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邪馬台国論争に終止符!? 邪馬台国は徳之島だった!?<br /><br />『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。<br /><br />1.邪馬台国論争に終止符!? <br />①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など80%が一致。<br />②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。<br /><br />2.邪馬台国は「徳之島」だった!? <br />①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。<br />②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。<br />③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。戸森の舟の線刻画(鉄器で描く)と不老不死薬、除服の坐像石は、徐福が最初に渡来して邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。<br /><br />■取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522<br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

邪馬台国は徳之島だった

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2012/05/16 - 2012/05/22

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邪馬台国論争に終止符!? 邪馬台国は徳之島だった!?

『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんできました。

1.邪馬台国論争に終止符!?
①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など80%が一致。
②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。

2.邪馬台国は「徳之島」だった!?
①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。
②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。戸森の舟の線刻画(鉄器で描く)と不老不死薬、除服の坐像石は、徐福が最初に渡来して邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。

■取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

同行者
一人旅
一人あたり費用
25万円 - 30万円
交通手段
レンタカー JALグループ 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  •  魏志倭人伝に記されている卑弥呼は「巳葬」されたとあります。<br />徳之島には「巳葬」の風習があり、亡骸を12時5分前に寝かせて埋葬されています。学者先生方には「巳葬」の風習が理解できないままになっているようです。<br /> この風習は徐福渡来が中国からもたらしたものと思っています。徐福は中国寧波の港から真東に向けて船出し不老不死の徳之島を目指しています。宝貝商人が4千年の昔から中国へ宝貝を小船に積んで交易していた航海のルートだったのでしょう。<br /> 秦の始皇帝や徐福もこの徳之島海洋民族である宝貝商人の情報を聞いていたのでしょう。<br /> 徳之島は、泉重千代さんが世界一の長寿としてギネスブックに掲載されたように百歳を越えた人の多い長寿の島です。この蓬莱の島は、大陸の人達の憧れの国であったのでしよう。<br /> 徐福が日本にたどり着いた最初の島が徳之島なら、卑弥呼の邪馬台国が徳之島あっても不思議ではありません。<br /> 徐福集団の鉄の技術(遺跡発見)がありました。鉄で描く事の出来た「線刻画」の存在や、徐福の石像も発見されています。弥生時代の女性(卑弥呼?)が土葬による巳葬の状態(魏志倭人伝にぴったり)で発掘されています。<br /><br />2012年7月1日から左の写真の「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展(邪馬台国の展示は日本初)を左の場所で開催しています。場所‥京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522

     魏志倭人伝に記されている卑弥呼は「巳葬」されたとあります。
    徳之島には「巳葬」の風習があり、亡骸を12時5分前に寝かせて埋葬されています。学者先生方には「巳葬」の風習が理解できないままになっているようです。
     この風習は徐福渡来が中国からもたらしたものと思っています。徐福は中国寧波の港から真東に向けて船出し不老不死の徳之島を目指しています。宝貝商人が4千年の昔から中国へ宝貝を小船に積んで交易していた航海のルートだったのでしょう。
     秦の始皇帝や徐福もこの徳之島海洋民族である宝貝商人の情報を聞いていたのでしょう。
     徳之島は、泉重千代さんが世界一の長寿としてギネスブックに掲載されたように百歳を越えた人の多い長寿の島です。この蓬莱の島は、大陸の人達の憧れの国であったのでしよう。
     徐福が日本にたどり着いた最初の島が徳之島なら、卑弥呼の邪馬台国が徳之島あっても不思議ではありません。
     徐福集団の鉄の技術(遺跡発見)がありました。鉄で描く事の出来た「線刻画」の存在や、徐福の石像も発見されています。弥生時代の女性(卑弥呼?)が土葬による巳葬の状態(魏志倭人伝にぴったり)で発掘されています。

    2012年7月1日から左の写真の「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展(邪馬台国の展示は日本初)を左の場所で開催しています。場所‥京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522

