鎌倉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 昭和2年(1927年)に法華堂跡と源頼朝墓が別個に国指定史跡になったが、その後、平成12年(2000年)に追加指定・統合され、名称変更されている。さらに石段下の鳥居前の島津忠久墓参道と大江広元墓参道の間の広場が発掘調査された結果、北条義時法華堂と推測される堂跡が発見され、平成18年(2006年)に北条義時墓の法華堂跡部分等を追加し、名称変更された。北条義時は2代執権で、北条政子の弟である。<br /> また、宝治元年(1247年)に法華堂に籠った北条泰村ら三浦一族500人余りの自害の地としても知られる。鳥居手前のやぐらには石塔が建ち北条泰村ら三浦一族の墓とされる。<br /> 背後の山麓にあるやぐらには薩摩藩主島津家の藩祖とされる島津忠久、執権政治の確立に尽力した大江広元とその子で毛利家の祖である毛利季光の三人の墓が並んでいる。古墳時代の横穴墓だとされるが墓を造成する際に掘削されていてやぐらのように見える。<br /> 国指定文化財等データベースの詳細解説には「法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ」(昭和2年の指定当時の指定説明が記載されていたが、今回の小生の指摘を受けて10月には平成18年の追加指定・名称変更時の説明が書き加えられている。)とあり、白旗神社が建つ平地に頼朝の持佛堂が建っていたが薨去後に廟所として法華堂になったことが印されている。その後、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が多層塔(供養塔)を建てた。平成元年(1989年)にこの多層塔は破壊され、平成2年(1990年)に新たに造り替えられた。<br /> 神奈川県生涯学習情報システム:文化財情報詳細画面には、「1199年(正治元年)に死去した鎌倉幕府の創始者である源頼朝と、2代執権として幕府発展の礎を築き1224年(貞応元年)に死亡した北条義時(よしとき)の死後の冥福を祈る建物(法華堂)が建てられたとされる場所である。このうち頼朝の法華堂跡は、現在では頼朝の墓と称される石塔が建ち、義時の法華堂跡は、平成17年に実施された発掘調査の結果、建物遺構が確認され、周辺の地下に遺構が良好に保存されていることが判明した。<br /> いずれの跡も、山腹を造成して造られた平場の上にあって、家臣に当たる北条義時の法華堂は、主君たる源頼朝のものよりも低い場所にある。」とある。ただし、「1199年(正治元年)に死去した鎌倉幕府の創始者である源頼朝」とあるが、正しくは「建久10年1月13日(1199年2月9日)」の間違いである。また、「1224年(貞応元年)に死亡した北条義時(よしとき)」とあるが、正しくは 「1224年(貞応3年)」の間違いである。「主君よりも低い場所にある」とするのには説得力がある。勿論、島津忠久、大江広元、毛利季光の三人の墓も源頼朝墓(法華堂)よりも低い場所にあるべきだ。しかし、そうではないような気がする。古墳時代の横穴墓を再利用するにしても主君の頼朝公の墓よりも高いところに家臣の墓があるのはおかしい。おそらくは、江戸時代になって立派に見えるように二公(島津忠久と大江広元。毛利季光の墓は大正10年(1921年)に移設した)の墓を建立し、そのために高いところに設定され、鎌倉時代を思わせるようにやぐらのように横穴を掘ったのであろう。等間隔に横穴が穿って見えるのはそのためだろう。<br /> 法華堂は中腹の頼朝墓横にあったが宝治合戦以後に下の白旗神社のある平地に移されたとされるとの記述も見られた。頼朝墓左側平地が持仏堂(後の法華堂)跡とする方が合理的のようだ。<br /> また、国指定文化財等データベースの写真一覧には、白旗神社前参道が「法華堂跡」、頼朝墓左側空き地が「法華堂跡」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、大江広元墓参道上り口が「法華堂跡(北条義時墓)」、大江広元墓参道右鳥居前広場が「法華堂跡(北条義時墓)」として4枚の写真が添付されている。しかし、島津忠久墓、大江広元墓、毛利季光墓の写真はない。これらの3公墓も史跡に含まれるとする記載が見られたが、北条義時の名があって大江広元の名がないのであるから、これらの3公墓は国指定史跡には含まれないのであろう(しかし、Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった。文化庁文化財部記念物課史跡部門の担当者からもその旨を追加したとメールがあった)。これらの3公墓を訪れる人も少なく、あたりに看板などもない。国指定文化財等データベースの写真一覧に近そうなものを掲載しておく。<br />(奉祀写真は源頼朝の墓階段下)

