2013/04/25 - 2013/04/25
2407位(同エリア4165件中)
ムッシュさん
さあ、今回は日光街道古道を歩きます。日本橋を出発して、年末ごろに日光輪王寺にゴール予定。
第一回は、日本橋?千住宿へ向かう
千住宿とは
武蔵国豊島郡・足立郡 二里八町「関屋の里 牛田の辺(ほとり)をいふ。澄月(ちょうげつ)“歌枕”には武蔵国に入れたり」(江戸名所図会)
牛田は隅田川に面した千住関屋町・曙町一帯で、鎌倉初期に江戸重長が関を設けたところという。
「嘉?中(1326~29)新井政次なるもの千寿観音像を荒川より得るを以て名(なず)くとも、足利義政の妾千寿の生地なるを以て名くとも云ふ」(東京案内)
「千住五ヶ町(1丁目から5丁目まで)、掃部宿(かもんしゅく)、橋戸町、河原町、小塚原町、中村町。右之分此宿町組にて、惣名(そうみょう)千住宿と相唱(あいとなう)」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
「千住宿は、寛永2年(1625)に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、最初の千住宿は本宿、その後追加され掃部宿・河原町・橋戸町は新宿、さらに小塚原町・中村町は南宿(下宿)と呼ばれ、江戸四宿の1つとされた。南千住から荒川土手まで2.4㎞ありました。水戸街道はここから分岐していた。」
天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宿内総家数2,370軒(本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒)、人口は9,456人、駄賃・賃銭は荷物1駄・乗掛荷人共101文、軽尻馬1疋64文、人足1人49文であった。江戸四宿最大の宿場町で、市場がつくられたり、宿場の外れには小塚原刑場が設置された。(ウイッキドぺリアより)
PR
-
日光古道歩きのスタート地点。五街道の起点は日本橋です。
日本橋は慶長8年(1603年)、徳川家康により架橋。以後20回以上架け替えられ、現在の橋は明治44年に建立。 -
里程標、宇都宮まで107kmとの表示。
-
【江戸伝馬町処刑場跡(身延別院大安楽寺)】
牢屋屋敷は現在の本寺、十思公園、十思小学校を含む2600坪の幕府最大の広さ。
江戸伝馬町処刑場跡で、境内に刑死者を供養する延命地蔵尊が安置されています。
270年間の牢獄者は数十万人といわれる。
周囲は高さ2.3mの練り塀、幅、深さ2mの堀を巡らせ、破牢者はいなかった。
大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年(1882)に創建したという。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号した。 -
小伝馬町交差点近くの[十思公園]に石碑があります。
【吉田松陰の終焉地】を示す。開国の志士松陰もここで牢屋に入ってた。
密航を企て捕縛されると
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」と詠んだ。
密航を企てた地は、伊豆の下田です。下田は黒船来航の地であり、多くの江戸・開国秘話があります。
安政の大獄で投獄され、斬首となると
「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」詠みました。
松陰は処刑の際、役人にご苦労様と挨拶をして端座し、七代目山田朝右衛門吉利によって斬首されました。
松陰最期の日の句
「今 吾 国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照らすは明神にあり」
【吉田松陰先生終焉之地】
吉田松陰先生は天保元年(1830)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の次男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国許萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て、中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召還されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず。その後の三回の取調で死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが
「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。
また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書き上げたのが留魂録でその冒頭に「身はたとえ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。 -
【江戸伝馬町処刑場】の石碑
伝馬町の牢屋は、慶長年間~明治8年まで270年間続いた。牢屋の敷地は、現在の小学校、十恩公園、大安寺を含む2618坪の広さであった。 -
【江戸伝馬町牢屋跡碑】
江戸傳馬町牢屋敷跡 都史跡(昭和29年11月3日指定)
