2014/10/15 - 2014/10/15
484位(同エリア1573件中)
愛吉さん
シルバーカレッジOB会で東海道、藤沢宿を訪ねました。
藤沢は東海道53次中、江戸日本橋から6番目の宿場で、ここから東海道と江の島道に分かれます。 江の島は江戸庶民憬れの行楽地で、大山詣での帰途には必ず立寄った名所でした。
従い宿場としては大きい方で、幕末には70軒の旅篭が存在しました。
又藤沢は東海道が整備される以前から、遊行寺の門前町として栄え、市も立ち多くの賑わいを見せた場所です。
現在の藤沢は、旧東海道を外れた海寄りに市街が造られ、旧街道筋も道が広がり、通り過ぎる街になってしまいました。
それでも僅かに残る寺社が昔の面影を残します。
それではそれらの寺社を訪ねる旅に出掛けましょう。
電車は小田急の藤沢本町駅にて下車します。
(尚当日は終日雨に降られ、傘を差しての見学になりました)
表紙は遊行寺の表門
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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先ず安藤広重の東海道53次藤沢遊行寺図の説明。
奥のこんもりした丘が遊行寺、手前の川が境川、掛っている橋が遊行寺橋、手前の鳥居は江嶋弁財天の一の鳥居、この鳥居は現在は有りません。
尚当時の街道は、遊行寺橋を渡って左に行くと江の島街道、右が東海道となります。
この絵は鳥居の裏側から見ているので、江の島街道に入った処で振返った処でしょう。 現在この場所は建物が並び見通しは利きません。
境川は昔武蔵と相模の両国を分ける川でしたが、現在は両岸がコンクリートで固められ、川では無く単なる水路で風情は有りません、遊行寺橋は自動車通行の為、コンクリートで平となり、欄干だけが赤く塗られて居ました。
それでは赤い橋を渡り、遊行寺に向いましょう。 -
遊行寺に到着しました。
正式名称は、藤沢山清浄光寺と言います。
寺伝に関しては、次の頁をどうぞ。 -
遊行寺の由来
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天然記念物の銀杏の木
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本堂
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地蔵堂
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お地蔵さんの由来
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改めてお地蔵様にお参りします。
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本堂の裏には銭洗い弁天様が鎮座します。
お金を洗う笊が用意されて居ました。
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弁天様
江戸時代から居られるのでしょうか -
次いで常光寺を訪ねます。
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常光寺は、鎌倉光明寺の末寺で、1572年に開山された古刹です。
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古い庚申供養塔も残っています。
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隣に在る永勝寺です。
元禄4年(1691年)創建 -
本堂
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太子堂
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古い石仏を集めた塔
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この寺の墓地には、飯盛り女の墓が有ります。
飯盛り女とは、宿の手伝いだけでなく、遊女としての役割を担っていました。
大半は近隣の貧しい農家の出身者で、身売りされた人達です。
当然亡くなっても遺体の引取手は有りません。殆どは無縁墓地に入れられます。
旅篭小松屋の主源蔵は、自分の抱えの飯盛り女が亡くなると、自家の墓域に墓を建て葬った数少ない人です。 39基あり48人の戒名が彫られて居ます(内5人は男性)
郷土史家の調査によると小松屋では、41年間に39人の遊女が亡くなり、平均寿命が21歳3ヶ月とあります。 悲しくなります。
又源蔵さんが伊豆出身である為、遊女の出身地は大半が伊豆だそうです。 -
墓地を後にし、白旗神社に移動します。
思ったより、大きく立派な神社です。
何故ここに白旗神社があるのか、由来は次頁を見て下さい。 -
白旗神社の説明。
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境内に置かれた大絵馬。
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源義経公鎮霊碑
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説明板
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弁慶の力石
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白旗神社から5分も歩くと、源義経首洗井戸があります。
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これがその井戸です。
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義経首塚です。
説明文にあった首塚が、ここ井戸の傍らに移されて居ました。
時計は丁度正午を差していますが、雨は全く止む気配が有りません。
藤沢本町の駅に戻り、駅前レストランで昼食をとります。
藤沢は江戸時代には大きな宿場町でしたが、街道筋には昔を偲ぶものは何も有りません、僅かに遊行寺をはじめとする寺社がよすがを伝えるのみです。
雨も降り続いています、今日はこれにて解散となりました。
終
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