2013/11/10 - 2013/11/10
345位(同エリア1019件中)
風 魔さん
天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都本能寺の変にて討ち死にした織田信長公の首を、囲碁の名人といわれた本因坊日海の指示により、原志摩守宗安が父・胤重と兄・孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し、ここ富士山を望む西山・本門寺に納め首塚を建立し、大柊の木を植えて祀ったものです。
本日は、当寺で毎年・11月初旬に開催される「信長公・黄葉(こうよう)まつり」を見物のため、富士川の中流を北に上がり芝川町を通過して行きました。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
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西山・本門寺正面の「信長公黄葉まつり」看板。 -
西山・本門寺の寺の由来説明。
1344年(康永3年)日代上人の開山した寺で、富士五山のひとつに数えられる。さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられます。
日蓮の高弟6人(六老僧)のうちの日興の弟子に、本六(日目、日華、日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日代、日澄、日道、日妙、日毫(郷)、日助)とよばれる弟子がいましたが、日代は新六のひとりです。 -
西山・本門寺は、駿東郡〜富士地区にある、日蓮宗の本門寺派の5つの大きな寺の一角を占めています。
当寺は、静岡県の東部である駿東地方(駿河の東側)に所在する上条大石寺、重須本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成します。 -
朝廷より許された下馬札の址。 -
正面の黒門。 -
まだ、お祭り開始前のため人出はありません。 -
参道にはフリーマーケットの店。 -
中には、東北支援のフリーマーケットの出店もありました。 -
トンボ玉のアクセサリー品。 -
秋を感じる柿の実。 -
日本の秋の原風景。 -
参道の灯篭に歴史を感じる。
当寺は、富士宮市・芝川町西山地区の山中に全体で360町歩の広さがあり、黒門から本堂裏手の墓地まで直線の参道・2kmの広大な敷地があります。 -
石段は一段が高さ40cmほどあり、上るのに苦労する。 -
これも修行の一環と思い、本堂まで約2kmをひたすら歩く。 -
本堂に通じる参道には、多くの出店が並んでいました。 -
お祭り会場案内のパンフレットには、信長公の城下町の経済活性化策である「楽市楽座」にちなみ、「楽市楽食」と書いてありました。
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かって食の「B級グルメのグランプリ全国大会」で優勝した、地元名物・「富士宮やきそば」の店。
富士宮やきそばは、通常のやきそばとは製法や調理法、使う食品が異なります。
特徴は、次の3点です。
① 富士宮やきそば専用の硬めの麺を使用する
② 豚の油かす(富士宮では「肉かす」と呼ぶ)を使用する
③ 仕上げに削り粉をふりかける -
< 富士宮やきそばの調理方法 >
熱い鉄板の上で具を炒めた後に硬めの蒸し麺を入れ、すぐ少量の水を注ぎ炒める。水分がなくなったところでやきそばソースを入れてかきまぜる。
具やトッピングは、豚肉かす(油かす)キャベツ などであり、完成後にサバやイワシの削り粉を振り掛けて食べるのが一般的です。さらに店や家庭によっては、イカ、桜エビを入れるものあります。(桜エビは、富士宮市に程近い駿河湾の名産です)
地元では、「富士宮やきそば学会」がやきそばの普及活動、地元活性化などに取り組んでいます。また県内スーパーの店頭には、袋入りのインスタント生麺の富士宮やきそばがあります。 -
妙圓坊。 -
山門の入り口。 -
祭り舞台では、祭り奉納の踊り。 -
富士宮市の西山地区は、人里はなれた山の中にあるのにもかかわらず、このような大伽藍と
境内の広大さに仏教の大きさを感じる。 -
日蓮宗の総本山・身延山「久遠寺」へは、ここから身延道(国道52号線)を北上して小一時間ほどで到達します。 -
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お祭りのため待機する戦国武者。 -
織田家の家紋は、五つ木瓜(織田木瓜:おだもっこう)と呼ばれています。
キュウリを輪切りにしたかたちですが、家紋の文様が卵の入った鳥の巣の様子にも似ていることから、子孫繁栄を意味する家紋として使用されました。
家紋の世界においては、木瓜紋は藤紋、片喰紋、鷹の羽紋、桐紋とともに五大紋のひとつとされます。
戦国時代には、戦場で家紋入りの矢盾が用いられました。 -
当寺で有名な樹高 30m以上ある大イチョウの木。 -
境内の中心には、2本の大イチョウの木がありました。
緑と黄色のコントラストが映える。 -
「日本の秋」を感じる黄葉。 -
大イチョウを中心に、境内の建造物が配置されています。 -
樹木の幹の太さ、見上げる黄葉の広がりは、まさに大イチョウです! -
地元高校の筝曲部による琴の演奏。 -
庫裏では、囲碁のアマチュア・本因坊杯戦が開催されていました。
当寺の歴史上に登場する、本因坊日海(信長公の囲碁相手=指南役)にちなみ囲碁の本因坊
大会が開催されます。 -
信長公首塚の案内板。 -
庫裏の横の小路を通る。 -
お祭りの幟旗。 -
信長公首塚と大柊(ヒイラギ)の由来説明文。
奇しくも、静岡市清水区にも日蓮宗・「本能寺」(信長公終焉の寺)があります。 -
奥には、池と築山が静かに佇んでいました。
支え木と石像のように見えるものが、大柊の木です。 -
大柊の由来と解説。 -
大柊は推定樹齢およそ500年であり、かって樹高・17mあった幹の一部は枯れたが、支え木により保全措置が施されていました。
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石柱に表示の「信長公首塚」。
当初は、織田信長公 ⇒ 京都 ⇒ 富士宮の関連性について疑問に思っていましたが、その歴史上の解説によりナゾが解けました。 -
首塚は、この祠に祀られています。
当時の戦国時代には、戦場で討ち取った敵将の首を「戦勝の印」として持ち帰りましたが、それを防ぐため「本能寺の変」の直後に、本因坊日海は遠く離れた富士山の麓にある、西山・本門寺に首塚を祀ったものです。 -
鎌倉〜戦国時代風な屋根のつくりです。
当時、信長公は「本能寺の変」の3ヵ月前の天正10年(1582年) 2〜3月に、甲斐の武田勢を
攻略するため富士宮〜朝霧高原方面まで遠征し、随行する家康公に富士宮浅間大社近くで歓待を受けていました。
甲州征伐とは、信長公が長篠の戦い以降勢力の衰えた武田勝頼公の領地である駿河・信濃・甲斐・上野方面へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦です。
信長公は、その時はじめて富士山を眺め、行軍の際には西山本門寺の近くを通過したと推察されます。 -
西山地区は、戦国時代には武田信玄公の領地でしたが、その後駿河の国を治めた徳川家康公の所領となりました。
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戦国武士の行列。 -
戦国武士たちが、祭りの屋台を眺める。 -
戦国武将は、なかなか貫禄があります。 -
お寺の景色によく似合う南天の赤い実。
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