伝馬町牢は慶長年間、常磐線際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土堀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があった、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御椓場死刑場役は有名な山田浅右ェ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当ったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合せて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤皇志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
昭和二十九年十一月 江戸史跡保存協賛會
平成二年三月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
中央区土木部公園緑地課 -
【石町(こくちょう)時の鐘】
時の鐘は二代将軍秀忠の時代に、江戸の町に時を知らせるために最初に設置。処刑はこの鐘の音に合わせて執行された。
宝永8年(1711年)鋳造の石(こく)町時の鐘が移設されたもの。処刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから”情けの鐘”と呼ばれた。
石町(こくちょう、現在の日本橋本町)の銅鐘である
寛永3年(1626年)、江戸に最初に出来た時刻を告げる時の鐘である
当時のものは火災で破損したので、現在のものは宝永8年(1711年)に修理改鋳されたもの
江戸時代の川柳に
「石町は 江戸を寝せたり 起こしたり」
【銅鐘 石町時の鐘】 東京都有形文化財( 十思公園内の鐘楼の横も説明板)
江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
石町鍍木の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(1626)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町から「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(1711)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり起したり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
平成十七年三月 中央区教育委員会 -
この辺り、両国広小路。
浅草橋方面から少し離れ、柳橋近くの両国橋近くを散策。 -
【浅草橋の上から、神田川に浮かぶ屋形舟を】
突端は柳橋。河口は、隅田川につながっている。
神田川を浅草橋で渡ります、浅草橋は寛永13年(1636)の架橋。
神田川の両岸には多数の屋形船や遊漁船が係留されている。神田川は三鷹の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、隅田川に落合います。
新吉原が盛んな頃、この辺りから柳橋にかけて船宿が軒を連ね、吉原通いの溜りとなり、猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる吉原への舟が往来した。
柳橋は、享保の改革で弾圧を受けた芸者衆達が、ココに移動して発展した。
隣の両国は、武蔵国と下総国の境であることから両国を繋ぐ意味で、この名がついた。
目黒川に架かる浅草橋の手前に浅草見附跡がある
ここで道中の警護をしていたところで、今は交番となっている
この川を渡ると台東区となる。浅草観音の道筋にあたることからここにあった幕府の警護用の門を浅草御門と言った。
その前にある橋であるから当初は浅草御門橋であったが後に浅草橋と呼ばれるようになった
【旧浅草橋】
浅草橋という町は昭和九年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけたれたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御門の前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 -
JR浅草橋駅を過ぎると、すぐ近くに、人形の久月さんの本店がある。
浅草橋は江戸36門の一つ、浅草御門で見付門と言われ、寛永13年(1636年)に出来た。
街道沿いは、人形店が沢山並んでいるところだ -
メトロ蔵前駅の交差点、厩橋を過ぎた左に、
【浅草の”駒形どぜう”】
*創業亨和元年(1801年)どじょう料理の老舗です、嘉永元年(1848年)刊の江戸名物酒飯手引草に記された名店です。
*文化3年(1806年)大火に見舞われ、縁起が悪いと、店名を””どぜうの三文字に改称した。
*店前には久保田万太郎句碑「神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり」がある。
*初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開店。浅草寺への参詣の客で繁盛した。初代がどぜうなべ・どぜう汁にをつくり、二代目助七がくじらなべを売り出すした。
この次の交差点が駒形橋である
地下鉄都営浅草線の浅草駅のあるところ。 -
スカイツリーも見えてきました。
-
駒形橋西詰め交差点に、【浅草駒形堂】がたつ。
天慶5年(942年)の創建で、本尊は馬頭観音です。
