2015/03/13 - 2015/03/16
399位(同エリア984件中)
JBさん
・建仁年間(1201〜1204)二階堂行政が幕府の軍事目的のために築城する。
佐藤朝光・伊賀光宗・光資と続き、稲葉氏に改姓。稲葉山城と名付ける。
その後は
・応永年間(1394〜1428)守護代の斉藤利永が城を修築する。
・天文18年(1549)斉藤道三が井之口城下をつくる。義龍を経て
・永禄10年(1567)孫の龍興が織田信長に攻められ開城。
・永禄10年(1567)織田信長が尾張清州から移る。
・天正 4年(1576)信長の安土移転後は子の信忠が継いだが
・天正10年(1582)両名共に本能寺の変で戦死。信孝(信長三男)が移る。
・天正11年(1583)信孝が羽柴秀吉に攻められ開城。池田元助が入る。
・天正13年(1585)長久手合戦で元助戦死。輝政(元助弟)が継ぎ天守等造営。
・天正19年(1591)輝政の三河吉田転封後は豊臣秀勝(秀吉甥)が入る。
・文禄元年(1592)秀勝が朝鮮出陣中に病死。織田秀信(信長孫)が移る。
・慶長 5年(1600)秀信は関ヶ原合戦の前哨戦で東軍に攻められ開城。
・慶長 6年(1601)徳川家康の命令により廃城。資材を加納城に移す。
・明治43年(1910)模擬城建設。昭和18年(1943年)消失後
・昭和31年(1956)現在の天守閣を再建する。
【岐阜市による現地案内板『岐阜城の歴代城主』から抜粋】
城跡のある金華山は標高329m。ですが其処からの眺望は圧巻です。
・其処から他国侵略を企てた斉藤道三と織田信長。
・此処だけは守ろうと籠った斉藤龍興と織田秀信。
互いに祖父と孫ですが、抱いた感覚だけでなく其の末路までが似て、これも人の世に有りがちな道理ということでしょうか。
天下人になった徳川家康はこの城を廃しました。
廃材は近くに天下普請された長女の加納城に使われ、山そのものは尾張藩の御山になりました。金華山という山名は、明治期にどんぐりの花が咲く様から名付けられたと聞きましたが、私は、もう少し古くからある名称ではないのか、という感覚を捨てきれません。
いつも通り『現地でふくらむ想いを勝手に呟きつ』の気ママ旅ですが、今回は家族(妻・次女)との観光旅行を兼ねて訪ねてみました。
*写真は信長が使ったと伝わる『天下布武』印(レプリカ)
(参考:岐阜城の発掘状況等HP)
http://www.nobunaga-kyokan.jp/%e8%b3%87%e6%96%99%e5%ae%a4/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- JTB
PR
-
こんにちは(=^・^=)。
実は、去年の夏に新入研修を終えた長女が名古屋に赴任しまして・・。彼女が人生初となる自由を謳歌していると想い、じっと我慢の父に彼女から先日連絡がありました。
「ベトナム、沖縄と楽しそうだったね。名古屋は雪で寒いしね・・」、続いて「ゴールデンウィークは友達と石垣島にでも行こうかなあー、と。。。」
*南側から岐阜城天守 -
個人趣味には『寛大』な父でもある私は
「君の人生だからね。時間は大切に使うんだよ」 とキッパリ!だったんですが
*東側から岐阜城天守 -
ところが、ところがなんですがね。
(`ヘ´)から(@_@ 娘になって「同期の新入社員で、まだ一度も両親に来てもらってないのは私だけ?(T_T)」と。
・・・(-_-;)ナルホド、で厳格な私は幻覚となり<m(__)m>から( ^^) _旦~~。
*北東側から岐阜城天守 -
・・四方山話の中で、長女の仕事先での担当地域が稲沢方面だと、聞いた私。
「勝幡があるねえ。津島はいいだろうなあ。本当はこっそり考えていたんだよ、親子水入らずでね。もちろん・・・、ん?、お前さえOKなら来週だよ。来週!」
*北側から岐阜城天守 -
ところが、手打ち用のそれらしい宿(温泉+和室)を急遽探すも、犬山にしか見つからず。
*西側から岐阜城天守 -
長女の件でアタフタ大騒ぎしている私を横目で見た次女のいう事には
「お姉ちゃんは私も心配だなあ。でもまあパパは信長が好きだし、私の友達の○●ちゃんは岐阜出身だし温泉は私も好きだし・・」。
との次女の明快な理論(罠?)に沿って(嵌って??)やってきたのが、岐阜城です。
*地元案内板 -
観光旅行なので、もちろんロープウエイ利用で登りますが
「昔の人はこの切り立った崖をどこから登ったのかなあ」とプロローグしつつ「それにしても気持ちの良いピクニック日和だねえ」と次女姫のご機嫌も探りつ -
秀吉が堀尾吉晴に案内させたルートは?とか独りでウロウロ見まわしながら
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でも、此処に冠木門ならとメータ片手に云々は、観光旅行には馴染まないようだし
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昔、社員旅行でやったように
「馬場ではなく、ヤッバー!」というのも・・どうやら不発。 -
取り憑かれた様に天守閣をのみ目指す妻と次女とを、アレコレ立ち止まって遅れては、ドタバタと走って追いかけます。
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それでも軍用井戸くらいは抑えて(井戸といっても雨水の溜め池なんですがネ)と。
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天守最上階でやっと追いつきました(模擬天守ですが、復興第一号らしいですヨ)。
*桑名方向 -
手前が斉藤道三の隠居城とも伝わる鷺山です。
*大垣方向 -
道三最期の戦場は長良川のどの辺りだったのかなあ。それにしてもこの位置関係から寡勢で戦いを挑むというのは、いったい道三の想いは何処に・・・。
*城ケ峰方面 -
「最期に小牧源太がね・・」と話しかけ、しかし観光旅行には南アルプスの景色についての方が受けるらしい。
*百々ケ峰方面 -
この山は平野部にポッカリ単山ではなく、幾つかの峰の集まる連山です。更に一方は長良川に面しているので、周囲を全て押さえて攻めるというのは、群雄割拠する戦国期では物理的に不可能だったでしょうね。
*関市方向 -
5時間後には仕事を終えた長女を犬山駅に迎えにと、スケジュールを気にしつつ
