2015/03/31 - 2015/03/31
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montsaintmichelさん
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霊宝館は、醍醐寺の寺宝を所蔵する白亜の殿堂です。面積34229平方mの敷地に10万点以上の貴重な文化財を所蔵し、日本最大級の文化財保有数を誇ります。そのうち国宝は薬師三尊像を筆頭に41点、重文は6万点以上あります。
しかし、桜の季節にはひと味違った愉しみ方ができます。庭園には、樹齢180年の「醍醐深雪桜」と称される京都最大級の枝垂桜や京都最古とされる樹齢100年を超えるソメイヨシノの巨木などが実に伸び伸びと枝を広げて優雅に咲き誇り、妖艶な舞を披露して入館者を迎え入れてくれます。
ここでのフォトジェニックとなる銘木「醍醐深雪桜」は見事な枝ぶりで、観る者のセンスや心の持ちようにより「桜雲の中を躍動する龍」とか「羽を広げた鳳凰」、「幾重にも分流して流れ落ちる小瀧」などをイメージさせる艶めかしい枝垂桜です。世に銘木と称される桜の木は数多存在しますが、この樹が放つ気品と雰囲気は別格と言えます。
また、桜の時期だけ特別に霊宝館の周囲の散策路が開放され、のんびりと桜巡りができるのも魅力です。霊宝館と言えば「醍醐深雪桜」が代名詞になっていますが、それに比肩する枝垂桜の宝庫でもあり、散策路から仰ぎ見て浴びる桜のシャワーは圧巻です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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醍醐寺
桜のトンネルとして有名な三宝院入口から南北に走る参道を霊宝館へと向かいます。
意外にも霊宝館へは待つことなしにすんなりと入ることができました。
12時過ぎですので、ツアー客は食事の真っ最中ということなのでしょうか?
そういえば、敷地内も割とすいていたような…。
とにかくラッキーの一言です。 -
醍醐寺 霊宝館
霊宝館は、1935年に開館 した寺宝の保存と公開を目的とした施設です。つまり、耐火構造の宝物庫です。その後も1979年に新収蔵庫3棟、2001年には新館の裏に平成館が開館しています。41点が国宝に、 6万点以上が重要文化財に指定され、醍醐寺が日本最大級の文化財保有数を誇ることになったことも霊宝館の新築への拍車をかけたようです。
外観は白亜の殿堂となっており、どことなく城郭を彷彿とさせる意匠です。霊宝館で仏像などを拝観すると博物館で展示物を鑑賞している感じで物足りなさもありますが、千年の歴史を持つ醍醐寺は何度も伽藍堂塔が罹災し、今残る以上に失われた寺宝が数多くあります。それを思えば、後世に遺すためにこうした宝物庫に寺宝を保管することは理にかなっているのかもしれません。 -
醍醐寺 霊宝館
新館の美しい白壁には、「太閤桐紋」とも称される「五七桐紋」がレリーフで浮き出されています。さすがに唐門のような金ピカは憚られたようです。
しかし、これだけ潤沢に桐紋が使えるのも醍醐寺の特権ですね! -
醍醐寺 霊宝館 ソメイヨシノ
霊宝館の庭には、京都最大と称されるソメイヨシノの巨木もあります。
通常、ソメイヨシノの寿命は60年と言われるのですが、こちらは樹齢100年を超える古木です。太い幹だけでも存在感充分です。
これも桜守の方々の日々の手入れの賜物と感謝の気持ちで一杯です。 -
醍醐寺 霊宝館 ソメイヨシノ
凛とした佇まいは「孤高のソメイヨシノ」と表現してもよいかもしれません。
太い幹と長く伸びた枝がその歴史の長さを物語り、力強さが漲っています。
太い枝が一部切られているのは少し痛々しくもありますが、咲き誇る花がそれを忘れさせます。 -
醍醐寺 霊宝館 ソメイヨシノ
花付きも旺盛で、とても平均寿命の2倍に手が届く老桜とは思えないエネルギーを秘めています。
「青春とは、心の若さである」と言う、サムエル・ウルマンの言葉が浮かんできます。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
醍醐寺にある巨木の枝垂桜は、「醍醐の花見」でこの地に移植された桜の子孫に当たり、その中でも霊宝館 平成館の庭に佇む「醍醐深雪桜」と呼ばれる桜は、樹齢180年を誇る風格漂う古木です。写真の桜全体が一本の桜です。
秀吉が行った「醍醐の花見」の際に眺めた枝垂桜の3代目に当たるそうです。佇まいも美しく、その枝ぶりが時には優雅に、時には力強さをも表現し、人気が衰えません。伸び伸びと枝から優雅にしな垂れる桜花の群れは、流れ落ちる小瀧やゆったりと羽を広げた鳳凰の姿を彷彿とさせ妖艶に迫ります。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
京都一と言っても過言ではない枝垂桜「醍醐深雪桜」は、文字通り深い雪が積ったような素晴らしい景観を呈し、中庭はこの桜の悠久の美を讃える歓声に包まれています。