祈願する際に駒の形をした作りものを奉納したところが寺名の由来になって駒形堂と呼ばれる。魚介殺生禁断の地「これより川上にて漁をすることを禁ズ」。
松尾芭蕉は深川より船に乗りこの隅田川を遡って千住まで舟で行き、そこから「奥の細道」の旅に出た
【駒形堂】
「駒形町の河岸にあり。往古(むかし)は此所に浅草寺の総門ありしといふ。…本尊は馬頭観音なり。…祈願ある者、賽(かえりもうし)にはかならず駒の形を作り物にして堂内に奉納す。故に駒形堂と唱へ、地名もまたこれに因っておこる。」(江戸名所図会)
【ご本尊ご示現の聖地 駒形堂】
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世院菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現(じげん)なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。
今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
金龍山 浅草寺
【浅草観音戒殺碑】 都郷土資料(昭和46年3月30日指定)
総高183.5センチ。元禄五年(1692)浅草寺本尊が垂迹(すいじゃく)した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄六年三月浅草寺第四世宣存が願主となり建立したものである。
駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑はいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦九年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現在の碑が当初のものであるか、再建したものであるかは詳かではないが、昭和二年(1927)五月に土中から発見、同八年修補再建されたものである。
昭和四十六年十月一日 建設 東京都教育委員会 -
ここからは、隅田川沿いの街道を離れて、浅草寺に向います。
正面は【浅草寺の雷門】
浅草寺の総門。寛永12年(1635年)創建、現在のものは昭和35年に再建されたもの。右に雷神、左に風神が立っている。
風袋を担いで天空を駆ける風神像と虎の褌(ふんどし)を締め、連鼓(れんこ)を打つ雷神像が祀られています。
平安時代天慶5年(942年)に平公雅によって駒形付近に創建された。高さ3.9m
の提灯や「金龍山」額がある。
手前右手に、浅草一里塚がある。 -
浅草のシンボル、「雷門」の大きな文字が描かれた、赤い大ちょうちんは、
高さ3.9メートル、幅3.3メートル、重さ約700キロ。
風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来 -
-
浅草雷門の大提灯の底面に彫られた彫刻。
真下から見上げると、綺麗に見えます。 -
【浅草寺、宝蔵門】
仲見世を抜けると浅草寺山門の宝蔵門があります、仁王像を安置しているところから仁王門とも呼ばれます。
【金龍山浅草寺】
628年網にかかった聖観音菩薩を祀ったのがはじまりで、都内最古の寺です。近辺は禁漁区となった。江戸時代は200近くの神仏が鎮座し、多くの参詣者が訪れて民衆信仰の中心地として、大変賑わっています。
【主な見どころ】
雷門、仲見世、弁天山(時の鐘・芭蕉句碑)、伝法院、五重塔、仁王門(宝蔵門)、六角堂本堂、随新門(二天門)、二社権現(浅草神社)、奥山な -
【浅草寺五重の塔】
江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。 -
【金龍山浅草寺、浅草寺本堂】
宝蔵門をくぐると正面が浅草寺本堂です、本尊は推古天皇36年(628年)隅田川で漁網にかかった聖観音像です。
天正18年(1590年)江戸に入府した家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えました。
都内最古の寺です。近辺は禁漁区となった。江戸時代は200近くの神仏が鎮座し、多くの参詣者が訪れて民衆信仰の中心地として、大変賑わっています。
【主な見どころ】
雷門、仲見世、弁天山(時の鐘・芭蕉句碑)、伝法院、五重塔、仁王門(宝蔵門)、六角堂本堂、随新門(二天門)、二社権現(浅草神社)、奥山など。
今日の本堂は慶安の旧本堂の姿を基本に、鉄筋コンクリート造りで再建された。入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高で遠方からも見える。元は、重い本瓦で葺かれていたが、安全のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、平成22年(2010)に営繕が完成した。 -
二天門から出ると正面にスカイツリー
-
【待乳山と尊天鎮座のいわれ】
待乳山は、浅草は隅田川の西岸に望む海抜九米半、わずか千坪に満たない小丘陵ですが、下町の平坦な地の一画に、うっそうとした木立に囲まれた優美な山の姿が、遠い昔から多くの人々の関心を呼び起こしてきたといえましょう。
「武蔵国隅田川考」(中神守節述)によれば、「真土山は隅田川のほとりにて、西の方なり、此所を山の宿といえるは、真土山ありてよりの名なるにや、古くはよほどの山にて、うち開きたる所とおもわるれど、いまはわずかな所にて、その上に聖天の宮居ありて、自然の山というべくも見えず、後世つきたるごとし」とあり、今からおよそ三百年前、萬治、寛文のあたりまでは、遥かに大きな山で、極めて風景のよき所であったろうと、述べられています。
