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九州統一の野望実現に向けて北進する薩摩島津氏の攻勢に耐えかねた豊後の太守大友義鎮(おおとも・よししげ、法名:宗麟(そうりん)、1530~1587)は畿内統一を果たした豊臣秀吉に支援を求めるため新築なった大坂城を訪ねます。<br /><br />秀吉は宗麟の支援懇願に対し快諾し島津征伐を約しますが、他方留守にすることで敵対中の徳川家康の攻撃にさらされる危惧を持ち、先遣隊として黒田孝高(くろだ・よしたか、法名:如水(じょすい)、1546~1604)を軍監とした毛利・吉川・小早川の軍を九州に差向ける事になり、孝高は毛利軍と共に島津方高橋元種(たかはし・もとたね、1571~1614)が支配する小倉城を攻撃する一方周辺島津方城主に向けて調略を重ね次々と陥落させます。<br /><br />そして家康と和解した秀吉は後顧の憂いなく天正15年(1587)弟秀長と共に九州に入り肥後口ルートと日向口ルートに分かれて二手から島津本拠の鹿児島に向けて攻めたて、これに対し島津軍は防戦に耐え切れず退却、遂に島津氏の16代当主義久(よしひさ、1533~1611)が剃髪し恭順を示すことで降伏、九州を平定した秀吉は戦火の博多復興奉行として石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)に命じて大坂へ帰ります。<br /><br />戦後秀吉は島津平定後の九州の知行換えを実施し、島津氏征伐に於いて重要な役割を果たした孝高には豊前6郡が与えられ、黒田一族は12万石を以て中津に入封します。<br /><br />慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、嫡男長政(ながまさ、1568~1623)は軍の主力を牽いて徳川家康方として戦功を挙げ、如水は中津に於いて限られた将兵を率いて三成方に属する小倉城主毛利勝信(もうり・かつのぶ、生誕不詳~1611)を攻撃して落城させます。<br /><br />これにより孝高・長政父子は豊前中津から筑前一国52万3千石を与えられ小早川秀秋居城していた名島城に入りその後福崎に新城を構え福岡と改名します。<br /><br />黒田氏のあとに豊前一国と豊後2郡の39万石9千石を以て豊前中津に入ったのは関ヶ原で軍功をあげた細川忠興(ほそかわ・ただおき、1563~1646)で、その後の慶長7年(1602)小倉に移り改易された毛利氏の居城であった小倉城を改修・拡充して細川氏の居城とします。<br /><br />寛永9年(1632)当主忠利の頃、肥後国熊本に転封、代わって播磨明石より譜代大名小笠原忠真(おがさわら・ただざね,1596~1667)が15万石で入部し、以降小笠原氏は西国大名の監視役を務めます。<br /><br />慶應2年(1866)第二次長州征伐で長州藩と戦闘なりますが敗北、小倉城を自ら焼いて香春(かわら)に退き政庁を置きますが、明治2年(1869)版籍奉還となります。<br />

豊前小倉 豊前40万石で中津城に入封した後新たに7年の歳月を経て細川忠興が築城した唐造りの名城『小倉城』訪問

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2014/10/09 - 2014/10/09

278位(同エリア909件中)

2

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滝山氏照

滝山氏照さん

九州統一の野望実現に向けて北進する薩摩島津氏の攻勢に耐えかねた豊後の太守大友義鎮(おおとも・よししげ、法名:宗麟(そうりん)、1530~1587)は畿内統一を果たした豊臣秀吉に支援を求めるため新築なった大坂城を訪ねます。

秀吉は宗麟の支援懇願に対し快諾し島津征伐を約しますが、他方留守にすることで敵対中の徳川家康の攻撃にさらされる危惧を持ち、先遣隊として黒田孝高(くろだ・よしたか、法名:如水(じょすい)、1546~1604)を軍監とした毛利・吉川・小早川の軍を九州に差向ける事になり、孝高は毛利軍と共に島津方高橋元種(たかはし・もとたね、1571~1614)が支配する小倉城を攻撃する一方周辺島津方城主に向けて調略を重ね次々と陥落させます。

