2014/11/17 - 2014/11/17
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fernandoさん
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サライ9月号(2014年)の「半島をゆく」に「すさまじき男信長」と題して「村木砦の戦い」がとりあげられています。
それに沿って私も歩いてみることにします。
参考:「サライ9月号」小学館
「東浦町誌」
「改訂 東浦歴史散歩」東浦町教育委員会
「於大の方と水野氏」東浦町教育委員会
「東浦の歴史と文化」東浦ふるさとガイド協会
東浦ふるさとガイド協会の広報誌
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サライ9月号(2014年)の「半島をゆく」の記事。
こちらを参考に信長の足跡を訪ねます。 -
雑誌では南から東浦町に入ることになっているが、私は北から入ります。
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ところで東浦町、知多半島の付け根にあります。
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名古屋市から南、大府市を抜けて東浦町に入りますが、石ヶ瀬川を渡ります。
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若き頃の徳川家康(松平元康)とその叔父である水野信元が戦った「石ヶ瀬の戦い」の舞台でもあります。
「石ヶ瀬の戦い」は「村木砦の戦い」の後、桶狭間の戦いを挟んで3度にわたって行われたというが、小競合い程度だったようです。これが後の尾三同盟(織田信長、松平元康、水野信元)成立のきっかけとなりました。 -
現在この川を挟んで南(右)が東浦町。北(左)が大府市。
かつてはこの辺りまで入江であったという。 -
東海豪雨の時(2000年)は石ヶ瀬川が決壊し、この辺りは海のようになりました。
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石ヶ瀬川を渡り南に進みます。
この辺り森岡地区です。 -
暫く進むとケーキ屋さんがあります。
アンティーク(ANTIQUE)というお店で、「天使のチョコリング」で全国に知られるようになったお店です。 -
巨峰ブドウ園もあります。
※8月が最盛期のようです。 -
ここを右に曲がると信長ゆかりの「飯喰場(イクイバ)」があります。
後で行きます。 -
さて、村木砦はここです!!!
え〜〜〜どこ?
今はほとんどその面影はありません。
その砦を分断するかのように道路が通っています。 -
元国道366号線の砦跡の北端に来ています。
「改訂 東浦歴史散歩」より -
砦跡の北端から左(東)を見る。
右手が砦で左が当時海であった。 -
右(西)を見ると、当時堀であった跡が道路となり弧を描いている。
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元国道366を南下して、ちょうど砦の中に入ったという感じです。
今は何もありませんが、地名で「取手(トリデ)」が残っている。 -
「村木砦址」という看板がありますが、住宅地になっていて、ここからは入れません。
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和菓子屋さんがあるところが砦跡の南端になり、ここを左に曲がる道があります。
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その角から右(西)方面。
先ほどの掘跡に作られた道路が弧を描いてここにつながっています。 -
左(東)方面。
堀跡が続いています。 -
その堀跡からちょっと南の場所です。
「村木砦の戦い」でこの辺りから信長が鉄砲を撃ったという。
※信長が初めて鉄砲を使ったといわれ、鉄砲伝来からわずか11年後のこと、信長21歳の時です。 -
この辺りが砦の主郭だったようです。
今は造成されて住宅になるようです。 -
この地で唯一残るのが八釼神社です。
道路からここまでの案内看板もなく、ちょっと探さなくてはいけません。 -
その一角に「村木砦址」の碑がある。
この砦は戦国時代真っ盛りの1553年、今川方が織田・水野の分断を図ろうとして造られたものである。 -
この地を支配していた水野氏にとってはまことに目障りな存在でしたが、水野軍だけでは今川方に対抗するのは難しく、那古野(ナゴヤ)から信長の救援を得、1554年1月24日、この砦を一日で奪い取った。
信長はこの戦いで勝利し、今川方の進出を遅らせ、その6年後の「桶狭間の戦い」に勝利する契機となった。 -
東の大手門を攻める水野勢とはこのあたりか。
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当時の勢力と戦いの行動図。
「於大の方と水野氏」より
※信長の行動には諸説あります。 -
戦いの様子。
東浦ふるさとガイド協会の広報誌より。 -
八釼神社の裏手にJRの線路があります。
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尾張森岡駅に来ました。
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そこから見る村木砦。
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砦が分断されている様子が分かりますか。
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南東方向からの砦です。
そもそもこのJR武豊線は明治19年に開通しています。
東海道本線開通(明治22年)のための物資運搬線として造られたそうです。
当時の日本は遺跡より鉄道が大事だったのでしょう、砦を分断するだけでなく砦の土砂を線路敷設用に取り崩してしまいました。 -
そろそろ電化されるそうですが、今は単線のディーゼルです。
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昔の地形図。
入江がかなり奥まで入り込んでいます。
村木砦の辺りは海であった。 -
昭和23年米軍撮影(東浦町誌より)。
新田開発で昔海だったところが田んぼになっていますが、この航空写真はその地形がよく分かる。 -
「飯喰場」に来ました。
確かに住宅街の中にあり、見つけにくい。 -
戦いに勝利した織田・水野軍が祝宴を催した場所であるという。
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北東の☆が村木砦、北西の池の横の☆が飯喰場。
明治9年(1876年)まで村木村でした。
その後森岡村となり、東浦村誕生と同時に大字森岡となる。 -
天保12年(1841年)江戸末期の地図(東浦町誌より)。
驚くことにこの小さな村落に5つのお寺がある(全て曹洞宗)。
緒川城を中心とした戦略上の拠点として建てられたのではないかと、東浦歴史散歩に述べられている。 -
