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織田信長が明智光秀に襲われた1582年当時の本能寺のあとを訪ねました。<br />場所は四条堀川の近くで、現在は堀川高校本能学舎、本能特養ルーム などになっています。地名は元本能寺町です。なお、中京区御池にある現在の本能寺は、1591年に豊臣秀吉が場所を変えて再建した寺院です。<br /><br />織田信長は天下人の座が近づくにつれて際限ない増長慢をしめし、ついには自身を神格化して、信長像が本尊の総見寺の参拝を朝廷に命じるなど、朝廷の権威にも挑んだ。<br />明智光秀は流浪ののち織田信長の家臣となったが、和歌や茶の湯をよくした教養人で、朝廷との交渉を差配し、京都の東西の滋賀と丹波を領して善政を敷き、信長家臣団の主役であった。<br />他方、足利義昭は信長を抑えようとしたが、策謀はすべて失敗して室町幕府は滅亡した。<br />ここで光秀の乱の伏線を想像すれば、朝廷・関白・貴族は、信長が自身を「神」として天皇の上位に置いたことから、天皇家の存続を危ぶんで「本能寺の乱」を画策したかもしれない。また光秀も「狂気を帯びてきた怪物の始末」を考えたのかも知れない。<br /><br />1582年5月と6月を小史にまとめて見ると・・・・・・<br />5月21日、信長から光秀に「領地をすべて召し上げる。代わりに毛利の所領を切り取って領地とせよ」という無体な出陣命令が下った。<br />5月28日、光秀は毛利に対する戦勝祈願を名目に、嵯峨愛宕山の愛宕神社に参詣して連歌会を開いた。光秀の発句は「時は今 雨がした(天下)しる 五月哉」。深読みすれば「今こそ土岐(明智)が天下を取る五月」。これに続く脇は「水上まさる、庭の松山」=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)など、どれも光秀を応援する深読みが可能であった。<br />6月1日:光秀軍は亀山城を出発。信長一行は本能寺に到着し公家や本因坊などが訪れた。<br />6月2日:未明に桂川を越えた光秀軍の襲撃で、本能寺は2時間ほどで焼失し、驕児はついに風雲をよばなかった。<br />6月5日:興福寺から光秀に、仏敵・信長を倒した御礼の祝儀が届く。<br />6月7日:吉田神社の吉田兼見を介して朝廷から信長討伐に対して祝儀が贈られた。<br />6月13日:秀吉が信長存命という書状を広めたためか、光秀が娘を嫁がせた筒井・細川を含め、近隣の諸将からの援軍はなかった。一方、秀吉軍は織田信孝を担いで織田軍を標榜して諸将を味方とし、山崎・天王山の戦いで光秀軍は秀吉軍に包囲され壊滅した。<br />光秀は坂本城を目指したが、小栗栖の竹やぶで深夜、百姓・中村長兵衛に竹槍で刺されて落馬して自刃し、2名の従者が殉死したとされる。<br /><br />首級は、介錯をした溝尾茂朝が竹やぶに埋めた、亀岡市谷性寺に、あるいは坂本城に持ち帰った、遺言により知恩院を目指したが朝となり白川畔に埋めたなど諸説がある。<br />さらに影武者が討たれ、光秀生存との伝説もある。<br />・闇夜に一人の百姓が、家臣13人に気づかれずに近づいて光秀を判別し、竹槍で刺せるか<br />・1630年ころ(寛永)の調査で、小栗栖には百姓「中村長兵衛」を知る村人はいなかった。<br />・細川家の家伝には光秀に殉死した筈の2人の家臣の名があり、明智の縁戚の細川家に仕えている。<br /><br />巷説に、光秀は出家して「南光坊天海」となり、家康以下の三代に仕えて「黒衣の宰相」と呼ばれ、日光東照宮や上野寛永寺を創建したという。<br />家康の墓所、日光東照宮の陽明門を守る1対の武士像は明智家の「桔梗紋」であり、天海の墓は光秀と一族の墓の寺から徒歩範囲にある。<br />

本能寺跡 ー1582年5月・6月:明智光秀の乱と後日譚ー

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2014/05/18 - 2014/05/24

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

織田信長が明智光秀に襲われた1582年当時の本能寺のあとを訪ねました。
場所は四条堀川の近くで、現在は堀川高校本能学舎、本能特養ルーム などになっています。地名は元本能寺町です。なお、中京区御池にある現在の本能寺は、1591年に豊臣秀吉が場所を変えて再建した寺院です。

織田信長は天下人の座が近づくにつれて際限ない増長慢をしめし、ついには自身を神格化して、信長像が本尊の総見寺の参拝を朝廷に命じるなど、朝廷の権威にも挑んだ。
明智光秀は流浪ののち織田信長の家臣となったが、和歌や茶の湯をよくした教養人で、朝廷との交渉を差配し、京都の東西の滋賀と丹波を領して善政を敷き、信長家臣団の主役であった。
他方、足利義昭は信長を抑えようとしたが、策謀はすべて失敗して室町幕府は滅亡した。
ここで光秀の乱の伏線を想像すれば、朝廷・関白・貴族は、信長が自身を「神」として天皇の上位に置いたことから、天皇家の存続を危ぶんで「本能寺の乱」を画策したかもしれない。また光秀も「狂気を帯びてきた怪物の始末」を考えたのかも知れない。