そして家康と和解した秀吉は後顧の憂いなく天正15年(1587)弟秀長と共に九州に入り肥後口ルートと日向口ルートに分かれて二手から島津本拠の鹿児島に向けて攻めたて、これに対し島津軍は防戦に耐え切れず退却、遂に島津氏の16代当主義久(よしひさ、1533~1611)が剃髪し恭順を示すことで降伏、九州を平定した秀吉は戦火の博多復興奉行として石田三成(いしだ・みつなり、1560~1600)に命じて大坂へ帰ります。

戦後秀吉は島津平定後の九州の知行換えを実施し、島津氏征伐に於いて重要な役割を果たした孝高には豊前6郡が与えられ、黒田一族は12万石を以て中津に入封します。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、嫡男長政(ながまさ、1568~1623)は軍の主力を牽いて徳川家康方として戦功を挙げ、如水は中津に於いて限られた将兵を率いて三成方に属する小倉城主毛利勝信(もうり・かつのぶ、生誕不詳~1611)を攻撃して落城させます。

これにより孝高・長政父子は豊前中津から筑前一国52万3千石を与えられ小早川秀秋居城していた名島城に入りその後福崎に新城を構え福岡と改名します。

黒田氏のあとに豊前一国と豊後2郡の39万石9千石を以て豊前中津に入ったのは関ヶ原で軍功をあげた細川忠興(ほそかわ・ただおき、1563~1646)で、その後の慶長7年(1602)小倉に移り改易された毛利氏の居城であった小倉城を改修・拡充して細川氏の居城とします。

寛永9年(1632)当主忠利の頃、肥後国熊本に転封、代わって播磨明石より譜代大名小笠原忠真(おがさわら・ただざね,1596~1667)が15万石で入部し、以降小笠原氏は西国大名の監視役を務めます。

慶應2年(1866)第二次長州征伐で長州藩と戦闘なりますが敗北、小倉城を自ら焼いて香春(かわら)に退き政庁を置きますが、明治2年(1869)版籍奉還となります。

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • リバーウォーク北九州(北九州芸術劇場)<br /><br />早朝に鴎外橋から紫川を渡り小倉城に向かいます。往時は紫川は小倉城の外堀の役割を果たしていたと思われます。

    リバーウォーク北九州(北九州芸術劇場)

    早朝に鴎外橋から紫川を渡り小倉城に向かいます。往時は紫川は小倉城の外堀の役割を果たしていたと思われます。

  • 小倉城庭園前<br /><br />紫川に面した小倉城庭園は細川氏治世時の小倉藩時代は家老屋敷で、小笠原氏治世時になりますと藩主の下屋敷(したやしき)となり城主が茶や能を楽しんだり客を接待した所で、大名の庭園と武家屋敷の書院を再現していますが、早朝であるため閉門状況で入場はできません。<br /><br />

    小倉城庭園前

    紫川に面した小倉城庭園は細川氏治世時の小倉藩時代は家老屋敷で、小笠原氏治世時になりますと藩主の下屋敷(したやしき)となり城主が茶や能を楽しんだり客を接待した所で、大名の庭園と武家屋敷の書院を再現していますが、早朝であるため閉門状況で入場はできません。

