1995/09/06 - 1995/09/16
259位(同エリア984件中)
がおちんさん
麗江から中甸に来ました。
青い空と緑の草原が広がり、チベット文化圏に来たことを感じさせてくれます。
まだ観光化が進む前だったので、ナパ海(納帕海)やビタ海(碧塔海)、ソンツェリン寺(松賛林寺)など、ほとんど金をかけずに回ることが出来ました。
ここで松茸と冬虫夏草酒を味わい、先へ進む予定でしたが、あるトラブルに巻き込まれてしまい、中甸―徳欽間を一往復するはめになってしまいした。
もうヘトヘト。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス ヒッチハイク 徒歩
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-
1995年9月8日
一昨日、麗江から中甸(2001年に香格里拉と改称)に到着した。標高が3280メートルあり、妻が高山病の症状を訴えて2日間ダウンするも復活。
今朝はトラックをヒッチハイクしてナパ海(納帕海)へ行く。 -
ナパ海は雨季には湖となるけど、この季節は一面草原で、所々が湿地帯になっていた。
沢山のヤクや羊が放牧されている。 -
水の中を進むヤク。
「ムフーッ」と鼻息を出して、気持ちよさそうだ。 -
ヤクを放牧するチベタン。
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ヤクが通過中。
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私もヤクとツーショット。
青空の下、広々とした草原を歩いて気分爽快。 -
ナパ海から、再びチベタンのトラックをヒッチして、ソンツェリン寺(松賛林寺)の前で下ろしてもらった。
おおー、ロケーション最高。 -
麦畑から見た、「小ポタラ宮」。
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寺の前で農作業をする人がいた。
頭に赤い糸を巻きつけて束ねている。
カム族だ。
中甸はもう、完全にチベット文化圏。 -
ソンツェリン寺(松賛林寺)は、17世紀にダライラマ5世によって建立されたそうだ。
拝観料2元を払って、青空に映える寺院の中へ。 -
ある高僧が、文革中に受けたひどい仕打ちについて話してくれた。
寺院や仏像は紅衛兵によって徹底的に破壊され、僧侶も殺されたという。この高僧も、後ろ手に縛られて拷問されたそうだ。
現在の寺院は僧侶たちの地道な作業によって修復され、「やっとここまできた」と高僧は語った。そして、「ダライはラマ教で一番の人だ」とも。院内に安置された仏像はきれいにこしらえてあり、その他の中国寺院で見かけるような安っぽい塑像ではなかった。
いくら政府が否定しようとも、彼らの心の中からダライラマを消し去ることはできないだろう。中国ではダライの写真を所有するだけで罪になるなんて、チベット仏教徒の人達が可哀想でならなかった。(でも、ちゃんと隠して持っている)
私たちが、「これからラサに向かうんです」と言うと、高僧は笑顔で「一路平安」と手を合わせてくれた。 -
窓辺に花が飾られていた。
たしかに、寺院の土壁は手作り感がにじみ出ている。 -
ゆっくりと寺院を見学したあと、宿に戻った。
-
中甸では永生飯店という、チベタンの宿に泊まった。
お湯のシャワーも浴びることができて快適。
ベランダに豹?の毛皮が干してあった。
獣臭いのだ。 -
中甸といえば、松茸が有名。
こんなに買っても48元(600円位)と安い。
さっそく調理してもらって食べた。
それから、冬虫夏草の入ったお酒はバツグンの効き目があり、疲れが吹っ飛んだ。同宿の人達と鍋を食いに行ったときにも飲んだのだが、皆も目が冴えて眠くならなかったという。 -
1995年9月9日
今日は中秋で、宿の主人が月餅をふるまってくれた。
永生飯店にはチベット文化に興味のある西洋人も多く泊まっていた。中甸から先は未開放だけど何とか先に行けないかとか、パーミットは取れないのかといった話題に花が咲いた。
私達が中国人のふりをしてラサを目指すと言うと、「いいなあ、俺たちは外見で絶対バレるから無理だよ」と笑いながらも、「成功を祈る」と励ましてくれた。 -
1995年9月10日
宿で一緒になった漢族のWさんから、徳欽(デチェン)へ行こうと誘われた。
彼は昆明で設計事務所を立ち上げた実業家で、中甸にホテルを建てることが決まったが、さらに徳欽にも建てるためにビジネス交渉に行くのだという。
