2012/06/12 - 2012/06/13
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SUR SHANGHAIさん
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久々に訪れてみた哈爾濱(ハルピン)の街も、この日の午後でお別れ。
それまでの時間は、まだ見残していた東北烈士紀念館へ行ってみよう。
ここは1997年に初めてハルピンを訪れた時にも行ってみようと思って行くのを止めたんじゃなかったかな。
ハルピン駅前から、1900年代初期に建てられた歴史的建築物も見学しつつ歩いて行ってみようと思います。
表紙の画像は、東北烈士紀念館内部。天井に取り付けられた星型のライトが印象的。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- 中国東方航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
哈爾濱(ハルピン)の列車駅周辺には、その立地から言っても1900年代初期に建てられた西洋建築が多数。
周辺を歩くと、≪歴史的建築物≫のプレートを付けた建物がいくつも見つかって、中欧か東欧の街に来てしまったような雰囲気もあります。
この旅行記では、広場から出ている道の一つの紅軍街に残る建物の内二つをまずご紹介します。 -
哈爾濱(ハルピン)駅前から出ている道の一つの紅軍街。
その108号にあるのは、旧・在哈爾濱日本国総領事館。
1924年に着工し、1925年に竣工したこの建物は、元々は南満鉄道株式会社哈爾濱事務所として使われていたそうです。
日本国総領事館となったのは1936年、と説明プレートに出ていました。
今は紅軍街沿いの街路樹が生い茂っていて全体像がよく見えませんが、後で行ってみた東北烈士紀念館には以前の様子を撮った画像展示があったので、この旅行記の中盤でご紹介します。 -
現在の旧・在哈爾濱日本国総領事館前は紅軍街の歩道になっていて誰でも通れるようになっています。
この建物は今では哈爾濱(ハルピン)市の保護対象になっていて、≪黒龍江哈鉄対外経貿集団公司≫という会社が入っていました。 -
イチオシ
紅軍街に残る旧・在哈爾濱日本国総領事館。
バロック様式を基礎にしたこの建物の設計者はY.P.RIDANOV。
あれ? この名は、果戈里(ゴガリー)大街298号の旧・在哈爾濱日本国総領事官邸や、通江街108号の韃靼(だったん)清真寺の説明プレートにも出ていたっけ。
売れっ子設計士だったんでしょうね。
旧・在哈爾濱日本国総領事館内部は一般には公開されていませんが、上で言ったように、≪黒龍江哈鉄対外経貿集団公司≫という会社が入っているため、その会社関連の人々が出入りしていました。
哈爾濱(ハルピン)の歴史には縁もゆかりもないSUR SHANGHAIにも、時と建物の変遷を感じさせる一風景。 -
紅軍街の旧・在哈爾濱日本国総領事館前の歩道には、画像のように大きな記念碑が出ていました。
中国語、日本語、英語で、簡単に哈爾濱(ハルピン)の歴史と、この総領事館だった建物について記されています。
それによると、1905年12月にハルピンが対外的に開かれると、30あまりの国々から20数万人の人々がハルピンに移り住み、20数カ国の領事館も建てられたのだそう。
旧・在哈爾濱日本国総領事館は、1924年5月に着工、1925年8月竣工。当初は南満鉄道株式会社哈爾濱事務所として使われていたそうです。
それが総領事館となったのは1936年2月のことで、売買街(現在の果戈里大街)から移転したんだそうです。
ハルピン滞在中に歩いてみた果戈里(ゴガリー)大街の298号には、当時の在哈爾濱日本国総領事官邸もありました。
その様子は次の旅行記にアップ済みですので、参考にしてみたい方はご覧ください。
★楊柳の綿毛舞う頃(2) -黒龍江省博物館から果戈里大街沿いへ
http://4travel.jp/traveler/casa/album/10691273/ -
