2011/10/10 - 2011/10/18
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井上@打浦橋@上海さん
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北京の亜運村というところに、私の北京の我が家があります。我が家といっても、人に貸して、賃貸料を稼いでるわけなんですが、これまで私自身も何度もここには住んでいます。今回はは、テナントが出て行き、部屋のチェックと、内装手直しや設備修理に、上海から出向いたと言うことです。その煩わしいモロモロのことは、上海人のカアちゃんに任せて、私はいつものマイペース。そんな状況の中の、我が家周辺のあれこれをアップしました。今回も上海からは天津まで飛行機で来て、そこからバスで北京入りしました。上海→北京の飛行機代が高いので・・・。
表紙は景山公園からの北方向の眺めと、我が家からの西方向の眺めです。景山公園の北方向遠くにはオリンピック競技場があり、その競技場は我が家からはほぼ真西に見えるのです。昔、北京は北京秋天と言いまして、いつも青空だったんですが、最近は汚れた空気に毎日覆われ、遠くを見渡すことなんて、滅多にできません。そんな汚れた空気が雨に洗われ、珍しい青空が3日続いた日に撮ったものが、表紙の2つの画像です。特に、一番下の西の山並みがクッキリ見えるなんてのは、今までに、何回あったか、2・3回のような・・・ということで、私にとっては、貴重な画像なんです。では、あれこれを、どうぞ・・・
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コレが北京の中心と、そこから延びる北部一帯の地図です。
赤い線が北京の南北中軸ライン。
この中軸ライン上に、南から永定門、前門、天安門広場、天安門、故宮、景山公園、地安門(今はありません)、鼓楼、鐘楼などが並んでいるのです。
そして、この中軸ラインを更に北に目を移していきますと、そこにオリンピック競技場もあるということ・・・つまり、この中軸線こそ、北京の一番重要なラインと言うことなんでしょうね。
私が、今回、滞在したところは、そのオリンピック競技場の東に位置する亜運村という地区でした。
この「亜運村」という意味合いは、1990年にアジア競技会が北京で開催されたんですが、その時の選手村が、この地区にありましたので、その後、そう呼ばれるようになったと言うことです。
その亜運村には中身は伴っていないんですが、外観だけは立派なマンションがあるんです。それが、陽光広場です。そこに、私は一部屋を持っていまして、今回はその部屋のゴタゴタの為に上海から北京へ行ったと言うことです。
泊まったところは、その陽光広場へ歩いて3分のところにあるビジネスホテル・速8酒店です。今回は、結局、そこに11泊しました。 -
亜運村のアレコレのうち、まずは、私の部屋がある陽光広場から行きます。
結構思い入れがありますので、チョイと長くなるかもしれません。
まずは、安立路にある歩道橋から見た陽光広場をどうぞ。
遠くから眺めた陽光広場は立派なもんでしょう。
でも近づいてみますと、作りが雑だったり、10年以上経ちまして、あっちこっちにほころびがあったりするんです。 -
左の画像は、中國畫報の1993年10月号です。
中國畫報とは人民画報の海外版です。
1950年創刊の人民画報は中国の実情や文化や地方の話題を写真と文で海外に紹介する雑誌でして、中国語版が人民画報、各国語訳のものを中国画報と言うそうです。
その10月号には「21世紀に向かう北京」と言う特集記事がありまして、その中に、21世紀大厦や国際貿易センターなどとともに、陽光広場も紹介されていたんです。
陽光広場に関しては、次のように書かれていました。
文中ではサンシャイン広場として紹介されています。
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この文を読まれるころには北京最初の中国と西洋の特色をかね備えた大型豪華商業・住宅区---『サンシャイン広場』の第1期住宅の内外販売が終わってることだろう。
『サンシャイン広場』は敷地面積2.88ヘクタール、総建築面積14万平方メートルで、北京市が昨年、香港に赴いて誘致した規模の大きなプロジェクトで、香港金馬国際連合公司が1億4000万ドル投資する。この大型建築群は人びとに完備した商業生活施設を提供する。設計によると、インド文化のマンダラ、中国の四合院、壇場建築様式を取り入れ、外型は古代ローマの円柱状建築風格に富んでいる。広場の真ん中に面積9350平方メートルの空中型庭園がつくられ、その中に大型音楽噴水があり、天井は3つのピラミッド形のガラスドームで、北京ではこれまでみられないものである。内外の不動産会社がこれに強い興味を示している。
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なんで、この陽光広場の部屋を買ってしまったのか・・・
1995・6年当時、上海や北京の不動産投資が日本で騒がれていたことあるんです。Qさん(邱永漢)などの発言がそれの原因なんでしょう。Qさんは、1989年の天安門事件のあと、香港の不動産が3分の1になった時、今が「買い」だと推奨、彼に乗った彼の信奉者達は、皆、香港の物件を買って、3・4年後に大儲けしたとか・・。Qさんは、次は中国の上海と北京だ、と言い始めたんですね。
左の画像が、当時、陽光広場の広告です。日本での販売代理業者が開催した北京不動産セミナーで、参加者に配った小冊子の中の一部です。
