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須賀川宿を出発し、郡山宿を目指す<br /><br />編集中

奥州古道仙台道歩き No11. 須賀川宿から郡山宿へ

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2014/10/16 - 2014/10/17

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ムッシュ

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須賀川宿を出発し、郡山宿を目指す

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  • 茶屋池公園の先、右手に馬頭観音碑など数十基もの石碑、石塔群

    茶屋池公園の先、右手に馬頭観音碑など数十基もの石碑、石塔群

  • 石造物群の北側に標石「旧奥州街道 一里坦」<br />一の字が見えてます。

    石造物群の北側に標石「旧奥州街道 一里坦」
    一の字が見えてます。

  • 【築後塚供養塔】<br />「白石坂」を下り、二股の所に「筑後塚供養塔」が祀られている。ここにも大きな「廿三夜塔」や「如意輪観音」「庚申塔」「馬頭観音」が集まっているのは 壮観だ。峠の坂道の旧街道の趣きが残っている。<br />二股を左に進み、坂を下って行くと左の崖の下に「廿三夜塔」等の石塔や石碑が祀られている。<br />森宿を出て、滑川地区に入ると、旧街道に面して、右側に筑後塚供養塔群がある。<br />伊達政宗が攻めてきたとき、須賀川城主二階堂氏の家臣、守谷筑後守が政宗に内通し、その結果落城した。戦の後、主君を裏切った行為が許されず、政宗により成敗されたところであったので、筑後塚と呼ばれるようになった。<br /><br />実際の位置は、現在より少し須賀川よりの柏城(かしわぎ)小学校前(滑川東町)であったが、学校建築と道路改修のため、ここに移されたという。<br />なお、柏城の校名の由来は、中世の柏木城よりきている。<br />屋根囲いの中の板碑は、その頃に作られた双式三尊来迎供養板碑である。<br />その他は江戸時代の庚申塔と二十三夜塔等であった。

    【築後塚供養塔】
    「白石坂」を下り、二股の所に「筑後塚供養塔」が祀られている。ここにも大きな「廿三夜塔」や「如意輪観音」「庚申塔」「馬頭観音」が集まっているのは 壮観だ。峠の坂道の旧街道の趣きが残っている。
    二股を左に進み、坂を下って行くと左の崖の下に「廿三夜塔」等の石塔や石碑が祀られている。
    森宿を出て、滑川地区に入ると、旧街道に面して、右側に筑後塚供養塔群がある。
    伊達政宗が攻めてきたとき、須賀川城主二階堂氏の家臣、守谷筑後守が政宗に内通し、その結果落城した。戦の後、主君を裏切った行為が許されず、政宗により成敗されたところであったので、筑後塚と呼ばれるようになった。

    実際の位置は、現在より少し須賀川よりの柏城(かしわぎ)小学校前(滑川東町)であったが、学校建築と道路改修のため、ここに移されたという。
    なお、柏城の校名の由来は、中世の柏木城よりきている。
    屋根囲いの中の板碑は、その頃に作られた双式三尊来迎供養板碑である。
    その他は江戸時代の庚申塔と二十三夜塔等であった。

  • 上のフォトの左の部分。集められた石仏群。

    上のフォトの左の部分。集められた石仏群。

  • 崖の下の石塔や石碑<br />【東町石仏群】<br />旧街道左側に、馬頭観世音、二十三夜塔と、南妙法蓮華経と彫られた題目碑があった。この辺は石碑、石仏等が多く、如何にも街道筋らしい。

    崖の下の石塔や石碑
    【東町石仏群】
    旧街道左側に、馬頭観世音、二十三夜塔と、南妙法蓮華経と彫られた題目碑があった。この辺は石碑、石仏等が多く、如何にも街道筋らしい。

  • 滑川橋

    滑川橋

  • 国内初の“情報”を校名に冠した「県立清陵情報高校」。 <br />情報教育に重点を置き、生徒全員がウェブサイトを運営する事で知られ、校名は東側に流れる阿武隈川の清流を一望できる丘陵に在ることに因んでいる。

    国内初の“情報”を校名に冠した「県立清陵情報高校」。 
    情報教育に重点を置き、生徒全員がウェブサイトを運営する事で知られ、校名は東側に流れる阿武隈川の清流を一望できる丘陵に在ることに因んでいる。

