベッドがキーキー煩い。宿併設のカフェではエンドレスでエアロスミスを流していました。モスタルのカフェもそうだった。ボスニア・ヘルツェゴビナでエアロスミス人気なのかな。私も好きだけど、眠るにはちょっと煩い。
今旅初めて耳栓とアイマスクをして目覚ましも掛けず、眠りたいだけ眠りました。
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