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四国愛媛の名城、松山城紹介の締め括りです。余った自由時間で、麓にある東雲(しののめ)神社を見学しました。久松松平家の家祖、菅原道真公などを祀る神社です。

2015春、四国周遊(22/26):3月31日(6):松山城、東雲神社、香川の金刀比羅宮へ

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2015/03/29 - 2015/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

四国愛媛の名城、松山城紹介の締め括りです。余った自由時間で、麓にある東雲(しののめ)神社を見学しました。久松松平家の家祖、菅原道真公などを祀る神社です。

交通手段
観光バス

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  • 見学している間にも、桜が開いてくるような天気に恵まれました。雨を覚悟していただけに、実に幸運でした。ソメイヨシノの花のアップ光景です。

    イチオシ

    見学している間にも、桜が開いてくるような天気に恵まれました。雨を覚悟していただけに、実に幸運でした。ソメイヨシノの花のアップ光景です。

  • 本丸のソメイヨシノの光景です。満開までは、あと一息といったところでした。敷地の一部では、先に咲き終えた梅の木も見受けました。

    本丸のソメイヨシノの光景です。満開までは、あと一息といったところでした。敷地の一部では、先に咲き終えた梅の木も見受けました。

  • 振り返って眺めた右側の大天守と、左側の小天守の光景です。その他にも、右端に二ノ門南櫓と、両天守の中間に一ノ門南櫓等が見ているようです。

    イチオシ

    振り返って眺めた右側の大天守と、左側の小天守の光景です。その他にも、右端に二ノ門南櫓と、両天守の中間に一ノ門南櫓等が見ているようです。

  • 半ば桜の木の陰になってしまった、『馬具櫓』の建物光景です。右手は薄桃色のソメイヨシノでしたが、左手では白っぽい桜の花でした。オオシマザクラ(大島桜)当たりでしょうか、花と一緒に緑の葉も出ていました。

    半ば桜の木の陰になってしまった、『馬具櫓』の建物光景です。右手は薄桃色のソメイヨシノでしたが、左手では白っぽい桜の花でした。オオシマザクラ(大島桜)当たりでしょうか、花と一緒に緑の葉も出ていました。

  • 『隠門続櫓』の説明看板です。隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続される平櫓で、長者が平からの登城道を監視する目的で、揚木戸門前の本丸石垣の上に建っていることが解説されていました。重要文化財の一つです。

    『隠門続櫓』の説明看板です。隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続される平櫓で、長者が平からの登城道を監視する目的で、揚木戸門前の本丸石垣の上に建っていることが解説されていました。重要文化財の一つです。

  • 東南側から眺めた、『馬具櫓』の建物光景です。現在は、管理事務所の建物として使用されています。本丸の再建工事で、最も早く着手された建物とされます。

    東南側から眺めた、『馬具櫓』の建物光景です。現在は、管理事務所の建物として使用されています。本丸の再建工事で、最も早く着手された建物とされます。

  • 『馬具櫓』の説明看板です。馬具櫓は、本丸の西側に位置する二重櫓で、太鼓櫓とともに、二ノ丸方面の監視と防衛を担っています。昭和20年(1945年)7月、戦災で焼失したため、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。その工事中に、古い石垣が発見されています。

    『馬具櫓』の説明看板です。馬具櫓は、本丸の西側に位置する二重櫓で、太鼓櫓とともに、二ノ丸方面の監視と防衛を担っています。昭和20年(1945年)7月、戦災で焼失したため、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。その工事中に、古い石垣が発見されています。

  • 太鼓櫓の光景です。昭和46年(1971年)に再建された、二重の櫓です。本丸の西南角に位置します。右手に向かって、太鼓門西塀から太鼓門南続櫓へと連なります。

    太鼓櫓の光景です。昭和46年(1971年)に再建された、二重の櫓です。本丸の西南角に位置します。右手に向かって、太鼓門西塀から太鼓門南続櫓へと連なります。

  • 三分咲から、五分咲といった感じのソメイヨシノです。先に開花した枝を中心に撮影しましたが、まだ蕾が主体の枝が多くありました。

    三分咲から、五分咲といった感じのソメイヨシノです。先に開花した枝を中心に撮影しましたが、まだ蕾が主体の枝が多くありました。

  • 往きにも紹介しましたが、赤い花を咲かせた大型の桜、陽光桜の樹です。地元・愛媛県の高岡正明さんが作出された品種です。里桜の『天城吉野(アマギヨシノ)』と『寒緋桜(カンヒザクラ)』との交配によって生まれたとされます。

