2011/10/03 - 2011/10/03
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SUR SHANGHAIさん
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東日本大震災のお見舞いで、5月に続いて訪れた宮古市。
その合間のこの日は、重茂半島(おもえ・はんとう)を車で巡ってみることにしたSUR SHANGHAI一行。
この編では、2010年に本州最東端のトドヶ崎を訪れた際に通り抜けた姉吉(あねよし)の集落を再訪してみます。
姉吉は、≪此処より下に家を建てるな≫の教訓が彫られた津波記念碑が有名になった場所。
今回2011年3月11日に発生した東日本大震災の大津波でも、この碑の教訓のおかげで高台にある民家は全て無事だったという集落です。
この日のSUR SHANGHAIは、東日本大震災前に訪れた時の様子とも比べながら歩いてみようと思います。
姉吉の後は、同行者の一人のAさんのアドバイス通り、南隣の山田町へと抜けてから再び宮古市へと戻るルート沿いの様子もご紹介します。
表紙の画像は、宮古市と山田町の境目にある川代(かわしろ)の集落。
津波で流された家屋の跡地にコスモスの花が咲いていました。
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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前編で、重茂半島(おもえ・はんとう)の月山(がっさん)展望台へ行ってみたSUR SHANGHAI一行。
この後は、この画像に出ている岩手県道41号重茂半島線の白浜峠(しらはま・とうげ)分岐点まで戻って、今度は重茂、姉吉(あねよし)、トドヶ崎方面へ進路変更。
宮古市から月山展望台までのルートなどの詳細は、下記の前編にアップ済みですので、必要な方はそちらをご参照下さい。
★車で重茂半島に行ってみる(1) −月山展望台から見た宮古市
http://4travel.jp/traveler/casa/album/10609979/ -
岩手県道41号重茂半島線の白浜峠(しらはま・とうげ)分岐点から、重茂(おもえ)、姉吉(あねよし)、トドヶ崎方面へと車を進めると、途中の下り坂に沿って並ぶ音部(おとべ)小角柄(こづのがら)周辺の民家。
このあたりは海岸から離れた高台にあるので、東日本大震災の津波による被害は無し。
左側2枚は、前回2010年に岩手県北バスで通過した時に撮った画像。
右側2枚は、今回2011年10月にレンタカーで通過した時の様子。
これだけ見ると平和な景色ですが、岩手県道41号重茂半島線をちょっと外れて音部漁港へと下りて行くと…、 -
…音部(おとべ)漁港の防潮堤の水門がある辺りは、一変していた。
上段の画像は、2010年に岩手県北バスで通過した時に撮った画像。
奥に見えるのが防潮堤や水門。その向こう側に音部漁港の岸壁があります。
防潮堤内側にはガソリン・スタンドなども見えていますが…、
…下段の2011年10月の画像では、水門のあたりも大きく破損。
防潮堤内側は瓦礫の撤去も進んで更地状態。
もし、この水門部分が残っていなかったら、以前通った事のある場所だとは気付かなかった…。
ここでふと、防波堤と防潮堤の区別が気になったSUR SHANGHAI。
次のウィキペディアのページに出ていたので、見てみるといいですよ。
防波堤とは: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E6%B3%A2%E5%A0%A4
防潮堤とは: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E6%BD%AE%E5%A0%A4 -
音部(おとべ)漁港の岸壁に寄ってみたSUR SHANGHAI一行。
上段の画像左手に見えるのは、上掲の画像と同じ防潮堤の水門。
音部漁港は、重茂半島(おもえ・はんとう)の太平洋側では規模が大きい港。
地図を見ると、港の外側には防波堤がいくつか記載されていました。
