2013/10/12 - 2013/10/13
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MILFLORESさん
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ピラール聖母の祝日に当たった週末、サラゴサへ行ってきました。
10月12日の献花式の様子及びサラゴサの夜景は旅行記1と2でご覧頂けます。
http://4travel.jp/traveler/milflores/album/10829294/
http://4travel.jp/traveler/milflores/album/10832429/
2日目は観光に当てました。
なかなか見応えのあったサラゴサ美術館 ↓ を見学した後、
http://4travel.jp/traveler/milflores/album/10835362/
PALACIO DE LA ALJAFERIA アルハフェリア宮殿へ向かいました。
「アルファフェリア」ではありません。「アルハフェリア」です。
宮殿の説明をする前に、イベリア半島におけるイスラム教国について述べる必要があります。
ウマイヤ朝がイベリア半島を占領した711年から、カトリック両王によって最後のイスラム王国グラナダが陥落した1492年までの約8世紀の間、イスラム教国はイベリア半島にいましたが、イスラム王朝にも色々とありました。
西アジア・中東・北アフリカに広がっていたイスラム帝国「ウマイヤ朝(661-750年)」は711年にイベリア半島にも勢力を広げます。わずか数年で北部山脈地域を除くイベリア半島全土を制服し、「アル アンダルス」と呼ばれたウマイヤ朝の俗州が誕生します。
750年にウマイヤ朝はアッバース朝によって滅ぼされますが、ウマイヤ朝のアブド アッラフマーン1世(Abd al-Rahman I)はイベリア半島に逃れ「後ウマイヤ朝(756-1031年)」、またの名を「コルドバ カリフ帝国」を建国します。
11世紀に入ると後ウマイヤ朝は、内部の権力闘争及びアラゴン王国とカスティージャ王国の圧迫(レコンキスタ)により衰退し始め、ついに1031年に滅亡します。そして各地の豪族たちが独立し、多数の「タイファ」と呼ばれるムスリム小王国が誕生します。中でも大きなタイファは、セビージャ王国、サラゴサ王国、グラナダ王国、トレド王国などでした。
11世紀後半から12世紀前半にかけては「ムラービト朝」(北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系王朝)がイベリア半島ほぼ半分を占領します。この「ムラービト朝」も滅亡して、また、結束力の弱いイスラム小王国乱立状態に戻ります。
その間、722年にアストゥリアス地方コバドンガからペラーヨによってレコンキスタが始まり、北から徐々にキリスト教国がイベリア半島国土をイスラム教徒の手から取り戻していたのが、8世紀から15世紀のスペインの様子です。
イベリア半島で初期のイスラム帝国「後ウマイヤ朝」の代表的な建築物が、首都であったコルドバのメスキータ。
最後のイスラム王国「ナスル朝(1238-1492年)グラナダ王国」の代表的な建築物がアランブラ宮殿。(スペイン語では H を発音しないので ALHAMBRA はアランブラと読みます。)
そしてその間、「タイファ時代」の大きなイスラム建築として残っている唯一の例が、このアルハフェリア宮殿です。アルハフェリアに見られる漆喰の細かい幾何学模様や草花模様のテクニックは、その後の他イスラム王朝文化に深く影響し、グラナダのアランブラ宮殿やセビージャのアルカサルなどに反映されるようになるのです。
このように、イベリア半島のイスラム芸術のキーとなる建物であるアルハフェリア宮殿ですが、それのみでなく、「ムデハル建築」としてもとても重要な存在であります。
「ムデハル」とはアラブ語で在留者を意味します。レコンキスタされた地に残ったイスラム教徒の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスタイルがムデハル様式で、11〜16世紀のスペイン独特の建築様式です。
イスラム サラゴサ王国のレコンキスタは1118年に、 El Batallador(戦士)と呼ばれたアラゴン王アルフォンソ1世によって果たされますが、その後もアラゴン地方には多くのイスラム教徒が残りました。このムデハル達には建築業者が多く、彼らはキリスト教の建物にもイスラム風装飾を持ち込み、多くのムデハル様式の傑作をアラゴン地方に残しました。
アルハフェリア宮殿もその例です。この建物は【アラゴンのムデハル様式の建築物】の名で世界遺産登録されている10の建築物の内のひとつです。
単純にアランブラ宮殿のような豪華で優美なイスラム建築を期待すると肩すかしを喰いますが、アルハフェリア宮殿は上記のように、スペインにおけるイスラム建築とムデハル建築の歴史を知る上で大変重要な建物なのです。
表紙の写真:玉座の間の天井(15世紀 ムデハル様式)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 4.0
