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世界遺産姫路城、長きにわたる平成の大修復工事もほぼ終え、工事用の覆いもおおかた撤去が進み、段々と天守閣のその美しい姿も現れてきました。<br />前回、5月のGW中に来た時は、天守閣最上階のみが見えていたのですが、それから1ケ月、周囲を囲っていた工事用の覆いも撤去作業が随分と進んでいました。<br /><br />5月に来た時の旅行記(改修工事を終え顔を出した天守)です。<br /> http://4travel.jp/travelogue/10884046<br /><br />今回は、6月の始めということで観光客も少なくゆっくり城をめぐるにはとても良い時期でした。前回は人の多さで本丸への入場を諦めましたが、今回は西の丸、そして本丸方面へ足を伸ばしてみました。白鷺城とも呼ばれる姫路城、今回の修復工事では白い漆喰の壁に加え、瓦の継ぎ目も全て白い漆喰が施されたことで、瓦部分も白が多くを占めており、より白さが際立つ白鷺となっています。本来の黒い瓦部分が白くなり、再現性という点で少々元々のものとは異なる様相となっているかもしれませんが、この出来栄えを見たところでは、より美しさという点で磨きがかかったような印象があり、個人的にはこの姫路城、とてもいいんじゃないかと思います。我が国の世界に誇る歴史遺産、今回の修復では現場の職人さ達による技術の粋がここに詰凝縮されています。この美しい姿そういった点でも世界へ向けてのJapan Coolの発信として、とても良いような気がしました。<br />なお、工事用の設備などの撤去が完了し、すべてが公開されるのは来年の春ということです。完全な修復を終えた美しい姫路城、とても楽しみです。

世界遺産 姫路城 美しい姿をようやく現し始めた天守閣

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2014/06/07 - 2014/06/07

238位(同エリア2152件中)

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Tam-K

Tam-Kさん

世界遺産姫路城、長きにわたる平成の大修復工事もほぼ終え、工事用の覆いもおおかた撤去が進み、段々と天守閣のその美しい姿も現れてきました。
前回、5月のGW中に来た時は、天守閣最上階のみが見えていたのですが、それから1ケ月、周囲を囲っていた工事用の覆いも撤去作業が随分と進んでいました。

5月に来た時の旅行記(改修工事を終え顔を出した天守)です。
 http://4travel.jp/travelogue/10884046

今回は、6月の始めということで観光客も少なくゆっくり城をめぐるにはとても良い時期でした。前回は人の多さで本丸への入場を諦めましたが、今回は西の丸、そして本丸方面へ足を伸ばしてみました。白鷺城とも呼ばれる姫路城、今回の修復工事では白い漆喰の壁に加え、瓦の継ぎ目も全て白い漆喰が施されたことで、瓦部分も白が多くを占めており、より白さが際立つ白鷺となっています。本来の黒い瓦部分が白くなり、再現性という点で少々元々のものとは異なる様相となっているかもしれませんが、この出来栄えを見たところでは、より美しさという点で磨きがかかったような印象があり、個人的にはこの姫路城、とてもいいんじゃないかと思います。我が国の世界に誇る歴史遺産、今回の修復では現場の職人さ達による技術の粋がここに詰凝縮されています。この美しい姿そういった点でも世界へ向けてのJapan Coolの発信として、とても良いような気がしました。
なお、工事用の設備などの撤去が完了し、すべてが公開されるのは来年の春ということです。完全な修復を終えた美しい姫路城、とても楽しみです。

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  • 姫路城、大手門<br /><br />大手門前の堀をゆっくりと舟が進んでいました。

    イチオシ

    姫路城、大手門

    大手門前の堀をゆっくりと舟が進んでいました。

  • それでは大手門をくぐり、城内、三ノ丸へと向かいます。

    それでは大手門をくぐり、城内、三ノ丸へと向かいます。

  • 大手門へ向かっていると何やら怪しげな人影、忍者です。<br /><br />どうやらこれから出勤のようです。<br />

    大手門へ向かっていると何やら怪しげな人影、忍者です。

    どうやらこれから出勤のようです。

  • 大手門をくぐり、三ノ丸広場に入ると目の前に天守閣がそびえます。<br />修復工事用構造物を撤去するため、とても大きなクレーンが2台、天守の向かって右側に据え付けられています。やはりとても大掛かりな工事のようです。<br /><br />以下に今年の正月、そして先月に撮影した天守を載せてみました。

