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JR日豊線佐土原駅からタクシーで約5分、宝塔山の山麓に建つ仏日山・大光寺(だいこうじ、宮崎県宮崎市佐土原町上田島)は臨済宗妙心寺派の寺院で、鎌倉御家人である工藤氏(後に伊東氏に改姓)の庶流が代官として日向に下向しやがて在地領主となった田島伊東氏ゆかりの寺院です。<br /><br />建武2年(1335)田島伊東氏4代伊東祐聡(いとう・すけとし)の開基で一族の氏寺として創建され、後に地頭として都於郡院(とのこおりいん)に下向してくる本家伊東氏との競合を経て姻戚関係を有するまで独自の勢力を維持していたようです。<br /><br />本家伊東氏とは鎌倉幕府御家人であった工藤氏のことで、工藤祐経(くどう・すけつね、生誕不詳~1193)が源頼朝より建久元年(1190)日向地頭職の任を受けるも、自らは鎌倉に出仕する立場のため現地支配は専ら一族の庶流を代官に任命しその支配と管理を委ねます。<br /><br />祐経の死後その子祐時(すけとき、1185~1252)が源頼朝を烏帽子親として元服、やがて伊東姓を名乗り、祐時は源氏三代に亘る将軍やその後の公家将軍にも側近として勤める一方引き続き日向国に於ける地頭職の安堵を受け更なる影響を強めます。<br /><br />祐時は建長4年(1252)死去するとその子供たちは各地の荘園を相伝し、その中で第四子伊東祐明(いとう・すけあきら)は日向国田嶋荘に地頭として下向し田嶋伊東氏を名乗るこになります。<br /><br />祐明が田嶋荘へ下向した時期の日向国にはすでに三田井氏、日下部氏、土持氏及び島津氏が地頭や在地豪族として勢力を伸ばしていました。<br /><br />日下部氏は都万(つま)神社の神官として当神社の神威を背景に国府である現西都市を中心に宮崎平野の中心部に進出、土持氏は反正天皇を遠祖とし豊前国の宇佐郡に宇佐宮が創建された際、勅使として派遣されその建立に功あって日向国吾田(あがた)荘(現延岡市)に下向、その子孫らは次第に南下して勢力を拡げます。<br /><br />勢力を拡げる土持氏に対し既に宮崎平野の中原部にて確固たる支配を有し国司職に補任されていた日下部氏には実子なく、かねてより地縁関係にあった土持氏から男子を受け入れ国司職と共に自領の荘園経営を土持氏に委ねます。<br /><br />島津氏は島津忠久(しまづ・ただひさ、生誕不詳~1227)が文治元年(1185)に島津荘(現都城市)の地頭職に任ぜられたことに始まります。<br />南九州は平家政権下では平家の影響が最も強い地域の一つという事情があり源頼朝は幕府の影響力を強めるため彼の信任の厚い御家人でなおかつ荘園経営に明るい島津氏を任命します。<br /><br />建久8年(1197)に島津氏は薩摩・大隅の守護職、その後日向国、薩摩国、大隅国の三国の守護職となります。建仁3年(1203)には幕府重臣比企能員(ひき・よしかず、生誕不詳~1203)の乱に連座して三国守護職解任となりますが、建保元年(1213)に薩摩の地頭職に復帰して南九州に勢力を拡げます。<br /><br />一方日向国に地頭として着任した伊東祐明(いとう・すけあきら)は上述の勢力の中で着実にその影響力を高めます。つまり父親の祐時や本家を継承した実弟の祐光(すけみつ)が将軍の側近として活躍する幕府の有力御家人であったこと、祐明の母親が日向国に多数の荘園を有している宇佐神宮の神官である大神氏(おおがし)の系統にある佐伯氏の娘であったことが有利な展開の背景にあったと見られます。<br /><br />次第に勢力を拡大する田嶋伊東氏に対し、先に宮崎平野中原地区で支配していた土持氏はその祖先が宇佐神宮と深い関わりがあり佐伯氏とも血縁関係があったこともあり敵対意識はなくむしろ好意をもって受け入れられたようです。<br /><br />時が過ぎ建武の親政に抗した足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1340)を吉野に追放し光明法王(こうみょうほうおう、1322~1380)を擁して北朝を成立させ、自らは京都室町に幕府を開き歴応元年(1338)征夷大将軍に就任します。