  • 第3奥州街道踏切

    第3奥州街道踏切

  • 「水郡線踏切」<br />水郡線の踏切を渡ると、すぐ先に標識「郡山市」安積町

    「水郡線踏切」
    水郡線の踏切を渡ると、すぐ先に標識「郡山市」安積町

  • 【明治天皇笹川御小休所碑】

    【明治天皇笹川御小休所碑】

  • 【東舘稲荷神社】<br /> 路地の奥には「東館稲荷神社」が鎮座し、「史蹟篠川城趾」の大きな石碑が立ち、足利満兼の奥州拠点の一つで「篠川御所跡」だと。南北朝時代に、 この辺りまで勢力争いが波及していたのだ。<br />東館稲荷神社の脇に「篠川城址の石碑」がある。 ここらあたりが応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼が奥州支配の為に派遣した笹川公方、足利満直の館跡となっています。 篠川城という大拠点がここにあったという面影は全く感じられず、ただ神社のみが残るだけ。<br /><br />須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」。<br />鳥居右に「史蹟 篠川城趾碑」。<br />

    【東舘稲荷神社】
    路地の奥には「東館稲荷神社」が鎮座し、「史蹟篠川城趾」の大きな石碑が立ち、足利満兼の奥州拠点の一つで「篠川御所跡」だと。南北朝時代に、 この辺りまで勢力争いが波及していたのだ。
    東館稲荷神社の脇に「篠川城址の石碑」がある。 ここらあたりが応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼が奥州支配の為に派遣した笹川公方、足利満直の館跡となっています。 篠川城という大拠点がここにあったという面影は全く感じられず、ただ神社のみが残るだけ。

    須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」。
    鳥居右に「史蹟 篠川城趾碑」。

  • 「史蹟篠川城趾」の大きな石碑<br />ここらあたりが応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼が奥州支配の為に派遣した笹川公方、足利満直の館跡となっています。 篠川城という大拠点がここにあったという面影は全く感じられず、ただ神社のみが残るだけ。<br /><br />須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」。<br />鳥居右に「史蹟 篠川城趾碑」。<br />南北朝末期~戦国期にかけ、篠川城は足利満秀(鎌倉管領足利氏満の弟)、満隆(氏満の第三子)、満貞(氏満の第四子)が約40年に渡り居城し、篠川御所・篠川公方等と称され、往時は奥羽の最高統治府でした。<br />後、天文20~天正17年(1551~89)の38年間、須田頼隆が居城としました。

    「史蹟篠川城趾」の大きな石碑
    ここらあたりが応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼が奥州支配の為に派遣した笹川公方、足利満直の館跡となっています。 篠川城という大拠点がここにあったという面影は全く感じられず、ただ神社のみが残るだけ。

    須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」。
    鳥居右に「史蹟 篠川城趾碑」。
    南北朝末期~戦国期にかけ、篠川城は足利満秀(鎌倉管領足利氏満の弟)、満隆(氏満の第三子)、満貞(氏満の第四子)が約40年に渡り居城し、篠川御所・篠川公方等と称され、往時は奥羽の最高統治府でした。
    後、天文20~天正17年(1551~89)の38年間、須田頼隆が居城としました。

  • 須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」<br />

    須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」

  • 須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」

    須賀川二階堂信濃守照行の臣・須田佐渡守頼隆の氏神を祀る「東館稲荷神社」

  • 笹原川<br />

    笹原川

  • 笹原川を【耳語(ささやき)橋】と云う趣きのある名前の橋で渡ると対岸右の公園に「耳語橋と音無川の由来」の案内石碑が立っている。<br />天平4年(732)、葛城王が按察使(あぜち)として陸奥に下向し、国を治め都に帰る時に、この地まで見送りにきた見目麗しい 春姫と橋の上で別かれをおしみ、何やらささやいたが里人には何も聞こえず、川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、 橋を「耳語橋」と称するようになったと。<br />趣のある橋の名前の由来は、奈良時代のロマンスから付けられたのだ。 しかし、奈良時代に、この地まで朝廷の力が及んでいたとは知らなかった。<br />橋を渡り、東北新幹線の高架手前の道を左折し、二つ目の筋を右折するのが旧街道だ。その右角に「おくのほそ道 日出山の宿」と記された石碑が 立っている。横に立つ「十九夜塔」は道標を兼ね、側面に「従是岩城道」と刻まれている。 「日出山宿」の街並みを眺めながら県道を進むと、少し先左には「日出山神社」が鎮座し、立派な蔵を持つ旧家が残っている。旧街道らしいのは嬉しい。<br /><br />歌碑<br />【安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾れ思はなくに	万葉集】<br />【あづま路や ささやきの橋 中たへて 文だに今は かよはざりけり	源頼義】<br />【みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびシノビに】

