2013/10/05 - 2013/10/07
338位(同エリア919件中)
倫清堂さん
日本を代表する温泉地、有馬。
日本人の温泉好きは今も昔も変わらず、神代の時代から有馬の温泉は人々の疲れを癒し、病を治して来ました。
有馬のお湯を楽しむことはもちろんですが、歴史上の様々な人物が訪れた跡を辿り、普通の湯治客は見落としがちな名所を訪ねてみたいと思います。
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いつも全日空を利用していますが、今回は格安航空会社のピーチを利用することにしました。
知ってはいましたが、実際に乗り込んでみるとやはり前の座席との間隔は狭く、前の席の人がシートを倒すと鼻の先に前の人の頭が来てしまいます。
それでもこの価格設定は多くの人にとって魅力らしく、見渡すと空席はほとんどありませんでした。
安いからと云って飛行の安全性に問題はなく、定時で関西空港に到着。
軽く昼食を済ませ、連絡船に乗って神戸空港へと向かいました。 -
有馬温泉に到着したものの、ホテルのチェックインまで1時間ほど間があります。
ホテルに着いてからは徒歩で温泉郷の散策をするつもりでいるので、先に距離が離れている場所を車で訪ねることにします。
向かった先は有馬稲荷神社。
狭い車道の脇に参道入り口を示す鳥居が立っており、その横に車1台を停めておけるスペースがありました。
鳥居から先の参道は300メートルほど続く上りの石段。
その途中、壊れた石鳥居の一部分らしき建造物が現れました。
定かではありませんが、どうやら阪神淡路大震災によって壊れた鳥居のようです。有馬稲荷神社 寺・神社・教会
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急な石段を上り詰めると有馬温泉郷を一望できる高台へと至り、神社の社殿が温泉郷を見下ろすように鎮座している姿が見えます。
有馬稲荷神社は今から1400年前、聖徳太子が有馬行宮にて、蘇我馬子に弑逆された崇峻天皇の御魂を慰めるため鎮魂祭を執り行ったのが始まりで、後にその地に舒明天皇が行幸されて社殿が造営されました。
時代は下って武士が支配する鎌倉時代、後鳥羽上皇が政権打倒を願って一振りの太刀と龍神の彫物を奉納しますが、承久の変は失敗に終わって隠岐へと遷され、かの地で無念のまま崩御となります。 -
有馬温泉になぜと不思議に思われますが、日本で発行された切手を収蔵・展示しているのが有馬切手文化博物館。
温泉街からは少し離れた場所にあるので、車を利用するのが便利です。
博物館の建物は、もともと江戸時代に盛岡で呉服・古着を扱っていた豪商の土蔵だったもの。
その後馬事文化資料館として使用され、更に有馬に移築されて現在の切手博物館へと変身したもので、建物の一部には250年前の古材が使われている貴重な建物です。
明治4年に日本で初めて発行された「龍文切手」から、普通切手はもちろん、次々に発行される記念切手やふるさと切手など、様々な切手が年代順に展示されています。
その中で特に気に入ったのは国立公園や風景の切手。
これまでに訪れた場所の風景が印刷された切手からは数々の思い出が甦り、まだ見ぬ風景の切手からを見てはその土地の歴史と風情に想いを馳せるのでした。
この見事なコレクションは、金井重要工業株式会社元代表取締役で当博物館初代館長の金井宏之氏によるものです。有馬切手文化博物館 美術館・博物館
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ホテルのチェックインの時間になりました。
有馬での一夜を過ごすのは、有馬グランドホテル。
基本的に旅先での宿は泊まれさえすればよいと思っていますが、今回は格式のあるホテルを選びました。
広い客室でゆったり一休み。有馬温泉 有馬グランドホテル 宿・ホテル
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落ち着いたところで、最低限の荷物だけを持って温泉街へと出発。
グランドホテルから市街地へは少し距離があり、ホテルの従業員の方から送迎バスを勧められましたが、あえて徒歩で移動することにしました。
太閤橋のある交差点までは緩やかな下り坂が続いていますが、その途中で御不動さんの小さなお社を見つけました。
そこには細い水の流れが幾筋か流れ落ちており、その様子が亀の尻尾のようであることから亀乃尾瀧と呼ばれています。
かつてここに暁桜と呼ばれる桜があったそうです。 -
