斑鳩・法隆寺周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「聖徳太子ゆかりの寺」「聖徳太子鎮魂の寺」「斑鳩ロマンの寺」…。こうした心を揺らすJRディスカバージャパンのキャッチコピーが巷に溢れ、ただ漠然としたイメージを抱いてそれを温め続けてきた憧れの地 斑鳩…。<br />以上、青春時代の甘酸っぱい1ページですが、当時は写真を見ながら妄想を膨らませるしかありませんでした。静謐で寡黙な空間や重圧荘厳な瓦の海原が旅心を誘いましたが、実際に足を運ぶことはありませんでした。<br />悲しいかな人の心は移り気なもので、そんな狂おしいまでの憧れもいつの間にか忘却の彼方でした。今までは奈良へ出かけてもアクセスの悪い法隆寺には見向きもしなかったのですが、何気なく手にした一冊の本が心地よいトランス状態へ誘ってくれました。この本の内容を学生時代に耳にしたことがあったのです。それが、梅原猛著「隠された十字架―法隆寺論」。法隆寺に対する漠然とした憧憬の源は、この本だったと気付かされた瞬間でした。<br />この本の内容を織り込んで紹介していきますが、歴史の教科書に記述されたこととは異なった視点で古代史のタブーを破った画期的かつショッキングな研究内容です。1972年の出版からすでに40年以上経過しているため、その後の研究で覆った仮説もありますが、法隆寺の謎の一角が瓦解したような気がします。この本を読んだ感想は、古代史は宗教に近い学問だということです。科学であればまず疑うことが基本です。現在のSTAP細胞がそうであるように、仮説への反証を試みてグレーなものをホワイトあるいはブラックにしていくのが科学です。ですから、自分の目で実際に確かめ、その結果をレポするのが今回課せられたミッションということになります。<br />

あをによし 奈良紫絵巻紀行③法隆寺<前編>

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2014/06/14 - 2014/06/14

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

「聖徳太子ゆかりの寺」「聖徳太子鎮魂の寺」「斑鳩ロマンの寺」…。こうした心を揺らすJRディスカバージャパンのキャッチコピーが巷に溢れ、ただ漠然としたイメージを抱いてそれを温め続けてきた憧れの地 斑鳩…。
以上、青春時代の甘酸っぱい1ページですが、当時は写真を見ながら妄想を膨らませるしかありませんでした。静謐で寡黙な空間や重圧荘厳な瓦の海原が旅心を誘いましたが、実際に足を運ぶことはありませんでした。
悲しいかな人の心は移り気なもので、そんな狂おしいまでの憧れもいつの間にか忘却の彼方でした。今までは奈良へ出かけてもアクセスの悪い法隆寺には見向きもしなかったのですが、何気なく手にした一冊の本が心地よいトランス状態へ誘ってくれました。この本の内容を学生時代に耳にしたことがあったのです。それが、梅原猛著「隠された十字架―法隆寺論」。法隆寺に対する漠然とした憧憬の源は、この本だったと気付かされた瞬間でした。
この本の内容を織り込んで紹介していきますが、歴史の教科書に記述されたこととは異なった視点で古代史のタブーを破った画期的かつショッキングな研究内容です。1972年の出版からすでに40年以上経過しているため、その後の研究で覆った仮説もありますが、法隆寺の謎の一角が瓦解したような気がします。この本を読んだ感想は、古代史は宗教に近い学問だということです。科学であればまず疑うことが基本です。現在のSTAP細胞がそうであるように、仮説への反証を試みてグレーなものをホワイトあるいはブラックにしていくのが科学です。ですから、自分の目で実際に確かめ、その結果をレポするのが今回課せられたミッションということになります。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 私鉄

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  • 法隆寺 並松(なんまつ)参道<br />青々と茂る老松が延々と立ち並ぶ、法隆寺参詣へのアプローチとなるトンネルです。旧並松通りから南大門に通じる220mが地道となっており、1261年、後嵯峨上皇の行幸の際に造られたと言われています。<br />外国人に法隆寺のどこが良かったと訊ねると、この「松並木」と答える方も結構多いそうです。法隆寺に思いを馳せながら並松参道を歩みゆくと、飛鳥時代へとタイムスリップしたような錯覚に陥ります。並松参道の両側にある土産物店が立ち並ぶ歩道を歩かれる方が多いのが少々残念です。<br />

    法隆寺 並松(なんまつ)参道
    青々と茂る老松が延々と立ち並ぶ、法隆寺参詣へのアプローチとなるトンネルです。旧並松通りから南大門に通じる220mが地道となっており、1261年、後嵯峨上皇の行幸の際に造られたと言われています。
    外国人に法隆寺のどこが良かったと訊ねると、この「松並木」と答える方も結構多いそうです。法隆寺に思いを馳せながら並松参道を歩みゆくと、飛鳥時代へとタイムスリップしたような錯覚に陥ります。並松参道の両側にある土産物店が立ち並ぶ歩道を歩かれる方が多いのが少々残念です。

  • 法隆寺 南大門(国宝)<br />玄関に当たる総門です。元々、南大門は現在の位置から50m程奥にある中門前の石段の辺りに建造され、平安時代の1031年に現在の場所に移築されたそうです。東大寺を除いた古代の寺院では、南大門と中門は間近に建てられてたようです。また、天平時代までは南大門より中門の方が豪華絢爛に造られたそうで、門を比べればどの時代のものかを推定できるそうです。<br />日本三大門のひとつに数えられ、他の二門は東大寺 南大門と日光東照宮 陽明門です。<br />尚、門の左右に延々と広がる築地塀は「大垣」と呼ばれ、翼を広げたように優美な姿です。<br />因みに、写真右に写っているのは、中学生の修学旅行生です。ゆとり教育が終焉した今は、土曜日も修学旅行のスケジュールに入れているのですね!

    法隆寺 南大門(国宝)
    玄関に当たる総門です。元々、南大門は現在の位置から50m程奥にある中門前の石段の辺りに建造され、平安時代の1031年に現在の場所に移築されたそうです。東大寺を除いた古代の寺院では、南大門と中門は間近に建てられてたようです。また、天平時代までは南大門より中門の方が豪華絢爛に造られたそうで、門を比べればどの時代のものかを推定できるそうです。
    日本三大門のひとつに数えられ、他の二門は東大寺 南大門と日光東照宮 陽明門です。
    尚、門の左右に延々と広がる築地塀は「大垣」と呼ばれ、翼を広げたように優美な姿です。
    因みに、写真右に写っているのは、中学生の修学旅行生です。ゆとり教育が終焉した今は、土曜日も修学旅行のスケジュールに入れているのですね!

  • 法隆寺 南大門<br />創建時の南大門は、身分階級による学侶と堂方と言う二大勢力の内部抗争で1436年に焼失し、1439年に学侶によって再建されたものです。ですから法隆寺の建造物の中では珍しく室町時代の復古建築を今に遺しています。頭貫の先の禅宗様の「木鼻」などにその片鱗を窺わせています。また、現在は入母屋造ですが、当初は切妻造だったそうです。屋根の軒反りは微妙な反り方ですが、両端では勢いよく跳ね上げる禅宗様に近い曲線を描いています。ですから、おおらかに両手を広げ、どっしりと安定感のある優美な姿で迎えてくれるような気がするのです。バロック時代を代表する彫刻家 ベルニーニが設計したサンピエトロ大聖堂の円柱回廊と同じコンセプトです。<br />門の左右には、大垣と呼ばれる築地塀が鳥の羽を広げたように伸びています。この築地塀も最初は平安時代に造られ、江戸時代に再建されたものと言われています。<br />室町時代を代表する「花肘木(はなひじき)」や「木鼻」などディテールも観たかったのですが、空気を読んでスキップします。<br />因みに、学侶と堂方の対立は、織田信長の仲裁にもかかわらず江戸時代まで続いたそうです。1779年に寺法を改正して全寺僧を学侶とした結果、漸く対立は収まりました。往時の寺僧は、聖徳太子の教え「和を以つて貴しと為す」を実践できていなかったのですね!?

    法隆寺 南大門
    創建時の南大門は、身分階級による学侶と堂方と言う二大勢力の内部抗争で1436年に焼失し、1439年に学侶によって再建されたものです。ですから法隆寺の建造物の中では珍しく室町時代の復古建築を今に遺しています。頭貫の先の禅宗様の「木鼻」などにその片鱗を窺わせています。また、現在は入母屋造ですが、当初は切妻造だったそうです。屋根の軒反りは微妙な反り方ですが、両端では勢いよく跳ね上げる禅宗様に近い曲線を描いています。ですから、おおらかに両手を広げ、どっしりと安定感のある優美な姿で迎えてくれるような気がするのです。バロック時代を代表する彫刻家 ベルニーニが設計したサンピエトロ大聖堂の円柱回廊と同じコンセプトです。
    門の左右には、大垣と呼ばれる築地塀が鳥の羽を広げたように伸びています。この築地塀も最初は平安時代に造られ、江戸時代に再建されたものと言われています。
    室町時代を代表する「花肘木(はなひじき)」や「木鼻」などディテールも観たかったのですが、空気を読んでスキップします。
    因みに、学侶と堂方の対立は、織田信長の仲裁にもかかわらず江戸時代まで続いたそうです。1779年に寺法を改正して全寺僧を学侶とした結果、漸く対立は収まりました。往時の寺僧は、聖徳太子の教え「和を以つて貴しと為す」を実践できていなかったのですね!?

  • 法隆寺 南大門 鯛石<br />南大門の石段の手前には、長さ2m、幅1mほどの魚の形をした踏み石「鯛石」があり、「法隆寺の七不思議」のひとつに数えられています。<br />大和盆地が洪水で水浸しになった時、その水が南大門を越えて境内に入ることは無かったので記念に鯛の形をした石を設置したと伝わっています。因みに、この鯛石を踏むと水難に遭わないとも言われています。<br />太古にはこの辺りは大湖であったため、軟弱な地盤に建立された建物の多くは地盤沈下しています。しかし、法隆寺は少しも沈下せず、建立地に良い場所を選んだ聖徳太子の遺徳を讃えて創られた逸話とされています。また、法隆寺の近くを流れる大和川は水運が盛んなほど水量が豊富ですが、それに見合った堤防が築かれなかったため、ひとたび洪水が発生すれば南大門まで水が押し寄せてきたのも事実です。往時の自然崇拝と併せて考えると、鯛石は「ここより高い所が安全域」だという飛鳥人のメッセージなのかもしれません。<br />実際、この鯛石の標高は海抜51.1m、大和川堤防の頂部は44.6mで、標高差6m程あるそうです。先人の教え侮るべからずです。<br />

    法隆寺 南大門 鯛石
    南大門の石段の手前には、長さ2m、幅1mほどの魚の形をした踏み石「鯛石」があり、「法隆寺の七不思議」のひとつに数えられています。
    大和盆地が洪水で水浸しになった時、その水が南大門を越えて境内に入ることは無かったので記念に鯛の形をした石を設置したと伝わっています。因みに、この鯛石を踏むと水難に遭わないとも言われています。
    太古にはこの辺りは大湖であったため、軟弱な地盤に建立された建物の多くは地盤沈下しています。しかし、法隆寺は少しも沈下せず、建立地に良い場所を選んだ聖徳太子の遺徳を讃えて創られた逸話とされています。また、法隆寺の近くを流れる大和川は水運が盛んなほど水量が豊富ですが、それに見合った堤防が築かれなかったため、ひとたび洪水が発生すれば南大門まで水が押し寄せてきたのも事実です。往時の自然崇拝と併せて考えると、鯛石は「ここより高い所が安全域」だという飛鳥人のメッセージなのかもしれません。
    実際、この鯛石の標高は海抜51.1m、大和川堤防の頂部は44.6mで、標高差6m程あるそうです。先人の教え侮るべからずです。