*犬山市方向 -
一昨日この辺りは雪だったそうで、まだ結構かすんで見える景色をも、しかしそれがそれなりに愉しめる、此処はそういう場所です。
*名古屋市方向 -
そして遠目に・・、今日も頑張ってるかなあ○o。.と。
*稲沢方面 -
あいにくの天候ながら、それでも名古屋駅までもが分かります。
どうやら尾張の様子は道三から丸見えだったようですね(それでも信秀と同盟というのは国内不安が大きかったのか、若しくは尾張は安牌という事かもしれません)。
*清州方面
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家康との同盟で後方を固めた信長が城に籠った龍興を攻め取れたという史実も、また信長自身は此の城に籠って戦う意図などなかったであろう事は、この図に書かれた麓の居館防備が薄いことからも想像されます。
*現地にあった全体のイメージ図(建物3Dは参考程度でしょうが・・) -
信長は、都の公家等にも頂上からの景色を見せています。
登ってみて、いち早く見晴らし台を復興させた地元の方のセンスに共感しましたが、この城は下からは見上げさせ、上からは周囲を見渡す(偵察する)ために造られたようです(安土にも繋がる思考ですね)。
*オリ尻尾みたいと好評だった太刀の尻鞘(シリザヤ) -
あれこれですが、『降りるピクニック』はアッサリ賛同を得ました。
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この道は、またの名を『瞑想の小道』というそうですが、瞑想しながらは歩かない方が良い、と思います。過去にも転落事故が何度もあるそうです。
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大手道の次に緩やかだと教えられた水の手道。まだ雪も残っています。
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ですが妻と次女は案外スタスタ歩き、雑念の塊の私がアタフタ追いかけるという構図は登りといっしょです。
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岩盤が固くゴツゴツと尖っているので、私はスニーカーでしたが足の裏が痛いくらい。でも、この道は林間も気持ちいいですが折々に見える展望が素晴らしいです。
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親切な地元の方にペースを作って頂いて、何とか無事に降りることが出来ました。改めて「ありがとうございました」。
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ヒトツバという常緑シダの群落です。
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水が沢になって流れた跡です。岩盤が固く、雨水が浸み込んで溜まらず流れ落ちるからだそうです。
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突然、開けました。碑には『伊奈波神社旧跡』とあります。
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イナバは道三関連なら稲葉でしょうが、この露出したチャート岩を見た途端、私には『因幡』が浮かびました。
*現地掲示板 -
『金華山は案外古くからの名称かもしれない』と最初に書いたのは、長良川の『ながら』という名称もですが、金の華山に『鉄(砂鉄)』を想ったからです。
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帰宅後にグーグルを眺め、この丸山の脇が『鏡岩』という場所だと知りました。おそらく露出した赤色変成岩(チャート)面が鏡面反射したことからの地名でしょう。
美濃国三宮の伊奈波神社に祭られる神は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)です。彼の妹は伊勢内宮の祖となる倭姫命(ヤマトヒメ)ですし甥は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。甥と酷似の人生(活躍)を為した人ですが、遙かに地味な存在です・・・。
五十瓊敷入彦命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E7%93%8A%E6%95%B7%E5%85%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD -
丸山は、秀吉が千成瓢箪を掲げた郭に続く馬の背道との分岐に当たります(先ほどの3Dイメージ図では丸山砦が有り)し、更に江戸期の岐阜廃城後には伊奈波神社摂社の丸山神社(式内物部神社の論社)を復活させた曰くの地であるようです。此処が天武帝の遥拝した場所かもしれません。
*現地掲示板 -
ついでなので、もうひとつ書いておきます。
稲葉氏(春日局の母方)の家紋は、以前に道後で紹介した『三折敷』という伊予河野氏族の代表紋(稲葉氏の出自は之によるとの説が有名)ですが、この紋は大山積神(山の神・奇稲田姫の祖父)の神紋でもあります。私は、むしろ稲葉氏家紋はコチラの出雲繋がりの方が基になると考えています。
道後では出雲系の式内三社にも触れましたが、此処にも古社があるというだけでなく、同じ中央構造線の断層運動に関係する土地の古社という点に関心を抱いています。
*現地掲示板にある昭和初期の写真 -
で、ここまでダラダラと書いてきたのは、次回あたりは少し神代に近づくネタ話。それも今年の干支に併せてというのも愉しいかな、って思ったからです。
それにしても此処での発掘(岩盤・急斜面)は雨が降る都度に表土が流れてしまって、発掘面の確保すらも大変とのことでした。 -
さ〜て、そろそろ今回は長女と感動の再会に(=^・^=)。
・・これから犬山に向かいます。じゃねー。
*館発掘地に設置された模擬の冠木門
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