このセミナーで、非常に興味を抱き、買ってしまう羽目に陥ったのです。
果たして、上手く行ったのかどうか・・・ -
結論から言いますと、「失敗」そのものでした。5年すれば倍になる、家賃収入は年利10%は確実だ・・・この夢のような話は、全部幻に終わったのです。5年後には価格は半分に、テナントが付けられないので、家賃収入ゼロ。当時、私と一緒に買った日本人は5人いたんですが、私を除いた4人は、2004年までに、ダメだコリャ、と二束三文で売り払ってしまったんです。私だけは、中国に住んでいますので、なんとかテナントを付けて、僅かですが家賃収入が入っていましたので、手放さないで済んだということです。
まあ、陽光広場に興味を示して、それを買ったと言うことは、投資と言う意味合いが強かったんですが、失敗しても自分が住めば良い、という思いもあったのです。なんせ、北京は好きだったですからね。ポシャったら、自分が住めばイイんだ、という逃げの部分もあったからなんです。
私の中国初体験は1984年1月31日。夜に空港に着き、街頭のない真っ暗な道をとことこ車で運ばれ、金魚胡同にある和平飯店に着いてホッとしたのが最初。翌日、北京の銀座通りと言われている王府井をぶらついたら、くすんだ深緑と紺色だけの世界。皆さん、そんな服しか着ていなくて、そんなのが道をゾロゾロ。そして昼に列車に乗って天津の海沿いの町・塘沽に向い、翌日から3年弱に渡る中国生活が始まったんです。最初はカルチャーショックの連続、半年経ち言葉が片言しゃべれるようになってきますと、なんか、中国ユッタリしていて、イイなあと、思い始めてきたのでした。北京へも何度も行き、行きますと、自転車でアッチャコッチャ巡り歩き、北京はエエなあと、ドンドン好きになっていったのでした。
中国を離れたのが1996年の10月。日本に戻ってからも、思いは中国に・・・。いつか、中国に住みたいなと言う思いが強くなり、そんな時、まとまった金が入り、現金で持ってると、競馬でスグになくなってしまう、じゃあ、どうするか、と言う時に、北京の不動産の話が・・。おお、コレだ、コレだと思いましたね。不動産なら買ってしまえば、現金にしにくいのでいつまでも残しておける。
だから、まあ、失敗しても、うまく行かなくてもイイのだという思いがあったので、思いっきり良く、買ってしまったということです。
陽光広場を買った日本人5人のうち、結局最後まで売らずに持ち続けていたのが私だけだったということは、そういう理由があったからでもあるんです。
部屋からはオリンピック競技場の一部が見渡せます。
鳥の巣もチョイ見えます。また水立方も・・・
その向こうには、7星ホテルの盤古大観も・・・
盤古大観に関しては下記をどうぞ・・・
「北京の七つ星ホテル・盤古大観」
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10258665/
マイクロ・ソフトのビル・ゲイツが北京のオリンピックの時に、一部屋を1年間、1億元(当時日本円16億円)で借り切ったとか・・・ -
陽光広場は当時、外国人も買える物件として売り出されたのです。ですから豪華が歌い文句、それだけに価格も一般物件の倍以上。また、中国には昔から外国人にはモノを高く売りつける文化がありますので、その部分で日本人は更に高く買わされたということ。ですから、5年後は倍にはならずに、逆に一般物件の価格に近づき、半分以下になってしまったのです。下の画像の頃が、最低価格の頃でして、家賃も一番低かった頃です。当時、私の2LDKの部屋の価格は60万元以下になっていました。買った時は、22万ドル(当時180万元相当)でしたから、3分の1になったと言うこと。当時のテナントは、中国のオリンピックサッカーのマネージャーをやっていた人だったんですが、彼は、別の部屋を60万元で買わないかと、勧められたそうですが、絶対買わない、なんて言っていました。それほど、魅力を失っていたと言うことなんです。
【外銷房と内銷房】
95・6年当時、外銷房と内銷房と言う区別がありました。
外国人も買える物件が外銷房で、中国人しか買えない物件が内銷房でした。
前者は後者に比べますと、豪華で価格も高く、管理費もべらぼうに高い。
前者は内装済みですので、スグ入居できる。後者は内装なしですので、自分で内奏する。
前者はすべてドル建て、後者は人民元。
ですから、前者は後者に比べて2倍以上の価格設定。
その後この制度は、99年頃になくなり、
その後はすべての物件が外国人も買えるようになったのです。
その頃から外銷房の価格は下がって行き、内銷房のそれに近づいて行ったのです。
それでも、元々外銷房だった物件は人気を落としていきました。
何故か??・・・理由は2つ。
1つは、管理費がべらぼうに高かったこと。
一般並みに合わせるためにその管理費を少しずつ下げていきましたが、
一旦高い時代(甘い時代)を味わっている管理会社は、少ししか下げられない。
もう1つは、豪華な造りだった為、共有空間に無駄な空間が多過ぎること。
建築面積100?と歌われていても、実際使える居住面積は65〜70?くらい。
内銷房ですと、それは80?以上になる。
売買価格計算に当たって基礎となるのが建築面積です。
つまり、単価が2万元/?ということなら、コレに建築面積をかけたものが物件価格になる。
建築面積とは、実際使える居住面積と建物全体の共有部分を割り振った面積の合計なんです。
建築面積に対して、居住面積が占める割合を得房率と言ったりしますが、
この得房率が高い物件のほうが人気があるのです。
無駄な共有空間が多い元外銷房は、その得房率が低いのです。