  • 法隆寺 南大門<br />斑鳩の里にある法隆寺は飛鳥時代(7世紀後半〜8世紀初)の姿を今に伝える建造物であり、その西院伽藍は現存する世界最古の木造建造物群です。これほどのお寺ですが、誰がどんな目的で何時創建したのかは、正史『日本書紀』が記しておらず、謎のベールに包まれたままです。しかし、「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の縁起文を読み解き、創建の由来は次のように推定され、定説となっています。<br />「用明天皇は、病気平癒のため伽藍建立を発願したが、その実現を待たずに崩御。そこで推古天皇と日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子が天皇の遺志を継ぎ、607年に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのが若草伽藍。若草伽藍は670年に落雷で堂塔の総てを焼失し、後に現在の場所に再建されたのが法隆寺(斑鳩寺)」。<br />さて誰が法隆寺を再建したかですが、大化の改新の立役者「中大兄皇子=天智天皇」と「中臣鎌足」は歴史の教科書の記述とは異なり、仏法興隆の祖である蘇我氏を滅ぼした首謀者であり、仏教界からすれば超極悪人です。そこで、この2人あるいはその連れ合いや末裔が、我々は仏教を厚く敬っていると世間にアピールするために再建したとも、一族郎党に降りかかった聖徳太子や山背大兄王(聖徳太子の子)、蘇我入鹿らの祟りを畏れ、その怨霊を封じ込めるために再建したとの説もあります。<br />現在、法隆寺は塔や金堂を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とした東院伽藍に区分けされ、広さ18万7千平方mの境内には飛鳥、白鳳、天平時代の粋を集めた宝物類が並べられています。国宝や重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及びます。このように1300年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、七堂伽藍の全てが国宝に指定され、古代建築の全てを学べる殿堂となっています。1993年には、日本初の世界文化遺産に登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として衆目を集めています。<br />

    法隆寺 南大門
    斑鳩の里にある法隆寺は飛鳥時代(7世紀後半〜8世紀初)の姿を今に伝える建造物であり、その西院伽藍は現存する世界最古の木造建造物群です。これほどのお寺ですが、誰がどんな目的で何時創建したのかは、正史『日本書紀』が記しておらず、謎のベールに包まれたままです。しかし、「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の縁起文を読み解き、創建の由来は次のように推定され、定説となっています。
    「用明天皇は、病気平癒のため伽藍建立を発願したが、その実現を待たずに崩御。そこで推古天皇と日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子が天皇の遺志を継ぎ、607年に寺とその本尊「薬師如来」を造ったのが若草伽藍。若草伽藍は670年に落雷で堂塔の総てを焼失し、後に現在の場所に再建されたのが法隆寺(斑鳩寺)」。
    さて誰が法隆寺を再建したかですが、大化の改新の立役者「中大兄皇子=天智天皇」と「中臣鎌足」は歴史の教科書の記述とは異なり、仏法興隆の祖である蘇我氏を滅ぼした首謀者であり、仏教界からすれば超極悪人です。そこで、この2人あるいはその連れ合いや末裔が、我々は仏教を厚く敬っていると世間にアピールするために再建したとも、一族郎党に降りかかった聖徳太子や山背大兄王(聖徳太子の子)、蘇我入鹿らの祟りを畏れ、その怨霊を封じ込めるために再建したとの説もあります。
    現在、法隆寺は塔や金堂を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とした東院伽藍に区分けされ、広さ18万7千平方mの境内には飛鳥、白鳳、天平時代の粋を集めた宝物類が並べられています。国宝や重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及びます。このように1300年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、七堂伽藍の全てが国宝に指定され、古代建築の全てを学べる殿堂となっています。1993年には、日本初の世界文化遺産に登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として衆目を集めています。

  • 法隆寺 参道 築地塀<br />後嵯峨上皇が1261年に法隆寺に行幸されるに際し、南大門の西側の築地塀を造ったと伝えられています。古代の塀は素朴な版築(はんちく)技法仕上げでした。版築とは粘土を棒で突き固める方式で、版築の回数が塀に年輪のように境界線が残されています。表面はざらざらで、一見荒壁のようです。因みに、万里の長城も同じ工法です。後には、土の中に瓦などを入れる技法に発展しました。この築地塀の下部の厚さは1.5mもあるそうです。<br />今では想像すらできませんが、明治の廃仏毀釈の際には、この南大門左右の築地塀を取り壊して田畑の土に利用しようとしたそうです。<br />また、この趣のある築地塀は、左側は真っ直ぐですが、右側は土上門、唐門の辺りから徐々に2m広げられています。人の目は、遠近法で遠くほど視野が狭くなります。それを逆手に取ったのがこの手法で、パノラマ的な圧倒する景観が間近に迫ってくるように感じられるのです。桂離宮の御成門と同じ発想のものです。<br /><br /><br />

    法隆寺 参道 築地塀
    後嵯峨上皇が1261年に法隆寺に行幸されるに際し、南大門の西側の築地塀を造ったと伝えられています。古代の塀は素朴な版築(はんちく)技法仕上げでした。版築とは粘土を棒で突き固める方式で、版築の回数が塀に年輪のように境界線が残されています。表面はざらざらで、一見荒壁のようです。因みに、万里の長城も同じ工法です。後には、土の中に瓦などを入れる技法に発展しました。この築地塀の下部の厚さは1.5mもあるそうです。
    今では想像すらできませんが、明治の廃仏毀釈の際には、この南大門左右の築地塀を取り壊して田畑の土に利用しようとしたそうです。
    また、この趣のある築地塀は、左側は真っ直ぐですが、右側は土上門、唐門の辺りから徐々に2m広げられています。人の目は、遠近法で遠くほど視野が狭くなります。それを逆手に取ったのがこの手法で、パノラマ的な圧倒する景観が間近に迫ってくるように感じられるのです。桂離宮の御成門と同じ発想のものです。


  • 法隆寺 南大門<br />法隆寺に松が多い理由は、聖徳太子が3歳の頃、両親である後の用明天皇と間人皇后の3人で桃園を散歩中、父が太子に「桃の花が好きか、松の木が好きか」を訊ね、「桃は一時の花でしかないが、松は年中青々とした万年の樹木でありますから松の方が好きです」と模範解答したとの言い伝えによります。子供なら素直に、桃を選べばよかったのにね〜!<br />もしも境内に四季折々の花が植えられていれば多くの女性に歓迎されたでしょうが、法隆寺はなんといっても松だからこそ古色蒼然とした赴き深いお寺となっているのでしょう。<br />

    法隆寺 南大門
    法隆寺に松が多い理由は、聖徳太子が3歳の頃、両親である後の用明天皇と間人皇后の3人で桃園を散歩中、父が太子に「桃の花が好きか、松の木が好きか」を訊ね、「桃は一時の花でしかないが、松は年中青々とした万年の樹木でありますから松の方が好きです」と模範解答したとの言い伝えによります。子供なら素直に、桃を選べばよかったのにね〜!
    もしも境内に四季折々の花が植えられていれば多くの女性に歓迎されたでしょうが、法隆寺はなんといっても松だからこそ古色蒼然とした赴き深いお寺となっているのでしょう。

  • 法隆寺 西院伽藍<br />左には五重塔、中央に中門、右には老松の奥にかすかに覗く金堂が三役揃い踏みし、それらが松の古木に調和した類稀なる古色蒼然とした眺望を創っています。三棟とも1300年余り前の建造物かつ国宝指定と言う贅沢なフレームです。国宝の三棟を借景に記念撮影が出来るのは法隆寺に限られています。<br />南大門から中門へ続く150mにも及ぶ石畳は、1985年に中国から石材を輸入して設置されたものです。<br /><br />聖徳太子が好んだという松林が古い堂塔に映え、水墨画を彷彿とさせるこの風景は、修学旅行などのセピア色した思い出とオーバーラップして感慨に浸られている方も多いのでは?まるで絵に描いたような風景ですが、団体観光客や修学旅行生と出くわすとこのような写真は撮れません。何故なら、手前の階段が記念撮影の踏み台になってしまうからです。

    法隆寺 西院伽藍
    左には五重塔、中央に中門、右には老松の奥にかすかに覗く金堂が三役揃い踏みし、それらが松の古木に調和した類稀なる古色蒼然とした眺望を創っています。三棟とも1300年余り前の建造物かつ国宝指定と言う贅沢なフレームです。国宝の三棟を借景に記念撮影が出来るのは法隆寺に限られています。
    南大門から中門へ続く150mにも及ぶ石畳は、1985年に中国から石材を輸入して設置されたものです。

    聖徳太子が好んだという松林が古い堂塔に映え、水墨画を彷彿とさせるこの風景は、修学旅行などのセピア色した思い出とオーバーラップして感慨に浸られている方も多いのでは?まるで絵に描いたような風景ですが、団体観光客や修学旅行生と出くわすとこのような写真は撮れません。何故なら、手前の階段が記念撮影の踏み台になってしまうからです。

  • 法隆寺 中門(国宝)<br />西院伽藍の本来の入口ですが、現在は通り抜けられません。深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。しかし、真中に柱があるという、謎めいた門でもあります。通り道の真中に邪魔な柱があるのは、どう考えても非合理です。「門」と言う文字になりませんもの…。<br />一般的には門柱が中央に配置されないように柱間を奇数にしますが、この中門は偶数の4間が使われ、奥行も通例2間の偶数に対して3間の奇数になっている異例の門です。法隆寺ではこの理由を、金堂と五重塔を対等の位置付けとし、各々の出入口として設けたものだと説明しています。<br />しかし、実はこの技が「閂(かんぬき)」であり、聖徳太子やこの地で殺された太子の子孫の怨念が外に出ないように封じ込めたものと言われ、「聖徳太子の怨霊封じの門」や「聖徳太子が子孫を好まないための門」、「金剛界・胎蔵界の門」とか物議に事欠かない門となっています。<br />門は、様々なものの出入りを制限するために構えられます。「門を潜ると空気が変わる」とはよく言ったもので、「門」は我々凡人の心に期せずして宿る邪気や不道徳といった人間性を欠いたものを封じ込める精神的な仕掛けでもあるのでしょう。<br />

    法隆寺 中門(国宝)
    西院伽藍の本来の入口ですが、現在は通り抜けられません。深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。しかし、真中に柱があるという、謎めいた門でもあります。通り道の真中に邪魔な柱があるのは、どう考えても非合理です。「門」と言う文字になりませんもの…。
    一般的には門柱が中央に配置されないように柱間を奇数にしますが、この中門は偶数の4間が使われ、奥行も通例2間の偶数に対して3間の奇数になっている異例の門です。法隆寺ではこの理由を、金堂と五重塔を対等の位置付けとし、各々の出入口として設けたものだと説明しています。
    しかし、実はこの技が「閂(かんぬき)」であり、聖徳太子やこの地で殺された太子の子孫の怨念が外に出ないように封じ込めたものと言われ、「聖徳太子の怨霊封じの門」や「聖徳太子が子孫を好まないための門」、「金剛界・胎蔵界の門」とか物議に事欠かない門となっています。
    門は、様々なものの出入りを制限するために構えられます。「門を潜ると空気が変わる」とはよく言ったもので、「門」は我々凡人の心に期せずして宿る邪気や不道徳といった人間性を欠いたものを封じ込める精神的な仕掛けでもあるのでしょう。

  • 法隆寺 中門 金剛力士像(重文)<br />現存最古(711年創立)かつ天平時代唯一の遺構で国宝級と言えます。しかし、後補(後世の補修)時に塑土を重ねた結果、現在のようなメタボ体型となり、重要文化財に甘んじています。塑像ながら、1300年もの間、雨風による損傷から免れたことは吃驚です。因みに、塑像とは「木舞」の技法で、竹や薄板などで像の大まかな形を造り、その上から粘土で肉付けして形を整える技法です。<br />朱色の阿形像は、現在のメタボ体型の方が量感で迫力が増し、猛々しい武将像に相応しいとも言われています。また、黒色の吽形像は、16世紀に顔以外の部分はほとんど木彫に変えられていますが、そのために阿形像よりも当初の面影を留めているそうです。<br />

    法隆寺 中門 金剛力士像(重文)
    現存最古(711年創立)かつ天平時代唯一の遺構で国宝級と言えます。しかし、後補(後世の補修)時に塑土を重ねた結果、現在のようなメタボ体型となり、重要文化財に甘んじています。塑像ながら、1300年もの間、雨風による損傷から免れたことは吃驚です。因みに、塑像とは「木舞」の技法で、竹や薄板などで像の大まかな形を造り、その上から粘土で肉付けして形を整える技法です。
    朱色の阿形像は、現在のメタボ体型の方が量感で迫力が増し、猛々しい武将像に相応しいとも言われています。また、黒色の吽形像は、16世紀に顔以外の部分はほとんど木彫に変えられていますが、そのために阿形像よりも当初の面影を留めているそうです。