渡りに船とばかり同行するが、これがとんでもないことになる。 -
Wさんと彼の秘書、私たち、それにWさんの父親の5人で早朝に中甸を出発。
車が郵便局の軽バンなので、不思議に思って聞いたら、「これならどこでも通行できるので便利なんだよ」と返答があった。
え、偽装なの? -
徳欽に向かう道はすべて未舗装。
板サスで車がポンポン跳ねるため、乗り心地は最悪。
体がガタガタになる。 -
ようやく徳欽エリアに入った。
金沙江の支流、岡曲河を渡る。 -
支流と金沙江が合流する地点。
絵の具が混じるように、清流が濁流に変化していく。 -
金沙江にて、決死の撮影(ばか)。
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奔子欄にある東竹林寺。
絶景だー。 -
峠にて。
中国製の軽バンに5人も乗っているので馬力不足。
エンジンを休めるために小休止をする。
「そのうちパジェロを買うさ」とWさんが言った。 -
車を下りると空気が薄い。
雲、低すぎ。 -
再び出発。
絶景が続く。
途中でチベタンの村人から珍しい果物を買った。
黄緑色でキウイをさっぱりさせたような味だが、眼に見えないほどの細かい棘に覆われていて、口や手がチクチクと痛み出した。
美味しいんだけど、車内に棘が舞うようで何かとチクチクするため、Wさんは「これがあると駄目だ」と窓から棄ててしまった。 -
Wさんがふと、「がおちんは運転免許を取って何年だ?」と聞くので、18の時に取ったから12年だよと答える。
するとWさんはフフフと笑い、「俺はまだ取ったばかりだ」と自信満々に答えた。
「えーっ」と、途端に不安になる私たち。そういえば、どうもぎこちないなとは感じていたのだ。
昆明からここまで運転してきたんだから大丈夫とは思うけど、ここは断崖絶壁の悪路である。ゆっくりと安全運転でお願いした。 -
崖の道を走る、郵便号。
当然、ガードレールなんて無いので落ちたらアウトだ。 -
そして事件は発生した。
ある崖のカーブのところに人が集まっており、顔から血を流したチベット族の男性が道の真ん中に立っていた。
結果から言うと、4人乗りのジープに12人が乗ってハンドル操作を誤り、崖から落ちたのだった。ところが私たちの車からは落下した車両が見えず、何があったのかわからなかった。
Wさんは運転席の窓を開け、「どうしたんだ」と男性に聞いたが、すごい形相で何も答えない。見物をしてた人の中には笑っている者もおり、気味が悪かった。そこで私たちはケンカが発生したのだと思い、そこを去ったのである。
しかし、この行動が問題となってしまった。 -
午後、徳欽に到着。
Wさんのビジネス相手を訪問後、梅里雪山が見える丘(飛来寺)へ。
残念ながら雲がかかっていたけど、4年前に遭難した日中登山隊に向かって手を合わせる。 -
徳欽に戻り、遅めの昼食をとるために食堂へ。
Wさんは食材や調理方法にあれこれと細かく指示を出していたが、出てきた料理が本当に美味しかったのでビックリ。さすが中国人だ。
白酒を飲みながらいくつもの料理を食べる。私たちが「美味しい、美味しい」と伝えると、Wさんは得意げな顔をして料理をつまみ、「相当好吃!」と何度も頷いた。
楽しく食事をして宿で休んでいると、公安が部屋に入ってきた。 -
例の転落事故の件で、Wさんは「怪我人を救助せずに逃げた」と疑われてしまったのである。私達の後ろを走っていたチベタンのトラック運転手が怪我人を救出し、緑色の車が逃げた旨を通報したのだという。2人が死亡し、重傷者が多く出たとのことだった。
私も別室で事情聴取をされ、見たことをありのままに伝えた。ただでさえ外国人であることを隠したいのに、公安に取調べを受けるなんて最悪のパターンだ。でもバレなかった。公安がチベット族だったからだろう。
取調べを終えてWさんの部屋に行くと、彼は興奮してまくし立てていた。どうやら明日も取り調べられるらしく、逃げないようにと免許証もとり上げられたそうだ。「あんなのくれてやる、昆明で再発行すればいいんだ」とWさんは白酒をあおっていた。 -
私もヘトヘトになり、風呂に入って早めに寝ようとしていたら、Wさんが真っ赤な顔で部屋にやってきた。「今すぐ中甸に帰ろう」と言う。そして車の運転を頼まれた。
彼が大きな石をいくつも助手席に積み込むのを見て、この人は怯えているのだと気づいた。きっと彼はチベット族から仕返しをされると思ったのだろう。徳欽からかなり遠ざかると、Wさんは安心してイビキをかき始めた。