    笹原川を【耳語(ささやき)橋】と云う趣きのある名前の橋で渡ると対岸右の公園に「耳語橋と音無川の由来」の案内石碑が立っている。
    天平4年(732)、葛城王が按察使(あぜち)として陸奥に下向し、国を治め都に帰る時に、この地まで見送りにきた見目麗しい 春姫と橋の上で別かれをおしみ、何やらささやいたが里人には何も聞こえず、川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、 橋を「耳語橋」と称するようになったと。
    趣のある橋の名前の由来は、奈良時代のロマンスから付けられたのだ。 しかし、奈良時代に、この地まで朝廷の力が及んでいたとは知らなかった。
    橋を渡り、東北新幹線の高架手前の道を左折し、二つ目の筋を右折するのが旧街道だ。その右角に「おくのほそ道 日出山の宿」と記された石碑が 立っている。横に立つ「十九夜塔」は道標を兼ね、側面に「従是岩城道」と刻まれている。 「日出山宿」の街並みを眺めながら県道を進むと、少し先左には「日出山神社」が鎮座し、立派な蔵を持つ旧家が残っている。旧街道らしいのは嬉しい。

    歌碑
    【安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾れ思はなくに 万葉集】
    【あづま路や ささやきの橋 中たへて 文だに今は かよはざりけり 源頼義】
    【みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびシノビに】

  • 【耳語(ささやき)橋と音無(おとなし)川】<br />天平四年(732年)奈良が都として栄えていた頃、都より葛城王が按察使として陸奥の国に下向の際、片平郷の国司、祇承が三年の年貢を怠っていたので、王の怒りにふれた。<br />その時、みめ麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる、、、、」と詠みて歓待につとめたので王の怒りがとけた。<br />王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ何やらささやいたが、里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになった。<br /><br />また、当時の橋はもう少し上流にあったと伝えられている。<br />なお、永承六年(1051年)源頼家、義家が東征の折、この橋が朽ちて渡れなかったので「東路の、、、、」と詠まれたと今に伝う。<br /><br />日出山町内会、日出山財産管理運営会、安積町郷土史研究会

    【耳語(ささやき)橋と音無(おとなし)川】
    天平四年(732年)奈良が都として栄えていた頃、都より葛城王が按察使として陸奥の国に下向の際、片平郷の国司、祇承が三年の年貢を怠っていたので、王の怒りにふれた。
    その時、みめ麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる、、、、」と詠みて歓待につとめたので王の怒りがとけた。
    王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ何やらささやいたが、里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになった。

    また、当時の橋はもう少し上流にあったと伝えられている。
    なお、永承六年(1051年)源頼家、義家が東征の折、この橋が朽ちて渡れなかったので「東路の、、、、」と詠まれたと今に伝う。

    日出山町内会、日出山財産管理運営会、安積町郷土史研究会

  • その右角に「おくのほそ道 日出山の宿」と記された石碑が 立っている。<br />横に立つ「十九夜塔」は道標を兼ね、側面に「従是岩城道」と刻まれている。 <br />「日出山宿」の街並みを眺めながら県道を進むと、少し先左には「日出山神社」が鎮座し、立派な蔵を持つ旧家が残っている。旧街道らしい。<br />小原田宿に入ってきた。とは言え、日出山の宿、小原田宿、更にその先郡山宿は、ずっと連続した町並みだ。<br />旧奥州街道は、この月待塔が多い。月待とは、講で集まって精進する行事で、飲食しながら月の出を待った。<br />一番多いのは二十三夜塔で、これは下弦の半月で、丁度真夜中に月の出を拝むことになる。十九夜、二十一夜、二十二夜は女人だけの講が多かったようだ。  