太閤橋の交差点には、湯けむりに見立てた滝が設えられたゆけむり広場があり、そこにほのぼのとした表情の太閤秀吉の像があります。
豊臣秀吉公は温泉地の有馬をこよなく愛し、その生涯に何度もここを訪れては、温泉などの施設の整備を進めたのだそうです。
北条氏を滅ぼして天下統一を果たした天正18年には、有馬大茶会が盛大に催されました。
現在も豊太閤を偲ぶ行事として毎年1回大茶会が行われています。太閤橋 名所・史跡
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太閤橋を渡った先に、仏座巖という平らな巨石があります。
かつては仏座に似た形をしており、有馬の名所として知られていましたが、文化9年の大洪水によって埋没してしまい、現在の姿となりました。 -
仏座巖のすぐ傍には別な巨岩の袂石。
有馬温泉の守護神熊野久須美命が鷹狩をしていた道場城城主の前に現れた時、城主が怪しく思って矢を射たため、城主をこらしめるために投げた石が巨大化したものと伝えられています。
鷹狩をしたいた城主はこの時、葦毛の馬に乗り重藤の弓と白羽の矢を持っていたため、その後同じ出で立ちの者が有馬に入ろうとすると必ず強い風雨が起こり、これを拒絶するのだそうです。
有馬で湯治中に急死した十河一存は、葦毛の馬に乗って有馬を訪れており、松永久秀から神罰が下ると忠告されても改めようとしませんでした。
もっとも一存を殺したのは久秀自身であるという疑いが濃厚ですが。 -
イチオシ
太閤橋よりも優美な姿のねね橋。
川底は有馬川親水公園として整備されており、歩くことも可能です。
この日は土砂を取り除く作業が行われていました。
大雨でも降ったのでしょうか。有馬川親水公園 公園・植物園
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豊臣秀吉公の正室となったねねは、才色兼備の理想的な妻で、秀吉公が太閤にまで登りつめた陰には彼女の夫に対する深い愛がありました。
しかし残念なことに二人の間には子が生まれず、秀吉公は子宝の効用も謳われる有馬温泉を、ねねを引き連れて何度も訪れています。
もしねねに子が産まれたら、豊臣家の滅亡と徳川幕府の成立はなかったかも知れません。
結局ねねにとって有馬温泉の効果で子宝を授かることは叶いませんでしたが、今も子宝の効き目を信じてここを訪れる人は多いのだそうです。ねね橋 名所・史跡
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何やら人だかりが出来ているので近づいてみると、猿まわしの芸が披露されていました。
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温泉街の細い路地へと進むと、かなり多くの観光客が行き来しています。
ある温泉施設などは、駐車待ちの車が列をなしている程です。
初めての場所ですが、あちこちに地図の看板が掲げられているため、道をイメージしながら歩くことができます。
時折見かける外国人の観光客も、これなら安心して歩けるでしょう。
天然の温泉が湧き出す金泉源を発見。
お湯そのものは無色ですが、鉄分を多く含んでいるため、空気に触れると参加して黄色くなるため、金泉と呼ばれています。
他に、ラドンを含む銀泉もどこかで湧いていて、有馬は金銀二色の温泉が名物となっています。 -
生活道路のような階段を上り、有馬の歴史スポットに到着。
新築らしい鐘楼があるのは温泉禅寺。
神亀元年に薬師如来の導きによって有馬を訪れた行基によって建立されました。温泉寺 寺・神社・教会
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本堂前に並ぶ2基の五輪塔、左は平清盛、右は慈尊坊尊恵の寄進。
宝塚市にある清澄寺の僧で平清盛とも昵懇であった尊恵は、承安2年に法華経の読経中に夢の世界へ入り、閻魔大王の法華経会に招かれます。
そこで閻魔大王が「平清盛は慈恵僧正の生まれ変わりであるから、一日に3度偈を唱えて彼を称賛している」と述べたのを、現実の世に戻った尊恵は清盛に伝えると、清盛は大変喜びました。
その後も尊恵は何度も閻魔大王に招かれ、最後の安元元年には「日本無双の勝地で閻魔王宮の東門に当たる有馬の温泉山に経箱を納めるように」と勧められました。
2基の五輪塔はその頃に建てられたものだと思われます。 -
本堂の屋根には寺を邪気から護る鬼瓦。
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温泉寺のすぐ脇にある鳥居をくぐり石段を登ると、湯泉神社の境内へと進むことが出来ます。