PR
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サラゴサ美術館の近くにあったバス停のルートマップが非常に分かりやすく、丁度良いことにアルハフェリア方面に行くバスがこの停留場に停まるので、バスを待つことにしました。
停留場にあったQRコードを夫が携帯で読み取って、「後○分で来る」って情報もすぐにゲット。
便利な時代になりましたよ。 バス運賃は1,35ユーロ。
Google Map を追って「そろそろかな」という直前でアルハフェリア宮殿に一番近いバス停を運転手さんに確認して、間違いなく降車。
楽々、サラゴサ バス体験でした。 -
PALACIO DE LA ALJAFERIA アルハフェリア宮殿
サラゴサ王国(タイファ)は1018年から1110年まで存在しました。
首都をサラゴサに定め、領土は現在のアリカンテやタラゴナまで広がっていました。
1018-1039年はトゥジービー朝、1039-1110年はフード朝が支配します。1110年にムラービト朝に征服されますが、1118年にはアラゴン王アルフォンソ1世によってキリスト教徒の手に戻ります。
アルハフェリア宮殿は11世紀後半のフード朝時代に、王の住居として建てられました。
当時はアラブ語で《Qasr al-Surur(喜びの城)》と呼ばれていました。アルハフェリア宮殿 城・宮殿
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レコンキスタ後は、アラゴン王の住居としてムデハル様式の増築が重ねられます。
16世紀、フェリペ2世の時代以降、城は徐々に砦らしい形を取り始めます。
18-19世紀には兵舎として利用するために大々的な改築が行なわれます。
外壁にはイスラム時代の城壁も残っています。
(夫撮影) -
通常、入場料5ユーロ。 この日は日曜日で入場無料でした。
現在はアラゴン州議会が入っているので、議会の開かれる木曜日と金曜日は見学制限があります。詳しい見学時間は議会HPで確認できます。
http://www.cortesaragon.es/La-Aljaferia.47.0.html?&no_cache=1 -
堀に架かる石橋を渡って、さほど大きくない門から城内に入った所にあるパティオ デ サン マルティン Patio de San Martin 。
写真右側はサン マルティン礼拝堂 Capilla de San Martin 。
15世紀初旬、中世アラゴン王国時代に建設されたゴシック=ムデハル様式です。 -
サン マルティン礼拝堂の門の彫刻。 (1399 - 1410)
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イチオシ
石膏細工が細かく繊細な窓。
この壁の向こう側にはタイファ時代のイスラム宮殿があります。 -
パティオ デ サン マルティン
右側の壁にある小さな門から入ってきました。
(夫撮影) -
イスラム宮殿部分に出ました。
これは後に、パティオ デ サンタ イサベル Patio de Santa Isabel と命名された中庭。
(夫撮影) -
アーチの装飾が見事です。
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ウマイヤ朝の影響を受け継いだイスラム宮殿建築。11世紀中旬に建てられました。
(夫撮影) -
うっとりする、レースのような模様。
修復された部分とオリジナル部分の違いが分かります。
残っている部分だけでこれだけ綺麗なのですから、元々はどんな美しさだったことでしょう。
アルハフェリア宮殿のこういった装飾が、後にセビージャのアルカサルやグラナダのアランブラにも反映されるようになります。 -
八角形のこのスペースはカリフ(イスラム王)の礼拝堂でした。
奥に見えるアーチの向こうの窪みが、メッカの方向を指す mihrab (ミーラブ)です。 -
ここも大分破損してしまった部分がありますが、それでも細かい模様が見られます。
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イチオシ
ホォ・・・ と、思わず溜息をついてしまった
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イスラム宮殿が柱の上の方や天井を綺麗に装飾したのは、床に直に座ったイスラムの習慣に理由があるそうです。絨毯を敷いて床に座り、クッションに寄りかかった恰好だと、視線がどうしても上の方へ行きます。それで上の方の装飾が細かく美しいのです。
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見事な草花模様
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幾何学のレベルが非常に高かったイスラム文化。
単純な模様の繰り返しが、全体的に複雑に見える美しい模様を作り出します。 -
