2014/09/26 - 2014/09/28
2位(同エリア1716件中)
montsaintmichelさん
- montsaintmichelさんTOP
- 旅行記366冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,056,846アクセス
- フォロワー141人
松本<後編>は、松本城界隈の喧騒を離れ、まず日本最古の小学校のひとつとされる旧開智学校を目指し、明治初期にタイムスリップします。新時代を担う子供らへの世界に冠たる教育を願いながら匠が造り上げた学舎は、職人の矜持に満ち溢れて学ぶことの尊さを改めて諭される思いでした。先生も生徒も自分たちへの期待の重さに身震いしたことでしょう。この気概と建物は、日本の誇りとして後世に残すべき文化遺産に匹敵すると思います。
旧開智学校のお隣にあるのは、アーリー・アメリカン様式の特徴を備えた青い西洋館 松本市旧司祭館です。異国情緒が漂う館には自由に出入りできますので、往時の神父さんの暮らしぶりに触れてみるのも愉しいと思います。
レンタサイクルの威力を発揮して次に訪ねたのは、「レトロモダンな街」松本を代表する町並みで有名な中町通りです。蔵造りの建物が立ち並ぶ様は壮観です。旧き佳きものと新しいものをベストミックスさせた街づくりのコンセプトには、見習うものが多々あります。また、資源のない日本が「観光大国」を目指すためのヒントも潤沢にあるように思います。
締めくくりは、足を伸ばして予定外の松本市美術館まで走ってきました。館内を鑑賞する時間はありませんでしたので、「草間ワールド」のさわりだけを堪能してまいりました。屋外展示は、無料ですが見応え充分です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JR特急 徒歩
PR
-
開智小学校
松本市は、幸いにも戦災を免れたことから、旧開智学校などの歴史的構造物を数多く残しています。せっかくですので古の面影を今に遺す松本界隈をサイクリングで回ることにしました。松本城を後にして旧開智学校へ向かいます。スイスイ進み、レンタサイクルの威力発揮です。
途中にあるのが、現在の開智小学校です。校舎の造りは、旧開智学校をモチーフに現代風にアレンジした奇抜なデザインとカラーです。
新旧のツーショットをお愉しみください。 -
旧開智学校(重要文化財)
旧開智学校は、明治6年(1873年)5月に開校された、教育県と称される長野県を象徴するような学舎です。校舎は明治9年に新築されて昭和38年(1963年)まで90年間使われた、日本最古の小学校のひとつです。
中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学や松本深志高等学校の祖ともなりました。元々は廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主 戸田氏の菩提寺 全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸にありましたが、昭和期に信州大学付属病院跡地の現在地に移築されました。 -
旧開智学校
学舎は、後に専門家が「擬洋風建築」と表現した明治の匠が造った独創性に富む建物です。和洋折衷と言うか和魂洋才と言うか、文明開化の面影を今に遺しています。近代化を邁進していた時代の教育界の代表格でもあり、ハイカラな洋風校舎と就学率の高さが全国から注目を集めました。東京大学の前身となる開成学校などを参考にしたもので、建築文化史上貴重な遺構であり、1961年に近代の学校建築として最初の重要文化財に指定されました。
筑摩県権令(県知事)永山盛輝の主導で1875年に着工、翌年に完成。構造は木造桟瓦葺、白亜の寄棟2階建て土蔵造り。中央に「東西南北」の風見鶏を供えた八角塔状の高楼を配し、バルコニーも設えています。正面玄関は雲や龍の彫刻で飾り、屋根には寺院で見かける唐破風を配し、「開智学校」の額を2体の和風テイスト溢れるキューピッドが支える斬新なデザインです。縁起の良いものを何でも取り入れる、日本的で大らかな発想です。窓にはフランスから輸入したギヤマン・ガラスが嵌められ、「ギヤマン学校」と称された片鱗を窺わせます。設計施工は、地元の大工棟梁 立石清重が手掛け、その工事費は約1万1千円。当時の大工の日当が20銭、権令の月給が20円の時代ですから、かなりの高額です。しかも工事費の約7割は松本町民の寄付で賄われたそうで、そこに町民の開智学校への期待の大きさが窺われます。 -
旧開智学校
バルコニーの装飾は、往時の教育が志した天上の高みを象徴するように超一級品揃いです。
