2014/10/09 - 2014/10/09
395位(同エリア908件中)
滝山氏照さん
南北朝時代初期に足利尊氏・直義(ただよし)兄弟発願によって全国で設立した寺院の一つとして豊前安国寺が小倉城西側にあり、当寺院には羽前国最上家騒動で改易となり細川氏預かりとなった最上光直(もがみ・みつなお、1559~1629)と同じく陸前伊達家騒動で小倉藩主小笠原氏預かりとなった一関藩伊達宗興(だて・むねおき、1649~1702)の墓所となっています。
まず最上騒動ですが、最上光直は出羽国山形藩主57万石太守最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)弟で1万6千石の楯岡(たておか)城主であり別名楯岡光直とも言います。義光没後二代藩主家親(いえちか、1582~1617)が急死すると三代藩主は家信(いえのぶ、1605~1631)が13歳で家督を継ぎます。
然しながら家臣の一部が若年の家信では藩主にふさわしくないとして光直らが光直弟である山野辺光茂(義忠)(やまのべ・あきしげ(よしただ)、1588~1664)を擁立したことで山形藩混乱となり幕府介入により家親後継とする和解決着の道がはかられます。
光直らはこの裁定を納得せず藩政の混乱が続き、幕府はやむなく最上氏の改易を決定します。元和8年(1622)このなかで騒動の中心人物の一人とされた光直は改易と同時に小倉藩細川忠利(ほそかわ・ただとし)に御預けの身となり同地では忠利より厚遇されますが寛永6年(1629)没します。
その後光直の子孫たちは細川藩に仕える事になり、細川氏が肥後転封となった後も千石の知行を与えられ代々細川氏に仕え維新を迎えます。(尚光茂は岡山藩池田家に預けられた後水戸藩立藩に際し家老となり徳川光圀の教育係となります)
次に伊達騒動ですが、三代藩主綱宗の遊興放蕩三昧が改まらず、万治3年(1660)家臣並びに親族大名の連名提訴により綱宗の隠居と嫡子の家督相続を願い出され幕府からその旨認可が下されます。
四代藩主となった綱村(つなむら、1659~1719)は僅か2歳につき政務が行えず、当初は大叔父に当たる伊達宗勝(むねかつ、1621~1679)と親族大名が信任した奉行である奥山常辰が代行、奥山失脚後は宗勝自身が実権を握り権勢を守るため家臣に権力を与え集権化をはかり、その中に奉行の原田宗輔(はらだ・すけむね)も宗勝側に加担します。
その後一門同士の所領紛争が発生、即ち一門の伊達宗重と宗勝の甥に当たる伊達宗倫の争いですが、一旦宗重が裁定案を了承したたものの、宗勝の配下にある検分役人による双方領地の境界検分が問題化してついに宗勝派横暴を幕府に提訴します。
寛文11年(1671)1月幕府は双方の話を聞くため江戸出府を命じ、3月7日に老中板倉重矩邸にて最初の審議が行われ、同年27日に大老酒井忠清邸に変更し酒井忠清を初め老中全員と大目付が出座する中で二度目の審議が行われます。
その審問中に控室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中在室の部屋に突入しその場にいた奉行職の一人である柴田朝意(しばた・とももと)と斬り合い双方負傷、江戸留守居役の蜂屋可広(はちや・よしひろ)も柴田に加勢するも、混乱した酒井家家臣らに3名とも斬られ原田は即死、あとの二人もその日又は翌日死亡します。
主たる関係者が死亡した中で当事件の処理としては藩主綱村は幼少ゆえに御咎めなし、大老宅で刃傷沙汰を引き起した原田家は息子・孫に至る男性は切腹・斬首、妻娘は他藩預かり、後見人として責務を問われた宗勝の一関藩は改易となります。
一関藩改易に加えて宗勝とその家族は永久預かりの処分となり、宗勝自身は土佐藩預かりその他家族も各藩預かりとなり、一関藩は断絶、藩知行地3万石は仙台藩に返却となります。
これに連座して嫡男宗興も豊前小倉藩主である小笠原忠雄(おがさわら・ただたか)預かりとなり、小倉城内に与えられた屋敷で余生を送り、元禄15年(1702)6月に54歳で死去し当寺に埋葬されます。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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下條守衛屋敷跡
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下條守衛屋敷跡・説明板
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三の丸土塁
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三の丸土塁
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三の丸土塁・説明板
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三の丸土塁
道路の向かい側から長手の三の丸土塁を捉えます。 -
安国寺・山門
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安国寺・表札
「禅宗 安國寺」と刻された寺号が掲示されています。 -
安国寺・説明板
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イチオシ
安国寺・本堂
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安国寺・扁額
本堂掲示の扁額「太手山」が描かれています。 -
安国寺・境内
本堂から山門方向を捉えます。当寺院は幼稚園(おひさま幼稚園)併営しており境内には遊戯具等が所々に配置されています。 -
安国寺・墓石等
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イチオシ
最上光直・伊達宗興石塔
奥に最上光直、手前に伊達宗興の石造があります。 -
俳聖芭蕉石標
小倉の俳人らが芭蕉が書いた短冊を埋めて芭蕉を偲んで建てた塚と言われます。
石標の左に見える石碑に「八九間 空いて雨降る 柳かな」と刻されています。
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