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      万葉の世界を訪ねて (後編) <br /><br /> 今回の旅行記「万葉の世界を訪ねて後編」を作成にあたり約7ヶ月、訪れた地区が奈良の他8箇所と多くの所より情報を集め歩きました。 この事が逆にまとまりのない形となってしまった様です。 後編と云う事で、皆様方にはたとえ一時の気休めとして見て頂けたら幸いと思っております。<br /><br />       訪れた場所<br /> 1・2012年11月 妹背の里     蒲生郡竜王町(滋賀県)<br /> 2・2012年12月 甘南美寺     山県市<br /> 3・2013年 3月 平城京跡他    奈良市 <br /> 4・2013年 3月 百梅園       羽島市<br /> 5・2013年 4月 万葉公園      一宮市<br /> 6・2013年 4月 味真野苑      越前市<br /> 7・2013年 5月 天王川公園    津島市<br /> 8・2013年 5月 竹林公園      岩倉市<br /> 9・2013年 6月 御裳神社      一宮市<br />10・2013年 6月 藤原宮跡他     奈良市<br />11・2013年 6月 万葉植物園他   奈良市<br />            (写真・浮見堂 奈良市 2013.3.30 撮影)

万葉の世界を訪ねて 後編 (リニューアル編)

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2013/06/22 - 2013/06/22

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ryuji

ryujiさん

   万葉の世界を訪ねて (後編) 

 今回の旅行記「万葉の世界を訪ねて後編」を作成にあたり約7ヶ月、訪れた地区が奈良の他8箇所と多くの所より情報を集め歩きました。 この事が逆にまとまりのない形となってしまった様です。 後編と云う事で、皆様方にはたとえ一時の気休めとして見て頂けたら幸いと思っております。

    訪れた場所
 1・2012年11月 妹背の里     蒲生郡竜王町(滋賀県)
 2・2012年12月 甘南美寺     山県市
 3・2013年 3月 平城京跡他    奈良市 
 4・2013年 3月 百梅園       羽島市
 5・2013年 4月 万葉公園      一宮市
 6・2013年 4月 味真野苑      越前市
 7・2013年 5月 天王川公園    津島市
 8・2013年 5月 竹林公園      岩倉市
 9・2013年 6月 御裳神社      一宮市
10・2013年 6月 藤原宮跡他     奈良市
11・2013年 6月 万葉植物園他   奈良市
           (写真・浮見堂 奈良市 2013.3.30 撮影)

同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  •  素晴らしい天候に恵まれた本日(3月30日)、私は桜花を見に平城京跡へ来ました。奈良の都を存分に味わう事ができ満喫の1日でした。 <br /><br /> 暖かな春の日差しを浴びた、この広大な空間は正に楽園であった。 家族連れ、あるいは恋人同士、それぞれ楽しむ人々の姿はとても微笑ましく感じた次第です。私も1人ゆったりと1時間ほど散策を、まことに気分のいいものであった。<br />                (写真・平城京跡の桜 奈良市)  <br />     

     素晴らしい天候に恵まれた本日(3月30日)、私は桜花を見に平城京跡へ来ました。奈良の都を存分に味わう事ができ満喫の1日でした。 

     暖かな春の日差しを浴びた、この広大な空間は正に楽園であった。 家族連れ、あるいは恋人同士、それぞれ楽しむ人々の姿はとても微笑ましく感じた次第です。私も1人ゆったりと1時間ほど散策を、まことに気分のいいものであった。
                    (写真・平城京跡の桜 奈良市)  
         

  •  小野老。(おののおゆ)<br />あをによし奈良の都は、<br />  咲く花の匂ふが如く、今盛りなり (3-328) <br />                 (写真・羅城門跡 奈良市)<br /><br /> 奈良の都は、非常に立派な処で、まるで咲いている花が、はでやかに見えるように、今は繁昌の極点です。 (寧楽の都の讃美としては、この歌以上に適当なものはない。 単に写したためでなく、憧景が深かったからである)                (揮毫・高田好胤管長)       <br /><br /> (註・この旅行記で以降、万葉集及び口約は全て「折口信夫著の万葉集」を参照とさせて頂きます)<br /><br />

     小野老。(おののおゆ)
    あをによし奈良の都は、
      咲く花の匂ふが如く、今盛りなり (3-328) 
                     (写真・羅城門跡 奈良市)

     奈良の都は、非常に立派な処で、まるで咲いている花が、はでやかに見えるように、今は繁昌の極点です。 (寧楽の都の讃美としては、この歌以上に適当なものはない。 単に写したためでなく、憧景が深かったからである)                (揮毫・高田好胤管長)       

     (註・この旅行記で以降、万葉集及び口約は全て「折口信夫著の万葉集」を参照とさせて頂きます)

  •  小野老は奈良時代の歌人、貴族です。大伴旅人とは大宰府で上司部下の関係です。神亀五年(728年)に大宰少弐として、大宰府に赴任し現地の政治の実情を報告する為平城京へ戻っていた。 この歌はその時の平城京を見て、大宰府に帰ってから詠まれたとされています。<br /><br /> 一般的には、寧楽(奈良)を讃歌した歌とされていますが疑問の声もあります。その後一生、大宰府に身を投じた老を思うと、望郷の念が深い歌ではないかと私は思います。<br />                (写真・平城京跡 奈良市)

     小野老は奈良時代の歌人、貴族です。大伴旅人とは大宰府で上司部下の関係です。神亀五年(728年)に大宰少弐として、大宰府に赴任し現地の政治の実情を報告する為平城京へ戻っていた。 この歌はその時の平城京を見て、大宰府に帰ってから詠まれたとされています。

     一般的には、寧楽(奈良)を讃歌した歌とされていますが疑問の声もあります。その後一生、大宰府に身を投じた老を思うと、望郷の念が深い歌ではないかと私は思います。
                    (写真・平城京跡 奈良市)

  •  平城京跡。(写真・碑と朱雀門 奈良市)<br /><br /> 聖武天皇の時代が、奈良の都が最も栄えたとされています。それぞれの志を掲げ、国(都)の発展に活躍した人物(政治家)を思い浮かべてみた。<br /> 始めに藤原不比等・長屋王、藤原四兄弟・橘諸兄・藤原広嗣・吉備真備・それに藤原仲麻呂・・・・・、散策しながらの思いに耽るのは楽しいものだ。 果たして当時(天平時代の初期・中期)の出来事を、後年の小野老はどのように思い、これをどのように見つめていたかは興味深いものである。

     平城京跡。(写真・碑と朱雀門 奈良市)

     聖武天皇の時代が、奈良の都が最も栄えたとされています。それぞれの志を掲げ、国(都)の発展に活躍した人物(政治家)を思い浮かべてみた。
     始めに藤原不比等・長屋王、藤原四兄弟・橘諸兄・藤原広嗣・吉備真備・それに藤原仲麻呂・・・・・、散策しながらの思いに耽るのは楽しいものだ。 果たして当時(天平時代の初期・中期)の出来事を、後年の小野老はどのように思い、これをどのように見つめていたかは興味深いものである。

  •  藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)<br />   桜の花を処女に贈るのに添えた歌<br />                     <br />此花の一瓣(ひとよ)の中(うち)に、<br />  百草(ももくさ)の言(こと)ぞ籠もれる。おほろかにすな (8-1456)<br />               (写真・鏡神社 奈良市) <br /><br /> この花の一瓣(ひとひら)の中に、百通りからの語が籠もっている。 口では何もいわないが、その語をよく考えて疎か(おろそか)に見てくれるな。(広嗣の悲劇的な半生と、悲痛な性格を思うと、この歌の上にも、強い力が沁み出ているのを覚える。傑作)

     藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
       桜の花を処女に贈るのに添えた歌
                         
    此花の一瓣(ひとよ)の中(うち)に、
      百草(ももくさ)の言(こと)ぞ籠もれる。おほろかにすな (8-1456)
                   (写真・鏡神社 奈良市) 

     この花の一瓣(ひとひら)の中に、百通りからの語が籠もっている。 口では何もいわないが、その語をよく考えて疎か(おろそか)に見てくれるな。(広嗣の悲劇的な半生と、悲痛な性格を思うと、この歌の上にも、強い力が沁み出ているのを覚える。傑作)

  •    藤原氏と万葉集。<br /><br /> 藤原宇合、その嫡男が広嗣。 万葉集に詠まれた1首(一首のみ)が上記の歌です。文句を付けて歌を贈るなんて、少々生意気に私には感じましたが、若く血気盛んなご気性の広嗣らしい作品と思います。余談ですが、歌を贈られた少女は「広嗣さま、語の重みに耐えかねて枝が折れてしまいましたよ」と返しています。 (8ー1457)  広嗣は見事に1本を取られた様です。式家の祖、父宇合も万葉集に選ばれて秀歌を残しています。<br />                          <br /> <br /> この時代、有名人の多い藤原氏ですが万葉集の歌は以外に少なく、私は今ひとつパットしないと思っています。(式家父子以外は、これはあくまで私の個人的感想) 比較して旅人、家持に代表される大伴氏、さすがは名門です歌の完成度が高く感じられます。公家の官位はこの時代には、大伴氏の上になっていますが、しかし和歌の方は「なりあがりの感」が否めないようです。 (万葉時代の藤原さんごめんなさい、シロウトの私が酷評して)                                                            (写真・平城京跡の桜 奈良市)<br /><br />                           

       藤原氏と万葉集。

     藤原宇合、その嫡男が広嗣。 万葉集に詠まれた1首(一首のみ)が上記の歌です。文句を付けて歌を贈るなんて、少々生意気に私には感じましたが、若く血気盛んなご気性の広嗣らしい作品と思います。余談ですが、歌を贈られた少女は「広嗣さま、語の重みに耐えかねて枝が折れてしまいましたよ」と返しています。 (8ー1457)  広嗣は見事に1本を取られた様です。式家の祖、父宇合も万葉集に選ばれて秀歌を残しています。
                              
     
     この時代、有名人の多い藤原氏ですが万葉集の歌は以外に少なく、私は今ひとつパットしないと思っています。(式家父子以外は、これはあくまで私の個人的感想) 比較して旅人、家持に代表される大伴氏、さすがは名門です歌の完成度が高く感じられます。公家の官位はこの時代には、大伴氏の上になっていますが、しかし和歌の方は「なりあがりの感」が否めないようです。 (万葉時代の藤原さんごめんなさい、シロウトの私が酷評して)                  (写真・平城京跡の桜 奈良市)

                               

  •   藤原式家について。<br /><br /> 式家嫡男の広嗣は若くして(24歳?)非業の最期を遂げる。(740年・藤原広嗣の乱) 乱の経緯は歴史でよく知られているので割愛します。発端は彼の提出した、能力に欠けるという真備と玄坊の解任上申書が朝廷誹謗になった事が起因の様です。乱後の式家は、朝敵の汚名を着せられ流罪等で成りを潜めます。光仁天皇即位前後より式家は復活します。<br /> <br /> 次に良継(広嗣の同母弟)は光仁天皇擁立に奔走し、式家の長として光仁朝に尽くした。(内大臣) その裏方で知略を出したとされるのが百川(良継の弟・良継の娘が妻)です。彼は若い山部王(後の桓武天皇)とは入魂の仲(旧知の仲)で、策を用いて山部王の天皇への道筋を切り開いた人物です。彼は願い叶わずして桓武帝を見る事なく病没する。(参議) それから種継、長岡京の造営に邁進した。(中納言) 平安京で活躍した緒嗣、彼は父百川のおかげで桓武天皇に重用された。(後に左大臣)<br /><br /> こうして見ると式家の人物は、個性が強く敵も多かった様です。斬首(広嗣・網手)、狙撃死(種継・仲成)、服毒自殺(薬子)とバラエティーに富んでいます。 保身術に長けた北家?(永手・八束など)と比較すると結構面白いものである。<br /><br /> これからは私の想像ですが、式家の男子はイケメン、女子は美人である。 特に広嗣・良継兄弟は今風の長身だった様です。女の方では乙牟漏(良継の娘・桓武天皇の皇后・平城天皇と嵯峨天皇の母)は絶世の美女と云われています。旅子(百川の娘・桓武妃・淳和天皇の母)も良継の血を引く孫娘で美人だった。そして薬子(種継の娘・平城上皇の寵姫)は、歴史で名を残した「薬子の変」で余りにも有名です。美人が故に魔性の女とも傾国とも呼ばれた。<br /> (私見 「薬子の変で」、昨今歴史認識が改められてきたようです 勝者である嵯峨朝からの資料で薬子のみが悪者になったが 「平城上皇の変」が正しい様だ)<br /><br /> 式家は淳和天皇の世、緒嗣の死を境に歴史から消えて行きます。しかし桓武天皇との硬い絆の仲で、平城・嵯峨・淳和の三天皇に式家の血が受け継がれた。<br />

      藤原式家について。

     式家嫡男の広嗣は若くして(24歳?)非業の最期を遂げる。(740年・藤原広嗣の乱) 乱の経緯は歴史でよく知られているので割愛します。発端は彼の提出した、能力に欠けるという真備と玄坊の解任上申書が朝廷誹謗になった事が起因の様です。乱後の式家は、朝敵の汚名を着せられ流罪等で成りを潜めます。光仁天皇即位前後より式家は復活します。
     
     次に良継(広嗣の同母弟)は光仁天皇擁立に奔走し、式家の長として光仁朝に尽くした。(内大臣) その裏方で知略を出したとされるのが百川(良継の弟・良継の娘が妻)です。彼は若い山部王(後の桓武天皇)とは入魂の仲(旧知の仲)で、策を用いて山部王の天皇への道筋を切り開いた人物です。彼は願い叶わずして桓武帝を見る事なく病没する。(参議) それから種継、長岡京の造営に邁進した。(中納言) 平安京で活躍した緒嗣、彼は父百川のおかげで桓武天皇に重用された。(後に左大臣)

     こうして見ると式家の人物は、個性が強く敵も多かった様です。斬首(広嗣・網手)、狙撃死(種継・仲成)、服毒自殺(薬子)とバラエティーに富んでいます。 保身術に長けた北家?(永手・八束など)と比較すると結構面白いものである。

     これからは私の想像ですが、式家の男子はイケメン、女子は美人である。 特に広嗣・良継兄弟は今風の長身だった様です。女の方では乙牟漏(良継の娘・桓武天皇の皇后・平城天皇と嵯峨天皇の母)は絶世の美女と云われています。旅子(百川の娘・桓武妃・淳和天皇の母)も良継の血を引く孫娘で美人だった。そして薬子(種継の娘・平城上皇の寵姫)は、歴史で名を残した「薬子の変」で余りにも有名です。美人が故に魔性の女とも傾国とも呼ばれた。
     (私見 「薬子の変で」、昨今歴史認識が改められてきたようです 勝者である嵯峨朝からの資料で薬子のみが悪者になったが 「平城上皇の変」が正しい様だ)

     式家は淳和天皇の世、緒嗣の死を境に歴史から消えて行きます。しかし桓武天皇との硬い絆の仲で、平城・嵯峨・淳和の三天皇に式家の血が受け継がれた。

  •  藤原八束(ふじわらのやつか)<br />妹が家に咲きたる花の梅の花、<br />  実にしなりなば、かもかくもせむ (3-399)<br />                  (写真・百梅園 羽島市)<br /><br /> お前さんの家に咲いている、家の梅の花ではないが、いうことを聞いてくれた暁は、なんとでもお前の言う通りにしよう。<br /><br /><br />

     藤原八束(ふじわらのやつか)
    妹が家に咲きたる花の梅の花、
      実にしなりなば、かもかくもせむ (3-399)
                      (写真・百梅園 羽島市)

     お前さんの家に咲いている、家の梅の花ではないが、いうことを聞いてくれた暁は、なんとでもお前の言う通りにしよう。


  •  上記の歌は、八束が詠んだ梅の花の1首(2首の内)です。いかにも北家(三男)のエリートが詠んだ大らかでおっとりとした歌と私は感じます。 <br /><br /> この和歌のお相手の女性ですが、大伴坂上郎女の娘ではと言われています?。 家持と仲が良かった八束(和歌では家持が師匠)、私はまんざら?とは言えないと思っています。<br />                   (写真・百梅園 羽島市)