紅軍路を隔てて旧・在哈爾濱日本国総領事館の斜めお向かいにあるのは龍門貴賓楼酒店。
ここも1903年に東清鉄路賓館として落成した後は大きな変遷を辿っています。
画像左下に見えている記念碑には、1907年にはロシアがここに総領事館を置いたとしか出ていませんが、1937年には哈爾濱ヤマトホテルもここで開業したという歴史もあります。
その後も、学校、病院、招待所などに転用されたこの建物が現在の竜門貴賓楼酒店になったのは1997年のこと。
一度ここに泊まって、ハルピンの歴史を感じてみるのもいいんじゃないでしょうか。
ヤマトホテルは、かつての南満州鉄道株式会社が経営していたホテルで、1907年から1945年まで、沿線各都市に支店が展開されていたようです。
各地のヤマトホテルについては、次のウィキペディアのページで見てみるといいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB -
哈爾濱(ハルピン)駅前の旧・在哈爾濱日本国総領事館と旧・哈爾濱ヤマトホテルの建物を見た後は、ハルピン駅を眺めながら東北烈士紀念館へと行ってみます。
上段の画像は、1904年のハルピン駅前の様子。
今は建築芸術館になっている聖・索菲亜教堂(聖ソフィア教堂)内に展示されてあった画像で、新駅舎の主だった部分が出来上がった頃の様子のようです。
中段の画像は、今回SUR SHANGHAIが2012年に訪れた時の駅の周辺の様子。
現在のハルピン駅舎もずいぶん横に長くて、駅前広場も広大と思える広さですが、それは1904年当時からすでにそういう造りだったのが分かると思います。
下段の画像は、ハルピン駅前の広い道。
名前は鉄路街でいいのかな。
話がちょっと脇道に入りますが、中国では、街路樹の根元から150cm位の高さまで幹が白く塗られているのをよく見かけます。
一昔前まで街灯が無い田舎の道を暗くなってから走ると、白く光る幹が道幅を示してくれて助かりましたが、あれは害虫避けだと聞いた事があります。
地面から這い上がろうとする虫除けのために塗っているんだとか。
あんまり白く塗られた部分は触らないほうがいいかもですよ。 -
哈爾濱(ハルピン)駅前には、ホテルのほかに病院がたくさん。
地方都市から黒龍江省の省都のハルピンまで、診察や手術・入院のために列車で訪れる人たちの便宜を図っているのかな、と思う。
それらの病院のいくつかは、やはり古びた西洋建築内に入っている所もあるんですが、表に大きく≪問診部≫、≪○○医院≫などと出ていなかったら、高級ホテルか高級オフィス・ビル?と見間違えるような新しい病院も多数。 -
哈爾濱(ハルピン)駅前の道を北へ。
この日の目的地の東北烈士紀念館が近づくと、道の名が一曼街と変わっているのに気付くと思います。
その名の由来は後述することにして、その道筋に並ぶ瀟洒な西洋建築を眺めながら前進。
この画像の建物は、日本で言えば無形文化財保護センター的な建物。
説明プレートも扉の横に出ていましたが、敷地内に入るのはご遠慮申し上げました。 -
一曼街241号に見えて来た神殿風の造りの建物が目的地の東北烈士紀念館。
●注: 中国語では≪記念≫を≪紀念≫と書きます。
哈爾濱(ハルピン)駅前からだと徒歩十数分程度。
開館は9:00〜16:30。最終入場は16:00。月曜は休館。
1931年に竣工した当時のこの建物は図書館だったそうですが、その後1933年〜1945年までは満州国時代の日本の哈爾濱警察庁になったという歴史があります。
その後、抗日戦争(日中戦争)や、解放戦争で犠牲になった烈士たちを記念する記念館になったのは1948年の事。
●注: 見学は無料ですが、パスポート(身分証)を提示しなければいけません。お忘れなく。
バッグなどは入口の無料ロッカーへ。
館内の撮影はOKですが、フラッシュは使用禁止です。 -
正面に立って見上げると、豪壮な神殿のようにも見える東北烈士紀念館の外観。
見る者を威圧するような雰囲気をまとっているのは、曇りかけた空のせい?
それとも、満州国時代には日本の哈爾濱警察庁になっていた歴史のせい?