だから、人気が出ない。 -
陽光広場は、その立派な外観(中身は伴ってないが)のため、CMや映画の撮影などにはよく利用されていました。その豪華な外観のためか、発売時には映画監督の張芸謀やコン・リー(鞏俐)など、北京の有名人も購入契約をしたらしいです。しかし、建設中にゴタゴタあったようで、完成が大きく遅れ、そんな関係で、解約した人が多かったとか・・。
そのゴタゴタがなんだったのか・・・・
ホントかどうかは知りませんが、なんですか、当時の国家主席・江沢民さんの妹さんの家が、陽光広場の東隣にあり、そこから日陰になるとかどうとかのクレームがつき、工事が一時ストップしたとか・・・。
それで嫌気をさした北京在住の北京人購入者は、殆どの人が解約して、支払い金額プラス違約金を受け取ったとか・・・しかし、日本に居て、全然様子が分からない、我々日本人購入者は、それが出来ず、ケチのついた物件を、そのまま受け取り、全額を支払ってしまったと言うことです。ですが、私だけは、違約金ではないですが、22万ドルのうち2万ドル分差し引いた金額20万ドルでOKしてもらいました。それはなぜかと言いますと、私のカアちゃん(妻と言うこと)は上海女性だからです。上海女性はこういう時には、頼りがいがあるんです。まあ、何度も何度も、凄い剣幕で、それを相手に納得させたと言うことですね。 -
陽光広場が工期通り、1997年に完成していたら、そして、その部屋を1998年に賃貸に回していたら、家賃は3000ドルは確実だったでしょうね。しかし、工期が遅れ、賃貸にまわすのが2000年以降となってしまったので、もう高い家賃は期待できなくなっていました。私の部屋の最初の家賃は1200ドル(当時の元換算で1万元チョイ)でした。それが、年々下がっていき、2006年の頃が最低となりました。そのときの家賃が5500元でしたから、半分になってしまったということです。
日本人購入者は、テナント付ける事も出来ないし、価格は、ドンドン下がるし、ということで2006年ごろまでには、見切りを付けて、二束三文で売り払ってしまったんですが、その中で、何とか最後まで持ちこたえたのが岩○さんと言う女性です。というのは、中国に住んでる私が、なんとかテナントを付けてやっていたからです。その彼女も、とうとう我慢できなくなって、売ってしまうと言い出したのです。その時、私は、もうチョッと我慢しろ、オリンピックまでには絶対上がるから、とアドバイスしたんですが、決心は固かったようでした。暫くして、彼女から、日本人で買いたい人が現れたので700万円(購入金額の3分の1)で売ることに決めたと、電話があったのです。ええええ??じゃあ、私が、もっと高く買いましょう、となってのでした。850万円(当時の人民元関算58万元)で買う方向に向かったのでした。 -
さて、私が岩○さんから買い取った部屋は、その後、どうなったのか・・・・やはり、私の思っていたようにジワジワ値を上げて行ったのでした。
北京オリンピック開催前に一番値を上げると見ていて、2008年の5月に北京に乗り込み売り払おうとしたんですが、もうその時は値を下げていたんです。2007年の秋頃が一番高くて、140万元まで行ったとか・・・・ああ、失敗したなと思いしたね、その時は。しかし、翌年の2009年夏には、また値が上がって、
160万元まで行ったんです。よし、じゃあ、と言うことで北京に乗り込み、結局158万元で売却したんです。58万元で買って、3年後に158万元で売って100万元の儲けとなったのでした。バァーット、しかし、その半年後には、200万元になり、現在は260万元になってるとか・・・カアちゃんに、あんたはバカだと言われてしまったのでした。
岩○さんから譲り受けた部屋はB座の114?の2LDKでした。
私が持ってるのはD座の134?の2LDKの部屋です。
D座の私の部屋は殆ど南向き、一部が南西向きで、安立路を南から来ますと、一番目に付くところにあります。 -
コレが私の部屋の間取り図と、部屋の様子です。
この部屋のテナントは、短くて半年、長くて3年、何代入れ替わったか・・・住居としての使用が長かったんですが、最近は事務所として使われていたりして、直近のテナントが悪かったんです。この部屋を写真館として使っていたんです。結婚アルバムがなかった時代に結婚した中年以上の夫婦の為の結婚アルバム写真館として使われていたんです。
1年半くらい使用して、商売がうまく行かなくなり、出て行った訳ですが、部屋は雑に使われていたのか、アッチャコッチャ傷だらけ。
と言うことで、今回は部屋のチェックと手直しの為、上海から北京へ来たということです。
壊れたものを修理し、部屋を綺麗にして、また借主を探すわけですが、それは陽光広場脇にある仲介業者にテナント付けを頼みました。でも、なかなかテナント付け難しそうですが、まあ気長に待つつもりです。
いずれ、ココを売ってしまうかどうか・・・現在は300万元らしいです。一時より下がりましたが、今後、もっと下がるのかどうか・・・中国のバルブもそろそろはじけるかもしれません。今売り抜けてしまうのが良いのかどうか・・迷いどころです。
しかし、私は、この陽光広場ボロはボロですが、気に入っていますから、そのまま持ち続けるかもしれません。 -
陽光広場は亜運村にあるわけです。
じゃあ、亜運村とは、どういう範囲を言うのか・・・
私も詳しいことは知りませんが、左に示した地域が、そうなのかとおもっています。
本来は、「北辰購物中心」がある一画にアジアスポーツ大会の選手村があったと言うことなので、その辺りが亜運村の中心なのかもしれません。