     上記の歌は、八束が詠んだ梅の花の1首(2首の内)です。いかにも北家(三男)のエリートが詠んだ大らかでおっとりとした歌と私は感じます。 

     この和歌のお相手の女性ですが、大伴坂上郎女の娘ではと言われています?。 家持と仲が良かった八束(和歌では家持が師匠)、私はまんざら?とは言えないと思っています。
                       (写真・百梅園 羽島市)

  •  藤原八束(真楯)とは、その人物像を紹介します。<br /><br />系図(藤原氏の直系) 不比等ー房前ー八束ー内麻呂ー冬嗣ー良房ー基経(養子)ー・・・・ー道長。<br />                  (写真・百梅園 羽島市)<br /><br /> 広嗣(式家)から八束(北家)へバトンタッチです。(同い年の生まれ715年?) 日本史では余り馴染のない人物ですが、系図に於いては真に藤原氏中枢の所にいます。父房前が北家の祖であるならば、私は八束こそ摂関家の祖と思います。(誰も言ってないので、あえて私が声を大にして八束こそ摂関の祖を推奨しておきます)<br /><br />  :苦悩し動揺する貴公子:<br /> そこで藤原八束なる人物にスポットを当てて見たいと思います。万葉集で歌を残した八束は、奈良朝中後期に編纂した中納言の大伴家持と親交(公家仲間・和歌を通じて)を持った同時代(八束が二歳上)の人物です。。私が思うに、すぐれた才能と野心をもち合わせていたに違いない。しかしこの時代、従兄弟に当たる藤原仲麻呂(南家)が絶対的な権力を持ち合わせていた。叔母の光明皇后を後ろ盾として、上席の橘諸兄(左大臣)及び兄の豊成(右大臣)を追い落としてしまった。その仲麻呂には全く対抗するすべがなかった様です。親諸兄派(母親の牟漏女王は諸兄の妹)である八束にとっては、仲麻呂に睨まれた忍従の人生(病と称し家に閉じ篭る)であり、次世代に望みを託すに他ならなかった様です。人は八束をして「苦悩し、動揺する貴公子」と揶揄するが、不本意にも仲麻呂へのすりよりは察するに余りあるものと私は思います。<br /><br /> ついでに八束の晩年の子、内麻呂(三男)についても付け加えておきます。時は平安時代に移り、桓武・平城帝の籠臣として活躍し、父の官位(大納言)を超え右大臣まで上り詰めた人物である。<br /> 私が思うにこの内麻呂さん、大変苦労人であり又涙ぐましい努力の人だった様です。自らの正妻(百済永継で真夏、冬嗣の母)を桓武帝に進呈し朝廷に尽くした。(式家の様に北家は容姿のすぐれた子女に恵まれなかったのであろう) そして次世代への展望もぬかりなく、長男の真夏は平城天皇へ・二男の冬嗣は嵯峨(皇太弟)へと仕えさせた。 <br /><br /> ここで少しだけ話が脱線します。内麻呂の正妻、百済永継は桓武帝の妃となり良峰安世を生む。その良峰安世は冬嗣(異父兄)と共に嵯峨朝に仕えるのだが、安世の息子は歌人で有名な僧正遍昭である。(六歌仙の一人)  「天つ風、雲の通ひ路、吹きとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ」 これは確か百人一首の馴染みの歌で彼の作だったと思う。<br /><br /> その後の八束の子孫は、嵯峨天皇時代の左大臣の冬嗣、そして仁明・文徳・清和天皇時代の良房です。良房は人臣では初めての摂政と云う最高官位を極めた事は周知の通りある。 こうして北家は藤原氏の主流としての基礎を固めていったのである。<br />

     藤原八束(真楯)とは、その人物像を紹介します。

    系図(藤原氏の直系) 不比等ー房前ー八束ー内麻呂ー冬嗣ー良房ー基経(養子)ー・・・・ー道長。
                      (写真・百梅園 羽島市)

     広嗣(式家)から八束(北家)へバトンタッチです。(同い年の生まれ715年?) 日本史では余り馴染のない人物ですが、系図に於いては真に藤原氏中枢の所にいます。父房前が北家の祖であるならば、私は八束こそ摂関家の祖と思います。(誰も言ってないので、あえて私が声を大にして八束こそ摂関の祖を推奨しておきます)

      :苦悩し動揺する貴公子:
     そこで藤原八束なる人物にスポットを当てて見たいと思います。万葉集で歌を残した八束は、奈良朝中後期に編纂した中納言の大伴家持と親交(公家仲間・和歌を通じて)を持った同時代(八束が二歳上)の人物です。。私が思うに、すぐれた才能と野心をもち合わせていたに違いない。しかしこの時代、従兄弟に当たる藤原仲麻呂(南家)が絶対的な権力を持ち合わせていた。叔母の光明皇后を後ろ盾として、上席の橘諸兄(左大臣)及び兄の豊成(右大臣)を追い落としてしまった。その仲麻呂には全く対抗するすべがなかった様です。親諸兄派(母親の牟漏女王は諸兄の妹)である八束にとっては、仲麻呂に睨まれた忍従の人生(病と称し家に閉じ篭る)であり、次世代に望みを託すに他ならなかった様です。人は八束をして「苦悩し、動揺する貴公子」と揶揄するが、不本意にも仲麻呂へのすりよりは察するに余りあるものと私は思います。

     ついでに八束の晩年の子、内麻呂(三男)についても付け加えておきます。時は平安時代に移り、桓武・平城帝の籠臣として活躍し、父の官位(大納言)を超え右大臣まで上り詰めた人物である。
     私が思うにこの内麻呂さん、大変苦労人であり又涙ぐましい努力の人だった様です。自らの正妻(百済永継で真夏、冬嗣の母)を桓武帝に進呈し朝廷に尽くした。(式家の様に北家は容姿のすぐれた子女に恵まれなかったのであろう) そして次世代への展望もぬかりなく、長男の真夏は平城天皇へ・二男の冬嗣は嵯峨(皇太弟)へと仕えさせた。 

     ここで少しだけ話が脱線します。内麻呂の正妻、百済永継は桓武帝の妃となり良峰安世を生む。その良峰安世は冬嗣(異父兄)と共に嵯峨朝に仕えるのだが、安世の息子は歌人で有名な僧正遍昭である。(六歌仙の一人)  「天つ風、雲の通ひ路、吹きとぢよ、をとめの姿、しばしとどめむ」 これは確か百人一首の馴染みの歌で彼の作だったと思う。

     その後の八束の子孫は、嵯峨天皇時代の左大臣の冬嗣、そして仁明・文徳・清和天皇時代の良房です。良房は人臣では初めての摂政と云う最高官位を極めた事は周知の通りある。 こうして北家は藤原氏の主流としての基礎を固めていったのである。

  •  一所感ではあるが、私の八束さんへの能力はそれ程の人物とは思えない。 しかし息子の内麻呂と孫の冬嗣の国政への貢献度・努力は素晴らしいものである。(式家に対しての不利を克服) 栄光への一糸を手繰り寄せ、この後の北家が藤原氏の名をほしいままにした。<br /><br /> 万葉集で梅の花を詠んだ八束の子孫が、華麗なる藤原氏の栄達を誰が臨んだ事であろう。 これは紛れもない史実であり、私の興味事項の一つとして心に留め置く価値があると持っています。<br />                 (写真 百梅園の紅しだれ梅)

     一所感ではあるが、私の八束さんへの能力はそれ程の人物とは思えない。 しかし息子の内麻呂と孫の冬嗣の国政への貢献度・努力は素晴らしいものである。(式家に対しての不利を克服) 栄光への一糸を手繰り寄せ、この後の北家が藤原氏の名をほしいままにした。

     万葉集で梅の花を詠んだ八束の子孫が、華麗なる藤原氏の栄達を誰が臨んだ事であろう。 これは紛れもない史実であり、私の興味事項の一つとして心に留め置く価値があると持っています。
                     (写真 百梅園の紅しだれ梅)

  •  大海人皇子と額田王の相聞の舞台となったとされる、近くの妹背の里(現在の竜王町・滋賀県)へ私は行って来ました。                                          (写真・妹背の里 蒲生郡竜王町)<br /><br /> 中大兄皇子は767年に都を近江に移した。(近江京・現大津市)その翌年彼は正式に即位した。天智天皇である。(実に称制7年に及んだ) この年、天智天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟が(みかり)催された。この蒲生野の行幸には大海人皇子、中臣鎌足ほか諸王群臣すべて率いての薬狩りである。<br /> ここで、問題の大海人皇子と額田王の歌2首の経緯とその真相なるものに迫ってみました。<br /> この2首が相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって「贈る歌」となっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる。<br /> そのような見方に立つ一つの読み方として、池田弥三郎先生の書を引用すれば「これは深刻なやりとりではない、おそらくは宴会の乱酔に天武(大海人皇子)が無骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて才女の額田王がからかいかけた。どう見積もっても、このときすでに四十才になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの「にほえる妹」などと、しっぺい返しをしたのである。」<br /> 

     大海人皇子と額田王の相聞の舞台となったとされる、近くの妹背の里(現在の竜王町・滋賀県)へ私は行って来ました。                    (写真・妹背の里 蒲生郡竜王町)

     中大兄皇子は767年に都を近江に移した。(近江京・現大津市)その翌年彼は正式に即位した。天智天皇である。(実に称制7年に及んだ) この年、天智天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟が(みかり)催された。この蒲生野の行幸には大海人皇子、中臣鎌足ほか諸王群臣すべて率いての薬狩りである。
     ここで、問題の大海人皇子と額田王の歌2首の経緯とその真相なるものに迫ってみました。
     この2首が相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって「贈る歌」となっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる。
     そのような見方に立つ一つの読み方として、池田弥三郎先生の書を引用すれば「これは深刻なやりとりではない、おそらくは宴会の乱酔に天武(大海人皇子)が無骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて才女の額田王がからかいかけた。どう見積もっても、このときすでに四十才になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの「にほえる妹」などと、しっぺい返しをしたのである。」
     

  •  写真拡大。(同上)<br /><br /> この像のモデルは、大海人皇子と額田王で、仲むつまじい往時を物語る二人の銅像です。二人がこの地を訪れる人に当時の思いを語りかけている様であった。<br /> (果たして当時、二人の心情は如何なるものであったかは謎で、私は安易に推し量ることができなくはないと思います。史実に関係なく観劇として、宝塚歌劇団のミュージカル「あかねさす紫の花」を観るのも一興と考えます。)<br />             (写真・妹背の里 大海人皇子と額田王)

     写真拡大。(同上)

     この像のモデルは、大海人皇子と額田王で、仲むつまじい往時を物語る二人の銅像です。二人がこの地を訪れる人に当時の思いを語りかけている様であった。
     (果たして当時、二人の心情は如何なるものであったかは謎で、私は安易に推し量ることができなくはないと思います。史実に関係なく観劇として、宝塚歌劇団のミュージカル「あかねさす紫の花」を観るのも一興と考えます。)
                 (写真・妹背の里 大海人皇子と額田王)

  •  額田王<br />あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき<br />  野守は見ずや 君が袖ふる (1-21) <br />                (写真・妹背の里 竜王町)                                 <br /><br /> 紫草の花の咲いている野すなわち、天子の御料の野を通って、我がなつかしい君が袖を、私に思う心を示していられる。あの優美なお姿を、心なき野守は見てはどうだ。(野守を天智天皇にたとえたのだ、という説もあるがこれはこじつけである。単純に客観的の歌と見れば、いよいよ、すぐれて見える歌である。後の皇太子の御歌は、むしろ、この歌の内容に深く交渉をもったもの、と見ないがよい。)

     額田王
    あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき
      野守は見ずや 君が袖ふる (1-21) 
                    (写真・妹背の里 竜王町)                                 

     紫草の花の咲いている野すなわち、天子の御料の野を通って、我がなつかしい君が袖を、私に思う心を示していられる。あの優美なお姿を、心なき野守は見てはどうだ。(野守を天智天皇にたとえたのだ、という説もあるがこれはこじつけである。単純に客観的の歌と見れば、いよいよ、すぐれて見える歌である。後の皇太子の御歌は、むしろ、この歌の内容に深く交渉をもったもの、と見ないがよい。)

  •  この花が歌に詠まれた、紫草の花です。<br /><br /> 写真でも分かる通り、とても小さくかわいい花です。薬狩りが行われたとされる頃、私は6月9日に撮影しました。<br />                   (写真・万葉植物園 奈良市)

     この花が歌に詠まれた、紫草の花です。

     写真でも分かる通り、とても小さくかわいい花です。薬狩りが行われたとされる頃、私は6月9日に撮影しました。
                       (写真・万葉植物園 奈良市)

  •  大海人皇子<br />むらさきの にほへる妹を<br />  にくくあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (1-22) <br />                   (写真・妹背の里 竜王町)                               <br /><br /> ほれぼれするような、いとしい人だ。そのお前が憎いくらいなら既に人妻であるのに、そのお前のために、どうして私が、こんなに焦がれているものか。<br /><br /><br />

     大海人皇子
    むらさきの にほへる妹を
      にくくあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (1-22)
                       (写真・妹背の里 竜王町)                               

     ほれぼれするような、いとしい人だ。そのお前が憎いくらいなら既に人妻であるのに、そのお前のために、どうして私が、こんなに焦がれているものか。


  •  紫草の花(拡大)。前項に同じ。<br /><br /> 現在は(今日)、自生の紫草はあまり見ることができないが、6月この時期に竜王町一帯は白い可憐な花でいっぱいだったのであろう。<br />                    (写真・万葉植物園 奈良市)<br />                               

     紫草の花(拡大)。前項に同じ。

     現在は(今日)、自生の紫草はあまり見ることができないが、6月この時期に竜王町一帯は白い可憐な花でいっぱいだったのであろう。
                        (写真・万葉植物園 奈良市)
                                   

  •  奈良市矢田原町にある春日宮天皇陵(田原西陵)へ来ました。私は是非、この志貴皇子(墓)へのお参りを考えていました。本日(3月30日)は誰もおとづれる人はなく、物静かな佇まいの中で手を合わせてきました。約1300年の時を越え、この地に眠る皇子を思うと感慨深いものがあります。<br /><br /> 皇子の崩御から50年以上後の宝亀元年(770年)に聖武天皇の娘井上(いがみ)内親王を后として、母系では天武系となる他戸王(おさべおお)を儲けていた六男の白壁王が皇嗣に擁立され即位した。(光仁天皇)・・・・・・春日宮天皇の追尊。 <br />                 (春日宮天皇陵・奈良市矢田原町)

     奈良市矢田原町にある春日宮天皇陵(田原西陵)へ来ました。私は是非、この志貴皇子(墓)へのお参りを考えていました。本日(3月30日)は誰もおとづれる人はなく、物静かな佇まいの中で手を合わせてきました。約1300年の時を越え、この地に眠る皇子を思うと感慨深いものがあります。

     皇子の崩御から50年以上後の宝亀元年(770年)に聖武天皇の娘井上(いがみ)内親王を后として、母系では天武系となる他戸王(おさべおお)を儲けていた六男の白壁王が皇嗣に擁立され即位した。(光仁天皇)・・・・・・春日宮天皇の追尊。 
                     (春日宮天皇陵・奈良市矢田原町)

  •  志貴皇子。(しきのみこ)<br />いはばしる垂水の上のさ蕨の、<br />  萌え出づる春になりにけるかも (8-1418)<br />             (写真・春日宮天皇陵 奈良市矢田原町)<br />                     <br /> 岩の上を激して流れる、滝の辺(ほとり)の蕨が、生え出す春になったことだ。そのように自分の運も、これからおいおい開けて来る。(春の即興の歌として、単純化の行なわれた傑作である。)        

     志貴皇子。(しきのみこ)
    いはばしる垂水の上のさ蕨の、
      萌え出づる春になりにけるかも (8-1418)
                 (写真・春日宮天皇陵 奈良市矢田原町)
                         
     岩の上を激して流れる、滝の辺(ほとり)の蕨が、生え出す春になったことだ。そのように自分の運も、これからおいおい開けて来る。(春の即興の歌として、単純化の行なわれた傑作である。)        

  •  同上。<br /><br /> 志貴皇子和歌は、万葉植物園「わらび」で見つけました。<br />                  (写真・万葉植物園 奈良市)

     同上。

     志貴皇子和歌は、万葉植物園「わらび」で見つけました。
                      (写真・万葉植物園 奈良市)