その防波堤もバラバラになって、海中に横たわったり、浜辺にも打ち上げられている2011年10月の眺め。
津波の膨大なエネルギーに、今さらのように驚く。
今日の波は穏やかなので、一層信じられない眺めに見えるのだと思います。 -
2011年10月初めの音部(おとべ)漁港では、漁港を埋めた瓦礫の撤去作業中。
そのクレーンの音が、風に乗って高く低く聞こえてくる岸壁の上。 -
音部(おとべ)漁港から、また岩手県道41号重茂半島線へと戻るべく坂道を上る。
防波堤も防潮堤も越えて漁港の内側に侵入した津波は、その道沿いのガードレールも捻じ曲げへし折っていた。 -
音部(おとべ)から重茂(おもえ)に至る道沿いに出来上がっていた仮設住宅。
ここだけではなく、この後も各地で見かけました。
とりあえずの居場所が決まって一段落した後、ここの人たちはどんな選択をしてこれからの人生に立ち向かっていくのだろうと思う。 -
岩手県道41号重茂半島線に戻った後は、重茂(おもえ)の集落を通過。
ここは大きい集落で、このあたりの中心的存在なのだと思います。
岩手県北バスの車庫、漁協があるのもこの重茂。宿泊施設もあるようです。
岩手県道41号重茂半島線沿いの高台にある建物は東日本大震災での津波による被害無し。
今回車の中から撮った写真はブレブレだったので、これは2010年にバスで通りかかった時に撮った岩手県北バスの車庫前の画像です。 -
重茂(おもえ)にも、海岸に下りた場所には漁港があるんですが、ショベルカーが数台作業中だったので素通り。
一路、岩手県道41号重茂半島線を姉吉(あねよし)方向へ。
途中の山間の緑のトンネルが美しい道。 -
岩手県道41号重茂半島線にある岩手県北バスの姉吉(あねよし)停留所そば。右手に見える小屋がバスの待合室。画像は、2010年に撮ったものになります。
ここから標識に従って左に入り、坂道を下りて行くと姉吉の集落。
この旅行記の出だしの白浜峠からここまで、途中の音部(おとべ)漁港に寄った時間も含めると40分ほど。
2010年に、SUR SHANGHAIが岩手県北バスの≪宮古駅前⇔重茂⇔石浜⇔川代≫線で来た時にはここで下車し、後は徒歩で姉吉集落を通って本州最東端のトドヶ崎を目指しました。
その時の姉吉集落の様子も見てみたい方は、下記の旅行記をご参照ください。
★本州最東端のトドヶ崎灯台へバスと徒歩で行ってみる
http://4travel.jp/traveler/casa/album/10473833/ -
姉吉の停留所から、標識に従って入った坂道を下りていく。
その道沿いにあるのが姉吉の集落。
この画像だけ見ると海が近くにあるとはとても思えませんが、それは山が急激に海に落ち込むリアス式海岸のため。
漁業を営むお宅がほとんどのようでも、民家は海岸のそばではなく、海へ下りていく坂の中程にまとまっています。
傍目からは不便そうに思えてもそれには訳があって、その訳はと言うと…、 -
…姉吉(あねよし)の集落には、海辺に家を建てるのを戒める教訓を彫った石碑があるから。
東日本大震災の津波の後、その≪此処より下に家を建てるな≫の教訓碑文で有名になったこの津波記念碑は、姉吉の民家が集中しているあたりから少し坂道を下りて行った道脇に立っています。
2010年にSUR SHANGHAIがここを徒歩で通った時には無かった赤いリボンで、その場所が示してありました。 -
左の画像が、2010年5月に撮った姉吉(あねよし)の津波記念碑。
たまたまトドヶ崎に向かう途中に見つけて撮った写真なので、これ一枚のみ。
その時には、まさか翌年2011年3月11日に東日本大震災の大津波が発生するとは思ってもみなかった…。
東日本大震災の大津波は、下記の読売新聞のニュースによるとこの石碑の50m手前まで坂を駆け上がって来て、その遡上高は史上最大の40.5mだったのだそう。
『此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う』
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm
『史上最大、40mの津波が駆け上がった宮古市』