<br /><br />伊東氏本家の伊東祐持(いとう・すけもち)は一時北条時行の反乱では時行に味方して清見関(静岡県)の戦いで尊氏に降伏し、以降は尊氏派として戦功を挙げ、祐持は建武2年(1335)に都於郡院(とのこおりいん・現西都市)の領地を賜り、同時に自ら日向国に下向することになります。<br /><br />祐持が都於郡に下向した現地は先に現地化した田嶋伊東氏、門河伊東氏、木脇伊東氏などの伊東氏庶流はそれぞれの在地領主として支配権を確立、伊東氏本家とは疎遠となっており特に木脇伊東氏は南朝方の旗頭で動乱の兆しが見え隠れの状況でした。<br /><br />南北朝対立が日向国においても顕在化し、北朝方の伊東祐持は下向時から協力関係にあった土持氏を誘い同族の木脇伊東氏を討伐することになります。<br /><br />この南北朝戦乱の影響を受けた当地域で田嶋氏の去就が不明ですが、田嶋氏の支族の一部が南朝方に属したところから北朝方に攻め込まれる事態が起こり、この場面で田嶋氏の動きは曖昧な振る舞いしかできなかったと推察されます。<br /><br />然しながら自領内を荒らされた事で危機感を抱いた田嶋氏は今後の自国を守る術を考えざるを得なくなり、即ち一族の結束と中央権力の庇護を得る事に傾注することになります。具体的には軍事拠点となる館の築城、更には中央の古刹に繋がる寺院の建立となります。<br /><br />まず軍事力強化を図る為田嶋氏は急遽築城することになり、その場所は定かではありませんが佐土原田中地区の東南の山上に造られた五郭で構成される山城でありました。<br /><br />続く方策として大光寺が東福寺派の寺院として建立されます。大光寺が東福寺派となったのは、大光寺の開山である獄翁長甫の師、乾峰士曇が東福寺の開山円爾の孫弟子であった故で、乾峰士曇は建武4年(1337)に東福寺住職、文和元年(1352)には北鎌倉円覚寺の住職となった師です。また東福寺は嘉禎2年(1236)円璽を開山とし九条道家が創建した臨済宗の寺院で、京都五山の一寺とされた名刹でもあります。<br /><br />このように田嶋氏が檀家となって京都の古刹に繋がる大光寺を創建したことにより、伊東氏本家や土持氏などへの抑制力は有効に機能したばかりではなく大光寺への信仰により一族を結集させる結果となります。<br /><br />応永3年(1396)日向国に侵攻の島津氏は領土を拡大してきた伊東氏と直接対決し清武城(宮崎市南部)を巡っての攻防となりますが永年に亘る膠着により厭戦気分が出て結果豊後国大友氏の仲介により和議が結ばれその後約10年間の平和となりその間両氏とも自国の諸問題を対処することになります。<br /><br />宮崎平野の覇権をかけた島津氏と伊東氏との戦闘激化の中で田嶋氏は双方の勢力に飲み込まれまいとし、新しい城の築城に迫られ、上述の平和の時期に築城することになります。<br /><br />新しい城は本領の田島と支族の堤氏が大光寺に寄進していた那珂を分ける丘陵、鶴松山南端の尾根に当主田嶋休祐(たじま・きゅうすけ)によって造られ田嶋之城と称し、これが後の佐土原城の前身となります。<br /><br />田嶋之城を築いた休祐には家督を継ぐべき男子はなく一人の娘だけであり、このため休祐は伊東氏本家から当主の祐立(すけたつ)の三男祐賀(すけよし)を娘婿に迎える約束をしたがその後急死、やがて約束通り祐賀は養子として田嶋氏に入りますが、意外にも新しく当主となった実兄祐尭(すけあき)の佐土原氏を名乗り田嶋氏は滅亡、これにより都於郡城を本拠とする伊東氏にとって従前から押さえられていた北への出口が確保されることになります。<br /><br />これにより伊東氏は都於郡城と合わせて佐土原城を本城とし、先に日向進出、土着化した伊東氏庶流である門河伊東氏、木脇伊東氏の併合と共に田嶋庶流の滅亡を機に日向国での統一に向けてその弾みをつける時期に入ろうとします。<br />

