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一般の英雄不死伝説にくらべると、義経の北行伝説は事跡が格段に多いが、大雑把にみると岩手県では義経の通過伝説で、修験の霊地をたずね、山伏の支援があり、伝説の後半では追手の影がせまってくる。<br />一方、青森県では八戸に7年間滞在するなど、長い時間を過ごしている。<br />1205年に八戸を発ち、各所に立ち寄り、青森市をへて、日本海側の十三湊の福島城に立ち寄り、三厩から蝦夷地に去ったという伝説である。<br />青森県では正妻とされる女性のほか、各所で身辺に女性が現れるがすべて薄幸の女性である。また福島城をふくめ以後は女性の姿はない。<br />この一連のストーリーは、義経北行には奥州藤原氏の了解・手配があったこと示唆している。しかし、最近の研究では義経の渡海伝説は江戸期の寛永(1624-1644)から享保(1716-1736)ころに発生したとされているという。<br /><br />この伝説は(1)で紹介したように義経の死が確認できないことから生まれたと考えられる。つまり、1189年4月に藤原泰衡が500人の軍勢で10数名の義経主従を襲って火をかけ、判別不可能な焼けた首級を鎌倉まで6週間もかけて運んだことで、義経の死は確認されていない。<br />伝説では、死んだのは従弟で影武者の杉目太郎行信で、義経は襲撃の1年も前、つまり1188年の春には北に向かって出立しているとされている。<br /><br />青森県の義経伝説は種差海岸に上陸後に休憩した熊野神社に始まる。<br />岩手県の乗船地については陸前高田のほか諸説があるが、伝説の分布や陸地の地形から判断すれば、久慈から船で北上したとみるのが妥当であろう。<br /><br />青森県八戸市は義経北行伝説の中で唯一の長期(7年間)滞在地とされ、多くの義経伝説が残っているが、岩手県と異なり支援する修験者の影はない。<br />一時かくまわれていた八戸市白銀の源治囲内(げんじかこいない)では、義経は世話になった住民に判官と名乗ることを許したが、「判官」は畏れ多いので法官と名乗ったとされる。電話帳には現在も法官(ほうがん)姓の住民がいる。この地区には義経の「粟借用証文」があったが、昭和36年5月の大火で焼失したという。<br />源治囲内を出て館越山に居を構え、次いで眺望がよい高舘山に移った。高舘山の麓の小田八幡宮には義経が写経したという大般若経が保存されており、京都から持参した毘沙門天を安置する毘沙門堂を創建したという。<br /><br />義経は八戸では正妻(久我大臣の姫)を伴っていたが、1205年4月に正妻が没し、葬った場所が本八戸駅に近い“おがみ神社”で、愛用の手鏡と、ここに至るまでの経緯を書いた古文書「類家稲荷大明神縁起」がある。<br />また藤原秀衡の没後に、脱出先を探るために派遣した板橋長治が居を構えた丘が長治山から長者山となって、現在は長者山新羅神社(しんらじんじゃ)となっている。近くには板橋の地名が残っている。<br />その他、信心していた京都の稲荷神社から1191年に勧請したという藤ケ森稲荷神社などがあるが、岩手県宮古市の横山稲荷に参篭したのが1199年とされているので、伝説の中で年代のすり合わせができていない。<br /><br />八戸以後については六ヶ所村、坪の石文を見た後、義経を慕って河内からきて病を得た浄瑠璃姫を貴船神社にのこし、青森市の善知鳥(うとう)神社、津軽の十三湖畔にある藤原氏の姻戚の安東氏の福島城に立ち寄り、三厩の岩上にお守りの観音像を残して蝦夷地へ向かったとされている。<br />後世、円空が三厩を訪れ義経寺を創建したとされるが、この渡海伝説は江戸期の創作との説が有力である。<br /><br />従って、北海道にある義経山・弁慶洞(本別町)などや、近藤重蔵が1799年に平取町に建立した義経神社などは虚構の産物といえるかもしれない。<br />さらに、1717年の『鎌倉実記』以後、義経が蝦夷地から満州・蒙古に向かったとされ、義経=チンギス・カン説が生まれ、明治期の領土拡大思潮に伴って喧伝されたが、遊牧民の文化・伝統からみて専門家は否定的である。<br /><br />伝説の中の時の流れをまとめると、1188年春に平泉を脱出したとしても、1199年に宮古の横山八幡宮に参篭しているので、北上山地の横断に10年も費やしていることになる。宮古に3年3か月滞在(黒森神社伝)して、1202年か03年には久慈に向かっているはずで、1203年には八戸に到着する。ここに7年間滞在したという伝説と、1205年4月に正妻の久我氏の姫をおがみ神社に葬ったという伝説とは、時間的には整合的である。<br />しかし、1191年に勧請したという八戸の藤ケ森稲荷の年代とは整合しない。<br />