  • 法隆寺 中門 金剛力士像<br />阿形像の見開いた眼の視線は少し遠くにあり、吽形像は後世の改変かもしれませんが足元近くに視線を落としているように窺えます。両像合わせて遠近の見張りを分担しているとも考えられます。<br />近くで見ると足元には血管まで浮きあがらせており、細かい描写が実にリアルです。<br /><br />多くの寺院では金剛力士像の前に鳥害防止用ネットが張られていますが、この中門はネットを設けていません。「法隆寺7不思議」には、「法隆寺の伽藍は、蜘蛛が巣を作らず、雀も糞をかけない」というのがあり、鳩や雀もいないのかと思っていました。実際、偶然なのか見かけなかったのですが…。しかし、像の表面を保護するために、表面コーティング処理を施しているそうです。<br />

    法隆寺 中門 金剛力士像
    阿形像の見開いた眼の視線は少し遠くにあり、吽形像は後世の改変かもしれませんが足元近くに視線を落としているように窺えます。両像合わせて遠近の見張りを分担しているとも考えられます。
    近くで見ると足元には血管まで浮きあがらせており、細かい描写が実にリアルです。

    多くの寺院では金剛力士像の前に鳥害防止用ネットが張られていますが、この中門はネットを設けていません。「法隆寺7不思議」には、「法隆寺の伽藍は、蜘蛛が巣を作らず、雀も糞をかけない」というのがあり、鳩や雀もいないのかと思っていました。実際、偶然なのか見かけなかったのですが…。しかし、像の表面を保護するために、表面コーティング処理を施しているそうです。

  • 法隆寺 中門 金剛力士像(重文)<br />通常、金剛力士像は金剛杵を持っていますが、両像共に素手です。両像の特徴は、左手が拳を作り、右手は五指を思い切り開くという躍動感溢れたポーズです。これは仏敵を威嚇する戦闘態勢を誇示するものと思われ、彫師のパワーと熱意が窺われます。天平初期は、直立不動で動勢の乏しい表現が流行った時代です。往時のトレンドに逆らって斬新なスタイルを創作したパイオニア精神に頭が下がります。このような鬼才が誕生した背景には、自由な創意に任せて制作に打ち込める恵まれた環境があったのでしょう。

    法隆寺 中門 金剛力士像(重文)
    通常、金剛力士像は金剛杵を持っていますが、両像共に素手です。両像の特徴は、左手が拳を作り、右手は五指を思い切り開くという躍動感溢れたポーズです。これは仏敵を威嚇する戦闘態勢を誇示するものと思われ、彫師のパワーと熱意が窺われます。 天平初期は、直立不動で動勢の乏しい表現が流行った時代です。往時のトレンドに逆らって斬新なスタイルを創作したパイオニア精神に頭が下がります。このような鬼才が誕生した背景には、自由な創意に任せて制作に打ち込める恵まれた環境があったのでしょう。

  • 法隆寺 中門 金剛力士像<br />吽形像の右手の掌を外側に向ければ、後世の典型的な仁王像のスタイルとなりますが、このように掌を下に向ける方が相手を威嚇する効果があります。肉身は朱色だったのが黒色になっているのは、後世の補彩のようです。

    法隆寺 中門 金剛力士像
    吽形像の右手の掌を外側に向ければ、後世の典型的な仁王像のスタイルとなりますが、このように掌を下に向ける方が相手を威嚇する効果があります。肉身は朱色だったのが黒色になっているのは、後世の補彩のようです。

  • 法隆寺 中門 <br />中門の軒は深く、外側の柱から5m程伸びています。この長い軒をどう支えるかが技の見せ所です。<br />垂木の上には瓦が載せられているため、相当な荷重が加わります。ですから、垂木だけではこの荷重を支え切れません。そこで軒先の途中に丸桁を左右方向に渡して垂木を支えます。丸桁は肘木・斗の組物で支えています。その組物は、尾垂木(おだるき)で支え、尾垂木は力肘木(ちからひじき)で支えられています。力肘木を支えるのが柱の上に置かれた組物です。 <br /><br />

    法隆寺 中門 
    中門の軒は深く、外側の柱から5m程伸びています。この長い軒をどう支えるかが技の見せ所です。
    垂木の上には瓦が載せられているため、相当な荷重が加わります。ですから、垂木だけではこの荷重を支え切れません。そこで軒先の途中に丸桁を左右方向に渡して垂木を支えます。丸桁は肘木・斗の組物で支えています。その組物は、尾垂木(おだるき)で支え、尾垂木は力肘木(ちからひじき)で支えられています。力肘木を支えるのが柱の上に置かれた組物です。

  • 法隆寺 中門<br />中門を妻側から見た様子です。妻には小さな窓が設けられています。

    法隆寺 中門
    中門を妻側から見た様子です。妻には小さな窓が設けられています。

  • 法隆寺 三経院・西院(国宝)<br />この建物は、元々は西室と呼ばれ、奈良時代に僧侶や修行僧が生活するための僧坊でした。その西室は1081年に落雷により焼失しましたが、1231年に再建されました。しかし、その時には僧坊の必要が無くなり、北側2/3程を西室と呼び、南側を聖徳太子が著した法華経・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の三経を解説するための御堂 三経院としています。奥行は19間で東室より1間長くなっています。<br /><br />余談ですが、西室の御堂には文殊菩薩像(木彫)が安置されています。これは 五重塔の東面の維摩居士と問答をされる文殊菩薩像(塑像)の模造像です。2008年に泥棒が押し入って盗難に遭ったそうですが、数日を経ず取り戻す事ができたそうです。<br />

    法隆寺 三経院・西院(国宝)
    この建物は、元々は西室と呼ばれ、奈良時代に僧侶や修行僧が生活するための僧坊でした。その西室は1081年に落雷により焼失しましたが、1231年に再建されました。しかし、その時には僧坊の必要が無くなり、北側2/3程を西室と呼び、南側を聖徳太子が著した法華経・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の三経を解説するための御堂 三経院としています。奥行は19間で東室より1間長くなっています。

    余談ですが、西室の御堂には文殊菩薩像(木彫)が安置されています。これは 五重塔の東面の維摩居士と問答をされる文殊菩薩像(塑像)の模造像です。2008年に泥棒が押し入って盗難に遭ったそうですが、数日を経ず取り戻す事ができたそうです。

  • 法隆寺 三経院 <br />法隆寺の建造物のほとんどは瓦葺きです。しかも創建年間が異なり、建てられた時代を象徴する瓦で葺かれています。これが、法隆寺が「瓦の博物館」と称される所以です。百済から仏教と共に伝来した瓦は、飛鳥時代に初めて日本で作られ、屋根材として使われるようになりました。ですから、法隆寺を観れば、日本瓦の歴史を知ることができます。因みに、瓦を初めて用いたお寺は、飛鳥寺です。<br />また、創建時に用いられた法隆寺式軒瓦と呼ばれる瓦は、複数の弁がある蓮華文様の丸瓦と唐草模様を断面に刻んだ平瓦の組み合わせとなっています。普段は瓦を気にすることはないでしょうが、法隆寺を訪ねたら瓦をチェックしてみてください。<br />

    法隆寺 三経院 
    法隆寺の建造物のほとんどは瓦葺きです。しかも創建年間が異なり、建てられた時代を象徴する瓦で葺かれています。これが、法隆寺が「瓦の博物館」と称される所以です。 百済から仏教と共に伝来した瓦は、飛鳥時代に初めて日本で作られ、屋根材として使われるようになりました。ですから、法隆寺を観れば、日本瓦の歴史を知ることができます。因みに、瓦を初めて用いたお寺は、飛鳥寺です。
    また、創建時に用いられた法隆寺式軒瓦と呼ばれる瓦は、複数の弁がある蓮華文様の丸瓦と唐草模様を断面に刻んだ平瓦の組み合わせとなっています。 普段は瓦を気にすることはないでしょうが、法隆寺を訪ねたら瓦をチェックしてみてください。

  • 法隆寺 宝珠院本堂(重文)<br />西円堂に向かう砂利道の左には、中院・宝珠院の雰囲気のある築地塀が続きます。<br />宝珠院本堂には、1459年に春慶が造った文殊菩薩騎獅像(重文)が安置されています。

    法隆寺 宝珠院本堂(重文)
    西円堂に向かう砂利道の左には、中院・宝珠院の雰囲気のある築地塀が続きます。
    宝珠院本堂には、1459年に春慶が造った文殊菩薩騎獅像(重文)が安置されています。

  • 法隆寺 西円堂(国宝)<br />天平時代、光明皇后の母 橘夫人の発願で行基が718年に創建しました。しかし、その後強風で倒壊し、鎌倉時代の1250年に再建されています。創建当初、向拝はなく、夢殿のような八角円堂だったそうです。再建時には、創建時の思想を慮り、円堂と向拝は繋がずに円堂の屋根下に向背を潜り込ませた奇抜な構造となっています。宝珠露盤は簡素なものが着けられています。<br />

    法隆寺 西円堂(国宝)
    天平時代、光明皇后の母 橘夫人の発願で行基が718年に創建しました。しかし、その後強風で倒壊し、鎌倉時代の1250年に再建されています。創建当初、向拝はなく、夢殿のような八角円堂だったそうです。再建時には、創建時の思想を慮り、円堂と向拝は繋がずに円堂の屋根下に向背を潜り込ませた奇抜な構造となっています。宝珠露盤は簡素なものが着けられています。

  • 法隆寺 西円堂<br />本尊には、日本最大級(高さ244cm)の乾漆像(張り子の虎のように中空)の本尊薬師如来座像を祀っています。創建時のもので、奈良時代を代表する秀作と言われます。頭光背と身光背の二重円相光背式で千仏と七仏薬師が施されています。少し高台にあることから「峯の薬師」とも呼ばれています。台座は八角円堂に相応しく八脚付きの八角の裳懸座です。<br /><br />耳の病気を治す薬師如来ということで、西円堂の錐(きり)を耳に当てて祈ると治るそうです。錐を買い求めるだけでなく、奉納される方も多いそうです。聖徳太子には「厩戸豊聡耳法大王」など耳に係る名前が多いことや多数の人が一度に喋る内容を聞き分けたという伝説に基づき、錐で耳を突くとよく聞こえるようになるとの言い伝えができたそうです。法隆寺では、「峯の薬師」が「耳の薬師」と混同したものだと説明しています。職員の方は「他人の意見を聞けない人にもぜひ祈願することをオススメしたい」と言われていました。<br />このように西円堂薬師如来は、法隆寺金堂の同じ薬師如来以上に強い民間信仰を集め、かつての円陣には、各時代にわたる数千振りの刀剣等の武具類、更に無数の鏡及や絵馬等が奉納されていたそうです。<br />喧噪を離れて静かにもの思いに耽る場所という表現がピッタリで、法隆寺の中で最もお寺らしい雰囲気があります。東にある夢殿が聖徳太子が夢を見た場なら、西円堂は我々のような名もなき庶民が淡い夢に心ときめかした場なのでしょう。<br />

    法隆寺 西円堂
    本尊には、日本最大級(高さ244cm)の乾漆像(張り子の虎のように中空)の本尊薬師如来座像を祀っています。創建時のもので、奈良時代を代表する秀作と言われます。頭光背と身光背の二重円相光背式で千仏と七仏薬師が施されています。少し高台にあることから「峯の薬師」とも呼ばれています。台座は八角円堂に相応しく八脚付きの八角の裳懸座です。

    耳の病気を治す薬師如来ということで、西円堂の錐(きり)を耳に当てて祈ると治るそうです。錐を買い求めるだけでなく、奉納される方も多いそうです。聖徳太子には「厩戸豊聡耳法大王」など耳に係る名前が多いことや多数の人が一度に喋る内容を聞き分けたという伝説に基づき、錐で耳を突くとよく聞こえるようになるとの言い伝えができたそうです。法隆寺では、「峯の薬師」が「耳の薬師」と混同したものだと説明しています。職員の方は「他人の意見を聞けない人にもぜひ祈願することをオススメしたい」と言われていました。
    このように西円堂薬師如来は、法隆寺金堂の同じ薬師如来以上に強い民間信仰を集め、かつての円陣には、各時代にわたる数千振りの刀剣等の武具類、更に無数の鏡及や絵馬等が奉納されていたそうです。
    喧噪を離れて静かにもの思いに耽る場所という表現がピッタリで、法隆寺の中で最もお寺らしい雰囲気があります。東にある夢殿が聖徳太子が夢を見た場なら、西円堂は我々のような名もなき庶民が淡い夢に心ときめかした場なのでしょう。