開智学校は同年代に建築された旧中込学校に比べて塔が大きく、凝った彫刻が至る所に施されています。とりわけ興味深いのが、正面玄関の上に掲げられた「開智学校」の額です。これにはキューピッドの彫刻が施されているのですが、西洋の天使の巻き毛に拘らない真っ直ぐな髪の毛が日本の童子の姿を偲ばせ、和魂の矜持を感じさせます。
大政奉還後僅か9年しか経っていない時期に、このような公の施設にキリスト教を彷彿とさせるキューピッドの彫刻を和風にアレンジし、建物の顔となる正面に堂々と配置したところに文明開化の勢いが感じられます。
明治初期に新しい時代を担う子供らへの世界に冠たる教育を願いながら匠が造り上げたのは、他に類を見ない白亜の学舎でした。東洋の龍と西洋の天使。この学舎で学んで、龍のように天使が遊ぶ天上界まで登りつめて欲しいという棟梁の願いが伝わってきます。 -
旧開智学校
バルコニー下の龍の木彫は、日光東照宮の龍を模倣したものだそうで、原田蒼渓を中心とした立川流の作品と推定されています。 -
旧開智学校
八角塔上の避雷針には風見鶏風のシンボルが認められ、それぞれ東・西・南・北の方角を示す文字が固定されています。
立ち入ることはできませんが、八角塔屋内部には時報用の鐘が吊られているそうです。 -
旧開智学校
こうして正面から見ると、中央のポーチは中心から窓1つ右側に寄せられ、意図的にシンメトリックを崩した拘りのデザインであることが判ります。
建物を巡る庭の芝生や石畳のプロムナードの手入れも行き届いており、イングリッシュガーデンの雰囲気を味うことができます。 -
旧開智学校 1階教室
懐かしい感じがする教室に心がときめます。また、ここが幼児教育や盲学校の礎となった学校であることを知り、「子守教育」された生徒が書いた手紙に感激しました。「子守教育」と言うのは、松本に子守り奉公に来ていた学校に通えない子供たちのために、放課後の2時間、無料でなされていた教育です。小さい子を背負って授業を受けている写真や「松本に働きに来ていたから、学校に行けた。ありがとうございました」とたどたどしい言葉で綴られた手紙には、何かしら心を打つものがあります。 -
旧開智学校 1階教室
教室からギヤマン・ガラス越しに眺めた校庭の風景です。
この風景をどれくらいの人たちが見ながら学校を巣立っていったのでしょう…。 -
旧開智学校 1階 廊下の電灯
学舎の中は足を踏み出すたびに床がギシギシと軋み、どこか懐かしい響きです。天井に吊るされたモダンなライト、彫刻の手摺り、美しい階段、オルガン、勉強机などの備品たちが目を愉しませてくれます。
各部屋には展示品が置かれ、往時の算数や国語、理科、社会の教科書や制服、ガリバン(刷り機)、だるまストーブなどが見られます。 -
旧開智学校 階段
歴史を感じさせる重厚な階段です。
階段の縁は磨り減っているのが判ります。
往時もこのようにレッドカーペットが敷かれていたかどうかは不明です。 -
旧開智学校 2階 桟唐戸
校舎に多く見られる彫刻も、特徴の一つです。
浄林寺から転用された扉の桟唐戸は校舎内に8面あり、このうち2階の間仕切りになっている桟唐戸には木彫師 原田蒼渓の躍動感溢れる彫刻「波形・飛龍」が施され、校舎の中で最古のもので新築当初の面影をよく留めています。
バルコニーの龍の彫刻は陽明門を模したものだそうですが、こちらの飛龍も東照宮の手水舎に倣った意匠でしょうか?
廃寺から転用した木彫りのようですので、選考には何らかの意図があったのでしょう。 -
旧開智学校 2階 桟唐戸
こちらが「波形」。
波の勢いが伝わってくるような豪快な作品です。 -
旧開智学校 2階 講堂
ここで入学式や卒業式が執り行われたのでしょう。
正面左手には開智学校の朱色の校旗が立てられ、中央には「愛正剛」という校訓が掲示されています。
床には、絨毯の他、竹で編まれた敷物が敷かれています。 -
旧開智学校 2階 講堂
素敵なステンドグラスとバルコニーへ通じる観音扉です。 -
旧開智学校 2階 講堂
一際目を惹き付けるステンドグラスのズームアップです。
このステンドグラスの場所は、外から見ると2階テラスの「開智学校」の額の下辺りになります。 -
旧開智学校 2階 講堂
シャンデリア回りの彫刻も木彫師 原田蒼渓の手によるものです。立川流 立川専四郎富種の門弟だった原田蒼渓は、伊勢町出身で幕末〜明治時代に活躍した彫刻家です。立川流ということもあり、動物、特に鶉(うずら)を得意としていました。 -
旧開智学校 2階 講堂
シックな花の絵が描かれた扉です。
こうした絵柄からも情操教育がなされていたのでしょう。 -
旧開智学校 2階 講堂
廃仏毀釈で廃寺となった「全久院」跡地に建てられたことから、校舎の建材にはその廃材を一部リサイクルしているそうです。
