2014/01/06 - 2014/01/06
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■鞆港を囲むように軒をつらねる古い町並みを歩く〜鞆の浦
▼桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったワケ HPより。
いろは丸事件が勃発した当時、各地の廻船(港から港へ貨物を運んで回る船)が立ち寄る鞆の浦は、潮待ちの港として栄えていました。
その時代、桝屋清右衛門は土佐藩、大洲藩、薩摩藩などの商船と取引がありました。長崎の豪商 小曾根家は龍馬のよき理解者であり、当主の末弟・小曾根英四郎は積荷の仕切り役としていろは丸に乗っていました。
小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたとも考えられています。
≪いろは丸事件とは?≫
1867年(慶応3年)4月19日、坂本龍馬ら海援隊は大洲藩から借用した「いろは丸」に乗り込み長崎を出発しました。貿易商社「亀山社中」として、長崎から大阪へ荷物を運ぶための航海でした。
その航海途上の4月23日深夜、現在の岡山県六島付近で「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突。「いろは丸」の乗員は「明光丸」に乗り移り、大きく損傷した「いろは丸」を曳航(船をロープで引っ張ること)し、一路港湾施設の整った鞆港を目指しましたが途中で沈没してしまいました。
鞆の浦に上陸してから4日間、龍馬たち海援隊は廻船問屋「桝屋清右衛門宅」へ、紀州藩は「圓福寺」に宿泊し、双方の宿泊先の中間地点の旅館「魚屋萬蔵宅」で談判を行いました。
当時すでに幕府から命を狙われていた龍馬は「才谷梅太郎(さいたにうめたろう)」という名前をつかい桝屋に投宿しました。
桝屋清右衛門宅には「いろは丸事件の際に坂本龍馬がここに泊った」という伝承がありましたが長年その場所は確認されていませんでした。
1989年、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、隠れ部屋が発見されました。部屋は当時のまま手つかずで残されていましたが、ほこりや傷みがひどく、また、天井裏へ通じる階段もないことから、一般に公開できる状態ではありませんでした。
2010年、広島県などの補助金を利用し整備を進め、同年11月に特別限定公開、翌2011年4月からはひろく一般公開することとなりました。
桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証。それは龍馬と紀州藩側の賠償交渉の経過が記された「備後鞆津応接筆記」に残っています。
▼鞆の浦の古い町並み 日本の旅より。
広島県福山市南部に残る古い町並み、鞆の浦。鞆は「とも」と読み、古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきました。
室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住。
さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所です。
重要伝統的建造物群保存地区には指定されていませんが、奇跡的に幕末〜昭和初期の街並みが、広範囲にわたって、そのまま残っています。
鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あり、このうち保存ずべきは450棟とか。
太田家住宅と太田家住宅朝宗(ちょうそう)邸は共に国重要文化財。ここは幕末に長州派の公卿だった三条実美ら7人の公卿が、京都で長州藩が薩摩藩・会津藩・徳川慶喜連合軍と戦って破れた、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」のときに滞在した住宅で、鞆の特産品である保命酒を竹の葉と表現して称えた歌を詠んでいます。
『世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯(か)くて 嘗(な)むるも 珍しの世や』
このような素晴らしいエリアですが、昔ながらの風景が残るからこそ、道が狭く、大型車両の進入が厳しいなどの不便さは著しいものです。
このため、広島県と福山市は道路交通が不便な状況にある鞆地区の改善を行うべく、道路整備の一環として交通渋滞港湾の一部を埋め立て、架橋する計画を発表。
実現すれば利便性が向上する一方で、江戸時代から変わらぬ港町としての風景は一変するだけに、住民の間では賛否が分かれています。
難しい問題ではありますが、鞆の浦に関して言えば、港町としての古い街並みが特徴である以上、歴史的な価値、観光資源としての価値が下がることは避けられません。
【手記】
万葉の時代から潮待ちの港として栄え、様々な歴史舞台をみつめてきた「鞆の浦」の町並みを散策しました。代休のこの日、てきぱきと所用を済ませて久しぶりに鞆の浦へ行って来ましたー。
自宅からはナビ表示で105km、一日フル休みだし、これくらいならたまには軽のDIVAくんで旅してこようかと思って往復してきたのですが、やっぱ軽は少し疲れますねー。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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■平成いろは丸
福山市営渡船乗り場にて 渡船の乗って仙酔島から帰ってきました。つづいて万葉の時代から潮待ちの港として栄え、様々な歴史舞台をみつめてきた「鞆の浦」の町並みを散策しました。 -
■常夜燈
まずは、現存する日本一の高さを誇る常夜燈(1869=安政6年築)へ。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
つづいて海岸通りを歩いて桝屋清右衛門宅へ。「いろは丸」事件の際、坂本龍馬が鞆の浦で滞在した家です。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
龍馬は紀州藩の暗殺を恐れて、ここの2階の隠し部屋に寝泊りしたそうです。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
≪桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったワケ≫
いろは丸事件が勃発した当時、各地の廻船(港から港へ貨物を運んで回る船)が立ち寄る鞆の浦は、潮待ちの港として栄えていました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
その時代、桝屋清右衛門は土佐藩、大洲藩、薩摩藩などの商船と取引がありました。長崎の豪商 小曾根家は龍馬のよき理解者であり、当主の末弟・小曾根英四郎は積荷の仕切り役としていろは丸に乗っていました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたとも考えられています。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
≪いろは丸事件とは?≫
1867年(慶応3年)4月19日、坂本龍馬ら海援隊は大洲藩から借用した「いろは丸」に乗り込み長崎を出発しました。貿易商社「亀山社中」として、長崎から大阪へ荷物を運ぶための航海でした。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