延喜式内社に数えられる神社で、有馬温泉を最初に発見したとされる大己貴命・少彦名命・熊野久須美命が祀られています。
伝説によると有馬温泉が発見されたのは神代のことで、国土生成の神である大己貴命と少彦名命が、傷ついた3羽の烏が湧き出る泉によって傷を癒している様子を目撃したのが始まりとされます。湯泉神社 寺・神社・教会
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湯泉神社は崇神天皇の御代には祭祀場として既に存在し、舒明天皇・孝徳天皇の行幸入湯においては足しげく当社に参拝されました。
建久2年、仁西上人が戦乱によって荒廃した有馬温泉を復興すべく湯治宿を整備し、その際に熊野三山に倣って3神を祀るため、熊野久須美命を合祀しました。
3羽の烏から三本足の烏=八咫烏を連想するのは容易で、そこからも熊野信仰との関わりをうかがい知ることが出来ます。
なぜ仁西上人が有馬温泉を熊野信仰と結びつけたのか。
3羽の烏の伝承が彼の出現より以前からあったなら、そのことが主な理由であると考えられますが、より古い時代から両者の結びつきがあったこととなり、その原点はいったい何なのかが謎となります。
また、3羽の烏の伝承が彼の時代に広められたものなのだとしたら、なぜそこまでした仁西上人は有馬と熊野を結び付けなければならなかったのかが謎となります。 -
湯泉神社の参拝を終えて石段を降り、温泉寺本堂の裏の道を進むと、太閤の湯殿館の建物が見えます。
秀吉公によって設けられた湯山御殿と湯ぶねの庭園があった場所を保存するために建てられた施設で、蒸し風呂などの遺構や出土品が展示されています。太閤の湯殿館 美術館・博物館
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太閤の湯治場はちょっとした城のような構造になっていたのでしょうか、自然石のみによる野面積の石垣が残されており、櫓や塀があったことも確認されています。
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太閤の湯殿館に隣接するのは極楽寺。
推古天皇元年、聖徳太子による開基で、焼失と再建を何度も繰り返し、天明2年に現在の場所で再建されて現在に至ります。
湯山御殿が発見されたきっかけとなったのは、平成7年の阪神淡路大震災によって半壊した堂宇を修築するための工事でした。極楽寺 寺・神社・教会
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温泉寺・極楽寺、そして次に向かう念仏寺は境内が隣り合って立ち並び、寺に囲まれた小さな広場は「ねがいの庭」と呼ばれています。
その「ねがいの庭」に建つのが、有馬温泉を最初に整備した行基の像。
行基は奈良時代の僧で、交通施設や灌漑施設などを整備したことで民衆から敬愛され、始めは非難していた政府も大仏建立のための勧進などを認め、ついに大僧正にまで任じられました。
有馬温泉が知られるようになったのは、彼が温泉寺を建立したのがきっかけです。ねがいの庭 名所・史跡
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念仏寺は比較的新しい室町時代の開基。
しかし逆に本堂は有馬温泉で最も古い建築物。
北政所の別邸があった場所とされています。
庭には樹齢250年の沙羅双樹が植えられ、毎年6月に「沙羅の花と一弦琴鑑賞会」が催されています。念仏寺 寺・神社・教会
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イチオシ
念仏寺の前に法然上人の童形像が置かれていました。
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有馬温泉郷の散策を終え、送迎バスを呼ばずに徒歩でホテルに帰ると、汗が滲んで来ました。
そこで大浴場を利用し、汗を流すことにします。
グランドホテルの大浴場には金泉と銀泉があって、しかも露天風呂で秋の空を仰ぎながら湯につかることが出来ます。
汗を流して爽快になってので、レストランで食事をとることに。
和食・洋食・中華のレストランが揃っていますが、相談した結果中華に決定。
コースを注文し、有馬の地ビールを飲みながら優雅なひと時を過ごしました。 -
私にとって旅の朝は慌ただしいのが当たり前ですが、今回はスロートラベルを心がけているので、朝食のバイキングを堪能してからもしばらく客室でゆったり過ごしました。