講堂の間仕切り部分の柱や中央廻り階段の欅の丸柱がそれに当たります。130年以上も前から建物を支え、児童たちを見守ってきた柱です。 -
旧開智学校 2階 展示室
開智学校の第一の使命は小学教育でしたが、そこに留まらず、中学校、女学校、師範学校など、さらには博物館や図書館などの社会教育施設に至るまで、その発祥の母体となりました。30を越す教室があり、「広大華麗、地方無比」と謳われていました。
教育資料と建築資料の2種類が保管・展示されています。教育資料には江戸時代の往来物、明治以降の教育書、日誌、卒業証書などがあり、建築資料には重要文化財附指定文書をはじめ、舶来のガラス、立石清重関係の資料があります。 -
旧開智学校 謎の扉
東側階段の踊場に不思議な扉があります。今は扉は開けられないのですが、開けて一歩踏み出すと宙に放り出されてしまうという謎の扉です。
実は、在りし日には、この扉の向こう側に教室棟へ続く廊下があったそうです。教室はこの扉の所から、L字形に北(裏側)へ向かって建てられていたということになります。 -
旧開智学校
大壁は白漆喰、黒灰色のレンガ状に見える部分も漆喰仕上げです -
旧開智学校 庭園 フジバカマ
キク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布。
古い時代に中国からもたらされた帰化植物であると考えられており、万葉の昔から日本人に親しまれています。8〜10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花を付けます。
名の由来は、花の色が藤色で花弁の形が袴のようであることから。
平安時代には、女性の洗髪剤としても使われたそうです。また、防虫剤、芳香剤(匂い袋)、お茶などにも利用されていました。
秋の七草のひとつで、「源氏物語」「徒然草」などによく登場する植物ですが、現在は数が減り、絶滅危惧?類に指定されています。
花言葉は、「ためらい」「遅延」「躊躇」「あの日を思い出す」「優しい思い出」。 -
松本市旧司祭館
空色と薄緑色の塗装が蒼空に映え、とても可愛らしい純西洋館です。
道を隔てて旧開智学校の隣地に佇み、明治22年(1889年)にフランス人松本カトリック教会クレマン神父が住居とするため、自ら設計して地元の大工が建築しました。長野県内に現存する最古の宣教師館です。旧藩政時の武家屋敷跡地に建築され、宣教師館や伝道師たちの住居として使用されていました。
平成元年(1989年)、松本城周辺街路の拡幅事業の一環で、松本カトリック教会の敷地が対象となり、同敷地内の司祭館は解体される運命でしたが、貴重な文化財を保存しようとの声が上がり、市へ寄贈されました。この事業には市民から6000万円もの寄付が寄せられ、平成3年に、城内三の丸の大名屋敷があった一角、地蔵清水から現在地に移築復元されました。
外壁のペンキ塗仕上げの下見張りは、アメリカ開拓時代の船大工の技法を残す、アーリー・アメリカン様式の特徴を備えた貴重なものです。明治初期に外国人の手で建設された西洋館の特徴は、ベランダと暖炉を持つことで、今では珍しい純西洋館です。クレマン神父をはじめ、神父として就任した外国人の中ではフランス人が最も多く、明治34 年(1873年)から昭和3年(1928年)まで27年間、司祭としてこの司祭館に籍を置いたグスタフ・セフラン神父が、「和仏大辞典」の編纂をスタートした記念すべき場所とも伝えられています。
1994年の松本市重要文化財を経て、2005年に長野県宝に格上げされました。 -
松本市旧司祭館
玄関口の石段は、長い歳月を経て角が取れて温かい感じになっています。上りきったところに床面があるため、床下に高さがあります。実は、床下を物置として活用し、フランスから輸入したワインの樽などを格納していたそうです。
羽目板が特徴のコロニアル様式を採用した、青い純西洋館です。庇に可愛い意匠がなされています。 -
松本市旧司祭館
各部屋に設けられている暖炉は、実際に使えるように復元されているとか…。
部屋の壁は薄く断熱が期待できないため、冬の寒さが厳しく長い松本では、往時文明の進んでいた西洋人にとって暖炉は必需品だったのでしょう。
暖炉の奥行きはそれ程深くはないのですが、部屋が狭いのでこれでも充分ということなのでしょう。部屋のインテリアとしての役割も担っていたのか、ディテールへの拘りが見られます。 -
松本市旧司祭館
建物内には自由に立ち入れ、床に足を落とすと優しい木の音が館内全体に響き渡ります。1・2階には内廊下のようなベランダがあり、北向きなので昼間は直接日光は当たりませんが、ガラス窓から眩しいほどの光が入り込み、開放感があります。
2階のベランダには長椅子が置かれています。語らいの場だったのでしょうか?