  • 後漢書 <br />秦の始皇帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を入海、蓬來神仙を求めしむも得ることをえず、徐福、誅さるることを畏れ、敢えて還らず、此の洲に止まる。世々相承けて教万家 有り。会稽東冶県の人、海に入り行きて風に遭い、流移してせんシ亶洲に至る者有り。在る 所絶遠にして往来すべからず<br /> 戦前は、徐福研究をすると「不敬罪」でお縄になったようです。現代は言論の自由があります。  <br /><br />年譜 [編集]中国の歴史書によると<br /> 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』 <br /> 永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』 <br /> 倭国、男性を王とした七、八十年 <br /> 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』 <br /> 光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁 書』 <br /> 景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から 親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(23 8年))。 <br /> 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉 じて倭王に拝受させた。 <br /> 正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として 魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 <br /> 正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。 <br /> 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升 米に詔書、黄旗を授与。 <br /> 正始九年(248年) - またはその前後 <br /> 卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年) に卑弥呼死亡) <br /> 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。 <br /> 卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。 <br /> 女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそ のまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦 20匹を貢いだ。 <br /> 泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最 後の入貢。 <br /> 呼び名 [編集]『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』 東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷  倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、 『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。<br /><br /><br /> 7世紀の頃には記紀から、徐福は完全に歴史から抹殺されてしまっていた。渡来人であることを伏せ、古代から藤原政権が日本人であるかのように改竄されていると思えます。故に、藤原不比等は古代史改竄の大罪を犯している事になるのではないでしょうか。<br /><br />

    後漢書
    秦の始皇帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を入海、蓬來神仙を求めしむも得ることをえず、徐福、誅さるることを畏れ、敢えて還らず、此の洲に止まる。世々相承けて教万家 有り。会稽東冶県の人、海に入り行きて風に遭い、流移してせんシ亶洲に至る者有り。在る 所絶遠にして往来すべからず
     戦前は、徐福研究をすると「不敬罪」でお縄になったようです。現代は言論の自由があります。  

    年譜 [編集]中国の歴史書によると
     建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
     永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
     倭国、男性を王とした七、八十年
     桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
     光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁 書』
     景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から 親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(23 8年))。
     正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉 じて倭王に拝受させた。
     正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として 魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
     正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
     正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升 米に詔書、黄旗を授与。
     正始九年(248年) - またはその前後
     卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年) に卑弥呼死亡)
     男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
     卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
     女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそ のまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦 20匹を貢いだ。
     泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最 後の入貢。
     呼び名 [編集]『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』 東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷  倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、 『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。


     7世紀の頃には記紀から、徐福は完全に歴史から抹殺されてしまっていた。渡来人であることを伏せ、古代から藤原政権が日本人であるかのように改竄されていると思えます。故に、藤原不比等は古代史改竄の大罪を犯している事になるのではないでしょうか。

  • 「徐福さん」鳥羽一郎が歌う「徐福さん」紹介します。<br /><br /> 世間には余りよく知られていない話があるものです。<br />有名な歌手が歌っているのに「徐福さん」の歌も知られていない、<br />私も最近まで知りませんでした。<br /><br /> 星野哲郎作詩・中村典正作曲です。<br />1、まぼろしの  まぼろしの  2、夢こそは  夢こそは<br />  不老長寿の  薬を求め     若さ支える 天台烏薬<br />  蓬莱目指して 船出した     三国無双は 那智の滝<br />  3千人の   大ロマン      大空駆ける 龍に似て<br />  一つに束ね  舵をとる     姿を何時も 仰ぐたび <br />  徐福 徐福             徐福 徐福<br />  徐福は秦の  夢男       徐福は胸に 蘇る<br /><br />3、何よりも   何よりも<br />  汗を流して  得る喜びが<br />  天国なんだね 人の世の    <br />  木の香もゆかし日の本に<br />  神倉建てて  幸を呼ぶ   <br />  徐福 徐福<br />  徐福の後に  徐福なし <br />

    「徐福さん」鳥羽一郎が歌う「徐福さん」紹介します。

     世間には余りよく知られていない話があるものです。
    有名な歌手が歌っているのに「徐福さん」の歌も知られていない、
    私も最近まで知りませんでした。

     星野哲郎作詩・中村典正作曲です。
    1、まぼろしの  まぼろしの  2、夢こそは  夢こそは
      不老長寿の  薬を求め     若さ支える 天台烏薬
      蓬莱目指して 船出した     三国無双は 那智の滝
      3千人の   大ロマン      大空駆ける 龍に似て
      一つに束ね  舵をとる     姿を何時も 仰ぐたび 
      徐福 徐福             徐福 徐福
      徐福は秦の  夢男       徐福は胸に 蘇る

    3、何よりも   何よりも
      汗を流して  得る喜びが
      天国なんだね 人の世の    
      木の香もゆかし日の本に
      神倉建てて  幸を呼ぶ   
      徐福 徐福
      徐福の後に  徐福なし

