2014/11/13 - 2014/11/22
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ペコちゃんさん
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ボスニア・ヘルツェゴビナの人口は390万人で、セルビアと同様に内陸国ですが、クロアチアを分断して僅かにアドリア海に面しています。
15世紀後半から19世紀後半まで、ボスニア・ヘルツェゴビナは、オスマントルコの支配を受けました。
スロベニアとクロアチアは、ハプスブルク家の支配で産業や文化の振興が進みましたが、農業の振興のみだったオスマントルコとの違いが、その後に大きく影響しているようで、ボスニア・ヘルツェゴピナの経済は、スロベニア、クロアチアに比べると失業率は高く、平均所得も少ない状況です。
この国では、サラエヴォとモスタルの2カ所を観光し、アドリア海に面したネウムで買い物を楽しみました。
首都のサラエヴォは、第1次世界大戦の引き金となった1914年のサラエヴォ事件や、1984年開催の冬季オリンピックが思い出されます。
日本からのツアーでは、あまり立ち寄らないところなので、どんな街なのか楽しみにして行きました。
写真は、モスタルのネトレヴァ川に架かる橋「スタリ・モスト」(世界遺産)。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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セルビア・ベオグラードからボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォまでは300km。
高速でなく一般道を走り、山道もるので、結構時間がかかります。
道幅が狭く、川岸スレスレを、結構スピードを出して走るバスに冷や冷やしました。
しかしドライバー・ゴーランさんのテクニックは、大したものです。
夕方、トイレストップで寄ったドライブインの横には、何と、赤い川が流れています。
トイレで流した水まで赤いのには、皆さん驚いていました。 -
これは、上流の方にアルミニウムの精錬所があるためだそうで、見た時は本当にビックリしました。
写真で見るより本当に赤い色でした。
長く険しい道のドライブの間、本当に大変な所に来たんだなー、と明日からの行程を思い、少し気が重くなります。
でも、3日目以降は高速を走ったり、アドリア海の綺麗な海を見ながら走ったりで、結果的に問題はありませんでした。 -
ベオグラードから約6時間のロングドライブを終えて、19時半にボスニア・ヘルツェゴビナの首都・サラエヴォに到着。
今日の宿泊は、素晴らしい、何と5つ星の『 ラドン プラザ 』・・・苦あれば楽ありかな? -
夕食は、最上階のレストランです。
ニューオータニのような回転展望レストランで、2時間かけてゆっくり一周します。 -
メニューは、クリームスープとマトウダイのグリル。
ビールは、地元で一番人気の『 サラエブスコ( Sarajevsko) 』。
真ん中に置いた玩具のような物は、窓側の下に置いてある飾りで、他には飛行機などいろいろありました。 -
<3日目>
ラドン プラザは、2006年9月にオープンした、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も豪華なホテルです。
部屋もバスルームも広く、ゆったり寛げました。 -
ホテル前の広場には、日本のモミジのような紅葉が、秋の終わりを告げています。
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9時に、市内観光に出発。
サラエヴォは、ミリャツカ川に沿って東西に細長い、人口が31万人の街。 -
冬季オリンピックの後、1992年から1996年にかけて、ユーゴからの独立に反対するセルビア人勢力との間に起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、12,000人以上の死者を出し、その大半は一般市民でした。
現在は、街を歩いても、戦争の傷跡はあまり見かけません。
これは、1894年に市庁舎として建設されたサラエボのシンボル的建物。
1949年より、「国立図書館」として数々の貴重な書物が保存されていましたが、ボスニア紛争開始直後の1992年に砲撃を受けて炎上、貴重な蔵書も大きな被害を受けました。 -
第1次世界大戦の引き金となったサラエヴォ事件が起きた「ラテン橋」。
日本にも来たことがあるオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子だったフランツ・フェルディナント大公が、1914 年、ボスニア・ヘルツェゴビナ駐留軍の演習を観閲するためにサラエボを訪問した際、同帝国の占領・統治に反対するセルビア人青年に暗殺されました。
その場所のすぐそばにあることで有名な橋です。 -
橋の欄干には、パリ・セーヌ川のポン・デ・ザール橋のように、南京錠がいくつも取り付けられています・・・永遠に離れないと誓ったカップルたちによるものでしょう。
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かつて木造だった橋は水害によって破壊され、1798年に再建されました。
ラテン橋の向かいにはサラエヴォ博物館があり、暗殺事件の詳細な経緯を知る事が出来ます。 -
通りに面した建物の壁には、サラエヴォ事件の暗殺現場のプレートが埋め込んであります。
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市街地に入ると、ローマ時代の遺跡があり、中はバザールになっています。。
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遺跡の向こうには、モスクとミナレットが・・・サラエヴォは、カトリック・イスラム・東方正教会など、多くの宗教施設が並ぶ、多宗教・多民族が同居する街です。