明治初年の頃までは、それでも僅かに往時の面影を止めていましたが、大正の大震災後、防災上の見地から山の周囲をコンクリートの擁壁で固められる結果になったのであります。
また、当山に伝える縁起録によれば
推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先端として一夜のうちに湧現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、十一面観音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されております。
爾来、今日に至るまで千四百年、関東における尊天霊場の一つとして、その尊域を護り継がれてきたということは、いうまでもなく、当山の尊天のご霊験あらたかである証しであるとともに、幾多の先人たちの厚い信仰心のおかげであるということができましょう。 パンフレットより -
言問橋西の交差点を抜けると、街道を斜めに横断するように
【細長い山谷堀公園】(堀跡)がある。
今は埋め立てられ山谷堀公園になっています。隅田川よりかつての吉原へ船で通う為の堀のあったところだ。吉原への遊客を乗せた猪牙舟(ちょきぶね)は隅田川から山谷堀に入り吉原大門へ着けました、山谷堀は石神井川に源を発していた。
⑤山谷堀
吉原への遊客はここ隅田川から猪牙舟で水門から山谷堀に入り、今戸橋、聖天橋、山谷橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、日本堤橋をくぐって吉原へ行った。広重の今戸橋の絵を見ると右側に料亭、川には猪牙舟が行き交い芸妓が三味線を奏でている。山谷堀は石神井川を源にし、三ノ輪で明治通りの思川と分かれ、吉原大門を経て隅田川に流れていた。 -
南千住駅のガードをくぐると、【延命寺】がある。
江戸には、品川の【”鈴が森”】と「小塚原」の刑場二か所であった。
首切り地蔵。この地蔵も先の震災で転倒落下したが、復旧された。この境内が【小塚原(こづかっぱら)刑場跡】です。
慶安3年(1651年)に設置され敷地1800坪でした。処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂い、骨が散乱していたところから骨ケ原とも呼ばれた。
隣にある髭文字による日蓮宗の南無妙法蓮華経題目碑は元禄11年(1696年)の建立です。首切り地蔵は寛保元年(1741年)刑死者供養のために造立されたものです。明治2年廃止までに20万人が処せられた。
【延命寺 延命地蔵(首切り地蔵)】
「小塚原刑場址 刑場は初め今の日本橋本町4丁目辺に在り、後鳥越橋に移し…、更に聖天町西方寺向(むかい)に転じ、再び此地に移し、維新前後に及ぶ」(東京案内)
「万治年中(1658~1661)幕府ノ時、牢死、若クハ道路ニテ倒レシ屍ヲ回向院境内ニ埋葬セシム隙地ナケレハ寛文7年(1667)此刑場ヲ持地ニ賜リ、カノ無縁屍ヲ葬レリ」(東京府志料)
この刑場は間口110m、奥行55mの広さ。品川の鈴ヶ森と、小塚原の二ヶ所が刑場であった。山谷と千住宿間の街並みが途切れる場所に慶安3年(1651)に造られた。
延命地蔵手前に「南無妙法蓮華経」と刻まれている。法の字以外は筆の端が髭のように伸びているので「ひげ題目」ともいわれている。延命地蔵は、高さ3.6mと巨大で、寛保元年(1741)に刑死者の霊を弔うために建立された。手前の大きな「題目石」は、元禄11年(1696)建立。
【小塚原刑場跡】
江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)。奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。
荒川区教育委員会
【小塚原の首切地蔵】 荒川区指定文化財(昭和61年2月13日指定)
小塚原での刑死者の菩提を弔うため寛保元年(1741)に建立されたこの地蔵は、二十七個の花崗岩で組み合わせた全体の高さが四メートルに近い座像で、台座には発願者・石工の名が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治二十八年(1895)に土浦線(現常磐貨物船)敷設工事のため線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。 -
【吉田松陰の墓】
延命寺の隣の小塚原回向院にあります。この辺り、小塚原処刑場でした。多くの命が処刑された。橋本左内、ねずみ小僧次郎吉らの墓もあり。
松陰は伝馬町牢屋敷で斬首され、罪人として回向院に葬られました。
橋本左内は安政の大獄で、開国派として危険視され、同じく斬首された。
鼠(ねずみ)小僧は大名屋敷を専門に荒らした盗人で、義賊と呼ばれた。
【回向院(えこういん)】
安政の大獄(安政5年~安政6年・1858~1859)で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜、安政7年(1860)3月3日の井伊直弼を倒した桜田門 外 の 変 や 、 文 久 2 年(1862)1月15日老中安藤信正を襲ったの坂下門外の変に連座した浪士たち、相馬大作、雲井竜雄らの墓がある。
また、講談や芝居でお馴染みの鼠小僧次郎吉、直侍こと片岡直次郎、毒婦高橋お伝、侠客の腕の喜三郎などの墓もある。
明和8年(1771)杉田玄白、中川淳庵、前野良澤らが刑死者の腑分(ふわけ)を行い「解体新書」を翻訳した。
