2013/06/21 - 2013/06/26
267位(同エリア1306件中)
JBさん
1600年10月、天下分け目の関ヶ原。徳川率いる東軍が勝ち、毛利を主将にした西軍は敗れました。毛利と共に蜂起した河野旧臣たちは戦で敗れただけでなく、反乱を企てた犯罪者として東軍から追われる身になったのです。彼らの多くは山奥に逃れ、姓を捨て帰農しました。
伊予からの東軍参加者は、加藤嘉明(かとうよしあき)と藤堂高虎(とうどうたかとら)の2家です。この2家に小川・安国寺・池田・来島等、伊予から西軍に参加した諸将の領地を与えました。旧小川領の○○村は加藤家にそして××村は藤堂家にと、負けた西軍諸将の領地ごとに折半した、つまり元々小藩ごとに入り組み統治されていたものを地域毎にまとめようとはしなかったそうです。それで数倍に加増された2家の領地は、ますます複雑に入り組み互いに飛び地だらけになったようです。加藤と藤堂の仲の悪さに目をつけた徳川家康の政治手法(互いの牽制による勢力抑制策)でしょうか。
2家の主城こそ松山(加藤)と今治(藤堂)とで50Kmほど離れていますが、松山城から数kmの所で藤堂方が塩泉(湯築に比定)や灘(伊予市)の出城を整備、今治城から3kmの所には加藤方が拝志(今治市)城を設けるといった具合です。
役人が犯罪者や逃散(ちょうさん:村捨て)した農民を追いかけても、数Kmで仲の悪い他国になるのではとても追い切れません。加増された恩賞のおかげで反乱者が追及出来なくなるとは皮肉です。こうした飛び地がきちんと整理されたのは、1635年に松山と今治の双方に久松家(家康の甥)が兄弟で入府した後です。
≪勝山≫
三の丸跡から、二の丸を通して山の上の本丸を見ています。前回は本丸の一部をご紹介しましたが、往時の松山城はこの勝山の山全体です。
*右下から白っぽく這い上がっていくような石垣が、南側の登り石垣です。尾根伝いに山頂の右端に見える櫓下まで繋がっています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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こんにちは。
転用石(てんようせき)という言葉はご存じでしょうか?
*松山空港にいた牛オニ -
福知山(ふくちやま)や大和郡山(やまとこうりやま)城にあるものが大規模で有名ですが、姫路や大阪城でもそうされた逸話(レアケースだということ)と共に紹介されています。
*二の丸下の登り石垣 -
戦国後期からみられる手法ですが、石垣を築く際に山から新たな石を切り出すのでなく、既に他の用途で製品化されていた石造品(墓や石碑等)を、転用して石垣に使うことです。
*黒門筋:二の丸並びの石垣 -
現代感覚では「単なる石材不足かなあ」というくらいでしょうが、城は大名の住まいというだけでなく、最終的には自分たちの命をも預ける文字通り最期の砦だった時代の話です。
そういう安心安全を求める場所に使う「原材料が真面に調達できない」或いは「購入経費を出し渋る」領主です。あなただったら自分や家族の命を預けるでしょうか?それは逆に領主からみても、自分の危機管理能力を疑われる大事だったのです。
*いちばん後ろの石垣上が幕末の大砲台 -
ですから、新しい石材を調達できなくて墓石やお地蔵さん等を石垣に組み込むなら、原形くらいは判らないよう加工してからか、せめて新しく調達した他の石の裏に隠すのでは、と私の感覚は思うのです。が、松山城の転用石は、置かれている場所や置き方が、どうもそういう感性とは違うように感じるんです。
*右は復元された二の丸の塀 -
元の製品仕様が分かるように、しかも目立つ場所に置かれているんです。人質ならぬ石質にでもした心算でしょうか。転用前は信仰対象だった石材。押収された側(敗者)が再度攻め寄せても、石垣にすら傷をつけられません。…惨い。
領主が率いた主力部隊の留守を狙われ、もう少しで本拠(正木城)すら危ない反乱だった。その直後だから勝山への大規模な拡張移転(松山城の建築)であり、そこには敗者へのみせしめも必要だったのでしょうか。
*江戸期の松山城図:現地案内転載 -
大量の石を使った大規模築城も嘉明の警戒心の表れ(恐怖の裏返し)でしょう。それまで住んでいた正木城からの石材移動だけでなく、反乱した旧支配者(河野氏の墓石等)も転用と想っていたんです。が、今回歩いた限りではそういう類の石材を私は探せませんでした。河野氏の居城だった湯築城に石垣構築の痕跡は無いそうです。それに嘉明の松山築城当時の湯築城は藤堂領だったともいわれます。