この後、入口でパスポートを提示、持っていたバッグは普通の大きさでしたが無料ロッカーに預けて、簡単なセキュリティー・チェックも通過したSUR SHANGHAI。
写真は、フラッシュを使わなければOKということで、カメラだけ持って入場してみました。 -
東北烈士紀念館は、抗日戦争(日中戦争)や、解放戦争で犠牲になった烈士たちを記念する記念館。
その内容から言っても、内部は光量を抑えた照明とモノトーンでまとめた展示品が主体。
ただ、展示方法は、物が無造作に置いてあるだけの一昔前のスタイルから脱却していて、見やすくまとめられてあったと思います。 -
東北烈士紀念館内部の展示。
抗日戦争(日中戦争)や、解放戦争で犠牲になった烈士たちの経歴が、歴史的写真や遺留品などと共に展示されています。
烈士たちのほとんどは血気盛んな年齢層の男性なんですが、中には女性烈士も混じっていて印象的。
これらの烈士たちのほとんどを知らないSUR SHANGHAIにも例外があって、この紀念館でも大きく取り上げられている人物がいます。
それは、抗日戦争の女性戦士だった趙一曼という人物で…、 -
…満州国時代を舞台にした小説に「一曼さんもとうとう死んでしまった。」と一人の女性がつぶやく場面があったのを思い出す。
その一曼さんとは誰? と思ったのが、趙一曼について知るきっかけになったSUR SHANGHAI。
趙一曼の経歴を簡単に言うと;
本名は李坤泰、1905年に四川省の地主の娘として生まれた人物。
21才で共産党に入党、1928年には当時のソビエトに渡り、中国に帰国後は各地で工作員として活躍。
満州事変後に東北地方に赴任した一曼は、抗日ゲリラ指導に当たっていたものの日本軍に追われる身に。
二度捕虜になり、1936年8月には珠河県(現在の尚志市)で31才の若さで処刑されたという波乱に満ちた生涯の女性だったようです。
若くして散った美しい女性戦士だったということも、彼女が有名になった一因なのでは? -
趙一曼の経歴に関する展示も、他の烈士以上に多かったコーナー。
右側の画像手前のケースに入っているのは、一曼が使用した碗などの日用品。
東北烈士紀念館前の道の名が一曼街というのは、この趙一曼の名から取ったもの。
そのほか、哈爾濱(ハルピン)には、烈士たちから名を取った道がまだあって、氷祭りで有名な兆麟公園脇を通る尚志街は趙尚志から、兆麟公園や兆麟街は李兆麟から、中華バロック建築が並ぶ靖宇街は楊靖宇の名から命名されたのだそうです。 -
東北烈士紀念館で紹介されている烈士の中には、中国軍に身を投じた日本人の姿も見られました。
中でも、日本語で日本軍向け反戦放送を流したという日本人女性の長谷川照子(緑川英子)という人物の存在を初めて知って驚いたSUR SHANGHAI。
1912年に山梨県で生まれたエスペランティストで、1937年に中国に渡って以来、上海、武漢、重慶などで反戦放送活動を行っていたんだそう。
1946年に中国東北地方に移転。翌年には35才の若さで病没という、これまた数奇な運命を辿った女性のようでした。 -
東北烈士紀念館内には、1900年代初めに建てられた後、日本の企業、軍や政府関連施設が入っていた建物紹介もありました。
まずこれは、現在は東北烈士館になっている、満州国時代は日本の哈爾濱警察庁だった建物の全景。
撮影年が書いていないので不明ですが、外観は現在とさほど変わっていない感じです。 -
東北烈士紀念館には、上記のように1900年代初めに建てられた後、日本の企業、軍や政府関連施設が入っていた建物紹介もあるので、それを見てから街歩きをしてみると興味深い散策になると思います。
中央大街近くの聖・索菲亜教堂(聖ソフィア教堂)は、今では建築芸術館になっていて、やはり1900年代初めに哈爾濱(ハルピン)に建てられた西洋建築の紹介をしています。
それも併せて見学してから街歩きに出かけるといいですよ。
ここでは、この旅行記の出だしでもご紹介した、旧・在哈爾濱日本国総領事館(現在は黒龍江哈鉄対外経貿集団公司)の建物のみを現在との比較のために取り上げます。
上段の画像は、今回2012年の訪問で撮った旧・在哈爾濱日本国総領事館外観。
中段は、東北烈士紀念館で紹介されていた旧・在哈爾濱日本国総領事館の外観画像。
下段は、現在は建築芸術館になっている聖・索菲亜教堂(聖ソフィア教堂)で紹介されていた旧・在哈爾濱日本国総領事館の外観画像。
ん? (・・?