  •  この和歌は、中学校の教科書の載る程余りにも有名でよく知られている。歌を評して、明快にして流麗なリズムで新鮮である。それ故、志貴皇子を屈指の万葉歌人と言わしめたのであろう。<br /><br />   本日、私は東山植物園へ来ました。 「岩ばしる・・・・」 、 志貴皇子 が歌った光景を思い起こしてみた私です。                                                          (写真 東山植物園・愛知)

     この和歌は、中学校の教科書の載る程余りにも有名でよく知られている。歌を評して、明快にして流麗なリズムで新鮮である。それ故、志貴皇子を屈指の万葉歌人と言わしめたのであろう。

      本日、私は東山植物園へ来ました。 「岩ばしる・・・・」 、 志貴皇子 が歌った光景を思い起こしてみた私です。                       (写真 東山植物園・愛知)

  •  志貴皇子については「万葉の世界を訪ねて 前編」で紹介しましたが、藤原宮に於ける若い皇子は果たしてどのような振る舞いであったかを再現してみました。<br /><br /> 藤原宮での皇族会議。持統天皇を中心に天武天皇、天智天皇の皇子及び孫の諸王が並ぶ中、末席に志貴皇子もいた。<br /> 雑談での持統天皇と皇子の会話。<br />「志貴皇子、そなたは酒が過ぎようぞ。額田王が褒めるほどの歌の達人じゃ。頭が悪うないのじゃから、真面目に仕事に取り組めば国のためにお役にたてようものを」<br />「有能な人物はどないせか早死にするようでございますな。それ故私はのんびりと過ごして、長生きをしたいと思うております」<br />「長生きするのも結構じゃが、そなたあちこちにご落胤と噂される赤子がおるようじゃ。卑しい女を次々に漁るよりも、妃を愛でて跡継ぎを作りなされ」<br />「わたくしごときものが跡継ぎを作って何になりましょうぞ」  ここで一同が大笑いをした。<br /> これは親子程歳が離れた姉弟(異母)の会話です。<br /><br /> この場にいる大笑いした皇子たちは、やがて夢にも思わぬ事がこの先に起こることを誰も知らなかった。 志貴皇子の子息は光仁天皇、そして孫は千年の都、平安京を築く桓武天皇を。<br /><br /> (註。歴史小説 「炎の女帝・持統天皇」 三田誠広著を引用)<br />                 (写真・春日宮天皇陵 奈良市矢田原町)

     志貴皇子については「万葉の世界を訪ねて 前編」で紹介しましたが、藤原宮に於ける若い皇子は果たしてどのような振る舞いであったかを再現してみました。

     藤原宮での皇族会議。持統天皇を中心に天武天皇、天智天皇の皇子及び孫の諸王が並ぶ中、末席に志貴皇子もいた。
     雑談での持統天皇と皇子の会話。
    「志貴皇子、そなたは酒が過ぎようぞ。額田王が褒めるほどの歌の達人じゃ。頭が悪うないのじゃから、真面目に仕事に取り組めば国のためにお役にたてようものを」
    「有能な人物はどないせか早死にするようでございますな。それ故私はのんびりと過ごして、長生きをしたいと思うております」
    「長生きするのも結構じゃが、そなたあちこちにご落胤と噂される赤子がおるようじゃ。卑しい女を次々に漁るよりも、妃を愛でて跡継ぎを作りなされ」
    「わたくしごときものが跡継ぎを作って何になりましょうぞ」  ここで一同が大笑いをした。
     これは親子程歳が離れた姉弟(異母)の会話です。

     この場にいる大笑いした皇子たちは、やがて夢にも思わぬ事がこの先に起こることを誰も知らなかった。 志貴皇子の子息は光仁天皇、そして孫は千年の都、平安京を築く桓武天皇を。

     (註。歴史小説 「炎の女帝・持統天皇」 三田誠広著を引用)
             (写真・春日宮天皇陵 奈良市矢田原町)

  •  我が家から車で約1時間程北へ行くと山県市(やまがたし)があります。 万葉の歌碑を調べていた私に朗報です。 甘南美寺に大好きな和歌(万葉歌碑)がある?と言う事で早速お出かけとなりました。<br />              (写真・甘南美寺の境内)

     我が家から車で約1時間程北へ行くと山県市(やまがたし)があります。 万葉の歌碑を調べていた私に朗報です。 甘南美寺に大好きな和歌(万葉歌碑)がある?と言う事で早速お出かけとなりました。
                  (写真・甘南美寺の境内)

  •  厚見ノ王(あつみのおほぎみ)<br />河蝦(かわず)鳴く神南備川に、影見えて、<br />  今か咲くらむ、山吹の花   (8-1435)<br />                  (写真・甘南美寺の万葉歌碑) <br />            <br /> 河鹿(かじか)のなく神南備山の裾を流れる川に、影がうつるほど、今頃はちょうど、山吹の花が咲いていることだろうよ。<br /><br /> 歌碑を見る。 残念だが文字が判読出来ないようです?。<br />       <br /><br /> (註。万葉の時代、河鹿はカジカカエルを指すといわれています。美しく、フィフィフィ・フィーとフルートのような声で鳴くと云う)                 

     厚見ノ王(あつみのおほぎみ)
    河蝦(かわず)鳴く神南備川に、影見えて、
      今か咲くらむ、山吹の花   (8-1435)
                      (写真・甘南美寺の万葉歌碑) 
                
     河鹿(かじか)のなく神南備山の裾を流れる川に、影がうつるほど、今頃はちょうど、山吹の花が咲いていることだろうよ。

     歌碑を見る。 残念だが文字が判読出来ないようです?。
           

     (註。万葉の時代、河鹿はカジカカエルを指すといわれています。美しく、フィフィフィ・フィーとフルートのような声で鳴くと云う)                 

  •  同上。上記、拡大写真。<br /><br /> 作者の「厚見王」と書かれている、間違いはなさそうです。

     同上。上記、拡大写真。

     作者の「厚見王」と書かれている、間違いはなさそうです。

  •  この歌には私自身、深い思い入れがあります。随分昔の事(結婚前の事)ですが、今は亡き母より教わった歌です。<br /><br /> 我が家(実家)は当時見渡す限り田舎の田園地帯であり、4月下旬~5月上旬の頃部屋には蛙の鳴く声が聞こえていた。又同時に近くの土手に咲く山吹の花が見えた。そんな時にこの様な状況を歌った和歌である事を母から教えられた。<br /><br /> その後の事については興味を持っていた私の事です。和歌より厚見王、神南備川、蛙、山吹を調べたのは言うまでもありません。ただ当時の記憶として、動物も植物も季節に敏感な物である事に関心感動したものです。そして万葉の昔も現代もその状況が全く変わってない事も。<br />             (写真・万葉公園の山吹の花 一宮市)<br /><br /> 

     この歌には私自身、深い思い入れがあります。随分昔の事(結婚前の事)ですが、今は亡き母より教わった歌です。

     我が家(実家)は当時見渡す限り田舎の田園地帯であり、4月下旬~5月上旬の頃部屋には蛙の鳴く声が聞こえていた。又同時に近くの土手に咲く山吹の花が見えた。そんな時にこの様な状況を歌った和歌である事を母から教えられた。

     その後の事については興味を持っていた私の事です。和歌より厚見王、神南備川、蛙、山吹を調べたのは言うまでもありません。ただ当時の記憶として、動物も植物も季節に敏感な物である事に関心感動したものです。そして万葉の昔も現代もその状況が全く変わってない事も。
                 (写真・万葉公園の山吹の花 一宮市)

     

  •  厚見王について。<br /><br /> 厚見王は奈良時代の官人、歌人です。(生没年不詳) 天武天皇の孫で舎人親王の子。 天平勝宝元年(749)、4月に無位より従五位下に叙される。同六年(754)に太皇太后、藤原宮子の御装束司(みそうぞくし)となる。同七年(755)11月の少納言在任時に伊勢神宮の奉幣使となる。<br /><br /> 道祖王が廃太子後、新太子の選定が行われた。ここで注目する点は厚見王が誰からも支持されなかった事である。おそらくは生母の身分が低かったのが原因であろう。皇太子の選定の結果であるが、仲麻呂が推挙した大炊王(後の淳仁天皇)に決まった。 彼は厚見王と異母兄弟である。<br />            (写真・万葉公園の山吹の花 一宮市)

     厚見王について。

     厚見王は奈良時代の官人、歌人です。(生没年不詳) 天武天皇の孫で舎人親王の子。 天平勝宝元年(749)、4月に無位より従五位下に叙される。同六年(754)に太皇太后、藤原宮子の御装束司(みそうぞくし)となる。同七年(755)11月の少納言在任時に伊勢神宮の奉幣使となる。

     道祖王が廃太子後、新太子の選定が行われた。ここで注目する点は厚見王が誰からも支持されなかった事である。おそらくは生母の身分が低かったのが原因であろう。皇太子の選定の結果であるが、仲麻呂が推挙した大炊王(後の淳仁天皇)に決まった。 彼は厚見王と異母兄弟である。
                (写真・万葉公園の山吹の花 一宮市)

  •  私は今日(6月9日)、明日香川を散策をしました。厚見王が見たと云う神無備川を。(余りにも小さい川で私はびっくり・・・・当時は大きかったとの事) 山吹の花の咲く頃はとっくに過ぎ、紫陽花(写真・左)が咲き始めていました。 (神無備川と呼ばれたこの川は明日香川の事とされている)<br />                  (写真・明日香川 明日香村)

     私は今日(6月9日)、明日香川を散策をしました。厚見王が見たと云う神無備川を。(余りにも小さい川で私はびっくり・・・・当時は大きかったとの事) 山吹の花の咲く頃はとっくに過ぎ、紫陽花(写真・左)が咲き始めていました。 (神無備川と呼ばれたこの川は明日香川の事とされている)
                      (写真・明日香川 明日香村)

  •  八重の山吹の花。 (註。一重咲きは結実するが八重咲きは実をつけない)<br /><br />七重八重花は咲けども山吹の<br />  (実)みのひとつだになきぞかなしき。<br />                   (写真・万葉公園 八重の山吹)   <br /><br /> 余談。この和歌は万葉集とは関係ないが「太田道灌と山吹伝説」としてここに記載しておきます。<br /> 古歌(後拾遺集)に上記の和歌があります。太田道灌が狩の途中、雨宿りに民家に来て蓑を頼んだところ、少女が黙って山吹の花を(蓑でなく)手渡した。意味を理解できず帰った太田道灌、この時を機に彼は和歌を猛勉強されたと言われています。 これはよく知られた故事逸話であります。 「蓑と実のとがかけられた」この和歌が「太田道灌と山吹伝説」として後世に広く伝えられた。<br />                          

     八重の山吹の花。 (註。一重咲きは結実するが八重咲きは実をつけない)

    七重八重花は咲けども山吹の
      (実)みのひとつだになきぞかなしき。
                       (写真・万葉公園 八重の山吹)   

     余談。この和歌は万葉集とは関係ないが「太田道灌と山吹伝説」としてここに記載しておきます。
     古歌(後拾遺集)に上記の和歌があります。太田道灌が狩の途中、雨宿りに民家に来て蓑を頼んだところ、少女が黙って山吹の花を(蓑でなく)手渡した。意味を理解できず帰った太田道灌、この時を機に彼は和歌を猛勉強されたと言われています。 これはよく知られた故事逸話であります。 「蓑と実のとがかけられた」この和歌が「太田道灌と山吹伝説」として後世に広く伝えられた。
                              

  •  休憩タイム。(写真・浮見堂 奈良市)<br /><br />桜と浮見堂。(2013.3.30)

     休憩タイム。(写真・浮見堂 奈良市)

    桜と浮見堂。(2013.3.30)

  •  同上。平城京跡。 (写真・桜と朱雀門 奈良市)<br /><br />朱雀門に立つ。(2013.3.30)

     同上。平城京跡。 (写真・桜と朱雀門 奈良市)

    朱雀門に立つ。(2013.3.30)

  •  同上。(写真・第一次大極殿 奈良市)<br /><br />春の第一次大極殿に立つ。(2013.3.30)

     同上。(写真・第一次大極殿 奈良市)

    春の第一次大極殿に立つ。(2013.3.30)

  •  同上。(写真・平城京跡 奈良市)<br /><br />平城京跡を散策。(2013.3.30)

     同上。(写真・平城京跡 奈良市)

    平城京跡を散策。(2013.3.30)

  •  同上。(写真・東院庭園 奈良市)<br /><br />美しい東院庭園。(2013.3.30)

     同上。(写真・東院庭園 奈良市)

    美しい東院庭園。(2013.3.30)

  •  同上。(写真・甘樫の丘 明日香村)<br /><br />甘樫の丘より大和三山(写真は畝傍・耳成)を望む。(2012.11,4)

     同上。(写真・甘樫の丘 明日香村)

    甘樫の丘より大和三山(写真は畝傍・耳成)を望む。(2012.11,4)

  •  同上。(写真・春日大社 奈良市)<br /><br />春日大社へお参り。(2013.6.9)

     同上。(写真・春日大社 奈良市)

    春日大社へお参り。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・東大寺大仏殿 奈良市)<br /><br />美しい大仏殿の景観。(2013.6.9)

     同上。(写真・東大寺大仏殿 奈良市)

    美しい大仏殿の景観。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・東大寺盧舎那仏像 奈良市)<br /><br /> 中学三年生の修学旅行以来。余りにも有名な奈良の大仏さん。(2013.6.9)

     同上。(写真・東大寺盧舎那仏像 奈良市)

     中学三年生の修学旅行以来。余りにも有名な奈良の大仏さん。(2013.6.9)

  •  同上。<br /><br /> 懐かしさに、もう1枚パチリ。(2013.6.9)<br /><br />

     同上。

     懐かしさに、もう1枚パチリ。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・万葉植物園 奈良市)<br /><br />花菖蒲が咲いていました。(2013.6.9)

     同上。(写真・万葉植物園 奈良市)

    花菖蒲が咲いていました。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・名勝旧大乗院庭園 奈良市)<br /><br />奈良公園の近くにある美しい庭園。(2013.6.9)<br />

     同上。(写真・名勝旧大乗院庭園 奈良市)

    奈良公園の近くにある美しい庭園。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・万葉文化館 明日香村)<br /><br />万葉時代の生活等を私に教えてくれました。(2013.6.9)<br /><br />

     同上。(写真・万葉文化館 明日香村)

    万葉時代の生活等を私に教えてくれました。(2013.6.9)

  •  同上。 (写真・せんとくん)<br /><br /> 万葉文化館の入り口にある「奈良のマスコットキャラクター・せんとくん」が私を出迎えてくれました。(2013.6.9)<br /><br /> 

     同上。 (写真・せんとくん)

     万葉文化館の入り口にある「奈良のマスコットキャラクター・せんとくん」が私を出迎えてくれました。(2013.6.9)

     

  •  同上。(写真・万葉文化館内 明日香村)<br /><br /> 私の最も興味ある奈良朝時代の三人の人物、光明子(藤三娘)・橘諸兄・藤原仲麻呂の直筆跡を見つけました。光明皇后(光明子)は歳の離れた兄(異父)の諸兄よりも、歳の差が近い甥の仲麻呂の方がお気に入りだった様です。(2013.6.9)

     同上。(写真・万葉文化館内 明日香村)

     私の最も興味ある奈良朝時代の三人の人物、光明子(藤三娘)・橘諸兄・藤原仲麻呂の直筆跡を見つけました。光明皇后(光明子)は歳の離れた兄(異父)の諸兄よりも、歳の差が近い甥の仲麻呂の方がお気に入りだった様です。(2013.6.9)

  •  同上。(写真・法隆寺夢殿 大和郡山市)<br /><br />夢殿を見学。(2013.6.22)

     同上。(写真・法隆寺夢殿 大和郡山市)

    夢殿を見学。(2013.6.22)

  •  同上。(写真・法隆寺五重の塔 大和郡山市)<br /><br />法隆寺を散策。(2013.6.22)

     同上。(写真・法隆寺五重の塔 大和郡山市)

    法隆寺を散策。(2013.6.22)

  •   同上。(写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)<br /><br />矢田寺へ行き紫陽花を見る。(2013.6.22)

     同上。(写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

    矢田寺へ行き紫陽花を見る。(2013.6.22)

  •  同上。(写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)<br /><br />紫陽花が美しく咲いていました。(2013.6.22)