  • 写真は、徳之島で発掘された卑弥呼と見られる土葬「巳葬」のシャーマンです。<br /><br />1.邪馬台国は「徳之島」だった!? <br /> 伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。<br /><br />2.邪馬台国論争に終止符!? <br /> 『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島である。<br /><br />邪馬台国論争に終止符!? 邪馬台国は徳之島だった!?<br />『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんだ。<br /><br />1.邪馬台国論争に終止符!? <br />①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など80%が一致。<br />②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。<br /><br />2.邪馬台国は「徳之島」だった!? <br />①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。<br />②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。<br />③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。戸森の舟の線刻画(鉄器で描く)と不老不死薬、除服の坐像石は、徐福が最初に渡来して邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。<br /><br />

    写真は、徳之島で発掘された卑弥呼と見られる土葬「巳葬」のシャーマンです。

    1.邪馬台国は「徳之島」だった!?
     伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。

    2.邪馬台国論争に終止符!?
     『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島である。

    邪馬台国論争に終止符!? 邪馬台国は徳之島だった!?
    『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の邪馬台国は、徳之島が有力という事で現地を視察し色々な実証をつかんだ。

    1.邪馬台国論争に終止符!?
    ①『竹取物語』の不老不死薬と徐福伝説から邪馬台国を発見。物語に登場する宝貝と不老長寿薬から「徳之島」と推定! 魏志倭人伝の方位と距離など80%が一致。
    ②『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島。

    2.邪馬台国は「徳之島」だった!?
    ①『魏志倭人伝』に記す「南水行十日陸行一月」は、真ん中に「又」が無く「投馬国から南へ水行十日(+)陸行一月」。年中温暖「海南島」と同じ気候、裸足で入墨、長寿の島。
    ②伊仙町で発掘された弥生時代のシャーマン(卑弥呼?)墓は、魏志倭人伝と同様、棺あるが外箱無しの土葬「巳葬」である。聖地の前方後円墳は百余歩あり、山は丹(赤土)ある。
    ③ 中国貨幣(宝貝)出土は徳之島との交易の証。戸森の舟の線刻画(鉄器で描く)と不老不死薬、除服の坐像石は、徐福が最初に渡来して邪馬台国・卑弥呼の王国を誕生させた。

  • <br />2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を左の場所で開催しています。場所‥京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522 <br /><br />「邪馬台国論争に終止符!?」 [除福 邪馬台国 魏志倭人伝 九州説大和説」等を展示しています。<br />『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」です。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島とあります。<br /> 徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士(学者)で、3,000人の童男童女と百工(百人の技術者)を従え、五穀の種を持って、東方の蓬莱山を目指してに船出し最初にたどり着いた島である。<br /> その後に南西諸島を北上して九州・機内・富士山へ3000人の子供達や100人の工人である技術者を連れて移住してきている。<br /> 何故ここに来たのかは、ムー大陸時代の卑弥呼の邪馬台国があり中国との交流があったからである。中国は、日本人が行って作られた国(殷王朝の殷墟文字は日本の方カニからできている)なのである。我々日本人は、世界文明の最初だったことを外国人によりウソの教科書を作らされ隠され続けられてきたのである。<br /> 詳細は、HPやYouTubeで「竹取翁博物館」「日本は世界文明の最初」なとど入れて検索して頂くと判明する。10冊あまりの本も館で販売され郵便振り込みでも受け付けされている。


    2012年7月1日から「竹取翁博物館」で「邪馬台国論争に終止符!?」展を左の場所で開催しています。場所‥京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522

    「邪馬台国論争に終止符!?」 [除福 邪馬台国 魏志倭人伝 九州説大和説」等を展示しています。
    『魏志倭人伝』に記す邪馬台国は、方位&距離から九州より南の大海「徳之島」です。昔から新井白石らが苦悩、畿内・九州説の議論続くが、帯方郡東南の大海の中の山島とあります。
    徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士(学者)で、3,000人の童男童女と百工(百人の技術者)を従え、五穀の種を持って、東方の蓬莱山を目指してに船出し最初にたどり着いた島である。
     その後に南西諸島を北上して九州・機内・富士山へ3000人の子供達や100人の工人である技術者を連れて移住してきている。
     何故ここに来たのかは、ムー大陸時代の卑弥呼の邪馬台国があり中国との交流があったからである。中国は、日本人が行って作られた国(殷王朝の殷墟文字は日本の方カニからできている)なのである。我々日本人は、世界文明の最初だったことを外国人によりウソの教科書を作らされ隠され続けられてきたのである。
     詳細は、HPやYouTubeで「竹取翁博物館」「日本は世界文明の最初」なとど入れて検索して頂くと判明する。10冊あまりの本も館で販売され郵便振り込みでも受け付けされている。