とにかく崖から落ちないこと、パンクをさせないこと、ぬかるみにはまらないことに注意しながら、ひたすら中甸にむけて走った。ヘッドライトと妻のナビに助けられ、8時間かかって無事中甸に着いた。午前2時半だった。
※写真は行きのものですが、こんなとこを夜中に走りました。とても怖かった。 -
1995年9月11日
強引かつ違法で危険な、「徳欽日帰りドライブ」のために疲労困憊。
本日は昼まで眠り、洗濯をしたのみ。 -
1995年9月12日
昨日のことでウンザリして、再びすぐに徳欽に向かう気になれない。
またもやWさんから「碧塔海(ビタ海)に行かないか」と誘われる。
もうトラブルは御免だけど、今度は大丈夫だろうということで昼から出発した。 -
途中でチベット族から馬を借りる。
ところが一人ぶん馬が足りない。
Wさんは「俺は歩く」ということで話が決まった。 -
草原地帯を馬で行く。
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Wさんによる撮影。
Wさんは頑固な人で、私が途中で変わろうと言っても絶対に聞き入れようとしなかった。 -
馬を下りて、しばらく山道を歩く。
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妻とWさんの秘書。
翌朝、彼女は松茸(ソンロン)を見つけ、私達から「ソンロン小姐」と呼ばれることになった。 -
ついに碧塔海に到着。
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開発のされていない、神秘的な湖。
海抜は瀘沽湖よりもはるかに高く、3538メートルもあるという。
今夜は湖畔にあるチベタンのバンガローに泊まる。
中国では久々のランプの宿だ。 -
1995年9月13日
碧塔海の朝はとても爽やか。
お茶を飲んで、湖畔の散策へ出かける。 -
「ソンロン小姐」が見つけた松茸を持って。
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再び馬に乗り、中甸へ帰る。
結局、中甸には10日間滞在し、9月15日の朝、バスで徳欽に向かった。
さあ、いよいよチベットを目指すぞ!
アジア旅行記1995〜1997(その4)に続く
http://4travel.jp/travelogue/10867344
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この旅行記へのコメント (2)
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- shichoさん 2014/03/21 15:15:14
- 大作、読ませていただきました♪
- 掲示板ご来訪ありがとうございました。
がおちんさんの旅日記、夢中で読ませていただきました。
なつかしいですねぇ〜90年代。
情報がない中で、次の街にはどうやって行ったらよいものか、
ビザの残日数は、、、
などと考えてた頃を思い出しました。
浦江飯店、泊まれますよ!
ドミトリーはありませんが
スタッフにいい人が多いので、
上海行くときはだいたい浦江に泊まってます。
しかしいろいろ行かれましたね。
そして写真が上手いです!
路地の風景、町の人のスナップショット、
拝見していて、とにかく旅に出たくなりました。
- がおちんさん からの返信 2014/03/21 22:06:23
- RE: 大作、読ませていただきました♪
- shichoさん
古い旅行記を読んでくださり、ありがとうございます。
先ほど、『2回目の嘉陽小火車&沫江煤電』を一気読みしました。
いい旅をされていますね。
芭溝の宿は一昔前の中国の雰囲気がありますね。裸電球に木の机に熱水瓶。
これで石炭の臭いでもしたらグッと哀愁を感じてしまいそうです。
以前、私が昆明に留学していた頃、雲南にも鶏个線というミニSLが走っていて、鉄道マニアの方が日本からわざわざ乗りに来ていました。私も走っているのを見たことはありますが乗ったことはなく、いつか乗りたいと思ってはいたのですが、少数民族にハマッているうちにチャンスを逃し、気がついたら廃線になっていました。
もう昔のような長旅はできませんが、shichoさんのように狙いを定めて楽しみに行きたくなりました。
がおちん
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