キリスト教の統治下に住み残ったイスラム教徒によってもたらされた、スペイン独特のムデハル様式。
これは、14世紀のアラゴン王宮となってからの装飾。 -
レコンキスタ後、アラゴン王によって増築された中世の宮殿部分に移ります。
ここは Torre del Trovador(トロバドール塔)へのアクセスとなっているサロン。
アラゴン王 Pedro IV ペドロ4世(1319-1387)の時代の建設。古い井戸も残っています。 -
alfarje と呼ばれる木組みのムデハル様式の天井には、紋章と見られる絵がたくさん残っています。
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中世宮殿部分の上階。ここの天井もオリジナルのようです。(14世紀)
会議室みたいに家具が置かれているところを見ると、現在はアラゴン議会が利用しているのだろうと想像します。 -
シンプルな奥の部屋の天井には、イスラム時代の装飾が残っていました。
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イチオシ
1492年以降、イベリア半島最後のイスラム王国グラナダのレコンキスタを終えたイサベル1世カスティージャ女王とフェルナンド2世アラゴン王のカトリック両王の権力を象徴するために、アルハフェリア宮殿に大々的な増築がされます。
ムデハル装飾とルネッサンス建築が融合した「カトリック両王様式」というスタイルが生まれます。
ムデハル様式の天井が素晴らしい部屋がいくつか続きます。
よく見ると、矢の束とくびきが見えますが、
矢はスペイン語で flecha
「F」で始まるのでフェルナンドを、
くびきはスペイン語で yugo
「Y」で始まるのでイサベルを象徴します。(当時は Ysabel と書きました) -
yugo(くびき)の上に「TANTO MONTA」という言葉が見られます。
「Tanto monta cortar como desatar(切るのも解くのも同じ)」の略です。
これは、アレキサンダー大王にまつわる伝説「ゴルディアスの結び目」に因んだフレーズで、「難解な問題は、既成概念にとらわれずに新しい視点で解決せよ」という意味を持ちます。
「ゴルディアスの結び目」 (ギリシア神話)
フリギア王ゴルディアスが,神に捧げるために支柱に牛車を結びつけた。その結び目は大変複雑で、結び目を解ける者がいなかった。ある日、若きアレキサンダーもその結び目解きに挑戦した。ゴルディアスは「この結び目を解いた者がアジアを征する」と宣言した。アレキサンダーは結び目を解く代わりに剣で一刀両断した。
牛のくびきに結ばれた縄が断ち切られた図と共に、「TANTO MONTA」と書いて、フェルナンド2世は自分のモットーとしました。
それに合わせて、くびき yugo でイサベルを象徴し、「TANTO MONTA(同じ)」の意味から、イサベルとフェルナンドはそれぞれ相手の地(カスティージャとアラゴン)で「ふたりは平等」に統治する、という風にも取ることができました。 -
天井が一番豪華だった王座の間(15世紀) Salon del Trono
アラゴン王国の宮殿行事が行なわれた間です。 -
イチオシ
木製の装飾に配色、そしてふんだんに金箔を貼付けています。
松ぼっくりが付いていますが、ムデハル様式によくある装飾モチーフです。
(夫撮影) -
周囲に書かれたラテン語表記から、イスラム建築のようでそうでないことが分かります。
(夫撮影) -
イサベルとフェルナンドがいる様子を想像してみた・・・
この場所、旅行記「イサベル1世の足跡を追って」シリーズの立派な題材になります。
が、ここはイサベルの夫だったフェルナンドの王国だったアラゴンの地。
カスティージャとアラゴンは連合王国という形をとりました。 -
王座の間へ入る前の控室だった小間が3つ並んでいます。
それぞれ又、天井が素晴らしい。 -
ここにも flechas 矢と yugo くびき、フェルナンドとイサベルのシンボルが見られます。
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控え室2の天井
(夫撮影) -
イチオシ
控え室3の天井 ここにも「TANTO MONTA」
中央の紋章には、イサベルのカスティージャ王国の紋章と(カスティージャ=城とレオン=ライオン)、フェルナンドのアラゴン王国の紋章(アラゴン=赤黄の縞模様と両シチリア=ワシ2羽)が見られます。
ドラゴンが紋章の上にありますが、これは14世紀のペドロ4世アラゴン王の創作で、「D´Aragon」(アラゴンの)→「ドラゴン」から来ているそうです。
(夫撮影) -
小間を抜けると回廊に出ました。
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このドアの向こう側が王座の間です。
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ライオン2頭に支えられた紋章をよく見ると、上記説明したカスティージャ王国の紋章とアラゴン王国の紋章の他に、ベース部分にザクロが加わります。