     同上。(写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

    紫陽花が美しく咲いていました。(2013.6.22)

  •  同上。 (写真・浮見堂 奈良市)(2013.3.30)

     同上。 (写真・浮見堂 奈良市)(2013.3.30)

  •  作者不詳。<br />吾が夫子(せこ)を何処行かめと、<br />  割竹(そきたけ)のそがひに寝しく、今しくやしも  (7-1412)<br />               (写真・竹林公園 岩倉市)<br /><br /> あの晩腹立ちまぎれに、背中合わせに寝て、あの人が出て行くと言うたのを、どこへよう行くものか、と侮って、そのまま寝ていたことが、死んでしもうた今では、取り返しがつかない。残念なことだ。(佳作)<br />                         

     作者不詳。
    吾が夫子(せこ)を何処行かめと、
      割竹(そきたけ)のそがひに寝しく、今しくやしも  (7-1412)
                   (写真・竹林公園 岩倉市)

     あの晩腹立ちまぎれに、背中合わせに寝て、あの人が出て行くと言うたのを、どこへよう行くものか、と侮って、そのまま寝ていたことが、死んでしもうた今では、取り返しがつかない。残念なことだ。(佳作)
                             

  •  割竹。<br /><br /> この歌の枕詞「割竹(そきたけ)」について。 割った竹が向かい合わせにならないで、互に後ろ向きになるところから「背向(そがひ)」にかかる。<br />               (写真・竹林公園 岩倉市)<br /><br /> 

     割竹。

     この歌の枕詞「割竹(そきたけ)」について。 割った竹が向かい合わせにならないで、互に後ろ向きになるところから「背向(そがひ)」にかかる。
                   (写真・竹林公園 岩倉市)

     

  •  この和歌の私の感想。<br /><br /> 作者は女性である。 当時の老夫婦(40~50代と想像される)の生活感から歌であると思います。夫に先立たれた妻の思いは官能的で素敵だと考えます。<br /><br /> 些細な夫婦ケンカ、夫がいじけて家を出ると言う。(この時代・世界では家の所有は妻の様です) あんたなんか、どこへも行けるところなんかありゃしないのに、(夫を受け入れてくれる女の家なんぞ) 案の定、歌に詠まれたように夫はどこへも行けず・・・・。 死んでしまった夫を思う時、背中を向けて寝ていた妻の自責の念が伺われるようです。 私はこうした時の女性の心理はよく判りませんが、生前はつれなくしてしまった、もう少し優しくしてやればよかった、その様に歌からは読み取れます。<br /><br /> ちょっと気の弱い夫にしっかり者の妻、ごくごく身近な所で見られる光景ではありませんか?。 夫婦間に於ける感情・気質と言うものは古今一貫性があり、私はこの和歌により同様のものを日本の現代社会に見た思いが致します。              (写真・竹林公園 岩倉市)<br />                   <br /> 類似の歌。 幸福の如何なる人か、黒髪の白くなる迄妹が声聞く (7-1411) <br />こちらは妻を先に亡くした夫の歌。 

     この和歌の私の感想。

     作者は女性である。 当時の老夫婦(40~50代と想像される)の生活感から歌であると思います。夫に先立たれた妻の思いは官能的で素敵だと考えます。

     些細な夫婦ケンカ、夫がいじけて家を出ると言う。(この時代・世界では家の所有は妻の様です) あんたなんか、どこへも行けるところなんかありゃしないのに、(夫を受け入れてくれる女の家なんぞ) 案の定、歌に詠まれたように夫はどこへも行けず・・・・。 死んでしまった夫を思う時、背中を向けて寝ていた妻の自責の念が伺われるようです。 私はこうした時の女性の心理はよく判りませんが、生前はつれなくしてしまった、もう少し優しくしてやればよかった、その様に歌からは読み取れます。

     ちょっと気の弱い夫にしっかり者の妻、ごくごく身近な所で見られる光景ではありませんか?。 夫婦間に於ける感情・気質と言うものは古今一貫性があり、私はこの和歌により同様のものを日本の現代社会に見た思いが致します。              (写真・竹林公園 岩倉市)
                       
     類似の歌。 幸福の如何なる人か、黒髪の白くなる迄妹が声聞く (7-1411) 
    こちらは妻を先に亡くした夫の歌。 

  •  本日、(4月27日)越前市(福井県)にある味真野苑に行って来ました。その目的は2人の人物についてより深く探求する為です。継体天皇(けいたいてんのう)と狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)は私がこの旅行記を作成するに当たり、是非とも取り上げたいと思い、越前の味真野苑へ来てしまった次第です。            <br />                (写真・味真野苑庭園、越前市)

     本日、(4月27日)越前市(福井県)にある味真野苑に行って来ました。その目的は2人の人物についてより深く探求する為です。継体天皇(けいたいてんのう)と狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)は私がこの旅行記を作成するに当たり、是非とも取り上げたいと思い、越前の味真野苑へ来てしまった次第です。            
                    (写真・味真野苑庭園、越前市)

  •  ここ越前市は古代史、万葉集共にゆかりのある地です。<br /><br /> 万葉会館正面を入るとこの屏風絵がありました。私がこの絵を想像するに、狭野茅上娘子と中臣宅守の悲しい別れの場面のようです。<br />             (写真・味真野苑の万葉館内 越前市)

     ここ越前市は古代史、万葉集共にゆかりのある地です。

     万葉会館正面を入るとこの屏風絵がありました。私がこの絵を想像するに、狭野茅上娘子と中臣宅守の悲しい別れの場面のようです。
                 (写真・味真野苑の万葉館内 越前市)

  •  味真野苑の駐車場にある万葉歌碑。後方に万葉館が見える。<br /><br /> この歌碑は、おそらく狭野茅上娘子(15-3770)のではなかろうか? (しっかりと調べていない)<br />               (写真・味真野苑 越前市)

     味真野苑の駐車場にある万葉歌碑。後方に万葉館が見える。

     この歌碑は、おそらく狭野茅上娘子(15-3770)のではなかろうか? (しっかりと調べていない)
                   (写真・味真野苑 越前市)

  •  継体天皇(けいたいてんのう)の出目と皇位継承の謎。<br /><br /> 神武天皇より数えて第26代の天皇、・・・・ここで述べる継体天皇、その人である。 現皇室は神武より万世一系と云われて来ましたが、果たして実際はどうなのか?、その核心的な天皇の1人が継体天皇です。(他に崇神天皇・応神天皇があり)<br />            (写真・継体天皇の像 味真野苑 越前市)<br /><br /> 506年、武烈天皇が崩御され皇統の血が絶えた。越前(近江とも?)に住む豪族、男大迹王(をほどのおおぎみ)に白羽の矢を立てた。彼は応神天皇の五世の孫である。時の大和朝廷の重鎮豪族、大連大伴金村が(合議の上)男大迹王を越国より出迎えた。 記紀に書かれたおおよその内容がこれである。(厳密には古事記と日本書紀には内容に隔たりがある)<br /><br /> 戦後、古代史の研究の中で継体天皇の皇位の簒奪、新王朝論が展開された。そのひとつに水野祐氏が提唱した王朝交替説によれば、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」である。<br /><br /> 日本書紀の記述によれば、507年に大和朝廷の群臣の要請により即位したとなっている。そして前王朝につながる手白香皇女を皇后として娶った。しかし継体はその後約20年大和へ入れなかった。旧勢力の抵抗が大きかったことが見受けられる。(記紀が述べる群臣の要請による即位にはかなりの無理がある) 何らかの妥協か、(皇女の出生児を皇統に・・・後の欽明天皇) 又は政治勢力の変化かは分からないが苦難の末大和を征服した継体は、大和朝廷の第26代の天皇となった。

     継体天皇(けいたいてんのう)の出目と皇位継承の謎。

     神武天皇より数えて第26代の天皇、・・・・ここで述べる継体天皇、その人である。 現皇室は神武より万世一系と云われて来ましたが、果たして実際はどうなのか?、その核心的な天皇の1人が継体天皇です。(他に崇神天皇・応神天皇があり)
                (写真・継体天皇の像 味真野苑 越前市)

     506年、武烈天皇が崩御され皇統の血が絶えた。越前(近江とも?)に住む豪族、男大迹王(をほどのおおぎみ)に白羽の矢を立てた。彼は応神天皇の五世の孫である。時の大和朝廷の重鎮豪族、大連大伴金村が(合議の上)男大迹王を越国より出迎えた。 記紀に書かれたおおよその内容がこれである。(厳密には古事記と日本書紀には内容に隔たりがある)

     戦後、古代史の研究の中で継体天皇の皇位の簒奪、新王朝論が展開された。そのひとつに水野祐氏が提唱した王朝交替説によれば、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」である。

     日本書紀の記述によれば、507年に大和朝廷の群臣の要請により即位したとなっている。そして前王朝につながる手白香皇女を皇后として娶った。しかし継体はその後約20年大和へ入れなかった。旧勢力の抵抗が大きかったことが見受けられる。(記紀が述べる群臣の要請による即位にはかなりの無理がある) 何らかの妥協か、(皇女の出生児を皇統に・・・後の欽明天皇) 又は政治勢力の変化かは分からないが苦難の末大和を征服した継体は、大和朝廷の第26代の天皇となった。

  •  継体天皇と照日の前の像。「花筐(はながたみ)」像。<br />                    (写真・味真野苑 越前市)<br /><br />     継体天皇と照日前(てるひのまえ)の愛の物語。 <br /> 第25代武烈天皇に後継ぎがなく、越国にいた応神天皇5世の孫の男大迹王が第26代継体天皇として迎えられた。 突然に都とここ味真野になった二人が、苦難の道を経て再び都で再会する。

     継体天皇と照日の前の像。「花筐(はながたみ)」像。
                        (写真・味真野苑 越前市)

         継体天皇と照日前(てるひのまえ)の愛の物語。 
     第25代武烈天皇に後継ぎがなく、越国にいた応神天皇5世の孫の男大迹王が第26代継体天皇として迎えられた。 突然に都とここ味真野になった二人が、苦難の道を経て再び都で再会する。

  •  継体天皇の王朝交替に関する新聞記事。(私が朝日新聞より切り抜きしました・・・2012年11月頃)

     継体天皇の王朝交替に関する新聞記事。(私が朝日新聞より切り抜きしました・・・2012年11月頃)

  •  これが継体天皇の系図です。記紀が示す様に継体は応神の五世の孫である。前王朝につながる手白香皇女と結婚(皇后)する事により内外に皇位継承の正当性を示したとされます。<br /><br /> 私は万世一系とか、新王朝の始まりかと言う論議も興味ではあるが、以後1500年を経て、その子孫が現皇室として存在している事の方が大きな事と思います。当時の伝承と言うものが記紀により残されたのは1つ(2つと言った方が)の日本の財産と考えます。今日こうした書物があり、私に感動を与えてくれる事は嬉しい限りです。<br />  (註。記紀は古事記と日本書紀をさす)

     これが継体天皇の系図です。記紀が示す様に継体は応神の五世の孫である。前王朝につながる手白香皇女と結婚(皇后)する事により内外に皇位継承の正当性を示したとされます。

     私は万世一系とか、新王朝の始まりかと言う論議も興味ではあるが、以後1500年を経て、その子孫が現皇室として存在している事の方が大きな事と思います。当時の伝承と言うものが記紀により残されたのは1つ(2つと言った方が)の日本の財産と考えます。今日こうした書物があり、私に感動を与えてくれる事は嬉しい限りです。
      (註。記紀は古事記と日本書紀をさす)

  •  狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)<br />君が行く道の長道(ながて)を繰りたたね、<br />  焼きほろぼさむ天(あま)のひもがも (15-3724)<br />               (写真・味真野苑 越前市)  <br /><br /> これから、いとしい方がいらっしゃる、道の遠い距離を手繰り寄せ畳み重ねて、焼いてなくして終うことが出来る、天の火がほしいものだ。 (そうしたら越前と都と、遠い距離もなくなるだろう、烈しい情熱で、かよわい女の身に、神がかりしたような歌である。傑作。)<br />                        

     狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)
    君が行く道の長道(ながて)を繰りたたね、
      焼きほろぼさむ天(あま)のひもがも (15-3724)
                   (写真・味真野苑 越前市)  

     これから、いとしい方がいらっしゃる、道の遠い距離を手繰り寄せ畳み重ねて、焼いてなくして終うことが出来る、天の火がほしいものだ。 (そうしたら越前と都と、遠い距離もなくなるだろう、烈しい情熱で、かよわい女の身に、神がかりしたような歌である。傑作。)
                            

  •  拡大写真。<br /><br />   この歌に対しての私の感想・・・・・。<br /> これ程の烈しい相聞歌はないでしょう!。 女の情念と云うか、いささか身の毛の立つ思いです。古今の万葉集研究者、学者及び愛好家が押しなべてこの和歌を絶賛しています。「私とあなたの間にある長い道をたたんで焼いて無くしてしまう火があったらいいのに・・・・」 この彼女思い、他にない表現方の独創性、感性の鋭さにすべての読者が圧倒されてしまったのではなかろうか。 秀歌である所以は、真にここにあると私は思います。<br />                                   (写真・味真野苑 越前市)

     拡大写真。

       この歌に対しての私の感想・・・・・。
     これ程の烈しい相聞歌はないでしょう!。 女の情念と云うか、いささか身の毛の立つ思いです。古今の万葉集研究者、学者及び愛好家が押しなべてこの和歌を絶賛しています。「私とあなたの間にある長い道をたたんで焼いて無くしてしまう火があったらいいのに・・・・」 この彼女思い、他にない表現方の独創性、感性の鋭さにすべての読者が圧倒されてしまったのではなかろうか。 秀歌である所以は、真にここにあると私は思います。
                    (写真・味真野苑 越前市)

  •  歌碑の近くに立て札がありました。<br /><br /> こちらの方が現代風で分かりやすいかと思います。<br />                    (写真・味真野苑 越前市)

     歌碑の近くに立て札がありました。

     こちらの方が現代風で分かりやすいかと思います。
                        (写真・味真野苑 越前市)

  •  都から、ここ味真野苑までの道。 君が行く道の長道を繰りたたね・・・・・狭野茅上娘子が思いを馳せたであろう道です。<br />                 (写真・味真野苑 越前市)

     都から、ここ味真野苑までの道。 君が行く道の長道を繰りたたね・・・・・狭野茅上娘子が思いを馳せたであろう道です。
                     (写真・味真野苑 越前市)

  •  禁じれた恋(結婚)・・・・・・・・・・このタイトルに関するコメントを述べたいと思います。<br /><br /> 聖武天皇の御世、天平10年(738)頃の事であった。宮中に奉仕(天皇の側近に使えていたとされる)していた狭野茅上娘子は中臣宅守と深い愛情を交わすに至った。当時の恋愛結婚に於いては、現代同様に比較的自由であった様です。 がしかし、宮中に奉仕する女官が、宮人・廷臣とひそかに私通することは話は別でご法度、禁じられ許されなかった様です。天皇の怒りを買ったかはさだかではないが、中臣宅守は越国(現越前市味真野苑)に流罪となった。その当時の二人が交わした相聞歌が63首あり、万葉集に載せられた歌は現在に残っています。<br />            (写真・万葉館内の絵画 越前市)

     禁じれた恋(結婚)・・・・・・・・・・このタイトルに関するコメントを述べたいと思います。

     聖武天皇の御世、天平10年(738)頃の事であった。宮中に奉仕(天皇の側近に使えていたとされる)していた狭野茅上娘子は中臣宅守と深い愛情を交わすに至った。当時の恋愛結婚に於いては、現代同様に比較的自由であった様です。 がしかし、宮中に奉仕する女官が、宮人・廷臣とひそかに私通することは話は別でご法度、禁じられ許されなかった様です。天皇の怒りを買ったかはさだかではないが、中臣宅守は越国(現越前市味真野苑)に流罪となった。その当時の二人が交わした相聞歌が63首あり、万葉集に載せられた歌は現在に残っています。
                (写真・万葉館内の絵画 越前市)