北四環路の南側部分も含むのかどうか・・・その南側にあるイトーヨーカ堂が亜運村店となっていますので、その辺りも含むのかもしれません。
陽光広場の平面図です。
陽光広場の住居棟はA座、B座、C座、D座の4棟に分かれています。
そして各座も、A座ならA1座、A2座、A3座と3つに分かれています。
私の部屋はD2座の10階の3号室です。
4棟に囲まれた2階部分は大きな広場となっています。
私は、この広場を時々ジョギングします。
その広場の下は商業施設と駐車場になっています。
1階、地下1階がショッピングセンター、今はウォルマートが関連してるようです。
地下2階、3階が駐車場です。
1階部分の周りにはレストラン、ファーストフード店が並びます。
陽光広場の南側には、大屯文化広場と言う公園があります。
部屋の手直し、清掃が終わったのが10月19日。部屋のテナント探しを仲介業者に頼んで、北京を離れ上海に戻ったのが、10月21日。一時は、募集広告を見て、部屋を訪れる人が、毎日あったんですが、その後、バッタリ。まあ、しゃあない、こんなもんだろ、気長に待とう、年内は無理だろう、来年の春節を過ぎないとダメだな・・・とあきらめ掛けた時に、イイ話が・・・。それがとんとん拍子で話が進み、テナントが決まってしまったのです。月7800元で、一応、1年契約。
7000元行けばイイかなと、思っていましたので、御の字です。私が日本に一時帰国する前日の11月6日に契約書に両者サインして契約終了したのです。
借主は新日海悦という日本の乳酸菌産品を取り扱う会社らしいです。
http://www.newsunking.com/
陽光広場の話はココまでとします。 -
陽光広場周辺図です。
宿泊したホテルと、食事を取ったレストランは、どれも陽光広場の近く。
ホテルは速8酒店・鳥巣店。
10月11日夕方から10月21日朝まで北京にいたわけですが、たった一度だけを除いて、食事は全てホテルの近く、左の図で示した店でしました。
泊まったホテルはアメリカ系のビジネスホテル、速8酒店です。
利用したレストランは・・・
西貝莜麺村は西北料理。
老秦人は雲南の麺は西北地方の麺です。
餡老満は水餃子など老北京菜。
宏状元はお粥屋ですが、その他イロイロ料理もあります。
面愛面は日本スタイルの麺屋。ラーメンにカレーライスなど。
青葉は日本料理屋。勿論寿司もあります。食べ放題飲み放題も。
あと、昼飯(私だけですが)は、殆ど、ホテル対面の名無しの小さな店のモノをホテルに持ち帰り食っていました。
それでは、このあとは、それぞれを紹介します。 -
上海で電話予約したホテルは格林豪泰酒店だったんです。
1泊、238元で、ネットも無料、そして陽光広場にも近い。
北京に着き、タクシーで、そこへ向かい、チェックインしようとしたら、外国人はダメ!!アチャーと一瞬なったんですが、ああ、あそこがあった、ということで歩いて向かったのが速8酒店です。ココは2009年に2週間利用したところ。
窓有りの部屋を希望したんですが、ないということで、じゃあ、しょうがない窓無しでもOKとなったのです。料金は268元。窓有りが空いたら、切り替えることを希望して、部屋に入り荷物を置いて、ホッと一息。
その後、4・5日続けて、窓有り部屋は、空いたかと確認したんですが、いつもない、という返事。そのうちあきらめて、最後まで窓無し部屋滞在となったのでした。
画像の部屋の写真は、2009年に泊まった時の部屋です。
窓有りで278元でした。
なお、1泊当り、一人分の朝飯(紅茶とパン)が付きます。
といっても、ホテルのある建物の1階部分にあるパン屋・MU BREADに行ってもらってくるのです。 -
北京、最初の夕食はココでした。
カアちゃんが、以前一人で北京に行った時に気に入ったと言うので、ココにしました。
店に入ったのは6時前でしたが、人気の店なんでしょう、席は殆ど埋まっていまして、皆さん賑やかに食事を楽しんでいました。
それと服務員がきびきびしていまして、好感が持てました。
さて、ココからは「北京。おいしい生活。」からの受け売りです。
店の名の西貝莜麺村のことから。
「西貝(シィベイ)」は店の経営者の賈(バイ)さんの苗字を分解したもので、中国の西北(シィベイ)地方ともかけてあるということらしいです。
また「莜麺(ヨウミェン)」は燕麦、つまりエンバクで作った麺ということらしいです。
確かにメニューを見ましたら、西北っぽい料理が多かったですね。
2人ですので料理は4品しか頼めませんでしたが、どれもおいしくいただけました。
気に入ったのは西貝功夫魚と、石磨豆腐でした。
前者は鯉を4時間弱火で煮込んだもので、小骨などは、その存在が感じられないくらいで、勿論、背骨も柔らかくなっています。でも、姿かたちは煮崩れていないというものです。
後者は日本の木綿豆腐を蒸しあげて、それを、醤油タレに付けて食べるもので、なんとなく日本っぽい感じがしましたね。
ココには、もう1回来ました。その時は、上海から北京に出張できていたカアちゃんの姪っ子も一緒でした。 -
ホテルの隣のレストランは2年前は、雲南米線の店だったんですが、今は雲南米線もありますが、陝西省とか、西北地方の麺も扱う店に変わっていました。
北京最初の朝飯はココで食いました。朝7時には、まだ麺類はやってないということで、中国式(西方地方スタイル)のハンバーガーを食いました。
肉来[食莫]と言う食い物です。(正確な字は画像をどうぞ)
8元と聞いて高いなと思いましたが食いました。
食って外に出ましたら、体面に小さな店が見え、良く見ますと、そこにも肉来[食莫]と言う表示が・・・
道を渡り、行ってみましたら、その店のは4元。
ああ、なんじゃ、コリャー!!