  • 法隆寺 西円堂<br />薬師如来像の頭上にある立派な天蓋は、武田薬品の5代目の社長が1939年に献納された物だそうです。聖徳太子信仰に熱心な方で、生前は匿名で色々と献納されておられたそうです。<br />ところで、武田薬品の社長にクリストフ・ウェバー氏が就任しました。創業以来233年の歴史を持ち、同族経営が長かった武田薬品にとって、同氏は最初の外国人社長になります。同氏はライバル企業である英製薬大手グラクソスミスクラインからヘッドハンティングされた人物です。つまり日本で伝統的な「生え抜き社長」とも対照的であり、「医」の心が判る人材なのか気を揉むところです。<br />

    法隆寺 西円堂
    薬師如来像の頭上にある立派な天蓋は、武田薬品の5代目の社長が1939年に献納された物だそうです。聖徳太子信仰に熱心な方で、生前は匿名で色々と献納されておられたそうです。
    ところで、武田薬品の社長にクリストフ・ウェバー氏が就任しました。創業以来233年の歴史を持ち、同族経営が長かった武田薬品にとって、同氏は最初の外国人社長になります。同氏はライバル企業である英製薬大手グラクソスミスクラインからヘッドハンティングされた人物です。つまり日本で伝統的な「生え抜き社長」とも対照的であり、「医」の心が判る人材なのか気を揉むところです。

  • 法隆寺 西円堂<br />本尊の薬師如来像には定番の脇侍 日光・月光菩薩がおられません。その代わりに、北東と南西の屋根の鬼瓦の額部分に丸い太陽と下弦の三日月が付けられ、これらが日光・月光菩薩を表現していると職員の方から説明をいただきました。<br /><br />こちらが丸い太陽の日光菩薩です。上の写真の中央部にある鬼瓦です。逆光になるので撮りにくいです。<br />

    法隆寺 西円堂
    本尊の薬師如来像には定番の脇侍 日光・月光菩薩がおられません。その代わりに、北東と南西の屋根の鬼瓦の額部分に丸い太陽と下弦の三日月が付けられ、これらが日光・月光菩薩を表現していると職員の方から説明をいただきました。

    こちらが丸い太陽の日光菩薩です。上の写真の中央部にある鬼瓦です。逆光になるので撮りにくいです。

  • 法隆寺 西円堂<br />こちらが三日月の月光菩薩です。日光菩薩の反対側にある鬼瓦になります。

    法隆寺 西円堂
    こちらが三日月の月光菩薩です。日光菩薩の反対側にある鬼瓦になります。

  • 法隆寺 西円堂から望む五重塔<br />この辺りは法隆寺では一番の高台にあり、眼下に広がる大和盆地が遠望できる唯一の場所です。西円堂は庶民信仰の盛んな所だったそうですが、現在はここまで来られる方は少なく、法隆寺の中では珍しく静謐な場所となっています。このように五重塔の眺めも最高です。  <br /><br />五重塔の四層目と五層目の間には、蹲踞したような姿勢をした人物像を彫刻した支柱が入れてあります。柱は、全体としてはトーテムポールのような形です。お顔はゴリラっぽいです。江戸時代の後補で取り付けられた補強だそうです。<br /><br />この写真にはもうひとつ不思議なものが写り込んでいます。フライングロッド(飛ぶ棒)です。日本ではスカイフィッシュと呼ばれ、一時話題になったことがあります。五重塔の九輪の下の方の右側です。拡大して観ると長い羽のようなものがあり、可能性としてはトンボでしょうか???<br />スカイフィッシュに興味のある方は、次のサイトを参照してください。<br />http://sima-niger.net/skyfish-108

    法隆寺 西円堂から望む五重塔
    この辺りは法隆寺では一番の高台にあり、眼下に広がる大和盆地が遠望できる唯一の場所です。西円堂は庶民信仰の盛んな所だったそうですが、現在はここまで来られる方は少なく、法隆寺の中では珍しく静謐な場所となっています。このように五重塔の眺めも最高です。  

    五重塔の四層目と五層目の間には、蹲踞したような姿勢をした人物像を彫刻した支柱が入れてあります。柱は、全体としてはトーテムポールのような形です。お顔はゴリラっぽいです。江戸時代の後補で取り付けられた補強だそうです。

    この写真にはもうひとつ不思議なものが写り込んでいます。フライングロッド(飛ぶ棒)です。日本ではスカイフィッシュと呼ばれ、一時話題になったことがあります。五重塔の九輪の下の方の右側です。拡大して観ると長い羽のようなものがあり、可能性としてはトンボでしょうか???
    スカイフィッシュに興味のある方は、次のサイトを参照してください。
    http://sima-niger.net/skyfish-108

  • 法隆寺 西円堂 時の鐘<br />梵鐘は、西円堂に奉納された多くの銅製の鏡を溶かして1887年に鋳造されたものです。しかし金属成分の異なった鏡を用いたため、経時変化によって損傷が発生し、現在の鐘は1992年に新しく造られたものだそうです。<br />この鐘の音が、かの有名な正岡子規「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」のものです。1895年に子規が聞いた鐘の音は、西伽藍にある鐘楼の鐘の音ではかったそうです。「時の鐘」は、文字通り時を知らす鐘で、8時の鐘で法隆寺の一日が始まります。それ以後2時間毎に時間の数だけ撞かれます。これは昔の一刻の2時間を意味するそうです。鐘は、庫裏を管理されている職員の方が撞かれます。<br />鐘の音は、荘厳で澄み切った響きでした。また、共鳴による音の強弱が加わり、心が浄化されるような思いがしました。音が消えそうなくらいにか細くなると、再び音が大きくなるということが数回繰り返されます。ひと撞きで45秒以上響いていたのではないでしょうか?<br />参拝の際には、是非耳を澄まして素晴らしい音色を堪能してください。<br />

    法隆寺 西円堂 時の鐘
    梵鐘は、西円堂に奉納された多くの銅製の鏡を溶かして1887年に鋳造されたものです。しかし金属成分の異なった鏡を用いたため、経時変化によって損傷が発生し、現在の鐘は1992年に新しく造られたものだそうです。
    この鐘の音が、かの有名な正岡子規「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」のものです。1895年に子規が聞いた鐘の音は、西伽藍にある鐘楼の鐘の音ではかったそうです。「時の鐘」は、文字通り時を知らす鐘で、8時の鐘で法隆寺の一日が始まります。それ以後2時間毎に時間の数だけ撞かれます。これは昔の一刻の2時間を意味するそうです。鐘は、庫裏を管理されている職員の方が撞かれます。
    鐘の音は、荘厳で澄み切った響きでした。また、共鳴による音の強弱が加わり、心が浄化されるような思いがしました。音が消えそうなくらいにか細くなると、再び音が大きくなるということが数回繰り返されます。ひと撞きで45秒以上響いていたのではないでしょうか?
    参拝の際には、是非耳を澄まして素晴らしい音色を堪能してください。

  • 法隆寺 西院伽藍 <br />西院伽藍の拝観入口付近からの風景です。西院伽藍はこのように回廊に囲まれています。因みに、拝観料は西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍セットで1000円です。<br /><br />法隆寺の建造物が現在の姿を留めているのには、それなりの理由があります。つまり、時代毎の継続的な修理です。<br />1600〜1606年の慶長の大修理は、豊臣秀頼が発願し、家臣 片桐具元を奉行に任じて実施した堂塔の総べてに及ぶ大掛かりものでした。秀頼を大檀越とした父 秀吉の菩提を弔うための修理は、維持だけに徹したために飛貫などを多用して建物の原形を損なうものだったようですが、結果オーライで堂塔が現在まで維持できたと言えます。<br />しかし、何故、豊臣家として財宝を蓄えておきたかったこの時期に大きな財政負担となる大修理を実施したのか、不可解な点もあります。<br />大修理は秀頼の天然痘平癒のお礼だったのでしょうか?医学が未発達の時代ですから、洋の東西を問わず「祈る」ことが最善の手段だったはずです。あるいは、秀吉の遺産を削ぐために家康が豊臣家に迫った深謀遠慮説だとか、淀姫が神仏に帰依していたとか諸説あります。 <br />江戸時代の桂昌院による元禄の大修理は1692〜1707年の15年間という長期の工事でした。特に五重塔の修理には力を注ぎ、新造された路盤には徳川家の家紋を入れています。  <br />

    法隆寺 西院伽藍 
    西院伽藍の拝観入口付近からの風景です。西院伽藍はこのように回廊に囲まれています。因みに、拝観料は西院伽藍、大宝蔵院、東院伽藍セットで1000円です。

    法隆寺の建造物が現在の姿を留めているのには、それなりの理由があります。つまり、時代毎の継続的な修理です。
    1600〜1606年の慶長の大修理は、豊臣秀頼が発願し、家臣 片桐具元を奉行に任じて実施した堂塔の総べてに及ぶ大掛かりものでした。秀頼を大檀越とした父 秀吉の菩提を弔うための修理は、維持だけに徹したために飛貫などを多用して建物の原形を損なうものだったようですが、結果オーライで堂塔が現在まで維持できたと言えます。
    しかし、何故、豊臣家として財宝を蓄えておきたかったこの時期に大きな財政負担となる大修理を実施したのか、不可解な点もあります。
    大修理は秀頼の天然痘平癒のお礼だったのでしょうか?医学が未発達の時代ですから、洋の東西を問わず「祈る」ことが最善の手段だったはずです。あるいは、秀吉の遺産を削ぐために家康が豊臣家に迫った深謀遠慮説だとか、淀姫が神仏に帰依していたとか諸説あります。 
    江戸時代の桂昌院による元禄の大修理は1692〜1707年の15年間という長期の工事でした。特に五重塔の修理には力を注ぎ、新造された路盤には徳川家の家紋を入れています。  

  • 法隆寺 西院伽藍<br />塔は仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるためのものですが、金堂は仏像を安置するためのお堂です。元々、寺は仏舎利を祀るための施設ですので、古い形式のお寺は塔を中心とした伽藍です。しかし、時代が下るにつれ、仏舎利ではなく仏像に重きを置くようになっていき、仏像を安置する金堂を中心とする伽藍配置になっていきます。法隆寺の場合は「依怙贔屓せず、どちらも平等」という伽藍配置を構えています。<br />

    法隆寺 西院伽藍
    塔は仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるためのものですが、金堂は仏像を安置するためのお堂です。元々、寺は仏舎利を祀るための施設ですので、古い形式のお寺は塔を中心とした伽藍です。しかし、時代が下るにつれ、仏舎利ではなく仏像に重きを置くようになっていき、仏像を安置する金堂を中心とする伽藍配置になっていきます。法隆寺の場合は「依怙贔屓せず、どちらも平等」という伽藍配置を構えています。

  • 法隆寺 中門(国宝)<br />拝観入口から中門に向かうと太いエンタシスの柱が目に飛び込んできます。この柱は、ギリシャのパルテノン神殿に見られるエンタシスとは異なります。ギリシャのエンタシスは、柱の下部から上部に向けて少しずつ細くなるか、または円筒状のものが途中から少しずつ細くなるものです。一方、法隆寺のものは、柱の上部が一番細く、下部から1/3上がった部位が一番太くなる日本固有のものです。柱の直径の割合は、一番細い上部を1とすると、一番太い部分との比は、金堂が1.3、中門が1.25だそうです。しかしこのエンタシスは法隆寺系寺院で終焉します。<br />柱は桧材を縦に4分割して造られた複雑なものです。そのため、割裂材でしかも真っ直ぐ目という厳しい条件を満たした巨大な良木しか採用されません。手間隙をかけてエンタシスに加工した理由は、同心円の柱では目の錯覚で柱の中間部が細く見えるのを矯正するためとの説があります。いずれにしてもこのような贅沢な柱があるのは法隆寺だけです。観光客の多くが柱の膨らみを確認しようと撫でるためか、変色したり、膨らみが擦り減ったものもあります。貴重な国宝ですから大切に保存したいものです。