  •  中臣宅守<br />ちりひぢの数にもあらぬ我故に、<br />  思ひわぶらむ妹が、かなしさ (16-3727)<br />               (写真・味真野苑 越前市)<br /><br /> 塵か泥のような、数の中のも這入らない、身分のようなものだのに。そのために、焦がれて悲観していらっしゃる。いとしい人のかあゆいことよ。<br /><br />   中臣宅守についてのコメント。<br /> 一説に中臣宅守は鎌足の曾孫、仲麻呂とは従兄弟(いとこ)、或いはまた従兄弟と云われています。 私見ですがエリート官僚の身分にしては、自らを塵か泥に譬えている点、女々しく男としていささか情けない。 都落ちの心情(ショック)はよく解りますが、それに比べて女の方(狭野茅上娘子)は前向きで極めて気丈夫であると思う。<br />                        

     中臣宅守
    ちりひぢの数にもあらぬ我故に、
      思ひわぶらむ妹が、かなしさ (16-3727)
                   (写真・味真野苑 越前市)

     塵か泥のような、数の中のも這入らない、身分のようなものだのに。そのために、焦がれて悲観していらっしゃる。いとしい人のかあゆいことよ。

       中臣宅守についてのコメント。
     一説に中臣宅守は鎌足の曾孫、仲麻呂とは従兄弟(いとこ)、或いはまた従兄弟と云われています。 私見ですがエリート官僚の身分にしては、自らを塵か泥に譬えている点、女々しく男としていささか情けない。 都落ちの心情(ショック)はよく解りますが、それに比べて女の方(狭野茅上娘子)は前向きで極めて気丈夫であると思う。
                            

  •  持統天皇<br />春過ぎて夏来るらし、<br />  白栲(しらたえ)の衣乾したり。天の香具山 (1-28)<br />              (写真・醍醐池 橿原市)<br /><br /> 春がすんで、今夏が来ついたに違いない。真白な栲の衣を乾してあるのが見える。天の香具山の辺で。<br /><br />(註。白栲(しらたえ)・楮(こうぞ)などの樹皮からの繊維で織りあげた白布で製った衣。天の香具山・天から降ってきたとの伝承あり、それゆえ「天の」が付いた。)

     持統天皇
    春過ぎて夏来るらし、
      白栲(しらたえ)の衣乾したり。天の香具山 (1-28)
                  (写真・醍醐池 橿原市)

     春がすんで、今夏が来ついたに違いない。真白な栲の衣を乾してあるのが見える。天の香具山の辺で。

    (註。白栲(しらたえ)・楮(こうぞ)などの樹皮からの繊維で織りあげた白布で製った衣。天の香具山・天から降ってきたとの伝承あり、それゆえ「天の」が付いた。)

  •  この歌碑は醍醐池の東の畔にありました。 写真は、初夏の雑草の中に香具山を背にひっそりと佇んでいる光景です。

     この歌碑は醍醐池の東の畔にありました。 写真は、初夏の雑草の中に香具山を背にひっそりと佇んでいる光景です。

  •  この和歌は、小倉百人一首にも選ばれていた事もありおなじみな和歌です。<br /><br /> おそらくは、持統天皇は藤原宮から香具山を眺めて詠んだのであろう。香具山の緑を背景に真っ白な衣が乾してあるのが目に浮かぶ、もう夏の季節だ。女帝の堂々とした風格を感じさせると同時に、又季節感が素晴らしい歌だと私は思います。<br /> 私もあやかって藤原宮跡から天の香具山を眺めました。夏が来た(6月9日)の香具山に、当たり前の事ながら白栲の衣は見ることは出来ませんでした。<br />            (写真・藤原宮からの天の香具山 橿原市)

     この和歌は、小倉百人一首にも選ばれていた事もありおなじみな和歌です。

     おそらくは、持統天皇は藤原宮から香具山を眺めて詠んだのであろう。香具山の緑を背景に真っ白な衣が乾してあるのが目に浮かぶ、もう夏の季節だ。女帝の堂々とした風格を感じさせると同時に、又季節感が素晴らしい歌だと私は思います。
     私もあやかって藤原宮跡から天の香具山を眺めました。夏が来た(6月9日)の香具山に、当たり前の事ながら白栲の衣は見ることは出来ませんでした。
                (写真・藤原宮からの天の香具山 橿原市)

  •  甘樫の丘から眺めた天の香具山。<br />            (写真・甘樫の丘 明日香村 2012.11.2撮影)

     甘樫の丘から眺めた天の香具山。
                (写真・甘樫の丘 明日香村 2012.11.2撮影)

  •  持統天皇(645~702)の略伝。<br /><br /> 天智天皇の第二皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂のむすめ越智娘(おちのいらつめ)。叔父の大海人皇子に嫁ぎ、草壁皇子を生む。父帝崩御の後、夫に従って吉野に逃れ、壬申の乱に勝利した後は、皇后として政治を補佐した。天武天皇崩御後、皇位を継承し引き続き律令政治の確立に努める。持統八年(694)、藤原京遷都、同十年(696)、孫の文武天皇に譲位し、史上最初の太上天皇となる。大宝二年十二月二十二日崩御。五十八歳。     <br />            (写真・天武 持統天皇陵 明日香村)

     持統天皇(645~702)の略伝。

     天智天皇の第二皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂のむすめ越智娘(おちのいらつめ)。叔父の大海人皇子に嫁ぎ、草壁皇子を生む。父帝崩御の後、夫に従って吉野に逃れ、壬申の乱に勝利した後は、皇后として政治を補佐した。天武天皇崩御後、皇位を継承し引き続き律令政治の確立に努める。持統八年(694)、藤原京遷都、同十年(696)、孫の文武天皇に譲位し、史上最初の太上天皇となる。大宝二年十二月二十二日崩御。五十八歳。     
                (写真・天武 持統天皇陵 明日香村)

  •  父への愛憎と蘇我の血。<br /><br /> 持統天皇を恐怖独裁の女帝と言われる根拠に幼児期の父への愛憎をあげる人がいます。そこで私は鵜野讃良皇女(持統天皇)の幼少期(4歳~13歳)を検証&考察してみたいと思います。<br /> <br /> 父の中大兄皇子(天智天皇)は、勇猛果断、冷徹非常その強靭な精神力で政敵を次々打ち破ってきた。(蘇我宗家の蝦夷入鹿の父子、・・大化の改新、続いて兄の古人大兄皇子、舅の蘇我倉山田石川麻呂、そして有間皇子)<br /> 鵜野讃良皇女が4歳の時(649)、母越智媛(おちのひめ)が(祖父の蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪で自殺した時)ノイローゼによる後追い自殺した。大きなショックだったに違いない。まずこの事が、彼女のこの先の人生を大きく変えたのではなかろうか。<br /><br /> 鵜野讃良皇女13歳の時、叔父の大海人皇子と結婚する。これは父による政略結婚です。その時、皇室(朝廷内)に蘇我の血を残そうと考えたかは信じがたい事だが、・・・・その後は夫に従い、壬申の乱を勝ち抜き皇后そして天皇となった後はその思いは顕著にあらわれる。 我が子草壁皇子(妻の元明天皇の母は姪媛(めいひめ)で蘇我氏)、孫の文徳天皇(母は元明天皇)を皇統と定めたのは当然の事です。 <br /> そして今一つ、注目すべきは長屋王です。長屋王の母は御名部皇女(元明天皇の実姉)で、妻吉備内親王の母は元明天皇で双方の母は蘇我の出です。持統天皇はこの良血の家系(天智・蘇我の血)に特に皇統の資格を与えたのは当然の事と思われます。<br /><br /> 持統天皇は父天智天皇を憎み、同時にその血筋と滅んでいった蘇我氏の血を共に誇りに感じていたに違いない。自らがそうであるように・・・・・。<br />             (写真・藤原宮跡 橿原市)  

     父への愛憎と蘇我の血。

     持統天皇を恐怖独裁の女帝と言われる根拠に幼児期の父への愛憎をあげる人がいます。そこで私は鵜野讃良皇女(持統天皇)の幼少期(4歳~13歳)を検証&考察してみたいと思います。
     
     父の中大兄皇子(天智天皇)は、勇猛果断、冷徹非常その強靭な精神力で政敵を次々打ち破ってきた。(蘇我宗家の蝦夷入鹿の父子、・・大化の改新、続いて兄の古人大兄皇子、舅の蘇我倉山田石川麻呂、そして有間皇子)
     鵜野讃良皇女が4歳の時(649)、母越智媛(おちのひめ)が(祖父の蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪で自殺した時)ノイローゼによる後追い自殺した。大きなショックだったに違いない。まずこの事が、彼女のこの先の人生を大きく変えたのではなかろうか。

     鵜野讃良皇女13歳の時、叔父の大海人皇子と結婚する。これは父による政略結婚です。その時、皇室(朝廷内)に蘇我の血を残そうと考えたかは信じがたい事だが、・・・・その後は夫に従い、壬申の乱を勝ち抜き皇后そして天皇となった後はその思いは顕著にあらわれる。 我が子草壁皇子(妻の元明天皇の母は姪媛(めいひめ)で蘇我氏)、孫の文徳天皇(母は元明天皇)を皇統と定めたのは当然の事です。 
     そして今一つ、注目すべきは長屋王です。長屋王の母は御名部皇女(元明天皇の実姉)で、妻吉備内親王の母は元明天皇で双方の母は蘇我の出です。持統天皇はこの良血の家系(天智・蘇我の血)に特に皇統の資格を与えたのは当然の事と思われます。

     持統天皇は父天智天皇を憎み、同時にその血筋と滅んでいった蘇我氏の血を共に誇りに感じていたに違いない。自らがそうであるように・・・・・。
                 (写真・藤原宮跡 橿原市)  

  •  左大臣橘諸兄。(たちばなのもろえ)<br /><br />紫陽花の八重咲く如く、<br />  弥つ代にもいませ。わが兄子。(せこ)見つつ偲ばむ (20-4448)<br />            (写真・東山植物園 名古屋市)<br /><br /> 紫陽花が幾重にも咲くように、いついつまでもいらっしゃいませ。あなた。(紫陽花のように) お顔を見ながら、お慕い申しておりましょう。

     左大臣橘諸兄。(たちばなのもろえ)

    紫陽花の八重咲く如く、
      弥つ代にもいませ。わが兄子。(せこ)見つつ偲ばむ (20-4448)
                (写真・東山植物園 名古屋市)

     紫陽花が幾重にも咲くように、いついつまでもいらっしゃいませ。あなた。(紫陽花のように) お顔を見ながら、お慕い申しておりましょう。

  •  万葉集で紫陽花を詠んだ歌は二首で他には大伴家持の歌のみです。上記、諸兄の歌についてのコメント。<br /> 八つ代(弥つ代)にもいませは、いついつまでもいらっしゃいと永続性を強調しています。私はこの歌を競馬予想に例えるならば無印です。(決してヘタと申してはいません) おそらくは公家仲間との宴会の席で詠まれた、余興の歌と想像します。<br /><br /> 今日は、(6月22日)矢田寺へ紫陽花を見に訪れました。<br />            (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)<br /> <br /> 

     万葉集で紫陽花を詠んだ歌は二首で他には大伴家持の歌のみです。上記、諸兄の歌についてのコメント。
     八つ代(弥つ代)にもいませは、いついつまでもいらっしゃいと永続性を強調しています。私はこの歌を競馬予想に例えるならば無印です。(決してヘタと申してはいません) おそらくは公家仲間との宴会の席で詠まれた、余興の歌と想像します。

     今日は、(6月22日)矢田寺へ紫陽花を見に訪れました。
                (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)
     
     

  •  橘諸兄(684?757)について。<br /><br /> 橘諸兄は大伴家持と共に万葉集の選者とされています。(どの程度関わったは分からないが家持一人ではなさそう)<br /><br /> 諸兄は美努王(みののおおぎみ)の子。敏達天皇より五世の裔(まつえい)とされています。初め葛城王と称した。母は県犬養三千代(橘三千代)で光明子は異父妹にあたる。(三千代は後に不比等と結婚する) 同母妹に牟漏女王(房前室)がいる。藤原不比等の娘多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある。<br /> (註 最後の事項が疑問で、多比能の母は県犬養三千代とあるから、諸兄とは同母兄妹の近親婚となり、どこかが間違っている)<br />           (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

     橘諸兄(684?757)について。

     橘諸兄は大伴家持と共に万葉集の選者とされています。(どの程度関わったは分からないが家持一人ではなさそう)

     諸兄は美努王(みののおおぎみ)の子。敏達天皇より五世の裔(まつえい)とされています。初め葛城王と称した。母は県犬養三千代(橘三千代)で光明子は異父妹にあたる。(三千代は後に不比等と結婚する) 同母妹に牟漏女王(房前室)がいる。藤原不比等の娘多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある。
     (註 最後の事項が疑問で、多比能の母は県犬養三千代とあるから、諸兄とは同母兄妹の近親婚となり、どこかが間違っている)
               (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

  •  ラッキー!、出世する諸兄。<br /><br /><br /> 諸兄の官位の昇叙には目を見張るものがある。彼は、母(橘三千代又は犬養三千代)と後の夫である不比等に引き立てられた事もある。大転機は737年に疱瘡(ほうそう)が流行し、藤原四兄弟をはじめほとんどの公家が死亡していなくなった事です。残ったのは諸兄と鈴鹿王(長屋王の弟)の二人ぐらい。この事は、長屋王のおん霊だと実しやかに噂されたのである。<br /> 諸兄は同年に大納言、翌年に右大臣、以来一の上として756年に致仕するまで18年間政権の首座にあった。<br />             (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

     ラッキー!、出世する諸兄。


     諸兄の官位の昇叙には目を見張るものがある。彼は、母(橘三千代又は犬養三千代)と後の夫である不比等に引き立てられた事もある。大転機は737年に疱瘡(ほうそう)が流行し、藤原四兄弟をはじめほとんどの公家が死亡していなくなった事です。残ったのは諸兄と鈴鹿王(長屋王の弟)の二人ぐらい。この事は、長屋王のおん霊だと実しやかに噂されたのである。
     諸兄は同年に大納言、翌年に右大臣、以来一の上として756年に致仕するまで18年間政権の首座にあった。
                 (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

  •  紫陽花。<br />            (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

     紫陽花。
                (写真・紫陽花 矢田寺 大和郡山市)

  •  大伴坂上郎女。(おおとものさかのうえのいらつめ)<br />夏の野の茂みに咲ける姫百合の。<br />  知らえぬ恋ひは、苦しきものを  (8-1500)<br />              (写真・ 万葉植物園 奈良市)<br /><br /> 夏の野の草の茂っている中に、咲いている姫百合ではないが、思う人に知られないで、焦がれているのは、苦しいものだ。<br /><br />

     大伴坂上郎女。(おおとものさかのうえのいらつめ)
    夏の野の茂みに咲ける姫百合の。
      知らえぬ恋ひは、苦しきものを  (8-1500)
                  (写真・ 万葉植物園 奈良市)

     夏の野の草の茂っている中に、咲いている姫百合ではないが、思う人に知られないで、焦がれているのは、苦しいものだ。

  •    宮城県の万葉の森にある、ひめゆりの歌碑。<br /> 私の調べではひめゆりの歌碑として存在するのはこの地だけかもしれない?。 <br /><br /> この和歌の私の感想ですが、「こんな素晴らしい和歌があるもんだ!」と思ったものです。 この歌との出会いは十代で、若気の甘い感傷と言われればそれまでだが、当時の万葉著書のこの歌の評価に(無印)大いに不満を持ったものです。 後年、永井路子氏の「万葉恋歌」での賛辞を見て知り、嬉しくも心救われた記憶があります。                 <br />            (写真 ネットより 宮城 万葉の森の歌碑)

       宮城県の万葉の森にある、ひめゆりの歌碑。
     私の調べではひめゆりの歌碑として存在するのはこの地だけかもしれない?。 

     この和歌の私の感想ですが、「こんな素晴らしい和歌があるもんだ!」と思ったものです。 この歌との出会いは十代で、若気の甘い感傷と言われればそれまでだが、当時の万葉著書のこの歌の評価に(無印)大いに不満を持ったものです。 後年、永井路子氏の「万葉恋歌」での賛辞を見て知り、嬉しくも心救われた記憶があります。                 
                (写真 ネットより 宮城 万葉の森の歌碑)

  •  本日(6月22日)、奈良万葉植物園を訪れました。楽しみにしていた姫百合が咲いていました。<br />                   (写真・万葉植物園前 奈良市)

     本日(6月22日)、奈良万葉植物園を訪れました。楽しみにしていた姫百合が咲いていました。
                       (写真・万葉植物園前 奈良市)

