2014/06/14 - 2014/06/14
4位(同エリア593件中)
montsaintmichelさん
- montsaintmichelさんTOP
- 旅行記365冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,054,644アクセス
- フォロワー141人
矢田寺<前編>はガクアジサイをメインとした「アジサイ見本園」を中心にレポしましたので、後編は「アジサイ園」と「伽藍」にスポットを当ててレポいたします。
「アジサイ園」は、7000平方mもある回遊式庭園となっており、あるがままの自然の地形をダイナミックに活用した醍醐味が味わえます。混雑を避けるため、基本的に散策路は一歩通行になっており、グルリと一周すれば30分程かかります。一歩庭園に足を踏み入れるとアジサイの樹海に迷い込んだ趣があり、ひんやりした柔らかな空気の中でアジサイが散策路の脇から迫ってくるのは圧巻です。ある時は谷川の畔で小川のせせらぎに耳を澄まし、またある時には谷を俯瞰する高台にあって吹き抜ける風の清涼感に浸るなどの立体感を凝縮した箱庭的な造形が、単調になり易いアジサイ風景にアクセントを添えているような気がします。お地蔵様の化身とも例えられるアジサイの花々が咲き揃う様は、どこか極楽浄土を彷彿とさせるものがあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
PR
-
矢田寺 アジサイ園
恒例の「アジサイ名所ランキング」では常にトップを争う人気スポットでもあり、通称「アジサイ寺」として親しまれています。
本格的なアジサイ栽培を始めて「アジサイ寺」へと変身したきっかけは、昭和40年代に周辺地域が県立矢田自然公園に指定されたことに始まります。ここまでの規模に造り上げるには大変なご苦労があったことと思います。感謝の気持ちを込めて鑑賞させていただきます。 -
矢田寺 アジサイ園
「アジサイ園」への入口は、参道を挟んで「アジサイ見本園」の反対側にあります。
庭園には谷川が2本流れ、自然との絶妙なハーモニーが心身を癒してくれます。時折、ホトトギスの美しい鳴き声が響き渡り、まさにユートピアそのものです。
単に規模を誇るだけでなく、多彩な色のアジサイが密集するように植えられていて飽きさせることがありません。 -
矢田寺 アジサイ園
谷川を模した小川のせせらぎに耳を澄ませながら、目では彩を添えるアジサイのグラデーションを愛でることができるのも回遊式庭園ならではの醍醐味です。 -
矢田寺 アジサイ園
散策路の両脇には手毬咲きのヒメアジサイを中心に無数のアジサイが咲き揃い、日本人の美意識の琴線に触れる景観が途切れることなく続きます。
また、所々に立ち止まれるビューポイントが設けられ、ランドスケープを重視した庭園構成になっています。 -
矢田寺 アジサイ園
鬱蒼とした木立に包まれた小径を歩いていると、深山幽谷に遊ぶような感覚にとらわれます。 -
矢田寺 アジサイ園
このように散策路は人一人がかろうじてアジサイに触れずに通れる幅しかありません。アジサイはこれから大きくなり、頭を垂れつつある途上ですので、満開時がどのような光景となるかを推し量ることができると思います。
このモデルさんが太っているわけではありません。 -
矢田寺 アジサイ園 展望テラス
高齢者や足の不自由な方々でも「アジサイ園」を楽しめるように、庭園を俯瞰できる展望テラスも用意されています。
こうしてテラスから見下ろす光景は、辺り一面に絵の具を散りばめたような美しさで息をのむほどです。 -
矢田寺 アジサイ園
木の上に白い花らしきものが見えます。