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110717-OYT1T00152.htm?from=y10
右の画像が、今回2011年10月に再訪した時に撮った津波記念碑。
光の具合で、表面の凹凸などちょっと雰囲気が違って見えます。 -
東日本大震災後、メディアでも取り上げられて一般にも知られるようになった姉吉(あねよし)の津波教訓の記念碑は手入れがされたらしい。
周辺の草がちょっと刈られていたり、2010年にはコケで読み取れなかった下の方の文字も今回ははっきり見えました。
石碑の高さは130cmですが、道脇のちょっと高い所に置いてあるので、今回はこんなアングルからもパチリ。
碑念記浪津大
−と古風な横書きの下に、縦書きで書かれたのが、姉吉の石碑の津波教訓。
高き住居は
児孫に和樂
想へ惨禍の
大津浪
此処より下に
家を建てるな
さらにその下には、前回ははっきり読めなかった別の碑文があるので…、 -
…その部分だけをアップでご紹介。
どなたかは存じませんが、読み取れるようにお掃除して下さってありがとうございます。
ここにも縦書きで、姉吉(あねよし)集落を襲った過去の津波の被害が記されていました。
●注: 改行などは、原文のまま。
ここで言う≪部落≫とは、≪集落≫の意味。
碑文最後の≪要心何従≫というのは、≪用心何より≫と読むようです。
明治廿九年にも
昭和八年にも津
浪は此処まで来て
部落は全滅し生
存者僅かにも二人
後に四人のみ幾歳
経るとも要心何従 -
姉吉(あねよし)集落の津波教訓の石碑を今回はもっと注意して見てみると、向かって左側面には別の碑文もあって、この石碑が立てられた経緯が記してありました。
短いので、全文を書いてみると次のとおり。
●注: 原文は縦書き。改行などは原文のまま。
此の碑は昭和八年津波の際東京朝日新聞社が
読者から寄託された義捐金を各町村に
分配し其の残餘を更に建碑費として
受け建設せるものなり -
津波記念碑の教訓を守って難を逃れた姉吉(あねよし)の集落から、さらに坂道を下って海岸方向に向かうと、さっきまでの緑に覆われた道沿いの景色が一変。
前は、沢に沿った道の脇まで木や草が生い茂っていたのに…。
その山肌を見ると、木が残った部分と岩が露出した部分がくっきりと二分されていた。
これが、姉吉一帯を襲った津波の高さ。
今回の東日本大震災の大津波の遡上高は、この姉吉では史上最大の40.5mに達したと聞いていても、目を疑うその高さ。 -
津波教訓石碑のある場所を過ぎて、姉吉(あねよし)海岸へと下りて行く坂道。
上段の画像は、2010年に徒歩で通った時に撮ったもの。
緑が道の脇にまで生い茂って、いい風情。
ここで見えている建物は、人が住む家ではなく、漁業関連の作業場兼物置小屋。
それが、今回2011年10月に通った時には、道脇の作業場や木々は全て無くなっていて、同じ場所に戻って来たとは思えない。
電柱は、復旧作業のためにいち早く立てられたのだと思います。
2010年には、これらの画像右手に本州最東端のキャンプ場という姉吉キャンプ場があって…、 -
…各種設備もきれいに整っていました。
これは、2010年に撮った姉吉キャンプ場周辺。
本州最東端のキャンプ場と書かれた看板そばには、津波避難経路を示した標識も立っていて、山側800m先の目倉神社が避難場所になっていました。
こんなにきれいに整備されたキャンプ場だったのが…、 -
…今回の2011年10月の訪問時にはその姉吉(あねよし)キャンプ場の面影は全く無し。
木々や瓦礫はそのまま押し流されて沖に出たのか、それともすでに撤去されたのか、周辺の漁業関連の施設も含め、跡形も無くなっていたのには言葉も無し。
キャンプ場敷地内にあった赤いアスファルト歩道の断片や、土砂に半分埋まったコンクリート製のファイヤー・サークルで、ここが姉吉キャンプ場だったと分かる程度。
ただ呆然。
坂の上の方を見ると、津波があれだけの高さで来たと言うのが分かる線になって残っていました。
画像中央付近の大きなコンクリート片そばに立つ黒い人影と比べると、その高さが歴然。
倒れた電柱と、復旧作業のために新しく立てられた電柱が入り混じる眺め。
