2014/07/24 - 2014/07/24
309位(同エリア596件中)
滝山氏照さん
箕輪城の西側を南北に流れる榛名湖を水源とする榛名白川を渡りだらだら坂を登り詰めると西上野に「上州の大鷹」の異名を持つ武将長野業政(ながの・なりまさ、1491~1561)の供養塔が建立されている長純寺(ちょうじゅんじ)があります。
長野業政の出自はかの著名な在原業平(ありわらの・なりひら、825~880)が遠祖といわれ、業平の祖は平城天皇(へいぜいてんのう、806~809)の皇子阿保親王で、上野国太守に任ぜられ、臣下に降下し在原姓を賜り、親王の第5子が業平にあたります。
業平の五男左衛門太夫業重(なりしげ、生没不詳)が上野国司となって赴任し、現在の群馬県長野郷浜川に居住し土地名を採って長野氏と称します。
業重から幾世代を経て尚業(ひさなり、生没不詳)は関東管領山内家の上杉顕定(うえすぎ・あきさだ、1454~1510)の執事として仕え、公方の足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)との戦いで戦功挙げ、西上野4郡の守将となった後浜川から箕輪に本拠を移します。
その後も山内家上杉氏に従い鎌倉から古河に転じた足利公方勢力との戦い、あるいは同族でありながら相模・武蔵南部を支配下に置く扇谷(おうぎがやつ)家上杉氏との戦いに明け暮れます。
一族の中で最も活躍したのが業政ですが天文15年(1546)河越の戦いで小田原北条氏の巧みな戦術に陥り、当時の主家上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)は敗れ上野国平井城に逃げその後越後に退きます。
主家の支配力が低下するなか、小田原北条氏の執拗な動きに合わせて当時甲相駿三国同盟の武田氏が西上野に触手を拡げてきます。
これに対抗すべく業政は自らの12名の娘(正室と側室二名の)を近隣在地城主に嫁がせ姻戚関係を構築して西上野の団結を図ります。
近隣武将には小幡(甘楽町)、武州忍、和田(高崎市)、倉賀野、厩橋(前橋)などで業政はこれら在郷武士集団を率いる箕輪衆の中核として永禄4年(1561)における上杉謙信関東出兵には当然ながら参陣します。
業政が箕輪城主であった頃西上野支配を目論む信玄は数度に亘り圧倒的な軍勢を以て城を攻めますがいずれも敗れ、「業政が上野に居る限り攻め取ることはできぬ」と信玄に言わしめる程の器量を持つ武将と言えます。
永禄4年(1561)業政は病により63歳で死去、遺言として「葬式は無用。墓の前に一人でも多くの敵首を供えよ。武運が尽きれば城を枕に討死せよ。それが親孝行である。」の言葉を三男業盛(よりもり、1544~1566)に遺します。
業政の死後家督を継いだのは14歳の業盛ですが業政死亡を機に婚姻により連携を保っていた周辺城主の動向が不穏となり、主力の小幡氏が武田氏に降りて従来の一枚岩が崩れ、次に頼りとする安中・松井田・倉賀野の各城が落城、箕輪城は孤立化するなか業盛は最後の時が来たとして御前曲輪の持仏堂にて自刃し、家臣たちも後を追って自害し箕輪城は落城、長野氏は滅亡となります。
2023年9月22日追記
現地に建てられた案内板には下記の説明があります。
「歴史・沿革
当寺は実相院金富山長純寺と称し、雨露町時代後期(戦国時代)の明応6年(1497)御開山に鬼石町(現藤岡市)御嶽永源寺第四世幻室伊蓮大和尚
を招き室田鷹留城主長野信業公により上芝水草に開基される。後に信業公は箕輪城主となる。
信業公の二男の長野業政公が父を嗣いで箕輪城主になるや英名関東に冠し、上杉関東管領領の執権職となる。弘治年間、母君17回忌の折、追善供養の為長純寺を上芝より城の西南方に移転建立する。現境内地の北一段高い開基塚信濃山あたりである。
業政公病死後、二男の業盛が箕輪城主になる。永禄9年(1566)父業政の代より事を構えていた武田信玄に敗れ、ついに落城す。この時当寺もまた武田兵火にかかり七堂伽藍焼き尽くす。
六世天庵玄貞大和尚の代、江戸時代初期の寛永年中(1624~1645)に現境内地に移転建立となる。当寺は何度も火災に遭うがその都度檀信徒の信仰篤区多大なる寄進で大伽藍が今に伝わる。
現在の本堂、庫裏は江戸時代中期の享保21年(1736)十六世孤俊大和尚の代に建立されたものである。
長純寺には、昭和48年(1973)7月31日に市指定重要文化財に指定されている「長純寺の長野業政公の像(ちょうじゅんじのながのなりまさ河野増)」があります。
長野業政公は、長野氏約60年間の箕輪城主n中で、最も智仁勇を兼ね備えた名将の誉れ高い城主であり、武田信玄の数度にわたる猛攻にも屈せず、長野氏の全盛期を築き上げた武将である。
業政公のお坐像は本堂奥の開山堂に安置されており堂の中央に開山三代を、右手に徳川家康像を、左手に業政公の像を安置す。平束の姿で台座には長野家紋の白扇に日の丸を拝してある。
像の高さは約35センチメートルで、容貌は豊頰円満で業政公の性格を象徴し古勇将な姿を偲ばれる。
寺の北側の丘の上には、「信濃山長野業政公供養塔」があります。中央から長野業政公の墓、左が万霊菩提の為に大乗妙典一千部を踊された記念塔、右が業政公の令室の墓と伝えられている。尚、この供養塔は当寺十三世実山孤真大和尚の代に建立されたと伝えられており、業政公の戒名は実相院殿一清長純大居士である。
業政公は死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死にせよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)。