ズームアップしてみると、ヤマボウシであることが判りました。
ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。日本原産で東北以南、日本各地の山野に自生しています。開花期は5月中旬〜6月中旬。花穂は黄緑色で小さく、20〜30個の花が球状に集合しています。その外側に大形で蕾を包んでいたものが変化した白色の総包が4枚あり、一見するとそれが花びらのように錯覚します。秋には赤いイチゴを連想させるような甘い果実が付き、食べられるそうです。赤く熟す実が、桑の実に似ているため「山桑」という別名もあります。
「ヤマボウシ」という名は、花の姿が比叡山延暦寺の「山法師」に似ていることが由来です。中央の丸い花穂を坊主頭に、4枚の白い総包片を白い頭巾に見立てたものです。
ハナミズキと似ていますが、ハナミズキの開花期が4〜5月、ハナミズキ総包の先は丸くなっていることが異なります(ヤマボウシは尖っています)。
花言葉は「友情」。 -
矢田寺 アジサイ園
アジサイは結構デリケートな花だそうで、とても傷み易いそうです。ですから直接手で触れるというのは厳禁だそうです。 -
矢田寺 アジサイ園
矢田寺のHPには三脚の使用について次のような注意書きがあります。
「近年、写真撮影に三脚を使用される方が増加し、またその使用マナーについて、 参拝者とのトラブルや苦情が目立つようになりました。特に境内の混雑する場所においては、参拝者の事故防止のため、三脚及び一脚の使用をご遠慮いただくことになりました」。
当然ながら、混雑する「アジサイ見本園」や「アジサイ園」での一脚や三脚の使用はマナー違反となりますので留意してください。
せっかく美しい花を見て癒されているのですから、お互いに気を配りながら気持ち良く花を愛でようではありませんか! -
矢田寺 境内
アジサイ園を出ても、ついつい参道の脇にあるアジサイが気になってしまいます。
「あじさいの花びらひとつ一つが様々に色を変え、とどまるところのない世の無常を伝えています」の旨が書かれています。
お寺では、いつもなら見過ごしてしまうようなものでも意外と意味深いことが多いように思います。お寺巡りで大切なことは、学ぶ心を常に持ち、オープン・マインドで何でも受け入れる気持ちで接することだと感じました。 -
矢田寺 境内
「アジサイ見本園」で紹介したウズアジサイがありました。
こちらは、こんもりとタマアジサイ風ですので、遠目にはウズアジサイだと気付きません。 -
矢田寺 境内
ブーケを彷彿とさせる、まだ幼いアジサイです。
日本人がアジサイに魅了されるのは、そこに人生の縮図のようなものを重ね合わせるからではないでしょうか?
そしてこの時期のアジサイ園では、同じ種類のアジサイの現在・過去・未来を同時進行形で愛でることができます。過去を振り返り、立ち止まって現在を見つめ、そして未来に夢と希望を託すことができます。
桜とはまた違った愛で方ができる、日本人固有のナイーブな琴線に触れる花だと思います。 -
矢田寺 境内
装飾花のコバルト・ブルーの色が目に眩しいガクアジサイです。 -
矢田寺 境内
八重ガクアジサイです。
この花を見ていつもイメージするのは、「線香花火」。
この種には、「隅田の花火」なんて命名されているものもありますので、きっと誰もが花火をイメージすると言うことなのでしょう。
「隅田の花火」@三室戸寺はこちらを参照してください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=25737809 -
矢田寺 境内
このような青紫色の大玉も楽しめますよ! -
矢田寺 境内
正面が本堂で、その右側にあるのが鐘楼。