義経北行伝説を追う(2/2)―青森県―

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2014/10/15 - 2014/10/16

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

一般の英雄不死伝説にくらべると、義経の北行伝説は事跡が格段に多いが、大雑把にみると岩手県では義経の通過伝説で、修験の霊地をたずね、山伏の支援があり、伝説の後半では追手の影がせまってくる。
一方、青森県では八戸に7年間滞在するなど、長い時間を過ごしている。
1205年に八戸を発ち、各所に立ち寄り、青森市をへて、日本海側の十三湊の福島城に立ち寄り、三厩から蝦夷地に去ったという伝説である。
青森県では正妻とされる女性のほか、各所で身辺に女性が現れるがすべて薄幸の女性である。また福島城をふくめ以後は女性の姿はない。
この一連のストーリーは、義経北行には奥州藤原氏の了解・手配があったこと示唆している。しかし、最近の研究では義経の渡海伝説は江戸期の寛永(1624-1644)から享保(1716-1736)ころに発生したとされているという。

この伝説は(1)で紹介したように義経の死が確認できないことから生まれたと考えられる。つまり、1189年4月に藤原泰衡が500人の軍勢で10数名の義経主従を襲って火をかけ、判別不可能な焼けた首級を鎌倉まで6週間もかけて運んだことで、義経の死は確認されていない。
伝説では、死んだのは従弟で影武者の杉目太郎行信で、義経は襲撃の1年も前、つまり1188年の春には北に向かって出立しているとされている。

青森県の義経伝説は種差海岸に上陸後に休憩した熊野神社に始まる。
岩手県の乗船地については陸前高田のほか諸説があるが、伝説の分布や陸地の地形から判断すれば、久慈から船で北上したとみるのが妥当であろう。

青森県八戸市は義経北行伝説の中で唯一の長期(7年間)滞在地とされ、多くの義経伝説が残っているが、岩手県と異なり支援する修験者の影はない。
一時かくまわれていた八戸市白銀の源治囲内(げんじかこいない)では、義経は世話になった住民に判官と名乗ることを許したが、「判官」は畏れ多いので法官と名乗ったとされる。電話帳には現在も法官(ほうがん)姓の住民がいる。この地区には義経の「粟借用証文」があったが、昭和36年5月の大火で焼失したという。
源治囲内を出て館越山に居を構え、次いで眺望がよい高舘山に移った。高舘山の麓の小田八幡宮には義経が写経したという大般若経が保存されており、京都から持参した毘沙門天を安置する毘沙門堂を創建したという。

義経は八戸では正妻(久我大臣の姫)を伴っていたが、1205年4月に正妻が没し、葬った場所が本八戸駅に近い“おがみ神社”で、愛用の手鏡と、ここに至るまでの経緯を書いた古文書「類家稲荷大明神縁起」がある。
また藤原秀衡の没後に、脱出先を探るために派遣した板橋長治が居を構えた丘が長治山から長者山となって、現在は長者山新羅神社(しんらじんじゃ)となっている。近くには板橋の地名が残っている。
その他、信心していた京都の稲荷神社から1191年に勧請したという藤ケ森稲荷神社などがあるが、岩手県宮古市の横山稲荷に参篭したのが1199年とされているので、伝説の中で年代のすり合わせができていない。

八戸以後については六ヶ所村、坪の石文を見た後、義経を慕って河内からきて病を得た浄瑠璃姫を貴船神社にのこし、青森市の善知鳥(うとう)神社、津軽の十三湖畔にある藤原氏の姻戚の安東氏の福島城に立ち寄り、三厩の岩上にお守りの観音像を残して蝦夷地へ向かったとされている。
後世、円空が三厩を訪れ義経寺を創建したとされるが、この渡海伝説は江戸期の創作との説が有力である。

従って、北海道にある義経山・弁慶洞(本別町)などや、近藤重蔵が1799年に平取町に建立した義経神社などは虚構の産物といえるかもしれない。
さらに、1717年の『鎌倉実記』以後、義経が蝦夷地から満州・蒙古に向かったとされ、義経=チンギス・カン説が生まれ、明治期の領土拡大思潮に伴って喧伝されたが、遊牧民の文化・伝統からみて専門家は否定的である。