チェックアウトの時刻が迫り、いよいよ2日目の行動を開始。
目指すは京都西部の大原野神社です。
小塩山の麓、大原野は竹林や薄野が広がるのどかな農村地帯で、桓武天皇は鷹狩を楽しまれ、紫式部は『源氏物語』にその風景を描写した他、多くの歌人によって秀歌が詠まれた場所でもあります。
その大原野に鎮座する大原野神社は嘉祥3年、左大臣藤原冬嗣の女順子を母とする文徳天皇によって、祖父の願いであった藤原氏の氏神を祀る社をこの地に造営したのが始まりとされます。
藤原冬嗣という方は貴族としての使命を自覚していた珍しい種類の人物で、学問向上のために勧学院を建立したり弱者救済のための施薬院を復興したりするなど、明確な未来のビジョンを持った政治家で、死後に贈太政大臣を賜っています。
大原野神社への道は狭く、車が車がようやく行き来できる程の道をしばらく進み、ようやく大鳥居が見えて来ました。大原野神社 寺・神社・教会
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大鳥居からまっすぐ伸びる参道の右手に、神鹿苑の碑が立っています。
藤原氏の氏神、奈良の春日大社の御祭神を勧請した大原野神社には、かつて神の使いである鹿が遊んでいたとのことですが、数年前に最後の鹿が死んでからは境内でその姿を見ることは出来ないままとなっています。 -
神鹿苑跡の先には、小さな祠をのせた中島の浮かぶ鯉沢池。
奈良興福寺の南側にある猿沢池を模して造られました。 -
千眼桜は一重の枝垂桜で、4月には一枝に1000もの花を花をつけて薄紅色に彩られます。
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手水舎の水守が鹿であることも春日大社と同じです。
御祭神は建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比め大神の4柱。
建御賀豆智命と伊波比主命こと経津主命は鹿島香取の両神宮にも祀られる武神で、国譲りや神武天皇の御東行の神話での活躍で知られています。
天之子八根命は中臣氏の祖先神で、天岩戸神話では天照大御神を岩戸から呼び戻すために祝詞を奏上する役割を果たし、そのことから中臣氏は代々祭祀を司る氏族として皇室に仕えることになったのでした。
比め大神は天之子八根命の后神と考えられます。 -
イチオシ
社殿は春日大社よりやや小ぶりですが、春日造の本殿が横一列に4殿並ぶ配置となっています。
藤原氏の家に女子が生まれると、中宮や皇后になれるようにと祈願に訪れるのが恒例となり、実際にその地位を得た暁には御礼参りの行列が参拝に訪れたのでした。 -
また、境内には清和天皇産湯の清水と伝えられる瀬和井が湧きます。
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五穀豊穣を感謝する御田刈祭の当日、境内の土俵では神相撲が奉納されます。
秦氏と藤原氏を代表する氏子が2回取り組み、必ず1勝1敗となって円満に幕を引きます。
藤原氏が繁栄したのは皇室の外戚となったのがその理由と云われますが、秦氏など他の有力氏族を敵としなかったことも重要な理由だと思います。
それは日本的な知恵となって、今も我々のDNAに刻まれているのかも知れません。 -
距離が近いので長岡を訪ねることにしました。
10月としては珍しく、最高気温31度を記録する真夏日となった日曜日。
鎮座地周辺は御祭神菅原道真公の所領であった場所で、在原業平らとともに詩歌管弦を楽しんだ場所であったとされます。
大宰府へ遷される道真公はその途次で長岡に立ち寄り、自らの魂が永遠にこの地に留まることを願ったことから、側近の中小路宗則が道真公自作の木像と念持仏を持ち帰り、祠を建ててて安置しました。
それが長岡天満宮の始まりで、現在の宮司は中小路氏の末裔が務めています。長岡天満宮 寺・神社・教会
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社殿は昭和16年に平安神宮から移築したもの。
境内はいくつかの池に囲まれており、特に桂離宮を築造された智仁親王によって開かれた八丈ヶ池は、滔々と水を湛えています。 -
細川ガラシャゆかりの勝竜寺城跡も長岡市内にあります。
ここは現在市で管理している施設で、駐車場も展示室も無料で利用出来るという親切ぶり。
吉野朝時代に細川頼春が宮方に対抗するために築いた城で、戦国時代には織田信長公から細川藤孝に与えられました。