矢田寺は、今から約1300年前、壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ:天武天皇)が壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登り、その甲斐あって勝つことができたため、即位後の676年、智通僧正に勅せられて七堂伽欄48カ所坊を造営したのが開基とされています。
本堂前に立つ石燈篭は、1793年に5代郡山藩主 柳沢保光からの寄進によるものです。 -
矢田寺 本堂
本堂は、2003年に修理され、美しい姿を蘇らせています。
寺伝にあるように矢田寺の中興の祖は満米(まんまい)上人です。上人には有名な伝承が残されています。先にも記したように、この寺では弘仁年間に本尊が入替わるという一大事が起こりました。その理由を誰もが知りたいと思ったのはごく自然の流れです。そのためか、この疑問に答える伝説が寺伝にあります。それは、本尊の入替えを主導した矢田寺の僧 満慶と公卿 小野篁(たかむら)、そして冥土界の閻魔王を主人公とした奇々怪々なストーリーとなっています。 -
矢田寺 本堂脇の地蔵尊
地蔵尊は、一般的に子供を守る仏様だと思われていますが、元々は仏教が生まれるよりもっと古い時代に信仰されたインドの「大地の神様」が起源で、 「地上に存在する生命あるものの全てを養ってくださる者」という意味を持っているそうです。正式の名前は「地蔵菩薩」で、 梵語では「クシチガルブハ」という難しい呼び方をします。その身を種々の姿に分身して衆生を救済することが、地蔵尊の使命とされています。 子供の災厄を守護、延命、五穀豊穣、安産などにご利益があります。真言(呪文)は「おんかかか みさんまえ そばか」です。
仏教では、釈迦入滅後、弥勒菩薩が竜華樹の下で悟りを開き、再び法を説かれるまでの56億7千万年の間、現世に仏が不在の五濁の世が続くとされています。地蔵菩薩は、その五濁の世に出現し、その身を様々な姿に分身し、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救済することを使命としています。
一般的に、地蔵菩薩の像は、僧侶の姿で袈裟を纏い、左手に如意宝珠、右手に錫杖を持っています。しかし、この寺の地蔵菩薩は、右手の第一指と第二指を捻じ、阿弥陀如来の来迎印のような形をしています。そのため、地蔵菩薩と阿弥陀如来双方の功徳を併せ持つとされ、「矢田型地蔵」と呼ばれています。 -
矢田寺 蓮花池の弁財天とミズカンナ
クズウコン科ミズカンナ属の水生多年草です。原産地は北米や熱帯アフリカ。 遠目では紫色の花と白い萼色が混ざり合い、紫白色に見える美しい花を咲かせる草丈の高い水辺の植物です。名の由来は、水生植物であることと葉形がカンナに似ていることから名付けられました。カンナの花のイメージとは、程遠いですが…。日本には昭和初期に渡来し、最近では水質浄化用に池や沼地などに植えられているそうです。
花言葉は、「快活」「熱い思い」。 -
矢田寺 蓮花池のミズカンナ
紫白色に見える奇妙な花のズームアップです。
茎先に穂状花序を出し、紫色の花を多数付けます。白い萼が花のように見えます。 -
矢田寺 本堂 鬼瓦
まず、小野篁についての予備知識です。『今昔物語』第20巻第45話「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」に登場します。要約すれば、篁は、昼は宮廷官吏 蔵人頭として出仕し、夜は冥土で閻魔王宮の冥官として閻魔王の審判を補佐するという、冥府と現世を自由に行き来できる人物ということです。この篁の超人能力が矢田寺の地蔵菩薩信仰の興りにまつわる伝承に深く関わっているのです。