    法隆寺 中門(国宝)
    拝観入口から中門に向かうと太いエンタシスの柱が目に飛び込んできます。この柱は、ギリシャのパルテノン神殿に見られるエンタシスとは異なります。ギリシャのエンタシスは、柱の下部から上部に向けて少しずつ細くなるか、または円筒状のものが途中から少しずつ細くなるものです。一方、法隆寺のものは、柱の上部が一番細く、下部から1/3上がった部位が一番太くなる日本固有のものです。柱の直径の割合は、一番細い上部を1とすると、一番太い部分との比は、金堂が1.3、中門が1.25だそうです。しかしこのエンタシスは法隆寺系寺院で終焉します。
    柱は桧材を縦に4分割して造られた複雑なものです。そのため、割裂材でしかも真っ直ぐ目という厳しい条件を満たした巨大な良木しか採用されません。手間隙をかけてエンタシスに加工した理由は、同心円の柱では目の錯覚で柱の中間部が細く見えるのを矯正するためとの説があります。いずれにしてもこのような贅沢な柱があるのは法隆寺だけです。観光客の多くが柱の膨らみを確認しようと撫でるためか、変色したり、膨らみが擦り減ったものもあります。貴重な国宝ですから大切に保存したいものです。

  • 法隆寺 中門<br />卍崩しの高欄や雲斗・雲肘木、懸魚、破風の中備などにわずかな装飾性が見られますが、あからさまな装飾がないのが西院伽藍の堂塔群に一貫するコンセプトです。<br />

    法隆寺 中門
    卍崩しの高欄や雲斗・雲肘木、懸魚、破風の中備などにわずかな装飾性が見られますが、あからさまな装飾がないのが西院伽藍の堂塔群に一貫するコンセプトです。

  • 法隆寺 中門<br />エンタシスの柱の上に皿斗、大斗、雲斗・雲肘木が組まれる飛鳥様式は、中門の他にも金堂や五重塔、回廊にも見られます。皿斗は法隆寺系の寺院に限られていましたが、鎌倉時代には大仏様・禅宗様の建築に使われています。皿斗とは柱と大斗の間に挟む四角形の厚板で、大斗が柱に食い込むのを防ぐ効果的な技法ですが、この様式は間もなく姿を消します。皿斗を使わず、大斗には桧より硬い欅を使用して解決させています。<br /><br />

    法隆寺 中門
    エンタシスの柱の上に皿斗、大斗、雲斗・雲肘木が組まれる飛鳥様式は、中門の他にも金堂や五重塔、回廊にも見られます。皿斗は法隆寺系の寺院に限られていましたが、鎌倉時代には大仏様・禅宗様の建築に使われています。皿斗とは柱と大斗の間に挟む四角形の厚板で、大斗が柱に食い込むのを防ぐ効果的な技法ですが、この様式は間もなく姿を消します。皿斗を使わず、大斗には桧より硬い欅を使用して解決させています。

  • 法隆寺 中門<br />翻る門帳には、多聞天紋が記されています。<br />あまり知られていませんが、日本最古の紋と言われ、金堂内陣の多聞天像の光背に記されているものだそうです。<br />因みに、法隆寺の寺紋は「大和法隆寺」という鳳凰の図です。<br />額縁の向こうに見えるのは南大門です。

    法隆寺 中門
    翻る門帳には、多聞天紋が記されています。
    あまり知られていませんが、日本最古の紋と言われ、金堂内陣の多聞天像の光背に記されているものだそうです。
    因みに、法隆寺の寺紋は「大和法隆寺」という鳳凰の図です。
    額縁の向こうに見えるのは南大門です。

  • 法隆寺 中門<br />中門は、細部彫刻を一切施さず、構造自体で美を呈している格調高い建物であり、飛鳥建築の白眉と言えます。軒反りが微細で、両端が少し跳ね上がったプロフィールは優美に映ります。4間の柱間は高麗尺(飛鳥尺)で7、10、10、7尺となっており、当時すでに知られていた唐の建築様式を排除し、和様式に設えた技術者の矜持が感じられます。

    法隆寺 中門
    中門は、細部彫刻を一切施さず、構造自体で美を呈している格調高い建物であり、飛鳥建築の白眉と言えます。軒反りが微細で、両端が少し跳ね上がったプロフィールは優美に映ります。4間の柱間は高麗尺(飛鳥尺)で7、10、10、7尺となっており、当時すでに知られていた唐の建築様式を排除し、和様式に設えた技術者の矜持が感じられます。

  • 法隆寺 回廊(国宝)<br />ここの回廊は、古代のものとしては唯一の遺構であり、国宝に指定されています。回廊の役割は、中門と同様に外の世界と仏の世界を区切る、つまり俗界を遮蔽するための結界と言えます。もちろん、廊下の役割も担っています。<br />中門から東西への回廊は金堂と五重塔の間口幅が異なり、金堂のある東側は11間、五重塔のある西側は10間となっています。これは、見る方向によって印象を違える遠近法です。<br />仏教が伝来した往時の仏教寺院の窓は、四角い「連子窓」となっており、虹梁の持つ美しい曲線と扠首(さす:棟木などを支えるために合掌形に組んだ丸太)の直線との融和に趣深いものがあります。「連子窓」の縦に入っている菱形の材を「連子子」と呼び、古い時代ものは間隔が広いのが特徴です。連子窓が刻む諧調のリズムには、心を和ませる旋律があるように思えます。しかも、連子窓の腰長押の位置が低くなっているため、開口部が大きくなっています。連子子が痩せたり磨り減って細くなった部分が見受けられ、歴史を物語っています。柱にはエンタシスのあるものもあり、飛鳥時代の片鱗を覗かせています。また、規則的に並ぶ柱と連子窓の回廊は流麗で、静の中に動が介在し、とても美しい情景です。<br />因みに、連子窓と連子子はひとつの部材から彫りだした、手間隙かけた芸術品です。

    法隆寺 回廊(国宝)
    ここの回廊は、古代のものとしては唯一の遺構であり、国宝に指定されています。回廊の役割は、中門と同様に外の世界と仏の世界を区切る、つまり俗界を遮蔽するための結界と言えます。もちろん、廊下の役割も担っています。
    中門から東西への回廊は金堂と五重塔の間口幅が異なり、金堂のある東側は11間、五重塔のある西側は10間となっています。これは、見る方向によって印象を違える遠近法です。
    仏教が伝来した往時の仏教寺院の窓は、四角い「連子窓」となっており、虹梁の持つ美しい曲線と扠首(さす:棟木などを支えるために合掌形に組んだ丸太)の直線との融和に趣深いものがあります。「連子窓」の縦に入っている菱形の材を「連子子」と呼び、古い時代ものは間隔が広いのが特徴です。連子窓が刻む諧調のリズムには、心を和ませる旋律があるように思えます。しかも、連子窓の腰長押の位置が低くなっているため、開口部が大きくなっています。連子子が痩せたり磨り減って細くなった部分が見受けられ、歴史を物語っています。柱にはエンタシスのあるものもあり、飛鳥時代の片鱗を覗かせています。また、規則的に並ぶ柱と連子窓の回廊は流麗で、静の中に動が介在し、とても美しい情景です。
    因みに、連子窓と連子子はひとつの部材から彫りだした、手間隙かけた芸術品です。

  • 法隆寺 回廊<br />飛鳥時代の回廊の梁は、虹梁と呼ばれ、虹の一片を切り取ったような曲線を描きます。屋根の荷重は、虹梁と叉首で支えています。時代が下ると叉首組も京都のお寺にあるような繊細な意匠に変貌しますが、この媚びない簡素美が魅力です。叉首は短い束(つか)で支えられ、その上部で大升と三斗で屋根の棟木を支えています。柱の上に載っている組物は、法隆寺にしかない形のものです。柱と虹梁の間には皿斗が載せられ、平三升を受けて柱に荷重を均等に伝えています。後の天平時代には、この皿斗は姿を消します。<br />飾り気のない素朴な形で突き出している虹梁鼻は、気品に溢れているように感じられます。<br />鐘楼前の回廊は江戸時代に再建されたもので、虹梁も直線で五重塔側と比較すると見落とりします。<br /><br />回廊の先に見えるのが、国宝の経蔵です。経典を納める施設として建立されましたが、現在は天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧 観勒僧正像を安置しています。また堂内には、法隆寺七不思議のひとつである三伏蔵(他は金堂内と大湯屋前)があり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。

    法隆寺 回廊
    飛鳥時代の回廊の梁は、虹梁と呼ばれ、虹の一片を切り取ったような曲線を描きます。屋根の荷重は、虹梁と叉首で支えています。時代が下ると叉首組も京都のお寺にあるような繊細な意匠に変貌しますが、この媚びない簡素美が魅力です。叉首は短い束(つか)で支えられ、その上部で大升と三斗で屋根の棟木を支えています。柱の上に載っている組物は、法隆寺にしかない形のものです。柱と虹梁の間には皿斗が載せられ、平三升を受けて柱に荷重を均等に伝えています。後の天平時代には、この皿斗は姿を消します。
    飾り気のない素朴な形で突き出している虹梁鼻は、気品に溢れているように感じられます。
    鐘楼前の回廊は江戸時代に再建されたもので、虹梁も直線で五重塔側と比較すると見落とりします。

    回廊の先に見えるのが、国宝の経蔵です。経典を納める施設として建立されましたが、現在は天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧 観勒僧正像を安置しています。また堂内には、法隆寺七不思議のひとつである三伏蔵(他は金堂内と大湯屋前)があり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。

  • 法隆寺 五重塔(国宝)<br />古代インドで仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために造られた塔が仏塔です。五重塔は、その仏塔の1形式で、楼閣形状の仏塔のうち、五重の屋根を持つものをいいます。五重塔を構成する5つの楼閣は、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)と呼び、5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しています。<br />飛鳥時代の建築様式を遺し、現存する最古の仏塔で、塔高は基壇上より31.5mとそれほど高くはありませんが、その美しさは最高水準と言え、西院伽藍のランドマークです。塔内にある「塔本四面具」が711年に完成したとの記録があり、五重塔がそれ以前に建立されていたことの証左となっています。因みに、2001年に心柱の伐採年代が594年と発表されています。<br />塔内は僧でも立ち入り禁止であり、居住スペースを確保する必要がなく、ビジュアルに拘った五重塔を造ることに専念できたようです。また、軒の迫出しが大きいのも特徴であり、荘厳な安定感を演出しています。

    法隆寺 五重塔(国宝)
    古代インドで仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために造られた塔が仏塔です。五重塔は、その仏塔の1形式で、楼閣形状の仏塔のうち、五重の屋根を持つものをいいます。五重塔を構成する5つの楼閣は、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)と呼び、5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しています。
    飛鳥時代の建築様式を遺し、現存する最古の仏塔で、塔高は基壇上より31.5mとそれほど高くはありませんが、その美しさは最高水準と言え、西院伽藍のランドマークです。塔内にある「塔本四面具」が711年に完成したとの記録があり、五重塔がそれ以前に建立されていたことの証左となっています。因みに、2001年に心柱の伐採年代が594年と発表されています。
    塔内は僧でも立ち入り禁止であり、居住スペースを確保する必要がなく、ビジュアルに拘った五重塔を造ることに専念できたようです。また、軒の迫出しが大きいのも特徴であり、荘厳な安定感を演出しています。

  • 法隆寺 五重塔<br />間口(部屋の幅)は、最上部の五層を1とすると初層が2です。普通なら屋根の幅も1:2にすべきところ、1:√2としています。この逓減率の違いと塔の1/3の高さの相輪、更に屋根の1:√2という白銀比(大和比)が、この塔の美しさをより際立たせ、他の五重塔のように威圧感がない、軽やかなすっきりした雰囲気を演出しています。法隆寺を上空から見ると、廻廊の縦横比も白銀比になっているそうです。飛鳥人の美的センスが窺えるところです。 <br />心柱は樹齢2000年以上、直径2.5mの檜を4つ割にして使用したそうです。心柱以外も全ての木材は檜を使用しているとのことで、木の反りや曲がりの性質を上手く見極め、それを活かす才能を古代の建築家たちは持ち合わせていたようです。尚、心柱は地下約3mの掘立柱で、心礎という礎石に載っているそうです。礎石の上部には舎利容器などが納められ、容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められているそうです。心柱とは相輪だけを支える部材であり、塔の構造とは何ら関連がないのですが、この心柱という古代技術がスカイツリーの耐震構造にも応用されています。<br />

