1953/04/01 - 1954/06/30
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ソフィさん
2014年12月21日(日)日記1 − 鉄道生活の原点品川
羽田の地下から乗った京浜急行は「印旛日本医大前」行。
思い掛けない行き先にエェッ・・・。なんてことだ!?
しかも今回泊まろうとしている品川まで20分足らずと、都心と羽田が近くなっている。
昔私の住んでいた東京は、離れて30数年の間に、丸っきり変容していた。
1961年東京からパリに旅立ったとき、羽田発のエールフランス機は、台風のため8時間遅れだった。
だが、羽田までやって来た道のりの長さを考えると、高田馬場の我が家まで引き返す気はしなかった。それほど羽田は都心から遠かったのだ。
羽田までは鉄道もモノレールも開通しておらず、高速道路もなかったので、舗装の傷んだ狭い道を赤信号に妨げられながら、ゴトゴトガタガタやって来た。
品川は私の鉄道現場経験、すなわち社会生活スタートの思い出に満ちた原点である。
1954年のこと。
私の東京暮らしが始まったのは、その一年前、国鉄入社がきっかけだった。
1953年(昭和28年)、京都からやって来た私が国鉄に入って最初に住んだのは、国分寺にあった鉄道学園の寮だ。
この年は国鉄が鉄道省から独立してようやく4年目。
まだヨチヨチ歩きの段階だった。
国の政策で、戦争から復員してきた者を大量に採用したため職場は余った人間があふれ、士気は沈滞し、管理は行き届かず、乱れていた。
派閥の蔓延で風通しの悪くなった社風を改めるべく、全員同じ釜の飯を食べてチームワークを創ろうと、国鉄は新入社員を対象に一年間もの長期間、全寮制の合宿生活を試みた。
派閥には、専門系統閥、出身学校閥、閨閥と3つが目立ち、それぞれが入り込みあって複雑化していた。
当時の国鉄は、GDPの数%もの売り上げがある、大組織だった。
入社試験もその年から、それまでの縁故募集制度を改め、国内の有資格者すべてにオープン化する。
本社採用試験の資格を、旧制大学、新制大学、旧制専門学校それぞれの卒業予定者、さらに昨年以前に入社したこれらの学校の卒業者と一気に広げた結果、私の専門とする建設部門で、数名の募集に対し2千名を超える応募と、超難関だった。
国鉄のメンバーはたしか65万人、その大組織で各専門分野を合計しても50名の本社採用。
入社試験の出題者も、各分野の権威とされた全国旧帝大教授に分散し、名問、迷問が、ずらり。
一年間の寮生活に次ぎ、東鉄勤務となって三鷹の独身寮に移り、ようやく念願の母親との同居が果たせたのは、翌1954年秋、五反田の家族寮。
それからも目まぐるしく引っ越しが続くが、28年後退社時に数えると、30回も引越ししていた。
さて今回二泊予定の「ザ・プリンス・さくらタワー・東京」は、品川駅から徒歩数分と近い。
品川駅と言えば、日本で一番古い鉄道駅。
鉄道唱歌「汽笛一声新橋を・・・」から、新橋が一番古い駅と思っている人は多い。
だが新橋・横浜間の鉄道開業に先立ち、数か月前に品川・横浜間が、仮開業していた。
また私にとって品川駅と品川機関区は、初めての社会経験の場として、思い出多い現場なのだ。
2014.12.25片瀬貴文記
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