この建物を拠点に宣教活動をしていた往時の神父たちの姿が、その光の中に突然現れそうな気がします。 -
松本市旧司祭館
どの部屋のランプも風情のあるとても素敵なものばかりで、つい見入ってしまいます。 -
大手 10cm
松本市の古い街道沿いの「たばこ屋」だった一軒家を外観を変えずにリノベーションし、2011年3月にオープンした木工デザイナー三谷龍二氏のノスタルジックなアトリエ兼ギャラリー兼ショップ。発想の自由空間と表現した方がしっくりするかもしれません。
看板には昔のままの屋号「YAMAYA 山屋」が残され、かつての面影を壊さずに取り入れた氏のセンスがキラリと光ります。屋号はタイル製のモザイク仕上げで、ギザギザ感がいい味わいを醸しています。小さな空間ですが、やさしい光に包まれた発想空間であり、三谷氏の作風を象徴するかのような素朴な佇まいです。 -
大手 10cm
ショップの脇に置かれた看板代わりの自転車が、ショップの雰囲気に妙に馴染んでいます。 -
大手 10cm
飾り気のないシンプルなデザインのプレートです。
10cmの由来は、HPを参照ください。
三谷龍二氏のショップ「10cm」のHPです。
http://10cm.biz/html/top.html -
大手 山屋御飴所(やまやおんあめどころ)
創業は寛文12年(1672)。右端にある明治時代からの看板が歴史を感じさせます。340余年続く老舗の飴屋で、伝統の米飴の美味しさを連綿と伝承されています。
松本には昔から飴屋が多く、江戸時代には数十件あったと言われています。現在は数件しか残っておらず、老舗のひとつとして現役で活躍されています。
「吟のしずく」は、2008菓子博覧会金賞受賞。宮城県産米「ミヤコガネ」を60%まで磨いた吟醸米にし、「平成の名水百選」にもなっている「源智の井戸」の水をブレンドして作られているそうです。
レンガの屋根の角にはカエルの置物があり、その反対側の角にもカエルがいて「阿吽」形になっています。何故カエルが置かれているかと言うと、戦時中に松本の米飴が日本軍の携行食になり、日本兵が行軍中に飴をなめて空腹を紛らわせたということがあり、当時の店主が「兵隊さんが無事に帰る(カエル)ように」と祈りを込めて設置されたそうです。因みに、「堂々飴」のネーミングは、行軍をイメージしたものとのことです。
お店のHPです。
http://www.808on-amedokoro.com/ -
中町通り 黒漆喰の蔵
本町通りから中町通りに入った最初の十字路の角に、黒漆喰の存在感溢れる蔵が建っています。蔵づくりを中心とする街並みで知られる界隈でもひときわ異彩を放っ建物です。黒漆喰は、菜種油を燃やして採集した油煙を漆喰に混ぜ、それを濾してできる塗料「黒ノロ」を塗り込んだものです。まず「黒ノロ」を薄く塗り、表面が乾いたら布で磨く。さらに岩石を粉状にした砥之粉を打ち、最後は素手で鏡のようなつやが出るまでひたすら磨くという手間のかかる作業工程でつくり出される芸術品と称するべきものです。
この蔵は、明治時代後期に建てられ、富の象徴とされる蔵の中でも最高級の「蔵座敷」だと称されています。商都松本の繁華街に相応しい黒漆喰の重厚感は、200年近く経った今も健在です。面積約70平方mの総2階建てで、1階は1970年創業のカレー専門店「デリー」。20年ほど前までは建物は北側に延び、現在の2倍ほどの規模だったそうです。建物の詳細は不明のようですが、かつてはたばこや塩、呉服屋などを商っていたと伝えられています。往時黒色は、渋好みの江戸っ子に粋とされた色だったそうです。黒漆喰を蔵に塗るのは、幕末の時代に日本橋の豪商の間で流行した贅沢のひとつとされ、請け負う職人にとっては高い技術を発揮できる誉れ高い仕事だったそうです。この時代には、「ノブレス・オブリージュ」という高貴な人の義務として職人の技巧が伝承されていたということの証です。今日、客の入りが少ないと伝統芸能への補助金を打ち切る等、何も分かっていない地方代表がいるのは嘆かわしいことです。小手先だけの財政改善を謳って人気取りをするのは、首長がなすべきことではないように思います。器量が小さすぎます。そんな人たちに国政を任せてよいのでしょうか…。 -
中町通り 蔵シック館(松本市中町蔵の会館)母屋
中町に隣接する宮村町にあった造り酒屋「大禮酒造」の母屋・土蔵・離れの3棟を2008年に現地に移築したものです。大禮酒造の母屋と土蔵は1888年の極楽寺の大火の直後に建てられ、離れは1923年(大正12年)に増築されています。造り酒屋の名残りの杉玉がシンボルマークです。
イベント等のない日には母屋と離れは無料開放されています。 -
中町通り 蔵シック館 母屋
造り酒屋のトレードマーク「杉玉」です。
軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たすそうです。吊るされたばかりの杉玉はまだ杉の葉の青々しさが残っていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化が、新酒の熟成の具合を伝えるのです。この色であれば、かなり熟成が進んでいるということになります。
また、杉の葉は酒の腐敗を直すと言われており、そのために杉の葉を吊るすという説もあります。 -