伝説の中の時の流れをまとめると、1188年春に平泉を脱出したとしても、1199年に宮古の横山八幡宮に参篭しているので、北上山地の横断に10年も費やしていることになる。宮古に3年3か月滞在(黒森神社伝)して、1202年か03年には久慈に向かっているはずで、1203年には八戸に到着する。ここに7年間滞在したという伝説と、1205年4月に正妻の久我氏の姫をおがみ神社に葬ったという伝説とは、時間的には整合的である。
しかし、1191年に勧請したという八戸の藤ケ森稲荷の年代とは整合しない。

同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
タクシー 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
個別手配

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  • 種差海岸。この右に広い芝生がある。<br />ここに上陸して熊野神社で休んだ、とされるが、証拠不要の伝説である。<br /><br />天然芝生と言われるが、イネ科の雑草地を機械で刈り込んでいる。<br />

    種差海岸。この右に広い芝生がある。
    ここに上陸して熊野神社で休んだ、とされるが、証拠不要の伝説である。

    天然芝生と言われるが、イネ科の雑草地を機械で刈り込んでいる。

  • 八戸市白銀(しろがね)の 源治囲内(げんじかこいない)地区に、しばらくの間、匿われていたとされる。<br />ここで世話になった人に判官の苗字をゆるしたが、畏れ多いとして法官と名乗ったという。<br />現在でも電話帳に法官姓の酒店がある。

    八戸市白銀(しろがね)の 源治囲内(げんじかこいない)地区に、しばらくの間、匿われていたとされる。
    ここで世話になった人に判官の苗字をゆるしたが、畏れ多いとして法官と名乗ったという。
    現在でも電話帳に法官姓の酒店がある。

  • JR白銀駅の近くの三島神社。<br />この右手前に案内板がある。

    JR白銀駅の近くの三島神社。
    この右手前に案内板がある。

  • 三島神社にある 源氏囲内 の説明。

    三島神社にある 源氏囲内 の説明。

  • 本八戸駅です。<br />この手前はすぐに上り坂で、城跡や神社があります。

    本八戸駅です。
    この手前はすぐに上り坂で、城跡や神社があります。

  • 本八戸駅の近くの おがみ神社です。 2012年に訪れたときの写真です。<br />雨かんむりに口を三つ並べて その下に龍を書いて「おがみ」です。<br /><br />ここには義経の正妻・久我(こが)大臣の姫が愛用した手鏡と、ここに至る経緯を書いた「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されているというが、久我(こが)大臣そのものが存在したのかどうか不明らしい。

    本八戸駅の近くの おがみ神社です。 2012年に訪れたときの写真です。
    雨かんむりに口を三つ並べて その下に龍を書いて「おがみ」です。

    ここには義経の正妻・久我(こが)大臣の姫が愛用した手鏡と、ここに至る経緯を書いた「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されているというが、久我(こが)大臣そのものが存在したのかどうか不明らしい。

  • 青森県にも 岩手県と同じような「義経北行伝説」の案内板が建てられている。<br />新しいせいか、読める。

    青森県にも 岩手県と同じような「義経北行伝説」の案内板が建てられている。
    新しいせいか、読める。

  • 2012年に訪れた おがみ神社。かなり立派です。<br /><br />氏子らしい人たちが働いていたが、宮司は見えなかった。

    2012年に訪れた おがみ神社。かなり立派です。

    氏子らしい人たちが働いていたが、宮司は見えなかった。

  • おがみ神社

    おがみ神社

  • 潜伏地を選ぶべく偵察に出た板橋長治が住んだ長治山、転じて長者山となった。<br />この地に義経の居城をつくるつもりだった、という。<br /><br />2012年に長者山を訪れた時の写真です。

    潜伏地を選ぶべく偵察に出た板橋長治が住んだ長治山、転じて長者山となった。
    この地に義経の居城をつくるつもりだった、という。

    2012年に長者山を訪れた時の写真です。

  • 長者山の新羅神社(しんらじんじゃ)。<br />

    長者山の新羅神社(しんらじんじゃ)。

  • 長者山新羅神社

    長者山新羅神社

  • 長者山新羅神社

    長者山新羅神社

  • 今回(2014年)、初めての訪問した高舘山のふもとにある小田(こだ)八幡宮です。<br />高舘山は一つの山ではなくて、一連の丘の総称です。<br /><br />義経は館越山から 眺望がよいこの高舘山に移った。<br />小さな田を作ったから 小田 だそうです。