  •   大伴坂上郎女について。<br /><br /> 生没年不詳。<br /> 大伴安麻呂の娘で、大伴家持の父大伴旅人の異母妹。<br /> 大伴家持の叔母で姑に当たる。<br /> 長女の大伴坂上大嬢も歌人で家持と結婚した。<br /> 次女の大伴坂上二嬢は大伴駿河麻呂と結婚した。<br /> 「万葉集」の代表的女流歌人の一人で、<br /> 女流歌人の中では最も多くの歌が収録されている。<br /> また、「万葉集」の編纂にも関わったとされる。<br /> 彼女は始め、穂積皇子の妻となり、穂積皇子の死去後は、<br /> 藤原不比等の四男の藤原麻呂と、一時は恋愛関係にあった<br /> ようである。<br /> その後、彼とは別れた。同族で異母兄の大伴宿奈麻呂と<br /> 結婚。<br /> 彼との間に、長女の大伴坂上大嬢、大伴坂上二嬢が生まれ<br /> た。<br />           (写真・姫百合 万葉植物園 奈良市)<br />

      大伴坂上郎女について。

     生没年不詳。
     大伴安麻呂の娘で、大伴家持の父大伴旅人の異母妹。
     大伴家持の叔母で姑に当たる。
     長女の大伴坂上大嬢も歌人で家持と結婚した。
     次女の大伴坂上二嬢は大伴駿河麻呂と結婚した。
     「万葉集」の代表的女流歌人の一人で、
     女流歌人の中では最も多くの歌が収録されている。
     また、「万葉集」の編纂にも関わったとされる。
     彼女は始め、穂積皇子の妻となり、穂積皇子の死去後は、
     藤原不比等の四男の藤原麻呂と、一時は恋愛関係にあった
     ようである。
     その後、彼とは別れた。同族で異母兄の大伴宿奈麻呂と
     結婚。
     彼との間に、長女の大伴坂上大嬢、大伴坂上二嬢が生まれ
     た。
               (写真・姫百合 万葉植物園 奈良市)

  •  ささゆり。 6月9日、万葉植物園を訪れた時の写真です。うすいピンクかかった清楚な百合です。果たして大伴坂上郎女が見たと云う百合はささゆり?           (写真・ささゆり 万葉植物園 奈良市)

     ささゆり。 6月9日、万葉植物園を訪れた時の写真です。うすいピンクかかった清楚な百合です。果たして大伴坂上郎女が見たと云う百合はささゆり?           (写真・ささゆり 万葉植物園 奈良市)

  •   姫百合とこの歌について。<br /><br /> 日本又は朝鮮半島原産。主に西日本に分布。夏、6月頃に濃いだいだい色の6弁花が咲く。<br /> 現在、自生の姫百合を見かけるのは非常に難しい。九州阿蘇地方でよく見かけると言います。絶滅危惧種?に近い。<br />              (写真・姫百合 万葉植物園 奈良市)<br /><br /> この歌に詠まれた姫百合?、実はささゆりではないかとも言われています。ことの真意は今となっては分かりません。姫百合の姫は小さいと言う意味、小さいが目いっぱいに赤く、「私はここにいますよ!」と存在を訴えている様子は可愛くも又いじらしく感じます。やはり、大伴坂上郎女が見て詠んだのは姫百合だと私は思います。<br />             <br /> 恋多き大伴坂上郎女のことです、自らを可憐で艶やかな赤い姫百合に譬えた歌と云えます。果たしてお相手は誰だったのでしょう、残念ながらこの歌に関する資料は残っていない様です。<br /><br /> 歌の大意の姫百合とはいきませんでしたが、切なく淡い片恋は私もその体験者の一人です。過ぎし遠い日の良き思い出として、この歌と共に今も心に残っています。    <br />       ー万葉の世界を訪ねて 後編 おわりー<br /><br /> <br /><br /> 

      姫百合とこの歌について。

     日本又は朝鮮半島原産。主に西日本に分布。夏、6月頃に濃いだいだい色の6弁花が咲く。
     現在、自生の姫百合を見かけるのは非常に難しい。九州阿蘇地方でよく見かけると言います。絶滅危惧種?に近い。
                  (写真・姫百合 万葉植物園 奈良市)

     この歌に詠まれた姫百合?、実はささゆりではないかとも言われています。ことの真意は今となっては分かりません。姫百合の姫は小さいと言う意味、小さいが目いっぱいに赤く、「私はここにいますよ!」と存在を訴えている様子は可愛くも又いじらしく感じます。やはり、大伴坂上郎女が見て詠んだのは姫百合だと私は思います。
                 
     恋多き大伴坂上郎女のことです、自らを可憐で艶やかな赤い姫百合に譬えた歌と云えます。果たしてお相手は誰だったのでしょう、残念ながらこの歌に関する資料は残っていない様です。

     歌の大意の姫百合とはいきませんでしたが、切なく淡い片恋は私もその体験者の一人です。過ぎし遠い日の良き思い出として、この歌と共に今も心に残っています。    
           ー万葉の世界を訪ねて 後編 おわりー

     

     

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この旅行記へのコメント (45)

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  • しにあの旅人さん 2021/01/19 07:46:12
    おはようございます
    「万葉の世界を訪ねて」2編、何度も読み、楽しませていただきました。
    同じような古代の旅を楽しむ方がおられて、うれしいかぎりです。私のブログにも来て頂いているのでお分かりのように、私はどちらかというと日本書紀、続日本紀など歴史書をひっくり返して楽しんでおります。しかもそのアラ探し、意地悪よみを楽しむという、いささか悪趣味であります。
    万葉集はアラを探しにくく、あまり得意としていません。
    このブログを拝見して、もっと素直に古代に接したほうがいいかなと、思ったりいたします。道の辺の美しい花など写真に撮られる余裕が羨ましい。

    万葉集と歴史書が交差するところがいくつもあります。平城京跡とか、かぎろいの丘、飛鳥など。違う方向からやってきてばったり出会ったような感じで、ものが立体的に見えて、嬉しくなります。
    これから、万葉集のウラを日本書紀からとりに行くようなブログを書こうと思っております。
    古代を縦に旅する同好の士がまたお一人増えて、面白いお話ができるかと、これからが楽しみです。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2021/01/19 10:58:18
    Re: 当旅行記を見て頂きありありがとうございます
     こんにちは、この度は書込みを頂きありがとうございます。

     昨今、小生の旅行記を見て頂き嬉しく思っています。 とは申せ、いささか恥ずかしくもあり、又同じ思いを持つ同士を得た思いでもあります。

     しにあの旅人さんの日本の歴史書(特に日本書紀)に対する造詣の深さには感心します。 明日香等の地を地道に廻られて、古墳・墓の特定に寄与される姿はまさに専門の分野です。 日本の将来の歴史に新しい一歩となるといいですね。

     小生の旅行記について。 万葉集でおっしゃる、「道辺の美しい花に思いを」なんていいですねぇ~、作者と同化したい小生はきっとそんな思いなんでしょう。

     日本書記に詳しい、しにあの旅人さんへ。 ひとつ質問をよろしくお願いいたします。 天智・天武天皇(同母兄弟)さんの年齢です。確か、享年を逆算すると天武さんの方が上になります?。(本当の兄弟さへも疑問?) 甥と叔母の結婚で草壁皇子・元明天皇、あるいは大津皇子・山辺皇女は、1歳違い(姉さん女房)で問題はないと思います。 出来ましたら、天武天皇さんの生年をお教えください。 よろしくお願いします。

     古代歴史観を熱く語る、しにあの旅人さん。 これからもより多くの旅行記の投稿をお願いします。 楽しみにしています、見せてもらいますよ。
                         ryuji




    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/01/19 12:29:21
    Re: おはようございます
    過分のお褒めの言葉で、お恥ずかしい。褒められると調子に乗る子ですので、これからもどんどん奇説妄説をぶち上げたいと思います。お付き合いください。

    天武天皇の年齢ですが、ウイキペディア以上のことは知りません。いずれにしても、この時代の史料は、日本書紀、万葉集以外ありません。百歩譲って続日本紀。日本書紀が天武天皇の生年を明示していないので、続日本紀、万葉集から推定できない以上、不明でいいと思います。
    書紀天武天皇紀冒頭に、天武は天智の同母弟と書いてあります。これも上記同時代資料から覆せないなら、弟でいいと思います。
    崩御の時も年齢書いてありません。書紀では天皇の年齢を書かないのは普通だそうですから、特に隠したわけではないようです。
    後年、私のような妄説大好き古代ファンに話題を提供しようという、書紀編集者の深謀遠慮と感謝しております。

    この問題、中世資料が簡単に手に入るなら、実は私もつついてみたい気満々です。
    しかし天武持統天皇陵のとき、「阿不畿乃山稜記」を見たいと思ったら、やれ奈良のナントカ図書館に行けだの、国会図書館だの、七面倒くさくてやめました。
    多分同じ。素人が手を出せる話ではないようです。
  • senseさん 2018/08/02 10:17:29
    まさに、旅行記を超えた。文学書!
    素晴らしい!
    猛暑の中、ryujiさん。いかがお過ごしでしょうか。senseです、

    天文学者(それ程の知識人ですよ!)あられるryujiさん!まさか?
    文学者でもあったなんて。??
    驚きです、これほどのレポートならば、一冊の本に編集できます!

    私は、仕事がら、和歌の世界を感じてきたつもりですが、、お恥ずかしい!なんと無知な事か!ゆっくりあなた様のこの旅行記を読ませていただき。お勉強しなきゃ、、

    万葉集、どの歌にもおもいがありますが、その由来の地まで、ここまで載せていただき感謝です。古代の人びとのおもい どんな場所で、どんな風がふいて、どんな景色か?興味シンシン!わたしも、昨年 奈良に訪ねましたが、なかなかここまでは、難しかったです

    特に、「きみ待つとわがこひおれば、わが宿
    の 簾うごかし 秋の風ふく」額田王
    この歌は只今 国立新美で開催中の。書の展覧会で、私が、大きな賞を受けた思い出の歌、
    胸がジーンとしました、

    ありがとうございました、

    追記、それにしても、素晴らしい方ですねー、ryujiさんは!天文学のみならず、文学にまで。これほど精通されて、。驚きです。 sense

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2018/08/02 13:08:33
    RE: どういたしまして!
    > 素晴らしい!
    > 猛暑の中、ryujiさん。いかがお過ごしでしょうか。senseです、
    >
    > 天文学者(それ程の知識人ですよ!)あられるryujiさん!まさか?
    > 文学者でもあったなんて。??
    > 驚きです、これほどのレポートならば、一冊の本に編集できます!

     こんにちは、soneさん。 またまたコメントを頂きありがとうございます。連日の猛暑に何とか生きながらえております。
     
     ずいぶん前の投稿旅行記を見て頂いたのですね。 ほんの趣味の領域です、あまり持上げないで下さい。
    >
    > 私は、仕事がら、和歌の世界を感じてきたつもりですが、、お恥ずかしい!なんと無知な事か!ゆっくりあなた様のこの旅行記を読ませていただき。お勉強しなきゃ、、
    >
    > 万葉集、どの歌にもおもいがありますが、その由来の地まで、ここまで載せていただき感謝です。古代の人びとのおもい どんな場所で、どんな風がふいて、どんな景色か?興味シンシン!わたしも、昨年 奈良に訪ねましたが、なかなかここまでは、難しかったです

     和歌は小学生の頃、百人一首が出会いだったと思います。 その後万葉集に興味をもちました。 でも半世紀をもって旅行記を投稿しようとはね、自身も驚いている次第です。
    >
    > 特に、「きみ待つとわがこひおれしようとはねば、わが宿
    > の 簾うごかし 秋の風ふく」額田王
    > この歌は只今 国立新美で開催中の。書の展覧会で、私が、大きな賞を受けた思い出の歌、
    > 胸がジーンとしました、

     senseさんは書の先生なんだ、素晴らしい事です。 草書になるのかな?、是非見せて頂きたいものですね。 この額田王の歌は余りにも有名です。(そんなことで前編で投稿してしまいました) この歌が詠まれた経緯、天智天皇等との絡みは解説でいろいろ言われてます。ここでセットとして詠まれた鏡女王の歌を紹介しておきます。 「風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ」 待つ事への思い、その違いの対比がとても興味深く感じます。この歌も私は好きです。
    >
    ありがとうございました、
    >
    > 追記、それにしても、素晴らしい方ですねー、ryujiさんは!天文学のみならず、文学にまで。これほど精通されて、。驚きです。 sense

     ありがとうございます、私は見て頂けるだけで充分です。 
                             ryuji
           
  • Rolleiguyさん 2016/04/21 16:04:32
    花を愛でる
    ryujiさん
    桜の花はそれ自体でも美しいと思いますが、こうして歌と一緒に味わうと格別ですね。それに相応しい写真もあって大変楽しめます。
    先日、折口信夫の口訳万葉集2巻を古書店で見つけて購入しました。
    ryujiさんが書いておられるように、折口信夫の評価やコメントがついていて
    味わいもより深くなります。万葉集辞典を一緒に参照するようにと折口自身が書いておりましたので、それは文庫本でしたが、別の書店で見つけました。古書もこうして手に取って長く楽しめるのはいいものですね。
    本は重いのでこれを携えて奈良に行くのは躊躇しますが、そのうちの一部でもいつか現地で味わいたいものです。
    改めてこの旅行記を記されたryujiさんに感謝します。
    Rolleiguy

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2016/04/23 13:36:25
    RE: 万葉集に思いを!、コメントを頂きありがとうございます
    > ryujiさん
    > 桜の花はそれ自体でも美しいと思いますが、こうして歌と一緒に味わうと格別ですね。それに相応しい写真もあって大変楽しめます。
    > 先日、折口信夫の口訳万葉集2巻を古書店で見つけて購入しました。
    > ryujiさんが書いておられるように、折口信夫の評価やコメントがついていて
    > 味わいもより深くなります。万葉集辞典を一緒に参照するようにと折口自身が書いておりましたので、それは文庫本でしたが、別の書店で見つけました。古書もこうして手に取って長く楽しめるのはいいものですね。
    > 本は重いのでこれを携えて奈良に行くのは躊躇しますが、そのうちの一部でもいつか現地で味わいたいものです。
    > 改めてこの旅行記を記されたryujiさんに感謝します。
    > Rolleiguy

     こんにちは、Rolleiguyさん。

     大変申し訳ありません、メールが入っていたことが気づきませんでした。(言い訳を、最近のYahoo初期画面で新着メールに載らないの?)