天正6年、明智光秀の女玉(ガラシャ)が16歳で細川忠興の正室として迎えられた際、輿入れした城でもあります。勝竜寺城公園 公園・植物園
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その後、細川氏は丹後の宮津城へ転封となり村井貞勝の家臣が城主となりますが、本能寺の変で信長公を倒した光秀が城を奪います。
しかし中国戦線を収集させて予想以上の早さで駆け付けた秀吉公が山崎の合戦で光秀の軍に勝利し、光秀は勝竜寺城を捨てて本拠地の坂本へ向かいますが、落ち延びる途中で落ち武者狩りの百姓によって竹槍で殺されてしまうのでした。 -
光秀の忘れ形見となった玉は、夫忠興が九州征伐へと赴いている間にカトリックに改宗し、ガラシャの洗礼名を受けます。
信長公に反逆した光秀の娘というレッテルはいつまでも彼女につきまとい、夫との間も次第に不和が生じるようになります。
豊太閤も薨去し、天下分け目の関ヶ原の戦い前夜。
石田三成は、忠興の戦力が東軍につくことを恐れてガラシャを人質として預かろうとしますが、ガラシャがこれを拒んだため、力づくでその身を奪うことを決めます。
しかしガラシャは夫を思う気持ちか、己の存在が戦乱に利用されることを厭うてか、自ら命を絶つことを決断。
キリスト教の教えでは自害することは固く禁じられているため、細川家の家臣に自らを刺させて、その儚く悲しい生涯を終えたのでした。
勝竜寺城跡にて細川ガラシャを偲び
たをやめの現し世の身のはかなくも
珠と砕けりみさを示して -
なかなかきっかけがなく参拝できずにいた水無瀬神宮を、ようやく訪れることができました。
鎮座地は京都と大阪の境であるため、高速道路で通り過ぎることしかなかった地域です。
旧官幣大社に列せられ、後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇の3柱をお祀りしています。
いずれの帝も承久の変に敗れたことで逆境を余儀なくされた方で、遷された先で無念の死を迎えられた御霊を慰めるため、明治6年に正式な神社として認められたのでした。水無瀬神宮 寺・神社・教会
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もとは後鳥羽上皇の水無瀬離宮が造営された場所で、管弦や歌詠みや狩りなどがたびたび行われていました。
後鳥羽上皇は隠岐で崩御となる14日前に、水無瀬離宮を管理する水無瀬氏に置文を下賜され、死後は水無瀬離宮で弔うようにと指示されたのでした。
水無瀬信成・親成父子は、上皇が出発される直前に描かれた上皇の御影を拝領し、堂宇を建てて御菩提を弔ったのが始まりです。 -
境内に湧く「離宮の水」は名水百選にも指定されており、サントリー創業者の鳥井新治郎氏が蒸留所を建てる場所を現在の山崎の地に決定したのは、この名水があったからなのだそうです。
水無瀬神宮に詣でて詠む
斃るれど志継ぐ人現れむ
水無瀬の泉湧き出づるごと -
今回の旅はサントリー山崎蒸留所で締めくくりたいと思います。
急に思い立っての訪問なので予約をしておいたわけではなく、心配になって問い合わせてみたところ、工場の見学は午前中で受け付けを終了してしまったとのことでした。
しかし資料館は自由に見学出来るそうなので、せっかく近くにいるのだから訪問することに決めました。サントリー山崎蒸溜所 名所・史跡
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サントリーは創業者の鳥井新治郎氏が国産のウイスキーにこだわって明治32年に創業した会社で、ここ山崎蒸留所は日本初の蒸留所、つまり国産ウイスキー発祥の地なのです。
鳥井氏は日本全国を歩き地形や気候などの情報を収集、ウイスキーの味と香りを追求した結果、蒸留所をこの自然豊かな天王山麓の山崎に建てることに決めたのでした。 -
山崎ウイスキー館で展示コーナーを見学。
ウイスキーライブラリーには、数千本の原酒やウイスキーが色とりどりに並べられています。
琥珀色のウイスキーはまさに水の宝石。
色を比べるだけでも飽きません。 -
テイスティングカウンターでは蒸留所限定の「響」17年構成原酒ホワイトオーク樽を試飲。
身体を壊してからアルコールは焼酎ばかり飲んでいますが、もともとはウイスキー党です。
歳をとって分別もついたので、浴びるような飲み方はもうしないと決めて、またウイスキーを楽しむのもよいかなと思いました。
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