『小野篁は、学生の頃、過ちを犯し重罪に処せられるところ、当時宰相の藤原良相の取り成しで事なきを得た。篁はこの時、良相に感謝すると共に深い恩義を感じた。その後、良相は大臣に、篁は宰相になっていた。ある日、大臣は重病を患い、亡くなってしまった。そして大臣は、生前の罪を定めるために閻魔王宮へ連行された。王宮には、冥官達が居並んでいた。しかし不思議なことにその中に小野篁がいたのである。これはどうしたことかと大臣が思いあぐねていると、篁が閻魔王の前に進み出て、「この者は人のために尽くした良き人です。己に免じて今度の罪を許してやってください」と願い出た。閻魔王は、「他ならぬ篁の願いなれば許す」と答えた。こうして生き返った大臣は、病も癒えた。しかし、この冥途の出来事を忘れることはなかったが、口外はしなかった。ある時、役所で偶然、人を交えず話す機会があった。大臣は「前々から貴殿に聞きたかったことがある。他でもない、冥途でのあの出来事だ」と篁に問うた。篁は、「先年、大臣より受けた恩義に報いたまでのことです」と答え、更にこう付け加えた。「この事、決して他言されぬように願います」。こうして大臣は、篁は「閻魔王宮の臣」だと始めて知り、恐れ慄いた。大臣は約束通り他言しなかったが、どこからか自然と世に広がり、皆が知るところとなった』。 -
矢田寺 本堂
矢田寺の本尊とされている延命地蔵菩薩にも、面白い縁起が伝えられています。この像の制作者は満米上人ですが、彼が嵯峨天皇の大臣である小野篁から不思議な依頼を受けたことが発端となります。
小野篁は、閻魔大王から「三熱の苦しみから離れるため菩薩戒を授けてくれる人物を連れてきてくれ」と頼まれました。篁は僧 満慶の徳を慕って度々矢田寺に詣でていたので、満慶に訳を話しました。満慶は快諾し、共に冥府に赴きます。そして閻魔王に菩薩戒を無事授けました。閻魔王は、この礼として満慶が希望した地獄を観ることを許しました。地獄を訪れた時、満慶は燃えさかる炎の中で大衆に代わって地獄の責め苦を受けている地蔵菩薩を見て心打たれ、教えを請いました。すると地蔵菩薩は、「われに縁を結んでいない者は救いがたい、われと縁を結ぶには、わが姿を一度拝し、わが名を一度唱えよ」と答えました。満慶は寺に戻ると、その教えに従い直ちに仏師を呼び、地獄におられた地蔵菩薩の姿を彫らせましたがなかなか思うようにいきません。しかし幾度彫ってもその姿を再現できず、神仏に祈願する毎日が虚しく過ぎ去るばかりでした。しかし、ある日突然4人の翁が現れ、三日三晩で地獄で出会った地蔵菩薩そのままの姿を完成させたのです。そして驚嘆する満慶に「我らは仏法守護の神である」と告げると、五色の雲に乗って春日山へ飛び去りました(春日四社明神)。この尊像が矢田寺の本尊となりました。ところで、満慶は閻魔王宮を辞する時、漆塗りの手箱を土産として贈られました。この手箱を開けると米が入っていました。不思議なことにこの手箱に入っている米は幾ら使っても減らず、常に満杯の状態でした。これを見た人々は満慶を満米上人と呼ぶようになったということです。「矢田地蔵縁起」 -
矢田寺 南僧坊
以上、とてもよくできた伝承で、舞台装置も境内に点在し、どこか納得させるものがあります。ではこれに史実を照らし合わせるとどうなるか?
小野篁は、実在の人物であり、政務能力に優れただけでなく、平安初期を代表する漢詩文家でもありました。父は『凌雲集』の選者 岑守。小野小町や小野好古、小野道風は孫に当たります。篁は847年に参議となり、852年に死去しています。一方、藤原良相が右大臣になったのは篁の没後5年後の857年です。年代的に考察すると、伝承とは異なり、この2人は出会う機会がなかったかもしれません。ただし、この時期の史実、特に年代は、改竄されていることが多く、史実の方が誤っているケースもあります。