    法隆寺 五重塔
    間口(部屋の幅)は、最上部の五層を1とすると初層が2です。普通なら屋根の幅も1:2にすべきところ、1:√2としています。この逓減率の違いと塔の1/3の高さの相輪、更に屋根の1:√2という白銀比(大和比)が、この塔の美しさをより際立たせ、他の五重塔のように威圧感がない、軽やかなすっきりした雰囲気を演出しています。法隆寺を上空から見ると、廻廊の縦横比も白銀比になっているそうです。飛鳥人の美的センスが窺えるところです。 
    心柱は樹齢2000年以上、直径2.5mの檜を4つ割にして使用したそうです。心柱以外も全ての木材は檜を使用しているとのことで、木の反りや曲がりの性質を上手く見極め、それを活かす才能を古代の建築家たちは持ち合わせていたようです。尚、心柱は地下約3mの掘立柱で、心礎という礎石に載っているそうです。礎石の上部には舎利容器などが納められ、容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められているそうです。心柱とは相輪だけを支える部材であり、塔の構造とは何ら関連がないのですが、この心柱という古代技術がスカイツリーの耐震構造にも応用されています。

  • 法隆寺 五重塔<br />南西角にある邪鬼です。<br />尾垂木には透彫の装飾が施されています。尾垂木の下に斗(ます)が置かれ、邪鬼の彫刻が尾垂木を支える格好になってます。<br />邪鬼は、仏教では四天王が踏み付けているように、押さえ込まれる象徴とされています。身近な邪鬼の天邪鬼は、人に反発したり反対のことをする意味で使われています。大工たちが邪鬼のこの性格を利用し、洒落心で屋根を支える束の代わりに邪鬼を置いたことが始まりです。反発することにかけては天下無敵の邪鬼の力を利用した願掛けです。邪鬼たちは必死の形相で軒を支えています。飾り気のないこの塔において、頬を弛めさせる存在でもあります。<br /><br />内陣の四面には、粘土で造られた須弥山を表現した山岳を背景に塑像群が祀られ、仏教伝説に係わる逸話が物語風に表現されています。つまり、キリスト教で使われる、文盲者に教えを伝えるためのツールのステンドグラスのようなものです。これらの四面具は711年に造られた記録がありますが、オリジナルは須弥壇と山岳が現在のものより小ぶりで、13世紀頃の文献によると後補と彩色を加えたと記されているそうです。特に、南面は補修と彩色が度々なされていた模様です。<br />

    法隆寺 五重塔
    南西角にある邪鬼です。
    尾垂木には透彫の装飾が施されています。尾垂木の下に斗(ます)が置かれ、邪鬼の彫刻が尾垂木を支える格好になってます。
    邪鬼は、仏教では四天王が踏み付けているように、押さえ込まれる象徴とされています。身近な邪鬼の天邪鬼は、人に反発したり反対のことをする意味で使われています。大工たちが邪鬼のこの性格を利用し、洒落心で屋根を支える束の代わりに邪鬼を置いたことが始まりです。反発することにかけては天下無敵の邪鬼の力を利用した願掛けです。邪鬼たちは必死の形相で軒を支えています。飾り気のないこの塔において、頬を弛めさせる存在でもあります。

    内陣の四面には、粘土で造られた須弥山を表現した山岳を背景に塑像群が祀られ、仏教伝説に係わる逸話が物語風に表現されています。つまり、キリスト教で使われる、文盲者に教えを伝えるためのツールのステンドグラスのようなものです。これらの四面具は711年に造られた記録がありますが、オリジナルは須弥壇と山岳が現在のものより小ぶりで、13世紀頃の文献によると後補と彩色を加えたと記されているそうです。特に、南面は補修と彩色が度々なされていた模様です。

  • 法隆寺 五重塔<br />北西角にある邪鬼です。<br />建造物を支えるのはカンダーラでは西洋から請来した「アトラス」で、インドでは「ヤクシー」の役目です。法隆寺の五重塔は「邪鬼」が四方を支えています。短躯肥満から判断するとインドのヤクシーに近いそうです。<br /><br />東面は、病気のために脇息にもたれかかった維摩居士と、見舞いに来た文殊菩薩との問答を表す維摩詰像土。問答が長くなったので2人にお茶を運ぶ仏像の姿が見られます。<br />西面は、荼毘(だび)にふされた仏舎利を分ける分舎利仏土。<br />南面には、未来仏・釈迦の跡継ぎとして出現するため、56億7千万年の修業を弟子達とする弥勒仏像土が祀られています。<br />

    法隆寺 五重塔
    北西角にある邪鬼です。
    建造物を支えるのはカンダーラでは西洋から請来した「アトラス」で、インドでは「ヤ クシー」の役目です。法隆寺の五重塔は「邪鬼」が四方を支えています。短躯肥満から判断するとインドのヤクシーに近いそうです。

    東面は、病気のために脇息にもたれかかった維摩居士と、見舞いに来た文殊菩薩との問答を表す維摩詰像土。問答が長くなったので2人にお茶を運ぶ仏像の姿が見られます。
    西面は、荼毘(だび)にふされた仏舎利を分ける分舎利仏土。
    南面には、未来仏・釈迦の跡継ぎとして出現するため、56億7千万年の修業を弟子達とする弥勒仏像土が祀られています。

  • 法隆寺 五重塔<br />北東角にある邪鬼です。<br />雲斗と雲肘木は、その名のとおり雲形をした建築部材で、梁を支えるのが雲斗、尾垂木や力垂木を支えるのが雲肘木です。<br /><br />北面は、釈迦の涅槃像。一般的な涅槃像は釈迦が右手で肘枕をしていますが、ここでは肘枕をせず、右手を前に突き出した格好で、医師 耆婆大臣(ぎばだいじん)が脈を診ています。そして臨終を告げられ、拾大弟子を始め諸仏や国王等が天を仰ぎ、大きく口を開けて嘆き悲しんでいる様子を表現しています。興福寺の阿修羅像で有名な阿修羅も、ちょこんと座っています。この北面は、法隆寺の「泣き仏」として有名です。<br />

    法隆寺 五重塔
    北東角にある邪鬼です。
    雲斗と雲肘木は、その名のとおり雲形をした建築部材で、梁を支えるのが雲斗、尾垂木や力垂木を支えるのが雲肘木です。

    北面は、釈迦の涅槃像。一般的な涅槃像は釈迦が右手で肘枕をしていますが、ここでは肘枕をせず、右手を前に突き出した格好で、医師 耆婆大臣(ぎばだいじん)が脈を診ています。そして臨終を告げられ、拾大弟子を始め諸仏や国王等が天を仰ぎ、大きく口を開けて嘆き悲しんでいる様子を表現しています。興福寺の阿修羅像で有名な阿修羅も、ちょこんと座っています。この北面は、法隆寺の「泣き仏」として有名です。

  • 法隆寺 五重塔<br />南東角にある邪鬼です。この邪鬼が、ひび割れて一番苦しそうな表情をしています。<br />下方の白っぽくなっている裳階の板葺屋根は、大和葺という葺き方ですが、五重塔の方が板を「コの字」状に細工し、上下の板を噛み合わせるという丁寧な仕事をしています。<br /><br />日本刀と同じ工法で造られた長寿命の「釘」が仮止め用として使用されていますが、本数はそんなに多くないそうです。余談ですが、日本家屋の寿命が40年とか言われるのは、釘の寿命から割り出したものと言われています。ですから、古代の建築は最小限の釘しか使わず、木組を基本としていたのが長寿の秘訣という訳です。<br /><br />

    法隆寺 五重塔
    南東角にある邪鬼です。この邪鬼が、ひび割れて一番苦しそうな表情をしています。
    下方の白っぽくなっている裳階の板葺屋根は、大和葺という葺き方ですが、五重塔の方が板を「コの字」状に細工し、上下の板を噛み合わせるという丁寧な仕事をしています。

    日本刀と同じ工法で造られた長寿命の「釘」が仮止め用として使用されていますが、本数はそんなに多くないそうです。余談ですが、日本家屋の寿命が40年とか言われるのは、釘の寿命から割り出したものと言われています。ですから、古代の建築は最小限の釘しか使わず、木組を基本としていたのが長寿の秘訣という訳です。

  • 法隆寺 五重塔 相輪<br />相輪は、下から箱型の基壇、半円形の伏鉢、反花、九輪、水煙で構成されています。相輪はただの飾りではなく、結構な重さがあり、構造体としての役割をしています。塔の上に行くほど荷重が少なく、風に煽られ易くなります。そこで上からの荷重がかからない五層の上に表面積の小さな荷重をかけ、耐風性を補っています。<br /><br />この塔の上の方に「七不思議」のひとつがあります。<br />相輪の下の方の九輪の部位に全長2mもある巨大な鎌が4丁飾られています。プロフィールで髭のような形をしているものです。では、何の目的でこんな所に鎌が飾られているのでしょうか?これには諸説あるのですが、高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考え、雷除けとして設けたとしています。常識的には逆効果ですが、往時の人々にとって雷は魔物であり、魔物が塔に降りようとするのを防ぐためのものとされています。でも何故鎌なのか、腑に落ちません。剣のほうが効果がありそうですが…。物が「鎌」であるがゆえに物議を醸し、「聖徳太子の怨霊封じ」、「大風を切る」、「鎌が上向きに見えたらその年は米が豊作、下向きに見えれば凶作」という占いのような言い伝えまであります。物が「鎌」なのは、次のように解説しています。『中国古来の五行が関係し、五行では世の全てのものは木火土金水の五つに属し、雷は「木」、鎌は「金」とされます。そして金は木に勝ることから鎌がかかっていると考えられます』。<br />このような鎌が飾られている五重塔は、ここ法隆寺だけです。是非探してみてください。因みに、現在は、塔の一番高い所に避雷針が設置されています。<br /><br />五重塔の相輪は、桂昌院による元禄の修理で家紋入りの基壇に取り替えられています。通常、徳川家「三つ葉葵」と桂昌院の実家 本庄家「九目結紋」の家紋が並びますが、この露盤には三つ葉葵しかありません。<br />江戸時代には、塔は完全なアクセサリーと化していましたが、再建当時は塔は金堂と並ぶ最高の礼拝対象でしたから、恐れ多いと言うことで聡明な桂昌院が辞退されたのでしょう。<br />

    法隆寺 五重塔 相輪
    相輪は、下から箱型の基壇、半円形の伏鉢、反花、九輪、水煙で構成されています。相輪はただの飾りではなく、結構な重さがあり、構造体としての役割をしています。塔の上に行くほど荷重が少なく、風に煽られ易くなります。そこで上からの荷重がかからない五層の上に表面積の小さな荷重をかけ、耐風性を補っています。

    この塔の上の方に「七不思議」のひとつがあります。
    相輪の下の方の九輪の部位に全長2mもある巨大な鎌が4丁飾られています。プロフィールで髭のような形をしているものです。では、何の目的でこんな所に鎌が飾られているのでしょうか?これには諸説あるのですが、高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考え、雷除けとして設けたとしています。常識的には逆効果ですが、往時の人々にとって雷は魔物であり、魔物が塔に降りようとするのを防ぐためのものとされています。でも何故鎌なのか、腑に落ちません。剣のほうが効果がありそうですが…。物が「鎌」であるがゆえに物議を醸し、「聖徳太子の怨霊封じ」、「大風を切る」、「鎌が上向きに見えたらその年は米が豊作、下向きに見えれば凶作」という占いのような言い伝えまであります。物が「鎌」なのは、次のように解説しています。『中国古来の五行が関係し、五行では世の全てのものは木火土金水の五つに属し、雷は「木」、鎌は「金」とされます。そして金は木に勝ることから鎌がかかっていると考えられます』。
    このような鎌が飾られている五重塔は、ここ法隆寺だけです。是非探してみてください。因みに、現在は、塔の一番高い所に避雷針が設置されています。

    五重塔の相輪は、桂昌院による元禄の修理で家紋入りの基壇に取り替えられています。通常、徳川家「三つ葉葵」と桂昌院の実家 本庄家「九目結紋」の家紋が並びますが、この露盤には三つ葉葵しかありません。
    江戸時代には、塔は完全なアクセサリーと化していましたが、再建当時は塔は金堂と並ぶ最高の礼拝対象でしたから、恐れ多いと言うことで聡明な桂昌院が辞退されたのでしょう。