頭来たので、その店のも買って食ってしまった。
殆ど同じ、というよりも、こちらの方が中身がタップリでした。
失敗した、と思いましたね。
この小さな店には、その後良くお世話になりました。
昼飯は、殆どココで買って食いました。
熱干麺5元、涼麺4元、牛筋麺4元、米皮4元などです。 -
老秦人の店内です。
昼時はいつも混んでいましたね。
カウンターはファーストフード店っぽくなっています。
この店のメニューは、雲南米線と陝西凉皮など西北地方の麺類が類などです。
そのほか、蓋飯というご飯と料理を1つの皿に盛った定食などもあります。 -
餡老満は老北京菜の店です。
水餃子が売りなんですが、老北京菜も豊富にあります。
私のお気に入りは北京風モツ煮込みの砂鍋吊子と麻豆腐ですね。
どちらも上海にはないものです。
水餃子の種類は20種類とか30種類くらいありますが、いずれも1両(6個)当り1元(だったかな?)の加工料が必要ですが焼き餃子にしてくれます。焼き餃子は鍋貼と言います。
テーブルにはお酢、醤油、ラー油が置いてあり、コレは日本と同じですね。
お気に入りの店ですので、今回の滞在中には3回行きましたね。
なお、餡老満はチェーン店ですが北京市内には、5・6店しかありません。 -
宏状元はお粥専門店ですが、やはり、ここも各種料理があります。
宏状元もチェーン店ですが、こちらは北京市内に30店舗くらいありますね。
私が好く行くのは、この亜運村にある仕粥店と麦子店街にある錦粥店ですね。
仕粥店には今回、3回行きました。
宏状元の公式サイト
http://www.hongzhuangyuan.com/ -
香満楼は最近人気の北京ダック店です。亜運村にある店でなくて、新源里と言う地区にあります。ココが安くておいしいと知りまして、ココで北京在住の方々と食事会をすることに決めました。
陽光広場からはタクシーで行きましたが、目標は漁陽飯店のビルですね。香満楼は、それの斜め対面です。着いたのは5時50分。外から店の中の様子が見えるんですが、見てスグ、コレはなかなかなもんだ・・・噂にたがわぬ人気店であることが実感できましたね。
参加者は北京で生活しています日本人3人と、私たち夫婦と、陳さんとそのお嬢さんの、全部で7人です。
陳さんは、80歳と言うご高齢ですが、まだまだお元気です。4月の北京滞在時にも2度お会いしました。2・3年前はお嬢さんと上海に住んでいまして、上海でも2度お会いしています。陳さんは、本来は台湾出身ですが、日本に17・8歳まで住んでいまして、日本語はペラペラ。その後、北京に移り住み、長く国際旅行社に勤務していまして、周恩来など要人の通訳もしたことあるとか・・・。陳さんの妹さんの陳真さんは、日本のNHK教育テレビの中国語講座の講師をやっていた方です。陳さんのお嬢さんも日本語ペラペラで、今は、北京の日本の大手広告会社の総経理の秘書をされてるとか。
北京ダックメインの料理は十分おいしくいただきました。ビールは1.6リッターのピッチャーに入った生ビール。それを3つ行ったのか、4つだったのか・・・。ビールを飲んだのは7人のうち私を含めて3人のみ。あとの4人は女性ですので(うちのカアちゃんも入っています)お茶オンリーです。冷菜の中に変わったものがありました。山芋のブルーベリージャムかけ、です。北京在住の方が言うには、コレが今、北京では流行ってるとか・・・。私は初めてでした。それと、そうそう、一皿の料理の量が多いのには、改めて上海と違うなと思いましたね。
話題は、上海と北京の違い、上海人と北京人の違いなどが主でしたね。参加者の殆どが上海生活も北京生活も体験していますので、この話題は大いに盛り上がりました。
店は大人気だけあって、席は6時の段階で満席でしたね。そして、7時頃からは欧米人お客が増えてきました。この近辺の燕莎地区や三里屯地区には、欧米人が多く住んでいますので、そのせいなんでしょう。
7人でいくらだったのか、900元くらいだったのか・・・。私が主催者なのに、それを知らないとは・・・とにかく、私は2人分として250元支払いました。安いですよね。 -
陽光広場の南側には大屯文化広場と言う小さな公園があります。
この公園は1992年当時に作られたと思われる陽光広場完成予想図には地区公園として描かれていたんですが、陽光広場完成後にも、その姿を現さなかったんです。
ああ、あの完成予想図は嘘だったのかと、あきらめたんですが、完成後4・5年経ってから、やっと公園工事が始まったのです。
公園の南側にある炎黄芸術館は、随分前からありました。
この写真はBAED(Beijing Architectural & Engineering Company)のサイトから拝借したものです。
陽光広場の斜め対面、150m程先にある北京名人国際大酒店から撮ったものでしょう。