    その右角に「おくのほそ道 日出山の宿」と記された石碑が 立っている。
    横に立つ「十九夜塔」は道標を兼ね、側面に「従是岩城道」と刻まれている。
    「日出山宿」の街並みを眺めながら県道を進むと、少し先左には「日出山神社」が鎮座し、立派な蔵を持つ旧家が残っている。旧街道らしい。
    小原田宿に入ってきた。とは言え、日出山の宿、小原田宿、更にその先郡山宿は、ずっと連続した町並みだ。
    旧奥州街道は、この月待塔が多い。月待とは、講で集まって精進する行事で、飲食しながら月の出を待った。
    一番多いのは二十三夜塔で、これは下弦の半月で、丁度真夜中に月の出を拝むことになる。十九夜、二十一夜、二十二夜は女人だけの講が多かったようだ。  

  • 【円寿寺】<br />郡山の本尊巡礼の48番目の阿弥陀如来である「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」は、<br />郡山市の重要有形文化財に指定されているとのこと。<br />また、寺有の「絹本着色真宗系太子略絵」も重要文化財に指定されている。<br />この太子略絵とは、聖徳太子の事跡を絵で書いたもので、多くの人に見やすく、また持ち運びしやすいように縦型の掛軸に描かれたものだ。鎌倉時代末期から室町時代のものと推定されている。<br /><br />さらに、近くの七ッ池で出土した唐の「二彩浄瓶」は、なんと国指定の重要文化財とのこと。<br />正倉院の三彩とならび、陶磁史上きわめて貴重なものとのことであった。

    【円寿寺】
    郡山の本尊巡礼の48番目の阿弥陀如来である「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」は、
    郡山市の重要有形文化財に指定されているとのこと。
    また、寺有の「絹本着色真宗系太子略絵」も重要文化財に指定されている。
    この太子略絵とは、聖徳太子の事跡を絵で書いたもので、多くの人に見やすく、また持ち運びしやすいように縦型の掛軸に描かれたものだ。鎌倉時代末期から室町時代のものと推定されている。

    さらに、近くの七ッ池で出土した唐の「二彩浄瓶」は、なんと国指定の重要文化財とのこと。
    正倉院の三彩とならび、陶磁史上きわめて貴重なものとのことであった。

  • 【水無月橋】<br />南川に架かる橋は、「水無月橋(みなつきはし)」となっている。<br />そして、6月(水無月)の万葉集として、<br />「をみなえし 咲く沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」 中臣女郎と刻まれてる。  

    【水無月橋】
    南川に架かる橋は、「水無月橋(みなつきはし)」となっている。
    そして、6月(水無月)の万葉集として、
    「をみなえし 咲く沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」 中臣女郎と刻まれてる。  

  • 万霊塔

    万霊塔

  • 名刹「小原寺」。<br />永禄3年(1560)天台宗久徳寺の再興の際、阿武隈川の川底の埋れ木で社殿を造営し、曹洞宗小原寺としました。そのことから“安積の埋れ木寺”と呼ばれました。<br />天明大飢饉では本堂に救済者を収容、その際の失火により全焼している。然し、以後再建の社殿は大震災(H23.3/11)で甚大な被害を被り移転しています。

    名刹「小原寺」。
    永禄3年(1560)天台宗久徳寺の再興の際、阿武隈川の川底の埋れ木で社殿を造営し、曹洞宗小原寺としました。そのことから“安積の埋れ木寺”と呼ばれました。
    天明大飢饉では本堂に救済者を収容、その際の失火により全焼している。然し、以後再建の社殿は大震災(H23.3/11)で甚大な被害を被り移転しています。

  • 【小原寺】<br />旧奥州街道40番目の宿場小原田(こはらだ)宿入口付近にある大邦山上ノ寺、小原寺(しょうげんじ)である。<br />小原寺の前の道で、微かに宿場特有の枡形の痕跡が残されていた。また、この小原寺の境内に、明治8年に創設された小原田小学校は、今も寺の北西部にある。

    【小原寺】
    旧奥州街道40番目の宿場小原田(こはらだ)宿入口付近にある大邦山上ノ寺、小原寺(しょうげんじ)である。
    小原寺の前の道で、微かに宿場特有の枡形の痕跡が残されていた。また、この小原寺の境内に、明治8年に創設された小原田小学校は、今も寺の北西部にある。

  • 「善導寺」<br />善導寺の本堂は明治42年に上棟、築地本願寺本堂の建築にも携わった第九代伊藤平左右衛門が大工棟梁を担当したとのことで、国登録有形文化財になっている。

    「善導寺」
    善導寺の本堂は明治42年に上棟、築地本願寺本堂の建築にも携わった第九代伊藤平左右衛門が大工棟梁を担当したとのことで、国登録有形文化財になっている。