満米上人も実在の人物と考えられています。上人は深く地蔵菩薩に帰依し、矢田寺を地蔵菩薩信仰中心の寺へと大転換を断行ました。それによって矢田寺は地蔵菩薩信仰の草分け的な寺院として大いに興隆します。地蔵菩薩信仰は平安時代中頃から急速に浸透していきますが、その信仰を広げるツールとして「地獄巡り&地蔵菩薩」という伝承を使ったと考えると腑に落ちます。尚、上人と篁との関係は、篁は矢田寺の壇越であったと伝えられています。 -
矢田寺 延命地蔵菩薩像
毎年アジサイの時期には特別開帳が行われ、本堂内陣から間近に本尊を拝顔することができます。遷都1300年の時から南都銀行OBの皆さんが現地案内や運営サポートなどのボランティア活動をされています。モノ(秘仏)だけではなく、人というか、おもてなしの心も大切なことだとしみじみと思いました。
内陣の周囲には十六羅漢の襖絵があり、中央の立派な厨子には、真ん中に延命地蔵菩薩像、向かって右に十一面観音像、左に吉祥天像が祀られていました。両端には四天王の2体も祀られ、ガイドの方によると他の2体は唐招提寺にあるそうです。
厨子は5代将軍 徳川綱吉の母 桂昌院が寄進したものだそうです。彼女は色々なお寺を再興され、京都生まれの桂昌院は、大和郡山にも参拝に来られたものと窺えます。
平安時代初期(9世紀)に彫られた本尊 延命地蔵菩薩(桐一木造、高さ:162cm)は、一見風変わりな像です。普通の地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠というスタイルが一般的です。しかし、左手には宝珠を載せていますが、これは後補(後世の補修)です。右手は胸の前で親指と人差し指で来迎印を結んでいるような形をしています。「矢田型地蔵」と呼ばれ、輪っかを作る印相は阿弥陀如来の来迎印のようだということから、地蔵尊と阿弥陀如来の両方の功徳があると言われています。見ていると心がほっこりと和みます。
因みに、股間を流れるU字形の衣文(えもん)や右袖の左右交互に半弧をなす衣文の意匠から、平安時代初期のものと推定されています。
その右側にある左脇侍は、創建当初の本尊と伝わる奈良時代(8世紀後半)に彫られた十一面観音立像(桐一木造、高さ:217cm)。両肩から先は別材を接いでいます。下半身には天然のウロ(空洞)があるそうです。脚部の衣文は平安前期の一木彫像に多い翻波式に刻まれます。天衣の腕から下に垂れる部分と頭上面の大部分は後補だそうです。やや中性的かつ可憐な容貌をし、柳腰で下半身のしなやかさが美しい像です。
右脇侍は、宿院仏師 源次一門の手により室町時代に彫られた吉祥天立像(高さ:189cm)。彩色はかなり剥げ落ちていますが、色白で目がパッチリした美形像です。
この写真は、巡る奈良HPより引用させていただきました。
http://www3.pref.nara.jp/miryoku/megurunara/inori/hihou/ -
矢田寺 試(こころみの)地蔵菩薩立像
本尊の裏には、満米上人の作と伝わる童子のようにふっくらした真ん丸な顔立ちの試地蔵菩薩立像が祀られています。本尊と見比べると、顔の表情や左手の曲げ方が異なります。後世の鑑定結果によれば、先に造られたと伝わる試地蔵菩薩の方が、本尊より年代が新しいことが判ったそうです。ガイドの方にも確かめましたが、そのように言われました。伝承との矛盾については、訊ねることを控えましたが…。今日の科学技術の発達は、歴史を覆すようなこともいとも容易くしてしまうのですね!
