2013/06/29 - 2013/06/29
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ドクターキムルさん
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J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn:1815年3月13日〜明治44年(1911年)9月21日)はヘボン式ローマ字の考案で知られているが、(一族ともいわれる)女優オードリーヘプバーン(Audrey Hepburn)と同じ名であるから、さしずめ現代ならヘボンではなくヘプバーンと表記されたであろうか。しかし、「ヘボン」と自称していたためにこの名になったのであろう。
誕生した1815年は日本では文化12年にあたる。日米修好通商条約が締結(1858年)された翌年の安政6年(1859年)に布教の目的でアメリカ長老教会から夫妻で来日した。44歳のときであった。ヘボンは医療宣教師で、プリンストン大学で科学や語学を学び、ペンシルベニア大学では医学を学び、1836年にはペンシルベニア大学から医学博士の学位を受けている。幕末の安政の大獄から明治25年(1892年)10月22日まで日本で過ごしたために、本国での南北戦争は経験しなかった。1893年(明治26年)、ニューヨーク州イーストオレンジに居を構え、96歳の天寿をまっとうした。
この時代に、30年余りに亘って日本で活躍したのであるから、その業績も高く、誰もが知るヘボン博士である。
ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、神奈川宿成仏寺からここ横浜居留地39番に移ってきた。住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられたが、明治15年(1882年)には山手に移った。その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸である。
ヘボン博士が創設した男女共学のヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で明治3年(1870年)に設立されたフェリス女学院に対し、残されたヘボン塾の男子生徒のために創立された明治学院は明治20年(1887年)に東京都港区白金の地に統合され、初代総理にはヘボンが就任した。
(表紙写真は山下町ヘボン博士邸跡の記念碑)
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ヘボン博士邸跡の小さな木陰。
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「ヘボン博士邸跡」看板。
「ヘボン博士邸跡
開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。」 -
ヘボン博士邸跡記念碑。
横浜居留地39番にあたる。文久2年(1862年)に神奈川宿にある成仏寺から移ってきた。
住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられた。 -
ヘボン博士のブロンズレリーフ。石板の後ろにブロンズレリーフがあり、石板を丸く刳り貫いてある。
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和文の碑文。
「ヘボン博士は一八五九年十月十八日北米合衆国より渡來 横濱居留地最初の居住者の一人にしてこの地に施療傳道所を設け欧米医術を導入する傍らヘボン式ローマ字による和英語林集成の編纂新旧訳聖書の翻訳など日本文化の開拓力を尽くせり なお指路教会及び明治学院の創立者なり」。
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