これを見ると、姉吉の集落の皆さんが津波教訓に従って、住居は全てこれより上の方に建てられていたのは不幸中の幸いだったとしか言えません。 -
姉吉(あねよし)キャンプ場の赤いアスファルト歩道やファイヤー・サークルの残骸を横目に下りて行った所が姉吉海岸。
-
その姉吉(あねよし)海岸の片隅には、2010年に訪れた時には、明治29年と昭和8年の津波の高さを表わす高い柱が立っていて、津波到達点表示板も取り付けられていました。
その高さを見上げて、文字通り仰天したSUR SHANGHAI。
まさか、この翌年の2011年にも再度この姉吉が大津波に見舞われるとは…。
表示板の説明はこの画像でも十分に読み取れると思いますが、
「地震がしたら遠くへ逃げず…」と言うのは、「津波の猛スピードにはすぐに追いつかれてしまうので、遠くに逃げようとするのは間違い。それよりも近くの高い所へ逃げるのがよい。」という意味なのだそうです。
この表示板も柱も、2011年10月に訪れた時には、影も形も無くなっていました。 -
姉吉(あねよし)海岸の脇にあるトドヶ崎への上り口あたり。(トドヶ崎のトドは、漢字で書くと魚ヘンに毛。)
2010年に訪れた時には、上段の画像のように、その上り口の際まで漁業関連の作業場や物置、軽トラックなどが並んでいました。
画像の右端には≪←本州最東端 トドヶ崎灯台≫と書かれた大きい看板が立っていて、シンプルながら整備された遊歩道がそこから出ていたんですが…、
…下段の画像は、2011年10月に訪れた同じ上り口のあたり。
見覚えのある斜面はあっても、その周りの施設は皆無。
東日本大震災後、一夏越えた跡地には雑草が逞しく生い茂っていました。
本当に同じ場所に戻って来たんだろうかと、ここでも目を疑う。
この日の同行者の一人のAさんは、震災後すでに一度ここにやって来ていて、事前に「何もかも無くなっている。」と教えてくれましたが、その言葉の中身の程度を掴みかねていたSUR SHANGHAI。
今回の姉吉キャンプ場や、トドヶ崎へのこの上り口周辺を見てしまった後は、本当に「何もかも無くなっている。」としか表現できない…。 -
これが、姉吉(あねよし)海岸脇にあるトドヶ崎への上り口。
上段の画像が2010年の様子。
上の方で言ったように、トドヶ崎灯台への大きな看板が立っていて、遊歩道でここから斜面を上って行くようになっていました。
それが、2011年の10月には、見覚えのある斜面を除いて、あとは全くの空っぽ。
それでも、トドヶ崎への道を示す臨時の小さい標識がポツリと出されていました。
画像中央付近に見える白いテント状の設備は火工所。
火工所というのは、ごく簡単に言うと発破を準備する場所。
姉吉海岸付近では、バラバラになって打ち上げられた防波堤ブロックなどの処理に発破が使われているようでした。
2011年10月末日まで作業が続くとの事で、作業時間帯などを記した注意書きの看板も出ていました。 -
トドヶ崎灯台への上り口のそばは、もう姉吉(あねよし)海岸。
画像をクリックして元画像にすると、大きく表示されます。
左側2枚の画像が2010年に撮ったもの。
小さい岬と岬の間を挟むように防波堤があって、小さいながら漁港もありました。
右側2枚が、2011年10月の様子。
沖のほうにある岩は無事だったのに、防波堤は消え去っていて、僅かにその残骸のブロックが水面に顔を出している状態。
漁港は、岸壁を残してその上の設備は無くなっているのが分かると思います。 -
津波の引き波で土砂が海側に押し流され、ずいぶん浜辺が広くなったように見えた姉吉(あねよし)海岸。
その浜辺にも、防波堤の一部だったらしいコンクリートの巨大な塊が転がっていました。
これは、打ち上げられた後、発破で一部を破壊した後の大きさなのかも。
これまで、津波のメカニズムを紹介するテレビ番組で、津波の圧倒的エネルギーと脅威を知ったつもりになっていたSUR SHANGHAI。
こうして現場を見てみると、現実はテレビで知っただけの知識を遥かに超えていた。 -
姉吉(あねよし)の海岸にある小さい漁港。
上段が2010年の様子の画像。下段が2011年10月に再訪した時の様子。