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最近は、加藤時代(松山城新築時)の大手は”東雲(しののめ:ロープウェイ側)だったとする説が有力です。大手とは玄関。玄関は外(敵)に向けて作ります。表札は玄関に出します。加藤家の仮想敵が海側ではなく山側。山=道後=湯築=藤堂(河野)ということなのでしょう。築城した加藤嘉明の懸念(仮想敵)ですから、それ自体は結構ですが、ただその通りなら現在の市街図をみる限り、簡単に発掘はムリですよね。
いずれにしてもこの話は今後の現地調査を見守りたいと思います。(T_T)/~~~
(黒門筋に残る石組みの工事痕:年代不詳) -
石垣にまつわる話題として冒頭の”登り石垣”を補足しておきます。
山麓の大砲台(北西)と 二の丸(南西)から尾根を長城イメージで辿って山頂の本丸に伸びています。山の西面全体を二の丸に一体化させた梯郭式(テイカクシキ:本丸後ろの東側は崖)の前面に防御を集中させた(一方向は守る必要のない)縄張りです。
登り石垣の高さは4から10mほどです。北側は、明治初期に破却されたようですが、残っている南側の長さは230mほどだそうです。
*当時は、石垣近くの立木は厳重に管理(伐採)されていたはずです。 -
往時はこの石垣上に渡塀や二重櫓が備えられていました。というか、今は維持できなくて破却されているだけです。石垣よりはるかに簡単な塀が石垣の上に造られていない箇所などあり得ないですよね。
*本丸近くの登り石垣 -
お城というと天守の高欄から領地を眺めるお殿様を浮かべる方が多いようです。
観光用の模擬天守ではなく、現存か復興木造した天守に登れば分かりますが、天守は戦時の望楼(物見櫓)にすぎず、階段も梯子程度が普通です。
*今に例えれば火の見櫓の感覚でしょうか。お姫様の登楼は論外ですよね(打掛で梯子に登りたいですか?)。大天守・そこから三の丸方向を見下して -
天守閣はあくまで戦時想定の軍事施設です。延焼を避けるために天井や畳もですがトイレや台所の生活設備は 普通は造られません(松山城には、なぜか天井と畳の間があります)。
*普段は 物置利用が多かったみたいです。他に使いようがないですもんね。 -
”伊予の七免落ち”という言葉があります。平たくいうと、江戸期の愛媛県は課税率70%。つまり7割課税だったんです。働けば3割があなたの収入!という、これでも「…なんだかなあ」というレベルですが。が、ここでもう一歩踏み込んで考証してみてください。
*黒門筋の大砲台付近の石垣 -
7割というくらいですから割合の話ですよね。一方で藩主と家臣との間は事前に決めた石高という定額契約なんです。
例えば、今年は飢饉で収穫が半分なので100石取りの家臣は50石にしましょう、というのはすんなり通りますかねえ。ビジネスマン諸氏なら納得できますか?
でもそれでOKできなければ、例え飢饉でも年貢は例年並みの数量が交渉の基本になりそうですよね。つまり「例年の年貢は収量の7割だから○○石。今年は不作で○○石の収穫。なので割合にすれば10割。よって全部差し出せ!」、とか。
*屏風石垣 -
実際に、1732年の享保飢饉による松山藩内の餓死者は3500人もいたんです。でも武士階級は全員無事だったようです。それどころか当時は互いの権力闘争が大変だったみたいです(流石に幕府からお咎めがあり、それでこうした記録が残っています)。
前回の予陽郡郷俚諺集でご紹介した奥平貞虎の子(貞継:養子)の時代です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%B6%99
*黒門筋:歩くには不便ですが、殿様用の横向き駕篭だと揺れない幅 -
城が持つ本来の美しさ自体が雄々しさというか権威からくるもので、あくまで戦うための力の象徴(悪くは脅し)に、私は感じています。江戸期には、全国で約1500件の一揆が発生していますが、その一割が伊予の国だそうです。自然災害の少ない温暖な土地柄ですが、欲に駆られた人災はそういうことでは防げません。
*太鼓櫓下の石垣 -
武士階級の誇りだった天守や石垣ですが、民にはどのように映ったのでしょうか。
…石垣だけに少々重くなりました( ^^) _旦~~
河野氏崩壊で失われたものは当時の文物だけでなく、それより前の遺物もなのです。なんといっても神代から1000年以上も伊予で土着した氏族ですからね。