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サラエヴォの街は、西洋的な新市街とイスラム風の旧市街にハッキリ分かれています。
先ずは、新市街の散策から。
この建物は「アーミーホール(軍人会館)」。 -
市場が開かれています。
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セルビア正教会の「サラエヴォ大聖堂」・・・サラエヴォの正教徒のために、1863年から1868年にかけて建造されました。
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大聖堂前の広場で、チェスに興じる人達・・・ヨーロッパでよくみられる光景です。
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新市街のメインストリート。
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「永遠の灯」・・・第二次世界大戦の犠牲者を偲んで、記念板が聖火前に建てられました。
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手編みの帽子などを売っている、おばあちゃん・・・暖かそうな手袋、買えば良かったな?
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市場を覗くと、肉や魚、野菜・果物などが豊富に並んでいます。
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サラエボ中心部にある屋内市場「Gradska Trznica」。
ミュージアムと思えるような建物です。 -
見事なザクロが並んだ店では、美味しそうなザクロジュースも売っていました。
その後は、ザクロはあってもザクロジュースは見かけず、女性の皆さん、 ” 飲みたかったな~ ”
私も飲んでみたかった・・・後悔ばかりです。 -
ミニチュアの手作り家具を売っているおじいちゃん。
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「カトリック大聖堂」(イエスの聖心大聖堂)が見えてきました。
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ボスニア・ヘルツェゴビナで最大の 「 カトリック大聖堂 」 は、1884年から1889年にかけて建造された、ゴシック風の建築です。
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教会の前には、紛争中に凶弾に倒れ流された血の跡を、『サラエボのバラ』として紛争の悲劇を忘れないために、ペンキを塗って残しています。
市内には、227個もあるそうです。 -
教会の中に入ると、見事なバラ窓や・・・
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美しいステンドが、目を惹きつけます。
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この柱は、スペイン・コルドバのメスキータに似た感じです。
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1階に薬局が入っている建物。
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新市街から旧市街に入ると、さっきまでの風景が、ガラッと変わります。
1531年に建てられたガジ・フスレヴ・ベイ・ジャーミアは、美しいオスマン建築の建築物です・・・まるで、イスタンブールに来たみたい。 -
モスクの庭にある清めの泉。
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外からでもお祈りが出来るように、絨毯が敷かれています。
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1日5回の礼拝を行うイスラム教ですが、12時のお祈りが始まっていたので入って見ました。
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白人のムスリム(イスラム教に帰依する人)は、何となく違和感があります。
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猫も、ノンビリと。
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旧市街の中心にある職人街・バシチャルシャ・・・赤レンガの古い家屋が軒を連ね、オリエンタルな雰囲気が漂います。
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サラエヴォのシンボル、バシチャルシャ広場のセビリ (水飲み場)・・・ここがフリータイム後の集合場所。
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旧市街は、トルコ・グッズの店が多く、水タバコのお店もあります。
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水煙草を楽しんでいる人に、夫がお願いすると、吸い口を交換して試させてくれました。
初めて吸った感想は、” ソフト アンド マイルドで、結構イケる ” -
ステンドグラスを趣味にしている私は、こんなお土産に惹かれます。
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色んなお土産屋が並んでいます。
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この店で昼食。
左側がレストランで、右側に厨房があります。 -