こうして3枚を見比べてみると、中段の画像だけ階数も雰囲気も違って、全く別の建物に見えるんですが…。
SUR SHANGHAIの目が悪い? (;^ω^) -
東北烈士紀念館内に展示されていた監獄の扉。
これは、1941年に捕らえられて哈爾濱監獄に監禁された徐沢民という人物が、獄中で抗日の詩を刻んだもの。
この人物は処刑されてしまったのだそうですが、1948年末に監獄の管理員が扉を取り外して東北烈士紀念館に寄贈したのだそう。
正面のガラス板の反射で細部がよく見えない。
横の隙間から見ても、爪や石で刻まれたという字は浅くて、SUR SHANGHAIには読み取れませんでした。 -
東北烈士紀念館には、烈士たちをモチーフにした彫像なども置かれていました。
この叫び声を上げている男性像には、『最後の咆哮』と言うタイトルが付いていたと思います。 -
1900年代初期の哈爾濱(ハルピン)の街を再現したコーナーもあった東北烈士紀念館。
当時問題になっていた阿片の蔓延についても記録が展示されていて背筋がゾクッ…。
この時、館員さん以外、見学者として館内を回っていたのはSUR SHANGHAIだけだったから、こういうリアルな展示は自分も引き込まれてしまいそうで怖い。
照明も重々しいし、角を曲がったらどんな展示を見てしまうのかとへっぴり腰で前進。
あ、こんなサイドカー付きのカーキ色オートバイは、90年代にも見かけたっけ、と気分を紛らわしながらさらに見学を続けます。 -
東北烈士紀念館が、満州国時代には日本の哈爾濱警察庁だった頃の内部の再現。
画像に出ているのは、左側が、≪長≫の肩書きが付く人物の事務室の一つ。
そのほか、特務科の検閲室、無線傍受室などの設備も説明付きで出ています。
哈爾濱(ハルピン)近郊の侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館とは違って説明は中国語のみですが、歴史に興味のある方は併せて訪れてみる価値ありと思います。 -
東北烈士紀念館で、最もショッキングなのは1階にある趙一曼が監禁されていた牢獄周辺。
一層重々しい雰囲気の廊下には、捕らえられた抗日烈士たちに対する処遇や拷問に関する展示が、証言者の体験談付きで並んでいます。
ここでも見学者はSUR SHANGHAIただ1人。
近くに館員さんのいるデスクが無かったら、そのおどろおどろしい雰囲気で見学続行はできなかったかも。 -
上に出した画像の廊下奥にあるのが、趙一曼が監禁されていた牢獄。
一つだけ独立して造られた牢獄で、ごく小さい中庭に面した窓がありました。
入口に出ていた説明プレートによると1936年7月に一曼はここに監禁されていたらしいので、処刑前一ヶ月をここで過ごしたんだろうかと想像したSUR SHANGHAIは、戸口から先へは入って行けなかった…。 -
東北烈士紀念館1階。
趙一曼が監禁されていた牢獄のすぐ近くにあった部屋。
やけに暗い部屋、と戸口から覗いてみると、そこには別の牢獄が。
その牢獄の天井から下がっているのは、絞首用のロープ?