森岡の旧市街をそのお寺を見学しながら、「村木砦の戦い」の時に信長の本陣が置かれた村木神社まで散策します。
まず、「海印寺」。 -
安産、子育て地蔵として敬われている「子安地蔵」。
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火の神様「秋葉山」が祀られている。
昔から変わらぬものの一つであろうか、防火の一翼を担っている。 -
この辺りに「処刑場跡」が個人のお宅にある。
「村木砦の戦い」で今川方に協力させられた村木村の人が、信長の命で処刑された場所といわれている。 -
水野氏の一族の後裔の人たちが、祠を作り供養している。
写真は2012年の様子。 -
二つ目のお寺は臨江寺。
当時、渡し舟を管理していたが、村木砦の戦いに先立って今川方がいち早く奪い、制海権も取られていた。 -
現在は廃寺となり、その後に「村木大地蔵」が移転再建された。
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現「老人憩いの家」あたりに村木大地蔵があったという。
火の見櫓が珍しい。 -
三つ目のお寺は「開眼寺(カイゲンジ)」。
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開眼寺から南に下るこの道がメインストリートだったようです。
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そして、街外れに常夜灯があった。
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さらに南に下ると四つ目のお寺「極楽寺(ゴクラクジ)」がある。
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この寺の東の土手には東浦町指定の天然記念物の大楠(オオクス)がある。
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お寺と秋葉山が同居している。
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極楽寺から西にしばらく行くと、五つ目のお寺、「妙法寺(ミョウホウジ)」がある。
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そして妙法寺のすぐ北に「村木神社」がある。
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村木砦の戦いの時、信長の本陣が置かれた。
砦まで直線でおよそ500mの距離だそうです。 -
実はこの地、「おまんと祭り」が有名です。
「桶狭間の戦い」で勝った信長の戦勝祝いで馬を走らせたのが、起源と言われています。 -
現在の「おまんと祭り」は若衆が走る馬に飛びつく、勇壮な祭りとなっています。
写真は2013年9月29日の様子です。 -
そのためか、神馬が奉納されています。
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今回のテーマとかけ離れますが、神社の裏手に「富士塚供養塔」があります。
これは三山(富士山、立山、白山)信仰の碑です。
これだけのものが集まっているのは珍しいとのこと。 -
当時、神社から村木砦が見えたはずですが今は建物しか見えません。
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信長の叔父、織田孫三郎信光の本陣が置かれた「後狭間」。
信長公記(シンチョウコウキ)に「西搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口」とある。 -
家が立ち並んでいて、アップにしても屋根の上に砦の木々が見えるだけです。
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ちょっと下って海印寺の上に来ました。
お墓があるせいか、展望が開けています。 -
海(入り江)を挟んで刈谷城方面。
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西の方角は飯喰場、さらに現在の「あいち健康の森公園」方面が望めます。
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青の矢印が現在地。
森岡地区を一回りした格好です。 -
サライではさらに水野氏の本拠地である緒川城を訪ねている。
そこに行くには緒川地区のお寺を抜けなくてはならない。 -
「越境寺(オッキョウジ)」。
曹洞宗の寺が多い中、ここは顕本法華宗。
さらに切支丹灯篭がある。 -
「善導寺」浄土宗。
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お不動さん。
御嶽山を祀っています。 -
この辺り「濁池城跡」と言われています。
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緒川城址は住宅街にあり分かりずらい。
一旦役場まで出て、そこから探すといいかもしれない。 -
松の木が聳えているところがそうです。
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信長は、村木砦の戦いの前にここ緒川城に入り軍議を開いたという。
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今は住宅が立ち並んでいる。
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特筆すべきは、徳川家康の生母於大がここで生まれている。
その部分は別の旅ブログにしてあります。 -
1554年村木砦の戦いがあった時、於大は隣町阿久比(アグイ)に嫁いでおり、信長との接触はなかったものと思われる。
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この緒川城も海に面しており、坂を下った所が水辺であったと思われる。
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宅地化が進んでいるこの地ですが、段差がある場所があり、わずかながら城跡かなと思われる。
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高台に来ました。
緒川城が住宅に埋もれています。 -
アップにします。
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さらに高台に来ました。
当時入り江だった所にイオンが建っています。
24日の村木砦の戦いに勝利した信長は、翌25日には那古野に引き上げている。
この戦いぶりを聞いた齋藤道三は信長を「すさまじき男」と恐れている。
この戦の6年後「桶狭間の戦い」で大勝利を収め、天下にその名を轟かせることになる。
信長は「村木砦の戦い」で天下布武の礎を築いたといっても言い過ぎではないでしょう。
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