メニューは、野菜スープと・・・
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スパイスを混ぜ込んだ挽肉をグリルしたソーセージのような肉と野菜を、一緒にパンに挟んで食べる、サラエヴォの名物料理のチェバプチチ。
お味の方は、??? ・・・かなり塩辛い。 -
レストランの反対側でパンを焼いています。
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イタリアのピザ屋さんのような窯でパンを焼いています。
天井から下がった綺麗なモザイクランプが、シャンデリアのようで素敵。 -
街中を走っているトラムには、いろいろな柄があり、可愛いのもありました。
赤いボディに白い水玉・・・イチゴみたいなトラム。 -
イチョウの黄葉が鮮やか。
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中心街に近いアパートの壁には、内戦の時の銃弾跡が残っています。
昼食の後は、サラエヴォから120km離れたモスタルに向かいます。 -
サラエヴォの郊外に出ると、こんなヨーロッパらしい風景が続きます。
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15時過ぎにモスタルに着きました。
ネトレヴァ川両岸の台地に発展した人口11万人のモスタルは、ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市で、ヘルツェゴビナ地方の中心都市。
古くから交易で栄え、15世紀中頃にオスマン帝国の支配下に置かれてからは、軍事の要衝としても発展しました。
名前の由来は、スラブ語のモスト=橋と言われ、街の中心に架かる頑丈な石橋(スタリ・モスト)は街のシンボルでしたが、内戦で破壊されました。 -
「聖ペーター教会」・・・紛争により壊され、その後再建されたので、建物自体は新しいです。
鐘楼の高さは107m。 -
1992年にユーゴスラビアからの独立を宣言した後、街はユーゴスラビア連邦軍の攻撃を受けます。
人口の4割を占めるクロアチア人は、もともとモスタルはクロアチアのものだという意識があり、最初は共闘していたボスニア人とクロアチア人も、後に戦闘状態となり、被害は拡大しました。
街中を歩いていると、砲弾の痕が残る建物を沢山見かけます。 -
2005年に世界遺産に登録されたこの街には、3本の旗(左:ユネスコの世界遺産、中央:ボスニア・ヘルツェゴビナ、右:モスタル)が立っています。
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旧市街は、トルコの面影が色濃く残るエキゾチックな街並。
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中央のお爺さんは、サンタさんに似ていませんか?
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破壊されたスタリ・モストを再建する前に、試作で作った橋。
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子供達も、美味しそうにチェバブチチを食べています。
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この門をくぐると、スタリ・モスト。
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ネトレヴァ川の川幅が最も狭くなる場所に架かっていた木の吊り橋が、オスマン帝国によって石橋になったのは、1566年。
内戦で破壊されたスタリ・モストは、当時の技法に従って2005年に再建され、橋が完成すると旧市街を含めて世界遺産に登録されました。 -
橋の上では、現地の女の子もスマホでパチリ。
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スタリ・モストからの眺め。
この橋の上から飛び込む大会もあるそうです。 -
橋から見ると、本当に穏やかで美しい・・・美しすぎて、かつて、ここで戦争していたなんて信じられないくらいです。
正面に見えるのは、1619年に完成した「コスキ・メフメド・パシャ・モスク」。
ネレトヴァ川の畔(左岸)に建ち、スタリ・モストの上からよく見えます。
ミナレットは一本で、比較的シンプルな造りです。 -
1993年、モスタルの象徴の橋だったスタリ・モストは、クロアチア勢力側によって爆破されました。
人々はその悲しみを忘れず、心に持ち続けています。 -
トルコ人街を通って、コスキ・メフメド・パシャ・モスクに向かいます。
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背高ノッポのガイドさんは、男性でもミホさん。
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モスクの水飲み場。
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コスキ・メフメド・パシャ・モスクの内部は絨毯が敷き詰められ、ステンドも色鮮やか。
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可愛い子猫。
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ネレトヴァ川の川岸から見上げたスタリ・モスト。
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高さ21m、長さ29mの石橋・スタリ・モスト(スラブ語で「古い橋」の意)は、両岸に住む人々の生活に欠かせない橋になっています。
モスタルの観光後は、クロアチア・ドブロヴニクへ向かいます。
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