幅25mに亘る見事な樹形は筆舌に尽くし難く、おおらかに伸びた華奢な枝が幾段にも分流した小瀧を彷彿とさせ、その枝垂れの枝の先々にはこぼれるように咲き誇る花々が時折吹く風と戯れています。まるで花飛沫のようで、散り初めの頃の風情が偲ばれます。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
樹齢180年と聞くと老桜と直感的に思ってしまいますが、枝垂桜の平均寿命は300年だそうですので、人に例えれば50歳頃に相応し、「天命を知る」年頃と言えます。
しかし、今期の冬は雪が例年になく多く、身に堪えたかもしれません。来年も豊かな桜花を咲かせ、訪れる人を幸せな気持ちにさせて欲しいと願うばかりです。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
まさに春爛漫の艶やかな桜そのものであり、醍醐寺に数多咲き誇る枝垂桜の中でも凛として他を寄せ付けない別格の気品を感じさせます。
午前中は逆光となりますが、午後に訪れると迫力のある姿を鑑賞できます。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
この桜の孤木は、一種独特な妖艶な気配を漂わせ、坂口安吾 著『桜の森の満開の下』のエンディングの情景を思い起こさせます。
『桜の森の満開の下』は、鈴鹿峠に棲まう山賊と妖しく美しい残酷な女との幻想的かつ怪奇的な悲恋の物語です。満開の桜の木の下で花びらと化して掻き消えた女を偲ぶ男の「孤独と虚無」を、メタファー手法で見事に描写した坂口文学の最高峰と称されています。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
どこを切り取っても絵になる桜です。
まさに四方八方死角なしです。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
こうして庭から間近に眺める深雪桜にも味わい深いものがありますが、この桜を平成館の奥にある休憩室からソファーに座って眺めると一味違った趣に満たされます。
混雑時にはソファーに座ろうと列をなすこともあるそうです。ただし、室内からは写真撮影が禁じられていますのでご注意ください。 -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
碧の芝生の海に枝垂れて降りかかる風情も気品に満ちています。
見頃は例年3月下旬(26〜31日)です。ソメイヨシノの開花にバトンタッチするように散り初めます。京都では少し早めの開花タイミングになりますので醍醐寺のHPで開花情報を逐次チェックして訪問されることをお勧めします。
醍醐寺のHPはこちらです。「桜だより」をクリックしてください。
https://www.daigoji.or.jp/ -
醍醐寺 霊宝館 醍醐深雪桜
今や霊宝館のランドマークとなった巨大な枝垂桜ですが、2001年までは藪や建物に隠れ、関係者以外にはその存在が知られていなかったそうです。
平成館のオープンを機に突如世間に姿を表した、「遅咲きの桜」とも言えます。
深雪桜に後ろ髪を引かれつつ、散策路を進みます。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
霊宝館の裏手へ回って来ました。
こちらも春爛漫の様相です。
折り重なるように記念植樹・奉納された桜があちらこちらで咲き誇っています。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
醍醐寺で一番早く咲き始める河津桜から、枝垂桜〜ソメイヨシノ〜山桜〜八重桜〜大山桜まで3週間に亘って桜を愉しめるそうです。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
八重桜も咲き始めています。
今年は一気に春めいたせいでしょうか? -
醍醐寺 霊宝館 散策路
天空から降り注ぐかのような背の高い枝垂桜は、古来より「糸桜」と讃えられる通り圧巻です。
「醍醐の花見」の真相は、慶長の役で気落ちした秀吉が暗澹たるムードを払拭するための気晴らしとして企画したイベントでした。「醍醐の花見」を偲びながら、慶長の役の謎を紐解いてみましょう。
秀吉の朝鮮出兵に関しては、次のような一般解釈が散見されます。
①秀吉がボケたために起こした意味のない戦。
②秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な野望。
③戦を好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払って殺す戦略。
どれも腑に落ちない解釈ばかりです。というのも、朝鮮出兵は日本国内のロジックだけでは推し量れないものであり、往時のアジアの国際情勢を見極めないと読み解けないのです。
朝鮮出兵は16世紀東アジア最大の戦であり、日本から16万人が送り込まれ、朝鮮と明国の連合軍は25万人で対峙しました。天下分け目の関ヶ原の戦いが東軍7万人、西軍8万人であり、朝鮮出兵のスケールは別格です。大挙して出兵せざるを得ない正当な大義名分があり、臣下がそれに納得したからこそ挙兵できたのは明白であり、次のシナリオが読み取れます。