ギョッとしてこの一枚だけをやっと撮った後は退散。
後でこの建物が日本の哈爾濱警察庁だった頃の平面図展示を見てみると、≪死刑室≫と書かれてあった。
警察庁の中に死刑室…? 戦慄で全身がこわばった。 -
東北烈士紀念館の展示の最後には、終戦を喜ぶ群集写真が。
これまでに見てきた各国各地の戦争関連博物館でも、戦争の恐怖から解放された人々の表情が一番印象的だったと思う。 -
東北烈士紀念館内部。
1階から2階へ上って行く階段途中には、烈士たちを象徴した像が立っていて、花も捧げられてありました。
上階へ行こうとしている館員さんと比べると、その像の大きさがよく分かるのでは? -
東北烈士紀念館内部。
内部はきれいに補修も済んでいました。
、
満州国時代には牢獄や死刑室まであった哈爾濱警察庁だったという歴史さえなければ、壁の白とアイアンの黒のコントラストも美しいと思える建物。
建てられた当時のまま、図書館として使われていたならば、この建物も自分の存在が誇らしく思えたかも。 -
東北烈士紀念館の窓。
1931年に建てられた当時の窓は、木枠の二重窓だっただろうか、と想像してみる。 -
イチオシ
東北烈士紀念館入口ホールの天井。
烈士たちの志を象徴したような炎型、星型の照明が印象的。 -
重々しかった照明と雰囲気の東北烈士紀念館を出ると、外の光や空気に身も心も解きほぐされてホッとする。
ほんの1,2時間中にいただけのSUR SHANGHAIでさえそうだったから、監禁されていた人々はどんなに外界に戻りたかっただろう。
記念館隣の敷地には、戦車のほかにも趙一曼ゆかりの電車が屋外展示されていた。
一曼が電車工場の労働者たちを率いてストライキを組織した時の記念碑的物品になるんだろうか。
――無知なSUR SHANGHAIで申し訳ありません。 -
さ、今日の午後は上海行きの飛行機が待っている。
ちょっと時間があるから歩いてホテルまで歩いて行っても間に合うよね。
…と、鉄道の上に架かる景陽街を通過。
ちょうど、列車が哈爾濱(ハルピン)駅を目指して入って行った。
え〜と、これは濱江駅方面から来た列車だよね。
車両の数も多くは無いから、距離の短い拉濱線になるのかな。
間違っていたらごめんなさい。 -
景陽街は、北に向かって歩いて行くと中華バロック建築が立ち並ぶ靖宇街に行けるけど、今回はもう時間切れ。
南極街に入った後は、田地街を経由して、中央大街南端にあるホテルを目指してみます。
南極街の途中にある八区広場では東北抗日烈士紀念塔にも偶然出会って、ついさっき見学してきた東北烈士紀念館との暗黙の繋がりも感じられた午後。 -
おじさんがベンチの上で瞑想状態に没頭していた道の脇。
楊柳の綿毛もどこからかフワフワ飛んで来るし、いい陽気の午後ですよね。
さっき見てきた東北烈士たちが生きてきた時代とは打って変わって、今の哈爾濱(ハルピン)には平和な時間も流れているようです。 -
ホテルがある中央大街の南端も近くなった田地街。
≪東洋の小パリ≫と呼ばれた哈爾濱(ハルピン)街角にはこんな立派な西洋建築もあって、ここだけ見たら本当のパリと見間違えそう。
ふと、視界に動くものがあって、その方向を見ると、ペンキ塗りのおじさんたちが数人外壁にぶら下がってました。 -
イチオシ
瀟洒な西洋建築の外壁にぶら下がってペンキ塗りに精を出しているおじさんたち。
お陰で壁がまた真っ白になるんですよね、お疲れさま。
でも、よ〜く見ると、命綱をはじめとする安全対策を取っていない気がするんだけど…。(;^ω^)
おじさんたち、せめて自分を支えてくれるロープの点検は欠かさないでくださいね。 -
イチオシ
道の傍らに停めてあった自転車付きリヤカー。
そのシンプルな骨組みと地面に落ちる影が何とも言えずいい雰囲気。 -
無事にホテルで旦那と落ち合った後は、上海行きの飛行機に乗るべく哈爾濱(ハルピン)空港へ。
前にも書きましたが、タクシーで40分ほど。燃油費2元と高速道路料金も込みで125元程度。
う〜ん、久々に訪れたハルピンは、やっぱり現代化が進んでいて、1997年に初めて訪れた時とは大違い。
以前は、日本人だと分かると険しい目つきで見られたり、中には日本語で「バカヤロー!!」とののしる人もいたけれど、今回は日本人と分かった後でもそういう態度を取る人はいなかったな。
長い間のトラウマも、時の流れと共に消え去った思い…。 -
哈爾濱(ハルピン)空港内部。
1997年に訪れた時には列車旅だったから、その頃の空港とは比べられないけれど、ここも近年になってから新しく建てられたな、というのが見て取れる。
天井の装飾が雪の結晶になっているのも洒落てるし。
次に来る時には、寒いのを我慢して氷祭りを見に来ようかな。
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