大屯文化広場入り口辺りから見上げた陽光広場です。
水色の線で囲んだ部分が私の部屋です。 -
私の部屋から見た大屯文化広場です。
どういうわけだか大型ディスプレーもあります。
北京オリンピックの時には、その模様をココで放映していたのかもしれません。
公園の向こうには炎黄芸術館の屋根が見えます。
中国の公園どこでもそうですが、ココにも朝から人が大勢集まってきます。
7・8割はお年寄りの方ですね。
朝9時から10時頃には、老人女声合唱団が、歌を歌っています。
いつも、14・5人いますね。
2008年の時にもやっていましたし、今現在も元気良く歌いまくっています。
新中国誕生の頃の、共産主義や毛沢東を称える歌が多いですが、「北国の春」なんかも聞こえてきます。
10曲ぐらいやって散会になるんですが、最後は皆で大声上げて笑いあって終わりとなります。
大屯文化広場の裏門と言いますか、東門の外には、露天の野菜売り、果物売りの店が並びます。
私も、良く、ココで買い物しました。
陽光広場の自分の部屋に2・3週間住むことありましたので、そういう時は、ココにお世話になりました。 -
陽光広場から西方向に6・700m行ったところには北京オリンピック公園(北京奥林匹克公園)があります。
オリンピック公園はつまり、2008年北京オリンピックの際の競技場、鳥の巣や水立方がある公園と言うことです。
北四環路から始まり、森林公園手前で終わる景観大道は全長2.3kmあるそうです。
なお、陽光広場は図の安立路と慧忠北路の南東角にあります。 -
10月19日に陽光広場からジョギングでオリンピック公園の南端まで行き、景観大道を北に行き、森林公園手前まで行ってきました。
景観大道こそ、北京の南北中心軸に当たるわけです。
その日はモヤっていまして、イイ写真が撮れませんでした。
ということで、2008年7月6日の朝に撮った画像を使いました。
案内図を見ても私の撮った写真を見ても、南北中心軸上には建物は何もありません。 -
盤古大観はオリンピック公園の南西角の対面にある建物です。
天辺が雲がなびいた形をした高層ビルが目印ですね。
この高層ビルと、そこから北へ、4つ並ぶ建物全体を盤古大観と言うようです。
ホテル、マンション、オフィスビルなどの総合ビルですね。
ホテル部は7星ホテルと言われてるとか、いや、勝手に自分で、そう呼んでるのかもしれません。
でも、マイクロソフトのビル・ゲイツがオリンピック開催年に、この中の豪華な一室を、1年、1億元で借り切ったとか・・1億元は当時の換算率で日本円15億円にあたります。
盤古大観に関しては下記をどうぞ・・
「北京の七つ星ホテル・盤古大観」
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10258665/
その盤古大観の2008年7月6日の姿と、2011年10月19日の姿をどうぞ。 -
オリンピック公園の景観大道の様子です。
まずはオリンピック公園の南端(と私は思っている)から南方向の眺めです。
この先100mほど行ったところの下に北四環路が東西に走っています。
景観大道は南北中軸線上にあるわけで、南方向真っ直ぐ行った遠く向こうには鐘楼、鼓楼があるわけです。そして、その延長上には地安門(今はありません)、景山公園、故宮、天安門、前門、永定門が並ぶと言うことです。
なお地安門は1954年に撤去されたそうです。
また永定門は一旦撤去され、新設されました。
20年以上前は姿かたちなかったんですが、10年前に、あれ、なんだアレは・・おおそうか、永定門復活したんだ、となったのでした。
地安門もいずれ復活するのかもしれません。
本来の北京の南北中軸線は永定門を南端として、鍾楼までの全長7.8kmを言うそうですね。
この辺り連凧を揚げてる人が多いんですが、良くみますと、凧を売ってる連中でした。
さて、その景観大道を北へ行きます。
鳥の巣を何故中軸線上に建てなかったのか・・・。
建てるべきかどうかイロイロ検討されたそうですね。
結論は、鐘楼より北方向の中軸線上には建物を建てないという今までの「決まり」にならい、鳥の巣も、そうすることにしたらしいです。
玲瓏塔のような、こういった塔は中軸線上に持ってきても不思議はないといいますか、それのほうがシックリ来ると思うですが、これも東にチョイずらせています。
玲瓏塔を過ぎてチョイ行った右にはなにやら奇抜な建物が建設されています。
何でしょうか、コレは・・・相当高い建物になるようです。
オリンピック森林公園入場門まで来ました。
この先中軸線は山にぶつかるのです。 -
北京へ行きますと、景山公園に1回か2回は行きたくなるのです。何故かと言いますと、朝の公園は面白いし、あそこの山と言いますか、丘の天辺に行きますと、眺めが良くて、気持ちよくて、北京の中心にいること実感できますし、南北中軸線も体感できるからです。