東日本大震災後には、岸壁だけ残して消え去っていました。
漁業関連の作業や運搬に使われていた軽トラックやフォークリフトが無くなった代わりに復旧作業に携わる方たちの車が来ていたので、さらに近寄って行ってみると…、 -
…2010年には本州最東端の蛇口と表示があった姉吉(姉吉)海岸の漁港辺りは、岸壁だけになっていて、僅かに柱の土台が残るのみ。
蛇口があったらしき場所には、津波後の発見物(?)が置かれていました。 -
姉吉(あねよし)海岸の小さい漁港。
2010年には、船が入った時には賑やかに忙しくなりそうな感じだった岸壁も、東日本大震災の津波後は岸壁と柱の土台のみ。
下段の2011年10月の画像では、海岸奥の姉吉キャンプ場や作業場兼物置などがあった場所も、一面荒れ果てた海岸になっているのが見て取れます。
以前の姉吉海岸の様子を知っている方なら、その違いに愕然とするのではないかと思います。 -
上の方で見て来たように、東日本大震災後は面影も無く変貌した姉吉の海岸周辺。
漁港の岸壁あたりでは、2011年10月には潜水作業が進行中。
瓦礫で埋め尽くされたに違いない港内の海底を調査して、復旧のめどが立つように発破も使って障害物を除去しているんだろうな、と思う。
次にここまで来る事があれば、甦った姉吉の漁港を見てみたい。 -
姉吉(あねよし)の漁港のすぐ後は崖。
その崖を見上げてみると、残った木の枝にはガードレールらしき残骸や、その上の方には浮の付いた魚網が引っかかっていた。
崖の木の倒され具合、枯れ具合を見ても、今回の東日本大震災の津波の高さは少なくともあの位あったんだと想像できる。
下に見える機械を人の高さとすると、盛り上がった海面の高さはその数倍。
そのままの勢いで姉吉の集落のある方向へと坂を駆け上がり、遡上高40.4mを記録したのかと思うと、ただただ恐ろしい。 -
姉吉(あねよし)の漁港脇の崩れた路肩。
ここで同行者の一人のAさんが、「またトドヶ崎まで行ってみたら?」
う〜ん、また行ってみたいのは山々でも、今日はこれからもう一人の同行者のBさんと別の予定もあるし…。
ここからトドヶ崎の灯台までは、少なくても往復で徒歩2時間はかかるのは体験済み。
今回はここで、引き返そうと思います。 -
宮古市街地への帰り道は、Aさんのアドバイスに従って、元来た道を引き返すのは取りやめ。
一旦、重茂半島(おもえ・はんとう)沿いに岩手県道41号重茂半島線を南下、隣町の山田へ出てから、国道45号線で宮古へ戻ってみます。
姉吉(あねよし)の漁港から、さっきは下って来た坂道を今度は上る。
こうして見ると、津波がその坂沿いに姉吉の集落の方向を目指して駆け上がって行った痕跡が崖にありあり。 -
津波教訓の碑文を彫った記念碑の所まで戻って来ると、ここは何事も無かったように緑のトンネルが続いていた。
ここからさらに上の方にある姉吉(あねよし)の集落は安全圏内。
姉吉の集落を守った津波記念碑は、木漏れ日の中でやけに静かに見えた。
ほおっと、溜息。
これまでに見て回った沿岸の街でも、ほんの数mの距離や高さの差で助かった家と助からなかった家との境目を見てきたSUR SHANGHAI。
その運命の差は、言葉では表現できないくらい大きい…。 -
姉吉(あねよし)の集落を過ぎて、岩手県道41号重茂半島線に戻ったSUR SHANGHAI一行。
この先は、上の方でも言ったように、岩手県道41号重茂半島線を一旦南下して隣町の山田をまず目指します。
この画像で見えているのは、千鶏(ちけい)という集落の入口。
ここにも小さい漁港があって、海辺には民家も並んでいたらしいのに…、 -
…その千鶏(ちけい)の漁港も集落も東日本大震災の津波で流されていた。
瓦礫は撤去された後のようで、その跡地が荒れた姿で残っていました。
この画像の左手の一段高くなった所には…、 -
…本州最東端の小学校という千鶏(ちけい)小学校が半壊になって残っていました。
この画像正面奥の一段高い所に見えている建物が、千鶏小学校校舎と講堂。
この画像だと、一見無事のように見えますが、望遠鏡で見てみると、高台のフェンスを倒して侵入して来た津波によって1階部分は内部が流されたらしく、ベニヤ板が一面に貼られていました。