  • 法隆寺 五重塔 礼拝石<br />礼拝石が五重塔と金堂の前庭に置かれています。<br />現在は、四方の裳階中央から内陣に納められた塑像を拝むことができますが、かつては塔と対峙するこの礼拝石の上から塔を拝んだそうです。<br /><br />桂昌院は、元は京都堀川通りの八百屋 仁右エ門の娘でしたが、幼くして父が亡くなり、下級武士 本庄家の養女になりました。そこから様々な転機を経て、江戸幕府の大奥入りし、家光に見込まれて側室になった女性です。<br />一寸した偶然の積み重ねと運命の悪戯から、「江戸時代のシンデレラ」と称えられるような出世を重ね、三代将軍家光の側室になり、五代将軍綱吉の生母となった人です。<br /><br />

    法隆寺 五重塔 礼拝石
    礼拝石が五重塔と金堂の前庭に置かれています。
    現在は、四方の裳階中央から内陣に納められた塑像を拝むことができますが、かつては塔と対峙するこの礼拝石の上から塔を拝んだそうです。

    桂昌院は、元は京都堀川通りの八百屋 仁右エ門の娘でしたが、幼くして父が亡くなり、下級武士 本庄家の養女になりました。そこから様々な転機を経て、江戸幕府の大奥入りし、家光に見込まれて側室になった女性です。
    一寸した偶然の積み重ねと運命の悪戯から、「江戸時代のシンデレラ」と称えられるような出世を重ね、三代将軍家光の側室になり、五代将軍綱吉の生母となった人です。

  • 法隆寺 金堂(国宝)<br />金堂は西院伽藍の中で最初に造られた建物で、曲線を多用したエキゾチックな雲斗・雲形肘木、帯状に廻る卍崩しの高欄、人字形の割束等の飛鳥建築様式を遺す世界最古の木造建造物です。古代人は、彩色豊かな中国様式建築に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見て、憧れを抱くと共に独自の境地を切り開いたのでしょう。 <br />金堂はほぼ正方形に近く、2層の入母屋造りの上層の屋根は2方向に、下層の屋根は4方向に傾斜する容姿は優雅です。五重塔とのバランスを考慮して2階建てにしたそうでが、2階は木組みだけで居住空間はありません。金堂の高さは16mで、五重塔の31.5mの半分の高さにしています。 <br />

    法隆寺 金堂(国宝)
    金堂は西院伽藍の中で最初に造られた建物で、曲線を多用したエキゾチックな雲斗・雲形肘木、帯状に廻る卍崩しの高欄、人字形の割束等の飛鳥建築様式を遺す世界最古の木造建造物です。古代人は、彩色豊かな中国様式建築に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見て、憧れを抱くと共に独自の境地を切り開いたのでしょう。
    金堂はほぼ正方形に近く、2層の入母屋造りの上層の屋根は2方向に、下層の屋根は4方向に傾斜する容姿は優雅です。五重塔とのバランスを考慮して2階建てにしたそうでが、2階は木組みだけで居住空間はありません。金堂の高さは16mで、五重塔の31.5mの半分の高さにしています。 

  • 法隆寺 金堂<br />金堂は、大型の仏様専用の厨子とされ、後世に造られた金堂のように装飾用の窓はありません。寺僧でも堂内には立ち入れませんでしたが、平安時代には吉祥悔過などが堂内で行われるようになっています。窓や間斗束がないために簡素美を誇る建物となっています。 <br /><br />高欄は一般的には上層にあるのですが、金堂では下層の屋根上に載せ、装飾の代用としています。また、高欄と建屋の間は人が入れないほど狭く、後の時代のように高欄に上がって景色を楽しむ趣向のものではありません。「卍崩しの高欄」や「人字形割束」は、北魏の雲岡石窟を初め、唐の永泰公主墓壁画等に見られ、中国からの渡来意匠です。しかし、法隆寺の人字形割束は、木造建造物としては「東南アジア唯一の貴重な遺構」であり、「蟇股」の原型とする説もあります。<br />

    法隆寺 金堂
    金堂は、大型の仏様専用の厨子とされ、後世に造られた金堂のように装飾用の窓はありません。寺僧でも堂内には立ち入れませんでしたが、平安時代には吉祥悔過などが堂内で行われるようになっています。窓や間斗束がないために簡素美を誇る建物となっています。 

    高欄は一般的には上層にあるのですが、金堂では下層の屋根上に載せ、装飾の代用としています。また、高欄と建屋の間は人が入れないほど狭く、後の時代のように高欄に上がって景色を楽しむ趣向のものではありません。「卍崩しの高欄」や「人字形割束」は、北魏の雲岡石窟を初め、唐の永泰公主墓壁画等に見られ、中国からの渡来意匠です。しかし、法隆寺の人字形割束は、木造建造物としては「東南アジア唯一の貴重な遺構」であり、「蟇股」の原型とする説もあります。

  • 法隆寺 金堂<br />五重塔で白銀比の話をしましたが、この金堂にも白銀比が用いられています。どこかと言うと、ニ層と初層の間口(部屋の幅)が1:√2になっています。これは、日本古来から伝わる美しく見せるための比率です。古くから大工さんの間では「神の比率」と称され、日本建築におけるモジュールのひとつとして用いられていたそうです。<br /><br />屋根瓦にも仕掛けがあります。雨に強い建物にする工夫として軒を深くしているのですが、そのために屋根の表面積が増えて雨水の量も半端ではありません。そこで上層の屋根から大量の雨が落ちても痛まない様に、2重の瓦にしています。<br />また、金堂、講堂、五重の塔など、法隆寺のどの建物にも雨樋がありません。雨が降れば大きな雨だれが落ちるのは必然ですが、法隆寺の七不思議に「雨だれの穴がない」というものがあります。<br />法隆寺では、「聖徳太子が法隆寺を創建する場所を決定する際、雨だれも地を穿つことのないくらいに固い地盤の地を選んだという思慮の深さを称えた伝説」と解説しています。<br />実際には、雨だれが落ちる部位には、砂利石よりも大き目の石を敷き詰めています。これなら雨だれの穴ができないのは当然と言えますが…。 <br />

    法隆寺 金堂
    五重塔で白銀比の話をしましたが、この金堂にも白銀比が用いられています。どこかと言うと、ニ層と初層の間口(部屋の幅)が1:√2になっています。これは、日本古来から伝わる美しく見せるための比率です。古くから大工さんの間では「神の比率」と称され、日本建築におけるモジュールのひとつとして用いられていたそうです。

    屋根瓦にも仕掛けがあります。雨に強い建物にする工夫として軒を深くしているのですが、そのために屋根の表面積が増えて雨水の量も半端ではありません。そこで上層の屋根から大量の雨が落ちても痛まない様に、2重の瓦にしています。
    また、金堂、講堂、五重の塔など、法隆寺のどの建物にも雨樋がありません。雨が降れば大きな雨だれが落ちるのは必然ですが、法隆寺の七不思議に「雨だれの穴がない」というものがあります。
    法隆寺では、「聖徳太子が法隆寺を創建する場所を決定する際、雨だれも地を穿つことのないくらいに固い地盤の地を選んだという思慮の深さを称えた伝説」と解説しています。
    実際には、雨だれが落ちる部位には、砂利石よりも大き目の石を敷き詰めています。これなら雨だれの穴ができないのは当然と言えますが…。 

  • 法隆寺 金堂<br />妻側の屋根の下の壁面に斜めの材木が見えます。叉首(さす)と言います。通常なら真っ直ぐの木材ですが、金堂の叉首は屋根のプロフィールに倣って円弧を描いているのが特徴です。それに叉首の下には窓もあります。<br />

    法隆寺 金堂
    妻側の屋根の下の壁面に斜めの材木が見えます。叉首(さす)と言います。通常なら真っ直ぐの木材ですが、金堂の叉首は屋根のプロフィールに倣って円弧を描いているのが特徴です。それに叉首の下には窓もあります。

  • 法隆寺 金堂<br />地震の多い日本では、揺れを吸収する木造建築が適しています。2階部分に昇り龍、降り龍が巻きつけられた支柱があって荘厳な雰囲気を醸していますが、実は耐震のために江戸時代の元禄の大修理の際に大屋根の重さを支えるために補強されたものだそうです。その時、災難除けを祈念して龍の彫刻を施したそうです。南東、北西には昇り龍、南西、北東には下り龍が配されています。<br />

    法隆寺 金堂
    地震の多い日本では、揺れを吸収する木造建築が適しています。2階部分に昇り龍、降り龍が巻きつけられた支柱があって荘厳な雰囲気を醸していますが、実は耐震のために江戸時代の元禄の大修理の際に大屋根の重さを支えるために補強されたものだそうです。その時、災難除けを祈念して龍の彫刻を施したそうです。南東、北西には昇り龍、南西、北東には下り龍が配されています。

  • 法隆寺 金堂<br />本尊は、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三如来像を祀っています。これらは、過去の薬師、現世の釈迦、来世の阿弥陀とされ、過去、現在、未来を表す「三世仏」となっています。  <br />中央の釈迦三尊像の光背の裏には銘文が記され、622年に物故した聖徳太子の冥福を祈り、翌年に太子の等身大で造られた像であることが判ります。太子がこんなに長身だったとは驚きですが…。また、光背の大きさにも目を瞠ります。光背は、聖人が光り輝く様を表しますので、大きいほど多くの功徳を持つそうです。制作者は、鞍作止利(くらつくりのとり)と言い、日本初の仏像・飛鳥大仏を造った仏師です。670年の若草伽藍の火災の際、釈迦像だけは持ち出せたとの伝承があり、光背の先端が損傷しているのは、その際にできた傷とされています。<br /><br />釈迦三尊像の眉間には釘が一本突き刺さっています。場所が場所だけに、梅原氏は「白毫を止めるためのものとは言え常識外れの手法」と何か曰くがあるのではないかと指摘しています。<br />

    法隆寺 金堂
    本尊は、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三如来像を祀っています。これらは、過去の薬師、現世の釈迦、来世の阿弥陀とされ、過去、現在、未来を表す「三世仏」となっています。 
    中央の釈迦三尊像の光背の裏には銘文が記され、622年に物故した聖徳太子の冥福を祈り、翌年に太子の等身大で造られた像であることが判ります。太子がこんなに長身だったとは驚きですが…。また、光背の大きさにも目を瞠ります。光背は、聖人が光り輝く様を表しますので、大きいほど多くの功徳を持つそうです。制作者は、鞍作止利(くらつくりのとり)と言い、日本初の仏像・飛鳥大仏を造った仏師です。670年の若草伽藍の火災の際、釈迦像だけは持ち出せたとの伝承があり、光背の先端が損傷しているのは、その際にできた傷とされています。

    釈迦三尊像の眉間には釘が一本突き刺さっています。場所が場所だけに、梅原氏は「白毫を止めるためのものとは言え常識外れの手法」と何か曰くがあるのではないかと指摘しています。

  • 法隆寺 金堂<br />右側に鎮座する薬師如来坐像(国宝)は、アルカイックスマイルと呼ばれる、穏やかに笑みを湛えた表情が特徴です。広く人々の病気を治して延命すると同時に、精神的な苦痛も取り除く如来で、アルカイックスマイルはその優しさの象徴でもあります。聖徳太子が父 用明天皇の遺志を継いで造ったのが若草伽藍ですが、その本尊がこの薬師如来だったそうです。<br />1922年頃、薬師如来像は鋳造技術や作風を鑑みて600年の作であると言う説が湧き出し、三如来像の中で最古のものは釈迦像だと言う説もあります。<br />

    法隆寺 金堂
    右側に鎮座する薬師如来坐像(国宝)は、アルカイックスマイルと呼ばれる、穏やかに笑みを湛えた表情が特徴です。広く人々の病気を治して延命すると同時に、精神的な苦痛も取り除く如来で、アルカイックスマイルはその優しさの象徴でもあります。聖徳太子が父 用明天皇の遺志を継いで造ったのが若草伽藍ですが、その本尊がこの薬師如来だったそうです。
    1922年頃、薬師如来像は鋳造技術や作風を鑑みて600年の作であると言う説が湧き出し、三如来像の中で最古のものは釈迦像だと言う説もあります。

  • 法隆寺 金堂<br />どの龍も髭が緑青色をしています。銅板で造られたものなのでしょうか?<br /><br />左側(西側)に安置されているのが、阿弥陀三尊像(重文)。光背銘によると、元々の仏像は盗まれたため、多くの信者の力を集めて鎌倉時代の1232年に完成したとあります。<br /><br />

    法隆寺 金堂
    どの龍も髭が緑青色をしています。銅板で造られたものなのでしょうか?