日向佐土原 日向国都於郡院へ下向の鎌倉御家人嫡流伊東氏(工藤氏の前身)に併合された庶流田嶋伊東氏の氏寺として創建された『大光寺』散歩

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2013/10/14 - 2013/10/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR日豊線佐土原駅からタクシーで約5分、宝塔山の山麓に建つ仏日山・大光寺(だいこうじ、宮崎県宮崎市佐土原町上田島)は臨済宗妙心寺派の寺院で、鎌倉御家人である工藤氏(後に伊東氏に改姓)の庶流が代官として日向に下向しやがて在地領主となった田島伊東氏ゆかりの寺院です。

建武2年(1335)田島伊東氏4代伊東祐聡(いとう・すけとし)の開基で一族の氏寺として創建され、後に地頭として都於郡院(とのこおりいん)に下向してくる本家伊東氏との競合を経て姻戚関係を有するまで独自の勢力を維持していたようです。

本家伊東氏とは鎌倉幕府御家人であった工藤氏のことで、工藤祐経(くどう・すけつね、生誕不詳~1193)が源頼朝より建久元年(1190)日向地頭職の任を受けるも、自らは鎌倉に出仕する立場のため現地支配は専ら一族の庶流を代官に任命しその支配と管理を委ねます。

祐経の死後その子祐時(すけとき、1185~1252)が源頼朝を烏帽子親として元服、やがて伊東姓を名乗り、祐時は源氏三代に亘る将軍やその後の公家将軍にも側近として勤める一方引き続き日向国に於ける地頭職の安堵を受け更なる影響を強めます。

祐時は建長4年(1252)死去するとその子供たちは各地の荘園を相伝し、その中で第四子伊東祐明(いとう・すけあきら)は日向国田嶋荘に地頭として下向し田嶋伊東氏を名乗るこになります。

祐明が田嶋荘へ下向した時期の日向国にはすでに三田井氏、日下部氏、土持氏及び島津氏が地頭や在地豪族として勢力を伸ばしていました。

日下部氏は都万(つま)神社の神官として当神社の神威を背景に国府である現西都市を中心に宮崎平野の中心部に進出、土持氏は反正天皇を遠祖とし豊前国の宇佐郡に宇佐宮が創建された際、勅使として派遣されその建立に功あって日向国吾田(あがた)荘(現延岡市)に下向、その子孫らは次第に南下して勢力を拡げます。

勢力を拡げる土持氏に対し既に宮崎平野の中原部にて確固たる支配を有し国司職に補任されていた日下部氏には実子なく、かねてより地縁関係にあった土持氏から男子を受け入れ国司職と共に自領の荘園経営を土持氏に委ねます。

島津氏は島津忠久(しまづ・ただひさ、生誕不詳~1227)が文治元年(1185)に島津荘(現都城市)の地頭職に任ぜられたことに始まります。
南九州は平家政権下では平家の影響が最も強い地域の一つという事情があり源頼朝は幕府の影響力を強めるため彼の信任の厚い御家人でなおかつ荘園経営に明るい島津氏を任命します。

建久8年(1197)に島津氏は薩摩・大隅の守護職、その後日向国、薩摩国、大隅国の三国の守護職となります。建仁3年(1203)には幕府重臣比企能員(ひき・よしかず、生誕不詳~1203)の乱に連座して三国守護職解任となりますが、建保元年(1213)に薩摩の地頭職に復帰して南九州に勢力を拡げます。

一方日向国に地頭として着任した伊東祐明(いとう・すけあきら)は上述の勢力の中で着実にその影響力を高めます。つまり父親の祐時や本家を継承した実弟の祐光(すけみつ)が将軍の側近として活躍する幕府の有力御家人であったこと、祐明の母親が日向国に多数の荘園を有している宇佐神宮の神官である大神氏(おおがし)の系統にある佐伯氏の娘であったことが有利な展開の背景にあったと見られます。

次第に勢力を拡大する田嶋伊東氏に対し、先に宮崎平野中原地区で支配していた土持氏はその祖先が宇佐神宮と深い関わりがあり佐伯氏とも血縁関係があったこともあり敵対意識はなくむしろ好意をもって受け入れられたようです。

時が過ぎ建武の親政に抗した足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1340)を吉野に追放し光明法王(こうみょうほうおう、1322~1380)を擁して北朝を成立させ、自らは京都室町に幕府を開き歴応元年(1338)征夷大将軍に就任します。

伊東氏本家の伊東祐持(いとう・すけもち)は一時北条時行の反乱では時行に味方して清見関(静岡県)の戦いで尊氏に降伏し、以降は尊氏派として戦功を挙げ、祐持は建武2年(1335)に都於郡院(とのこおりいん・現西都市)の領地を賜り、同時に自ら日向国に下向することになります。

祐持が都於郡に下向した現地は先に現地化した田嶋伊東氏、門河伊東氏、木脇伊東氏などの伊東氏庶流はそれぞれの在地領主として支配権を確立、伊東氏本家とは疎遠となっており特に木脇伊東氏は南朝方の旗頭で動乱の兆しが見え隠れの状況でした。