1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改葬され、その地に「松陰神社」が建立されたので、ここには当時の墓石だけが文化財として保存されています。 -
【素盞雄(すさのお)神社】が鎮座しています、延暦14年(795年)の創建です、この地の鎮守で天王様と呼ばれています。
-
【素盞雄(すさのお)神社】
社殿前に天王社の大銀杏があります、この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなると伝わっています。
【素盞雄神社】
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるのもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
宝暦年間(1751~64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保九年)にその勇壮な様が描かれている。 荒川区教育委員会 -
神社の境内
素盞雄(すさのお)神社である創建は795年とのこと
ここの狛犬は豪勢であった -
【素盞雄神社(すさのう)】
「この地の産土神とす。余人混じて箕輪の天王と称せり。…祭神大己貴命(まつるかみおおあなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬし)二座なり。社伝に曰く。往古(むかし)延暦年中(782~806)比叡の黒珍師(こくちんし)東国化度(げど)の砌(みぎり)、この地に至るに小篠(おざき)の茂りたる一堆(いったい)の小塚あり。(この塚によりてこの地を小塚原と号せり)その塚より夜な夜な瑞光を現じ、白衣を着したる二人の翁、荊棘(うばら)生ひたる石の上に降臨ありて、黒珍師に示して曰く、我は素盞鳴の和魂大己貴命なりと。…「瑞光石 本社の右の方小塚原の上にあり。また荊石(けいせき)ともいへり。往昔(そのかみ)二神老翁に化し。この石上に現じたまふといへり。考ふるに、これおそらくは上古の荒墓ならんか」(江戸名所図会)
【瑞光石】
瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
嘉永四年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。
万延元年(1860)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現・隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
荒川区教育委員 -
【境内の芭蕉句碑】
文政3年(1820年)芭蕉忌に建立された芭蕉句碑
奥の細道首途(かどで)の碑と言われ、千寿といふ所より舟をあがれば、前途三千里の思いに胸にふさがりて幻のちまたに別離の泪をそゝく」
「行く春や 鳥啼(な)き魚の 目は泪」 があります。 -
【隅田川を渡る千住大橋】
文禄3年(1594年)初めて、隅田川に橋が架かった。
江戸幕府は、千住大橋と六郷橋(東海道の多摩川)以外は、防衛上橋を架けさせなかったが、大火で多くの犠牲を出したことから、両国橋、吾妻橋、新大橋、永代橋等を架けた。
千住大橋で隅田川を渡ります、徳川家康が江戸に入府し、文禄三年(1594)伊奈備前守忠次を普請奉行として、隅田川に最初に架けた橋です。
長さ六十六間(約120m)、幅四間(約7m)の大橋でした。
【千住大橋】
“千住大橋”は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四百年の文禄三年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
当所は、ただ“大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約120メートル)、幅四間(約7メートル)であった。
奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が、奥州の旅で、人々と別れたところも、ここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和二年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和四十八年(1973)新橋がそえられた。
昭和五十九年三月 東京都
「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。
当時の政府の公文書に「住田河」と記されていた。この「住田」は、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました。この他の記録には、「隅田」をはじめ「墨多」「住田」「澄田」など、いくつかの字を当てていますが、読み方は語感のよい「すみだ」に定着したようです。江戸時代以降、川の周辺は、桜の名所としてはもちろん、両国の川開きや向島百花園、七福神めぐりなど、多くの人に親しまれ、その当時から、この川の堤を「墨堤」と呼ぶようになり、漢詩などに好んで使われるようになりました。しかし、川の名称は定まらず、「大川」や「浅草川」と愛称で呼ばれ、また公的な文書では「荒川」とされていました。明治29年に制定された旧河川法でも、荒川の一部ということで一括して荒川と呼ばれています。その後、河川法が見直され、法的にも正式に「隅田川」となったのは、昭和40年になってからです。(墨田区広報より) -
【おくのほそみち 旅立ちの地】
千住大橋を渡ると、芭蕉旅たちの碑(画面真ん中に旅立ちの絵)があります。
隅田川の千住大橋である。松尾芭蕉がここで船を降り、奥の細道の旅に出たところだ。
芭蕉たちが、見送りに見えた人々と別れた場所。これより長い旅へ。
千住大橋を渡ると足立区となる
【千住大橋と奥の細道】
千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行われました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)、門弟曽良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同年3月27日にここ千住大橋の辺りで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立より筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎ行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥州・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。
【おくのほそみち 旅立ちの地】 (「奥の細道図屏風」絵に添えられた文章)
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪そゝく -
芭蕉の旅立ちは元禄2年(1689年)3月27日(陽暦の5月16日)で、千住まで多くの門人、知人らも舟に乗り、二人の旅立ちを見送りに来たという。
千住大橋の渡詰めの公園に奥の細道矢立初めの地碑(左フォト)があり、芭蕉は深川から舟で千住に着き、奥の細道へ旅立つ際に、
矢立初の句「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」を詠みました。
【千住大橋と奥の細道】
千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事でした。伊奈備前守は、工事の際に熊野権現に祈願して、架橋の無事完成を期したと伝わっています。その後いくたびか架け替えや修理が行われました。現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は元禄2年(1689)、門弟曽良とともに深川より隅田川を船でさかのぼり、同年3月27日にここ千住大橋の辺りで船を降り、「奥の細道」の旅へ立ちました。この時、矢立より筆を取って「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。過ぎ行く春を惜しむと同時に、旅立つ者に人ばかりか鳥や魚までが別れを悲しんでいるという意味です。そこには、江戸を離れる芭蕉の想いが隠されています。その後、奥州・北陸をへて大垣に至る約600里、半年にわたる行脚をし、道中の詠句をもとに「奥の細道」が編まれました。 -
【やっちゃ場(足立市場】)
青物問屋が軒を連ね「やっちゃいやっちゃい」のセリ声が響いていた。
競りの掛け声がやっちゃ、やっちゃと聞こえたからと言う
中央卸売市場・足立市場は、やっちゃ場と呼ばれていた
享保元年(1716)頃から毎朝市が開かれ野菜や穀物あるいは川魚が商われ、神田や京橋の市場へと運ばれた。市場の近くに幕府の御前裁畑が多く作られ、また民間の野菜畑も多く、青物問屋が集まった。昭和6年(1931)中央卸売市場へ統合された。
【やっちゃ場の由来】
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。
街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。
五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べている。まさに専門店街である。
日本の専門店街がここから始まった。と言っても良いだろう。
旧道を楽しくしょうかい(会) 千住大賑会
神田、駒込、京橋、本所の青果市場もやっちゃ場と呼ばれ、千住と併せ江戸の五大やっちゃ場といわれるている。 -
北千住入口に建つ”松尾芭蕉旅たちの像”(千住宿歴史プチプラス前)
足立市場の並びに芭蕉像があります、千住は奥の細道への旅立ちの地です、そこで平成16年(2004)芭蕉生誕360年記念に芭蕉像が造立された。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)松尾芭蕉は、門人曾良を伴い、草庵のあった江戸深川から船に乗り、千住大橋の辺りで降りて、千住の地から奥州、北陸、美濃へと旅立つ。全行程約600里(2,400km)、約150日間に及ぶこの旅は、紀行文 奥の細道としてまとめられ、芭蕉の死後の元禄15年(1702)に刊行される。
矢立初めの地とは、奥の細道に著された「・・・舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 「行春や鳥啼魚の目は泪」 是を矢立の初として行道なをすゝまず。・・・」という一文から来ている。 -
平成16年は、芭蕉生誕360年にあたり当地旧日光街道の入口に石造の建立が実現した。千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立て初の句 「行春や鳥啼魚の目は泪」の句が残されている。 -
【千住歴史プチテラス前に建つ芭蕉句碑】
”鮎の子の しら魚送る 別れ哉”
千住宿【奥の細道プチテラ】である
道標には「みぎ日本橋、ひだり草加」と書かれてあった
ここが日光道中(奥州道中)の最初の宿場・千住宿の入口である
平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり、当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。
千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。
この先の旧道は元やっちゃ場の地であり、明治以降は正岡子規、高浜虚子も訪れていて、特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号=菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。
芭蕉像に到る足元の敷石はやっちゃ場のセリ場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷石があるかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻き立てます。
人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅することで何かを感じるものがあるかも知れません。
千住大賑会 手漉和紙 -
東京芸大前近く。今は、小さな公園ですが、ここが千住宿、問屋場跡。
【千住宿問屋場・貫目改所跡(標石)】
元禄8年(1695年)に問屋場が設けられ、寛保3年(1743年)に貫目改所が設置され、問屋の取扱い荷の重量検査が行われた。
千住宿問屋場跡 貫目改所寛保三年(1743)に貫目改め所が設けられ荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、運賃が定められていました。貫目改め所は宇都宮までありませんでしたので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったという話があります。「千住問屋場貫目改め所跡」の碑がある。
千住宿は、寛永2年の五街道整備により、日光・奥州両街道の初宿に指定された。
千住宿は、天保14年(1834年)頃、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒、家数2370軒、人口9456人であった。江戸4宿で最大。市場が作られたり、宿場の外れには、小塚原刑場が設置された。南千住~荒川土手まで2.4km。
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に【千住宿の問屋場と貫目改所】が置かれていました。
宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150Kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話しもあります。
江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7Km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程度低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています(添付の図を見ると、これらの場所は広場の右奥にあったことになる。
貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。 -
【千住本町通り】は、人出も多く大変賑やかな商店街です。
千住宿は飯盛り旅籠が軒を連ね
「愛想よき千住女郎衆に袖ひかれ わらじとくとく泊る旅人」と詠われ、水戸街道や下妻道の分岐を控え大いに賑わった。
天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によれば、千住宿の宿内家数は2,370軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で宿内人口は9,956人。相当な賑わい。 -
【千住宿】
江戸四宿と呼ばれた東海道・品川宿、中山道・板橋宿、甲州街道・内藤新宿に比べて家数、人口ともに上回り、千住宿は大繁盛した宿場といえる。
千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から
千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、
足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。
千住宿は日光街道、奥州街道の最初の宿場として繁栄し、水戸街道が分岐している。寛永2年(1625年)に開設されたが、その後万治元年(1658年)に”やっちゃ場等”があった掃部宿、万治2年(1660年)には千住大橋の南側の小塚原、中村町が編入され、宿長は2キロメートル以上にも及ぶ大きな宿場となる。
現在も延々と賑やかな商店街が続き古くて趣のある建物が何軒か残っている。
(千住宿案内文より)
「千住が宿場として栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のことだといわれている。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない 特に寛永二年(1625)日光東照宮建立により、日光道中発駅として、
また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている」
(千住の町並景観を考える会・説明版より) -
昼食を頂いた中華”龍苑”さん。ソフトで美味、素材の味が出ていました。
-
北千住 【勝専(しょうせん)寺】
【三宮神山大鷲院勝専寺】
「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260)勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開祖とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木像千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開祖新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。
ほかに一月と七月の十五・十六日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治十二年(1879)の扁額「三宮神山」と山門に掲げるはか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。
平成十三年十月 足立区教育委員会 -
本町公園。千住高札場由来案内板。
寛永2年(1625年)日光東照宮の建立により日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、宿口に高札場が設置された
【千住宿高札場由来〕
私たちの街、千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅として以来のことだといわれています。
江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まった、といっても過言ではありません。特に寛永二年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。
このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
(昭和六十三年十一月吉日 千住の街並み景観を考える会 あだちまちづくりトラスト助成事業より) -
【横山家住宅】 伝馬屋敷の面影を今に伝える商家。
江戸時代から戦前にかけて屋号を松屋とし、地漉(じすき)紙問屋を生業とした。
建物は江戸時代後期の建築、上野の戦いに敗れて敗走する彰義隊が切りつけた玄関柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた歴史を物語る。
横山家は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行きが五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙(じすきがみ)問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建物であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行きが十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成二年十月 東京都足立区教育委員会
横山家住宅がある。横山家は地漉き紙問屋を営んでいた旧家で、江戸時代には、公用の旅行者に対する便宜を図って課役(伝馬役)を負担したことから、伝馬屋敷とも呼ばれた。安政2年(1855)に建てられた、木造二階建て細格子造りの住宅。現在の建物は昭和11年(1936)に改修されてはいるが、ほぼ建築当初の姿を保っている。 -
創業昭和27年(1952年)【槍かけだんごの老舗】です。
水戸光圀公が千住宿を通っていたとき、槍を立てかけた松を、「遣り掛けの松」と詠んだ。 -
【追分道標】
右が水戸街道と、左が日光街道の分岐道標。
追分道標「東へ旧水戸佐倉道」「北へ旧日光道中」があります。
水戸街道の出発地点。 -
江戸時代からの【名医”名倉医院”】
江戸時代から続く「骨つぎと云えば名倉、名倉といえば骨つぎ」と云われる名倉醫院が現在も開院しており、江戸末期の長屋門がありました。
千住名倉医院、江戸時代(明和年間1764~)開業以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関。駕籠や大八車で運ばれてくる骨折患者でひしめき、門前の広場はこれらの溜り場でした。
建物は、江戸時代から昭和中期のものが保存されている。
中期までの建物長屋門が残ってる。
昔名倉医院にかかる患者は近くの金町屋(現在の平尾医院)、万屋、成田屋などに泊まって通った。
名倉医院がある。江戸時代から続く整形外科医院で、関東一円で「骨つぎといえば名倉」といわれ駕籠や大八車で運ばれる骨折患者が後を絶たなかった -
荒川にかかる千住新橋
荒川は、大正から昭和にかけて作った人口の川で、荒川放水路と呼ばれた。
荒川を渡ると梅田となる
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
48