史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」

4いいね!

2011/09/07 - 2011/09/07

4084位(同エリア7076件中)

0

7

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 昭和2年(1927年)に法華堂跡と源頼朝墓が別個に国指定史跡になったが、その後、平成12年(2000年)に追加指定・統合され、名称変更されている。さらに石段下の鳥居前の島津忠久墓参道と大江広元墓参道の間の広場が発掘調査された結果、北条義時法華堂と推測される堂跡が発見され、平成18年(2006年)に北条義時墓の法華堂跡部分等を追加し、名称変更された。北条義時は2代執権で、北条政子の弟である。
 また、宝治元年(1247年)に法華堂に籠った北条泰村ら三浦一族500人余りの自害の地としても知られる。鳥居手前のやぐらには石塔が建ち北条泰村ら三浦一族の墓とされる。
 背後の山麓にあるやぐらには薩摩藩主島津家の藩祖とされる島津忠久、執権政治の確立に尽力した大江広元とその子で毛利家の祖である毛利季光の三人の墓が並んでいる。古墳時代の横穴墓だとされるが墓を造成する際に掘削されていてやぐらのように見える。
 国指定文化財等データベースの詳細解説には「法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ」(昭和2年の指定当時の指定説明が記載されていたが、今回の小生の指摘を受けて10月には平成18年の追加指定・名称変更時の説明が書き加えられている。)とあり、白旗神社が建つ平地に頼朝の持佛堂が建っていたが薨去後に廟所として法華堂になったことが印されている。その後、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が多層塔(供養塔)を建てた。平成元年(1989年)にこの多層塔は破壊され、平成2年(1990年)に新たに造り替えられた。
 神奈川県生涯学習情報システム:文化財情報詳細画面には、「1199年(正治元年)に死去した鎌倉幕府の創始者である源頼朝と、2代執権として幕府発展の礎を築き1224年(貞応元年)に死亡した北条義時(よしとき)の死後の冥福を祈る建物(法華堂)が建てられたとされる場所である。このうち頼朝の法華堂跡は、現在では頼朝の墓と称される石塔が建ち、義時の法華堂跡は、平成17年に実施された発掘調査の結果、建物遺構が確認され、周辺の地下に遺構が良好に保存されていることが判明した。
 いずれの跡も、山腹を造成して造られた平場の上にあって、家臣に当たる北条義時の法華堂は、主君たる源頼朝のものよりも低い場所にある。」とある。ただし、「1199年(正治元年)に死去した鎌倉幕府の創始者である源頼朝」とあるが、正しくは「建久10年1月13日(1199年2月9日)」の間違いである。また、「1224年(貞応元年)に死亡した北条義時(よしとき)」とあるが、正しくは 「1224年(貞応3年)」の間違いである。「主君よりも低い場所にある」とするのには説得力がある。勿論、島津忠久、大江広元、毛利季光の三人の墓も源頼朝墓(法華堂)よりも低い場所にあるべきだ。しかし、そうではないような気がする。古墳時代の横穴墓を再利用するにしても主君の頼朝公の墓よりも高いところに家臣の墓があるのはおかしい。おそらくは、江戸時代になって立派に見えるように二公(島津忠久と大江広元。毛利季光の墓は大正10年(1921年)に移設した)の墓を建立し、そのために高いところに設定され、鎌倉時代を思わせるようにやぐらのように横穴を掘ったのであろう。等間隔に横穴が穿って見えるのはそのためだろう。
 法華堂は中腹の頼朝墓横にあったが宝治合戦以後に下の白旗神社のある平地に移されたとされるとの記述も見られた。頼朝墓左側平地が持仏堂(後の法華堂)跡とする方が合理的のようだ。
 また、国指定文化財等データベースの写真一覧には、白旗神社前参道が「法華堂跡」、頼朝墓左側空き地が「法華堂跡」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、頼朝墓が「法華堂跡(源頼朝墓)」、大江広元墓参道上り口が「法華堂跡(北条義時墓)」、大江広元墓参道右鳥居前広場が「法華堂跡(北条義時墓)」として4枚の写真が添付されている。しかし、島津忠久墓、大江広元墓、毛利季光墓の写真はない。これらの3公墓も史跡に含まれるとする記載が見られたが、北条義時の名があって大江広元の名がないのであるから、これらの3公墓は国指定史跡には含まれないのであろう(しかし、Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった。文化庁文化財部記念物課史跡部門の担当者からもその旨を追加したとメールがあった)。これらの3公墓を訪れる人も少なく、あたりに看板などもない。国指定文化財等データベースの写真一覧に近そうなものを掲載しておく。
(奉祀写真は源頼朝の墓階段下)