     折口信夫の口約万葉集を手に入れられましたか、よかったですね。 私も初めは嬉しくて夢中になって読みましたが、ダメですねすぐに「ほったらかし」ですよ。私が思うに現在からすると少し言い回しが古く感じますが、Rolleiguyさんの愛読書にしてくださいね。 今回は桜を歌った和歌のコメントでしたから・・・・、私は折口信夫先生に感謝しているんですよ。 万葉集の中から私は最も優れた桜の和歌を見出せました。 (別の旅行記にこっそり載せてしまいました)

     私は万葉集全巻は彼の物しか持っていませんが、部分的に取り上げたものは2・3書あります。 又図書館で他の著書を時々見ます。 そこで私の好きな永井路子先生の(ここは先生と呼びます)「万葉恋歌」を紹介しておきます。 これは読みやすく素晴らしいのひと言です。

     私は10代の頃、臆病で容姿もそれは度でもなくモテなかったですねぇ〜。 今回見て頂いた旅行記、最後の大伴坂上郎女の和歌が大好きでした。 おそらくは覚えた万葉集の最初に近い和歌だったような、私の1500番として。 こんなにステキな「片恋の歌」なのに、折口信夫著には無印で私は不満でした。 後年になり「万葉恋歌」の出会いで、私の気持ちが救われた思いでした。 それ以上の感想は差し控えますが、1度機会があれば見て頂いてはと思います。

     今もってこの旅行記を見て頂けるなんて・・・・、ありがとうございます。 これからもよろしくお願いします。
                                               ryuji

     
  • わきさん 2015/10/08 08:09:33
    万葉の世界
    ryujiさん

    おはようございます。
    余りの素晴らしさに圧倒されてしまいました。
    圧巻です。
    日本の美を実感致しております。
    今後も素晴らしい作品の数々、
    寄らせて頂きます。
    わき

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2015/10/08 08:41:20
    RE: ありがとうございます
    > ryujiさん
    >
    > おはようございます。
    > 余りの素晴らしさに圧倒されてしまいました。
    > 圧巻です。
    > 日本の美を実感致しております。
    > 今後も素晴らしい作品の数々、
    > 寄らせて頂きます。
    > わき

     わきちゃんさん、おはようございます。

     旅行記「万葉の世界を訪ねて」を見て頂きありがとうございます。又フォローまでして頂き御礼申し上げます。

     書き込みメールを頂けた事は身に染みて嬉しく思っています。今後大した旅行記はできませんが、もう少しだけこのフォートラでお世話になりたいと思っております。
                                                ryuji
  • k.sさん 2015/07/25 23:03:07
    改訂版(前編・後編) 楽しく読ませていただきました。
    ryujiさんへ

    改訂作業 お疲れ様でした。改訂前のものを読んだとき、ryujiさんの力強さが印象に残っておりますが、リニューアルのものは、肩の力を抜き、万葉の世界に遊ぶ、といった余裕みたいなものを感じました。

    素晴らしい旅行記になっています。

    健康に気をつけ、いい旅行記を書いてください。

    k.sより

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2015/07/26 09:47:32
    RE: 改訂版(前編・後編) 楽しく読ませていただきました。
    > ryujiさんへ
    >
    > 改訂作業 お疲れ様でした。改訂前のものを読んだとき、ryujiさんの力強さが印象に残っておりますが、リニューアルのものは、肩の力を抜き、万葉の世界に遊ぶ、といった余裕みたいなものを感じました。
    >
    > 素晴らしい旅行記になっています。
    >
    > 健康に気をつけ、いい旅行記を書いてください。
    >
    > k.sより

     こんにちは、k.sさん。 お久しぶりです。

     2度も見て頂き有難い事です。 そんなには手を加えてはいませんが、そう言って頂け嬉しく思っています。 幾分なり良くしたいと思ってはいましたが、実は違った意味合いがありまして手直した箇所があります。 前パソコン(XPタイプ)で漢字変換の移行が出来ず(ひらがなのままでした)、新パソコンで解消しました。(k.sさんならお分かりと思いますが、歴史人名で玄のがその字です)

     新旅行記の投稿でなくあしからず、手直しが直近の旅行記として載った様です。 これからもよろしくお願いします。
                                               ryuji

     

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2015/07/26 09:59:11
    RE: RE: 改訂版(前編・後編) 楽しく読ませていただきました。
    > > ryujiさんへ
    > >
    > > 改訂作業 お疲れ様でした。改訂前のものを読んだとき、ryujiさんの力強さが印象に残っておりますが、リニューアルのものは、肩の力を抜き、万葉の世界に遊ぶ、といった余裕みたいなものを感じました。
    > >
    > > 素晴らしい旅行記になっています。
    > >
    > > 健康に気をつけ、いい旅行記を書いてください。
    > >
    > > k.sより
    >
    >  こんにちは、k.sさん。 お久しぶりです。
    >
    >  2度も見て頂き有難い事です。 そんなには手を加えてはいませんが、そう言って頂け嬉しく思っています。 幾分なり良くしたいと思ってはいましたが、実は違った意味合いがありまして手直した箇所があります。 前パソコン(XPタイプ)で漢字変換の移行が出来ず(ひらがなのままでした)、新パソコンで解消しました。(k.sさんならお分かりと思いますが、歴史人名で玄のがその字です)
    >
    >  新旅行記の投稿でなくあしからず、手直しが直近の旅行記として載った様です。 これからもよろしくお願いします。
    >                                            ryuji

     追伸。 どうなってるの?、同意の上投稿をクリックしたら変わった字になりました悪しからず。 旅行記は直っていると思います。
                                                ryuji

    >
    >  
  • わんぱく大将さん 2013/09/15 02:48:48
    詠めば詠むほど
    ryujiさん

    詠めば詠むほど、日常生活って思う万葉の世界。それをうたにすると想像力をかきたててくれます。

     大将

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/09/15 14:03:20
    RE: あ・り・が・と・う。
    > ryujiさん
    >
    > 詠めば詠むほど、日常生活って思う万葉の世界。それをうたにすると想像力をかきたててくれます。
    >
    >  大将

     おはようございます、大将さん。

     小生は万葉集に関して常々思っています。そんな難しく堅苦しいものでない事を。おっしゃる、ごく日常生活を歌にしたもの。老いも若きも、そして平民から賢人まで平等に載せてあるようです。素敵な歌集と思います。
     ちょっと分かったような事を云いました、すみません。
                                    ryuji
  • 虎キチお岩さん 2013/08/09 22:10:01
    この時代が大好きです。
    こんばんは☆ryujiさま

    いわゆる日本古代史、奈良時代に入る前の「よくわかっていない」黎明期が好きです。奈良、大阪、そこはかとなく深い歴史の魅力でワクワクします。
    宇宙と同じく、無限大の想像の域っていうのでしょうか。。。

    奈良のスカスカの景色(褒めている)とともの解説、モチロン100%同考えではありませんが、ほかの方の考えを伺うのも楽しいですね。

    リタイア後は毎日こんなところをうろうろして過ごしたいと考えています♪

    とらきち☆

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/08/10 09:04:41
    RE: この時代が大好きです・・・納得です。
    > こんばんは☆ryujiさま
    >
    > いわゆる日本古代史、奈良時代に入る前の「よくわかっていない」黎明期が好きです。奈良、大阪、そこはかとなく深い歴史の魅力でワクワクします。
    > 宇宙と同じく、無限大の想像の域っていうのでしょうか。。。
    >
    > 奈良のスカスカの景色(褒めている)とともの解説、モチロン100%同考えではありませんが、ほかの方の考えを伺うのも楽しいですね。
    >
    > リタイア後は毎日こんなところをうろうろして過ごしたいと考えています♪
    >
    > とらきち☆

     おはようございます、虎キチお岩さま。毎日暑いですね。

     メールを頂きありがとうございます、とても励みになっています。(昨今、小生の旅行記にも書き込みがあり嬉しい限りです)

     とらきち☆さん同様に小生もこの時代が大好きです。仰る無限大の想像っていいですね〜。小生、この旅行記で多くの想像に任せた世界なるものを自身で作ってしまいました。いい加減の所あり、間違っていたらごめんなさい。でも本当のところよく分かんない、だからこの時代がいい〜んです。

     自分勝手を申しましたが、虎キチお岩さまのご意見は真摯に受け止め、広く皆様方の考えを参考にしたいと思っております。

     小生はとっくにリタイヤ組です。気軽に出かけれる国内を主に旅を楽しみたいと思っています。いつまで元気かは不明ですが。

     この度の書き込みメール、改めてありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
                                      ryuji

     
  • ムロろ~んさん 2013/08/04 23:20:20
    素敵な写真
    ryujiさま

    こんばんは、ムロろ〜んです。
    写真の画像がきれいで驚いたのでコメントさせて頂きました。
    桜の花と平城京とのコラボがまた何とも美しかったです。

    行かれた日が天気が良く、歩いていてとても気持ち良かったんだろうなぁと思いました。

    春って気持ち良いですよね。今は夏ですが(汗)。


    ムロろ〜ん(-人-;)

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/08/05 10:44:14
    RE: ありがとうございます。
    > ryujiさま
    >
    > こんばんは、ムロろ〜んです。
    > 写真の画像がきれいで驚いたのでコメントさせて頂きました。
    > 桜の花と平城京とのコラボがまた何とも美しかったです。
    >
    > 行かれた日が天気が良く、歩いていてとても気持ち良かったんだろうなぁと思いました。
    >
    > 春って気持ち良いですよね。今は夏ですが(汗)。
    >
    >
    > ムロろ〜ん(-人-;)

     ムロろ〜んさま、お久しぶり・ご無沙汰です。

     この度は、ご訪問&投票をありがとうございます。奈良への花見(3月30日)は素晴らしい天候に恵まれ、朝早く我が家より車でひとっ走り(約100km余り)しました。私も思う、画像が綺麗だったのは天気のよるところ大なのでしょう。カメラは正直ですから。

     ムロろ〜んさんの京都旅行記、川下りはいい〜ですね。気分良さが伝わってきます、私もあやかりたい。それとお仲間との富士山旅行は本当に楽しさが伝わってきます。ムロろ〜んさんそのもの、旅行記はムロろ〜んの真骨頂と思います。

     素敵な旅行記に感謝です。昨今のはやり言葉に同意とはなりませんが「やったら、やり返す」「倍返しだ」 を即実践です。 (メガバンクの世界ではなさそうですが、ここフォートラではいいんじゃないですか)

     つまらぬ事を申しました、お許しを。これからも宜しくお願いします。
                                    ryuji
     
  • 前日光さん 2013/07/15 23:56:38
    写真もコメントもすばらしくて。。。
    ryujiさん、こんばんは。

    前後編ともに、万葉の深い世界が描かれておりまして、堪能させていただきました。

    私も万葉の世界が大好きでして、卒業論文は「大伴家持」でした。
    人麻呂の「かぎろひ」の歌や「近江の海〜」の歌にも惹かれながら、最終的に家持を選んだのは、「狭間の人」としての家持に共感したからです。

    本質的に文学者でありながら、武門の家を統べる者として一族を激励する歌を詠み、恋愛に対してもどこかで冷めている(情熱に身を任すことのできない)点、台頭する藤原氏の前に引き下がらざるを得ない名門貴族であり、それ故に「いぶせき」心を慰める術も無く、雪降りしきる因幡国庁で「けふ降る雪のいや重け吉事」と詠わずにはいられなかった家持の心情に思いを馳せると、どうしても彼を選んでしまったのでした。

    400首以上もある家持の歌の中で、最も心惹かれるものは「うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば」あたりでしょうか。

    空高く舞い上がる雲雀と、様々なものから取り残されて物思いに沈む貴公子、激しい悲しみとはまた違う何か、静かに押し寄せてくる癒やされぬ思い、季節は春、しかし、だからこそ悲しいという春愁は、近代人のそれに通じるものがあります。

    過日、因幡国や越中国にも行ってみました。
    家持が見たであろう北陸や山陰の風景は、そう思ってみるせいか、どこかもの悲しさを感ぜずにはいられないような。。。

    ryuujiさんの美しい写真や多くの歌・歴史的背景などを拝読していますと、遙かな昔の万葉集への尽きぬ思いがこみ上げてきました。

    本当にすばらしい旅行記、ありがとうございました。


       前日光

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/07/16 14:43:22
    RE: 素敵なコメント、ありがとうございます。
    > ryujiさん、こんばんは。
    >
    > 前後編ともに、万葉の深い世界が描かれておりまして、堪能させていただきました。
    >
    > 私も万葉の世界が大好きでして、卒業論文は「大伴家持」でした。
    > 人麻呂の「かぎろひ」の歌や「近江の海〜」の歌にも惹かれながら、最終的に家持を選んだのは、「狭間の人」としての家持に共感したからです。
    >
    > 本質的に文学者でありながら、武門の家を統べる者として一族を激励する歌を詠み、恋愛に対してもどこかで冷めている(情熱に身を任すことのできない)点、台頭する藤原氏の前に引き下がらざるを得ない名門貴族であり、それ故に「いぶせき」心を慰める術も無く、雪降りしきる因幡国庁で「けふ降る雪のいや重け吉事」と詠わずにはいられなかった家持の心情に思いを馳せると、どうしても彼を選んでしまったのでした。
    >
    > 400首以上もある家持の歌の中で、最も心惹かれるものは「うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば」あたりでしょうか。
    >
    > 空高く舞い上がる雲雀と、様々なものから取り残されて物思いに沈む貴公子、激しい悲しみとはまた違う何か、静かに押し寄せてくる癒やされぬ思い、季節は春、しかし、だからこそ悲しいという春愁は、近代人のそれに通じるものがあります。
    >
    > 過日、因幡国や越中国にも行ってみました。
    > 家持が見たであろう北陸や山陰の風景は、そう思ってみるせいか、どこかもの悲しさを感ぜずにはいられないような。。。
    >
    > ryuujiさんの美しい写真や多くの歌・歴史的背景などを拝読していますと、遙かな昔の万葉集への尽きぬ思いがこみ上げてきました。
    >
    > 本当にすばらしい旅行記、ありがとうございました。
    >
    >
    >    前日光
    >
     こんにちは、前日光さん。

     大伴家持に関する素敵なコメントに私は心を打たれました。卒論で家持ですか、有意義な学園生活を送られきっと前日光さんは最優秀賞だったでしょうね。

     私なんぞは学も歴もない人間です。当時は(20才頃)とても人麻呂、家持の人生の人となり、心情を組み入れる事は到底無理な話でした。少なからずの好奇心と興味を長い年月(40余年)持ち続ける事が出来、旅行記の投稿できるようになったのですから。

     ああ〜、よかった。私の旅行記で家持を取り上げなくて。万葉集の約10分の1が家持の歌ですから、1首ぐらい載せて前日光さんからご批評を頂いた方がよかったかも。

     私の家持の歌に対する感想ですが、暗い、幾分人生の悲哀を感じます。好きな歌で「うつせみの世は常なしと知るものを・・・」すが妻を亡くし秋風が身に染む、確かこの様な歌だったと思います。云ってみれば、歌は家持の人生そのもののように思います。我々から見れば中納言、今で言う文部科学大臣のような人物です。何の不足があるでしょう。でも前日光さんの仰る、大伴一門の盛衰をかけての人生、私もいかばかりのものと感じます。家持は藤原四家の仲麻呂・永手・良継・浜成等と同世代の人物です。左遷をくり返す家持とっては羨ましく感じた事であろう。長く生きればよいとは思わなかったであろう家持は桓武朝初期まで生き、種継暗殺の罪を負う事は前日光さんはご承知の事と思います。(種継の前に死亡、死んだ後に罪を着せられた) どうもここから先は藤原氏の独断場の様ですね、大伴の名前も削られるはめに。
     すみません、長々と。間違っていましたら訂正を。 この度はありがとう、またよろしく。
                                   ryuji
  • frau.himmelさん 2013/07/14 16:55:29
    渾身の作
    ryujiさん、こんにちは。

    ご無沙汰しています。
    前編を拝見してからなんと7ヶ月以上の時を経ているのですね。
    その間ずーっと後編のために情報収集をなさっていたとか。
    1篇を作成なさるのに、なんと気の遠くなるような作業でしたことか。

    お写真に見とれながら、文章に酔いしれながら、ryujiさんの渾身の作をじっくりと拝見させていただきました。
    でもたった1回だけ見せていただいてこれでおしまい、というにはもったいない旅行記です。
    これからも時々拝見させていただきに参ります。

    素晴らしいものをありがとうございました。

    himmel

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/07/15 08:49:19
    RE: 渾身の作
    > ryujiさん、こんにちは。
    >
    > ご無沙汰しています。
    > 前編を拝見してからなんと7ヶ月以上の時を経ているのですね。
    > その間ずーっと後編のために情報収集をなさっていたとか。
    > 1篇を作成なさるのに、なんと気の遠くなるような作業でしたことか。
    >
    > お写真に見とれながら、文章に酔いしれながら、ryujiさんの渾身の作をじっくりと拝見させていただきました。
    > でもたった1回だけ見せていただいてこれでおしまい、というにはもったいない旅行記です。
    > これからも時々拝見させていただきに参ります。
    >
    > 素晴らしいものをありがとうございました。
    >
    > himmel

     おはようございます、himmelさん。

     こちらこそ、ご無沙汰でした。

     私の旅行記の後編を見て頂きありがとうございます。そうですね、7ヶ月も経ってしまいました。これって旅行記と云えますか?、まぁお堅い事は云われないフォートラさんの事、それに甘えて投稿しました。私的には一応計画的で、あじさいとひめゆりの咲く6月を区切りと決めていました。満を持しての渾身の作と思って頂いた事は嬉しく思います。でも実際は自身の好きな所だけ好きな日に勝手気ままに廻っただけの事。こうした旅行記が私のスタイルに成ってしまった様です。

     himmelさん、又この4月にドイツへ行かれたんですか。本当にドイツがお好きなのですね。ドイツはよく知らない私ですが、今回題しての「2013.生誕200年ワーグナーの足跡」、興味大いにありです。今まで本当にご無沙汰ですみません、これから見させてもらいます。(音楽の事ぐらいしかドイツは知らない私です)

     ありがとう、又よろしく。
                                      ryuji

     
  • 名古屋やんさん 2013/06/20 20:57:00
    ご無沙汰しています。
    久しぶりに伺って、後編を楽しませていただきました。

    読み応え、見ごたえのある旅行記で1回しか投票できないなんて・・・。しかも未完成中なんですよね。

    素敵な写真の数々、特に年輪を感じさせる桜の木からの浮見堂がとても気に入りました。

    短歌の背景のお話や、はるかかなた昔なのに当時のその場に居合わせたような会話等とても興味深く面白くすごーいです。

    ありがとうございました。
             wako
     

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/21 09:33:08
    RE: ご無沙汰しています。
    > 久しぶりに伺って、後編を楽しませていただきました。
    >
    > 読み応え、見ごたえのある旅行記で1回しか投票できないなんて・・・。しかも未完成中なんですよね。
    >
    > 素敵な写真の数々、特に年輪を感じさせる桜の木からの浮見堂がとても気に入りました。
    >
    > 短歌の背景のお話や、はるかかなた昔なのに当時のその場に居合わせたような会話等とても興味深く面白くすごーいです。
    >
    > ありがとうございました。
    >          wako

     おはようございます、wakoさん。

     こちらこそご無沙汰です。お元気でご活躍の様、私もフォートラで頑張って?います。今回私の旅行記を見て頂きありがとうございます。

     えらく褒められてしまいました。大した旅行記ではありませんがありがとう。でも結構好きでやっているんですよ。楽しくやって充実してます。旅行記の作成の事もありますが、年甲斐もなく昨今奈良にはまっています。そうそう、明日にでも行こうかなと思ってます、未完の姫百合を見に。ついでに矢田寺の紫陽花も。そんな事でwakoさん、自由気ままな旅行で人生(最後の)を謳歌してます。

     いつになく今日ははしたないコメントになりましたが、何か家でよい事があったんのでしょう、私に。
     ありがとう、又よろしくお願いします。
                                  ryuji
    >  
  • 義臣さん 2013/06/15 17:09:34
    白豪寺さん
    白豪寺さんにも歌碑が有りますが

    まだ行かれていませんか?