中町通り 蔵シック館 母屋
たまたま、和服のイベントがあり、土間からの見学になりました。
座敷などは昔のままに復元され、梁組が重厚な素敵な建物です。 -
中町通り 蔵シック館 母屋
土間の上部は豪快な黒光りする梁組が天窓まで吹き抜けていて圧巻です。しかし、豪快さの中にも美しさを感じるのは、日本建築の巧みの技の真骨頂といったところでしょうか。 -
中町通り 蔵シック館 土蔵
土蔵は、喫茶室として利用されています。
中町通りは、西から東へ抜ける善光寺街道 (北国街道西街道)沿いにあり、主に酒造業や呉服問屋が集まって繁盛してきました。しかし1888年(明治21年)に極楽寺から出火した大火があり、多くの家屋が焼失しました。蔵にあった品物が無事だったために蔵が耐火構造物として見直され、商人たちの知恵で「なまこ壁の土蔵」が造られました。現在90棟余りが残り、白と黒の簡潔なデザインの土蔵造りの家が残され、古き松本の雰囲気を漂わせています。現在の中町は、民芸・工芸品ショップが集まり、居並ぶモノトーンの建屋は独特の情緒を醸しています。
一方通行なのですが、抜け道にでもなっているのか交通量が半端ではないので車に注意しながら観光なさってください。タウンスニーカーと呼ばれるバスも通過します。
中町ガイドマップ
http://nakamachi-street.com/wp/wp-content/uploads/2014/02/Tourist-guideJ.pdf -
中町通り 蔵シック館 土蔵
小ぶりの窓がアクセントになっています。
これは「戸前」と呼ばれる、厚い漆喰塗りの観音扉です。この内側には網戸があり、これらの間にもう一枚、「裏白戸」と呼ばれる引き戸が設えてあります。厚板の表面に刻みを入れて厚く白漆喰を塗ったものです。火災に耐えられる様にこれだけ厳重に造られた土蔵ですが、それでも火災時に火が入らないように念には念を入れて隙間を土で目塗して中のものを守っているそうです。 -
中町通り 蔵シック館 土蔵
土蔵の出窓はイギリスの陶芸家 故バーナード・ハウェル・リーチが絶賛し、滞在中にスケッチしたそうです。彼は、香港生まれのイギリス人ですが、生後まもなく母を亡くし、幼少期を京都に住んでいた祖父母の下で過ごしました。柳宗悦、濱田庄司等と共に民芸運動に参加した工芸作家として知られています。東洋と西洋、日本とイギリスの陶芸の伝統を融合した様式を生み出し、また陶芸と芸術とが結び付いた美の表現者ともいうべき「スタジオ・ポタリー」の父と呼ばれています。日本に愛着を持ち、1909年、22歳の時以来13回来日しています。 -
中町通り 伊原漆器店
創業107年の老舗の漆器店で、黒い漆喰壁のシックで重厚な店構えです。唐獅子牡丹と朱塗りのお椀の鮮やかな看板が目印になっています。小物から人間国宝(故人)の作品まで、木の温もりが伝わる木曽を始め特徴ある品物が揃っています。
木曽漆器は、江戸時代から旧楢川村を中心に製造され、中山道を往来する旅人に地元産の木で造った生活雑器を販売していたものが京や江戸に広がり有名になったそうです。今から40年ほど前、当時の通産省により木曽漆器が「伝統的工芸品」に指定されています。現在は、主に松本市・塩尻市・木曽町で製造されています。 -
中町通り
伊原漆器店の右隣は、食い飲み屋「BUN」という居酒屋のチェーン店。築100年以上の古民家蔵造りの建物を改築した飲み屋。
ブランドポークの安曇野放牧豚を使った「ジンギス豚」や「旬の魚」、「モツ煮」、ラーメンの他、色々な酒肴があるそうです。 -
中町通り
モダンな蔵造りの建物が並び、まさに「レトロモダンな街」松本を代表する町並みと言えます。
全体を見渡すととてもすっきりした印象です。最大の理由は、電柱や電線、信号機がないことです。電線は地中に埋設しています。常々日本は電柱が乱立し、景観を損ねているなと忸怩たる思いでしたので、その反動かもしれません。資源のない日本は、「観光大国」を目指す選択肢も重要であり、今後はグローバルな目線で観光を捉えていく必要があります。外国人は日本に、「美しい景色と自然」、それに「豊かな伝統文化」を求めて訪れます。地中に埋めるとコストもメンテナンスも大変でしょうが、欧米並みとは言わずとも、中町のような町並みが増えることを願ってやみません。
中町通りが人を魅了するもうひとつの理由は、世代を超えた街づくりが実践されていることです。温故知新と言うか、昔の蔵造り風の建物の並びに、その街並みに合わせたデザインで増殖していくという街づくりです。ですから、古い店とモダンな店が入り混じりながら、うまい具合に風景として溶け込んでいます。全体の統一感を維持しながら、細かな部分は時代の潮流に合わせて個性化されるという常に現在進行形の街づくり。中町通りに見たのはそういう新しいコンセプトでした。
このコンセプトは、多様な分野のロールモデルになるのでは?硬くなってしまった頭をもう一度「やわらか頭」に変えてみましょう。 -
中町通り アクセサリーショップ「凸凹堂 松本」
モノクロームの落ち着いた雰囲気が気をそそります。
広い店内には天然石や誕生石、石を使ったアクセサリーが種類豊富に取り揃えられています。アクセサリーのチェーン店のようです。 -
中町通り ミドリ薬品