往時はスペインが世界を制覇した時代。世界の8割が植民地と化し、東亜ではルソン(フィリピン)に東亜拠点の総督府を構える勢いでした。信長や秀吉の時代、スペインの征服を免れていたのは東亜では明と日本だけでした。そんな中、1549年にスペイン人が初来日、宣教師フランシスコザビエルです。往時の宣教師は、表向きはキリスト教の伝道師でも、裏では僧兵軍団でもありました。宣教師が改宗させて骨抜きにし、頃合いを見計らって軍隊を送り、人々を殺戮して財宝を強奪し、ひいては植民地にする戦術です。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
伽藍入口の西大門を彩る巨木枝垂桜です。地肌むき出しの築地塀と桜のコントラストも抜群です。
東亜征服を目論んだスペインの誤算は、持ち込んだ鉄砲を器用な日本人が瞬く間にコピーして量産してしまったことです。気付いた時には、日本の鉄砲所持数は世界の半数を占める莫大な数に至っていました。故に「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかない」と布教に注力する作戦に転じたのです。
勿論、スペインの狙いは東亜全域の植民地化。明は鉄砲をコピーする能力がない代わり、広大な国土を有し人口は半端ではなく、その調略には手間がかかります。秀吉は、得意とした調略を選択せず、明を攻略するに当たり共同戦線を打診したスペインを袖にします。戦国時代のゴールは、戦乱の世を終焉させて治安を回復することにあり、他国に干渉している暇はなかったのです。信長は比叡山や本願寺を攻めたことで魔王のごとく記されることが多いのですが、本来の狙いは戦乱の世の終焉に尽きました。秀吉も同じです。だからこそ平和を願う人々が彼らに従ったということが、最近発見された各種文書から詳らかにされてきています。秀吉の片腕だった軍師 竹中半兵衛も、天下を統一することで平和が訪れることを望んで信長や秀吉に使えたのです。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
天空を覆い尽くすかのように降り注ぐ枝垂桜のシャワーです。
天下統一後に治安が回復すると、今度は明への対処が急浮上したのです。スペインとの直接対決なら、はるばる航海して来る兵は少数のため、武器、武力共に日本が圧倒的優位です。しかし、スペインが明を支配したとなると事情が一変します。スペイン支配下の明兵が数にモノを言わせて攻め込んできたら、まさに元寇の再来で国難といえる脅威になります。ならばその驚異を払拭するには、スペインに先じて明を支配下に置くしかありません。万一明まで攻め込めなくても、朝鮮半島を緩衝地帯としておくことで日本への侵略を牽制できます。これは、ロシアの南下政策を防ぐために明治政府が執った政策と酷似しています。さらに秀吉がすごいのは、この時点でスペインが誇る無敵艦隊が英国との戦争に破れ、海軍力を大幅に低下させたことを知っています。ですから、スペインが日本と海戦を交えることはないと読んでいたのです。一方、戦乱の世を終焉させたい秀吉は、刀狩りを実施し、庶民から武器を奪います。これは泰平の世を築く必要条件なのですが、同時に侵略の際には戦力を削ぐ二律背反事象でした。ならば、武力がまだ健在なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明までを日本の支配下に置いてしまう。これが一番の防衛策と読んだのです。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
この辺りは、枝垂桜のジャングルのような雰囲気で迫ってきます。
秀吉は、世界を制する大帝国スペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」と迫りました。
何故このような強攻策を取ったのでしょうか?
①国際関係では「対等な関係」というものは存在しない。
スペインに侵略させないためには、日本が圧倒的な強国であることを思い知らせるしか術がなかったのです。
②「対等関係」を甘受すれば、スペインは平和特使と称して多数の宣教師を派遣し、内部から切り崩し工作を行なったはずです。現に多くの国家がこの戦術でスペインの植民地と化しました。
③秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であった。
要するに、朝鮮出兵は、スペインの東洋支配に対し、国家統一を漸く成し遂げた日本が、いかにして国を護るかを考え抜いた上での決断であったと言えます。
朝鮮出兵を行なわず、日本の国威をスペインに見せつけずに看過していたら今頃どうなっていたのか?
スペイン支配地となることがどういう意味を持つのかは、南米大陸が如実に物語っています。現在、南米に南米人の純粋種は存在せず、白人種との混血種だけとなっています。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
三宝院の唐門が土塀の屋根越しに見られます。
慶長の役は秀吉の死去に伴い終焉しました。何故このタイミングで朝鮮半島から撤収したのでしょうか?