    イチオシ

    大手門をくぐり、三ノ丸広場に入ると目の前に天守閣がそびえます。
    修復工事用構造物を撤去するため、とても大きなクレーンが2台、天守の向かって右側に据え付けられています。やはりとても大掛かりな工事のようです。

    以下に今年の正月、そして先月に撮影した天守を載せてみました。

  • 1月に撮影した天守閣、この頃は完全に工事用の覆いで包まれていました。<br />天守閣修復工事の見学がちょうど終わった時期です。<br />

    イチオシ

    1月に撮影した天守閣、この頃は完全に工事用の覆いで包まれていました。
    天守閣修復工事の見学がちょうど終わった時期です。

  • そして、天守閣最上階部が姿を現した先月、GWに撮影した天守部です。

    イチオシ

    そして、天守閣最上階部が姿を現した先月、GWに撮影した天守部です。

  • 今回、6月、上の5月から1ヶ月しかたっていないのですが、撤去作業は大きく進んだようで、天守の姿がほぼ見える状態となりました。<br /><br />

    イチオシ

    今回、6月、上の5月から1ヶ月しかたっていないのですが、撤去作業は大きく進んだようで、天守の姿がほぼ見える状態となりました。

  • この広い三の丸広場、ここには天守の方向を向いて左側、西の丸のすぐ下に城主の御殿、左側に政務を執り行われた向御殿などがあったそうです。<br /><br />ただし、城主の屋敷も池田時代は本丸すぐ南の備前丸に設けられていたようですが、本多時代には三の丸西側に城主屋敷が設けられたようです。<br />これは恐らく時代背景を反映したもので、池田時代は関ヶ原後とはいえ、未だ秀頼の豊臣方が大阪で健在であったこと、池田輝政自身、家康から西国への睨みとして、その要たる姫路の地を任されたという背景があります。これに対し、本田忠政は大阪落城後ということもあり、世は正に大平、大きな戦もさしあたって考えられず、その点でより治世や生活上の利便性から低地の三の丸に屋敷が設けられるようになったのではないでしょうか。更にその後の榊原家に至ってはより利便性を追求し、三の丸の外、内堀西の一曲輪、現在の好古園のある位置に西御屋敷が設けられたということです。<br /><br />これより西の丸のすぐ下にある菱門から二の丸、西の丸、本丸へと向かっていきたいと思います。

    この広い三の丸広場、ここには天守の方向を向いて左側、西の丸のすぐ下に城主の御殿、左側に政務を執り行われた向御殿などがあったそうです。

    ただし、城主の屋敷も池田時代は本丸すぐ南の備前丸に設けられていたようですが、本多時代には三の丸西側に城主屋敷が設けられたようです。
    これは恐らく時代背景を反映したもので、池田時代は関ヶ原後とはいえ、未だ秀頼の豊臣方が大阪で健在であったこと、池田輝政自身、家康から西国への睨みとして、その要たる姫路の地を任されたという背景があります。これに対し、本田忠政は大阪落城後ということもあり、世は正に大平、大きな戦もさしあたって考えられず、その点でより治世や生活上の利便性から低地の三の丸に屋敷が設けられるようになったのではないでしょうか。更にその後の榊原家に至ってはより利便性を追求し、三の丸の外、内堀西の一曲輪、現在の好古園のある位置に西御屋敷が設けられたということです。

    これより西の丸のすぐ下にある菱門から二の丸、西の丸、本丸へと向かっていきたいと思います。

  • 菱門、この門をくぐると二の丸になります。<br />三の丸は無料で入ることができますが、この菱門から先は有料となっています。<br />

    菱門、この門をくぐると二の丸になります。
    三の丸は無料で入ることができますが、この菱門から先は有料となっています。

  • 菱門を入って正面にあるのが「いの門」<br />この先を進み、「ろの門」を抜けると正面に石垣の丁字路、右に進むと本丸側、左が西の丸、化粧櫓方面へとなります。<br /><br />ここは、この「いの門」は通らず菱門のすぐ左に回り込み、まず、西の丸から巡ってみました。

