1956/08/01 - 1957/06/30
89位(同エリア170件中)
ソフィさん
1956年-57年
一度外国を見よう。
と決心したのは、1956年(昭和31年)、25歳の夏。
福島県会津の山奥、只見川沿い、本名(ほんな)の鉄道建設現場に住んでいた時のことだった。
当時只見川には、電源開発(株)の手によって、日本一の水力発電所、田子倉ダムが建設中だった。
そのための鉄道建設が、我々の仕事である。
警察もなく医者もいないこの現場は、家族同伴の赴任が禁止され、新婚早々の私にはつらかった。
静岡県熱海の社宅からこの現場まで、途中田島に一泊してほぼ一日を要し、帰宅頻度は三か月に一度。
そんな環境で、私は人生の将来を考える。
そして当時25歳だった私は、30歳までに一度海外に暮らそうと、目標を掲げたのだった。
これからの日本は「欧米に追い付け追い越せ」の時代である。
だが、技術のうわべを真似ているだけでは、追いつくことはできても、追い越すことができない。
追い越すには、自ら新たな技術を育てるために、彼らの文化が生まれ育った社会の風土の中身、あるいは心の構造を確かめたい。
それが外国暮らしの目的だった。
ところが山奥の現場では、そのために何をやってよいものか、さっぱりわからない。
しかし幸運にも翌年の3月国鉄盛岡工事局に転勤を命じられ、さっそく物置の片隅に眠っていた英文タイプライターを発見、チャンス到来と、ドイツ語のリンガフォンテキストをそのタイプでコピーする。
並行して、発売されたばかりのアカイ・テープレコーダー・組立キットを、東京出張者に頼んで買ってきてもらい、ラジオ組み立ての上手な人に組み立ててもらう。
キットの値段は2万円、ちょうど私の給料の二倍だった。
ドイツ語にアプローチした理由は、私が高校時代、第二外国語でドイツを学んだからだ。
第二外国語と言っても、毎週6時間の授業が三年間も続いたので、かなりの学習量だった。
しかし私がタッチした東北本線花巻−盛岡間複線化工事は酣を迎えつつあり、おまけにテニスコートが事務所と自宅の中間にある好条件のため、私のテニス熱に灯が点き、勤務時間後も空が明るい間はテニス、夕食を終えてから再度出勤して超過勤務。
そのうえ私が種を蒔いたコントラクト・ブリッジが若い仲間に受け、その相手もしなければならない。
とても外国語どころではない状況下、ソフトテニスは目出度くB級トーナメントを勝ち抜いた結果、盛岡地区代表選考試合に出ることが決まり、順風満帆に見えた私に、ある日突然「明日から出勤禁止」の厳命が下された。
肺結核は、かなり進んでいて、即刻休養が不可欠とのことだった。
2014.12.06片瀬貴文
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ソフィさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
15