画像左上にちょっと見えている白い横線は、姉吉(あねよし)から来た岩手県道41号重茂半島線のガードレール。
その道沿いの民家は無事だったのが、ここで見えている民家跡地と大きな対照を成していると感じたSUR SHANGHAI。 -
イチオシ
千鶏(ちけい)から岩手県道41号重茂半島線をさらに南下。
石浜(石浜)の集落や、寒風峠(かんぷう・とうげ)を越えた先が、宮古市と山田町との境目になる川代(かわしろ)の集落。
岩手県北バスの≪宮古駅前⇔重茂⇔石浜⇔川代≫線の終点・折り返し点はここ。
川代にも小さい漁港があって、そのそばにはやはり民家も並んでいたらしいんですが、ここも今では瓦礫を撤去された跡地になっていました。
太平洋に面した庭を持っていたらしい民家の跡には、コスモスが風に揺れながらも健気に咲いていたのが強い印象として残ったこの日。
この川代の集落も再生して欲しいと強く願う。 -
宮古市と山田町の境目となる川代(かわしろ)の集落で、休憩を取ったSUR SHANGHAI一行。
車を小さい漁港の岸壁に停めて、浜辺に下りてみる。
こんなに穏やかで美しい今日の太平洋が、東日本大震災では大津波となって押し寄せて来ただなんて、とてもとても想像できない…。 -
上に出した画像の浜辺に立って、川代(かわしろ)の集落が並んでいたという斜面を振り返ると、大きな川原のように見えた。
画像の右上から下に延びている線は、岩手県道41号重茂半島線のガードレール。この画像だと、右手が姉吉(あねよし)方向。
同じ川代の集落でも、その道沿いの民家は無事だったらしい。 -
宮古市川代(かわしろ)の集落と山田町を分けて流れる沢。
この沢はこのまま川代の漁港脇にへと注いでいます。
この画像だと、橋の右手は宮古市川代。
橋の左手は、山田町。
橋の欄干やガードレール、向こうに見える木立を見ると、津波はこの沢沿いも駆け上がって行ったらしいのが分かります。 -
川代(かわしろ)の集落の小さい漁港の岸壁を辿ってみた。
奥に見えるのが、さっきまで立っていた浜辺と集落のある方向。
ここでは、港内の瓦礫の撤去はこれから?
小舟もいない港内。 -
川代(かわしろ)から南の岩手県道41号重茂半島線は、山田町を通る。
杉の木が縞模様を作る峠の道を越えると…、 -
…山田町の浜川目(はまかわめ)や大沢地区を通過する道になった岩手県道41号重茂半島線。
山田町は、巾着型の湾に沿って出来た港町。
V字型に鋭く切れ込んだ湾を持つ宮古市とは景観がずいぶん違って見えます。
オランダ島とも呼ばれる小さい島が浮かぶ湾内では、牡蠣の養殖が盛んらしい山田町。
いつも宮古市周辺のことを色々教えてくれる同行者の一人Aさんが、昔は水上飛行機の基地があったという辺りを過ぎると、半壊・全壊の建物を取り壊し途中の眺めになった。
山田町も、これまで見てきた宮城や岩手の太平洋沿岸の町や集落と同じく、大きな被害を受けた場所というのが分かる道沿い…。 -
山田町の大沢(おおさわ)地区を過ぎて、岩手県道41号重茂半島線は国道45号線と合流。
後はこのまま北上して、今日の振り出しの宮古市へ。
その途中で見かけたのは、道沿いの土地の高低に合わせて設置された多数の津波浸水想定区域の標識。
島国日本では国道45号線沿いに限らず沿岸部ではよく見るこの標識も、実際に津波に襲われた地方で見ると、リアルな怖さがある。 -
さあ、山田町から国道45号線を北上して、また戻って来た宮古市の津軽石(つがるいし)。
この日の出だしは、国道45号線を画像奥の宮古市街地からやって来て、ここの分岐点で岩手県道41号重茂半島線に入って行ったんだよね。
これでその県道も一周した事になる。
この津軽石から、月山(がっさん)展望台、姉吉(あねよし)、山田町の大沢と回ってまた戻って来た所要時間は、約4時間半。
いろいろとまた宮古周辺のことを教えてくれたAさん、黙々と同行してくれたBさん、お疲れ様。
東日本大震災後の宮古周辺各地の様子が分かって、有意義なドライブ旅でした。
この日の道筋の場所ばかりではなく、被災地各地の今後の復興を切に祈りたいと思います。
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