その航海途上の4月23日深夜、現在の岡山県六島付近で「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突。「いろは丸」の乗員は「明光丸」に乗り移り、大きく損傷した「いろは丸」を曳航(船をロープで引っ張ること)し、一路港湾施設の整った鞆港を目指しましたが途中で沈没してしまいました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
鞆の浦に上陸してから4日間、龍馬たち海援隊は廻船問屋「桝屋清右衛門宅」へ、紀州藩は「圓福寺」に宿泊し、双方の宿泊先の中間地点の旅館「魚屋萬蔵宅」で談判を行いました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
当時すでに幕府から命を狙われていた龍馬は「才谷梅太郎(さいたにうめたろう)」という名前をつかい桝屋に投宿しました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
桝屋清右衛門宅には「いろは丸事件の際に坂本龍馬がここに泊った」という伝承がありましたが長年その場所は確認されていませんでした。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
1989年、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、隠れ部屋が発見されました。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
部屋は当時のまま手つかずで残されていましたが、ほこりや傷みがひどく、また、天井裏へ通じる階段もないことから、一般に公開できる状態ではありませんでした。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
2010年、広島県などの補助金を利用し整備を進め、同年11月に特別限定公開、翌2011年4月からはひろく一般公開することとなりました。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まった証。それは龍馬と紀州藩側の賠償交渉の経過が記された「備後鞆津応接筆記」に残っています。
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■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
東側納戸から2階に通じる階段を上り、天井裏の隠し空間へ。『いろは丸事件』の際、坂本龍馬と海援隊士が宿泊したのがこの隠れ部屋です。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
階段正面 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
隠れ部屋からさらに奥の階段を進むと、そこには8畳ほどの畳敷きの部屋があります。これが、龍馬がいたと言われている部屋です。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
置いてある手紙は、京都寺田屋お登勢に宛てたもの・・とある。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
桝屋清右衛門宅作庭計画中・・・とある。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
明治初期の引札…江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシです。 -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
Gallery Shop MASUYA -
■桝屋清右衛門宅(坂本龍馬宿泊跡)
Gallery Shop MASUYA クラフトやアート雑貨、瀬戸内土産のセレクトショップ -
■御舟宿いろは
坂本龍馬の「いろは丸事件直談判跡」です。 -
■坂本龍馬の「いろは丸事件直談判跡」
その横丁で面白いものを発見! ○印 -
■坂本龍馬の「いろは丸事件直談判跡」
小小坊主・・・あなたの願いを聞いてくれる。 -
■坂本龍馬の「いろは丸事件直談判跡」
自分の指に差し込んで小小坊主の頭を指でさする。顔を見ながらお願いをする。 -
イチオシ
■坂本龍馬の「いろは丸事件直談判跡」
顔が上を向いててかわいい。ところで、小小坊主は「ここぼうず」と読むのかな。 -
■鞆の町並み
広島県福山市南部に残る古い町並み、鞆の浦。鞆は「とも」と読み、古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきました。
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■福山市重要文化財「鞆の津の商家」
室町時代には足利尊氏が後醍醐天皇に対しここで挙兵し、そして織田信長に追い出され、毛利家の庇護を受けた足利義昭が居住。
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■福山市重要文化財「鞆の津の商家」
さらに幕末には「いろは丸事件」発生に伴い、一時的に坂本龍馬達が立ち寄るなど、歴史的な人物とゆかりの大きい場所です。
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■鞆の津の商家前の有料駐車場にて
重要伝統的建造物群保存地区には指定されていませんが、奇跡的に幕末〜昭和初期の街並みが、広範囲にわたって、そのまま残っています。
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■森田商店
鞆街並み保存研修会の調べでは、江戸期の建物が80棟、明治期が91棟、大正・昭和期が301棟あり、このうち保存ずべきは450棟とか。
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■入江豊三郎醸造元
保命酒は有名。あとで一本買おう。 -
■旧・鞆信用金庫本店(現・しまなみ信用金庫鞆支店)
1938(昭和13)年築。 -
■入江保命酒本店
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■入江保命酒本店
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■平野屋資料館
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■松右衛門帆
帆布を使った商品のよう。 -
■太田家いろは丸館
太田家住宅と太田家住宅朝宗(ちょうそう)邸は共に国重要文化財です。 -
イチオシ
■太田家いろは丸館
ここは幕末に長州派の公卿だった三条実美ら7人の公卿が、京都で長州藩が薩摩藩・会津藩・徳川慶喜連合軍と戦って破れた、禁門の変によって西に追われた「七卿落ち」のときに滞在した住宅で、鞆の特産品である保命酒を竹の葉と表現して称えた歌を詠んでいます。
『世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯(か)くて 嘗(な)むるも 珍しの世や』 -
■昔懐かしい雑貨「けすくせ宇田」
「けすくせ」とはフランス語で「これは何ですか?」という意味らしい。 -
■茜屋 ステンドグラス
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■ハンコ屋さんだったかな?