南北朝対立が日向国においても顕在化し、北朝方の伊東祐持は下向時から協力関係にあった土持氏を誘い同族の木脇伊東氏を討伐することになります。

この南北朝戦乱の影響を受けた当地域で田嶋氏の去就が不明ですが、田嶋氏の支族の一部が南朝方に属したところから北朝方に攻め込まれる事態が起こり、この場面で田嶋氏の動きは曖昧な振る舞いしかできなかったと推察されます。

然しながら自領内を荒らされた事で危機感を抱いた田嶋氏は今後の自国を守る術を考えざるを得なくなり、即ち一族の結束と中央権力の庇護を得る事に傾注することになります。具体的には軍事拠点となる館の築城、更には中央の古刹に繋がる寺院の建立となります。

まず軍事力強化を図る為田嶋氏は急遽築城することになり、その場所は定かではありませんが佐土原田中地区の東南の山上に造られた五郭で構成される山城でありました。

続く方策として大光寺が東福寺派の寺院として建立されます。大光寺が東福寺派となったのは、大光寺の開山である獄翁長甫の師、乾峰士曇が東福寺の開山円爾の孫弟子であった故で、乾峰士曇は建武4年(1337)に東福寺住職、文和元年(1352)には北鎌倉円覚寺の住職となった師です。また東福寺は嘉禎2年(1236)円璽を開山とし九条道家が創建した臨済宗の寺院で、京都五山の一寺とされた名刹でもあります。

このように田嶋氏が檀家となって京都の古刹に繋がる大光寺を創建したことにより、伊東氏本家や土持氏などへの抑制力は有効に機能したばかりではなく大光寺への信仰により一族を結集させる結果となります。

応永3年(1396)日向国に侵攻の島津氏は領土を拡大してきた伊東氏と直接対決し清武城(宮崎市南部)を巡っての攻防となりますが永年に亘る膠着により厭戦気分が出て結果豊後国大友氏の仲介により和議が結ばれその後約10年間の平和となりその間両氏とも自国の諸問題を対処することになります。

宮崎平野の覇権をかけた島津氏と伊東氏との戦闘激化の中で田嶋氏は双方の勢力に飲み込まれまいとし、新しい城の築城に迫られ、上述の平和の時期に築城することになります。

新しい城は本領の田島と支族の堤氏が大光寺に寄進していた那珂を分ける丘陵、鶴松山南端の尾根に当主田嶋休祐(たじま・きゅうすけ)によって造られ田嶋之城と称し、これが後の佐土原城の前身となります。

田嶋之城を築いた休祐には家督を継ぐべき男子はなく一人の娘だけであり、このため休祐は伊東氏本家から当主の祐立(すけたつ)の三男祐賀(すけよし)を娘婿に迎える約束をしたがその後急死、やがて約束通り祐賀は養子として田嶋氏に入りますが、意外にも新しく当主となった実兄祐尭(すけあき)の佐土原氏を名乗り田嶋氏は滅亡、これにより都於郡城を本拠とする伊東氏にとって従前から押さえられていた北への出口が確保されることになります。

これにより伊東氏は都於郡城と合わせて佐土原城を本城とし、先に日向進出、土着化した伊東氏庶流である門河伊東氏、木脇伊東氏の併合と共に田嶋庶流の滅亡を機に日向国での統一に向けてその弾みをつける時期に入ろうとします。

交通手段
高速・路線バス ANAグループ 徒歩

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  • 宝塔山(遠景)<br /><br />伊東氏時代には烽火台として使用、島津氏の代、延宝3年(1675)8月に山上に太鼓が設置され、時を告げる場所として使われるようになります。

    宝塔山(遠景)

    伊東氏時代には烽火台として使用、島津氏の代、延宝3年(1675)8月に山上に太鼓が設置され、時を告げる場所として使われるようになります。

  • 島津久遐の墓柱<br /><br />島津久遐(しまづ・ひさとう)は第2代目藩主忠興の三男で、松木騒動で活躍し幼い5代藩主島津惟久(しまづ・ただひさ、1675~1738)守り育ててます。その子孫は藩主が参勤交代で佐土原を留守にする間、藩主の名代を勤めます。

    島津久遐の墓柱

    島津久遐(しまづ・ひさとう)は第2代目藩主忠興の三男で、松木騒動で活躍し幼い5代藩主島津惟久(しまづ・ただひさ、1675~1738)守り育ててます。その子孫は藩主が参勤交代で佐土原を留守にする間、藩主の名代を勤めます。