    菱門を入って正面にあるのが「いの門」
    この先を進み、「ろの門」を抜けると正面に石垣の丁字路、右に進むと本丸側、左が西の丸、化粧櫓方面へとなります。

    ここは、この「いの門」は通らず菱門のすぐ左に回り込み、まず、西の丸から巡ってみました。

  • この緩やかな上り坂を進むと西の丸です。<br />この西の丸は、大阪城落城の後、本田忠刻に嫁いだ千姫がここで過ごしたことで有名です。<br />西の丸は本田忠政の時代に造営したもので、池田輝政の時代には曲輪としての体はまだなされていなかったようです。<br /><br />

    この緩やかな上り坂を進むと西の丸です。
    この西の丸は、大阪城落城の後、本田忠刻に嫁いだ千姫がここで過ごしたことで有名です。
    西の丸は本田忠政の時代に造営したもので、池田輝政の時代には曲輪としての体はまだなされていなかったようです。

  • 西の丸、「カの櫓」

    西の丸、「カの櫓」

  • 西の丸は、「カの櫓」、「ワの櫓」などの隅櫓をたくさんの鉄砲狭間を有する城壁で結ばれています。

    西の丸は、「カの櫓」、「ワの櫓」などの隅櫓をたくさんの鉄砲狭間を有する城壁で結ばれています。

  • また、堀に面した西の丸の西側はこのような多聞櫓が巡らされ、その全長121間(約240m)という長きに亘って連なることから、百間長屋と呼ばれています。<br />