それは、スペインが英国やオランダに押されて国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったお国事情が判ったからです。
もうひとつの謎は、秀吉は何故「明を倒す」と豪語しながらも、実際には明本土には手を付けず、朝鮮半島だけで戦ったのか?
スペインが年々国力を低下させる中、次第に出兵にも意味がなくなり、むしろ百姓たちからの刀狩りの「大名版」として朝鮮出兵をしていた訳です。言わば、江戸時代の参勤交代の魁です。太宰府には伊達政宗などもやってきていますが、大名行列は莫大な資金がかかります。その出費は、それぞれの大名の国力を弱めます。こうすることで、天下泰平の世の中を持続させようと目論んでいたことが窺えます。従って、副次的には一般解釈の「戦のない世の中」が存在したことになりますが、その目的は天下泰平だったのです。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
桜の時期は霊宝館の周囲を散策することができ、庭にある枝垂桜の巨木を鑑賞することができるのも魅力です。
もしも醍醐寺以外の場所に移植されていたら、どれも衆目を集める桜の名木として沢山の人々に愛でられていたことであろうにと少々複雑な気持ちになります。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
このように建物を取り巻くように立派な桜が咲いています。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
屋根の上に流れ落ちる瀧のように、縦方向への動きのある男性的でダイナミックな枝垂桜です。 -
醍醐寺 霊宝館 散策路
目に鮮やかな笹竹とのコラボレーション。
このように多彩な組み合わせで桜を愛でることができるので、桜三昧でも飽きることがありません。 -
醍醐寺
霊宝館を後にして、桜のトンネルを更に奥へと歩を進めます。 -
醍醐寺
白い築地塀に映った樹木の陰影に息を呑みます。 -
醍醐寺 雨月茶屋
休憩や食事処となる雨月茶屋界隈(露店)の賑わいぶりです。
雨月茶屋では野趣あふれる旬の美味しい食材を水に拘って調理した醐山料理が味わえ、また、古文書に記された精進料理「すもし(寿司)」を再現した料理も堪能できます。
値段は少々張りますが…。 -
醍醐寺 雨月茶屋
雨月茶屋の門を潜って参道の上を見上げると目の前にはこうした素晴らしい光景が広がっています。 -
醍醐寺
更に桜のトンネルを南へ進むと、人の数もまばらになります。 -
醍醐寺 報恩院
霊宝館の南隣にある真言宗醍醐派の総本山です。
下醍醐にある醍醐寺の塔頭のひとつで、醍醐寺門跡を輪番で勤めた三宝院・理性院・金剛玉院・無量寿院と共に醍醐五門跡でもあります。
元々は上醍醐にあった極楽坊を醍醐寺第35世座主憲深僧正が活動拠点とし、報恩院と名前を変えたことに始まります。その後、後宇多法皇の命により下醍醐に移り、明治時代にこの地に移りました。 -
醍醐寺 報恩院 大枝垂桜
鄙びた感じのする堂宇と背の高い枝垂桜が見事にマッチしています。
駐車場近くにあり、混雑する伽藍や三宝院、霊宝館とは違い、水を打ったかのように静寂なお寺です。
ここでは毎日堂内で護摩が焚かれ、本尊 不動明王に家内安全、商売繁盛、厄除招福をご祈願しています。本尊 不動明王の上半身は煤で真っ黒になっており、霊験あらたかな雰囲気が漂います。 -
醍醐寺 報恩院 大枝垂桜
ここの枝垂桜は、数ある醍醐寺の枝垂桜の中でも三宝院や霊宝館、五重塔近く、金堂脇と肩を並べるほどの風格があり、背が高く立派な枝垂桜です。
お隣の霊宝館の深雪桜が横に長いのに対し、こちらは高さで勝負しています。堂宇に覆い被さるように繊細な花を咲かせています。
醍醐寺にあって人の少ない穴場として地元カメラファンを魅了し続けているそうです。拝観が無料というのもお財布にやさしいですね!お礼の気持ちは、お賽銭に込めてください。 -
醍醐寺 報恩院
門の屋根の留蓋瓦と丸瓦の模様は、なんと「五七桐紋」です。
「五七桐紋」の留蓋瓦は、醍醐寺総門の横に連なる築地塀の屋根にもひっそりと載せられています。
見逃さないようにしてくださいね!
報恩院を後にして、次は「桜の馬場」を突っ切って伽藍へと歩を進めます。
この続きは、芳葩爛漫 桜紀行 醍醐寺③伽藍(エピローグ)でお届けします。
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