2015/01/18 - 2015/01/19
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ちびのぱぱさん
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菜の花や 月は東に 日は西に
冬の晴れた日、その早朝の後楽園が良いと聞きました。
あ〜、快晴です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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岡山駅の桃太郎
「あ、モモタロさんだ。」
岡山駅前にはももたろさんと、そのゆかいな仲間たちの銅像がありました。
ホテルへ急ぐ途中にちらりと目に入っただけなのですが、岡山といえば桃太郎だったっけ、とぼんやり思いました。
なぜか最近、この桃太郎さんが注目を浴びているような気がします。
あの電話会社のCMや、飲料水のCM……
なぜ今、もも太郎なのか?
とりあえず、駅の売店で廣榮堂の吉備団子を買っては、あります。
どうにも気になって調べていたら、福沢諭吉は、桃太郎の物語で、悪いのは桃太郎で、鬼は被害者だと言ったらしい。
ただの悪者退治でなく、宝物の強奪という利害目的があるのだから、目的の正当化に過ぎないという。
このことと関係がありそうなのが、日の丸鉢巻きを巻いた勇ましい武者姿の桃太郎像は、周辺諸国への侵略を肯定したい明治政府の演出だという話。
そういう観点で見ていなかったなあ。
為政者によるプロパガンダというのは、桃太郎の話で喜ぶハナ垂れ小僧にまで及ぶのか。
そのほか、桃が精力剤の働きをして、それを食べたおじいさんとおばあさんが子供を授かったというバージョンなど、桃太郎伝説は数知れないバリエーションがあることも分かりました。
もちろん、岡山の吉備津彦の話も出てきます。
大和朝廷による地方成敗をモチーフにした寓話説。
あと、「どんぶらこ」のくだりは、海洋を渡ってきた日本民族のルーツに迫る説。
この物語の何がそれほど日本の人々の心を引きつけるのか。
それは柳田国男などの一流の学者たちの研究対象にもなって、なにやら日本人の深層心理にまで迫っちゃう。
学者ってすごいなあ。 -
もも太郎の駅前からレトロな路面電車で「城下(しろした)」のホテルに移動します。
運賃100円が、やさしいなあ。 -
岡山名物、豚の蒲焼き
そういえば、桃太郎の岡山駅で、夕食用に「かばくろ」なる豚の蒲焼き弁当を買いました。
聞くところによれば「岡山名物」なのだそう。
コンフォート岡山の、小ぎれいな部屋で飢えたオオカミのように食べました。
炭火で焼いた豚肉に、鰻のタレが実に香ばしいんですな。
最近、ウナギの蒲焼きは値段がうなぎ登りでトンと手が出ない。
せめて香りだけでも。
と思いましたが、炭火で焼いた肉は美味しい。
真栄田という割烹のお店がまかないで出したら、こりゃうまい!
ということになって売り出したそうです。
しかし、ひとつ680円は値が張るなあ…… -
後楽園
翌朝、ホテルで朝食を済ませ、徒歩で旭川の方に向かうと、すでに早朝と呼ぶには遅すぎますが、空は晴れ渡り、川がゆったりとした水を湛えています。
ああ、今日は吐く息が白くなります。
旭川のあちらにこんもりとしているのは、音に聞く後楽園。
恥ずかしながら、日本三名園の後楽園が野球場のある後楽園とは違うということを知ったのは成人してから。
そんなわけで、自分に「名庭園」を鑑賞する素養があるとも思えず本当のところは気が進みませんが、まずは何事も経験と、足を励ます。 -
この旭川、今はこのように澄ましてますが、かなりの暴れ川です。
昔から氾濫を起こしてはこの地の住民を苦しめたそうで、後楽園を作った池田綱政は、治水対策としてこの向こうの方に百間川を整備したといいます。
百間川といえば、岡山出身の作家内田百間の名はその川からもらっていると聞いています。
内田百間せんせい
なんといっても「阿呆列車」がおもしろいです。
「阿呆列車」というのは、作家内田百間が戦後に日本中を汽車に乗って旅をしたその紀行文なのですが、とにかく尋常でないへそ曲がりぶりがおかしい。
たとえば、汽車を乗り継ぐことになったとき、向こう側のホームに階段で移動しなければならないのだけど、みんな走ってゆく。
放送でも、おいそぎください、かなんか言っている。
そうなると、おもしろくない。
なぜ走らなければ間に合わないようなダイアを組んだのか。
そんなのは、正しい乗り継ぎではない。
意地でも走らんぞ、となる。
困った駅員が、少し待つ素振りをすると、それがますますしゃくに障るから、もっとゆっくり歩く。
弟子も困るけど、せかしたりしたらもっと遅くなることを知っているからとにかく黙ってついて行く。
汽車はとうとう行ってしまう。
次の汽車は当分来ない。
雨が降り出したホームのベンチに、弟子と腰掛けているとだんだん惨めになってくる。
とまあ、万事こんな調子です。
ただ、旅先の情景の描写がすばらしいのです。
「阿呆列車」の中で、百間先生の乗る汽車がこの川を渡るとき、自分の名である百間(本当は門の中に月)が、どうしてそうなったかについて弟子のヒマラヤ山系さんとあれこれ話す。
多分にへそ曲がりな理由なのですが、川の名前の百間と字が少し違うのも愛嬌。
