2014/08/30 - 2014/08/30
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと 安芸高田市HPより
毛利元就は「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就でした。
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、戦国時代の足跡を辿ることができます。
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三本の訓」、「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。元就の訓えは、市民の心の中で生き続けています。
【手記】
この日は因島で火祭りがあり、そちらへ出かけてクラブの方と合流しようかと思っていたのですが、急遽、友人が訪ねて来ることになり断念。実は、この日は妻の誕生日だったので、それゆえ毎年のようにお花を持って来てくれるのです。ありがたいことです。
・・・と言うことで今回は以下のような近場散策に変更しました。
福富ダム湖畔に咲くテッポウユリ→土師ダム&のどごえ公園散策→安芸高田郡山城跡と言ったところを歩き回ってきました。
※表紙の絵は安芸高田の郡山城とはなんも関係ない我が家の金魚です。大和の郡山市は金魚が有名ですけど。^^
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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■急遽予定変更、暇つぶしで東広島市〜安芸高田市をぶらりとドライブ
この日は因島で火祭りがあり、そちらへ出かけてクラブの方と合流しようかと思っていたのですが、急遽、近場散策に変更しました。
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■道中の景色
福富ダムしゃくなげ湖畔から移動。道中で見つけたコスモスの花、秋はもうすぐそこに来ています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・安芸高田市歴史民俗博物館
今回は以下のような近場散策になりました。
福富ダム湖畔に咲くテッポウユリ→土師ダム&のどごえ公園散策→安芸高田郡山城跡と言ったところを歩き回ってきました。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・安芸高田市歴史民俗博物館
お久しぶり -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・安芸高田市歴史民俗博物館
団体の観光客がやって来ました。ここは以前入ったことがあるのでパスします。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
郡山城跡登り口にある少年自然の家。大昔、ここで合宿をやったことがあります。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
毛利元就は「戦国の雄」とたたえられた戦国の武将です。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡石垣
明応6年(1497年)、安芸国吉田郡郡山城(現在の安芸高田市吉田町)に生まれ、75歳で病死するまで200数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利隆元公御墓所
戦国時代、中国地方を1つにまとめたのは、毛利元就でした。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・青光井山尼子陣所跡
元就がその生涯を過ごした安芸高田市には、毛利氏ゆかりの史跡が数多く残されており、戦国時代の足跡を辿ることができます。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡内堀跡
「3本の矢を重ねることで折れにくくなる」と息子たちに協力の大切さを教えた「三矢の訓」、「百万の人が心を一つに」、また一日一力一心「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と一致団結の大切さを伝えた「百万一心」。元就の訓えは、市民の心の中で生き続けています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
標高400m比高200m。毛利氏256年間の居城であり、幾多の名将を生んだ城として有名です。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
郡山城は全山を城郭化した山城として全国的にも規模の大きい城跡です。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
元就は1523(大永3)年、27歳のときに郡山城主になりました。
当時、毛利氏は、安芸国の国人の一人で、領地も現在の安芸高田市吉田町周辺のせまい範囲はんいでした。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
元就は、北からの尼子氏と南からの大内氏の対立の間にはさまれて悩なやみますが、安芸国の国人たちと協力して戦うことで、領土・領民を守り、着々と勢力を伸ばしました。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
「安芸国衆連署契状」を読むと毛利氏は、周辺の国人たちと対等な関係で契(約束)を交わし、共同で利益を守り、秩序を維持しようとしていたことがうかがえます。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
こうした国人連合が素地そじとなって毛利氏が戦国大名になるのです。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・地名「用十郎」
毛利家側用人が10名いたから「用十郎」となりました。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・三矢の訓(みつやのおしえ、さんしのおしえ)について
元就の臨終の床で、長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折りました。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・洞春寺跡
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来ませんでした。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話です。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
だが、この話は時代背景からあり得ないということです。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
毛利元就がなくなったのは1571年で、享年75歳でした。長男の隆元は、それより8年前の1563年に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいることはあり得ないのだそうです。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
毛利元就が郡山城の築城の際に、人柱に代えて一日一力一心の大石を鎮めたという石の拓本を基にした碑です。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
礎石に「百万一心」と彫らせ、これは一日一日を、一人一人が力を合せて、心を一つに協同一致して事を行うことを教えたものといわれています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
「百」とも「一日」とも読めます。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
「万」とも「一力」とも見えます。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
一心 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心礎石の由来
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・百万一心碑
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利家の家紋、三星一文字の意味
一文字の下に円形でそれぞれ描かれた三星は、オリオン座の真中に直列する三つの星を表現しています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利家の家紋、三星一文字の意味
これらの星は大将軍星・左将軍星・右将軍星で構成される「三武」或いは「将軍星」と呼ばれ、武家の家紋に好んで用いられた歴史があります。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利家の家紋、三星一文字の意味
また、「一」の文字には「相手に打ち勝つ」という意味が込められており、三星と併せて用いることで更に武威を高める狙いがあったと考えられています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡登山口 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・嘯岳禅師の墓
(左)郡山登山道 (右)嘯岳禅師の墓
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・嘯岳禅師の墓
嘯岳(しょうがく)禅師は二度も明に渡り修行を積んだ僧で、元就はしばしば吉田に招き入れ、また元就の逝去に際しては葬儀の導師をつとめたそうです。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・嘯岳禅師の墓
また毛利輝元が元就の菩提を弔うため吉田城内に建立した洞春寺を開きました。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・郡山城跡・毛利一族墓所
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利弘元墓所
ところ変わって毛利弘元墓所へやって来ました。
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■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・元就の両親、毛利弘元と夫人の墓所
毛利弘元は元就の父で、9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。この墓所から、多治比猿掛城の物見丸に登れます。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・元就の両親、毛利弘元と夫人の墓所
弘元は、嫡男の興元に家督を譲り、次男の元就を連れて、この多治比猿掛城で隠居しますが、永正3年(1506)に39歳の若さで没しています。 -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・毛利弘元夫人の墓石(左)・毛利弘元の墓石(右) -
■戦国大名‘毛利元就’のふるさと/広島県安芸高田市吉田町
・元就の両親、毛利弘元と夫人の墓所
以上で今回の「福富テッポウユリ・土師ダム・郡山城」の旅が終了です。 -
■自宅日記
郡山と言えば、大和の郡山市は金魚で有名です。
帰宅後は金魚ちゃんの世話です^^ よく慣れていて手渡しで餌を食べてくれます。 -
■自宅日記
自宅の金魚 ここで生まれ育った子もいます。 -
■自宅日記
メダカの赤ちゃんです^^今年は40〜50匹育ちました。 -
■自宅日記
いつもは夏前頃咲くテッセンがいまごろ咲いていました。
花言葉は「美しい心」「旅人の喜び」など。
THE END. それでは、また〜。
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