あの丘は60m弱あると思うんですが、それを、私は8回上り下りするんです。景山公園へ行きますと、必ず8回やるのです。ですから、今まで200回は上り下りしてるでしょうね。
陽光広場から景山公園へは、いつも124路トロリーバスで行きます。料金は1元。往復で2元。安いもんです。
左の図が、その124路バスの路線案内図です。景山公園へは景山東街で降ります。また、その数日後には国子監街に行ったんですが、その時も124路バスを利用して、安定門内で降りたのでした。
124路バスのバス停は北から南へ・・・
大屯東
大屯南
炎黄芸術館
安慧橋北
奥体東門
五路居
安貞里
安貞水橋
蒋宅口
地壇西門
安定門内
方家胡同
小経厰
宝鈔胡同
鼓楼
地安門外
地安門内
景山東街
景山東門
故宮
北海
西安門
西四丁字街
・・・となります。 -
124路バスを景山東街で降り、景山公園の東門から園内に入ったのが9時52分。
門を入ってスグの広場では、女性のグループが色鮮やかな吹流しのような布をヒラヒラさせながら踊っていました。
この時間ですから観光客が、もうワンサカきています。
よしじゃあ、天辺まで8回上り下りするぞと気合を掛けて、階段登り口に向かいました。
1回目登頂で、万春亭から見える風景を撮りました。
2回目に降りるときに、なにやら軽快な行進曲が聞こえてきて、それにあわせて階段を下り、なんだろうということで、その音楽が鳴っているところに向かいました。
フムフム、そうか、地元の愛好家の管弦楽団なんだ。弦のほうはなかったけど。
そして、その楽譜を見たら、「拉徳斯基進行曲」となっていまっした。ああ、そうか、さっき耳にした行進曲は、ラデツキー行進曲だったな、と納得。
そして、こちらでは「行進曲」が「進行曲」になるんだ、「平和」が「和平」になり、「探偵」が「偵探」、「紹介」が「介紹」、「白黒」が「黒白」、「売買」が「買売」、「言語」が「語言」、「凸凹」が「凹凸」になるのと同じだな、と納得。 -
8回目の登頂が11時6分。
結局8回上り下りに要した時間は71分50秒。
前半の4回が35分で、後半の4回が36分50秒。
8回目の登頂でも、万春亭から見渡せる東西南北方向の風景をカメラに収めました。
まずは真北の風景。
どうですか、真北に伸びる南北中心軸を実感できるでしょう。
景山公園内の北部にある寿皇殿の屋根が見え、その遠く先には鼓楼が見える。
望遠で撮ったのがコレ。
鼓楼の、もっともっと向こうにはオリンピック公園の玲瓏塔も見えます。
盤古大観も見えます。
また鼓楼へ向かう道、地安門内大街と地安門外大街もハッキリ確認できます。
そして、その道を挟んで左右の建物群が左右対称であることも・・・。 -
真西の風景です。
西側には北海公園があり、その中にある白塔も見えます。
遠く向こうには山並みも見えます。
山並みが見えるということは空気が奇麗だからです。
真南は、勿論、故宮ですね。
南北中心軸上に故宮の中心的な建物の屋根が並びます。
右方向向こうには国家大劇院の屋根が光って見えます。
真東は北京のCBD地区の様子が。
そして、奇抜な建物、CCTVビルも見えます。 -
景山公園からの帰りも124路トロリーバス。
その車窓風景をどうぞ。
124路バスは地安門外大街を北へ向かいます。
この道は南北中軸線上の道。
途中、西に抜ける道、烟袋斜街の入り口が見えます。
そこには牌楼があり、上部には烟袋斜街の表示があります。
この道を道なりに行きますと、前海と后海の間にある銀錠橋に出ます。
この道は、今は若者に人気の道です。
入り口の右横には吉野家がありますね。
バスの窓からカメラを出して撮りました。
鼓楼ですね。
バスはこの手前で右に曲がり鼓楼東大街に入ります。
鼓楼東大街を東に暫く行きましたら、なにやら行列が・・・
看板には山東?麺饅頭店とあります。
?麺饅頭とは・・・調べてみましたら・・・
饅頭の一種で、発酵させたのちさらに小麦粉をねりこんで蒸した硬い饅頭
・・・ということらしいです。
陽光広場の最寄のバス停、炎黄芸術館に着いたのは11時57分です。
景山公園からは40分くらいでしたね。 -
5日後、上海に戻る1日前には国子監街へ行きました。
いや、4月に雍和宮に行った時に、そこに立派な銀杏並木があるのを発見したんですが、その銀杏が10月20日には、黄色になってるかも、と期待して出かけたのです。
国子監街で見かけた、なんか雰囲気のあるCafeです。
秀冠という名のようです。
店の中を覗きましたら、欧米人の客ばかり・・・。
http://www.china-view.org/CV/2008/04/post_48.html