    往きにも紹介しましたが、赤い花を咲かせた大型の桜、陽光桜の樹です。地元・愛媛県の高岡正明さんが作出された品種です。里桜の『天城吉野(アマギヨシノ)』と『寒緋桜(カンヒザクラ)』との交配によって生まれたとされます。

  • 少し早めに再集合場所の駐車場近くに戻りましたので、余った時間を使っての松山市内散策です。再集合場所は、リフトとロープウェイ乗り場からは、歩いて5分ほどの距離でした。

    少し早めに再集合場所の駐車場近くに戻りましたので、余った時間を使っての松山市内散策です。再集合場所は、リフトとロープウェイ乗り場からは、歩いて5分ほどの距離でした。

  • 松山城の麓付近の市街散策です。再集合の時刻までは、20分少しが残されていました。脇道には入らず、広い通り沿いを歩くことにしました。

    松山城の麓付近の市街散策です。再集合の時刻までは、20分少しが残されていました。脇道には入らず、広い通り沿いを歩くことにしました。

  • 歩道のカラーのマンホール蓋の紹介です。ツバキの花と蕾が描かれているようです。汚水用のマンホール蓋です。

    歩道のカラーのマンホール蓋の紹介です。ツバキの花と蕾が描かれているようです。汚水用のマンホール蓋です。

  • 信号交差点付近の光景です。前方に神社らしい建物が見えてきました。市街散策は切り上げて、そちらに向かうことにしました。

    信号交差点付近の光景です。前方に神社らしい建物が見えてきました。市街散策は切り上げて、そちらに向かうことにしました。

  • 東雲(しののめ)神社の麓に到着しました。麓にあった騎馬姿の武将像です。松山城の初代城主の加藤嘉明公(1563〜1631年)です。賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる勇将です。伊予松山藩および陸奥会津藩の初代藩主を務めました。

    東雲(しののめ)神社の麓に到着しました。麓にあった騎馬姿の武将像です。松山城の初代城主の加藤嘉明公(1563〜1631年)です。賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる勇将です。伊予松山藩および陸奥会津藩の初代藩主を務めました。

  • 松山城の初代城主の加藤嘉明公の騎馬像です。はじめ豊臣秀吉に仕え、数々の武勲を上げ、朝鮮出兵の文禄の役では1000名を率いて出征、副将格として淡路水軍を率いて転戦し、慶長の役においては6番隊に属して1600名を率いて、海戦で戦果を挙げました。秀吉死後は、武断派として石田三成らの文治派と対立、筆頭大老徳川家康に従って、関が原でも石田三成の本隊と戦って武功を挙げました。

    イチオシ

    松山城の初代城主の加藤嘉明公の騎馬像です。はじめ豊臣秀吉に仕え、数々の武勲を上げ、朝鮮出兵の文禄の役では1000名を率いて出征、副将格として淡路水軍を率いて転戦し、慶長の役においては6番隊に属して1600名を率いて、海戦で戦果を挙げました。秀吉死後は、武断派として石田三成らの文治派と対立、筆頭大老徳川家康に従って、関が原でも石田三成の本隊と戦って武功を挙げました。

  • 星梅鉢紋の神門があった、東雲(しののめ)神社の石碑と石段の光景です。主な祭神は、天照皇大神、豊受大神、天穂日命(久松松平家の家祖神)、菅原道真(久松松平家の家祖)などです。

    星梅鉢紋の神門があった、東雲(しののめ)神社の石碑と石段の光景です。主な祭神は、天照皇大神、豊受大神、天穂日命(久松松平家の家祖神)、菅原道真(久松松平家の家祖)などです。

  • 東雲神社の石段を登り始めました。天保8年(1837年)、12代藩主の松平勝善の時代に、松山城山長者が丘に社殿の造営が開始され、天保11年(1840年)、社殿が完成し、藩崇敬の神社となりました。

    東雲神社の石段を登り始めました。天保8年(1837年)、12代藩主の松平勝善の時代に、松山城山長者が丘に社殿の造営が開始され、天保11年(1840年)、社殿が完成し、藩崇敬の神社となりました。