    その昔、、若干の寄付をしてきたことが有りました

    開碑の時 ご連絡いただいて 

     初めて 遠くからですが犬飼先生を拝見いたしました。

       一昨年 思い出深い 

    白豪寺さんへこれで最後の訪問と思いつつ行きました。

     思い出の多い奈良も少しずつお別れの時代になってしまいました

                       義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/16 10:08:12
    RE: 白豪寺さん
    > 白豪寺さんにも歌碑が有りますが
    >
    > まだ行かれていませんか?
    >
    > その昔、、若干の寄付をしてきたことが有りました
    >
    > 開碑の時 ご連絡いただいて 
    >
    >  初めて 遠くからですが犬飼先生を拝見いたしました。
    >
    >    一昨年 思い出深い 
    >
    > 白豪寺さんへこれで最後の訪問と思いつつ行きました。
    >
    >  思い出の多い奈良も少しずつお別れの時代になってしまいました
    >
    >                    義臣
    >

     おはようございます、義臣さん。

     白豪寺に万葉歌碑があることは知っていました。(萩を詠んだ歌) 3月30日に行った折、立ち寄りか迷いましたが早く浮見堂を見たくてパスしてしまいました。志貴皇子ゆかりの寺でもあり、矢田原町から高畑町に抜ける時眺めながらの通過でした。次の機会、又奈良へは行けると思います。

     義臣さんは開碑時に白豪寺へ行かれたんですか。へぇ〜、その時犬養孝先生はご存命だったんですね。それは思い出深い寺でしょうね。

     ところで義臣さん、気になる発言(少しづつお別れの時代)ですがこれは何んでしょうか?。まだまだこれからのご活躍を期待しています。私も結構な歳ですが、無理はできませんが頑張るつもりです。

     ありがとうございます。
                                    ryuji

    義臣

    義臣さん からの返信 2013/06/16 11:43:20
    RE: 白豪寺さん
    笑い、、

     昭和30年代からの 奈良 京都歩きも

     後何年の年齢になってしまいましたので。

    お願いばかりのお寺さんへお礼の意味の参拝です。

     白豪寺さんへは一昨年の五月でした

    昨年の12月には 浄瑠璃寺さんや海山住寺さんへ

     長年のお礼の手を合わせに行きました。

    日吉館は消えてなくなりましたね。

    また長くなりますのでここで失礼します。

                  義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/17 14:59:11
    RE: RE: 白豪寺さん
    > 笑い、、
    >
    >  昭和30年代からの 奈良 京都歩きも
    >
    >  後何年の年齢になってしまいましたので。
    >
    > お願いばかりのお寺さんへお礼の意味の参拝です。
    >
    >  白豪寺さんへは一昨年の五月でした
    >
    > 昨年の12月には 浄瑠璃寺さんや海山住寺さんへ
    >
    >  長年のお礼の手を合わせに行きました。
    >
    > 日吉館は消えてなくなりましたね。
    >
    > また長くなりますのでここで失礼します。
    >
    >               義臣

     こんにちは、義臣さん。

     私は義臣さん程お寺参りもしませんし、仏教を深く信心しているわけではありません。でも私は一応仏教信者で臨済宗妙心寺派です。ちょっと手を合わせる願い事のお参りでもいいのではありませんか。人の為、日本を良くする為なんて無いと思います。余りにも仏教に対する信仰が希薄になりつつある現在に失望さえ感じます。観光のみのお寺ではちょっと寂しすぎます。

     えらそうな事を言ってすみません。
                                   ryuji

    義臣

    義臣さん からの返信 2013/06/17 17:07:04
    RE: 白豪寺さん
    笑い

     私は自称「自分宗」ですよ。

     お寺さんへ行ったら手を合わせるのが礼儀と思ってるので

     手を合わせながらお願いする。

     これも当たり前の行動と思ってやってきました。

     自分の都合でお寺さんへです。

    無論 万葉のお寺さんばかりでなく各地の万葉碑を訪ねるくのが

     目的の一つです。

                     義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/18 11:24:17
    RE: RE: 白豪寺さん
    > 笑い
    >
    >  私は自称「自分宗」ですよ。
    >
    >  お寺さんへ行ったら手を合わせるのが礼儀と思ってるので
    >
    >  手を合わせながらお願いする。
    >
    >  これも当たり前の行動と思ってやってきました。
    >
    >  自分の都合でお寺さんへです。
    >
    > 無論 万葉のお寺さんばかりでなく各地の万葉碑を訪ねるくのが
    >
    >  目的の一つです。
    >
    >                  義臣
    >

     こんにちは、義臣さん。

     これからも素敵なお寺さん参り、それから旅行記の投稿のご活躍を期待しています。ありがとうございます。
                                   ryuji
  • 義臣さん 2013/06/15 17:01:18
    大乗院荘
    かって国鉄の宿舎「大乗院荘」が 有りましたね。

     このお庭を子供たちと眺めた日が有りました。

       現在は宿舎はどうなったのでしょう?

    古い思い出でごめんなさい

                   義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/16 09:22:24
    RE: 大乗院荘
    > かって国鉄の宿舎「大乗院荘」が 有りましたね。
    >
    >  このお庭を子供たちと眺めた日が有りました。
    >
    >    現在は宿舎はどうなったのでしょう?
    >
    > 古い思い出でごめんなさい
    >
    >                義臣
    >

     おはようございます。
     
     え〜と、私が見た旧大乗院庭園の中に国鉄の宿舎があったのですか?。それは全く知りませんでした。何分奈良にはまったのが最近の事です。ぼちぼち勉強します。素敵な庭園を見ることができ満足しました。(6月9日)

     メールをありがとうございます。
                                   ryuji
     
  • コクリコさん 2013/06/13 20:36:47
    万葉の旅
    ryujiさん、こんばんは。

    万葉集の歌を訪ねた旅、素晴らしいですね。
    写真のひとつひとつに感想と解説を書く作業は大変だったと思いますが、楽しくもあったのでは?

    写真もなぜか日本画のような風情に思えました。
    特に梅の花の写真がしっとりとしていて素敵です!

    かなり前に、自分の好みで下手な漫画のような絵を描き万葉カルタを25枚ほど作ったことがあるのです。
    ryujiさんの旅行記に挙げられた歌の中では小野老の「奈良のみやこは咲く花の」と茅上娘子の「道の長路」の歌だけ。
    坂上郎女も額田王も志貴皇子も残念ながら他の歌でした。

    楽しい旅行記堪能させていただきました!

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/14 09:28:11
    RE: 万葉の旅
    > ryujiさん、こんばんは。
    >
    > 万葉集の歌を訪ねた旅、素晴らしいですね。
    > 写真のひとつひとつに感想と解説を書く作業は大変だったと思いますが、楽しくもあったのでは?
    >
    > 写真もなぜか日本画のような風情に思えました。
    > 特に梅の花の写真がしっとりとしていて素敵です!
    >
    > かなり前に、自分の好みで下手な漫画のような絵を描き万葉カルタを25枚ほど作ったことがあるのです。
    > ryujiさんの旅行記に挙げられた歌の中では小野老の「奈良のみやこは咲く花の」と茅上娘子の「道の長路」の歌だけ。
    > 坂上郎女も額田王も志貴皇子も残念ながら他の歌でした。
    >
    > 楽しい旅行記堪能させていただきました!

     おはようございます、コクリコさん。

     思いがけなくも書き込みメールを頂き、嬉しく拝読しました。今回、私の旅行記を見て頂きありがとうございます。

     はい!、毎日楽しくフォートラを(旅行記の作成も)やっています。自由気ままにのびのびと。幾分おおちゃくになり、顰蹙を買っているようです。
     文章の作成能力がないので他の人の文をよく引用します。自身としてはあまり面白くない。ヘタでも出来る限り自分の言葉で、これが楽しいんですよ。(オリジナリティと云うんですか)

     百人一首ならぬ、まんが万葉カルタですか、これはいい。家族で楽しめますね。是非見たいものです、コクリコさん内緒で私だけに。

     素敵なコメントをありがとう。
                                   ryuji

    >
    >

    コクリコ

    コクリコさん からの返信 2013/06/14 17:28:17
    RE: RE: 万葉の旅
    ryujiさん、

    >  文章の作成能力がないので他の人の文をよく引用します。自身としてはあまり面白くない。ヘタでも出来る限り自分の言葉で、これが楽しいんですよ。(オリジナリティと云うんですか)

    それはそっくりそのまま同じです。

    >  百人一首ならぬ、まんが万葉カルタですか、これはいい。家族で楽しめますね。是非見たいものです、コクリコさん内緒で私だけに。

    その中には夫が高校生の時作った青っぽい和歌と息子が小学生の時作った幼稚な和歌も含まれています(恥) のでどなたにも見せられないです。
    犬養孝先生の万葉カルタも持っていますが、私の作ったカルタの方が人気でした〜(犬養先生ごめんなさい)。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/15 08:57:05
    RE: RE: RE: 万葉の旅
    > ryujiさん、

    > その中には夫が高校生の時作った青っぽい和歌と息子が小学生の時作った幼稚な和歌も含まれています(恥) のでどなたにも見せられないです。
    > 犬養孝先生の万葉カルタも持っていますが、私の作ったカルタの方が人気でした〜(犬養先生ごめんなさい)。

     おはようございます、コクリコさん。

     万葉集第一人者の犬養孝氏の万葉カルタは初耳でした。興味あり、1度探す事にします。コクリコさん作成の万葉カルタはあきらめましょう、犬養氏を凌駕すると云う。
     メール、あ・り・が・と・う。
                                    ryuji

    コクリコ

    コクリコさん からの返信 2013/06/16 22:06:20
    RE: RE: RE: RE: 万葉の旅

    >  万葉集第一人者の犬養孝氏の万葉カルタは初耳でした。興味あり、1度探す事にします。コクリコさん作成の万葉カルタはあきらめましょう、犬養氏を凌駕すると云う。

    絵が描いてないのでつまらないといえばつまらないのですよ(たびたび失礼な発言)
    犬養先生が亡くなられた時に教え子たちが作ったカルタなのですが、現在は売られていないようです。
    我が家にあるのはこれです。
    http://www.jpware.com.hk/auctionInfo.php?id=161881576
    オークションなのでしょうか。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/06/17 15:29:03
    RE: RE: RE: RE: RE: 万葉の旅

    >
    > 絵が描いてないのでつまらないといえばつまらないのですよ(たびたび失礼な発言)
    > 犬養先生が亡くなられた時に教え子たちが作ったカルタなのですが、現在は売られていないようです。
    > 我が家にあるのはこれです。
    > http://www.jpware.com.hk/auctionInfo.php?id=161881576
    > オークションなのでしょうか。

     こんにちは、コクリコさん。

     犬養孝先生の万葉カルタの概要を理解しました。これはオークションからです。(カメラレンズ等でよく利用して知っています) 仰るとおり人物絵がないのがつまらないですね。想像絵でも書いてあると夢を描けます。ず〜っと昔、和歌もその意味も知らずに遊んだ、小倉百人一首の「坊主めくり」が懐かしく思い出されます。
     孫との遊びとして検討する事にします。ありがとう。
                                   ryuji
     
  • naniwa ladyさん 2013/04/01 20:28:52
    こんばんは♪♪
    ryujiさん、今頃は香港で100万ドルの夜景を??って言いたいところですが、時差がどうかわかりません。でも香港でもカメラ片手に忙しくご活躍されていることでしょうねぇ。。
    忙しいのに、もう奈良の旅行記をアップされている、さすがです。
    奈良の人々は高貴なお方だけでしょうが、教養豊かで素晴らしい歌の数々を詠まれていますね。私などは頭をどうひねっても1首も浮かんできません。その当時に生まれていたら・・・落ちこぼれ・・
    中学校の時は昔の人は恋愛の歌ばかり詠んで、男女のことにしか感心がなかったんじゃなかったの〜ってあきれかえって、全然歌に興味を示せなかったというか、ちょっと拒否気味でしたね。今にしておもえば、お恥ずかしいかぎりです。
    それにしてもお詳しい、色々と教えて下さい。
  • 義臣さん 2013/01/03 16:27:54
    一番
    個人的に
     
     一番好きな歌です

      新年そうそう有難うございます

                義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/01/04 07:14:03
    RE: 一番
    > 個人的に
    >  
    >  一番好きな歌です
    >
    >   新年そうそう有難うございます
    >
    >             義臣

     おはようございます、義臣さん。

     私も大好きな歌です。万葉の旅後編の完成パターンの額田王の歌と言うことで。 (昔からトンチンカン・察しの悪い男と言われた私、間違っていたらごめんなさい)

     あかねさす。むらさきぬゆきしめぬゆき。これ以上の日本語の美しさは私はないと思います。                                             ryuji

    義臣

    義臣さん からの返信 2013/01/04 07:47:22
    RE: 一番
    あかねさす。。

    例の娘 高校入学試験 面接で聞かれたのが

    「最近読んだ本は?」 の 

    質問に「万葉集」

    「どんな歌 覚えてます」

    「あかねさす。。」でした。

     最近どころか 小学校3年生の時に覚えたのがまだ覚えていて

    とっさの回答になったようです、

    まったく、、

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/01/04 08:54:13
    RE: RE: 一番
    > あかねさす。。
    >
    > 例の娘 高校入学試験 面接で聞かれたのが
    >
    > 「最近読んだ本は?」 の 
    >
    > 質問に「万葉集」
    >
    > 「どんな歌 覚えてます」
    >
    > 「あかねさす。。」でした。
    >
    >  最近どころか 小学校3年生の時に覚えたのがまだ覚えていて
    >
    > とっさの回答になったようです、
    >
    > まったく、、

     実にほほえましい光景です。

     義臣さんの孫娘さんでしたね?。心根の優しい方と察しします。                             ryuji

    義臣

    義臣さん からの返信 2013/01/04 09:09:44
    RE: 一番
    いいえ 昭和43年生まれの私の娘です

    その孫娘も来年は大学? 受かるかな?

                  義臣

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2013/01/04 09:49:19
    RE: RE: 一番
    > いいえ 昭和43年生まれの私の娘です
    >
    > その孫娘も来年は大学? 受かるかな?
    >
    >               義臣

    はっはっは〜、間違えました。では又。
                              ryuji

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