を見ますと、秀冠に関しては・・・・2004年2月にオープンした秀冠の自慢は、コーヒーそのものである。イタリアからコーヒー豆を輸入し、挽き立てを淹れる。落ち着いた環境と本物のコーヒーは、北京在住の外国人の間で有名で、客の8割ほどは外国人。しかもその多くが常連客だ。そのほか、芸能人たちもよく来店する。・・・とあります。
國子監の牌楼が見えてきました。
地方からの団体観光客も多いようです。
牌楼を超えて、左にあるのが孔廟和国子監督博物館です。 -
この塀はなんなんでしょうか。
上部には屋根があり、塀のようで塀ではない。
その塀の対面にあるのが孔廟への入場門です。
国子監街ももうスグ終わりです。
向こうに見える牌楼を超えますと、雍和宮大街にでます。
牌楼を超えて振り返りました。
その牌楼には成賢街となっています。 -
雍和宮大街に出ました。
この道は、観光客だらけです。
欧米人観光客、中国国内地方からの観光客などなど・・・
この十地圓通と書かれた牌楼をくぐって、雍和宮の入場門へ向かいます
十地圓通とは、仏教用語で、民族の融和と国民と政治の安泰などを祈願する意味の言葉だそうです。
雍和宮への道は立派な銀杏並木。
4月に訪れた時に、この銀杏並木を見て、いつか秋にココに来て、黄色に染まった銀杏並木を見てみたいとなったんですが、それが、同じ年の秋に巡ってきた・・・
しかし、残念!!まだ早かったですね。
例年ですと、10月20日なら、黄色い銀杏並木が見られたのかと思っています。
今年の北京は、どうも晩秋の訪れが遅かったということなんでしょう。
なんせ、北京に来て、4・5日は、私、短パン、半袖で、外を歩き回っていましたから。 -
ということで、雍和宮の中に入らず、帰途につきました。
では、最後になりますが、国子監街の帰り道の様子をどうぞ。
聖人鄰裡と書かれているのか・・・
興味惹かれましたので、中に入ってみました。
中はこんな感じ・・・
住宅が並ぶ一画のようです。
野菜売りのお姉さんから野菜を買ってるおばさんがいました。
上の赤い横断幕には、「堅決貫徹上級指示・・・依法清退不合理・・」と書かれています。
住民への立ち退きが、そううちあるのかも知れません。
国子監街の売店です。
イロイロと売っています。
白い紙の字を見ますと
鉱泉水が1元、老北京酸女乃が3元。
蝦醤がなんなのか・・・新到とありますから、新入荷したと言うことなんでしょう。
もう1つ○菜とは・・・調べましたら「乳酸菌発酵来保蔵蔬菜」とありますので、漬物なのかもしれません。(○は画像の字です)
でも、やはり、一番人気はやはり老北京酸女乃・・・北京ヨーグルトなのかもしれません。
コレ、大昔からあります。私の北京初体験は1984年ですが、当時もありました。
下の画像は3年前に前海の近くで撮った老北京ヨーグルトです。
こういった陶器に入ってるんです。
コレで、「北京:亜運村・陽光広場あたり・・・」は終わりです。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- よーじーぼーりさん 2011/10/23 08:39:36
- 思い出の亜運村♪
- 師匠、こんにちは。懐かしいです、亜運村。
私が中国で一番最初に行った場所です。もう10年ほど前です。
北辰路と民族円路か北土城西路の交差点にあった商業施設に通ってました。
その場所もスポーツジムが入るとか、明るい話はありましたが
結局閑古鳥が鳴きっ放しでしたね。
普段は中心地から北上して現場に行ってましたが
一度だけ空港から直行した時に裏道を抜けて行き
未舗装の道路に牛が荷車牽いてた光景に出くわし
ビックリした思い出があります。そんな場所は今は皆無でしょうね。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2011/10/23 18:14:35
- RE: 思い出の亜運村♪
- よーじーぼーりさん、どうも。
へえ、よーじーぼーりさんとは、
野毛の立飲み屋繋がりですが、
亜運村繋がりでもあったということなんですかぁ・・・
> 北辰路と民族円路か北土城西路の交差点にあった商業施設に
> 通ってました。
多分、北土城西路じゃないかな・・。
> 一度だけ空港から直行した時に裏道を抜けて行き
> 未舗装の道路に牛が荷車牽いてた光景に出くわし
> ビックリした思い出があります。
> そんな場所は今は皆無でしょうね。
いや、馬と騾馬は、今でも見かけます。
先日も北三環路脇で見かけました。
また、陽光広場脇でも今回2・3度見かけています。
バァーット、しかし・・・牛ですか・・・
牛は北京では、今まで見かけていないような・・・
いやぁ、今日の菊花賞、
首差で4着になったハーバーコマンドが3着に粘っていてくれたら、
大きなのが取れていたのに・・・ムムム残念!!
来週、なんとかしましょう。
では。
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