  •  竹取翁博物館の小泉館長は、毛沢東が生きていた時代から中国に取材に行っていて中国の少数民族や遣唐使の関係で弘法大師・空海についても調べています。<br /> 『竹取物語』に出てくる「蓬莱山の不老不死薬」とも通じていて、そこらを調べているうちに、徳之島の徐福伝説につながり卑弥呼の「邪馬台国」との関係も見えてきたのです。<br /> 魏志倭人伝に記されている卑弥呼の邪馬台国は、何時か徳之島ということになるのではないかと現地を詳しく調査して歩き間違いないのではないかと自負しています。<br /> 江戸時代から卑弥呼の邪馬台国説は、大和・九州説だと新聞や書物でマスコミ陣が取上げられ論争が続いています。この為に突拍子もない説を突然で述べても誰も信じて頂けないので「ネット」で公開することにしました。<br /><br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

     竹取翁博物館の小泉館長は、毛沢東が生きていた時代から中国に取材に行っていて中国の少数民族や遣唐使の関係で弘法大師・空海についても調べています。
     『竹取物語』に出てくる「蓬莱山の不老不死薬」とも通じていて、そこらを調べているうちに、徳之島の徐福伝説につながり卑弥呼の「邪馬台国」との関係も見えてきたのです。
     魏志倭人伝に記されている卑弥呼の邪馬台国は、何時か徳之島ということになるのではないかと現地を詳しく調査して歩き間違いないのではないかと自負しています。
     江戸時代から卑弥呼の邪馬台国説は、大和・九州説だと新聞や書物でマスコミ陣が取上げられ論争が続いています。この為に突拍子もない説を突然で述べても誰も信じて頂けないので「ネット」で公開することにしました。

    ■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
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  • 写真は「卑弥呼の墓」と見られる所です。ここから20〜30体の殉死が見られたようです。<br /> 邪馬台国の徳之島説は、東京大学の「九州説」と京都大学の「大和説」、それに「マスコミ説」と「大手出版説」という巨大な勢力と戦わねばなりません。先日もある全国紙の優秀な記者が『魏志倭人伝』を片手に持ち取材にこられましたが、江戸時代から続いてきた今までの成果? はどうするのか!? とか、実に判らないことを発して帰られました。これは記事に出来ないとまで!?  首をかしげておられました。<br /><br />

    写真は「卑弥呼の墓」と見られる所です。ここから20〜30体の殉死が見られたようです。
     邪馬台国の徳之島説は、東京大学の「九州説」と京都大学の「大和説」、それに「マスコミ説」と「大手出版説」という巨大な勢力と戦わねばなりません。先日もある全国紙の優秀な記者が『魏志倭人伝』を片手に持ち取材にこられましたが、江戸時代から続いてきた今までの成果? はどうするのか!? とか、実に判らないことを発して帰られました。これは記事に出来ないとまで!?  首をかしげておられました。

  • 邪馬台国は徳之島(牛馬いなかった)説が有力!?<br />魏志倭人伝には、「邪馬台国には牛馬いない」と記されている。しかし、『古事記』上巻に「牛を放ち馬を息へ」、『日本書紀』巻第一に「牛馬化為る有り」とある。神話に、牛馬のことが書かれ「飛鳥には牛馬がいた」との記入がある。<br />■取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522<br />■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。<br />copyright(C)2006 Taketori no Okina YK. All rights reserved.

    邪馬台国は徳之島(牛馬いなかった)説が有力!?
    魏志倭人伝には、「邪馬台国には牛馬いない」と記されている。しかし、『古事記』上巻に「牛を放ち馬を息へ」、『日本書紀』巻第一に「牛馬化為る有り」とある。神話に、牛馬のことが書かれ「飛鳥には牛馬がいた」との記入がある。
    ■取材等お問合せ『竹取翁博物館』館長 小泉芳孝。京都府京田辺市三山木直田10 0774-62-2522
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