これは、イサベルとフェルナンドによってレコンキスタされたばかりのグラナダ王国を象徴しています。スペイン語で「Granada グラナダ」はザクロを意味します。 -
カトリック両王時代の宮殿に上がる優雅な階段。
ムデハル様式の装飾とルネッサンス建築が融合した「カトリック両王様式」が一番良く現れている部分です。 -
ここも天井が綺麗です。 首が痛くなるまで見てました。
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優雅な窓が並びます。 向こう側はイスラム宮殿部分の中庭です。
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ここにもフェルナンドを象徴する flechas (矢)と、モットーだった「ゴルディアスの結び目」兼イサベルを象徴する yugo(くびき)が見られます。
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イスラムとムデハルの装飾が両方見られるアルハフェリア宮殿は、サラゴサ観光の必須スポットと言えるでしょう。
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アルハフェリア見学後、旧市街までは徒歩で戻ることにしました。
昼食の時間なので、途中、めぼしいレストランでテーブルに空きがあるか聞いたのですが、どこも予約でいっぱい。
レストランのバール部分で軽くつまむことにしました。
Ambar はアラゴン地方のビールです。 -
イカリングや他カウンターに並んでいるものを適当に注文してランチ代わりにしました。
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Palacio de Condes de Morata モラタ伯爵宮
16世紀中旬のルネッサンス様式の建物です。現在はアラゴン州最高裁が入っています。 -
アルフォンソ1世通りをピラール広場へと向かいます。
ピラール祭最終日で、まだまだ人通りが多い。アルフォンソ1世通り 散歩・街歩き
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土産物屋を買うつもりもないのに冷やかすのが好き♪
アラゴン名物の菓子が並びます。
ピラール聖母の絵のカラフルな包みのは普通のフルーツ味色々の飴なんですが、半端じゃない大きさで adoquines (アドキネス=石畳ブロック)と呼ばれています。本当にレンガくらいの大きさのも売っています。
中央左に写っているのは小石のような飴。その名も piedras(石)
そして、右下のは frutas de aragon
フルーツを甘く煮て乾かしたものをチョコレートコーティングしたもの。 -
素朴で可愛い〜♪ アラゴン民族衣装を着た人形。
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あらま、ベレン(キリスト生誕場面の置物)までマニョ・マニャ姿!
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洒落た街灯に今年のピラール祭のポスター。
ライオンはサラゴサ市のシンボルです。 -
街灯の脚にもライオンが。
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ピラール広場、ピラール大聖堂前の献花台を見納めに来ました。
やはり、ここが一番人が多い。ピラール広場 広場・公園
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すっごくたくさんの花!
(夫撮影) -
イチオシ
(夫撮影)
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Iglesia de San Juan de los Panetes
16−17世紀の教会 塔はムデハル=ルネッサンス様式
スペイン独立戦争(ナポレオン戦争)のサラゴサ包囲(1808年)の際に、フランス兵士見張り役がこの塔に隠れていたそうです。教会の地下も武器庫として利用されました。 -
教会前に残っているローマ時代の遺跡
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古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの銅像
19時に始まるクリスタルのロザリオの祈りの行列を見たかったのですが、翌日は夫も私も仕事だし、マドリードへの帰路3時間のドライブが残っているので、これでサラゴサを去ることにしました。 -
タクシーを拾ってホテルに帰る途中見たカルメン門 Puerta del Carmen
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