  • 島津久遐墓石

    島津久遐墓石

  • 大光寺・参道

    大光寺・参道

  • 大光寺・山門(鐘楼門)<br /><br />山号である「佛日山」の額を掲げる二層の山門は荘厳な趣きが感じられます。

    大光寺・山門(鐘楼門)

    山号である「佛日山」の額を掲げる二層の山門は荘厳な趣きが感じられます。

  • 大光寺・山門(鐘楼門)<br /><br />階上部は梵鐘が吊るされる「鐘楼門」となっています。

    大光寺・山門(鐘楼門)

    階上部は梵鐘が吊るされる「鐘楼門」となっています。

  • 大光寺・宝物殿

    大光寺・宝物殿

  • 乾峯士曇墨蹟六種説明文<br /><br />鎌倉時代の名僧で当寺屈指の書道家でもありました。

    乾峯士曇墨蹟六種説明文

    鎌倉時代の名僧で当寺屈指の書道家でもありました。

  • 木造騎獅文殊菩薩及び脇侍天蓋一面

    木造騎獅文殊菩薩及び脇侍天蓋一面

  • 木造地藏菩薩半伽像説明文

    木造地藏菩薩半伽像説明文

  • 大光寺・説明板

    大光寺・説明板

  • 自国宝殿<br /><br />文殊堂、仏殿あるいは開山堂とも呼ばれ、中には開山岳翁長甫像(木造)が安置されています。<br /><br /><br />

    自国宝殿

    文殊堂、仏殿あるいは開山堂とも呼ばれ、中には開山岳翁長甫像(木造)が安置されています。


  • 市指定有形文化財紹介<br /><br />説明では木造「乾峰士曇」及びその弟子「岳翁長甫」が肖像彫刻で、幾つかの木片を寄せ合わせる寄木造の製作技法となっています。

    市指定有形文化財紹介

    説明では木造「乾峰士曇」及びその弟子「岳翁長甫」が肖像彫刻で、幾つかの木片を寄せ合わせる寄木造の製作技法となっています。

  • 宝搭山案内地図

    宝搭山案内地図

  • 自国宝殿<br /><br />建物の構造は桟瓦葺入母屋造りの唐様で、建築年代はおよそ室町時代まで遡ると考えられています。

    自国宝殿

    建物の構造は桟瓦葺入母屋造りの唐様で、建築年代はおよそ室町時代まで遡ると考えられています。

  • 佐土原藩島津家藩主(一部)御廟所入口<br /><br />歴代藩主の墓は他所(高月院)に置かれていますが、大光寺には5代目惟久及び6代目藩主忠雅が祀られています。

    佐土原藩島津家藩主(一部)御廟所入口

    歴代藩主の墓は他所(高月院)に置かれていますが、大光寺には5代目惟久及び6代目藩主忠雅が祀られています。

  • 佐土原藩島津家藩主(一部)御廟所<br /><br />中央部左右に5代目及び6代目藩主の供養塔が配置されています。

    佐土原藩島津家藩主(一部)御廟所

    中央部左右に5代目及び6代目藩主の供養塔が配置されています。

  • 田嶋伊東氏・供養塔<br /><br />13世紀中葉に日向国佐土原田島に下向した伊東氏庶流が「田嶋伊東氏」と称し、後に大光寺の開基となった田嶋伊東氏を伝える唯一の遺構です。

    田嶋伊東氏・供養塔

    13世紀中葉に日向国佐土原田島に下向した伊東氏庶流が「田嶋伊東氏」と称し、後に大光寺の開基となった田嶋伊東氏を伝える唯一の遺構です。

  • 田嶋伊東氏・供養塔

    イチオシ

    田嶋伊東氏・供養塔

  • 古月禅師分骨塔(こげつぜんじぶんこくとう)<br /><br />江戸時代禅宗の中興の祖と呼ばれた佐土原町出身の禅師で、10歳で仏門に入り藩主の命を受けて当寺の42世住職となります。

    古月禅師分骨塔(こげつぜんじぶんこくとう)

    江戸時代禅宗の中興の祖と呼ばれた佐土原町出身の禅師で、10歳で仏門に入り藩主の命を受けて当寺の42世住職となります。

  • 大光禅寺

    大光禅寺

  • 大光寺

    大光寺

  • 大光寺・境内

    大光寺・境内

  • 宝塔山

    宝塔山

  • 宝搭山<br /><br />公園化された宝搭山頂上は公園化されて、西方向を見渡せば

    宝搭山

    公園化された宝搭山頂上は公園化されて、西方向を見渡せば

  • 宝塔山説明板

    宝塔山説明板

  • 壺岐璋庵の墓

    壺岐璋庵の墓

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