    左側(西側)に安置されているのが、阿弥陀三尊像(重文)。光背銘によると、元々の仏像は盗まれたため、多くの信者の力を集めて鎌倉時代の1232年に完成したとあります。

  • 法隆寺 金堂<br />北西角の邪鬼です。<br />尾垂木を支える邪鬼は後補(後の補修)によるものだそうです。<br />北西の邪鬼は「獏」か「象」のいずれか、北東のものは耳が垂れているので「象」のようです。南東、南西の邪鬼は唐獅子をイメージして造られたのでしょう。<br />尻尾の所にある雲肘木に、金堂ならではの渦模様が彫刻されています。<br /><br />

    法隆寺 金堂
    北西角の邪鬼です。
    尾垂木を支える邪鬼は後補(後の補修)によるものだそうです。
    北西の邪鬼は「獏」か「象」のいずれか、北東のものは耳が垂れているので「象」のようです。南東、南西の邪鬼は唐獅子をイメージして造られたのでしょう。
    尻尾の所にある雲肘木に、金堂ならではの渦模様が彫刻されています。

  • 法隆寺 金堂<br />南東の邪鬼です。<br /><br />五重塔には、その他にも、四天王立像(国宝)と毘沙門天、吉祥天立像(国宝)も安置されています。内陣の四方には、一本の樟の木で造られた日本最古と言われる四天王が立ち、三如来を守護しています。後世のものは憤怒の相が険しく、踏み付けられている邪鬼も憎らしい相のものが多いのですが、金堂の四天王は穏やかな顔付きをし、邪鬼もまるでかしずく侍者の様に見えます。  <br /><br />

    法隆寺 金堂
    南東の邪鬼です。

    五重塔には、その他にも、四天王立像(国宝)と毘沙門天、吉祥天立像(国宝)も安置されています。内陣の四方には、一本の樟の木で造られた日本最古と言われる四天王が立ち、三如来を守護しています。後世のものは憤怒の相が険しく、踏み付けられている邪鬼も憎らしい相のものが多いのですが、金堂の四天王は穏やかな顔付きをし、邪鬼もまるでかしずく侍者の様に見えます。  

  • 法隆寺 金堂<br />北東角の邪鬼です。<br />エキゾチックな雲斗、雲肘木などの雲形組物は飛鳥時代の特徴で、法隆寺や法起寺、法輪寺の法隆寺関係でしか見ることができません。<br />

    法隆寺 金堂
    北東角の邪鬼です。
    エキゾチックな雲斗、雲肘木などの雲形組物は飛鳥時代の特徴で、法隆寺や法起寺、法輪寺の法隆寺関係でしか見ることができません。

  • 法隆寺 金堂<br />南東角の邪鬼です。

    法隆寺 金堂
    南東角の邪鬼です。

  • 法隆寺 桂昌院燈籠<br />先ほど秀頼による慶長の大修理の話をしましたが、この時、経費節減のために松や杉を多用したことが祟り、100年足らずで傷み、徳川綱吉の時代にも大修理がなされています。<br />出開帳が許され、この時に得た浄財は4300両(綱吉:700両、諸大名:1100両、桂昌院:500両、拝観料:2000両)。また、桂昌院に名前が残る物の寄進を請い、別途50両を拝領し、子息 綱吉の武運長久を祈願して1691年に建立したのがこの銅製の桂昌院燈篭です。傘や火袋、中台に三つ葉葵紋と九目結紋が見られ、桂昌院本庄氏と刻まれています。本庄氏とは桂昌院の養家で、その家紋が九目結紋です。<br /><br />往時、法隆寺に覚勝(かくしょう)と言う高僧がおりました。桂昌院家の筆頭家老の甥で江戸出開帳の責任者の一人でした。江戸の僧侶と食事を共にする等、交友を深め、江戸の僧侶の生活ぶりに驚嘆した日記が残されているそうです。江戸に滞在した間、桂昌院から厚遇を受け、ご開帳も無事に済み、帰える際、葵の紋と九目結紋が縫い付けられた袈裟を拝領しました。その後、法隆寺の行事の際に覚勝がこの袈裟を着用したので他僧から羨まれる一方、白い目で見られる事もあったそうです。然し、覚勝も偉い方で、この袈裟を私有化せずお寺に収めていた様で、時を経ていつの間にか所在が不明になっていたそうですが、1988年に本坊の新倉で発見され、傷んでいるものの大切に保管されているそうです。<br />

    法隆寺 桂昌院燈籠
    先ほど秀頼による慶長の大修理の話をしましたが、この時、経費節減のために松や杉を多用したことが祟り、100年足らずで傷み、徳川綱吉の時代にも大修理がなされています。
    出開帳が許され、この時に得た浄財は4300両(綱吉:700両、諸大名:1100両、桂昌院:500両、拝観料:2000両)。また、桂昌院に名前が残る物の寄進を請い、別途50両を拝領し、子息 綱吉の武運長久を祈願して1691年に建立したのがこの銅製の桂昌院燈篭です。傘や火袋、中台に三つ葉葵紋と九目結紋が見られ、桂昌院本庄氏と刻まれています。本庄氏とは桂昌院の養家で、その家紋が九目結紋です。

    往時、法隆寺に覚勝(かくしょう)と言う高僧がおりました。桂昌院家の筆頭家老の甥で江戸出開帳の責任者の一人でした。江戸の僧侶と食事を共にする等、交友を深め、江戸の僧侶の生活ぶりに驚嘆した日記が残されているそうです。江戸に滞在した間、桂昌院から厚遇を受け、ご開帳も無事に済み、帰える際、葵の紋と九目結紋が縫い付けられた袈裟を拝領しました。その後、法隆寺の行事の際に覚勝がこの袈裟を着用したので他僧から羨まれる一方、白い目で見られる事もあったそうです。然し、覚勝も偉い方で、この袈裟を私有化せずお寺に収めていた様で、時を経ていつの間にか所在が不明になっていたそうですが、1988年に本坊の新倉で発見され、傷んでいるものの大切に保管されているそうです。

  • 法隆寺 大講堂(国宝)<br />法隆寺の再建時には存在せず、代わりに食堂が記録されていることから、往時は食堂と講堂が兼用され、その後講堂専用になったと言われています。その講堂も925年の落雷により焼失しています。往時、堂内には現在のように仏像は安置されていなかったそうです。それが、時代を経て講堂は本堂という仏堂的な機能を持つようになり、薬師三尊像が祀られたようです。<br />元禄の修理の際、8間堂から9間堂へ改変されています。昭和の大修理でも講堂は重要な仏堂となっていた関係で、8間に戻さず9間のままとしています。金堂と違って講堂ともなると組物も簡素な平三斗です。柱間は、金堂では中央から脇間に向かって狭くなりますが、大講堂では全ての柱間は等間隔です。彫刻などの装飾もなく、中備は蟇股ではなく間斗束であります。 <br />大講堂の最大の特徴は屋根構造です。天平時代の屋根は平瓦の上に丸瓦を置く本瓦葺で、緩い屋根勾配ゆえに雨水の流れが遅く、雨の吹き上がりによる雨漏りが起きていました。この問題を解消したのが、日本独特の屋根の上に屋根を設ける「野屋根」という構造です。結果として屋根勾配が急となり、屋根ばかりが目立つ建物となって一部では悪評高いですが、逆に豪快に映るのも事実です。大講堂は野屋根構造の建物としては現存最古の遺構です。その後、金堂と講堂の機能を兼ね備えた本堂の建立が主流となり、国宝指定の講堂は唐招提寺の講堂との2棟のみです。<br />

    法隆寺 大講堂(国宝)
    法隆寺の再建時には存在せず、代わりに食堂が記録されていることから、往時は食堂と講堂が兼用され、その後講堂専用になったと言われています。その講堂も925年の落雷により焼失しています。往時、堂内には現在のように仏像は安置されていなかったそうです。それが、時代を経て講堂は本堂という仏堂的な機能を持つようになり、薬師三尊像が祀られたようです。
    元禄の修理の際、8間堂から9間堂へ改変されています。昭和の大修理でも講堂は重要な仏堂となっていた関係で、8間に戻さず9間のままとしています。金堂と違って講堂ともなると組物も簡素な平三斗です。柱間は、金堂では中央から脇間に向かって狭くなりますが、大講堂では全ての柱間は等間隔です。彫刻などの装飾もなく、中備は蟇股ではなく間斗束であります。 
    大講堂の最大の特徴は屋根構造です。天平時代の屋根は平瓦の上に丸瓦を置く本瓦葺で、緩い屋根勾配ゆえに雨水の流れが遅く、雨の吹き上がりによる雨漏りが起きていました。この問題を解消したのが、日本独特の屋根の上に屋根を設ける「野屋根」という構造です。結果として屋根勾配が急となり、屋根ばかりが目立つ建物となって一部では悪評高いですが、逆に豪快に映るのも事実です。大講堂は野屋根構造の建物としては現存最古の遺構です。その後、金堂と講堂の機能を兼ね備えた本堂の建立が主流となり、国宝指定の講堂は唐招提寺の講堂との2棟のみです。

  • 法隆寺 大講堂<br />内陣にある仏像は国宝仏ですが、金堂と違って明るい環境に安置され、しかも間近に見ることができるので仏像好きにはたまらないスポットです。<br />この講堂では、瓦の寄進を受け付けていたり、法隆寺のグッズ(お守りや絵はがき、書籍など)を販売する売店があります。<br />当方もこれだけ写真を撮らせていただいていることもあり、気持ち程度ですが瓦の寄進をさせていただきました。<br />

    法隆寺 大講堂
    内陣にある仏像は国宝仏ですが、金堂と違って明るい環境に安置され、しかも間近に見ることができるので仏像好きにはたまらないスポットです。
    この講堂では、瓦の寄進を受け付けていたり、法隆寺のグッズ(お守りや絵はがき、書籍など)を販売する売店があります。
    当方もこれだけ写真を撮らせていただいていることもあり、気持ち程度ですが瓦の寄進をさせていただきました。

  • 法隆寺 鐘楼(国宝)<br />天平時代の「鐘楼」は講堂と共に焼失し、平安時代の再建ですが平安時代唯一の楼造です。講堂が990年に再建されたため、同時期の再建とされています。<br />鐘楼にある「天平時代の梵鐘」が撞かれるのは、「夏安居」の期間中の午前9時ですが、梵鐘は損傷しているため厳かな音色であり、近くでないと聞こえないそうです。夏安居は、5月16日〜8月15日まで行われます。 <br />

    法隆寺 鐘楼(国宝)
    天平時代の「鐘楼」は講堂と共に焼失し、平安時代の再建ですが平安時代唯一の楼造です。講堂が990年に再建されたため、同時期の再建とされています。
    鐘楼にある「天平時代の梵鐘」が撞かれるのは、「夏安居」の期間中の午前9時ですが、梵鐘は損傷しているため厳かな音色であり、近くでないと聞こえないそうです。夏安居は、5月16日〜8月15日まで行われます。 

  • 法隆寺 西院伽藍<br />大講堂の右端からは、このような金堂と五重塔のツーショットを撮ることができます。<br /><br />お寺では相輪や堂の軒の四方に風鐸(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられています。風鐸は青銅製で強い風が吹くとカランカランとやや鈍い音を発します。昔は、強い風は流行病や悪い神を運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味で取り付けられ、この音が聞こえる範囲は聖域のため災いが起こらないと信じられていました。因みに、風鐸は現在の風鈴の起源とも言われています。<br /><br />長くなりましたので、この続きは、あをによし 奈良紫絵巻④法隆寺<後編>でお届けいたします。東院伽藍で法隆寺コードの解明をさらに進めます。<br />

    法隆寺 西院伽藍
    大講堂の右端からは、このような金堂と五重塔のツーショットを撮ることができます。

    お寺では相輪や堂の軒の四方に風鐸(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられています。風鐸は青銅製で強い風が吹くとカランカランとやや鈍い音を発します。昔は、強い風は流行病や悪い神を運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味で取り付けられ、この音が聞こえる範囲は聖域のため災いが起こらないと信じられていました。因みに、風鐸は現在の風鈴の起源とも言われています。

    長くなりましたので、この続きは、あをによし 奈良紫絵巻④法隆寺<後編>でお届けいたします。東院伽藍で法隆寺コードの解明をさらに進めます。

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