また、甲斐の虎とも甲斐の龍とも呼ばれた武田信玄をして、「業政ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われるほど業政は信玄を手こずらせた。彼の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐ軍を上野に向けたとされています。』
- 旅行の満足度
- 3.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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長純寺案内板
箕輪城域の西北端から南下、図書館を経て橋詰の公園の橋を渡り、登り坂をさらに進むと、長純寺を示す案内板が視野に入ります。 -
長純寺
バスなどは通らず歩行者は自分だけで、時々車輌が往復するだけです。 -
長純寺入口
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長純寺
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長純寺境内案内図
地図によれば本堂裏の高台に業政墓廟が建立されています。 -
石仏
長純寺境内案内図と並んで石仏群が見えます。 -
長純寺門柱
立派な石柱の左は「実相院長純寺」、右は「漕洞宗金富山」と刻されています。 -
長純寺山門
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木製柱標
山門脇の柱標は「長野信濃守業政公像」がかすかに読めます。 -
イチオシ
山門
朱色の山門は珍しい造りと共に印象的です。 -
扁額
業政の戒名である「実相院殿一清長純大居士」から「実相院」が採られています。 -
鬼瓦
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鬼瓦
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参道階段
本堂へは階段を使用します。 -
供養塔
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鐘楼
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イチオシ
本堂
正式には金富山実相院と号し漕洞宗寺院で、本堂裏の開山堂には業政木像が安置されているそうです。 -
扁額
山号「金富山」の扁額が掲載されています。そして扁額の下部には長野氏家紋である檜扇(ひおうぎ)が描かれ長野氏に関係する寺院であることを示しています。 -
本堂
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境内風景
例によって本堂から山門方向を見定めます。 -
書院
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不動明堂
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箕輪城家臣団墓
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箕輪城家臣団墓近景
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長野業政墓所案内
案内板に従い階段を登りますが周辺には業政に関する墓は見当たりません。 -
歴代住職墓所
階段途中右側には歴代住職の墓石が並んでいます。 -
長野業政墓所案内
探しあぐねていると案内板が目立たぬ所に立っており、更に上部に探し求めます。 -
長野業政墓所入口
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市街地展望
墓所入口を振り返り市街地を捉えます。 -
イチオシ
長野業政墓地
フェンスで囲まれた墓地は落ち着いた雰囲気があります。 -
長野業政墓地
フェンスに囲まれた入口から業政墓石へのアプローチには樹木が生い茂っています。 -
イチオシ
長野業政供養塔
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業政室墓石
説明では業政正室の墓とのことです。 -
記念塔
説明では大乗妙典一千部を誦した記念塔とのことです。 -
長野業政説明板
「 信濃山 長野業政公 供養塔
中央が長野業政公の墓、左が万霊菩提の為に大乗妙典一千部を?された記念塔、右が業政公令室の墓と伝えられている。
業政公は、長野氏60年間の箕輪城主の中で最も智・仁・勇を兼ね備えた名称の誉れ高い城主であり、武田信玄の数度にわたる猛攻にも屈せず、長野氏の全盛期を築き上げた武将である。
弘治年間、業政公母君17回忌の折追善供養の為、長純寺を上芝よりこの地に移転建立した。
数度の火災に遇い寛永年中に一段下の現境内へ移転となり、今に至る。
尚、この供養塔は当寺十三世実山孤真大和尚の代に建立されたと伝えられており業政公の戒名は、実相院殿一清長純大居士である。
金富山 長純寺 三十七世
天海 信通 代 」 -
墓地風景
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参道風景
本堂から山門方向を捉えます。 -
鎮守様
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鎮守様内部
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