*二の丸櫓門から大砲櫓方向を望む -
神代とくれば…、そろそろ道後温泉に向かいます。敗者(河野氏)が想いを込めた地です。
河野氏と道後の関係を湯築城をここに築城した後からと捉える方もいますが、私はもっとはるか以前からの地縁に縁って湯築城はここに造られたと想っています。 -
まずは本館脇の“玉の石”をご紹介しましょう。
『出雲から二人旅をして道後まで来たらスクナヒコナが病気になったので(喧嘩で死亡説も)同行していたオオクニヌシが大分の速見(ハヤミ)の湯から海底に管を通してお湯をひきスクナヒコナを入れた所、元気になって喜んで踊った』のが、この石の上だそうです。
*出典の伊予国風土記(700年頃編纂)は原典なく釈日本紀等に逸文(いつぶん:失われた文章)でこの霊の石神話が紹介されています。 -
この神話に出てくる 大分の速水の湯とは“ 別府温泉 ”のことです。
別府・道後の両温泉には中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)という活断層が近くを通ります。
*700年頃にそんなことが分かるの?ですが、実は類似の伝承は全国の温泉に残るんです。
(又新殿(ゆうしんでん):皇族用の風呂) -
別府といえば地獄巡りでしょうが、中心にある”鉄輪温泉”(かんなわおんせん)は、1276年に一遍上人(いっぺんしょうにん)が蒸風呂(むしぶろ)を開いたところです。
*鉄輪というのは”六斉念仏”に相応しい名称(最初の演目)ですが”別府”という地名自体に幼い頃に故郷を離れ出家した一遍にとっては胸をよぎる想いがあったのではないでしょうか。 -
*まずは説明板をご覧ください。
一遍上人は、宝厳寺(ほうごんじ)で生まれたようです。一遍父の河野通広(こうのみちひろ:別府七郎左衛門尉通広)は、伊予国で別府の庄を領しており、河野氏族として別府という性を苗字に名乗っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E5%BA%83
河野氏族の本姓は越智(おち)氏です。河野郷を領して“河野”性を苗字に名乗りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E7%8E%89%E6%BE%84
*武家の苗字は領する土地(本貫地)を示します。
別府の地どうしの繋がりや一遍上人の想いは兎も角、互いに別符の地を誇る名乗りなのでしょうね。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/199333/m0u/
でもココは道後。現在、この付近に別府の地名は残りません。 -
前の灯篭には馴染みの三折敷(河野氏族紋)がありますが、本堂の扉には別の紋もあります。丸に九枚笹です。一遍母の里とされる大江氏族(代表紋:一に三星)の紋という説もですが、宝厳寺でも由緒不明だそうです。
一遍母には、相模国 毛利の庄を領した大江季光(おおえのすえみつ:毛利季光)の娘説と北条重時(2代執権、義時の子:連署)の娘や毛利季光娘で北条重時の養子説もあるそうです。
*ちなみに戦国武将、毛利元就は季光の子孫です。
ただ、三説のいずれであったにしても単なる分家の通広にすれば、願ったりの縁談に感じます。馴れ初めは兎も角、若い頃の通広は伊予在住じゃないだろうし承久の変で助かったのは 女房の縁かなあくらいは、やはり想いますよね (=^・^=) -
付近には、江戸期に遊行上人(ゆぎょうしゅにん)が廻国してこられる度に(廻国ルート:九州臼杵→宇和島→松山)藩主が造り直した”河野父神廟”という御社があります。
*遊行上人:諸国を巡る時宗の歴代宗主(生き仏さま)。江戸期には伝馬(てんま)の将軍朱印を持ち、どこででも馬50匹(モチ人も)を徴発できた。
(1275年の柱で1662年に修築した古式漂う鐘楼門です) -
その前に。道後温泉には 玉の石の他にも出湯神話が残ります。
入湯することで傷を治した白鷺という、これまた全国各地の温泉で、お馴染み・・・ですよね。
*温泉に行かれたら そこの由来もみてくださいね。 -
*神話がお好きな方は ( ..)φメモメモです。
さきほど白鷺が入湯した地は“鷺谷”(さぎだに)で、現在は祝谷(いわいだに)といいますが前述の 河野父神廟 については『 出雲崗烏谷(いずもがおかからすだに)に葬る。小祠建営、称河野父神廟(こうのふしんびょうとしょうす)』と 寶厳寺に残る河野系図に 書かれているそうです。
それは何処かって?