  • 小倉城周辺地図

    小倉城周辺地図

  • 小倉城虎ノ門口<br /><br />

    小倉城虎ノ門口

  • 小倉城虎ノ門口石標

    小倉城虎ノ門口石標

  • 小倉城虎の門

    小倉城虎の門

  • 小倉城北堀・石垣<br /><br />「リバーウォーク北九州」に面した打ち込みはぎの石垣が東西に延びています。

    小倉城北堀・石垣

    「リバーウォーク北九州」に面した打ち込みはぎの石垣が東西に延びています。

  • 八坂神社前通り<br /><br />北堀を渡り北の丸を通り大手門に向かいます。

    八坂神社前通り

    北堀を渡り北の丸を通り大手門に向かいます。

  • 小倉城天守方向案内

    小倉城天守方向案内

  • 小倉城庭園入口

    小倉城庭園入口

  • 小倉城庭園石碑

    小倉城庭園石碑

  • 小倉城庭園紹介<br /><br />庭園の他書院棟及び展示棟があります。説明では小倉城を築城した細川氏の後に入封した小笠原氏は信濃国から一族が全国に広まる中で当藩は小笠原嫡流で礼法や流鏑馬で知られている事から礼法のおもてなしをすることで庭園が施設が平成10年に発足しています。<br /><br />

    小倉城庭園紹介

    庭園の他書院棟及び展示棟があります。説明では小倉城を築城した細川氏の後に入封した小笠原氏は信濃国から一族が全国に広まる中で当藩は小笠原嫡流で礼法や流鏑馬で知られている事から礼法のおもてなしをすることで庭園が施設が平成10年に発足しています。

  • 小倉城天守

    小倉城天守

  • 天守先門跡石標

    天守先門跡石標

  • 小倉城二の丸跡

    小倉城二の丸跡

  • 小倉城大手門<br /><br />なにやら案内板が立っています。現在耐震補強工事中のため今年12月13日まで休館とのことで、天守には登ることが不可能です。

    小倉城大手門

    なにやら案内板が立っています。現在耐震補強工事中のため今年12月13日まで休館とのことで、天守には登ることが不可能です。

  • 小倉城天守見取図

    小倉城天守見取図

  • 大手門跡

    大手門跡

  • 大手門跡

    大手門跡

  • 天守台方向

    天守台方向

  • 天守閣<br /><br />入口には閉館の看板が見えます。

    天守閣

    入口には閉館の看板が見えます。

  • 天守閣

    天守閣

  • 小倉城沿革案内

    小倉城沿革案内

  • 小倉城絵図<br /><br />かつての小倉城は北の丸は海に臨み、関門海峡の抑えとして考慮されて土地の決定と縄張がなされたと思われます。

    小倉城絵図

    かつての小倉城は北の丸は海に臨み、関門海峡の抑えとして考慮されて土地の決定と縄張がなされたと思われます。

  • 本丸跡<br /><br />本丸の周りには北の丸と松の丸があり、これらを二の丸と三の丸が取り囲む輪郭式城郭で、慶長7年(1602)入封した細川忠興が以前から在った城を大改修したものです。

    本丸跡

    本丸の周りには北の丸と松の丸があり、これらを二の丸と三の丸が取り囲む輪郭式城郭で、慶長7年(1602)入封した細川忠興が以前から在った城を大改修したものです。

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 本丸跡前建物<br /><br />

    本丸跡前建物

  • 水堀と石垣<br /><br />北の丸から堀と石垣を臨みます。

    水堀と石垣

    北の丸から堀と石垣を臨みます。

  • 野面積石垣<br /><br />

    野面積石垣

  • 多聞口門跡

    多聞口門跡

  • 野面積石垣<br /><br />石垣角部は算木積みによって真新しく改修されていますが、右側に見えるのは野面積みであることが判ります。

    野面積石垣

    石垣角部は算木積みによって真新しく改修されていますが、右側に見えるのは野面積みであることが判ります。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ateruiさん 2014/11/27 21:41:40
    誕生日おめでとうございます
    いつも訪問に投票にありがとうございます

    歴史アルバムで勉強させていただいてます

    これからも宜しくお願いします

    enn8801

    滝山氏照

    滝山氏照さん からの返信 2014/11/27 23:57:25
    ご挨拶
    enn8801さん、こんばんは


    いつも小生の旅行記にお立ち寄りいただきありがとうございます。

    本日はご多用の中ご祝詞を賜りありがとうございます。


    今後ともご交誼方よろしくお願いします。



    滝山氏照

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