その子供のような人柄が、周囲からやたらと愛される。
映画「まあだだよ。」は、そんな先生といい年になった教え子たちとの心温まる交流を中心に描かれた、黒澤監督の遺作です。
自分のペンネームを、この旭川でなく放水路である百間川にちなんだものにしたのはどうしてなんだろう。
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さて、後楽園にはこちらの、無粋だと評判の悪い月見橋を渡って行くことが出来ます。
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月見橋を渡って後楽園の脇を少し歩いてみます。
すぐに、岡山城の幽玄なる姿が川の上に聳えているのが目に入りました。
この角度で見るのは絵になるな、と思いました。 -
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川の畔につながれた和船の艫に、一羽のゴイサギ。
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冬の後楽園
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日本三名園
金沢兼六園は雪、水戸の偕楽園は花、そしてこの後楽園は月を鑑賞する庭園なのだそうです。
このへんは、なんとなく聞いておりました。
北陸金沢の雪は分かります。
雪吊りの時期に行ったことがありました。
水戸の梅も分かります。
後楽園の月、というのはどういう事でしょう。
裏口のような南門から入る(400円)とすぐに、廉池軒という建物があり、江戸時代からのものが残されています。
池田綱政が特に愛したお休み処だといいます。
「廉池」というのは「清らかな池」ほどの意味でしょうか。
中秋の名月の頃に、この池に映る月を肴に一杯やったのだろうか。
名月や 池を巡りて 夜もすがら
松尾芭蕉は同時代の人です。 -
廉池軒のニシキ鯉は、流れてくる清らかな水に身を任せ、物思いにふけるかのように泳いでいます。
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しかし、今は1月の、程なく大寒。
この寒いさなかに、月見でもないなあ。
そもそも、夜間は営業(?)していない。 -
冬枯れの池泉回遊式庭園。
江戸時代の大名たちは、庭園造りを好んだようです。
池や泉を配して、景色を愛でながら回遊したのでしょうか。
結構ストレスのたまる時代だったのかなあ。
求めていたのは、癒し……だろうか。
精神性だの宗教性だのを求めていたのではないように思えます。
ここを「回遊」している内に、そう確信するようになりました。 -
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じゅうたんの醤油
学生時代に、天才肌の後輩がいて、たとえば、習ってもいないピアノを見事に弾きこなしたりします。
ある日、彼の部屋を訪ねると、真新しい絨毯に醤油の染みがいくつかついていました。
彼にそのことを尋ねると、
「染み一つ無いのは、不自然だったから。」
というのが理由でした。
しかし、自然なはずのその染みにはどこか不自然さが感じられ、彼自身もそのことが不満のようでした。
人間という生き物はまあ、「自然」というものを憧憬し、自分の身の回りに配したがるものではないでしょうか。
ところが、その「自然」というのが、なかなか手懐けるのは難しい。 -
静かな庭園をゆっくりと歩いているうちに、いろいろなことが頭に浮かんできます。
人はどうして庭園を造るのだろう……。
唯心山
小高いところに登ると、園内を一望することが出来ました。
唯心山と名付けられています。
唯心……、頭で考えるな、ということなのでしょうか。
それでも、また考えちゃいます。 -
下手な考え休むに似たり……か。
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もちもちの木。
イカルが来て実を啄んでいるので、時折、下の池に落ちて、静かな水面に波紋が広がる。 -
波紋は遠くに行く程、ゆっくりと広がってゆきます。
その波紋が広がって行く先が、「流店」というお休み処。 -
ここも、戦災を免れて往時のままに佇んでいます。
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流点
左の板の間、中間の水路、右の板の間は、それぞれ2:3:4という比率の幅になっているそうです。
それが何を意味しているのかは知りませんが、とてつもなく居心地の良い空間です。
そして、何かしら心に訴えかけてくるものがあります。
それが意味するものも、わたしには何だかわかりません。
ただ妻が、いつまでも倦かずに見つめていました。
私の方は、水路の中に配された石を見て、以前にこれと似たものを見たような気がします。
そうだ、竜安寺の石庭か……。 -
少し薄曇りになってきました。
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庭園の中央にある大きな沢の池にある島に、島茶屋と呼ばれる建物。
時折解放されてお茶が振る舞われたり、有料で貸し出されたりしているようです。 -