  • 1つ目の石段を登った付近の光景です。広場になっていて、その先にまだ石段が続いていました。現在の住所は、松山市丸之内になります。

    1つ目の石段を登った付近の光景です。広場になっていて、その先にまだ石段が続いていました。現在の住所は、松山市丸之内になります。

  • 踊り場のようになっていた、広場の周りの光景です。ヤドリギがびっしり付いた大木は、クスノキ(楠)でした。

    踊り場のようになっていた、広場の周りの光景です。ヤドリギがびっしり付いた大木は、クスノキ(楠)でした。

  • 同じく、踊り場のようになっていた、広場の周りの光景です。青みがかった石碑がありました。判読が困難な文字でした。

    同じく、踊り場のようになっていた、広場の周りの光景です。青みがかった石碑がありました。判読が困難な文字でした。

  • しめ縄が張ってあった神社の入口門です。その先に石段が続いていました。

    しめ縄が張ってあった神社の入口門です。その先に石段が続いていました。

  • 石段に覆い被さるような枝振りのヒトツバタゴの樹です。ナンジャモンジャの別名を持ちます。二本のヒトツバタゴの樹が、松山市の天然記念物に指定されていることが、傍らの立札に記してありました。モクセイ科の落葉高木です。

    石段に覆い被さるような枝振りのヒトツバタゴの樹です。ナンジャモンジャの別名を持ちます。二本のヒトツバタゴの樹が、松山市の天然記念物に指定されていることが、傍らの立札に記してありました。モクセイ科の落葉高木です。

  • 2つ目の石段を登った場所にあった石の鳥居の光景です。その先にまだ石段が続いていました。

    2つ目の石段を登った場所にあった石の鳥居の光景です。その先にまだ石段が続いていました。

  • 鳥居があった場所から振り返って眺めた石段の光景です。あと10分の時間の余裕があれば、社殿まで上った所ですが、ここで引き返すことにしました。

    鳥居があった場所から振り返って眺めた石段の光景です。あと10分の時間の余裕があれば、社殿まで上った所ですが、ここで引き返すことにしました。

  • 石段の上に見えていた社殿の屋根の光景です。再集合の時間が迫ってきあmしたので、最後の石段は、登るのを止めました。

    石段の上に見えていた社殿の屋根の光景です。再集合の時間が迫ってきあmしたので、最後の石段は、登るのを止めました。

  • 王云神社の見学を終え、麓まで戻ってきました。東雲神社には、伊予松山藩には過ぎたるものと諸藩からうらやまれたと言う能面・狂言面195面と、能衣衣裳150点、葛帯41点などを所有しています。他にも、国の重要文化財の短刃(銘:国弘)、太刀(銘:助包)が宝物館に所蔵されています。

    王云神社の見学を終え、麓まで戻ってきました。東雲神社には、伊予松山藩には過ぎたるものと諸藩からうらやまれたと言う能面・狂言面195面と、能衣衣裳150点、葛帯41点などを所有しています。他にも、国の重要文化財の短刃(銘:国弘)、太刀(銘:助包)が宝物館に所蔵されています。

  • 東雲神社を見学した後、同じ道は通らず、リフトとロープウェイ乗り場がある方面に向かいました。単純な道筋ですから、迷うこともありません。その乗り場前の光景です。ここから先は、再集合場所に向かって、一度歩いた道になります。

    東雲神社を見学した後、同じ道は通らず、リフトとロープウェイ乗り場がある方面に向かいました。単純な道筋ですから、迷うこともありません。その乗り場前の光景です。ここから先は、再集合場所に向かって、一度歩いた道になります。

  • リフトとロープウェイ乗り場前にあった記念撮影スポットです。坊っちゃんを中心に、小説『坊ちゃん』の登場人物の像が置かれていました。左から、うらなり、山あらし、たぬきなどの各氏です。坊っちゃんの右手には、マドンナ、赤シャツと野だいごの像もありました。

    リフトとロープウェイ乗り場前にあった記念撮影スポットです。坊っちゃんを中心に、小説『坊ちゃん』の登場人物の像が置かれていました。左から、うらなり、山あらし、たぬきなどの各氏です。坊っちゃんの右手には、マドンナ、赤シャツと野だいごの像もありました。

  • 愛媛県の西条市小松町にある、りんりんパークでのこの日の昼食です。11時少し過ぎの早い時間となりました。庭園と池の錦鯉が見事なレストランでした。庭園などは、この後紹介します。

    愛媛県の西条市小松町にある、りんりんパークでのこの日の昼食です。11時少し過ぎの早い時間となりました。庭園と池の錦鯉が見事なレストランでした。庭園などは、この後紹介します。

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