蔵の街が立ち並ぶ中町通りで、粋な外観で異彩を放っているのがミドリ薬品。ファサードを重厚かつハイカラに飾り、外観をそのまま「看板」にするという大正〜昭和にかけて流行した「看板建築」の典型事例です。この街で87年を過ごした重鎮であり、松本看板建築の中で代表に挙げられる建物です。現在も現役の薬局として活躍中です。 -
中町通り ミドリ薬品
生い立ちは、大正10年(1921年)に薬剤師 田多井勉さんが創業した「ミドリ薬局」が始まりです。昭和2年(1927年)に木造2階建て瓦葺き店舗を建造しました。ファサードは、「洗い出し」と呼ばれる凝った仕上げで、上部の縁取りの装飾にはスズランをモチーフにした模様が施されています。中央には、豪華な花房飾りの上に木で象った「薬」の文字を張り、その周囲を月桂樹と花束で囲んでいます。また、2階窓の上にはメアンダーと呼ばれる装飾文様(ギリシャ雷文)を描いています。メアンダーは、小アジアを曲流するマイアンドロス川(メアンダー川)の名に由来しています。
吃驚なのは、この装飾を薬局名に因んで緑色にライトアップしていたということです。昭和初期からライトアップを敢行していたとは、とてつもない先見性です。 -
大橋通り 割烹「蔵佳」
大橋通りと中町通りの交差点のすぐ北側にある割烹料理店。
130年前に建てられた蔵を改装した店で、文字が書き込まれた当時の梁がそのまま残っているそうです。シックな土蔵造りの建物に、落ち着いた内装、1枚板のカウンターの前では凛と着物を着た若々しい女将がもてなしてくれるとのこと。旬の食材を取り入れた数々の料理と小布施の桝一酒造の酒が売りですが、割烹ですのでかなり値が張るようです。
内部見学は遠慮して、外観だけに留めておくのが肝要です。 -
源智の井戸
松本城周辺は、美ヶ原などの山岳地帯や扇状地が涵養した地下水が豊富で、多くの井戸や湧水があります。これらをまとめて「まつもと城下町湧水群」と呼び、2008年に「平成の名水百選」に選ばれています。その代表格のひとつが「源智の井戸」。
歴史も古く、城下町が形成される前から飲用水として使われ、「信州一の名水」と豊田利忠 著『善光寺道名所図会』にも称される湧き水です。遠近から多くの人々が訪れ、酒の醸造にも使われました。井戸の所有者が小笠原貞慶の家臣 河辺与三佐衛門源智だったことが「源智の井戸」の名の由来。1881年の明治天皇の松本御巡幸時にはこの井戸の湧水が御膳水として使われました。 -
源智の井戸
ご近所の方でしょうか、水を汲みに来られています。
今でも毎分500リットルの水が湧き出しています。便秘解消などデトック効果のあるカルシウムやマグネシウムを多く含む硬水で、中町や本町に酒造業が集まったのはこの天然の恵みによるものです。今でも一年を通して水を求めて訪れる人が絶えません。 -
源智の井戸
井戸の脇にある側溝です。
見ての通り、清水にしか生えないという「梅花藻」がびっしりです。
水の清浄度を証明しています。 -
旧 岡村産婦人科医院 (現 下島歯科医院)
松本駅からあがたの森通りを駅から東に向い、市美術館の少し手前の左側に佇む個人医院です。
昭和5年(1930年)に建造された屋上を持つ木造2階建てのレトロモダン建築。三角形の出窓がリズミカルに波打ち、ひとつだけ設けられた菱形の小窓が凛とした表情を見せています。玄関ポーチのアーチには煉瓦タイルが貼られ、上部の茶色が小粋なステッチを彷彿とさせ、一寸したアクセントになっています。薄いサーモンピンクに彩られた外壁は、元々は御影石の洗い出し仕上げだったそうです。 -
旧 岡村産婦人科医院
大正モダンの香漂う「旧 岡村産婦人科」のある通りは、昭和39年(1964年)までは松本駅と浅間温泉を結ぶチンチン電車「浅間線」が走っていたため電車通りとも呼ばれ、車窓からこのチャーミングなファサードに目を細めた方も少なくなかったことでしょう。当時は、入院施設のある個人医院は珍しい存在だったそうです。
長く地域の信頼を集めた岡村院長が昭和53年(1978年)に急逝し、惜しまれながら閉院しました。丁度その半年前に建物の一部を改修し、娘の下島勲子さんがひとつ屋根の下で歯科医を開業し始め、さあこれからという矢先の出来事だったそうです。以来、下島さんが歯科医院を続けられ、こうして建物を守っておられます。 -
松本市美術館
松本には芸術家 草間彌生さんの作品を多数収蔵する松本市美術館があります。彼女は水玉模様のデザインで有名で、近年ではルイ・ヴィトンともコラボして話題となりました。この美術館は、こうした郷土の芸術家の作品を厚く収蔵した常設展や自然をテーマにした企画展などを多く行うのが特徴です。入館料なしに観られるスペースが広いので若者やファミリーにも人気の美術館です。 -
松本市美術館
敷地内に足を踏み入れるとすぐに迎えてくれるのがこの大きな花。カラフルなドット・アートはもちろん草間さんの作品で、松本市美術館といえばこの「幻の華(The Visionary Flowers)」がシンボルになっています。高さ10m、横18mあるこの巨大な作品は、草間芸術の最大作品だそうです。 -
松本市美術館
建物の下に設けられた休憩スペースまでもが草間ワールド(草間さんの作品ではないそうですが…)に変身しています。
そこにはこんなアヴァンギャルドな自動販売機が!