    また、堀に面した西の丸の西側はこのような多聞櫓が巡らされ、その全長121間(約240m)という長きに亘って連なることから、百間長屋と呼ばれています。

  • 西の丸から望む天守、<br />多聞櫓に囲まれた西の丸の中は広い曲輪となっており、ここに御殿などが建っていたようです。

    西の丸から望む天守、
    多聞櫓に囲まれた西の丸の中は広い曲輪となっており、ここに御殿などが建っていたようです。

  • 西の丸南西の隅櫓、「ワの櫓」、この櫓は堀側から見上げると、高い石垣の上にそびえるとても美しい櫓です。

    西の丸南西の隅櫓、「ワの櫓」、この櫓は堀側から見上げると、高い石垣の上にそびえるとても美しい櫓です。

  • 「ワの櫓」、入口を入るとすぐに2階へ階段となっています。

    「ワの櫓」、入口を入るとすぐに2階へ階段となっています。

  • 階段を上るとワの櫓2階で、ここより奥へ連なる多聞櫓へとつながっていきます。<br />

    階段を上るとワの櫓2階で、ここより奥へ連なる多聞櫓へとつながっていきます。

  • 櫓々や多聞櫓の部屋など所々にこの姫路城の歴史などに関する展示があります。

    櫓々や多聞櫓の部屋など所々にこの姫路城の歴史などに関する展示があります。

  • 多聞櫓を進むとヲの櫓に到着、ここで櫓の土台となる石垣が一弾高くなっており、このはしごを上がって行きます。

    多聞櫓を進むとヲの櫓に到着、ここで櫓の土台となる石垣が一弾高くなっており、このはしごを上がって行きます。

  • はしごを上がるとまたまた多聞櫓が連なる長い廊下となっています。<br />

    はしごを上がるとまたまた多聞櫓が連なる長い廊下となっています。

  • 城の木組みや昔の大工道具などが展示されています。

    城の木組みや昔の大工道具などが展示されています。

  • 百件廊下と呼ばれる、西の丸長局です。<br />ここは本当に長い廊下が続いていました。

    百件廊下と呼ばれる、西の丸長局です。
    ここは本当に長い廊下が続いていました。

  • 途中の櫓の窓から天守が見えました。

    途中の櫓の窓から天守が見えました。

  • そして長屋の終点、化粧櫓、ここにはかるたを楽しむ千姫らしき人形が展示されてありました。

    そして長屋の終点、化粧櫓、ここにはかるたを楽しむ千姫らしき人形が展示されてありました。

  • 化粧櫓を出たところから見た多聞櫓です。

    化粧櫓を出たところから見た多聞櫓です。

  • 化粧櫓を出て石段をおり、西の丸から二の丸に戻っていきます。

    化粧櫓を出て石段をおり、西の丸から二の丸に戻っていきます。

  • 西の丸から少し下ると「ろの門」の先に出ます。<br />ここから緩やかな上りを進んで本丸方面へと向かいます。

    西の丸から少し下ると「ろの門」の先に出ます。
    ここから緩やかな上りを進んで本丸方面へと向かいます。

  • 坂を上りると「にの門」、

    坂を上りると「にの門」、

  • この「はの門」をくぐった先の乾曲輪が二の丸の一番奥となっており、この乾曲輪に本丸の石垣がそびえています。<br /><br />

    この「はの門」をくぐった先の乾曲輪が二の丸の一番奥となっており、この乾曲輪に本丸の石垣がそびえています。

  • 「はの門」をくぐった乾曲輪、すぐ右正面、「にの門」櫓の唐破風中央の鬼瓦、

    「はの門」をくぐった乾曲輪、すぐ右正面、「にの門」櫓の唐破風中央の鬼瓦、

  • この鬼瓦には十字架モチーフにした紋様が付けられています。<br />これはキリスト教に入信した官兵衛との関連が噂されているようです。<br />官兵衛は高山右近や宣教師ルイス・フロイスなどに感化され、キリスト教に入信したのは、三成を山崎で破った翌年、天正11年頃といわれ、それ以前に荒木村重などとの交流で右近とは天正4年頃から交流があったと思われ、有岡城から救出された天正7年ごろに既に入信していたとの説もあります。しかし、天正7年頃、官兵衛が姫路城を居城としていた頃は、未だ石垣も持たない中世の城、天守や石垣は秀吉に姫路城を譲った天正8年頃であり、この櫓を直接官兵衛が築いたというと、少し疑問が浮かびます。ただし、官兵衛が姫路城手の頃に築いていた櫓をその後に移築したとすれば何となくその話も通るようにも思われます。<br />何にしろ、こいったものは何となくロマンを感じさせますね。

    この鬼瓦には十字架モチーフにした紋様が付けられています。
    これはキリスト教に入信した官兵衛との関連が噂されているようです。
    官兵衛は高山右近や宣教師ルイス・フロイスなどに感化され、キリスト教に入信したのは、三成を山崎で破った翌年、天正11年頃といわれ、それ以前に荒木村重などとの交流で右近とは天正4年頃から交流があったと思われ、有岡城から救出された天正7年ごろに既に入信していたとの説もあります。しかし、天正7年頃、官兵衛が姫路城を居城としていた頃は、未だ石垣も持たない中世の城、天守や石垣は秀吉に姫路城を譲った天正8年頃であり、この櫓を直接官兵衛が築いたというと、少し疑問が浮かびます。ただし、官兵衛が姫路城手の頃に築いていた櫓をその後に移築したとすれば何となくその話も通るようにも思われます。
    何にしろ、こいったものは何となくロマンを感じさせますね。

  • 「はの門」前から望む天守、<br />この「はの門」への道は正面天守を望むことから、攻城側にすればここが天守へ向かう道筋と考えるのが普通です。確かにこの「はの門」をくぐり、その先の「にの門」を通れば本丸に至ることとなります。ただし、この先の西北の腰曲輪から天守の裏側に回り込んでおり、その先の「ほの門」を超えて北腰曲輪、更に「への門」を超えてトの曲輪に至り、その先の備前門から備前丸、そしてようやく西小天守下、天守群への入口である「水の四門」へと至ることができます。この天守北側の曲輪は幅が狭く、真上の天守から狙い打ちにされ、更に強硬な門を何重にも超えていかねばならず、防御としてとても堅い部分となっています。<br />その点、「いの門」の先、正面の「ろの門」に向かわず、右の三国池北側から「ぬの門」をくぐり、上山里丸から東曲輪上を北に進み、「トの曲輪」へ向かうほうがより、容易な攻めができそうです。<br />これは正に城の防御に対し、より困難な方向へ敵を誘う、そういった工夫となっているんじゃないでしょうか。