ああ、心が安らぐ……
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かつてお殿様が愛飲したお茶を産する茶畑。
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石割のなぞ
慈眼堂、1697年、池田綱政が建立。
手前の岩は烏帽子岩と言い、36個に割られてここで再度組み立てられました。
運びやすいからこのように割られたのか、おもしろいことをしたものだと思いました。
しかし、この程度の石は、当時の日本では難なく運ぶ技術はあったと思います。
この後楽園が造られるよりも何十年も前に建てられた大阪城には、遙かに大きな石が用いられているのは有名です。
むかし私の母親が、太閤が諸大名に競って運ばせたのだと話していたのを思い出します。
小豆島の巨石を大阪城まで運べるのであれば、近海にある犬島から海路、そして旭川を使って此処まで運ぶのは、朝飯前だと思います。
では、どうしてこのように手の込んだことをしたのか。
仕掛け人は、造営を担当した津田永忠でしょう。
この方法は、後で見る別の岩にも用いられました。 -
後楽園のシンボル
庭園の奥に舎があって、タンチョウが飼育されていました。
とても大事にされているようです。
聞くところによると、後楽園とタンチョウは深い繋がりがあります。
タンチョウは、江戸時代から園内で大切に飼育されていました。
時折、この庭園につるが舞い降りると、また飼育されていた鶴が卵を産むと、わざわざ江戸表の殿様まで知らせが行ったのだとか。 -
「千代やへん
空とぶ鶴のうちむれて
庭におりいる
宿の行末」
後楽園の生みの親、岡山藩第二代藩主池田綱政が詠んだ歌です。
戦災で失われた城と後楽園のいくつかの建物。
ツルはどうなったんでしょうか。
今のタンチョウは、昭和31年に中国から送られたものから増えたそうで、北海道のツルの血も入っているのだとか。 -
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おみやげ屋の店先にひときわ目立つ人形。
ちくわとかキュウリとか、大根を楽器にする人がいました。
この方はちくわ笛の名人、住宅(すみたく)さん。
なぜここに人形が置かれているかは知らない。 -
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遠景として配される岡山城。
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藩主の居間であったという延養亭。
先ほどの池田綱政の歌は、ここに舞い降りた鶴を見て読んだものです。
むかしは日本中にタンチョウがいたということに、思いをはせる。 -
しだれ桜?
これが咲いたところを想像してみました。
庭造りの創作とは、どのように行うのだろう。 -
作為はあるのだけど、それを感じさせない、つまり自然であることは必須のように思える。
そうでないと、寛げない。 -
見上げると、能舞台の屋根が見えます。
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池の畔に配された大立石。
92個に切り分けて運ばれたという。
石は、今のように電動のこぎりで切ったりしないで、目に沿ってくさびを打ち、水を含ませてゆっくり割ったと言います。
根気の要る作業ではなかろうか。
木の模型まで造られています。
このように細かく割って組み立てるのは、子孫繁栄を願ってのことと言われているようです。
細かく割られて運ばれた後楽園の石は、この庭園の大きな特徴の一つだと思います。 -
池の上に枝を張る、猫の生る木。
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よく見ると二匹
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つばきの蜜を吸うメジロ
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思いの外長時間滞在した後楽園を後にして、お城に向かいます。
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戦災に遭い、復元されました。
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城を跡にして岡山駅へ
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信号待ちをしていると、どこからともなくクラッシックカー。
乗っている方も決まってました。 -
JR岡山駅から12時12分の鈍行に乗り、
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途中相生で乗り換え、姫路には12時39分に着きました。
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コンフォートホテル岡山
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