しかも、草間さんのサイン付きです。 -
松本市美術館
自動販売機の右横には、ショーウィンドウ風の「水玉脅迫(Dots Obsession)」。
草間さんは、松本市出身の現代アートの旗手として世界を舞台に活躍中です。作品の多くは、少女時代の幻視体験を紙片に描き留めたものだそうです。反復増殖する「水玉」や無限に広がる「網」は、作品群に共通するモチーフであり、草間芸術の原点のひとつと言えます。
1957年の渡米をきっかけに才能を大きく開花させ、ニューヨークを拠点に様々なジャンルの作品を発表、60年代欧米アートシーンの寵児となりました。73年に帰国後、93年のヴェネチア・ビエンナーレの日本代表に選ばれ、一気に評価を高めました。
近年は、立体作品や小説、詩などを通じ、表現への飽くなき追求は枠にはまらず、常に新しいアイディアを提示されています。数多の作品に一貫して流れ続ける草間芸術のメッセージは、「愛」「憎」「生」「死」「宇宙」等々。2006年には、日本人女性で初めて高松宮殿下記念世界文化賞を受賞されています。 -
和食処「蔵」
ホテルへの帰り道に見つけた3階建ての蔵造りです。
2000年に明治末建造の蔵を土台ごと曳家し、現在の地へ移転してそのまま店にした重厚な設えが目を惹き付けます。職人気質の2代目店主が揚げる天ぷらが味わえる店。「天丼」が定番で、創業以来、継ぎ足してきた老舗の風格が漂う秘伝の丼つゆがたっぷり染み込んだ炊きたてご飯の上に、惜し気もなく盛られた旬の野菜と大きな海老天が2尾が載るそうです。老舗らしい深い味わいは圧巻だそうです。
和食処ですので、寿司などの和食も味わえます。また、日本酒はすべて地産地消の県内産で、珍重される「真澄」の樽酒も取り扱っているそうです。
お店のHPです。
http://matumotokura.com/ -
松本城
散策後は、ホテル(スーパーホテル:松本天然温泉『諏訪の湯』)で夕食まで寛ぎました。
ホテルでまったりし過ぎてしまい、ブルーモーメントにギリギリ間に合いました。
ライトアップされていて、その優雅な姿を暮れなずむ空に浮かび上がらせていました。北アルプスのシルエットを背にした松本城は格別です。 -
松本城
場所を変えてカメラの設定をあれこれ調整している間にすっかり暗くなっていました。
「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言ったものです。 -
松本城
水面に映える幻想的な姿です。
微妙に揺らいだ逆さ城が、印象派の絵画のようにも感じられます。 -
幸橋
松本の繁華街を南北に2分する女鳥羽川に架けられている橋のひとつが幸橋です。四柱神社と中町通りを結んでいます。橋の上から美ヶ原方面を見ると、ナワテ通りにあるお店のバックヤードがライトアップされ、なかなかいい雰囲気です。表通り側は綺麗でも裏側はちょっと…の所が多いのですが、ここは綺麗に統一されています。
2011年公開の映画「岳」と「神様のカルテ」のロケもこの橋を使って撮影されたそうです。 -
時代遅れの洋食屋「おきな堂」
創業昭和8年(1933年)の地元を代表する洋食屋。なんと、ルーズベルト氏がアメリカ第32代大統領に就任した年です。樹齢200年の木を通し柱とする木造3階建の建物は当時のままだそうですが、建物の外観からは戦前の洋食屋というイメージはまったく湧いてきません。入口のマットには「時代遅れの洋食屋」とありますが、創業当時を鑑みれば逆に「時代を先取りした洋食屋」だったのでしょう。地元では親の代から通った人も多いようで、昔から変わらない味と雰囲気で人気を博しています。 -
おきな堂
店内にはステンドガラスや来店者が自由に書き込める「楽書帳」がそれとなく置かれています。
クラッシックのBGMの中、旧式ブラウン管タイプTVが、無声映画よろしくモノクロのチャップリンの映像を流して演出効果を高めています。写真の中央にあるトイレの扉は、「明治キャラメル」という文字が入った鏡になっています。文字が右から書かれているのが時代を感じさせます。完全にタイムスリップ状態です。 -
おきな堂
天井も高く、ファンがゆっくり旋回して開放感ある空間を演出しています。 -
おきな堂
主人のチョイスは、名物「ポークステーキ」。