PR

  • 法華堂跡。

    法華堂跡。

  • 法華堂跡。

    法華堂跡。

  • 法華堂跡(源頼朝墓)。<br />

    法華堂跡(源頼朝墓)。

  • 法華堂跡(源頼朝墓)。<br />

    法華堂跡(源頼朝墓)。

  • 法華堂跡(北条義時墓)。大江広元の墓の参道は北条義時法華堂への参道を江戸時代になって再利用したということか?

    法華堂跡(北条義時墓)。大江広元の墓の参道は北条義時法華堂への参道を江戸時代になって再利用したということか?

  • 法華堂跡(北条義時墓)。

    法華堂跡(北条義時墓)。

  • 〔追加〕<br />三公(島津忠久、大江広元、毛利季光)墓も史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」に含まれている(。Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった)。<br />国指定文化財等データベースの詳細解説には10月になって、「義時法華堂跡裏の斜面部には、近世に島津家と毛利家の墓所が営まれた。安永八年(一七七九)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し、頼朝墓を整備した。文政六年(一八二三)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。墓所はいずれも古墳時代の横穴墓を転用したものである。東側は島津忠久墓、中央が大江広元墓、西側が毛利季光墓で、島津家、毛利家は参道、石段、灯籠等も併せて整備している。」と追記されている。<br />なお、島津家が整備した墓から真っ直ぐに伸びる参道と石段は2005年に鎌倉市に寄付されて以来、打ち捨てられており、草茫々に生い茂り、通れなくなってしまっている。墓所はいつも清掃するグループがあり、常に綺麗になっている。

    〔追加〕
    三公(島津忠久、大江広元、毛利季光)墓も史跡「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」に含まれている(。Eメールで市の文化財課に問い合わせていたところ1週間して「含まれる」との回答があった)。
    国指定文化財等データベースの詳細解説には10月になって、「義時法華堂跡裏の斜面部には、近世に島津家と毛利家の墓所が営まれた。安永八年(一七七九)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し、頼朝墓を整備した。文政六年(一八二三)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。墓所はいずれも古墳時代の横穴墓を転用したものである。東側は島津忠久墓、中央が大江広元墓、西側が毛利季光墓で、島津家、毛利家は参道、石段、灯籠等も併せて整備している。」と追記されている。
    なお、島津家が整備した墓から真っ直ぐに伸びる参道と石段は2005年に鎌倉市に寄付されて以来、打ち捨てられており、草茫々に生い茂り、通れなくなってしまっている。墓所はいつも清掃するグループがあり、常に綺麗になっている。

この旅行記のタグ

関連タグ

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP