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 ホイアンは、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナンの南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。<br /> 人口121,716人。ヨーロッパ人にはファイフォ (Faifo) と呼ばれたこともある。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界遺産に登録されている。<br /><5つの世界遺産 その4><br />チャンパ遺跡の聖地跡、8世紀~13世紀頃に建てられた遺跡が見られます!<br /><5つの世界遺産 その5><br />チャンパ王国時代に中国・インド・中東を結ぶ中継貿易地として栄えたホイアンの古い町並みを見学。ホイアン3大名物料理やハロン湾海鮮料理を含むベトナム各地の名物料理も楽しめる計13回の食事付<br /><br />午前:朝食後、世界遺産フエの建造物群と市内観光(阮朝王宮、要人たちが学んだ学校クォックホック、ティエンムー寺、ドンバ市場)。<br />無形文化遺産宮廷音楽ニャーニャックを鑑賞!!<br />昼食は、ブンボーフエなどフエ料理。<br /><br /><br />

5つの世界遺産巡る ベトナム縦断ハイライト6日間③

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2013/01/11 - 2013/01/12

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koi

koiさん

 ホイアンは、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナンの南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。
 人口121,716人。ヨーロッパ人にはファイフォ (Faifo) と呼ばれたこともある。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
<5つの世界遺産 その4>
チャンパ遺跡の聖地跡、8世紀~13世紀頃に建てられた遺跡が見られます!
<5つの世界遺産 その5>
チャンパ王国時代に中国・インド・中東を結ぶ中継貿易地として栄えたホイアンの古い町並みを見学。ホイアン3大名物料理やハロン湾海鮮料理を含むベトナム各地の名物料理も楽しめる計13回の食事付

午前:朝食後、世界遺産フエの建造物群と市内観光(阮朝王宮、要人たちが学んだ学校クォックホック、ティエンムー寺、ドンバ市場)。
無形文化遺産宮廷音楽ニャーニャックを鑑賞!!
昼食は、ブンボーフエなどフエ料理。


一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
観光バス 飛行機
航空会社
ベトナム航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  •  ユネスコ世界遺産のホイアンは、かつて東西貿易の要所として栄え、ベトナム・日本・ 中国・フランスの文化が融合した町です。<br /> チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。<br />午前:朝食後、世界遺産◎ミーソン聖域観光。<br />午後:昼食後、世界遺産ホイアン旧市街観光<br />(〇来遠橋、◎フンフンの家、◎海のシルクロード博物館、◎福建会館)。<br />途中、▲シクロ(人力車)乗車体験付。<br /><br /> ミーソン聖域はベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。ミーソンにはレンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。遺跡の近くを大河トゥーボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。<br /><br />

     ユネスコ世界遺産のホイアンは、かつて東西貿易の要所として栄え、ベトナム・日本・ 中国・フランスの文化が融合した町です。
     チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。
    午前:朝食後、世界遺産◎ミーソン聖域観光。
    午後:昼食後、世界遺産ホイアン旧市街観光
    (〇来遠橋、◎フンフンの家、◎海のシルクロード博物館、◎福建会館)。
    途中、▲シクロ(人力車)乗車体験付。

     ミーソン聖域はベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡。1999年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。ミーソンにはレンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っているが、ベトナム戦争当時の爆撃によってかなり破壊されている。遺跡の近くを大河トゥーボン川が流れており、川の女神を祀る秋盆夫人祠とサンスクリット碑文がある。

  • 1601年には広南阮氏は徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど繁栄をみせたが、間もなく江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。<br /><br />

    1601年には広南阮氏は徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど繁栄をみせたが、間もなく江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。

  • ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。<br /> しかし、ホイアンの街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。<br /><br />

    ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。
     しかし、ホイアンの街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。

  • 来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。<br />福建会館は、1773年に建設された華人の会館。<br />

    来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。
    福建会館は、1773年に建設された華人の会館。

  •  ミーソンのチャンパ王国は今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。その支配民族は不明であるが、遺跡からはサンスクリット碑文と共にマレー系(オーストロネシア語族西インドネシア語派)に属する古チャム語碑文が出土しており、チャンパ人(古チャム人)は現在のチャム族の祖先であると考えられる。ミーソンの現在の住民はモン・クメール系のベト族(キン族)であるが、本来はモン・クメール系のカトゥ族(英語版)の勢力範囲であったことから、カトゥ族の祖先(古カトゥ人)もまた古チャム人と共にチャンパ王国の構成員であったと考えられる。<br /> 建造物はグプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物にはセメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人、建塔工人の多くは徴用労働者として動員された山岳民族である。周囲に住む山岳民族カトゥ族は現在でも有名な木彫職人を輩出している。<br /> ミーソン聖域は20世紀初頭にフランス人によって発見され、パルマンチェ、クレイらにより修復、補強がなされた。その一方、フランス統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争でアメリカ軍の空爆を受け、大半の遺跡が破壊された。<br /> ベトナム戦争後はポーランド文化財保護のカジミエシュ・クヴィアトコフスキ、ベトナム文化情報省文化財修復公司のらにより補強がなされた。日本のトヨタ財団、アメリカのワールドモニュメントウォッチ財団による保護助成が行われ、現在はイタリア隊が調査を行っている。<br /> また、2005年3月には日本の国際協力機構の技術協力によりミーソン遺跡展示館が完成した。

     ミーソンのチャンパ王国は今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。その支配民族は不明であるが、遺跡からはサンスクリット碑文と共にマレー系(オーストロネシア語族西インドネシア語派)に属する古チャム語碑文が出土しており、チャンパ人(古チャム人)は現在のチャム族の祖先であると考えられる。ミーソンの現在の住民はモン・クメール系のベト族(キン族)であるが、本来はモン・クメール系のカトゥ族(英語版)の勢力範囲であったことから、カトゥ族の祖先(古カトゥ人)もまた古チャム人と共にチャンパ王国の構成員であったと考えられる。
     建造物はグプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物にはセメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人、建塔工人の多くは徴用労働者として動員された山岳民族である。周囲に住む山岳民族カトゥ族は現在でも有名な木彫職人を輩出している。
     ミーソン聖域は20世紀初頭にフランス人によって発見され、パルマンチェ、クレイらにより修復、補強がなされた。その一方、フランス統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争でアメリカ軍の空爆を受け、大半の遺跡が破壊された。
     ベトナム戦争後はポーランド文化財保護のカジミエシュ・クヴィアトコフスキ、ベトナム文化情報省文化財修復公司のらにより補強がなされた。日本のトヨタ財団、アメリカのワールドモニュメントウォッチ財団による保護助成が行われ、現在はイタリア隊が調査を行っている。
     また、2005年3月には日本の国際協力機構の技術協力によりミーソン遺跡展示館が完成した。

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