左奥には弘法大師像が鎮座し、右奥に阿弥陀如来像が祀られていました。阿弥陀如来像は、一般的な蓮華座ではなく、八角形の台の上に布を被せた「裳懸座(もかけざ)」に座り、とても珍しいタイプです。光背はありませんが、台座の大半は当初のものだそうです。寄木造で、頭や体の幹部は10材、両足部は4材を寄せて造られ、この時代の計14材の寄木造は珍しく、全国で2体だけだそうです。アスリートのような引き締まった体に、幼い童子のようにやわらかく優しい表情をされています。
因みに、もう一体は、滋賀県野洲市の仏性寺にあるそうです。
この写真は、矢田寺パンフレットから引用させていただきました。 -
矢田寺
鐘楼に納められている梵鐘は、鎌倉時代の1246年の鋳造であり、重要文化財に指定されています。
手前は、十三重塔です。 -
矢田寺 北僧坊
北僧坊・大門坊・念仏院・南僧坊の4つの僧坊を総称して矢田寺と呼びます。
北僧坊の門には桐紋が入っています。郡山城は、戦国時代に筒井順慶が築城し、その後豊臣秀吉の弟秀長が紀伊・和泉・大和三国100万石の太守として入城して大繁盛したようですので、何か由縁があるのかもしれません。 -
矢田寺 北僧坊
門の屋根には、菊水紋の波を象った部分を彷彿とさせるような瓦が載せられています。
「火伏せ」という、水に因んだものを屋根に設けて火事の時に水を呼ぶ、一種のおまじないと思われます。 -
矢田寺 本堂
本堂の裏側です。 -
矢田寺 本堂裏側のアジサイ園
ここにも一重のカシワバアジサイが咲いています。 -
矢田寺 本堂裏側のアジサイ園
カシワバアジサイは芳香が強いのか、昆虫が集まってきています。
これは、ベニカミキリです。
甲虫目カブトムシ亜目カミキリムシ科カミキリ亜科に属します。
花に集まる赤くて綺麗なカミキリ虫です。カミキリは木の皮を食べるものが多いのですが、本種の成虫は花の蜜を吸います。鮮やかな赤い体色が特徴で、前胸部には5つの黒紋があります。 -
矢田寺 閻魔堂特別開扉
閻魔堂の創建は室町時代。現在のものは、江戸時代に再建されたもので、閻魔王とその眷属(けんぞく)が祀られ、冥界での裁判の様子を垣間見ることができます。閻魔王の左右には11体の像が並びます。9体は冥府の裁判官で、閻魔王を合わせて十王。残りの2体は奪衣婆(だつえば)と倶生神(くしょうじん)です。奪衣婆は、姿は老婆で鬼のような形相をしています。死後に通るとされる三途の川の畔に、衣領樹(えりょうじゅ)という木があり、その下で亡者の衣類を剥ぎ取るのを仕事にしています。その木の上には、懸衣翁(けんえおう)がおり、枝に剥ぎ取った衣類をかけます。そしてその枝のしなり具合、つまり衣類の重さで亡者の罪の軽減を定めるとされています。因みに、奪衣婆は、閻魔王の妻だとか妹だとの説があります。
天秤は罪の重さを測るもので、重石よりもその人の罪が重ければ執行人の顔から火が噴かれ、軽ければもう一つの顔からいい匂いがすると伝えられています。また、天秤の後ろの鏡には、生前の悪行が暴露され、その罪科によって判決が下されます。
古代エジプトのパピルス『死者の書』では、冥界の王オシリスの裁判の広間で、死者が生前に悪いことをしなかったどうかを天秤を使って調べられます。天秤の片方の皿に死者の心臓、つまり心を置き、もう一方の皿に正義と真理の女神の羽を置きます。もしもその人が悪人ならば、心臓には悪事が溜まっていて羽よりも重くなります。羽より心臓が重ければ死者の心臓は獣に食べられ、羽と釣合えば永遠の魂を約束してもらえます。
ギリシャ神話では、女神テミスが正義と公正のシンボルとして天秤を持って現れています。ヨーロッパでは裁判所などにテミスの像を見ることができ、日本では弁護士がつけるバッジに、公平と平等の象徴として天秤が彫刻されています。
この写真は、Lmaga.jp HPより引用させていただきました。
http://lmaga.jp/event.php?id=5027 -
矢田寺 石碑
茂みの中にあり目立ちませんが、地蔵尊が半肉彫りされた石碑です。
右上には摂政宮殿下とあります。
後の昭和天皇のことだと思われますが、ここへ行啓された時の記念碑のようです。 -
矢田寺 鎮守「春日神社」