熱々の鉄板に載せられ、ジュージューと音を発しながら給仕されます。厚さ2cm以上ありますが、ナイフを入れるとス〜ッとカットできる柔らかさです。醤油の焦げた香とガーリックの仄かな香りが食欲をそそります。ソースは、デミグラソースとパイナップルソースの2種類ありますが、後者とのコンビネーションが絶品です。200gをぺろりと美味しくいただきました。 -
おきな堂
当方は「メンチカツ」を注文しました。
どちらかと言うとお肉は苦手なので心配していましたが、脂っこくなく、キノコやお野菜が沢山入ったお腹にやさしいメンチカツでした。デミグラソースとの相性もピッタリでした。 -
おきな堂
自家製プリンは創業当時からある一番古いデザートだそうです。
しっかりとした卵風味のベースに、香ばしく焦げた苦甘カラメルを潤沢に型に入れ、オーブンで蒸し焼きにした最近ではなかなか出合えない王道プリンです。
長野産の牛乳に拘り、「懐かしい味を追い求めた」というこの一品は、確かに郷愁を呼び覚ます味と舌触りです。美味しい洋食と懐かしいデザートによる最強コンボを堪能させていただきました。 -
おきな堂
珈琲にも拘りのある店で、デミタスに近い小さ目カップの「森の珈琲」エスプレッソが運ばれてきました。
ブラジル「サント・アントニオ農園」のジョン・ネット氏が育てる有機栽培のコーヒー豆を使ったオーガニック珈琲です。香りも味も抜群です。一杯の珈琲から生まれる贅沢なひとときを堪能できました。
特製プリンかコーヒーがいただけるクーポンはこちらからどうぞ。(1人1枚必要)
http://www.hotpepper.jp/strJ000106473/map/?vos=nhppalsa000013 -
おきな堂
お店の前にある「森の珈琲」の説明です。
イメージが広がるネーミングとその響きに惹かれてしまいます。
「森の珈琲」と言えば、明治43年創業の「「カフェーパウリスタ」。銀座に出現した白亜の館は、1杯5銭の当時としては破格の値段で本格的なコーヒーを出し、後の喫茶店の原型となりました。常連に、水上滝太郎や吉井勇、菊池寛、佐藤春夫などの大正の文豪たちが名を連ね、また、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがお忍びで通った店として今も多くの人に愛され、日本コーヒー文化の歴史にその名を刻んできました。銀座のカフェーで「ブラジルコーヒー」を嗜む。これが、「銀ブラ」の由縁です。
「森の珈琲」についての詳細はこちらのHPを参照ください。
http://www.paulista.co.jp/index.html -
鉄板焼き「モイモイ」
高砂通り沿いにある、居酒屋です。蔵造りの外観で、店内はウッディなカフェ調。外観に似合わず、カジュアルな雰囲気で鉄板焼きの他、お好み焼きもあります。こんな蔵造りのお店で騒げるなんて松本市民の方が羨ましい限りです。 -
松本駅
駅前交差点の歩道側にある「バイオリンを持つ少女の銅像」の『萌春(ほうしゅん)』です。道の反対側には、「フルートを持つ少年の像」の『ふえ』があります。
松本市の名誉市民 鈴木鎮一氏が幼児才能教育でヴァイオリンを広め、松本市はヴァイオリンが盛んですので、そんなところからこの像が誕生したのでしょうか?
松本市在住の彫刻家 洞澤今朝夫氏の作品だそうです。
この後、ホテルに戻り、天然温泉「諏訪の湯」にゆっくり浸かって疲れを癒しました。松本にはスーパーホテルが2軒ありますが、こちらは天然温泉付きです。
源泉名「岡谷温泉」、泉質は単純温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)、効能は
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進。
明日は、大糸線JR穂高駅に降り、待望の安曇野をサイクリングで周遊します。総距離30kmを走破する無謀(?)な計画ですが、どうなることやら。
この続きは、③安曇野<前編>でお届けいたします。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
montsaintmichelさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
71