    イチオシ

    「はの門」前から望む天守、
    この「はの門」への道は正面天守を望むことから、攻城側にすればここが天守へ向かう道筋と考えるのが普通です。確かにこの「はの門」をくぐり、その先の「にの門」を通れば本丸に至ることとなります。ただし、この先の西北の腰曲輪から天守の裏側に回り込んでおり、その先の「ほの門」を超えて北腰曲輪、更に「への門」を超えてトの曲輪に至り、その先の備前門から備前丸、そしてようやく西小天守下、天守群への入口である「水の四門」へと至ることができます。この天守北側の曲輪は幅が狭く、真上の天守から狙い打ちにされ、更に強硬な門を何重にも超えていかねばならず、防御としてとても堅い部分となっています。
    その点、「いの門」の先、正面の「ろの門」に向かわず、右の三国池北側から「ぬの門」をくぐり、上山里丸から東曲輪上を北に進み、「トの曲輪」へ向かうほうがより、容易な攻めができそうです。
    これは正に城の防御に対し、より困難な方向へ敵を誘う、そういった工夫となっているんじゃないでしょうか。

  • 「はの門」の柱の礎石になんと石灯篭が使われていました。<br />この姫路城にはこの他に石棺や「姥が石」として有名な石臼など、様々なものが石垣造りに用いられています。<br /><br />今回、現在天守の改修工事の関係でこの先「にの門」から先は入ることができなくなっています。

    「はの門」の柱の礎石になんと石灯篭が使われていました。
    この姫路城にはこの他に石棺や「姥が石」として有名な石臼など、様々なものが石垣造りに用いられています。

    今回、現在天守の改修工事の関係でこの先「にの門」から先は入ることができなくなっています。

  • といことで、一旦「ろの門」まで戻り、三国池北の二の丸曲輪から上山里曲輪へ向かいます。<br /><br />写真右下には珍しい土塀の石落としがあります。

    といことで、一旦「ろの門」まで戻り、三国池北の二の丸曲輪から上山里曲輪へ向かいます。

    写真右下には珍しい土塀の石落としがあります。

  • 乾曲輪から備前丸へ連なる石垣群、

    乾曲輪から備前丸へ連なる石垣群、

  • 扇の勾配<br />「ぬの門」前、備前丸の石垣、打ち込みハギ石垣の隅角部積木積み石垣部、高い位置に向かうに従って勾配が急になっています。

    イチオシ

    扇の勾配
    「ぬの門」前、備前丸の石垣、打ち込みハギ石垣の隅角部積木積み石垣部、高い位置に向かうに従って勾配が急になっています。

  • 上山里曲輪への「ぬの門」<br />写真正面、門の横の石垣をよく見るとまるで人の顔のような不思議な模様が浮かび上がっているのがわかるでしょうか。<br />

    上山里曲輪への「ぬの門」
    写真正面、門の横の石垣をよく見るとまるで人の顔のような不思議な模様が浮かび上がっているのがわかるでしょうか。

  • 「ぬの門」をくぐって上山里曲輪に入ります。<br />

    「ぬの門」をくぐって上山里曲輪に入ります。

  • 上山里曲輪中央には、井戸があります。<br />江戸時代の怪談、番町皿屋敷でお馴染み、お菊の井戸です。

    上山里曲輪中央には、井戸があります。
    江戸時代の怪談、番町皿屋敷でお馴染み、お菊の井戸です。

  • 「リの一渡櫓」

    「リの一渡櫓」

  • 「リの一渡櫓」、ここでは黒田官兵衛展が行われていました。

    「リの一渡櫓」、ここでは黒田官兵衛展が行われていました。

  • 上山里曲輪から望む天守

    上山里曲輪から望む天守

  • イチオシ

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