本堂へ上がる石段を右脇へ入った奥に鎮守「春日神社」が鎮座しています。満米上人伝承に登場する春日四社明神を祀っています。本殿は、丹土塗一間社春日造、檜皮葺、室町時代の築造で国の重要文化財に指定されています。2003年に屋根の葺替えと部分修理を行っています。
石段の耳石には南北朝時代の年号「正平2年(1347年)11月」の刻銘があります。また、本堂前の耳石には「貞和22年(1348年)2月15日」の刻銘があります。同じ境内ながら南朝と北朝の年号があることから、矢田寺が南・北朝のどちらにも味方をしていた証左となるもので興味深い耳石です。 -
矢田寺 ブラシノキ
アジサイ見本園にはブラシノキがあります。
フトモモ科ブラシノキ属の常緑小高木。別名カリステモン。学名のカリステモンはギリシャ語で「美しい雄しべ」という意味です。
オーストラリア原産で日本には明治中期ごろに渡来しました。5〜6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立ちませんが、赤色の長い花糸が目立ちます。穂状花房は雄シベの先に金粉が付いているように光ります。花序全体がブラシのように見えることが名の由来です。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持ちます。 -
矢田寺 イワガラミ
アジサイ園を鑑賞していた時には気付かなかったのですが、ブラシノキのお隣にはイワガラミの大木があります。
よく樹上に白い花が咲いているのを見かけますが、ツルアジサかイワガラミのどちらかです。両者の花の咲き方は、ツルアジサイは装飾花が3〜5枚に対し、イワガラミは1枚。ですから一目で判ります。 -
矢田寺 イワガラミ
イワガラミに絡みつかれた樹木は、やがて全身を縛られ、首を絞められたかのように倒れてしまいます。「寄らば大樹の陰」と言いますが、寄り添った挙句、大樹を倒してしまうのですから恐ろしい木ですね。 -
矢田寺 鬼瓦
塔頭を抜けた石段の手前にある鬼瓦です。
どことなくディズニーのアニメにでも登場するようなデフォルメされた風貌です。 -
矢田寺 見送り地蔵
塔頭を抜けた所の石段を下りてくると、眼下に不自然に背を向けて立つ地蔵尊が一体あります。
その右側にあるのは、江戸時代の力士のお墓です。ここから下る石段の右脇にもあります。没年は文化や天保、文政といった元号になっています。「鈴鹿山新七」「香取山礒吉」「木曽川寅之助」「鞍馬山伊八」など知らない関取名ですが、立派な墓石です。 -
矢田寺 見送り地蔵
4人の翁を春日山に見送った「見送り地蔵」です。立姿が奈良市のある北東の方向を向いているため、地蔵菩薩を3日3晩で刻んだ4人の翁「春日四明神」を見送ったという故事から「見送り地蔵」という名が付けられ、翁を見送る姿を刻んだものと伝えられています。
花崗岩製で高さ190cmの舟形光背に、永正12年(1515年)4月8日本願妙円の刻銘があります。室町中期ですので、矢田型地蔵石仏としては最古銘となります。蓮華座に立つ、像高156cmの地蔵尊が半肉彫りされています。 -
矢田寺
見送り地蔵と対峙する場所には、春日四明神を祀る4つの石が整然と並べられています。 -
矢田寺 見送り地蔵
見送り地蔵を借景にアジサイを撮ってみました。 -
矢田寺
けっこう急峻な坂道です。
降りるのも結構疲れます。 -
矢田の里
遠く山並みが薄く霞むさまは、矢田の里の原風景と言えます。 -
今回利用させていただいた、阪神電車 奈良・斑鳩 1DAYチケットです。
1850円ですが、奈良交通のバス代900円ほどがお得になります。
矢田寺のアジサイを堪能した後は、斑鳩にある法隆寺へ向かいます。法隆寺はアクセスが悪いのですが、矢田寺からはJR法隆寺駅行の直通バスが出ています。法隆寺最寄りの法隆寺前バス停へは行きませんが、中宮寺前バス停で降車して7分ほど歩けば法隆寺です。バスの乗車時間は20分弱です。
主人は初めての訪問となり、ワクワク・ドキドキしているようです。
この続きは、あをによし 奈良紫絵巻紀行③法隆寺<前編>でお届けします。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
46