    今回(2014年)、初めての訪問した高舘山のふもとにある小田(こだ)八幡宮です。
    高舘山は一つの山ではなくて、一連の丘の総称です。

    義経は館越山から 眺望がよいこの高舘山に移った。
    小さな田を作ったから 小田 だそうです。

  • 読みにくいけれど、小田の地名の由来です。<br /><br />おがみ神社に伝わる 類家稲荷大明神縁起に書いてあるようです。

    読みにくいけれど、小田の地名の由来です。

    おがみ神社に伝わる 類家稲荷大明神縁起に書いてあるようです。

  • かなり立派な神社です。

    かなり立派な神社です。

  • 門です。いろんな彫刻が見事だったのと、一枚板の扉が見事でした。

    門です。いろんな彫刻が見事だったのと、一枚板の扉が見事でした。

  • 正面。 この右に毘沙門天を祀った小祠がある。

    正面。 この右に毘沙門天を祀った小祠がある。

  • 斜めから。<br />左端の破風の下に見事な彫刻がありました。

    斜めから。
    左端の破風の下に見事な彫刻がありました。

  • 見事だったので 木彫を撮って見ました。

    見事だったので 木彫を撮って見ました。

  • 義経堂です。毘沙門堂への途中にありました。<br /><br />説明がなく、案内書にもなかったので詳細不明です。

    義経堂です。毘沙門堂への途中にありました。

    説明がなく、案内書にもなかったので詳細不明です。

  • 義経堂です。

    義経堂です。

  • 毘沙門堂に向かいます。<br /><br />義経が京都から持参した毘沙門天を祀ったそうです。

    毘沙門堂に向かいます。

    義経が京都から持参した毘沙門天を祀ったそうです。

  • 毘沙門堂。

    毘沙門堂。

  • 帰り際に、門のところで源氏ゆかりの紋、笹竜胆(ささりんどう)を発見しました。<br />義経の紋だとの説明もありましたが、不明です。<br /><br />清和源氏、村上源氏、宇田源氏、甲斐源氏などとその流れが家紋としています。

    帰り際に、門のところで源氏ゆかりの紋、笹竜胆(ささりんどう)を発見しました。
    義経の紋だとの説明もありましたが、不明です。

    清和源氏、村上源氏、宇田源氏、甲斐源氏などとその流れが家紋としています。

  • 2011年1月に訪問した青森市の善知鳥(うとう)神社です。 <br />鉄筋コンクリートの頑丈な神社でした。<br /><br />義経は青森市野内の貴船神社に、病を得た浄瑠璃姫に鷲尾三郎経春をつけて残し、この善知鳥神社にお参りして、旅をつづけた。

    2011年1月に訪問した青森市の善知鳥(うとう)神社です。 
    鉄筋コンクリートの頑丈な神社でした。

    義経は青森市野内の貴船神社に、病を得た浄瑠璃姫に鷲尾三郎経春をつけて残し、この善知鳥神社にお参りして、旅をつづけた。

  • 善知鳥神社の狛犬が、綿帽子のような雪をかぶっていた。 2011年の写真です。

    善知鳥神社の狛犬が、綿帽子のような雪をかぶっていた。 2011年の写真です。

  • 西海岸の十三湖(じゅうさんこ)です。<br />以下の写真は2012年に縄文遺跡の見学で訪れた時の写真です。<br /><br />太宰治は「さびしい湖」と書いています。

    西海岸の十三湖(じゅうさんこ)です。
    以下の写真は2012年に縄文遺跡の見学で訪れた時の写真です。

    太宰治は「さびしい湖」と書いています。

  • 十三湊(とさみなと)は、中世には国内屈指の貿易港でした。<br /><br />発掘調査しましたが、埋め戻してあります。

    十三湊(とさみなと)は、中世には国内屈指の貿易港でした。

    発掘調査しましたが、埋め戻してあります。

  • 十三湖の北岸にある福島城跡です。<br /><br />奥州藤原家の姻戚・安東氏の居城なので、義経北行は藤原氏の了解・手配のもとに行われたとも言われる。

    十三湖の北岸にある福島城跡です。

    奥州藤原家の姻戚・安東氏の居城なので、義経北行は藤原氏の了解・手配のもとに行われたとも言われる。

  • 藤原氏の姻戚の安東氏の居城とされていました、が・・・<br /><br />

    藤原氏の姻戚の安東氏の居城とされていました、が・・・

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