  • 「善導寺」が建ち、その本堂は国登録有形文化財だと

    「善導寺」が建ち、その本堂は国登録有形文化財だと

  • 「善導寺」が建ち、その本堂は国登録有形文化財だと

    「善導寺」が建ち、その本堂は国登録有形文化財だと

  • 「郡山駅」西口

    「郡山駅」西口

  • 国道沿いに立派な【安積国造(あさかくにつこ)神社】が鎮座している。石段を上り、本殿に参拝する。<br />境内には「信州高遠透かし灯篭」が小屋に囲まれて保存されている。案内板によると、明和七年(1770)、この神社の宮司が京都への旅の途中、 信州高遠城下の商人二人が商売に失敗して故郷に帰れないと話している様子を哀れんで、金子を与えた。後日商売が回復した二人がお礼にここの宮司を 訪ねてきたが、宮司は、金子を与えた覚えはなく、白王稲荷大明神のお恵みだと伝えたので、二人は深く感銘し、この灯篭を感謝の真心として 奉納したと。真ん中に透かしがある珍しい灯篭だ。<br />安積国造神社<br />安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)がある。創建は、13代成務天皇5年(135年)。勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が、安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、当時未開であったこの地を開き治めた時、社稷(しゃしょく)の神として祀ったのが始まりとか。<br />坂上田村麻呂が東征の際、八幡大神が合祀され八幡宮とも呼ばれている。なお、現在の拝殿は文化7年(1811年)に再建されたものである。

    国道沿いに立派な【安積国造(あさかくにつこ)神社】が鎮座している。石段を上り、本殿に参拝する。
    境内には「信州高遠透かし灯篭」が小屋に囲まれて保存されている。案内板によると、明和七年(1770)、この神社の宮司が京都への旅の途中、 信州高遠城下の商人二人が商売に失敗して故郷に帰れないと話している様子を哀れんで、金子を与えた。後日商売が回復した二人がお礼にここの宮司を 訪ねてきたが、宮司は、金子を与えた覚えはなく、白王稲荷大明神のお恵みだと伝えたので、二人は深く感銘し、この灯篭を感謝の真心として 奉納したと。真ん中に透かしがある珍しい灯篭だ。
    安積国造神社
    安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)がある。創建は、13代成務天皇5年(135年)。勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が、安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、当時未開であったこの地を開き治めた時、社稷(しゃしょく)の神として祀ったのが始まりとか。
    坂上田村麻呂が東征の際、八幡大神が合祀され八幡宮とも呼ばれている。なお、現在の拝殿は文化7年(1811年)に再建されたものである。

  • 国道4号沿いにある安積国造(あさかくにつこ)神社。<br />境内に「艮斎先生之像」や安積先生誕生地碑がある。江戸時代後期の儒学者で昌平坂学問所の教授を務めた安積艮斎(あさかごんさい)は、この神社の三男だったそうだ

    国道4号沿いにある安積国造(あさかくにつこ)神社。
    境内に「艮斎先生之像」や安積先生誕生地碑がある。江戸時代後期の儒学者で昌平坂学問所の教授を務めた安積艮斎(あさかごんさい)は、この神社の三男だったそうだ

  • 奥州街道と會津街道の道標・三春道道標<br />「右奥州街道 左會津街道」と刻む道標(大正三年)と「従是三春道」と刻む道標(文政八年(1825))が建っている。北38mの所にかつては郡山宿の北側の枡形があり、木戸が設けられていた。三春道道標はその木戸の所に建てられたものを移したものだ。

    奥州街道と會津街道の道標・三春道道標
    「右奥州街道 左會津街道」と刻む道標(大正三年)と「従是三春道」と刻む道標(文政八年(1825))が建っている。北38mの所にかつては郡山宿の北側の枡形があり、木戸が設けられていた。三春道道標はその木戸の所に建てられたものを移したものだ。

  • 阿邪訶根神社(あさかねじんじゃ)<br />神木で、その左にあるのが、福島県重要文化財に指定されている石造法華曼荼羅供養塔と、郡山市指定文化財の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆である。

    阿邪訶根神社(あさかねじんじゃ)
    神木で、その左にあるのが、福島県重要文化財に指定されている石造法華曼荼羅供養塔と、郡山市指定文化財の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆である。