1582年5月と6月を小史にまとめて見ると・・・・・・
5月21日、信長から光秀に「領地をすべて召し上げる。代わりに毛利の所領を切り取って領地とせよ」という無体な出陣命令が下った。
5月28日、光秀は毛利に対する戦勝祈願を名目に、嵯峨愛宕山の愛宕神社に参詣して連歌会を開いた。光秀の発句は「時は今 雨がした(天下)しる 五月哉」。深読みすれば「今こそ土岐(明智)が天下を取る五月」。これに続く脇は「水上まさる、庭の松山」=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)など、どれも光秀を応援する深読みが可能であった。
6月1日:光秀軍は亀山城を出発。信長一行は本能寺に到着し公家や本因坊などが訪れた。
6月2日:未明に桂川を越えた光秀軍の襲撃で、本能寺は2時間ほどで焼失し、驕児はついに風雲をよばなかった。
6月5日:興福寺から光秀に、仏敵・信長を倒した御礼の祝儀が届く。
6月7日:吉田神社の吉田兼見を介して朝廷から信長討伐に対して祝儀が贈られた。
6月13日:秀吉が信長存命という書状を広めたためか、光秀が娘を嫁がせた筒井・細川を含め、近隣の諸将からの援軍はなかった。一方、秀吉軍は織田信孝を担いで織田軍を標榜して諸将を味方とし、山崎・天王山の戦いで光秀軍は秀吉軍に包囲され壊滅した。
光秀は坂本城を目指したが、小栗栖の竹やぶで深夜、百姓・中村長兵衛に竹槍で刺されて落馬して自刃し、2名の従者が殉死したとされる。

首級は、介錯をした溝尾茂朝が竹やぶに埋めた、亀岡市谷性寺に、あるいは坂本城に持ち帰った、遺言により知恩院を目指したが朝となり白川畔に埋めたなど諸説がある。
さらに影武者が討たれ、光秀生存との伝説もある。
・闇夜に一人の百姓が、家臣13人に気づかれずに近づいて光秀を判別し、竹槍で刺せるか
・1630年ころ(寛永)の調査で、小栗栖には百姓「中村長兵衛」を知る村人はいなかった。
・細川家の家伝には光秀に殉死した筈の2人の家臣の名があり、明智の縁戚の細川家に仕えている。

巷説に、光秀は出家して「南光坊天海」となり、家康以下の三代に仕えて「黒衣の宰相」と呼ばれ、日光東照宮や上野寛永寺を創建したという。
家康の墓所、日光東照宮の陽明門を守る1対の武士像は明智家の「桔梗紋」であり、天海の墓は光秀と一族の墓の寺から徒歩範囲にある。

同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
高速・路線バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 此の付近 本能寺跡 と書いた石柱が、元本能寺町の一角に立っている。<br />堀川通の東で、たしか蛸薬師通と小川通の角でした。<br /><br />表紙写真に見えている道路が小川通で、撮影者は蛸薬師通に立っています。

    此の付近 本能寺跡 と書いた石柱が、元本能寺町の一角に立っている。
    堀川通の東で、たしか蛸薬師通と小川通の角でした。

    表紙写真に見えている道路が小川通で、撮影者は蛸薬師通に立っています。

  • 元本能寺南町という案内がありました。

    元本能寺南町という案内がありました。

  • こちらの看板は昔の本能寺がどれだけ広大だったかを示す地図でした。

    こちらの看板は昔の本能寺がどれだけ広大だったかを示す地図でした。

  • 昔の本能寺跡で、一番広いエリアを占める堀川高校です。

    昔の本能寺跡で、一番広いエリアを占める堀川高校です。

  • 養護老人ホームやデイケアセンターなどが入っている大きなビルがありました。<br />これも本能寺の跡です。<br /><br />表紙写真の石柱は、この左側、少し行った所にあります。

    養護老人ホームやデイケアセンターなどが入っている大きなビルがありました。
    これも本能寺の跡です。

    表紙写真の石柱は、この左側、少し行った所にあります。

  • 空也上人の 空也堂です。デイケアセンターと堀川高校の中間です。<br /><br />しまっていて入れないので、横の駐車場から覗いてきました。

    空也上人の 空也堂です。デイケアセンターと堀川高校の中間です。

    しまっていて入れないので、横の駐車場から覗いてきました。

  • 現在の本能寺です。法華宗大本山です。<br /><br />入って右に、博物館?があります。

    現在の本能寺です。法華宗大本山です。

    入って右に、博物館?があります。

  • 立派な大伽藍で、塔頭もいくつかありました。

    立派な大伽藍で、塔頭もいくつかありました。

  • 奥のほうに、信長公廟所の導標が建っています。

    奥のほうに、信長公廟所の導標が建っています。

  • 本能寺の変で戦死した方の名前が書かれています。<br /><br />森蘭丸などの侍だけでなく、僧籍らしい名前もありました。

    本能寺の変で戦死した方の名前が書かれています。

    森蘭丸などの侍だけでなく、僧籍らしい名前もありました。

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