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■民芸品とお好み焼き
ちょっとよんない・・おもしろい。 -
■志らが染 元禄
白髪染め・・はこう書いていたのか。 -
■阿弥陀寺
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■県道47号線
昔ながらの狭い路地 危ないが歴史を感じる。 -
■ミツボシ保命酒
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■(左)太田家住宅 (右)鞆交番
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■常夜燈
元に戻ってきました。太田家住宅の細い通りから出て港の突き当たりに位置します。 -
■大田家住宅
≪太田家住宅を守る会パンフレットより≫
太田家住宅は、平成3年(1991)5月31日に重要文化財指定を受けた、瀬戸内海を代表する建造物群です。建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、敷地の四方は道路で囲まれています。
-
■大田家住宅
敷地の南東部に建つ主屋は、東側の道路を隔てて、同じく重要文化財指定を受けた別邸「太田家住宅朝宗亭」と向かい合っています。 -
■大田家住宅
建物の建築年代は、文書や日記、棟札などから、主屋が18世紀中期、炊事場・南保命酒蔵が18世紀後期、北保命酒蔵が天明8年(1788)、西蔵が寛政元年(1789)、東保命酒蔵が寛政7年(1795)、釜屋・新蔵・北土蔵が19世紀前記頃と考えられています。 -
■大田家住宅
これら一連の建物は、江戸時代中期から後期にかけて、保命酒屋中村家によって、家屋敷を購入しながら拡張・増築されてほぼ現在の規模になり、明治期に太田家が受け継ぎ今日に至っています。 -
■大田家住宅
平成8年(1996)から平成13年(2001)まで、約6年の歳月をかけて保存修理事業が行われ、屋敷構えとしては最も充実した江戸時代末期から明治時代初期の姿に復旧整備されています。 -
■瀬戸内屋大船幸太郎
常夜燈から北方向へすこし歩くとオープンな感じのお店があります。 -
■瀬戸内屋大船幸太郎
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■瀬戸内屋大船幸太郎
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■澤村船具店
元禄年間創業、300年の歴史を持つ『澤村船具店』。 -
■澤村船具店
往時の趣きを色濃く残すこの老舗船具店です。 -
■汐待ち茶屋
鞆の浦地区にある古い民家をそのまま利用した和定食のお店です。 -
■町並み
よく歩きました。ダブルカーブミラーを撮ったところで退散しましょう。 -
■保命酒(岡本亀太郎本店)
米の旨味をたっぷりと取り込み、本味醂に16種類の薬味をじっくりと漬け込んだ薬味酒です。
これを飲んで元気になろう!ウッシ! それでは、また〜。つづく…
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ちゃみおさん 2014/01/10 23:11:37
- 見つかったんですね!
- Mecha Godzilla?.T&Nさん、こんばんは。
今日はちべたい一日でしたね〜(;´Д`)
私はすっかりコタツムリです(笑)
鞆の浦は以前歩いた事があるので、この建物はあの辺にあったな〜とか位置関係が何となく分かるので、拝見していて楽しかったです。
保命酒はもう飲まれましたか?
ところで、行方不明になっていた4トラのステッカーが見つかったんですね!
良かった良かった(*^-^*)
ちゃみお
- MechaGodzillaⅢ&703さん からの返信 2014/01/11 23:34:52
- RE: 見つかったんですね!
- ちゃみおさーん、こんばんはー!
> 今日はちべたい一日でしたね〜(;´Д`)
> 私はすっかりコタツムリです(笑)
寒いですねー。わたくしはニブイので全然平気なんですが、みなさんそう言ってますネ。あったかくしてお風邪を召されませんように。
> 鞆の浦は以前歩いた事があるので、この建物はあの辺にあったな〜とか位置関係が何となく分かるので、拝見していて楽しかったです。
久しぶりに行きました。今までどうも東方面へ行くときは福山を飛ばしがちだったんですよ。どうせなら岡山・兵庫辺りまでってことになってたんです。広島からでは距離が中途半端なんでしょうね。今の季節なんもなかったのですが、歴史ある街並みをゆっくりと歩いて回るなんていいもんです。
> 保命酒はもう飲まれましたか?
まだ栓を開けてません。前にも飲んだことがありますが、養命酒のようなものです。
> ところで、行方不明になっていた4トラのステッカーが見つかったんですね!
> 良かった良かった(*^-^*)
口笛♪を吹いたらカメラバッグの中から出てきました。入れた覚えはないのですが。ボケが始まってますネ^^
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