  • 阿邪訶根神社の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆<br />曼荼羅供養塔と阿弥陀三尊塔婆<br />説明によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067年)に戦死者を弔うために建立されたもの。高さ2.4m、厚さ30cmで、塔の表面は仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が刻み込まれている。<br />わかりにくいが左下の柵の内側に高さ91cmの石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。鎌倉時代末期に作られたもののようだ。

    阿邪訶根神社の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆
    曼荼羅供養塔と阿弥陀三尊塔婆
    説明によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067年)に戦死者を弔うために建立されたもの。高さ2.4m、厚さ30cmで、塔の表面は仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が刻み込まれている。
    わかりにくいが左下の柵の内側に高さ91cmの石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。鎌倉時代末期に作られたもののようだ。

  • 阿邪詞根(あさかね)神社。<br />由緒によると、康平年間(1058~1065年)、伊勢国阿坂より勧請し道祖社として創建されたようだだ。<br />寛治3年(1089年)、源義家の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊をここに合祀し、御両宮後御霊宮と改称された。<br />そして、寛政年間(1789~1801年)、領主の丹羽氏の時に御霊大明神となり、<br />明治22年に今の阿邪詞根神社となった。

    阿邪詞根(あさかね)神社。
    由緒によると、康平年間(1058~1065年)、伊勢国阿坂より勧請し道祖社として創建されたようだだ。
    寛治3年(1089年)、源義家の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊をここに合祀し、御両宮後御霊宮と改称された。
    そして、寛政年間(1789~1801年)、領主の丹羽氏の時に御霊大明神となり、
    明治22年に今の阿邪詞根神社となった。

  • 逢瀬川を安積橋で渡る

    逢瀬川を安積橋で渡る

  • 石造塔婆(せきぞうとうば)<br />種子(梵字)があるのが特徴で、一番古いのは正安三年(1301年)のものだ。<br />板碑の多い地帯だという。<br />境内には、県指定重要文化財「石造塔婆」が16基も祀られている。 この付近の板碑が集められたものだ。<br />また、境内に天正16年(1588)、伊達政宗が久保田城で佐竹軍と相対した際、手兵30を引き連れて政宗を救い戦死した「伊東肥前重信の碑」が祀られている。 伊達家では、参勤交代の途上、必ず参拝したと。<br />正安6年(1301年)のものが1基。文保2年(1318年)のものが1基。 関東の緑色のものとはちがい、安山岩質凝灰岩製で東北型といわれるもの。

    石造塔婆(せきぞうとうば)
    種子(梵字)があるのが特徴で、一番古いのは正安三年(1301年)のものだ。
    板碑の多い地帯だという。
    境内には、県指定重要文化財「石造塔婆」が16基も祀られている。 この付近の板碑が集められたものだ。
    また、境内に天正16年(1588)、伊達政宗が久保田城で佐竹軍と相対した際、手兵30を引き連れて政宗を救い戦死した「伊東肥前重信の碑」が祀られている。 伊達家では、参勤交代の途上、必ず参拝したと。
    正安6年(1301年)のものが1基。文保2年(1318年)のものが1基。 関東の緑色のものとはちがい、安山岩質凝灰岩製で東北型といわれるもの。

  • 日吉神社の猿の狛犬

    日吉神社の猿の狛犬

  • 「日吉神社」は延暦20年(801年)近江の日吉神社から勧進されたと伝えられる。<br />石段を上ると赤い衣を着た「猿の狛犬」が迎えてくれる。さすが、大津の「日吉神社」の流れで、猿が神の使者なのだ。

    「日吉神社」は延暦20年(801年)近江の日吉神社から勧進されたと伝えられる。
    石段を上ると赤い衣を着た「猿の狛犬」が迎えてくれる。さすが、大津の「日吉神社」の流れで、猿が神の使者なのだ。

  • 日吉神社の参道

    日吉神社の参道

  • 阿弥陀寺<br />ここの銅鐘は、江戸神田の鋳工師、小沼播磨守藤原長政の作で、享保2年(1717年)に造られたものだ。郡山市の重要有形文化財に指定されている。<br />また、境内には永仁4年(1296年)作の板碑も残されているという。

    阿弥陀寺
    ここの銅鐘は、江戸神田の鋳工師、小沼播磨守藤原長政の作で、享保2年(1717年)に造られたものだ。郡山市の重要有形文化財に指定されている。
    また、境内には永仁4年(1296年)作の板碑も残されているという。

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