『ここから本館写真を撮るようご推奨の場所』こういう写真が撮れるココの、そのう、足元です。
(出雲崗から撮影した道後温泉本館) -
私自身は、出雲崗(現、冠山)から周りではなく、周りから出雲崗を見る方に興味があります。
昔、この岡(東は近年に削平)には”出雲崗神社”(いずもがおかじんじゃ)という延喜式内社(えんぎしきないしゃ)がありました。(ここの表現は微妙ですが、今もあるんですよ神社)
*延喜式内社:式内社。927年の神名帳(しんめいちょう)に載る古くからの神社。確証がなくて場所からそれらしいとされる(比定)や確実には絞れなくて候補にあげられている(論社)も多くあります。 -
現在の出雲崗神社は大永地震(1527年)で鷺谷(さぎ)から烏谷(からすだに)に移った温泉の出湯を守る、やはり式内社の”湯神社”とご一緒です。
湯神社(ゆじんじゃ)
http://yu.mydns.jp/top.htm
*道後は聖徳太子も訪れたとも伝わる古湯です。ただ、この地が”道後(どうご)”と呼ばれ始めたのはそれほど古い話でもありません。
”道後”とは、大国だった伊予の道(国府:今の今治市国分)や地理的に都から見て前後(近遠)に二分した後ろ側との意が一般的です。愛媛県の中南予という広い地域を指す言葉ですね。逆に現在の道後の地を示す言葉としては・湯郡の神井(ゆのこおりのみい)・熟田津の石湯(にぎたつのいわゆ)或いはその地理目標に・伊佐尓波・射狭庭(いさにわ)の丘が挙げられます。 -
神話や呼称は廻国の遊行上人を通じて広まったものかもしれません。
烏谷(からすだに)とは熊野本宮大社で神勅を受け(八咫烏:やたからす)一遍上人絵伝の黒い袈裟姿で遊行される一遍上人にふさわしい名称かもしれません。
ただ、伊予国風土記も延喜式内社も一遍上人の誕生より数百年も前の話なんです。
そして、湯築に河野氏が居城を構えるのは一遍上人より100年ほど後の話です。 -
それから、先ほどの道後温泉側は現在の出雲崗にとっては、裏手になるみたいです。表は”ふなや”旅館さんのある方で伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ:式内社)の参道側です。この狭い烏谷に式内社と確認された神社が三社もあり(伊佐爾波社の宮司さんは烏谷さんだそうです)その主祭神(各神社の由緒より)は
出雲崗神社
・素盞鳴命(すさのうのみこと)
・稲田姫命(いなだひめのみこと)
湯神社
・大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)
・少彦名命(すくなびくなのみこと)
伊佐爾波神社(湯築八幡宮)
・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
・神功皇后(じんぐうこうごう)
・応神天皇(おうじんてんのう)
・三柱姫大神(みはしらひめのおおかみ)となっています。
*遷座してきた順に並べると国譲りみたいですネ。ただ、”玉の石”のクチコミにも書きましたが
http://4travel.jp/domestic/area/shikoku/ehime/matsuyama/dogo/tips/10724793/#contents_inner
この街にそんな無粋なというか、直線的な示唆は似合いません。 -
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)http://isaniwa.ddo.jp/top.htm
建武年間(1334?1338)、河野通盛が湯築の築城時に現在の御仮屋山(行宮跡伝承)に遷座したようです。現社地と道後公園は築城時に切り通した(人工)らしく、その切通し(今の柿の木谷)の空が旧社地だそうです。
*少し外れますが、湯築を勝山への付け城として高虎が整備したのなら嘉明も湯築城を見下ろすこの地に監視砦くらいは造ったように想います。つまり、高虎による湯築城の大がかりな工事は無かったと考えるのです。ここは室町に失われた地ではありますが、以後は変わらない(保護されてきた)ものが今も残されるはずです。 -
内陣と外陣を前後に配し相の間で繋いだ八幡造。透塀や唐破風の楼門は瓦葺きです。蟇股(かえるまた:和様の梁支え∩)に描かれた白装束の一遍上人。おそらく江戸期の遊行上人がモデルなのでしょうね。
同社と宝厳寺(旧別当寺)とは境内横の近道で繋がります。前回ご案内した義安寺(ぎあんじ)も同地域の信仰対象です。そういう素地が地域にあるということなのでしょう。おそらく今も…。 -
神代から関ケ原まで1000年以上も血脈を明らかに保った名族。いまに形が残るものと残したかったもののその想いだけでも・・・、との2回目の旅でした。
(伊佐爾波神社の石段)
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